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第六章 幼少の兆し〔昭和〕
26 絵画とバイオリン
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1 絵にある世界
「櫻、絵を習ってみる?」
小1年の時、葵から誘われた。
幼稚園からの櫻のお絵描き好きを見破っていた。
「うん。習いたいな」
絵は大好きだ。
「藝大の学生の野溝光太先生って方がいらっしゃるそうなのね。お隣の一つ上のお兄さん、阪崎賢君と一緒に習う事になるけれども、いい?」
「はい。がんばります」
メンバー二人に、幼稚園の同級生の内木泰隆君も交えて、絵画教室は始まった。
描く題材は自由。
櫻は、子供には大きいスケッチブックに、画面一杯に描いた。
「ほら、ほら、阪崎君も内木君も夢咲さんみたいに集中して描いてご覧よ」
野溝先生は、気さくな先生だが、とても真摯な先生だ。
「夢咲さん、これは、何でしょうか?」
野溝先生がスケッチブックを壁に立て掛けた。
「はい。今の気持ちです、先生。死の世界です」
櫻は、紫と黒を多用した怖い絵を描いた。
櫻にとって、抽象画のつもりで、深い意味はなかった。
当時は、美術史をまだかじっていなくて、本当にオリジナルな世界観だった。
「そうなのですか。もう少し描いてみましょうか」
野溝先生は、生徒の作品に手を入れる様な事はしなかった。
ある時、阪崎君の妹さんが遊びで習いに来た。
坂崎のぞむちゃんは、いくつ位だったのだろう。
「え? このポスターの絵を皆で描くの?」
「うん。描こうよ。描こうよ!」
のぞむちゃんの弾む声。
そこで、櫻も、掃除機に乗ったノリマキちゃんと言うキャラクターを描いた。
「うーん。こう言うのは、ちょっとね……」
打ち消す様な呟きを一つする野溝先生。
櫻は、それ以来、漫画を模した絵は野溝先生が嫌うので描かなくなった。
それから、デッサンもした。
「ティッシュのこの紙の部分とか、難しいのですよ。藝大の試験にも出る場合がありますよ」
冗談半分か、難しい事も教えて貰えた。
それは、とても楽しい時間となり、櫻を伸び伸びとさせた。
「櫻、野溝先生は、国費留学が決まったんだって」
私が、高校生の時、頬を焦がして聞いた。
「そうなの」
「先生の留学前に、銀座に個展を見に行かない?」
葵は、凄い先生に師事したものであると嬉々としていた。
早速、足を運んだ。
その日は、クリスマスも近い寒い日だった。
「凄いね、画廊だって。個展だって」
櫻は、画廊に入るなど、初めてであった。
どきどきして記帳した。
野溝先生の絵は、大きくて、何とも不思議な抽象画だった。
基本色を中心に様々な事象が描かれていた。
あちらで、野溝先生が、案内をしていた。
「先生、本当にパリに行くんだ」
ずっとお世話になっていて、私は、何をしているのだろう。
夢咲母娘は、お礼をし、画廊を去った。
野溝先生の絵の感想を二人で話し合ったりして、銀ブラをしていた。
道すがら、スターアンドアローと言う会社が目に止まった。
お店のウインドウに、子どもが抱っこして貰えそうな程の大きなクマのぬいぐるみがあった。
「櫻ちゃん、可愛いね……」
可愛いもの好きは親子でお揃いだ。
「クマちゃんがクマちゃんを抱っこしているよ、お母さん」
にこにこして、似た者親子は同じ波長で行動した。
「中に入ってみようか?」
「うん!」
二人して、ときめいて、店内に入った。
「あ、この子、可愛い……!」
歓喜の櫻。
「この子も! 可愛い……!」
喜々とする櫻。
「櫻、ぬいぐるみはお顔で選ぶといいわよ」
葵のナイスアドバイス。
そして選びに選び抜いて、第一印象で可愛いと思ったうさぎさんのぬいぐるみを葵に買って貰った。
私は、うさぎもぬいぐるみも大好きだった。
その会社のうさぎのぬいぐるみの仕上がりは、胸の毛だけ違う素材を使用しているなど、見るべき所がすこぶるあり、感嘆し、将来この会社に入りたいと思ったものだ。
2 バイオリンで十八番
櫻は、絵画と同時にバイオリンも習っていた。
「櫻、バイオリンはどう? 習ってみない?」
「はい。お母さん」
櫻はバイオリンのけわしい道など知るすべもなく、取り組み始めた。
「どうして、絵画とバイオリンを習わせたの? 三組さんの殆どが、算盤と習字を習っているよ」
「算盤は、大きくなってから自分でやりたければ習えばいい。習字だってそうです。やろうと思えばできます」
キリの様な葵の思想の表れであった。
「それに、算盤に代わって、コンピューターが計算をします。文字もコンピューターが書くから、習わなくてよろしい」
櫻は、子どもであっただけではなく、このキリの様な母親を信仰していたので、素直に納得した。
「バイオリンは、顎でしっかりと押えて。弓はこう持ちます」
横井星子先生のレッスンが始まった。
構え方や持ち方からである。
櫻は、顎でしっかりと押えられなくて苦労した。
櫻は、更にボーイングが下手なので、いい音が出せずに、早速、困難に当たっていた。
「うん……。又、練習して来て下さい」
ピアノを閉じる横井先生。
「はい、ありがとうございました」
櫻は、この頃から、達者な礼儀をしていた。
「バイオリン教室は、亀有の駅前なのね。バスで習いに行きましょう」
最初は、葵に連れて行って貰ったが、自分で乗る様にと教育された。
「終点では、ボタンを押さないのよ。帰りは、気を付けないと埼玉県だからね」
「はい、お母さん。気を付けます」
遠方から来るダイヤグラムの乱れたバスに一人で乗ったのは、早かった。
バイオリンと言う芸術を習いに行くのは、修行の面もあり、大変だった。
櫻は、春も夏も秋も寒い冬も、小腹が空くと、お教室の向いにある地元の銘菓を扱う亀ちゃん煎餅店へ向かった。
「お煎餅くださいな」
レッスン以外で口を開くのは、この時だけである。
「お譲ちゃん。今日は、何にするのかな?」
「亀ちゃん煎餅を一枚ください」
かじかんだ手を擦り合わせてから、三十円を手渡した。
帰りに買うお煎餅一枚が誠に美味しく至福の時だった。
小三の学芸会で、滝廉太郎の『荒城の月』を弾いた。
選曲は、善生と一緒にお風呂に入ると、十八番だといつも歌っていたからだ。
笑える事に、十八番の件は、お風呂に無頓着な葵だけ知らなかった。
「どうしよう。どうしよう。どうしよう……」
櫻は、体育館に設けた舞台袖で、膝ががくがくに震えた。
初めての緊張だった。
「深呼吸をして弾こう……」
自分にアドバイスをし、がんばった。
真っ白な時間が流れた。
「ふう……」
ミスもなくだみ声のバイオリンをとどろかせたのだから、良しとしよう。
父にそれなりに恩があったのだ。
そのバイオリン修行の成果が表わせたのは、お教室の発表会の日であった。
舞台袖で、鼓動が鳴った。
横井先生が囁いた。
「夢咲さん、緊張しないで、行きましょう……」
「は、はい……」
櫻も囁いた。
横井先生と一緒に入場した。
先生がピアノの前に着席した。
イントロが短く流れた。
「さん、はい!」
櫻は、心の中で呟いた。
櫻は、「オールドブラックジョー」そして、それに続いて「旅愁」を弾いた。
どちらも同じ音から始まるので緊張した。
今でもそのレコードがある……。
善生が、その日、会場近くで駐禁を取られた。
「やってしまった」
櫻も思ったものであった。
その上を行くのが父、善生であった。
「5000円を負けてくれ」
公衆電話から警察に話していたのが別格で印象的であった。
「こう言う日ばかり、駐禁取りやがって」
電話を切ると一人どやしていた。
思えば、善生も櫻を可愛がってくれていたのであろうか。
あんなに、反抗したり、喧嘩したりした日々は、もう懐かしいだけに過ぎない。
その事からか、櫻が三十路も後半を過ぎてから、母が、道端で櫻の同級生に、「夢咲さんは学芸会でバイオリン弾いたよね?」と言われたりした。
それはもう、母は自慢げに喜んでいた。
バイオリンの楽器だけでもただではなし。
「普通に買うのでは、お父さんとお母さんからは工面できなかったのよ。横井先生の息子さんのお下がりを五万円で売って貰ったのが、五分の一バイオリンなの」
もう四分の一バイオリンになっていた頃、バイオリンを苦労して貰ったと知った。
最終的には、大学生で、二分の一バイオリンになった。
芸術に浸った日々であったが、両親には苦労を掛けたものだ。
櫻は、感謝しかなかった。
「櫻、絵を習ってみる?」
小1年の時、葵から誘われた。
幼稚園からの櫻のお絵描き好きを見破っていた。
「うん。習いたいな」
絵は大好きだ。
「藝大の学生の野溝光太先生って方がいらっしゃるそうなのね。お隣の一つ上のお兄さん、阪崎賢君と一緒に習う事になるけれども、いい?」
「はい。がんばります」
メンバー二人に、幼稚園の同級生の内木泰隆君も交えて、絵画教室は始まった。
描く題材は自由。
櫻は、子供には大きいスケッチブックに、画面一杯に描いた。
「ほら、ほら、阪崎君も内木君も夢咲さんみたいに集中して描いてご覧よ」
野溝先生は、気さくな先生だが、とても真摯な先生だ。
「夢咲さん、これは、何でしょうか?」
野溝先生がスケッチブックを壁に立て掛けた。
「はい。今の気持ちです、先生。死の世界です」
櫻は、紫と黒を多用した怖い絵を描いた。
櫻にとって、抽象画のつもりで、深い意味はなかった。
当時は、美術史をまだかじっていなくて、本当にオリジナルな世界観だった。
「そうなのですか。もう少し描いてみましょうか」
野溝先生は、生徒の作品に手を入れる様な事はしなかった。
ある時、阪崎君の妹さんが遊びで習いに来た。
坂崎のぞむちゃんは、いくつ位だったのだろう。
「え? このポスターの絵を皆で描くの?」
「うん。描こうよ。描こうよ!」
のぞむちゃんの弾む声。
そこで、櫻も、掃除機に乗ったノリマキちゃんと言うキャラクターを描いた。
「うーん。こう言うのは、ちょっとね……」
打ち消す様な呟きを一つする野溝先生。
櫻は、それ以来、漫画を模した絵は野溝先生が嫌うので描かなくなった。
それから、デッサンもした。
「ティッシュのこの紙の部分とか、難しいのですよ。藝大の試験にも出る場合がありますよ」
冗談半分か、難しい事も教えて貰えた。
それは、とても楽しい時間となり、櫻を伸び伸びとさせた。
「櫻、野溝先生は、国費留学が決まったんだって」
私が、高校生の時、頬を焦がして聞いた。
「そうなの」
「先生の留学前に、銀座に個展を見に行かない?」
葵は、凄い先生に師事したものであると嬉々としていた。
早速、足を運んだ。
その日は、クリスマスも近い寒い日だった。
「凄いね、画廊だって。個展だって」
櫻は、画廊に入るなど、初めてであった。
どきどきして記帳した。
野溝先生の絵は、大きくて、何とも不思議な抽象画だった。
基本色を中心に様々な事象が描かれていた。
あちらで、野溝先生が、案内をしていた。
「先生、本当にパリに行くんだ」
ずっとお世話になっていて、私は、何をしているのだろう。
夢咲母娘は、お礼をし、画廊を去った。
野溝先生の絵の感想を二人で話し合ったりして、銀ブラをしていた。
道すがら、スターアンドアローと言う会社が目に止まった。
お店のウインドウに、子どもが抱っこして貰えそうな程の大きなクマのぬいぐるみがあった。
「櫻ちゃん、可愛いね……」
可愛いもの好きは親子でお揃いだ。
「クマちゃんがクマちゃんを抱っこしているよ、お母さん」
にこにこして、似た者親子は同じ波長で行動した。
「中に入ってみようか?」
「うん!」
二人して、ときめいて、店内に入った。
「あ、この子、可愛い……!」
歓喜の櫻。
「この子も! 可愛い……!」
喜々とする櫻。
「櫻、ぬいぐるみはお顔で選ぶといいわよ」
葵のナイスアドバイス。
そして選びに選び抜いて、第一印象で可愛いと思ったうさぎさんのぬいぐるみを葵に買って貰った。
私は、うさぎもぬいぐるみも大好きだった。
その会社のうさぎのぬいぐるみの仕上がりは、胸の毛だけ違う素材を使用しているなど、見るべき所がすこぶるあり、感嘆し、将来この会社に入りたいと思ったものだ。
2 バイオリンで十八番
櫻は、絵画と同時にバイオリンも習っていた。
「櫻、バイオリンはどう? 習ってみない?」
「はい。お母さん」
櫻はバイオリンのけわしい道など知るすべもなく、取り組み始めた。
「どうして、絵画とバイオリンを習わせたの? 三組さんの殆どが、算盤と習字を習っているよ」
「算盤は、大きくなってから自分でやりたければ習えばいい。習字だってそうです。やろうと思えばできます」
キリの様な葵の思想の表れであった。
「それに、算盤に代わって、コンピューターが計算をします。文字もコンピューターが書くから、習わなくてよろしい」
櫻は、子どもであっただけではなく、このキリの様な母親を信仰していたので、素直に納得した。
「バイオリンは、顎でしっかりと押えて。弓はこう持ちます」
横井星子先生のレッスンが始まった。
構え方や持ち方からである。
櫻は、顎でしっかりと押えられなくて苦労した。
櫻は、更にボーイングが下手なので、いい音が出せずに、早速、困難に当たっていた。
「うん……。又、練習して来て下さい」
ピアノを閉じる横井先生。
「はい、ありがとうございました」
櫻は、この頃から、達者な礼儀をしていた。
「バイオリン教室は、亀有の駅前なのね。バスで習いに行きましょう」
最初は、葵に連れて行って貰ったが、自分で乗る様にと教育された。
「終点では、ボタンを押さないのよ。帰りは、気を付けないと埼玉県だからね」
「はい、お母さん。気を付けます」
遠方から来るダイヤグラムの乱れたバスに一人で乗ったのは、早かった。
バイオリンと言う芸術を習いに行くのは、修行の面もあり、大変だった。
櫻は、春も夏も秋も寒い冬も、小腹が空くと、お教室の向いにある地元の銘菓を扱う亀ちゃん煎餅店へ向かった。
「お煎餅くださいな」
レッスン以外で口を開くのは、この時だけである。
「お譲ちゃん。今日は、何にするのかな?」
「亀ちゃん煎餅を一枚ください」
かじかんだ手を擦り合わせてから、三十円を手渡した。
帰りに買うお煎餅一枚が誠に美味しく至福の時だった。
小三の学芸会で、滝廉太郎の『荒城の月』を弾いた。
選曲は、善生と一緒にお風呂に入ると、十八番だといつも歌っていたからだ。
笑える事に、十八番の件は、お風呂に無頓着な葵だけ知らなかった。
「どうしよう。どうしよう。どうしよう……」
櫻は、体育館に設けた舞台袖で、膝ががくがくに震えた。
初めての緊張だった。
「深呼吸をして弾こう……」
自分にアドバイスをし、がんばった。
真っ白な時間が流れた。
「ふう……」
ミスもなくだみ声のバイオリンをとどろかせたのだから、良しとしよう。
父にそれなりに恩があったのだ。
そのバイオリン修行の成果が表わせたのは、お教室の発表会の日であった。
舞台袖で、鼓動が鳴った。
横井先生が囁いた。
「夢咲さん、緊張しないで、行きましょう……」
「は、はい……」
櫻も囁いた。
横井先生と一緒に入場した。
先生がピアノの前に着席した。
イントロが短く流れた。
「さん、はい!」
櫻は、心の中で呟いた。
櫻は、「オールドブラックジョー」そして、それに続いて「旅愁」を弾いた。
どちらも同じ音から始まるので緊張した。
今でもそのレコードがある……。
善生が、その日、会場近くで駐禁を取られた。
「やってしまった」
櫻も思ったものであった。
その上を行くのが父、善生であった。
「5000円を負けてくれ」
公衆電話から警察に話していたのが別格で印象的であった。
「こう言う日ばかり、駐禁取りやがって」
電話を切ると一人どやしていた。
思えば、善生も櫻を可愛がってくれていたのであろうか。
あんなに、反抗したり、喧嘩したりした日々は、もう懐かしいだけに過ぎない。
その事からか、櫻が三十路も後半を過ぎてから、母が、道端で櫻の同級生に、「夢咲さんは学芸会でバイオリン弾いたよね?」と言われたりした。
それはもう、母は自慢げに喜んでいた。
バイオリンの楽器だけでもただではなし。
「普通に買うのでは、お父さんとお母さんからは工面できなかったのよ。横井先生の息子さんのお下がりを五万円で売って貰ったのが、五分の一バイオリンなの」
もう四分の一バイオリンになっていた頃、バイオリンを苦労して貰ったと知った。
最終的には、大学生で、二分の一バイオリンになった。
芸術に浸った日々であったが、両親には苦労を掛けたものだ。
櫻は、感謝しかなかった。
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