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第一章 出会い

2 新しい母さん

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 さて、沙夜さんがやってくる。

 午前中、自分の部屋の掃除を急いで済ませた。

 親父の部屋はおととい、古紙回収に出す資料の山の整理ついでに、親父をせっついてふたりで片づけた。

 親父がずいぶんルーズに使っていた備えつけのクローゼットを、一から片づけ直して、沙夜さん分のスペースを空けたし、本棚もひとつ整理して確保しておいたおかげで、きょうはどうにか慌てずに済んだが、親父はあの時、もうその心づもりだったのかもしれない。

 朝昼兼用のカップ麺を二個平らげた頃、宅配便がやってきた。沙夜さん宛の荷物だった。

 送り状の届け先欄に、少し丸っこい筆跡で書かれた『桜木沙夜』の文字をしばらく眺めた。

 入籍したのだから、もう沙夜さんは僕と同じ、桜木なんだよね……。

 玄関に置かれた二十個ほどの段ボール箱。まずはこれを親父の部屋に運び入れよう。せっかく沙夜さんをお迎えするのだから、玄関はすっきりきれいな方がいい。

 僕が生まれた頃に建てられた平屋一戸建てのこの家は、玄関の先に長い廊下が続いていて、その左側に手前から、そこそこな大きさのリビング&ダイニングキッチン、そして書斎兼寝室の親父の部屋、一番奥が僕の部屋……とシンプルな造りだ。運ぶと言っても、そう大変なことじゃない。

 箱は軽い物もあれば、とんでもなく重い物もあった。

 全くもって親父は雑である。宅配便がくる事なんて聞いてないし、昼からというだけで、沙夜さんが何時にくるのかも聞かされていない。きょうの僕の予定に友人との大切な約束があったとしたら……なんて想定はこれっぽっちもしてないことに、ちょいとばかりムカついた。

 詰まるところ、親父は僕を軽くみている。

 そう、あの時だって――。僕がサッカーに夢中だった中学二年の時のこと。せっかく親父と一緒にいこうと、友人の父親に頼んでようやく手に入れた有名チームの記念試合のチケットを、僕に無断で大学の同僚にあっさり譲ってしまったんだ。信じられるか?

 涙目でそんなことを思い出しながら、最後のちょっと軽めの段ボール箱を、親父の部屋に積み上がった箱の上に無理して放り投げたら、そのままむこう側に落っこちた。

 沙夜さんごめんなさい。あなたに罪はないと、それを戻そうと近づいて愕然とする。

 そこには、箱がはじけて赤やら黒やら紫やらの散乱した下着。DカップだかFカップだかのとっても立派なブラや、これはキャミソール? それから透け透けのパンティ。段ボール箱の背には、太めのサインペンで、送り状と同じ筆跡をさらに殴り書きっぽくした感じで『下着類』と記されていた。

 すぐに元に戻さないと、このままでは、僕は、義母さんの下着を物色する、ヘンタイかもしれない厄介な連れ子、ということになってしまう。ああ。

 脂っぽい手のひらを、着ていたパーカーで慌てて拭って、その下着類を箱に戻し始める。

 この家にはずっと無縁だった芳香剤の甘い香りが漂う。

 ふんわりしたランジェリーの手触りに、ジーパンの股間がさっそく反応して痛い。

 下着類はちゃんと畳んで仕舞われていたのか、無造作に突っ込まれていたのか、それすらわからない。この紫のパンティはどう畳めばいいの? これは紐パン? ついでにTバックってやつも見つけちゃいました。

 そもそも下着類を段ボール箱にそのままって、雑過ぎない? 何枚か重なった状態で落ちていた大きなブラたちを震える手で持ち上げてその下になにやらあるぞ、ってところで凍りついた。

 なんやこれ? 

 今、僕の股間にあるやつより二回りくらいでかい、これは……ディルドっていうやつじゃないのか? そう、以前学校にふざけて持ってきてた奴がいたから、見たことも触ったこともある。でも、あれよりもずっと大きい。亀頭部分だけが肌色であとは焦げ茶色の反り返ったディルド。しかもごろんと生のまま。

 うわ、これって黒人仕様やん! 

 ……沙夜さんの中に一度は入ったかもしれないそのディルドを、死んだゴキブリをティッシュでつまむみたいに、僕は慌てて下着類にくるんで、それごと無造作に箱に詰め込んで、剥がれたテープをパンパンと気休めに叩いて、原状復帰気分で、積み上がった箱の上に置いて、はあ、と大きく息をついた。

 ディルドは、ずしりと重かった。

 そこに玄関のチャイムが鳴った。 

「…………」

 もしかして、沙夜さんきた?

 素晴らし過ぎる! こんなバッドなタイミングで、沙夜さんがやってきたのだ。
 人生とは、おおむね、そんなもんかもしれない。

 だからというわけではないが、まずは落ち着こう! どのみち、この状況は完全に詰んでいると言わざるを得ないんだから。

 まあ、はじけた箱のことは、壊れてはみ出しそうだったのでぇ、なんとか手で押さえて戻しましたぁ、……なんて、なんとでも説明できるような気も、うん、ちょっとしてきた。

 僕は親父の部屋から顔だけ出して、廊下のむこうにある玄関ドアの小窓に映った人影を窺い見た。

 カチャカチャととキーを差し込む音、カチンとロックが解ける乾いた音に続いて、ドアが静かに開いた。……そうか、鍵持ってるんだ。そりゃそうかもね。

 ゴロゴロと大きなスーツケースを引いて、恐る恐る入ってくる女性の影は、思っていたよりも小さかった。

 軽くウエーブのかかったセミロングの髪に、バランスのいい少し広めの肩幅、高い位置にあるくびれたウエストに、膝上丈のタイトスカートか? そこから伸びたきれいな脚、そんな感じのシルエットが、こっちの方を見ている様子だ。

 影になっててよくわからないが、きっと僕と目が合ってる、そう感じた。

「光くん?」

 少しハスキーな艶のある声が、玄関とそれに続く廊下にこだました。

 心臓が高鳴った。

「は、は、はい」

 間抜け丸出しで、廊下に顔だけ突き出したまま、かろうじて言葉を絞り出した。

 頭の中がフワフワしている。

 そして僕はその女性のそばまでつかつかと歩み寄り、スーツケースのハンドルを手に取って持ち上げた。

「親父の部屋で……いいですよね」

 なんとか間抜けな状態を脱した。我ながら素早く動けた。

 そして女性の方を見ることなく歩き出す。

 スーツケースは、それを運ぶ足取りが思わず小股になってしまうくらい重い。かっこつけずに転がせばいい話なのだが、これでいい。重ければ重いほど、さっきの過失が許されるような気がして、その分、心は軽くなる。

「宅配便、先に着いちゃってたのね。待ち受けようと早くきたつもりだったのに」

 部屋に入るなりすぐ背後からの言葉に、ドキッとした。ドタバタと部屋をいきかう男所帯に慣れてしまっているのか、彼女がすぐあとをついてきているのに、まったく気づかなかった。

「もしかして、光くんが運び入れてくださった? それにスーツケースまで……。重かったでしょう。ありがとう」

 僕は彼女の方に向き直りはしたが、目を合わせることができない。

 テンパってるはずなのに、間近にいる彼女の顔から下を、つぶさに観察している自分がいるのが、なんとも不思議な気分だ。

 あったかそうな純白のセーターの下はエンジの、やっぱりタイトスカートだ。セーターはカシミアなのかな、肌触りがよさそうで、首元が肩のあたりまでゆったり開いていて、華奢なネックレスを着けた健康そうな肌色の首元と、つやつやとした鎖骨に思わず見とれてしまう。

「ふふっ、自己紹介がまだね?」

 彼女は少しだけ小首をかしげて、大きな茶色い瞳を柔らかく細めて微笑んだ。

 その笑顔に応えようと、僕はようやく彼女と目を合わせることができた。

「桜木光、です。よろしく……お願いします」

 セーターに放射状の皺をつくるほど隆起した、大きなバストを盗み見る。

「桜木沙夜です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 同じ性を名乗って沙夜さんは少し照れているみたいだった。

 パーカーで手をゴシゴシしてから、カチカチになった右手を差し出す。こんな時はまず、握手……。

 すると沙夜さんは外国の映画みたいに、突然、僕の肩を抱き寄せて、そのままハグをした。

 うひゃあ!

 バストが僕の胸に当たって、横にはみ出したおっぱいが、さらに腕に寄り添うように密着する。

 ひっ!

 下着類の芳香剤とはまた違う、上等な石鹸みたいな香水の香りが鼻をくすぐる。僕の人生にはずっとずっと無縁だった甘美ないい匂いだ。……ああ。

 あまりにもスマートなハグに、僕は腰を引くことができなかった。抱きしめられて確かめられないけど、ジーパンに圧迫されてあんなに痛んだ股間の膨らみは今、どういうことになっているんだろうか。

 さっきは気づかなかったけど、開いたセーターの肩に、くすんだ紫色のブラ紐が覗いていて、すごくエロい。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 そのあと、沙夜さんにこの家の中を一通り案内した。

 飾られたマーメイドの写真の前では、僕の方を見てなにか一言! そんな風な顔をした。

「素敵です」と取り繕うように僕は答えた。

「そう、よかった! 引かれちゃうんじゃないかと、ちょっと心配だったのよ」

 色素薄めな瞳を大きく開いて、沙夜さんは「コロコロ」という感じで、屈託なく笑った。

「まずは、あの段ボール箱を片づけてしまうわ。それから、光くんのお部屋にお邪魔するわね」

 手を一打ちしてからそう言って、沙夜さんは親父の部屋に消えていった。

 ――そして僕は今、自分の部屋のベッドの上でうずくまって、なにもできずに待っている。

 箱の異変にはすぐに気づくに違いない。

 結局、先回りして、言いわけをすることもできなかった。

 片づけのあと、沙夜さんがやってこなければ、アウト! そういうことだ。

 股間の膨らみはすっかりしぼみ、ただただ、震えながら待った。

 三十分ばかり待った頃。ノックされ、ドアのむこうに沙夜さんの声がする。

「光くん。いい?」

「は、はい! 大丈夫です」

「お取り込み中なら、あとにするけど」

 わたしの下着を物色したあげく、こっそりひとつくらい持ち出して、それをオカズにオナニーにふける、厄介な連れ子……。

 そんな風に思われているとすれば、心外過ぎる!

 違いますっ! それは誤解なんです! 急いでドアを開ける。  

「よっ、きたよ!」

 えっ! 思いのほかお気軽な調子。

 髪をうしろで一纏めに縛り、海外スポーツブランドのロゴが胸に入った、ちょっとお洒落目な紫色のジャージ上下、そんな格好に着替えて沙夜さんはやってきた。

「男子高校生の部屋に人生初潜入! すごいね! 綺麗にしてるじゃない」

 そう言って、僕の本棚の前に立ち、しげしげと眺めている。

 体にピタリとフィットした小ぶりなジャージの大きな胸が、自信に満ちた感じで前に張り出している。

「へえ、いろいろ読んでるんだね」と言って、文庫本を一冊手に取りパラパラとページをめくる。

「太宰治、好きなの? 三島由紀夫もあるね」

 このふたりの稀代の天才を僕にもたらしたのは、クラスメイトの吉田よしだだ。日頃からさえないやつだけど、今はちょい感謝の気分だ。

「あれ、どうして服飾辞典があるの?」

 世界の服装のあれこれや、洋服の部分の名称なんかが、五十音順で簡単に調べられる服飾辞典は、洋裁を仕事にしていた死んだ母の持ち物で、つい最近、親父から譲り受けた。

「なんか面白くって、時々見てるんです」

「ファッションに興味あるの?」

「いやいや、そんなお洒落じゃないし、ただ興味本位で、というか……」

「じゃあね……」

 沙夜さんは向き直って、少し挑むように、前屈みで僕の目を見て続ける。

「とりあえず、遊ぶ時間はちゃんと確保されていると前提するわね……」

 ジャージのジッパーが少し開いていて、ボリュームのある胸の谷間が垣間見えた。

「そして、目の前にやらなくちゃいけないことがある。それが、今、学校でやってるような勉強の延長線上のもの、もしくはこういうファッション系の勉強……、だったら、光くんはどっちを選びたい?」

「そういうことなら当然、ファッションの方でしょ」

「じゃあ、今後はそっちの関係に進む? 大学だったらたとえば美術系とか……」

「そんなイージーに、ラクな方選ぶみたいに決めちゃっていいんすか?」

「いいのよそれで。シンプルでしょ! ファッションなんかよりふつうの勉強の方がラクってひとも多いわ。ふふ、わたし自身、けっこうイージーだったの。美術科のある高校に進学して、まわりはみんな美術系の大学を目指していたんたけど、ふとしたきっかけでインドの芸術に興味を持って、そのまま文化にも興味が湧いてきて、あ、これだ、って思った。仲のよかった友人たちは、美術系の大学に進学したあと、大きな企業で企画の仕事に就いたり、えっ、あの子がって子が、東京でスタイリストとして、バリバリ活躍していたりしてるけど、わたしは今大学で文化人類学の講師をしている。不思議よね。でも後悔はないの」

 ふんわりと僕の進路について、話が流れているとは思っていたけど、いきなりこう深いところに触れてくるとは思わなかったから、少々面食らった。

「だって、この本棚見てみなよ。教科書と辞書を除けば、参考書なんてこの三冊ぽっちなのに、わたしも読んでみたい小説がたくさん、サブカル系雑誌そこそこ、写真の本いくつか、……ほら、美術の専門書もここに一冊、ファッションの分析本。女性のファッション大図鑑なんてふつう見ないんじゃない、男子高校生は。……ね、決まりっぽくない?」

 どれも今までに仲よくなった友人から影響を受けて手にした本ばかりだ。結局、日和見な性質ってだけなんだ、僕なんて……。

 そういう僕のことを察したように、沙夜さんは僕の肩をポンと叩いて言った。

「悩め悩め! 思考停止しちゃダメだよ。……ファッションデザイナーになりたい!とか明確なビジョンがあるなら、専門学校って選択肢もあるけど、まだ漠然としてて、わからないんでしょ。だったら、ひとまず美術方面の大学に進んで、そこの空気に四年間どっぷり浸って、いろんな仲間から刺激を受けて、これ、って思えるものに出会うまで、好きなものだけたっぷり吸収する、そんな進路が、今の光くんには合ってるようにわたしは思う。進学校に通って官僚目指してます、ってわけでもないんだから、今の時代、美術系だからって就職に超不利ってこともないと思うし……」

 そう言って、沙夜さんは僕のベッドに勢いよく飛び乗り、壁に背中をついて体育座りの体勢になった。

「うちの学生にもたくさんいるのよ。君はなぜここにいるの?って感じの子たちが。単位が取れさえすればいい。ノートとるふりして、こっそりスマホばかりいじってる子たち。……光くんには、そんな風になって欲しくないわ」

 沙夜さんは、きっと親父から頼まれて、僕を心配してくれている。

「去年の進路についての三者面談で、お父さま、担任の先生に言ったんだって? あとはわたしにまかせてください、って。聞いたわよ。安請け合いしちゃって、あげくに放置……。でも、わたしがここにやってきた。もうひとりにさせない。これからはふたりで歩んでいこう。って、もしかして引いちゃってる、光くん」

「そんなことないです。心配してくださって、感謝してます」

「もう、他人事みたいに言わないの」

 そう言って沙夜さんは、座っているベッドのすぐ左側をポンポンと叩いて……

「ここへおいで」

 そう、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で僕をいざなった。

 僕は魔女に魅入られ、これから魂を吸い取られる者のように、沙夜さんの脇におとなしく座った。

 沙夜さんは僕を抱き寄せ、額に軽く口づけた。

 ひやっ。

 そして軽く息をついてから、僕の耳元で囁いた。

「見たんでしょ?」

 なんのことを言ってるのかはすぐにわかった。そして僕は固まった。石のように。

「見たんだよね?」

「…………はい。見ました」

 沙夜さんはしばらくなにも言わなかった。

 そうさ。僕はヘンタイさ! 沙夜さんから誤解されたままでもいい。ただ、沙夜さんが許してくれさえすれば……。

 長い沈黙のあと、沙夜さんが口を開いた。

「ごめんね、びっくりさせちゃって。箱、落としちゃったんだよね、きっと。角がずいぶんとつぶれてたから、すぐにわかったわ。……迂闊だった。ほんと、ごめん。…………こんなわたしでも、光くんのお母さんに……なれるのかな?」

 僕はなにも答えられなかった。沙夜さんを心ならずも傷つけてしまった。そんな罪悪感のようなものだけが、じんわり押し寄せてきた。

 不安から張り詰めていた心がふっと切れて、僕はその場で、泣き出してしまった。やっとのことで親に引き合わされた迷子の幼児のように。

「長いあいだ、お父さまの奥さん代わりに、いろいろ頑張ってきたんだよね。この部屋に入ってすぐに理解したわ。お父さまの部屋の本棚もクローゼットも、光くんが片づけてくれたんでしょ……お父さまってあんなひとじゃない。想像できるよ」

 そう言って沙夜さんは僕を、包むように抱きしめてくれた。

 ジャージの中の大きな胸がつぶれて僕を激しく圧迫したけれど、もういやらしい気持ちにはならなかった。

「もういいの。あとはわたしが替わってあげる。……だからね、そう、男でしょ、もう泣かないの」


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 沙夜さんが僕の部屋を出る前、本棚から一冊の文庫本を抜き出して聞いた。

「これ貸してくれない『午後の曳航』。読んでみたくなった。持ち出さずに家で読むから、いいでしょ?」

 そして、また耳元で囁いた。

「ひとまず、あのことは保留で。……ねっ」

 つかまれた腕が痛い。

 ……親子の関係と、そして幾ばくかの秘密を共有した男女の関係。沙夜さんと出会って、一時間も経たないうちに、そんな二つの関係を築いてしまった。

 しかも、保留ってなに? 落ち着いたら、その先に進みましょう、ってこと。そんなことを思ったら、心臓がまたドキドキしてきた。

 僕はきょう初めての自慰をした。ネットもビデオも観ずにただひたすら。沙夜さんの胸の感触と香水以外のなにか、女の匂いみたいなのを思い起こして、ペニスを勢いよくしごいた。
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