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レベル5.女騎士と女奴隷と告白

3.女騎士とセカンドキス(前編)

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「はぁ……はぁ……」

 俺は走っていた。こんなに全力を出すのは何年ぶりだろうと思うくらいに走っていた。
 人の間を縫い、あるいは押しのけて。いつ勢い余ってすっ転ぶかわかったもんじゃない。
 だけどそんなことをいちいち気にしている余裕など俺にはあるはずもなかった。

 十分前、渚からLINEで来た連絡。

『リファっちがいなくなった』

 そんな簡素でありながら、俺を動揺させるには十分すぎるくらいの文字列。
 見た瞬間に俺は彼女に電話をかけた。

「どういうことだよっ!!」
『知らないっすよー。いきなり具合が悪くなったとか言うもんで、トイレの場所教えてあげたらそれっきり連絡つかなくなっちゃったんですもん』
「なんでついてってやらなかったんだよ! この人混みだぞ!」
『もちろん付き添おうかって言いました! 一人で行くからいいって断ったのはリファっちです!』

 渚は心底面倒臭そうな態度でそう説明した。
 他人事丸出しのその口調に若干イラっとしたが、今はこいつに当たり散らしてる場合じゃない。

「どこのトイレを教えた!?」
『北側入り口の近くにあるとこっす。あたしも今向かってますけど』
「わかった、俺もすぐに行く!」

 事情が飲み込めていないクローラの手を引っ張り、ダッシュでそのリファが向かったとされる公衆トイレに直行。先に到着していた渚と落ち合った。彼女は俺達に気がつくと、軽く手を上げた。

「うっす」 
「リファは!?」
「個室には誰もいませんでした。おそらくもう別の場所に移動したものかと」

 だったら向こうも俺達の方に戻ってこようとして、途中で入れ違いになったか?
 だがここ周辺は花火会場からは離れているので人通りも少ない。逆方向に進行していたのなら絶対に気づくはずだ。
 俺は彼女のスマホに電話をかけるが、何回コール音がしても出る気配はない。
 くっそ、どこに行ったんだよあいつ……。

 これまでにあいつが迷子になったことは多々あった。
 しかし当時は決まってスマホで連絡を取り合えたことと、出かける先が家の近所に限定されていたこと、途中まで必ず俺が同行していたことなどにより、発見から合流までにそこまで時間はかからなかった。
 でも今回は違う。家からはめちゃくちゃ離れたはじめての場所。そして失踪する直前まで俺とリファは分断されており、完全に足取りが掴めない。さらに最後の頼みの綱である電話にも出ないとなると……事態は深刻と言わざるを得ないだろう。

「ご、ご主人様……」

 俺が爪を噛みながらどうするべきか悩んでいると、クローラが女子トイレの奥の方を指さした。
 オドオドとした、何かおぞましいものでも見たような反応。一体何があったんだ?
 俺は周囲を見渡し、誰もこちらに注目していないのを見計らって中を覗き込んだ。
 ちらっと見るだけのつもりだったが、隅に転がっていた「それ」は、俺をトイレの内部まで引き込んで自身を拾い上げることを強いた。

「これ……リファの剣じゃねーか」

 剣。
 さらに言えばその形を模した、プラスチックの玩具。
 簡素で粗雑な作りのそれを見た瞬間に、俺は理解する。
 間違いない、リファの剣だ。なんでこんなものがここに……。
 しかも根元のあたりが完全に潰れて、全体的にひん曲がっている。誰かに踏みつけられでもしたのか?

 まさか……捨てていったのか? いや、それはありえないか。
 剣は騎士の存在意義と言って、いつも肌身離さず持ち歩いていた。玩具なのに手入れだって欠かしたことはなかった。それくらい愛着があったのに、自分から手放すわけがない。
 ましてやこんな状態になってるのなら、急いで自分で修復しようとするはずだ。それを置いてどっか行くなんて考えられない。

「リファっち、喧嘩でもしたんすかねぇ?」

 続いて中に入ってきた渚がつまらなそうに呟いた。
 喧嘩? どういう意味だ?
 そう問おうとしたが、それを何十秒も前から予測してたというふうに彼女は「あれ」と短く言って、洗面台の方を顎でしゃくって示した。
 少し不審に思いながらも、俺は言われるがままにそちらの方に視線を移す。
 途端に、そこの壁に設置された鏡に映る俺の両目が大きく見開かれた。
 それもそのはず、鏡の中の世界はバッキバキにひび割れていたのだから。
 シンクにはキラキラと光る鋭利な破片が、水滴の代わりに張り付いている。

「やったのか、はたまたやられたのか……どっちにしろただ事じゃなさそうっすね」 

 渚がその割れた鏡を覗き込みながら静かにそう言った。

「この暴れたような痕跡に、いつまで経っても出ない電話……間違いないなくリファっちは何らかのトラブルに巻き込まれた……とみていいんじゃないっすか」
「そ、そんな……」

 オロオロとクローラが動揺しているが、俺はそれ以上に気が気でなかった。
 急いであいつを探しに行かないと!

「渚、クローラを頼む。俺は――」
「警察とかに届け出た方が得策だと思いますけどセンパイ」

 そう言い出すのを既に読んでたというように、渚が立ちはだかって俺の行く手を阻んだ。

「どう考えてもうちらだけじゃ手に負えないでしょ。単なる迷子じゃないですよこれ。もしかしたらなんかヤバそーな連中が関わってるかもしれない。まずは通報、あと祭りの本部に行って呼び出しなり注意喚起なり――」
「じゃあお前らはそうしてくれ。俺は俺であいつを探しに行く」

 今度はこっちが先読みして返す。
 はぁ、と渚は剥き出しの肩を落としてわざとらしく呆れてみせた。

「あのさぁセンパイ。ここら一体はどこもかしこも人だらけ。ちょっと目を離しただけではぐれるような混雑ぶりですよ? そんな中、一人で捜索とか非合理的だと思わないんすか? うちらが何をすべきかもうちょい考えて――」
「考えてる間にあいつにもしものことが起きたらどーすんだよ!」

 思わず怒鳴ってしまった。
 わかってる。確かに俺一人が闇雲に走り回ったって解決できる問題じゃない。
 でもだからと言って、ここでじっとしたまま他人に任せきりにするのが正解だとも思わない。通報したところで捜索までにどれだけ時間がかかるかわからないし。
 それに今ならまだリファだって遠くに行ってないはず。そういう意味では決して非合理的な判断じゃないはずだ。

 ……いや、違うな。
 俺は手に持ったリファの剣の柄をギュッと握りしめる。
 けったいな理由つけたけど、結局は後付の言い訳にすぎない。
 根底にあるのは、たった一つのシンプルな答え。

「あいつは、俺の同居人パートナーだ」
「……」
「危険な目に遭ってるかもしれないなら、一刻も早く見つけ出したい。そのためにできることはなんだってやる。それだけだ」

 合理的とか非合理とか、可能だとか不可能だとかも関係ない。少しでも希望がある以上、試さない選択肢はない。
 これが、今の俺の意思だから。
 目を細めてこちらを軽く睨む渚に向かって俺はきっぱりと言い放つ。
 彼女はまだ何か納得行かないような顔ぶりで、わざとらしく舌打ちをした。

「ホントに、面倒くさいなぁ。人間って」
「でも、これが俺だから」
「!」

 即答した途端、渚は少し目を見開いたが、やがてフッと鼻を鳴らす。

「ま、知ってましたけどね」

 そう言って渚は脇へのいて、入り口への道を開けた。

「ならどーぞ。まったく、こうなったらセンパイは聞かないんだから」
「悪い……」

 俺は軽く頭を下げて渚に謝った。
 本人は軽く手を振りながら、

「お気になさらず。あたしにも責任の一端はありますからね。じゃあ、あたしはクロちゃん連れてお祭りの本部に行ってきますわ」
「ありがとう。じゃあ、後は頼んだ」
「ご主人様……」

 すると、横からクローラがおずおずと声をかけてきた。
 きっと何か送り出す言葉を考えつこうとしたのだろうが、状況が状況だけにパニクってしまっているらしい。モゴモゴとしたまま何も言い出せないでいる。
 俺はそんな彼女の頭に手を置いてそっとくせっ毛の髪を撫でた。

「心配すんなよクローラ。何かあったらすぐに連絡するから」
「……」
「安心しろって。あいつもきっと俺達のこと探してるだろうし、すぐにまた会えるよ」
「違うんです……」

 ぎゅっ、と。
 女奴隷はその華奢な手で、俺のシャツの裾をつまんだ。
 なんだ? 一体どうしたんだろう。
 俺が事情を訊こうとしても、彼女は小さく首を横に振るばかり。
 よく見ると目を伏せたまま口がかすかに動いている、耳を近づけてみるとか細い声でこう呟いていた。

「行かないで……」
「え?」
「そばにいて……お願い」
「クローラ……」

 そうか、そうだよな。リファがいなくなった後、俺までいなくなろうとしている。
 不安になるのは当然だろう。同居人同士が離れ離れになってしまうことで心細い思いをさせてしまうのは、俺だって心苦しい。
 でも……。 

「大丈夫。俺はいつでもそばにいるよ」
「……え?」

 面を上げてこちらを見上げたクローラに、俺は先程彼女に付けてもらった髪留めを指さした。

「これを付けてれば、離れていてもお互いを近くに感じられる。だって、二人で手に入れて、二人で付けた大切なものだろ?」
「……」

 クローラはそっと自分の髪留めに手を伸ばし、確かに先程俺に付けてもらったことを再確認する。
 そうすると、不安で仕方ないといったような彼女の表情が少しだけ緩んだ。

「わかりました……私、待ってますから」
「ああ」
「ご主人様?」

 掴んだ手は離さずに、クローラは今度は俺の目をしっかりと見て短く尋ねてきた。

「戻って、きてくれますよね?」
「もちろん」

 即答して頷くと、彼女は小さく俺に手を降った。
 笑顔だったけど、少し悲しそうな表情で。
 俺も軽く会釈を返すと、渚とアイコンタクトを取り、彼女らに背を向けて走り出した。


 ○

 こうして、今に至るわけであるが。
 依然としてリファの発見には至っていない。
 時間が経てば経つほど、俺の焦りも高まっていく。電話も相変わらずコール音の連続だけが俺の耳に届く。
 どっかに落としてるのかな? 花火大会会場で落としたなら誰かが拾ってくれてもいいはずだし、どこか人気のない場所にいるのか……?

 少し探索範囲を広げ、俺は公園の外に出る。
 さっきよりは人はバラけ始めて一人ひとりの判別がつきやすくなったが、それでもリファらしき姿は見当たらない。
 あいつの最大の特徴は、髪。まばゆいほどの金髪。夜でさえ明るく輝くアレを見れば一目瞭然。それだけで捜索難易度は相当低くなるはずなのに。
 くそ……どこかに連れ去られたりとかしてねぇだろうな……。 

「……はっ、そうだ!」

 俺は自分のスマホを操作してとあるアプリを起動する。
 「これ」を使えば……!
 目を皿のようにして画面を見つめ、必死に指をフリックする。


「……よし、位置特定!」

 やっぱりそう遠くへは行ってなかった。だがどう考えても人通りからは離れてるし、こんな遅くに女が一人でいていい場所ではない。
 とにかく場所さえつかめればこっちのもんだ。あとはスマホを彼女が持っていることを祈るのみ。
 俺は緩んでいた靴の紐をしっかり結び直すと、全力疾走で彼女の元へと突っ走った。
 頼む……無事でいてくれ。そんな一心で。

  ○

 それから走ること数分。

「このあたりのはずだけど……」

 俺はスマホを見ながら、周囲をキョロキョロと見渡した。
 だが目当ての人物は見つからない。まばらにいる通行人と数名すれ違うだけ。
 落ち着け、この近辺にいることは確かだ。だったら……。
 最後の望みとばかりに、俺はもう一度彼女のスマホに電話をかけてみる。

 すると。
 軽快な電子音がかすかに俺の耳に届いた。
 どれだけ小さくても、決して忘れることのない音色。
 間違いない、リファのスマホの着信音だ! 

「……こっちか!」 


 俺はごくりと口内に溜まったつばを飲み下し、痺れ始めてきた膝に鞭打って走った。
 その末に、「そこ」にたどり着いた。
 富士森公園とは別の、名も知らぬ公園。
 周囲の建物やアパートが立ち並ぶ中にちょこんと存在するため、花火はそれらに隠れてほとんど見えない。
 そのせいか、その場所にいるものは誰もいなかった。

 ただ一人、彼女を除いては。

 音が鳴り続けるスマホを、両手で持っていた女性。
 ブランコにこちらへ背を向けて腰掛け、垂れた髪を風になびかせている。
 その色は、この薄暗闇の中でもはっきりとわかる……金色。

「リファっ!!」

 その姿を目に捉えた途端に叫んでいた。
 落胆するようにうなだれていたその人物は、ビクッと一瞬肩を震わせる。
 だがこちらを振り返ることはせず、むしろこっちを見たくないとでも言うように前屈みになった。
 俺はスマホを操作して彼女への発信を停止した。軽やかなメロディーが止み、あたりに静けさが訪れる。

「探したぞ。何やってんだこんなとこで……」
「……すまない」
「なんで電話に出なかった? わざと無視してたってことかよ?」
「……すまない」

 よく耳を澄まさないと聞こえないような声量でそう何度も同じ謝罪を繰り返す。
 なんともなさそうで良かったけど……明らかにいつもと様子が違う。一体何があったっていうんだ?
 俺は彼女のもとまで近寄ると、持ってきていた剣を差し出した。

「これ、忘れもん」
「……」

 リファはこちらを向かない。どんな顔をしているのかさえわからない。
 俺はため息をこぼすと、改めてその剣の刀身を見つめながら言った。

「剣は騎士の命、じゃなかったのか? これ、潰れてるぞ」
「……すまない」
「誰かにやられたのか? それとも自分でやっちゃた? 何にせよ話してくれないとわかんないよ」
「……すまない」
「すまないだけじゃわかんねーって!」
「ひっ!」

 少し声を荒げて怒鳴ると、再びリファは肩を震わせて小さな悲鳴を上げた。
 いけない、感情的になりすぎたか。
 先程まで切羽詰まった状況に置かれてたせいかもしれない。だがこっちがこんな態度なら、向こうだってますます話しづらくなる。
 落ち着け、もうリファは見つかったんだ。事態はとりあえず解決。もう焦る必要はない。

「ごめん。でも、本当に心配したんだ。もしかしたらなにか危険に巻き込まれたんじゃないかって。みんなもいろいろ協力してくれてさ」
「……どうして、ここにいるとわかったのだ?」

 顔を伏せたままリファは押し殺したような声で質問してきた。
 俺は自分のスマホに映る画面を彼女の方に向けて示した。

「GPSだよ」
「じーぴー、えす?」

 画面を一瞥もせずに彼女は復唱する。

「簡単に言えば、スマホが今どこにあるかが瞬時にわかる機能だ。これでお前の位置をこれで特定した」
「……そんな能力が……ははっ」

 何がおかしいのか、リファは小さく笑った。

「これは一本取られたな。そこまでのことができるものだとは思っていなかった。すごいな、この世界の技術は」

 その言葉で俺ははっきりと確信した。
 まさかとは思ってたけど……こいつ、俺達から逃げてたつもりだったのか。
 なんで? 一人になりたかったから? それとも何か他の理由が?

「リファ……教えてくれよ。何があった? 頼むから教えてくれ」
「……なんでも、ない」
「だっておかしいじゃん。あんなにさっきまで俺を護衛するとか意気込んでたのにさ。それが今は剣まで捨てた挙げ句、俺をほっぽって自分一人でどっか行っちまうなんて。警備隊の使命はどこいったんだよ?」
「……使命、か」

 物憂げに言うと、リファはまた一人で笑い声をこぼし始めた。
 自分のことを言われてるというのに、普段の彼女から絶対に出てこないようなリアクションだ。

「そうだな」
「あ?」
「私は、やっぱりマスターの警備隊にはふさわしくない」

 いきなり出たとんでもないその発言に、俺は言葉を失った。
 な、何を言ってるんだこいつは……。
 その意味を理解しようとする俺を置き去りにして、リファはブランコから立ち上がった。
 渚にしっかり着付けてもらってたはずの浴衣はめちゃくちゃに崩れており、帯ももう少しで完全に解けてしまいそうな有様だった。

「一番大事なことのはずなのに、それを忘れて独断行動なんて……警備隊失格だものな。ワイヤードだったら、即刻任を解かれるだろうし」
「大事なことって……お前が決めたことだろ? お前が自分でこの職を選んだって言ってたじゃないか」

 その代わりに、右も左も分からない自分にこの世界の技術を、文化を教えてほしい。
 それが……二人で交わした「契約」だったはずだ。

「ああそうだ、私が自分で選択した道。生きる標。絶対忘れてはならないこと。なのに……今ではそれが頭の中でぼやけてきて、形が失われてくみたいで、本当にそんなものがあったのかどうかすら疑問に思えてきたのだ……」
「リファ……」
「自分のことだけじゃない。マスターのことだってそうだ」

 両手で自分を抱きしめながら、なにかに怯えるように女騎士は続けた。

「この世界に来て、色々なことを貴公に教わった。ワイヤードにいたころとはまるで違う、驚きの連続。でも新しいことに触れるたびに、少しずつこの世界に生きる人間として成長できてるって思えて嬉しかった」
「……」
「でも、今はそれさえ……一つ一つ思い出すことができない。一体私は貴公から何を学んだのか、そこで自分の世界と比べてみてどう感じたのか……。沢山思うところがあったはずだ。なのに……」

 だんだんと彼女の声に嗚咽が混じってくるのがわかった。
 まさか……泣いてるのか? 
 俺は近寄ろうとするが、それを遮るかのようにリファは悲痛な声で訴えるように語る。

「胸を張って言えないのだ。それが事実だと。それらを経験したから今の私が在るのだと! だから必死で記憶を探っているのに、考えれば考えるほど疑念のほうが強くなっていくのだ……」
「……」
「最低だよな……マスターの役に立てないだけではなく、マスターにしてもらったことさえ無駄にした……これ以上私が貴公と共にいても何の意味もない……」

 だから。

「私は、本日を持って自宅警備隊を退役する」

 ……。

「今まで、本当に世話になった。だが、もうこれで終わりだ。もう迷惑はかけない。今までの暮らしに戻ってくれ。そうすれば多少貴公も気が楽になるだろう」
「ちょ、待てって!」

 俺はそう言ってその場から足早にさろうとするリファの手を掴んで止めた。
 冗談じゃない。このまま何も言わず、何も答えず、何も釈明しないまま任を降りるって……そっちの方がよっぽど身勝手じゃないか!

 理由はわからないけど、今彼女は激しく錯乱している。そして結論を急いでいる。こっちの話も聞かずに自分だけで納得して、それを突き通そうとしているのだから。
 とにかく、ちょっと落ち着かせてからもう一度よく話を聞こう。ちょっと頭を冷やせばきっと……。

 そう考えたのだが。
 リファの頭が冷えるどころか、俺の方まで正気を失うほどの事態が起きた。
 彼女の手を掴んで引き寄せたことで、浴衣の袖から白く美しい二の腕が露わになる。

 否、白く美しかった・・・・・と言うべきだろうか。
 既にリファの腕には、見るに堪えないほどの巨大な裂傷が走っていたのだから。

 皮膚という大地にできた、大規模な地割れ。その裂け目からは血ではなく、大量の黒い膿のようなものが絶えず滲み出ていた。
 これは……。
 俺の脳裏に、あの海岸で見たリファの傷がフラッシュバックする。
 間違いない。これはあの時の――!

「っ! 離せッ!」

 すぐにリファは俺の手を乱暴に振りほどいた。だが俺はもう、リファが失踪したことを知らされた時以上に冷静さを失っていた。

「お前っ、その傷――!」
「きゃっ!」

 振り払われた手首をもう一度掴み、さっきよりも強い力で引っ張って強引にこちらを振り向かせた。
 今まで隠されていた彼女の顔が、公園の街灯に照らされてその有様が浮かび上がる。

「――ッッ!?」

 それはもう、元のリファの顔ではなかった。
 首元の半分以上を覆い尽くす火傷の痕。額や目尻に浮き出ている青い痣。頬には深い十字型の切り傷。
 痛々しい。それ以外の感想が思い浮かばないほどの惨状だった。

「リファ……お前」
「……っ」

 騎士は見ないでと言わんばかりに顔を背ける。
 傷のインパクトに隠れがちだったが……彼女のその目尻には確かに涙が浮かんでいた。
 ――ズキン。
 と、またあの胸の痛みが再発する。
 まるで彼女が負っているその傷の痛みを分かち合ってるというように。

「……失望しただろ」

 震え声で彼女は悔しそうに言った。
 その横顔から見えるバッテン傷に、目から溢れた透明な液体がつたう。

「当たり前だよな……こんな醜い姿……見たら誰だって――」
「なんでもっと早く言わなかったんだよこのバカ!!」

 突如放たれた俺の怒号がリファの言葉と公園の静寂をつんざいた。
 失望? 醜い? どうでもいい。
 何が事態は解決した、だ? まったくしてないじゃないか! 

「大丈夫か? やっぱりあのトイレで何かあったんだろ!? 出血してるところとかないか!? 痛むとこは!?」
「……え?」
「え? じゃねーよ! とにかく腕見せろ! 応急処置するから!」

 俺は力技でリファをブランコに座らせると、袖を肩までまくらせてそこにペットボトル入りの水をぶっかけた。
 洗浄は完了。今度はバッグに入れていた小型救急キットを取り出した。外でいざこざを起こすたびに小さな怪我をこしらえてくるリファのために、外出する時は普段から治療器具を一式揃えて持ち歩いている。
 そこに入っていたエタノールとガーゼで丁寧に患部を消毒した後、清潔な包帯を巻いて結んだ。

「これでよし、次は――」
「マスター……どうして……」

 リファは信じられないと言ったように呆然としているだけだった。そんなのはお構いなしに俺は次の処置に移る。

「この火傷……くそ、面積が広いな。ちゃんと水かけて冷やしたか!?」
「……」
「水疱とかはできてねーみたいだけど……こりゃ救急キットじゃ手に負えないな。急いで病院行ってそこで診てもらおう。この近くだと……西八王子駅前の総合病院か? あそこ今でもやってるかな……」
「……いい」
「あ、でもその前に頬の傷の方も消毒と絆創膏を――」
「いいったら!」

 ぱしっ、とリファが自分の顔に近づいてくる俺の手を払い除けた。持っていた絆創膏が地面にたたき捨てられる。
 あっけにとられた俺を無視して彼女はブランコから再び立ち上がると、背を向けて少し離れた場所まで移動した。

「痛みはしない。出血もない。活動にも何ら支障などない。処置をしてくれたのは感謝するが……医者まではいい。私は大丈夫だ」
「リファ……」 
「古傷であることくらい、見ればわからないか? 今治療したって治るわけじゃない。それに、私の身体にこれと同じようなのがいくつもあることくらい知ってるはずだろう?」

 それは確かにそうだ。多少膿んでるものの、見る限り出血などはないし、火傷や切り傷も昨日今日できたような状態ではなかった。
 そういう細かい傷痕が彼女の背中や太ももには点在していることも存じている。ワイヤードの戦争で負ったものだと彼女に説明されたが……明らかにそれはこの世界に来てから増え始めている。
 海に行った時に見た腕の傷だって見るからに悪化してるし、「元々あったのを今になって気づいた」という言い訳は流石に無理がある。

 何が起きてるんだろう。何もない場所に突然現れた古傷。そして黒い謎の膿……。
 ――ズキン。
 ああくそ、考え出したらまた痛みが……。


「もうこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。貴公だって嫌だろう、こんな傷ばかり負うだけの奴を相手にし続けるのなんて……。面倒なだけだし、何より見苦しいではないか」

 荒い息を吐きながら彼女は傷の在る方の腕を胸の位置まで持ってくると、そこに巻かれた包帯をゆっくり撫でた。

「何より……もう私は貴公の警備隊ではない。ただの……他人だ。ここまでしてもらう義理はもうないんだ。だからもう……いいから……」

 ぽたり、とその包帯に透明な液体がこぼれ落ちる。
 続けざまにいくつも。いくつも滴っていく。

 そこで俺はようやく、彼女に拒絶されていることを自覚した。
 そして、その理由も。
 なぜ彼女が俺達の元から突然離れていったのか。なぜ自宅警備隊をいきなり辞めると言い出したのか。
 そうか……そういうことだったのか。

「……」

 俺は黙って立ち上がり、傍に転がっていたものを拾い上げる。それは、さっきリファの傷を見て慌てふためいた拍子に打ち捨てた彼女の剣だった。 
 潰れてるけど……なんとか修復できるかもな。救急キットに残っていた包帯と、あとは……。
 俺は近くに散らばっていた細い木の枝を使い、剣の潰れた部分にあてがうと包帯でぐるぐる巻きにした。
 いわゆる添え木――骨折した時の固定する時に使うアレだ。まぁ患者は人間じゃなくて玩具だけど、なんとか直せた。見てくれは悪くなったが、その分強度は元を上回っている。

「リファ、ほらよ」
「え? ――わっ」

 振り返った彼女に、俺はその補強をした剣を放り投げた。
 リファは返ってきた騎士の命をマジマジと訝しげに見つめた後、こちらに視線を向けてきた。

「どういうつもりだ?」
「まぁ待っとけって……。おっ、これなら大丈夫かな」

 眉をひそめる女騎士を尻目に、俺はその散乱している木の棒を物色していた。
 そのうちの結構太くて長さもそれなりにある一本を見つけると、つま先で蹴り上げる。
 くるくると回転して宙を舞うそれをキャッチして、俺は軽く素振りをした。
 うん、軽いし扱いやすそうだな。十分十分。

「リファ。本当に傷は大丈夫なんだな」
「え? あ、ああ……」
「いや、万が一痛むとかだったら……やっぱすぐにでも病院に連れてきたいから。何かあってからじゃ遅いし」
「?」
「でも活動に何の支障もないってんなら……」

 そこで俺は、木の棒の先端を彼女に向けた。

「ちょっと手合わせしてみないか?」
「は?」
「いつもやってただろ。チャンバラ……おっと、そう言うとお前怒るんだったな。ま、訓練の一環だよ」
「何を言っている。だから私はもう――」
「わーってるよ。だからまぁアレだ、訓練というよりは……」

 後ろ髪をボリボリ掻きながら、俺は木の棒を肩に乗せて端的に言った。

「決闘、かな」
「けっとう?」
「要は勝負ってわけだ。警備隊抜けたきゃ、俺を倒してからにしろ、みたいな?」
「……」
「もし俺が負けたらお前の好きにすればいいさ。でも俺が勝ったら、今までどおり警備隊として戻ってきてもらう。何か異論あるか?」
「いや異論も何も、勝手に決めるなよそんな突拍子もない事――」
「勝手に決めたのはそっちも同じだろ」
「!」
「お前は自分の職務を放棄したい。でも俺はそんなのを認めるつもりはない。だったらやることは一つしかないじゃん」

 俺の言葉にリファは反論する余地を失った。
 だが当然納得はしていないようで、苦い顔をしながらこっちを恨めしそうに睨んできている。
 そんな様子を見て、俺は小さく笑いながらさらに挑発した。

「それとも……俺に勝てる自信ない?」
「なっ!?」

 みるみるうちに彼女の顔が耳元まで真っ赤に染まっていく。ぎりぎりと歯ぎしりする音も聞こえてくる。これ以上なくわかりやすいキレ方だった。
 だが俺はさらに煽るのをやめない。

「ま、今まで俺に勝てたことなんて一回もなかったもんな。さすがにそんだけ負けてりゃ慎重にはなるか。賢い判断だよホント」
「……」
「よくよく考えれば、主より弱い騎士って確かにいるだけ無駄かもね。そういう意味じゃ警備隊を辞めたくなるのも仕方ねぇか」
「もういい」

 一刀両断。
 リファの言葉が俺をセリフごと遮断した。その二つの瞳には静かに燃え上がる炎が見える。青白い、けれども激しく爆ぜる炎だった。


「いいだろう。その勝負、受けて立つ」
「そうこなくっちゃ」

 リファはその剣を両手で構え、切っ先の狙いを俺へと定める。
 対する俺も木の棒を掌で回転させながら戦闘態勢に入る。

 一本勝負の一騎打ち。
 今まで幾度となくやってきたものとは違う、己の信念を賭けた真剣勝負。

 いつもお遊びに付き合ってやるか程度にしか思ってなかったが、今の俺は本気だ。
 そしてリファは、それ以上に本気だ。
 そう、それでいい。それでいいんだよ、リファレンス。

「じゃあ、始めようか」
「ああ。マスターとて、今回は手加減はしないぞ」
「はっ! 今まで手加減してたとでも言いたげなセリフだなぁオイ」
「ふん、その減らず口……いつまで聞けるか見ものだな」

 お互いに了承を取ると、武器を握る手に力を込める。
 どちらもピクリとも動かず、相手の出方を伺っている。
 先手で一気にカタをつけるか、それとも後手でカウンターを狙うか。
 緊迫した時が流れる中。

 どーん、と。

 遠くの空で花火が打ち上がる音がした。
 それが、俺達の試合開始のゴングとなった。
 リファは小さく息を吸い込むと、一歩足を踏み込んで、叫んだ。


「ワイヤード帝国騎士団元兵長、リファレンス・ルマナ・ビューア。推して参るッ!!」
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