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レベル5.女騎士と女奴隷と告白

2.女騎士と傷跡

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「うぐっ……あっ……」

 私は荒い息を吐きながら、その薄暗い公衆便所に身を寄せた。
 渚殿には急に気分が悪くなったからと荷物を預け、この場所を教えてもらうと逃げるようにその場を離れた。
 別に嘘をついたわけじゃない。現に今にも、痛みで立っているのがやっとなくらいだったのだから。
 あれ以上あそこにいたら……本当に倒れて意識を失うところまでいったかもしれない。

 幸い便所内には誰もいなかった。
 この花火大会とやらが行われている場所からはだいぶ離れたところにあるからだろう。明かりのキカイは調子がおかしいのか、チカチカと点いたり消えたりしている。
 私は洗面台の前に立ち、両手をついて体重を預けた。

「うっ……ぐっ……」

 痛い。
 胸が、腕が、足が、頭が、焼けるように痛い。
 痛みなんて、騎士を志した時から幾度となく受けてきたのに。それをバネに自分を強くするチャンスだと、上官達から何度も教えられてきたのに。
 苦だと思ったことは一度もなかった。むしろ誇らしいとさえ感じた。
 だのに、今はこんなにも……辛い。
 胸を抑え、私は下唇を血がにじむくらい強く噛みしめる。

「マスター……」
 掠れるような声で私は彼を呼んだ。
 あの光景が、まだ脳裏に焼き付いて離れない。
 どんなに遠くからでも、はっきりとわかるほどにそれは衝撃的だった。
 憤慨する気も、狼狽する余裕も、叫び声を上げる力も、全て根こそぎ持っていかれた。

 キス……してた。

 抱き合って、周りの目なんか全く気にもしないで。
 どちらかが一方的にするんじゃない。
 両方が、目を閉じて、口と口を合わせて。ただひたすらに、お互いを求めていた。
 外から見ていた私は、その時何を思ったんだろう。たった数分前の出来事なのに、何も思い出せない。そこから先の記憶がない。
 何かを思うよりも前に、何かを感じるよりも前に、痛みが全身を襲ったからだろう。
 胸を刺すような痛みがズキン、ズキンと。
 そして今尚、痛みは一秒ごとに増していく。あの二人のことを考えれば考えるほどに。
 忘れようとしても逆効果だった。余計に深く思い出してしまい、それはさらなる苦痛を与えてくる。

「……いたっ……いたい……」

 とうとうそんな子どもじみた弱音まで吐いてしまった。
 目の前には鏡があるが、それを見る余力も勇気もなかった。
 一体どんなひどい顔をしているんだろう、どんな無様な姿が映るんだろう。
 ……だめだ、痛い……痛すぎる。
 身体のどこを抑えていいのかわからない。今にも全身が張り裂けそう。
 なぜだ……なぜこんなに苦しいんだ……。
 あれを見たからか? この痛みは……そのせいなのか?

 いや、きっとそうだ。そうに決まっている。
 私だって馬鹿じゃない。あれが、ただ口を合わせるだけの行為が、何を意味するかくらいわかってる。クローラもマスターも、当然知ってて及んでたのは明らかだ。
 私の知らないところで、二人だけで、あんなことを……。

「……ずるい」

 ぽつりと私の口から嗚咽混じりにそんな言葉が出る。

 私だってまだ……したことないのに。
 なんで、なんでよ……。
 なんで私だけ、こんな……。

 惨めだ。
 除け者、仲間外れ、蚊帳の外。

 私がこうしてる今だって、あの二人は一秒でも私のことを思い浮かべたと思うか? 
 答えは否。
 きっと今も、頭にあるのは目の前の異性のことだけ。
 私のことなど……いや、私という存在すら消し去っているに違いない。

 私には、それしかないというのに。
 生まれ育った国とは技術も文化も違う、右も左も分からない異世界。
 ここでマスターの家に住まわせてもらい、クローラと一緒に今日までなんとか暮らしてきた。
 マスターの自宅警備隊。それは転生する時に自分で決めた、私の新しい職業ジョブ……。

 それが全てだった。
 彼を守り、彼の支えになり、彼に忠義を尽くす。
 それが私の、この世界で生きる意味。

 でも、今はその意味が……根こそぎ奪われたような気持ちだ。
 クローラとマスター。
 あのキスで、完全に二人だけの世界を作り上げてしまっていた。

 そうなってしまったら……私はどうすればいい?
 マスターと共にあることが前提の私の生き方は、どうなってしまう?

 全部奪われた。
 リファレンス・ルマナ・ビューアという人間の存在意義を。
 せっかく手に入れた、第二の人生を。

 代わりに残ったのは……この痛みだけ。
 打ちひしがれる私に、それは容赦なく追い打ちをかける。

 
「うっ……うぅ……」


 私が何をしたんだ。
 ここまでされるほどの何をしたというんだ。
 教えてよ……誰か……。

 ズキンズキンズキン!!


 必死に問いかけても、返ってくるのはそんな体中の激痛だけ。 
 ああくそ、収まらない。それどころか吐き気や悪寒どころか耳鳴りまで。
 もういやだ。

――ゴミが。

 誰かが私を罵倒する。とうとう幻聴まで聞こえてきた。
 一瞬のように思われたが、それは少しずつだがものすごい勢いで私に降りかかる。まるでポツポツと雨が降り出してからすぐ本降りになるように。

――クズめ。
――負け犬がよぉ。
――テメェみたいのを出来損ないっていうんだよ。
――こうすることがあなたの幸せなのよ。
――いつまでも粋がってんじゃねーぞゴミが!

「……黙れ」

 掠れ声で抵抗するが、幻聴は止まない。
 激痛よりも激しく、私を心身ともに突き刺して針のむしろにしていく。

――呼んだって助けなんかこねーよ。
――なんでいつもいつも言うことが聞けないの!
――わっかんねーかなぁ? 見捨てられたんだよテメェは!
――御託並べんじゃねぇよ、泣くことしか能のねぇくせに。


「黙れっ、黙れ黙れ!」

 頭を抱え、髪を振り乱し、私は暴れる。
 からん、とその拍子に何かが床に落ちる。
 髪飾りだ。私がマスターに初めて買ってもらった品。片時も肌身離さずにつけてきた、私の宝物だ。
 拾おうとするが、激痛と幻聴がそれを全力で邪魔してくる。

――全部あなたのためを思ってやったことなのに……裏切ったわね……。  
――いい加減自覚持てよ。服従するのだけがお前の唯一の幸せなんだって。
――失敗作……あんたなんか失敗作よ!
――痛いよな? 苦しいよなぁ? 解放されたいか? 楽になりたいか? どうすりゃいいかって? んなもん簡単な話だろ……。
――さっさと処分しなきゃ……こんな失敗作は……この世から消さなくちゃ。

「うるさいっ! うるさいっ! 私は……私はっ!」

 金切り声を上げて、その頭の中で入り乱れる蔑みや冒涜をかき消そうとしても駄目だった。
 言葉はいとも容易く私の壁を突き破り、はっきりと、一言一句漏れずに。
 私の心に、渾身の一撃を放った。


――死ねばいいんだよ。
――死んでしまえ。




――クソ奴隷が・・・・・


「黙れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!!」


 ガシャンッッ!!!


 気がついた時にはそんな音がして、私の拳が洗面台の鏡にめり込んでいた。
 無数のガラスの破片と化した鏡面は、下にひょうのように落ち、あるいは私の骨に突き刺さり、赤い血をにじませた。

 そこまでやって、ようやく幻聴は収まった。

「はぁ……はぁ……」

 肩で息をしながら、私は我に返る。
 なんだ……今のは……。
 反射的に怒号を上げたが、一体私は何を……。
 出来損ない? 失敗作? 処分……?
 それに……。

「……違う……私は」

 騎士だ。
 ワイヤード騎士団兵長、リファレンス・ルマナ・ビューア。
 動くことのない私の素性であり、肩書であり、人生だ。

 それなのに、はっきりと言えない。
 今の幻聴に対して、きっぱりとそう名乗れない。

「私は……奴隷じゃない」

 自分に言い聞かせるようにそう呟くが、どこか上ずって震えたような声になる。
 何を迷っている? 何を怯えている? 
 自分のことだろう? そんなこと私自身が一番よくわかってる。

 でも何だ……なんなんだ。この言いようのない不安感は。

 カチカチと歯が噛み合わずに軽い音が鳴る。
 鏡に打ち付けた拳を握りしめると、余計に小さな刃がさらに食い込んでいく。
 だが先程までの焦りや昂ぶりはなりを潜め、多少なりとも落ち着きを取り戻せた。

 と、思ったのもほんの一瞬だった。

 伏せたままだった視線をゆっくりと上げ、肩から腕を経由して、自らの拳を見つめ……。
 そして、その無数に亀裂が入った鏡を……見た。


「――ッッ!?」


 私は声にならない悲鳴を上げた。
 全身の筋肉が硬直し、思考が一瞬停止する。
 伸ばした腕を引っ込めることすらできず、瞬きすることさえ叶わなかった。

 私の顔は……元の私のものではなかった。

 首元には大きな火傷の痕
 頬には巨大な十字型の切り傷。
 白い額に点在する青紫の痣。

「あっ……」

 鏡の中の私に亀裂が入ったのに呼応するように、私自身の体にも……。
 嫌な予感がして、鏡を割った腕の袖を、もう片方の手でまくってみる。

「ひっ……」

 皮膚は、鏡のヒビが伝染したと思うくらいの有様だった。

 二の腕まで伸びる大きな裂傷。

 ある意味一番ショッキングな光景だった。
 この傷は実を言うと前からあったのだ。
 あの時……マスターと海に行った時の帰りに気づいたもの。いつの間にかついていた、見に覚えのない傷。
 だが当時はそんなに気になるような大きさではなかった。戦場で戦っていた時に知らず知らずのうちにできたものだろうと勝手に納得していた。
 でも……格段に今それが悪化している。骨まで達しそうなその傷からは、絶えずどす黒い膿のような液体がにじみ出ていた。


 ――キズモノ。


 ズキン、とまた痛みが再発する。
 なんだ……なんなんだこれは……私が……なんでこんな……。
 さっきから私の周りで発生する異変。何が一体どうなってるんだ。
 そこまできてとうとう私は拳を鏡から離し、破片の刺さる痛々しい手を抑える。
 わからない……この身に何が起きているのか、私はこれからどうなってしまうのか。
 怖い……どうしようもなく怖い……。
 不安はいつしか恐怖に変わり、せっかく取り戻した冷静さを再び奪い、代わりに焦燥感だけを置き土産とばかりに押し付けていく。

「助けて……マスター……」

 無意識にそう言葉が出た。
 彼への、届くはずもない懇願。
 来るはずもないのに。今はあの奴隷と時を過ごすことしか頭にないだろうに。
 自分でも無駄なことを、逆に虚しくなるだけのことを求めたと、軽く後悔したその時である。


 カツン、カツン。


 と、誰もいないその便所の中に誰かが入ってきた。
 何者だ? 渚殿? それとも、もしかして……。
 私の中に薄く淡い希望の光が刺したが、それは一瞬で無慈悲にもかき消えた。


「チャオ♪」


 薄気味悪い笑みを浮かべて、そんなちゃらけたセリフと共に、その人物は私の前に姿を表した。

「おー、ずいぶんと派手にやったね。さすが異世界の騎士様、腕っぷしもなかなかだ」

 四角い眼鏡をかけ、無精髭を生やしたその中年の男性は、ヘラヘラしながらそう言った。
 こいつは……確か……。

「やだなぁ、忘れちゃったの? 箱根だよ、箱根。カフェ『Hot Dog』の店長。さっきまで一緒にいたでしょ? それとも何、僕ってそんなに影薄い? 心外だなぁ。まぁあんま接する機会なかったけど」
「……」
「そう怖い顔しないの。心配したんだよ、急にナギちゃんから君が急にいなくなったって連絡があったもんだから、こうしてわざわざ探しに来たのに。したらなーんか苦しそうなうめき声が聞こえてくると思ったら……だいじょぶかい?」

 違う。私が気になっているのはそんなことじゃない。
 この状況を見て何も思わないのか。鏡をブチ割ったことを「派手にやった」で済ますのか?
 それに……私のこの姿を見ても顔色一つ変えない、それどころか一言も言及してこないなんて。
 自分で言うのも何だが、ここはまず慌てるところじゃないのか? 心配する言葉の一つもかけたりはしないのか? 
 何事にも動じない性格? それともただの無神経? 否、そのどちらでもない……。
 その飄々とした態度は、まるで。

 この状況を、最初から予想してたような……。

「僕がその傷を見て気遣わないのが不自然、って思ってるね?」

 心を読んだかのように、彼の口元が歪んだ。
 笑ってる? なんで……なぜこんな時に笑える?
 私の姿を面白がっているのか? 人が傷ついているのを笑いものにするために来たというのか?

「残念だけど、そういう期待は持つだけ無駄だと思った方がいい。僕は君のことを心配などしやしないし、君がどれだけ傷つこうが動じることもない」

 ……なんだって?
 私は目を見開いて彼を見た。
 相変わらず何を考えてるのか読めないようなニヤケ顔だったが、目だけは違った。
 死んだ魚のような……光のない、この世の全てに絶望したような目つきだ。

 照明の点滅する速度がやたらと早くなる。
 彼の姿が見えたり見えなくなったり、周囲が非常に不気味な雰囲気に包まれる。
 不穏な空気が訪れる中、それを全く意に介してないというふうに彼は続ける。

「僕はね、君を『傷ついている』なんて認めるつもりは毛頭ない。その程度の傷で、痛々しいなどと感じるなど、僕にとっては甘えに等しい」
「何!?」
「この世にはね、本当に打ちどころもないほどに痛めつけられた人間ってのがいるんだよ。僕は一人それを知っている」
「……」

 表情を変えず、彼の口調だけが重たくなる。私はそれを黙って聞くことしかできない。

「顔には無数の傷痕がつけられ、手足は今にも枝のようにポッキリ折れそうなほどやせ細り、肌は焼け焦げたように黒ずんで、立っているのがやっとなくらい。生きているのが不思議なくらい。本当に同じ人間なのかとさえ疑うくらい。そんな様を……僕はいつも見てきた」
「……」
君達にはそう見えていないんだろう・・・・・・・・・・・・・・・・? 羨ましいよ。嘘でも彼女の元気な姿が見られて」
「なんの、話だ……」

 私が訊いても向こうは無視して、その誰に向けていっているのかもわからない演説をやめようとしなかった。

「僕は君らとは違う。だから嫌でも現実を見なければならない。あの見るに堪えない姿に向き合わなくちゃいけない。だけど……今までまともに目を合わせることはできなかった」
「……」
「直視できないんだよ。もしまともにあの姿を見てしまったら……きっと僕は発狂して正気を保っていられなくなるかもしれない。ただでさえ、あのしわがれて蚊の鳴くような声を聞くだけで胸が痛むんだから」
「……」
「だから……僕は救わなくちゃいけない。あの姿から、本当に今君達が見ているような健常で可愛らしくて、『普通の女の子のような』彼女にさせてあげるためにね」

 怖い。
 直感した。
 先程までの恐怖の根源がこれかと錯覚するほどに、怖い。
 何のことを話しているのか、私はさっぱりわからないけど……こいつはヤバい。これ以上一緒にいたら気が変になりそうだ。
 私は適当な理由をつけてそこから去ろうとした。こんなところ、一秒でもいたくない。

「おっと、何か落ちてるね」

 口を開きかけた矢先に、彼は床に落ちていたあるものを拾い上げた。
 それを見た私は思わず息を呑む。

「それはっ……!」
「何だと思えば……髪飾りじゃないか」

 お世辞にも手入れされているとは思えないような手で掴み、彼はまじまじとそれを見る。
 私はさっきよりも気が気でなくなった。それは私の宝物、決して私以外の誰にも渡したくない。ましてやこんな変な奴に。

「か、返せ――ぐっ!!?」

 そう言って手を伸ばしたが、取り返すことは叶わなかった。
 彼のそこそこ太い腕が、私の顔を鷲掴みにして強制的に口を塞いだからだ。

「ぐっ!? んむーっ!」
「駄目だよ、こんなものをいつまでも残してちゃあ」

 振り払おうとしても、びくともしない。それどころか向こうの力は凄まじく、私がどんどん押されていく。
 だがそんな彼の目線は私の髪飾りに向いている。まるでうるさいハエをのける程度とでも言わんばかりの仕草だ。

「これは既に彼女が手にしている。なら君が持つべきものじゃないということだ」
「ふ、ふざけ……」
「でもありがとうね。これで彼女はまた少し『癒やされた』。君が傷つけば傷つくほど……彼女の傷が消えていく。忌まわしき記憶が失われていく」

 礼だと? 一体どういうことだ? やはり私がこうなることを予見していたのか? しかも……それを望んでいるかのような口ぶり……。
 まさか、一連の流れは……こいつの仕業?

「パートナーってさ、二人組での相手って意味を表すんだよね」
「!?」
「でもさ……なんで君達は三人で『パートナー』なのかな? おかしいよね……一人邪魔じゃないか・・・・・・・・・

 髪飾りを握ったまま、金具の部分を親指の爪で引っ掻き回しながら彼は笑う。

「そう……本当は二人にさせるつもりだった。でも……余計な要素が出てきちゃったんだよ。もちろん即排除して処分するつもりだったさ。なんたって、彼女が『あんなふう』になったきっかけとも言える存在だからさ」
「んぐっ……!」
「だけど駄目だった。そいつは彼女にとって必要なものまでいくつか持ち出してしまっていた。これでは消した途端……彼女はほんとうの意味で救われなくなる。不完全なままになってしまう」
「……」
「だから返してもらってるのさ・・・・・・・・・・、少しづつ。彼女がこの世界で暮らしていくのに必要なものをね。なんだかわかるかい?」

 知るか。そう答えようとしても口がきけない状態なのだから呻くしかない私。
 そうさせている張本人も最初から期待していないというふうに鼻で笑うと、端的に言った。

「幸せ、だよ」


 ……は?
 唐突に出てきた意味不明な言葉に私は面食らう。
 し、あわ……せ?

「そう、彼女にはなくて君にはあるもの。それは痛みを何一つ知らない、全てが満たされた幸せな心。そしてそれを追い求め続ける意思。君の中にあるそれが必要なんだよ……」
「……どういう、意味だ」

 私はかろうじて、そうくぐもった声をひねり出すことができた。
 それを聞いた彼は、口角を吊り上げて嘲るように笑った。
 さっきの何も考えてなさそうな面とはまるで違う。底の知れない、邪悪そのものといったような顔だ。

「言っただろう、君から返してもらうのさ。彼女のために。彼女を救うために」

 彼女彼女と、さっきから誰のことかわからんことを何度も……っ!
 だがだめだ、どれだけ暴れてもその腕から逃れることができない。

「計画は順調だよ。すべて予定通りに事は進んでいる。今君が感じているその痛みと傷が、その証拠だ」
「っ!?」

 その言葉を私は聞き逃さなかった。
 やはり予感は当たった。前々から怪しいと思ったが……間違いない。
 こいつは私に何かをした。そしてこの傷を負わせた。
 それを理解した途端、今まで湧き上がらなかったのが不思議なほどの怒りが、私の中で巻き起こった。

「貴様っ!」

 浴衣の帯に挟んでいた剣の柄に絵をかけ、抜刀しようとしたがそれすら彼にはお見通しだったらしい。
 抜いたタイミングを的確に狙い、足払いをかけてきた。


「きゃっ!」


 完全に不意を突かれた私は、浴衣という衣服の動きにくさも相まってあえなく無様にすっ転んでしまった。
 尻餅をついてしまい、急いで体勢を立て直そうとするが、敵がそれを見逃してくれるはずもなくーー。
 剣を持った私の手首を、踏みつけた。よりにもよって裂傷がある箇所を、一番力の入る踵で。
 激痛が、さっきの倍以上の痛みが、手首から全身に走る。

「ぐぁっ! ぁっ!」
「よくないなぁ、人の話はちゃんと聞かなきゃ」

 すまし顔で彼はそう言ってくる。
 話を聞くだと? 貴様が私をこんなふうにした。それだけで十分ではないか!


「まぁ聞きなって。少しは疑問を持つことを覚えようよ。なぜ君から『幸せ』を取り返すことで、君にその傷ができるのか」
「……うぐぅぅっ!」
「さっきの話には続きがあってね。君は彼女に必要なものを持っているのとは逆に、彼女の方は持ってちゃいけないもの……捨てるべきもの、幸せを邪魔するものを持っていた」

 手持ち無沙汰というふうに髪飾りを掌で転がしていたが、やがてその真っ黒な瞳が二つ、私を捉えた。

「それが……『傷』だ」
「……」
「君の感じるその痛みは、今の彼女が無数に背負っている負の遺産……忌まわしき記憶……。幸せをいくら与えても、それがある限り彼女は幸せをまともに享受できない。それだけでは『癒やす』ことになはならない。わかるかい? 今まで不幸だったからこれからいい思いをさせてあげればOKっていう簡単な話じゃないんだよ」
「……」
「不幸のどん底に落とされて限界まで傷ついた者はね、感覚が麻痺してあらゆる幸福の基準値が下がっていく。そしてやがて自分を偽るんだ。『今の状態が一番幸せだ』と思い込むようになってしまう。その傷によって歪んだ認識を改めない限り、救うことはできないのさ」

 はぁー、と彼は重々しいため息を吐く。

「だから僕は、その傷を……別の誰かに移そうと考えた。彼女からそれを綺麗さっぱり抜き取って、押し付けて……最終的に、消す」
「それがっ……私だというのか!?」

 歯を食いしばりながら私は彼を見上げて詰問した。
 それに向こうは無言で首肯。そして私の手を踏みつけている足をどけた。
 すぐにでも剣を取ろうと思ったが時すでに遅し。今度はそっちの方が踏みつけの犠牲となった。
 プラスチックという柔らかい素材であるためか、ぐしゃりとその形は潰れて歪む。
 くそ……これも、マスターに買ってもらった品なのに……よくもこんな……。

「君が出現したことは最初は想定外だった。でも同時に君にしかできない使いみちができた。決して消えることのない傷を癒やすために……」

 にぃ、と彼の口から牙のような歯が覗く。
 汚い目つきで、どこまでもバカにしたように私の髪飾りを見つめながら。
 はっきりと、こう言った。

「君には、彼女の負った傷を負ってもらう」
「ふざけるなっっ!」

 拳を床に叩きつけ、私は怒号を上げた。
 散々御託を並べて、挙句の果てに誰のものともしれない傷を肩代わりしろだと!? 冗談じゃない!

 確かに私は騎士で、戦いの場に馳せ参じ、いつもその証とばかりに体に傷をつけて戻ってきた。
 だがそれは帝国の、ひいては自分の武勲のために戦ったからこその名誉だ。決して無意味に痛みを受けているわけではない!
 ましてや他人の勝手な目的のために、そんな目に遭うなど屈辱以外になんと言えよう!?

 そしてここは平和な世界。戦いのない、剣を振るわなくてもいい世界。
 そんな場所に新たに生まれ落ちて、ワイヤードではできなかったことが沢山できた。楽しい経験が山程増えた。
 私は、この世界の一員として、ふさわしい人間になるためにここにいる。。
 だから言わねばならない。これだけは、絶対に。

「私は……私はっ! 傷つくためだけに生きてるんじゃない!」

 そう力強く宣言しても、彼が表情を変えることはなかった。
 ただ見下すような目つきをこちらに向けるだけ。
 そして小さく息を吐いて肩を竦めると、踏みつけていた剣を蹴っ飛ばした。カラカラと回転しながら床を転がり、私の武器は便所の隅に追いやられた。
 そして洗面台に腰掛けると、天井を仰ぎながら短く返した。

「構わないさ、別に」

 ……何?
 またまた意外な反応に私は再び調子を狂わされた。

「君がいろんなことを学んだりとか、楽しいことをしたりとか。そうやって好きなことをやって幸せを感じちゃダメってわけじゃないからね」
「……どういう」
「むしろもっと、全力で今を楽しめばいい。それ自体を僕は止めやしない。第一、僕も色々君にしてあげたしね。バイトの手伝いとか、ニアのこととか」
「……」
「だけどーー」

 そこで彼は、持っていた私の髪飾りを掲げてみせた。
 一瞬にして空気が緊迫する。私の削がれていた感情が一気に戻ってくる。
 取り返さねば。今すぐに!
 剣も腕も、もう拘束されていない。今なら走って取りに行ける!
 しかし――。

その思い出を君が持ってちゃ困るんだよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 奴はそう言って、髪飾りを握りしめると……力を込めた。
 ギチギチ、と軋む音がはっきりと耳に届く。
 それを見た途端、私は悲鳴にも似た声を上げた。

「ばか、やめろっ!!」

 剣の方ではなく、彼の方に走り出そうとした瞬間。
 ズキン!!
 と、さっきまでの胸の痛みが突然再発した。

「ぐぁっ!!」

 こんな、時にっ……なんで……っ!


「ここでの平和な暮らしで、君らには色々なことを経験するだろう。いいことも悪いことも平等にその身に起きるだろう。でもその中で……『幸せな記憶』は全て彼女に還元させる」
「うぅ……やめろ……」

 私は胸を抑えて掠れ声で叫ぶ。
 だがそんな様子を楽しむように、彼は髪飾りに少しずつ力を入れていく。
 軋む音はさらに大きくなり、形を保つのが限界に近いことを示していた。

「そして代わりに君には……『絶望の記憶』を」
「やめて……お願い……やめて……」

 怒りに任せた叫びはいつしか懇願に変わっていた。
 もうなりふりかまっている場合ではない。頼むから……それを返してくれ。
 それがないと……私は……。
 震え声で何度も同じ言葉を繰り返しながら、私は彼へと手を伸ばす。
 でも全ては……無駄なあがきだった。


「その傷と共に」
「やめてーーーっっ!!!」


 叫び声は最後まで届くことなく。
 バキッ!!
 と、彼の手の中にあるものが砕け散る音がした。
 長い間大切にしてきた思い出が、あっけなく粉々になってしまった。
 そのタイミングで点滅していた便所内の明かりが完全に消え、内部は暗黒で満たされていく。

「あ……あぁ……」

 へなへなとその場に手をつく私。外から差し込む淡い光でわずかに見える手の甲に、ポタポタと涙が滴り落ちる。

 ――お前……軍人だったからあんまこういうもんに慣れてないだろうけどさ、少なくともこの国じゃ戦争もないし、武器も兵も必要ないところだ。だから……女の子らしいっていうか……もうちょいお洒落とかに目を向けてみてもいいと思う。
――マスター……。


――……ど、どうだろう? 似合ってるか?
――……ぷっ
――わ、笑わなくてもいいではないか! いくら不格好とはいえ……。
――いや……ごめん、似合ってないわけじゃないけど……付ける場所がおかしいって……。
――え? あれ、おかしいな……こういうところにつけるものではないのか……。
――貸してみ。


――こ、今度はどうだ?
――ああ、とってもかわいくなった。
――っ!? かわいいなんて……そんな……。



――ありがと。



 くれた時にかけてくれたマスターの言葉の数々が、頭の中に浮かんでは消えていく。
 今までの何よりも嬉しかったのに……一生大事にしようって誓ったのに……。
 ひどい……ひどいよ……。
 私は自分がかつて騎士だったということすら忘れて泣きじゃくった。

「なぜだ……なぜこんなひどいことをする……」
「……ひどいこと? 一体何のことだい?」
「とぼけるなっ! よくも壊してくれたな! 私の大切な……」

 金切り声を上げて私は訴える。
 だが壊した張本人の態度は一向に変わる気配がない。


「壊した? 大切? え? 僕が何を壊したって・・・・・・・・・?」

 な、何を言っている!?
 こいつ、今度はしらを切るつもりか! どこまで私をコケにすれば気が済むんだッ!

「今まさにその手で壊したばかりだろ! たった一つしかない宝物だったのに!」
「だから大事なものって? 宝物って何よ? 教えてよ、今僕が壊したというのなら」
「決まっているだろう! 私の……」

 そこでなぜか、言葉が詰まった。
 たしかに私は壊された。こいつに奪われて、握りつぶされた。
 それは覚えてる。私が後生大事にしていたものだということもちゃんと理解してる。
 でも……あれ? 

 なんで……なんでその名前が出てこない?

 嘘だろ? だって、今起きた出来事のはずなのにどうして思い出せない!?
 ど忘れ? まさかそんな……。

「あれあれ? 言えないの? なんで? 僕が壊したんでしょ? 何かをさ?」
「……っ」
「でもおかしいねぇ。僕はそんな覚え無いから、あと知っているのは君しかいない。その君ですら知らないというのなら……」

 クックックッ、と愉快そうに笑いを噛み殺しながら彼は私の前にしゃがみ込む。そしてそっと握りしめていた、私の大切な何かを壊したその手を、開いた。

そんな事実は無かった・・・・・・・・・・……ってことだよね」

 彼の手の上には……空気しかなかった。
 壊れた残骸となった「何か」があるはずなのに……その破片さえもない。

  頭の中が混乱してきた。
 一体私は……何のために……。今までの憤りは……どこから……。

「え? ……え?」
「やれやれ。いきなり喚き出すからびっくりしたけど、特に問題はなさそうだね・・・・・・・・・・・

 頭の中で様々な疑念が錯綜する私を置いて、彼は立ち上がった。
 いきなり喚き出す? 問題がない?  
 たしかに私は喚いていた、怒鳴っていた、彼に殺意すら向けていた。
 でもそれはなぜ? どうしてそんなふうに思ったのだろう。

「じゃあ、僕は行くけど、君も落ち着いたら戻ってきなよ」

 ひらひら手を振りながら、彼は便所の入り口まで悠然と歩いていってしまう。
 そのままこちらのことを振り返りもせず行ってしまうかと思ったが、一歩手前で足を止めて、こう言った。


「戻る場所があるなら、ね」


 はっ、と気がついた時にはもうそこには誰の姿もなかった。
 ただ照明の消えた薄暗い空間で、私一人だけがそこにへたりこんでいた。

 なんだったんだ……なんだったんだよ、今の……。
 何が起きていた? 私は何をしていた? 殆ど記憶にない。
 奥に引っかかってるけど取り出せない、そんなもどかしい感じ。そして何か大切なものを奪われたような、大きな喪失感。
 思慮をめぐらせればめぐらせるほど、沼にはまってますます何があったのか思い出せなくなる。


 そもそも……私は、誰と話してたんだろう。


 それすらも頭から消えていってしまっている。
 ここでの出来事、この場所にいる理由、ここで話していた人物、そして失った何か。
 何もかも……全部が曖昧で、やがて存在自体の疑念へと変わっていく。
 果たしてあれは……夢だったのではないか? と。
 実感がない、リアリティもない、ふわふわと浮いたような輪郭だけの記憶。全部夢だったとすれば、いくらか合点がいくような気さえしてきた。

「……」

 私はかぶりを降ると、洗面台に手をかけて立ち上がった。
 そして何気なく、壁に並んで貼り付けられた鏡の一枚。私が殴り割ってひび割れたそれを、見た。

「……ぁ」

 どうやら、夢などではなかったようだった。
 だってその鏡には、さっきと変わらない傷だらけの顔が映っていたのだから。 

「っ……」

 爪が掌に食い込むほど強く握りしめて、私は目を伏せた。
 どうせだったら、これのことも夢であってほしかった。全部忘れ去ってしまいたかった。
 そっと手をほどいて、頬にできたバッテン傷をなぞってみる。深く、太いその傷は確かにそこにあった。
 顔にできた傷。間違いなく人前に出たら目立つであろう傷。
 ワイヤードの軍人でそういう奴は珍しくないし、それほど偉大な戦績を上げたんだろうと感心されるのが普通だ。
 もし私が今もあっちの世界で騎士団兵長を続けていたのであれば……きっとそれを誇りに思うだろう。これはあの戦いの時についた名誉の印だと、周囲に鼻高々に話していたかもしれない。

 だけど今の私……この世界のただの一般人として新たに生を受けた私は違った。

 見られたくない。
 見せられない。


 こんな姿を、マスターに見てほしくない!


 抱えていたのはそんな思いだけだった。
 マスターが見たらどんな顔をするか、どんな反応をするのか。今では考えるだけでも震えが止まらない。
 私はキズモノだから。
 そんなことわかってる。こんな傷、初めてじゃないことなのは百も承知。彼だってそれを知っている。
 だから海で腕のを指摘された時だって、そう言い訳した。その理由で彼だけでなく自分でも納得したつもりでいた。
 でも今は、それがとてつもなく嫌だ。
 どうしてだろう、一体あの時と今日までの間にどんな変化があったというのだろう。

 怖い。
 マスターに嫌われるのが怖い。
 マスターに拒絶されるのが怖い。
 あなたがいないと、私は……。

「――はっ!」

 そこまで思ったところで、脳裏にある光景が浮かんだ。
 ついさっき見た、クローラとマスターが接吻している様子。

 さっきはただただ衝撃を受けるだけの光景だったが……今ようやくわかった。マスターが、どうしてクローラとあんな行為に及んだのか。
 ずっと疑問だったが、とっくに答えは出ていたんだ。

 私が……キズモノだからだ。

 拒絶されないかと恐れ始めたが、とっくに私は拒絶されていたんだ。
 クローラ……マスターに仕える奴隷。
 肌も綺麗だし、傷だって一つも無い。体つきだって、私より全然女らしい。
 可愛げもあるし、愛嬌もある。私にはないものを……あいつはたくさん持ってる。
 なのに私は……なにもない。いや、それとは真逆のものを持ちすぎている。

 だからマスターは……彼女の方を選んだんだ。

「……はは」

 この祭りの日よりもずっと前から、私は除け者にされていたということか。
 失ったんじゃなく、奪われたのでもない。ただ、最初から存在していなかった。
 それがわかるとなんだか悲しむどころか笑えてきた。

 そうだよな。普通に考えてこんな私の傷だらけの手を、誰が握ってくれるというのだろう。

 肩にずっしりとのしかかっていた重みが取れたような感じがする。涙もいつの間にか引っ込んでいた。あれだけ苦しんでいたのが馬鹿みたいに思えてきた。 
 いいじゃないか、マスターが選んだのならそれで。
 クローラだって、マスターのことを慕っているのだから、お互いが望んで、お互いが決めた結果なわけだ。
 二人のあの幸せそうな顔……どこに私の入る余地がある?
 騎士。剣を振るうためだけに在る軍人。その生き方しか知らない私が何を望んでいたのやら……。

「馬鹿みたい……」

 ぽつりとそうつぶやいた。
 浴衣はしわだらけで、襟もはだけて胸元が丸見え。腰に巻いた帯も緩まっているが、直し方もわからない。
 身体だけでなく服装もこんな無様な格好に……ますますマスターに見せられないな。
 私は自虐気味に笑うと、便所の隅に転がっていた剣を取りに行く。
 誰かに踏みつけられたのか、刀身が潰れていた。
 騎士の命である剣まで……しかもマスターにわざわざお願いして買わせた品なのに。
 もはや、自宅警備隊を名乗る資格すら私にはないのかもしれない。
 私はそれをしばらく見つめると、小さくため息を吐いて――

 床に、再び放り捨てた。
 もう私には……持ってても仕方のないものだから。

 私はトボトボとおぼつかない足取りで、便所を出た。
 外には誰もいなかった。私だけがそこにぽつんと突っ立っている。孤独な私の今を忠実に再現しているようだ。
 遠くの上空からどーん、どーん、と大きな音が打ち上がっているが、私の目に映るのは、地面と自分の足だけ。とても上を見る気になんてなれなかった。

「帰ろ」

 私は呟いて歩き出そうとするが、自分で今言った言葉にこれでもかというくらい的確なセリフが呼び起こされた。

――戻る場所があるなら、ね。

 帰るって……どこに?
 帝国という生まれ故郷を去り、今度はマスターの元さえ去ろうとしている。
 だったら、次に私が向かうべき場所はどこ?
 守るべき国も主もいなくなった今、ワイヤードとは何もかもが違うこの世界で一人……どう生きていけばいい?

「……」

 答えは出ない。出るはずもない。
 どうしていいのかも、どこに行けばいいのかもわからない。途方に暮れるしかなかった。
 そのまま宛もないのに、闇夜の下をトボトボと歩き始める。
 こうして私は、全てを捨てて逃げ出した。




「……今日は、特別な日だったのになぁ」
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