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伍ノ章
徳棻、役割を貫徹す(貞観二十(六四六)年、九月)
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「本当にこれでよろしいのですか?」
劉陽は巻一、宣帝紀の記述を示しながら、令狐徳棻に執拗に喰い下がっていた。
『帝内忌而外寛、猜忌多權變。魏武察帝有雄豪志、聞有狼顧相、欲驗之。乃召使前行、令反顧,面正向後而身不動。』
(意訳)
『宣帝(司馬懿)は外に向けては心の広い人物であるかのように見せかけていたが、その内面は非常に猜疑心が強く、権謀を巡らすことの多い人物だった。魏の武帝(曹操)は、司馬懿が天下に号令する気概を持った人物であることを察しており、「狼顧の相」(首を一八〇度回転させることが可能)であると聞き、これを試してやろうと思った。そこで、宮中に召し出して前を向いて歩かせ、急に振り向かせたところ、身体は正面を向いたまま動くことなく、首だけを完全に後ろに向けていた』
「よいか、白雅。本来『狼顧の相』というのは『狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと』を云うのじゃ」
だから魏の武帝は、そんな性格である司馬懿(宣帝)を『雄豪の志』を持つ者と察して、これを試してやろうと考えても、なんの不思議もない。そう噛んで含めるように、徳棻は劉陽を諭す。
「それは判ります。ですが、……」
当然の如く、劉陽は反駁する。
「続く記述を見てください。『狼顧の相』であることを確かめるために、『前を向いたまま振り向かせた』ところ、『首だけが完全に後向きに捻じれてしまった』んですよ。これでは完全に怪異譚じゃありませんか⁉」
劉陽はもう自棄になっていた。これまで幾度となく談判しても一向に糠に釘で、執筆した上官儀になんの修正指示もしようとしない徳棻だ。これ以上どう云っても無駄かと半ば諦めてはいるものも、こんな奇天烈な記述を見過ごすことなど到底できなかった。
(なにしろこの巻は、陛下が論讚を書かれるのだ。こんなものをお見せして良い訳がない)
直接の執筆者でも、校正責任者でもないのだから、劉陽はある意味、無責任な立場ではある。しかし、だからと云って、儒学の教えを専らとしてきた身としては、どうしてもこんな荒唐無稽な記述は生理的に受け付けられないのだ。
けれど、そんな劉陽をまるで小馬鹿にするように、わざとらしいほど大袈裟に肩を竦めてみせると、徳棻はこんなふうに脅しをかけてくる。
「じゃがのう、陛下はいますぐにでも論讚に取り掛かりたいと、首を長くして待っておられるのじゃぞ。その陛下の御前に罷り出て、『記述に納得できない部分がございますので、どうかもう暫くお待ちくださいませ』、とでも申すつもりか?なんとも畏れ多いことよ」
どうも徳棻は、自分の息子よりも年若な劉陽が真剣になればなるほど、それを面白がっているようだ。さらに、最後にはとどめまで刺してくる。
「それに、もしも記述された内容に陛下がお怒りになるとしても、その矛先が向けられるのはお主ではあるまい」
この儂じゃと、徳棻は黄ばんだ歯をみせて嗤う。それを聞いて劉陽は、全身の力が抜け、我知らず大きな溜息をついた。
(監修責任者として、令狐卿がここまで仰っているのだ。これ以上、私如き者では何も云えないではないか⁉)
内心、腸が煮えくり返りそうな思いはあるものの、劉陽としては諦めざるを得ない。後で李義府に愚痴るぐらいが関の山である。
「判りました。それではこのまま秘書省に提出しておきます」
そう吐き捨てると、露骨に肩を落としながら劉陽は帰っていく。
(やれやれ、……)
己が視界から彼の姿が完全に消えたのを確認してから、徳棻はようやく文机から腰を上げた。房内をゆっくりと歩き回り、腰の調子を整える。この歳では、文机の前に長時間座っているのも相当にきつい。鈍い痛みのあるあたりを、徳棻は己の拳で優しく叩いた。
(あの生真面目そうな若いのには、少々可哀そうじゃったかな?)
おそらく今宵は、怒りにまかせて酒でも飲まなければ、眠ることもできないだろう。
しかし、あれで良いのだ。奇妙な記述が目立てば目立つほど、本当に触れられたくない部分には注意が向かなくなってしまうものだ。しかし、やりすぎてしまっても襤褸は出る。このあたりの匙加減をどうするか、令狐徳棻は悩みながらも、半分楽しんでいた。
けれど、いまになってこんなふうに頭を悩ませることができるのも、
(玄齢のお蔭だな)
と、いまは病床に臥せている旧知の顔を、令狐徳棻は懐かしく思い浮かべていた。
六十の齢も越えてしまったいま、朝廷の表舞台に返り咲くには、間違いなくこれが最後の機会となるだろう。絶対に失敗は許されない。
(今回の『晋書』編纂の目的は、……)
史書として、『晋』王朝の正確な歴史を残すことなどではない。実は、『唐』の皇室が隴西李氏の末であることを天下に公言し、明確な記録として世に出せさえすれば、それでいいのだ。
この『晋書』にそうした役割が課されていることを、執筆担当者のなかでも、果たして何人の者が気づいているだろうか。いや、薄々察している者はいるかもしれない。だが徳棻は、その役割の責任と見返りは、すべて己一人の手に握りたい、そんな欲に駆られている。
(陛下から褒賞をいただくのは、この儂だけよ)
そのためなら、史家からの悪評などいくらでも受けてやる。だが、真の目的があからさまになってしまうことだけは、やはり避けたい。
(だから、布石も打ってきた)
まずは、今回の編纂作業に関係する者を極力多くしたことだ。監修責任者も自分一人ではなく、李延寿にもその役割を振ってある。こうしておけば、最終的に整合性の取れない部分や記述が残ったとしても、責任の所在は曖昧になる。
(さらに、雑書の類も史料として参照、引用できるようにした)
それにより今回の『晋書』は、従来の正史とはかなり毛色の異なるものとなるはずだ。摩訶不思議な記述が、随所に散りばめられることになるだろう。
学術的にはどうかと思う。しかし、これで『晋書』編纂の本当の目的は、ある程度覆い隠せるはずだ。
(ともかく、もう一花咲かせたいものよ)
老いの執念がその思いを掻き立てている。五品官以上の地位を得て、役人生活を終えることができるかどうか。それによって、息子らを初めとして、一族の人生もまた、大きく変わってくるのだから。徳棻は浮き沈みの激しすぎた己の半生を思い返していた。
『隋』朝の末年、新たに『唐』を建国した高祖に仕え、起居舎人(※一)に任じられたのが、本格的な役人生活の始まりである。次いで、武徳五(六二二)年に秘書丞(※二)に転じ、陳叔達や欧陽詢らとともに『芸文類聚』(※三)の編纂にあたるなど、主に文化事業を担当する高祖の側近として、それなりの立場を確立することはできた。
そして、その流れのまま、学問好きないまの主上の御代となり、その即位を祝する書を購募することを宣言し、その賞として金銭や帛を与えると天下に布告したところ、
「宏文殿に四部の書を聚め、その群書は二十余万巻」
と称される、大いなる成果を得ることに成功する。これが自分の人生にとって、
(まず一番最初の名誉だった)
その後、岑文本らとともに『周書』の編纂を命じられ、貞観六(六三二)年には礼部侍郎・兼修国史、彭陽県男の爵位を受けるなど昇進は順調だったのだ。なのに、
(最初に躓いたのは、「貞観氏族志」の編纂に加わったことだったか、……)
これは、主上肝煎りの事業で、天下の百姓の家柄すべてに等級をほどこし、その秩序を広く世に知らしめようというもので、当時、吏部尚書だった高士廉、門下侍郎の韋挺、中書侍郎を拝命していた岑文本らとともに、編纂の命が儂にも下されたのだ。
その目的は云わずもがなだろう。それまで本朝で何百年にもわたって培われてきた貴族主義的風潮に終止符を打ち、現在の朝廷内での地位や官品を基準として、いまの時代に見合った新たな社会秩序を高らかに宣言しようとしたのだ。
(当然、その最上位には皇室が置かれ、次いで外戚、勲臣らが続く。主上はそう考えておられたはずだ)
ところが儂らは、その意図を十分に汲み取ることができなかった。
(いや、それは正確ではないか、……)
決して主上のお考えが理解できていなかったわけではない。しかし、儂だけでなく、韋挺や岑文本、さらには高士廉ですら、当時、朝廷内に蔓延していた空気のようなものに抗することが簡単ではなかったのだ。それは主上の御意向よりもさらに重く、儂らの肩にのしかかってきた。
(だが、仮にそうだったとしても、あれは拙かった!?)
いま思いだしてみても、冷や汗が出る。あろうことか儂らは、主上があえて下位に貶めようと目論んでいた山東の名族の筆頭、崔民幹を「第一等」に、最初の取りまとめでは位置づけてしまったのだから。
主上が激怒されたのは、云うまでもない。儂らは改めて再編纂を命じられ、主上の意に沿えるものに改めることができるまで、なんと五年もの年月を要してしまったのだ。これが儂にとって、第一の挫折となった。
(まあ、しかし、若いうちの過ちは、まだなんとか取り返しがつく)
この失敗を糧にして、今度は別の場面で、儂は主上の歓心を取り戻すことになんとか成功した。それは『周書』の編纂に際して、ちょっとした忖度を働かせた賜物でもある。儂のやったことと云えば、平たく云うなら歴史の改竄、具体的には皇室の祖先にあたる李文彬(李虎の字)公の地位を嵩上げすることだった。
当時、公は『(西)魏』朝において、「柱国大将軍」の称号を擁する地位におられたのだが、この時期、「柱国大将軍」の称号を持つ者は、後に『(北)周』を興すことになる宇文泰を筆頭に八人存在し、俗に「八柱国」(※四)と称されていた。そして、問題なのはその序列である。
実際のところ、当時の公の地位は、
(七番目だったのではないか?)
そう儂は考えている。そして、その根拠は、宇文泰が政権を握った後に官制改革を行い、『周礼』に則った最高指導者の官職として「六卿」(※五)を設置しているのだが、「八柱国」のなかで侯莫陳崇と公のみがそこから洩れていることだ。
だが、それにはあえて目を瞑り、儂は公を序列第二位として記すことに、まったく躊躇わなかった。さすがに宇文泰より上位に据えることは無理だったが、本来なら公よりも上位であったと思われる于謹に、その後塵を拝させることにも一切迷わなかったのだ。この于謹という将軍は、旧知の仲である于志寧の祖にあたる人物であったにも関わらず、である。
そのことで、于志寧から直接抗議されるようなことはなかったが、
(実際のところ、相当根に持っていたのではないか?)
儂はいまでもそう思っている。
そうでなければ、儂がこの改竄に手を染めていた丁度同じ頃、今回の『晋書』で重要な意味を持っている皇室の遠祖、『(西)涼』の太祖、武昭王を皇祖七廟に祀ることを房玄齢らが建議するということがあった際、于志寧だけがこれに強硬に反対し、ついにその実現を阻んだことの説明がつかない。
『隋』・『唐』の御代で高位を占める官僚層は、その大半が鮮卑拓跋氏の血を引くか、武川鎮軍閥の流れを汲む者たちだ。己の家系について、皇室と比較して劣っていると考えている者など、ほとんどいない。于志寧にしてみれば、人の祖先を勝手に貶めておきながら、根拠も定かならぬ皇室の系譜だけは飾り立てようとする主上に対して、ちょっとした意趣返しをしてみせたというところだろう。主上もそれが判っていたからこそ、罰が悪く、自分の意向を強引に押し通すことができなかったのだ。
まあ、そうした多少の波風はあったとしてもだ、この細やかな心遣いによって、儂は再度、主上の信頼を勝ち取ることに成功した。
(この頃が一番順風だったかな)
自分で云うのもなんだが、文化・学術事業なら自分の範疇だが、政治的な駆け引きはあまり得手ではない。この時期、そんな自分が廟堂で安定した地位を保てていたのも、主上の信を得ていたことはもちろんだが、長孫無忌という有力者と円滑な関係を築けていたことが、ある意味大きかったと、いまにすれば思う。寄らば大樹の陰で、彼の庇護の下、儂は無事・穏便に、朝廷内を生き抜くことができたのだ。
(もっとも、お互い様だった部分もあるか)
儂だって、あの男のために一肌脱いでやったこともある。そのお蔭で、無忌も外戚の地位から転げ落ちるかもしれない危機を免れることがあったのも事実だ。
こうした安穏な日々がいつまでも続くと、儂は勝手に思いこんでいたのだ。だが、それにも限界はあった。次の転機は貞観十五(六四一)年、太子右庶子(※六)に任じられるという、思わぬ形で訪れた。平常時であれば、この異動は「名誉な」ことと、素直に喜んだことだろう。しかし、当時の儂にしてみれば、
(これは懲罰か⁉)
内心、恐懼したことを憶えている。
それというのも、この頃、皇太子の奇矯・放埓ぶりは半ば公然の秘密となっていたからだ。自分を諫めるような者があれば、それが于志寧や張玄素といった主上自らが選んでつけてくれた重臣であっても、秘かに暗殺を謀ろうとしたなど、信じられない噂まで流れていた。
(そんな皇太子に仕えて、一体儂になにがでできるというのだ)
主上も本心では、もう見放していたのだろう。だが、魏徴のように、数は少ないが、嫡長子を皇太子から外すべきではないと強硬に唱える者もおり、そういった者たちへ体裁を取り繕う意味からでも、最後まで努力は尽くした、そう見せる必要があったのだ。結局、儂もそのための生贄だったというわけだ。
(けれど、事態はもう行きつくところまで行きついていた)
皇太子の周りには、漢王李元昌や侯君集、李安儼といった現体制への不満分子が集まり、廃太子事件は起こるべくして起きてしまったと云ってよい。
もちろん儂は、この件にまったく関与していない。しかし同時に、それを防ぐための努力をまるでしなかったことも事実だ。それで職責を果たさなかったとされて、職を免じられたうえに、官爵まで剥奪されるという憂き目にあってしまったのだ。
(あのときは、さすがの儂もまいった)
これが第二の挫折となったわけだが、齢を重ねるほど、起き上がるのに時間はかかる。おまけに、こうなると悪いことは重なるもので、翌年、地方官ではあるが、雅州刺史に起用されたものの、今度は治所内の属官が起こした収賄事件の責任を問われ、再び免官されてしまった。
(儂の役人人生もここまでか⁉)
今度こそさすがに気持ちが萎えて、真剣に隠遁生活を始めようとしていた矢先に、玄齢からの書状が届いたのだ。それが『晋書』の編纂に参画してほしいという内容であり、その真の目的もしたためられていた。
(これなら儂にもできる)
主上の思惑が絡んだ訳ありの代物と知りながら、すぐに飛びついてしまったのは、まだ俗世への執着が残っていたからかと、自分でも浅ましく思わぬでもない。しかし、一旦縋った藁しべを、いまさら離すつもりは毛頭ない。後は己に望まれている役割を果たしきるだけだ。
(西涼王からの系譜をいかにうまく皇室へとつなげるか、……)
これが究極の命題だ。
これまでも西涼王(李暠)は皇室の遠祖として扱われていたが、それを今回は、国家が認定する史書のなかで公式に記録されることになる。たが、そのためには、ちょっとした工夫が必要だ。
(西涼王から李文彬公の間を埋めるために、西涼王の世子である歆(後主)の子、重耳を南朝の『(劉)宋』に一旦亡命させ、その後で、改めて北朝側に移り、官職を得たという事実を作らなければならない)
そうすれば、その子孫として、「李煕―李天賜―李虎」へとつながる系譜には、なんの矛盾もなくなる。最初の基本方針を定めるにあたって、『(西)涼』の事蹟は「載記」にと、李延寿がどこまでもこだわった際、その流れでそこは自分が担当すると云い出さないかと、内心冷や汗をかく思いだったが、なんとか儂が執筆を担当することで収まったのには、心底安堵した。
(もし李主簿に筆を執られてしまっては、とてもこのような細工はできないからな)
なにしろ、今回史料として参照している『魏書』巻九十九「私署涼王李暠伝」では、そもそも李重耳が南朝に逃れたことなど記載されていない。また、伝世の『十六国春秋纂録』巻六「西凉録」にも、このような事実は載せられていないのだから。
そこは既にうまく事実を埋めてある。しかし、だからと云って、『晋書』が正式に国の文庫に納められるまでは、決して油断してはならない。
(その最後の瞬間まで、儂は己の役割を果たしきるだけよ)
気が付くと、もう日は暮れかけている。
「燭台をお持ちしました」
秘書省の下役の姿を目にして、徳棻はようやく自分が空腹であることを思い出していた。
【注】
※一 「起居舎人」
中書省に属し、皇帝の側近として仕え、その言行を記録する官職。官品は「従六品上」
※二 「秘書丞」
宮中の図書・典籍を所管する秘書省の属僚。官品は「従五品上」
※三 『芸文類聚』
四大類書の一つ。「類書」とは、あらゆる単語について、その用例を過去の典籍から引用したうえで、それらの単語を「天地人」・「草木鳥獣」などの分類順、または字韻順に配列して検索できるようにした百科事典のようなもの
※四 「八柱国」
『(西)魏』において柱国大将軍に任じられた八名の将軍を云う。その筆頭である宇文泰が次の『(北)周』を建て、他の七名の多くが建国の功臣として扱われた。
(『周書』に記載される「八柱国」の序列)
【八柱国】
①使持節・総百揆・柱国大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・安定郡開国
公 宇文泰
②使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行台・少師・隴西郡開国
公 李虎
③使持節・太傅・柱国大将軍・大宗師・大司徒・広陵王 元欣
④使持節・太保・柱国大将軍・大都督・大宗伯・趙郡開国公 李弼
⑤使持節・柱国大将軍・大都督・大司馬・河内郡開国公 独孤信
⑥使持節・柱国大将軍・大都督・大司寇・南陽郡開国公 趙貴
⑦使持節・柱国大将軍・大都督・大司空・常山郡開国公 于謹
⑧使持節・柱国大将軍・大都督・少傅・彭城郡開国公 侯莫陳崇
※五 「六卿」
本来は、『周礼』に記された『(西)周』王朝の行政組織における六名の最高官の
ことを指す。宇文泰はこれに倣い、「大宰(天官)」・「大司徒(地官)」・「大宗
伯(春官)」・「大司馬(夏官)」・「大「司寇(秋官)」・「大司空(冬官)」の
「六卿」を置いた
※六 「太子右庶子」
皇太子の東宮府の右春坊を所管し、皇帝の侍中・中書令に擬せられる官職
劉陽は巻一、宣帝紀の記述を示しながら、令狐徳棻に執拗に喰い下がっていた。
『帝内忌而外寛、猜忌多權變。魏武察帝有雄豪志、聞有狼顧相、欲驗之。乃召使前行、令反顧,面正向後而身不動。』
(意訳)
『宣帝(司馬懿)は外に向けては心の広い人物であるかのように見せかけていたが、その内面は非常に猜疑心が強く、権謀を巡らすことの多い人物だった。魏の武帝(曹操)は、司馬懿が天下に号令する気概を持った人物であることを察しており、「狼顧の相」(首を一八〇度回転させることが可能)であると聞き、これを試してやろうと思った。そこで、宮中に召し出して前を向いて歩かせ、急に振り向かせたところ、身体は正面を向いたまま動くことなく、首だけを完全に後ろに向けていた』
「よいか、白雅。本来『狼顧の相』というのは『狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと』を云うのじゃ」
だから魏の武帝は、そんな性格である司馬懿(宣帝)を『雄豪の志』を持つ者と察して、これを試してやろうと考えても、なんの不思議もない。そう噛んで含めるように、徳棻は劉陽を諭す。
「それは判ります。ですが、……」
当然の如く、劉陽は反駁する。
「続く記述を見てください。『狼顧の相』であることを確かめるために、『前を向いたまま振り向かせた』ところ、『首だけが完全に後向きに捻じれてしまった』んですよ。これでは完全に怪異譚じゃありませんか⁉」
劉陽はもう自棄になっていた。これまで幾度となく談判しても一向に糠に釘で、執筆した上官儀になんの修正指示もしようとしない徳棻だ。これ以上どう云っても無駄かと半ば諦めてはいるものも、こんな奇天烈な記述を見過ごすことなど到底できなかった。
(なにしろこの巻は、陛下が論讚を書かれるのだ。こんなものをお見せして良い訳がない)
直接の執筆者でも、校正責任者でもないのだから、劉陽はある意味、無責任な立場ではある。しかし、だからと云って、儒学の教えを専らとしてきた身としては、どうしてもこんな荒唐無稽な記述は生理的に受け付けられないのだ。
けれど、そんな劉陽をまるで小馬鹿にするように、わざとらしいほど大袈裟に肩を竦めてみせると、徳棻はこんなふうに脅しをかけてくる。
「じゃがのう、陛下はいますぐにでも論讚に取り掛かりたいと、首を長くして待っておられるのじゃぞ。その陛下の御前に罷り出て、『記述に納得できない部分がございますので、どうかもう暫くお待ちくださいませ』、とでも申すつもりか?なんとも畏れ多いことよ」
どうも徳棻は、自分の息子よりも年若な劉陽が真剣になればなるほど、それを面白がっているようだ。さらに、最後にはとどめまで刺してくる。
「それに、もしも記述された内容に陛下がお怒りになるとしても、その矛先が向けられるのはお主ではあるまい」
この儂じゃと、徳棻は黄ばんだ歯をみせて嗤う。それを聞いて劉陽は、全身の力が抜け、我知らず大きな溜息をついた。
(監修責任者として、令狐卿がここまで仰っているのだ。これ以上、私如き者では何も云えないではないか⁉)
内心、腸が煮えくり返りそうな思いはあるものの、劉陽としては諦めざるを得ない。後で李義府に愚痴るぐらいが関の山である。
「判りました。それではこのまま秘書省に提出しておきます」
そう吐き捨てると、露骨に肩を落としながら劉陽は帰っていく。
(やれやれ、……)
己が視界から彼の姿が完全に消えたのを確認してから、徳棻はようやく文机から腰を上げた。房内をゆっくりと歩き回り、腰の調子を整える。この歳では、文机の前に長時間座っているのも相当にきつい。鈍い痛みのあるあたりを、徳棻は己の拳で優しく叩いた。
(あの生真面目そうな若いのには、少々可哀そうじゃったかな?)
おそらく今宵は、怒りにまかせて酒でも飲まなければ、眠ることもできないだろう。
しかし、あれで良いのだ。奇妙な記述が目立てば目立つほど、本当に触れられたくない部分には注意が向かなくなってしまうものだ。しかし、やりすぎてしまっても襤褸は出る。このあたりの匙加減をどうするか、令狐徳棻は悩みながらも、半分楽しんでいた。
けれど、いまになってこんなふうに頭を悩ませることができるのも、
(玄齢のお蔭だな)
と、いまは病床に臥せている旧知の顔を、令狐徳棻は懐かしく思い浮かべていた。
六十の齢も越えてしまったいま、朝廷の表舞台に返り咲くには、間違いなくこれが最後の機会となるだろう。絶対に失敗は許されない。
(今回の『晋書』編纂の目的は、……)
史書として、『晋』王朝の正確な歴史を残すことなどではない。実は、『唐』の皇室が隴西李氏の末であることを天下に公言し、明確な記録として世に出せさえすれば、それでいいのだ。
この『晋書』にそうした役割が課されていることを、執筆担当者のなかでも、果たして何人の者が気づいているだろうか。いや、薄々察している者はいるかもしれない。だが徳棻は、その役割の責任と見返りは、すべて己一人の手に握りたい、そんな欲に駆られている。
(陛下から褒賞をいただくのは、この儂だけよ)
そのためなら、史家からの悪評などいくらでも受けてやる。だが、真の目的があからさまになってしまうことだけは、やはり避けたい。
(だから、布石も打ってきた)
まずは、今回の編纂作業に関係する者を極力多くしたことだ。監修責任者も自分一人ではなく、李延寿にもその役割を振ってある。こうしておけば、最終的に整合性の取れない部分や記述が残ったとしても、責任の所在は曖昧になる。
(さらに、雑書の類も史料として参照、引用できるようにした)
それにより今回の『晋書』は、従来の正史とはかなり毛色の異なるものとなるはずだ。摩訶不思議な記述が、随所に散りばめられることになるだろう。
学術的にはどうかと思う。しかし、これで『晋書』編纂の本当の目的は、ある程度覆い隠せるはずだ。
(ともかく、もう一花咲かせたいものよ)
老いの執念がその思いを掻き立てている。五品官以上の地位を得て、役人生活を終えることができるかどうか。それによって、息子らを初めとして、一族の人生もまた、大きく変わってくるのだから。徳棻は浮き沈みの激しすぎた己の半生を思い返していた。
『隋』朝の末年、新たに『唐』を建国した高祖に仕え、起居舎人(※一)に任じられたのが、本格的な役人生活の始まりである。次いで、武徳五(六二二)年に秘書丞(※二)に転じ、陳叔達や欧陽詢らとともに『芸文類聚』(※三)の編纂にあたるなど、主に文化事業を担当する高祖の側近として、それなりの立場を確立することはできた。
そして、その流れのまま、学問好きないまの主上の御代となり、その即位を祝する書を購募することを宣言し、その賞として金銭や帛を与えると天下に布告したところ、
「宏文殿に四部の書を聚め、その群書は二十余万巻」
と称される、大いなる成果を得ることに成功する。これが自分の人生にとって、
(まず一番最初の名誉だった)
その後、岑文本らとともに『周書』の編纂を命じられ、貞観六(六三二)年には礼部侍郎・兼修国史、彭陽県男の爵位を受けるなど昇進は順調だったのだ。なのに、
(最初に躓いたのは、「貞観氏族志」の編纂に加わったことだったか、……)
これは、主上肝煎りの事業で、天下の百姓の家柄すべてに等級をほどこし、その秩序を広く世に知らしめようというもので、当時、吏部尚書だった高士廉、門下侍郎の韋挺、中書侍郎を拝命していた岑文本らとともに、編纂の命が儂にも下されたのだ。
その目的は云わずもがなだろう。それまで本朝で何百年にもわたって培われてきた貴族主義的風潮に終止符を打ち、現在の朝廷内での地位や官品を基準として、いまの時代に見合った新たな社会秩序を高らかに宣言しようとしたのだ。
(当然、その最上位には皇室が置かれ、次いで外戚、勲臣らが続く。主上はそう考えておられたはずだ)
ところが儂らは、その意図を十分に汲み取ることができなかった。
(いや、それは正確ではないか、……)
決して主上のお考えが理解できていなかったわけではない。しかし、儂だけでなく、韋挺や岑文本、さらには高士廉ですら、当時、朝廷内に蔓延していた空気のようなものに抗することが簡単ではなかったのだ。それは主上の御意向よりもさらに重く、儂らの肩にのしかかってきた。
(だが、仮にそうだったとしても、あれは拙かった!?)
いま思いだしてみても、冷や汗が出る。あろうことか儂らは、主上があえて下位に貶めようと目論んでいた山東の名族の筆頭、崔民幹を「第一等」に、最初の取りまとめでは位置づけてしまったのだから。
主上が激怒されたのは、云うまでもない。儂らは改めて再編纂を命じられ、主上の意に沿えるものに改めることができるまで、なんと五年もの年月を要してしまったのだ。これが儂にとって、第一の挫折となった。
(まあ、しかし、若いうちの過ちは、まだなんとか取り返しがつく)
この失敗を糧にして、今度は別の場面で、儂は主上の歓心を取り戻すことになんとか成功した。それは『周書』の編纂に際して、ちょっとした忖度を働かせた賜物でもある。儂のやったことと云えば、平たく云うなら歴史の改竄、具体的には皇室の祖先にあたる李文彬(李虎の字)公の地位を嵩上げすることだった。
当時、公は『(西)魏』朝において、「柱国大将軍」の称号を擁する地位におられたのだが、この時期、「柱国大将軍」の称号を持つ者は、後に『(北)周』を興すことになる宇文泰を筆頭に八人存在し、俗に「八柱国」(※四)と称されていた。そして、問題なのはその序列である。
実際のところ、当時の公の地位は、
(七番目だったのではないか?)
そう儂は考えている。そして、その根拠は、宇文泰が政権を握った後に官制改革を行い、『周礼』に則った最高指導者の官職として「六卿」(※五)を設置しているのだが、「八柱国」のなかで侯莫陳崇と公のみがそこから洩れていることだ。
だが、それにはあえて目を瞑り、儂は公を序列第二位として記すことに、まったく躊躇わなかった。さすがに宇文泰より上位に据えることは無理だったが、本来なら公よりも上位であったと思われる于謹に、その後塵を拝させることにも一切迷わなかったのだ。この于謹という将軍は、旧知の仲である于志寧の祖にあたる人物であったにも関わらず、である。
そのことで、于志寧から直接抗議されるようなことはなかったが、
(実際のところ、相当根に持っていたのではないか?)
儂はいまでもそう思っている。
そうでなければ、儂がこの改竄に手を染めていた丁度同じ頃、今回の『晋書』で重要な意味を持っている皇室の遠祖、『(西)涼』の太祖、武昭王を皇祖七廟に祀ることを房玄齢らが建議するということがあった際、于志寧だけがこれに強硬に反対し、ついにその実現を阻んだことの説明がつかない。
『隋』・『唐』の御代で高位を占める官僚層は、その大半が鮮卑拓跋氏の血を引くか、武川鎮軍閥の流れを汲む者たちだ。己の家系について、皇室と比較して劣っていると考えている者など、ほとんどいない。于志寧にしてみれば、人の祖先を勝手に貶めておきながら、根拠も定かならぬ皇室の系譜だけは飾り立てようとする主上に対して、ちょっとした意趣返しをしてみせたというところだろう。主上もそれが判っていたからこそ、罰が悪く、自分の意向を強引に押し通すことができなかったのだ。
まあ、そうした多少の波風はあったとしてもだ、この細やかな心遣いによって、儂は再度、主上の信頼を勝ち取ることに成功した。
(この頃が一番順風だったかな)
自分で云うのもなんだが、文化・学術事業なら自分の範疇だが、政治的な駆け引きはあまり得手ではない。この時期、そんな自分が廟堂で安定した地位を保てていたのも、主上の信を得ていたことはもちろんだが、長孫無忌という有力者と円滑な関係を築けていたことが、ある意味大きかったと、いまにすれば思う。寄らば大樹の陰で、彼の庇護の下、儂は無事・穏便に、朝廷内を生き抜くことができたのだ。
(もっとも、お互い様だった部分もあるか)
儂だって、あの男のために一肌脱いでやったこともある。そのお蔭で、無忌も外戚の地位から転げ落ちるかもしれない危機を免れることがあったのも事実だ。
こうした安穏な日々がいつまでも続くと、儂は勝手に思いこんでいたのだ。だが、それにも限界はあった。次の転機は貞観十五(六四一)年、太子右庶子(※六)に任じられるという、思わぬ形で訪れた。平常時であれば、この異動は「名誉な」ことと、素直に喜んだことだろう。しかし、当時の儂にしてみれば、
(これは懲罰か⁉)
内心、恐懼したことを憶えている。
それというのも、この頃、皇太子の奇矯・放埓ぶりは半ば公然の秘密となっていたからだ。自分を諫めるような者があれば、それが于志寧や張玄素といった主上自らが選んでつけてくれた重臣であっても、秘かに暗殺を謀ろうとしたなど、信じられない噂まで流れていた。
(そんな皇太子に仕えて、一体儂になにがでできるというのだ)
主上も本心では、もう見放していたのだろう。だが、魏徴のように、数は少ないが、嫡長子を皇太子から外すべきではないと強硬に唱える者もおり、そういった者たちへ体裁を取り繕う意味からでも、最後まで努力は尽くした、そう見せる必要があったのだ。結局、儂もそのための生贄だったというわけだ。
(けれど、事態はもう行きつくところまで行きついていた)
皇太子の周りには、漢王李元昌や侯君集、李安儼といった現体制への不満分子が集まり、廃太子事件は起こるべくして起きてしまったと云ってよい。
もちろん儂は、この件にまったく関与していない。しかし同時に、それを防ぐための努力をまるでしなかったことも事実だ。それで職責を果たさなかったとされて、職を免じられたうえに、官爵まで剥奪されるという憂き目にあってしまったのだ。
(あのときは、さすがの儂もまいった)
これが第二の挫折となったわけだが、齢を重ねるほど、起き上がるのに時間はかかる。おまけに、こうなると悪いことは重なるもので、翌年、地方官ではあるが、雅州刺史に起用されたものの、今度は治所内の属官が起こした収賄事件の責任を問われ、再び免官されてしまった。
(儂の役人人生もここまでか⁉)
今度こそさすがに気持ちが萎えて、真剣に隠遁生活を始めようとしていた矢先に、玄齢からの書状が届いたのだ。それが『晋書』の編纂に参画してほしいという内容であり、その真の目的もしたためられていた。
(これなら儂にもできる)
主上の思惑が絡んだ訳ありの代物と知りながら、すぐに飛びついてしまったのは、まだ俗世への執着が残っていたからかと、自分でも浅ましく思わぬでもない。しかし、一旦縋った藁しべを、いまさら離すつもりは毛頭ない。後は己に望まれている役割を果たしきるだけだ。
(西涼王からの系譜をいかにうまく皇室へとつなげるか、……)
これが究極の命題だ。
これまでも西涼王(李暠)は皇室の遠祖として扱われていたが、それを今回は、国家が認定する史書のなかで公式に記録されることになる。たが、そのためには、ちょっとした工夫が必要だ。
(西涼王から李文彬公の間を埋めるために、西涼王の世子である歆(後主)の子、重耳を南朝の『(劉)宋』に一旦亡命させ、その後で、改めて北朝側に移り、官職を得たという事実を作らなければならない)
そうすれば、その子孫として、「李煕―李天賜―李虎」へとつながる系譜には、なんの矛盾もなくなる。最初の基本方針を定めるにあたって、『(西)涼』の事蹟は「載記」にと、李延寿がどこまでもこだわった際、その流れでそこは自分が担当すると云い出さないかと、内心冷や汗をかく思いだったが、なんとか儂が執筆を担当することで収まったのには、心底安堵した。
(もし李主簿に筆を執られてしまっては、とてもこのような細工はできないからな)
なにしろ、今回史料として参照している『魏書』巻九十九「私署涼王李暠伝」では、そもそも李重耳が南朝に逃れたことなど記載されていない。また、伝世の『十六国春秋纂録』巻六「西凉録」にも、このような事実は載せられていないのだから。
そこは既にうまく事実を埋めてある。しかし、だからと云って、『晋書』が正式に国の文庫に納められるまでは、決して油断してはならない。
(その最後の瞬間まで、儂は己の役割を果たしきるだけよ)
気が付くと、もう日は暮れかけている。
「燭台をお持ちしました」
秘書省の下役の姿を目にして、徳棻はようやく自分が空腹であることを思い出していた。
【注】
※一 「起居舎人」
中書省に属し、皇帝の側近として仕え、その言行を記録する官職。官品は「従六品上」
※二 「秘書丞」
宮中の図書・典籍を所管する秘書省の属僚。官品は「従五品上」
※三 『芸文類聚』
四大類書の一つ。「類書」とは、あらゆる単語について、その用例を過去の典籍から引用したうえで、それらの単語を「天地人」・「草木鳥獣」などの分類順、または字韻順に配列して検索できるようにした百科事典のようなもの
※四 「八柱国」
『(西)魏』において柱国大将軍に任じられた八名の将軍を云う。その筆頭である宇文泰が次の『(北)周』を建て、他の七名の多くが建国の功臣として扱われた。
(『周書』に記載される「八柱国」の序列)
【八柱国】
①使持節・総百揆・柱国大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・安定郡開国
公 宇文泰
②使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行台・少師・隴西郡開国
公 李虎
③使持節・太傅・柱国大将軍・大宗師・大司徒・広陵王 元欣
④使持節・太保・柱国大将軍・大都督・大宗伯・趙郡開国公 李弼
⑤使持節・柱国大将軍・大都督・大司馬・河内郡開国公 独孤信
⑥使持節・柱国大将軍・大都督・大司寇・南陽郡開国公 趙貴
⑦使持節・柱国大将軍・大都督・大司空・常山郡開国公 于謹
⑧使持節・柱国大将軍・大都督・少傅・彭城郡開国公 侯莫陳崇
※五 「六卿」
本来は、『周礼』に記された『(西)周』王朝の行政組織における六名の最高官の
ことを指す。宇文泰はこれに倣い、「大宰(天官)」・「大司徒(地官)」・「大宗
伯(春官)」・「大司馬(夏官)」・「大「司寇(秋官)」・「大司空(冬官)」の
「六卿」を置いた
※六 「太子右庶子」
皇太子の東宮府の右春坊を所管し、皇帝の侍中・中書令に擬せられる官職
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