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床に叩き落とされた食パン 後編
しおりを挟むその日、俺は朝、鈴ちゃんの元に顔を出して、一度自分のアルバイト先に顔を出してくると嘘を言って、鈴ちゃんの両親と弁護士との待ち合わせ場所へと向かった。
待ち合わせ場所には、鈴ちゃんの両親、弁護士、そして鈴ちゃんの兄がいた。
鈴ちゃんから話を聞いていたからだろうか、それとも、今日の話の内容を知っていたからだろうか。
俺の中の小麦粉は、氷で全て固まってしまったように冷えていた。
話し合いは、喫茶店で淡々と行われた。
俺は鈴ちゃんとの結婚の意思を伝え、金銭もいらないと言った。
だが、何かあった時に金の無心に来られても困るし、何もしないのも世間体が悪い、だから黙って書類にサインして受け取って欲しい。鈴ちゃんの両親はそれだけ言うと、弁護士に目配せし、弁護士は書類を取り出した。
その後は、弁護士からひたすら書類の説明を受け、俺は同意してサインするしかなかった。
こうして俺の口座に金が振り込まれることになったが、全く嬉しくなかった。
鈴ちゃんの兄はずっと黙っていた。
本当は、鈴ちゃんの両親と兄に嫌味の一つでも言いたかった。
それでも、そんなこと、痛くも痒くもないであろうことも分かっていた。
四人が俺を残して席を立った時、俺は、自分でも驚くべき行動をとっていた。
立ち上がって、四人に頭を下げていた。
「鈴ちゃんをこの世に存在させてくれて本当にありがとうございます。鈴ちゃんの存在が、俺の幸せです」
……なぜ、こんなにスラスラ言葉が出たのはわからないけれど、きっと、どこかでこのことを伝えたかったのだと思う。
鈴ちゃんにとってはきっと酷い親だ。兄だ。
だけれど、鈴ちゃんという存在に俺は感謝していた。
きっと、もう鈴ちゃんの家族に会うことは二度とないだろう。
そう思ったら、思わず出ていた本音であり、きっとそれは俺にとって最大の嫌味だった。
鈴ちゃんの両親と弁護士は、一瞬立ち止まったが、こちらを見ることもなく、会計をして喫茶店を出て行った。
鈴ちゃんの兄は、どこか迷うように俺を見た後、俺に黙って紙を渡し、急ぐように店を出た。
紙を見ると、携帯電話の番号と、30分後に電話が欲しいと書かれていた。
どういうことだかわからないが、30分、そのまま喫茶店で待つことにした俺は、気がついたら社長に電話をかけていた。
明日から、仕事に復帰させて欲しいと。
俺に振り込まれるお金は、絶対に使いたくない。そんな怒りのような感情が動いていた。
社長は、少し黙った後、承諾して、いつでも休んで良いから無理はするなとだけ言ってくれた。
30分後、メモに書かれていた番号に電話をすると、すぐに男の人がでた。鈴ちゃんの兄だと言う。
居場所を聞かれたので、まだ喫茶店にいることを告げると、すぐに行くから待っていて欲しいと言われた。
俺と話がしたいらしい。
鈴ちゃんの兄が戻ってくるのは早かった。メモもそうだが、この話し合いの前に準備していたんだろう。
しばらく向かい合って黙っていた俺たちだったが、鈴ちゃんの兄が、突然頭を下げてきた。
「本当に申し訳ない」
「えっ……」
俺が戸惑っていると、鈴ちゃんの兄が話し始めた。
「鈴子から、家族の話は聞いていますか?」
「ええ……少し……」
「……我が家がおかしいと気がついた時には、もう全てが遅かったんです。鈴子に手を差し伸べる間も無く、その方法も浮かばないまま、鈴子は追い出され……私はそのまま、親に逆らえず就職して言われるまま結婚しましたが……子供がなかなかできないという理由で、母が嫁をいびり、また助けることもできないまま、離婚しました」
「……」
聞けば、鈴ちゃんの兄は誰もが聞いたことのある大手の会社に勤めていた。
そこは鈴ちゃんの親も関わっている為、辞めることもできず、今に至るそうだ。
「昨日、突然思い立ってあのメモを作りました。でもどうすれば良いか分かりませんでした。……正直、はっきりとお金はいらないと言った優人さんに驚きました。あの金額を提示されたら、喜ぶ人間か、もっと要求してくる人間しか、私は知りません」
「……」
ある意味、鈴ちゃんの兄も気の毒な人なのかもしれない。
まるで操られている人形のようで。
「私は、きっと今まで、一度も自分の人生を自分で選択して生きたことがありませんでした」
その言葉を聞いた途端に、突然、俺の頭には大地くんと大地くんのお母さんの姿が浮かんだ。
一瞬、目の前にいるのが大人になった大地くんだと錯覚するほど鮮明だった。
「だから、今日、自分で自分の行動を決めたかった。私のわがままです。そして、わがままを承知でお願いします。鈴子に会わせてくれないでしょうか」
「……鈴ちゃんに会って、どうするんですか」
「謝らせてください」
「……なんのためにですか?」
「……」
「何度も何度も、鈴ちゃんを轢いた運転手の両親が謝りに来ます。だけれど、不快にしかなりません。鈴ちゃんは、その方向に目を向けたことは一度もありません。元気な時の鈴ちゃんなら、冷たい言葉を投げる俺を止めるはずなのに」
「……」
「鈴ちゃんへの謝罪は、あなたのただの自己満足だ」
きっと、俺は酷いことを言っている。だけれど、俺はこの間、知ったことがあった。
謝罪とは、時にただの自己満足であると。
もちろん、謝罪しないのとするのでは天と地の差がある。それでもただの自己満足の謝罪なんか、不快でしかない。
鈴ちゃんの兄は、また頭を下げた。
「今後、私は私の意思で、生きてみたい。そしてその一歩は、おっしゃる通り自己満足の謝罪です。鈴子にどういう対応をとられようと、お金以外で、お二人の助けになれることがあればしていきたいと思うんです」
その姿を見た俺は、鈴ちゃんの病院に一緒に行く選択肢以外考えられなかった。
「鈴ちゃん、ただいま」
個室の病室に、声をかけながら入った。後ろから、鈴ちゃんの兄が遠慮がちに入る。
俺の声に反応してくれた鈴ちゃんが、ゆっくりと俺の方を向いた。
そして、事故に遭ってはじめて目を見開いた。
俺は慌てて鈴ちゃんのベッドに駆け寄った。
「鈴ちゃん、突然ごめんね!実は鈴ちゃんの両親に会ったんだ。そしたら、お兄さんが鈴ちゃんに謝りたいって……」
「うあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
鈴ちゃんの目は俺を見ていなかった。
ただ一点、自分の兄を睨んでいた。
「鈴ちゃん!!落ち着いて!!」
「ああああああーーーーーー!!!!」
言葉にならない叫び声と共に、鈴ちゃんは小灯台の上に置いてあったものを次々と兄に投げつける。
「鈴ちゃん!!」
俺は必死で鈴ちゃんを抱きしめた。
鈴ちゃんの声に、慌てて看護師が飛んできて、医師が呼ばれた。
その間、ずっと鈴ちゃんは叫び続け、俺は必死で鈴ちゃんを抱きしめて、鈴ちゃんの兄は立ち尽くしていた。
医師に鎮静剤を打たれた鈴ちゃんは、穏やかな寝息をたてていた。
医師からは、今まで家族に対して抑えていた感情が制御できなくなったのだろうと言われた。
でも、もしかしたらこれをキッカケに喜怒哀楽の感情が表に出てきて、治療としては進むかもしれないとも言われた。
だけれど俺は、後悔しかできなかった。鈴ちゃんの家族への想いを、甘く考えすぎていた。
家族のことを話してくれていた鈴ちゃんは、必死で辛さを隠していたのに。
少し褒めただけで泣く癖を、俺はその理由を、知っていたのに。
鈴ちゃんの兄は、俺と医師に謝罪し、また連絡させて欲しいと言って病院を後にした。
「鈴ちゃん……ごめん……ごめんね……」
鈴ちゃんと俺だけになった病室で、俺は呟いた。
これもきっと、鈴ちゃんにとっては俺の自己満足だろう。だけれど、言わずにはいられなかった。
こんな状況で、明日からアルバイトに戻って本当に良いのだろうか。
鈴ちゃんが目を覚ましたのは、日が沈み始めた時だった。
最初に俺を見たが、すぐに小さく首を振って部屋を見渡した。
「鈴ちゃん、俺しかいないよ。ごめん、本当にごめんなさい」
俺の言葉に、鈴ちゃんが俺を見た。
そして驚くべき行動をとった。
鈴ちゃんは自分から手を伸ばして、俺の手を握ろうとしてくれたのだ。
俺は両手でその手を握りしめた。
「鈴ちゃん、偉かったね。今までずっとずっと、我慢してたんだよね。ちゃんと自分の気持ちをお兄さんにぶつけて、本当に偉かったね……」
俺は必死で言った。今手を伸ばしてくれた鈴ちゃんの気持ちを、なんとかして受け止めたかった。
鈴ちゃんの目から、涙が溢れた。
鈴ちゃんは、落ち着いたことを看護師に確認されると、いつものように座っていた。
「鈴ちゃん、俺、明日から一旦仕事に戻るね。朝と、空いた時間と、夜には来るから。でも、いつでも休むから」
俺の言葉に、鈴ちゃんは小さく頷いた。
「……ぱ……ん……」
「ん!?どうしたの!?」
慌てて鈴ちゃんの口に耳を近づけた。
「しょく……ぱん……」
「食パン!?鈴ちゃん、食パンが食べたいの!?」
俺の言葉に、鈴ちゃんは小さく頷いた。
俺は鈴ちゃんを抱きしめた。
「教えてくれてありがとう!!すぐに買ってくるよ!!」
鈴ちゃんを離した俺は、走って町中を回った。
パン屋の位置なら全て把握している。もちろん食パンの人気店も。
5種類ほど人気の食パンを買った俺は、急いで鈴ちゃんの元へと戻った。
でも……。
鈴ちゃんはどれも、一口食べて、手を置いてしまう。
「鈴ちゃん、美味しくなかった?」
「……あじ……ち、がう……」
ううん、味が違う??
もしかして鈴ちゃんにはお気に入りのお店があったのかもしれない。
探しにいきたいけれど、今日はもうパン屋さんは閉まっただろう。
「ごめんね、鈴ちゃん。明日の朝、また買ってくるよ」
そう言った時、鈴ちゃんの夕食が運ばれてきた。
面会後、俺は両手に食パンを抱えて帰宅していた。
一口ずつ食べ比べてみるけれど、正直、目をつぶって食べたらあまり違いがわからない。
ただやっぱり食パンはどれも美味しい。
「食べきれないし……スミさんと大地くんの差し入れに持って行こう……」
俺は一人で呟いた。
二人に会うのは久しぶりだ。心配かけてしまったし、お詫びだ。
明日は鈴ちゃんの家の周辺をまわって、なんとしても鈴ちゃんお気に入りの食パンを見つけよう!!
俺はそう誓った。
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