勝手に救われる人々

秋坂ゆえ

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第2話:「墜落」

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 イベントは滞りなく始まり、滞りなく終了した。

 とはいえ、小説の書評家が詩集を選書して皆を驚かせたり、主催者の文芸評論家が選んだ、日本の新人小説家の本を持参していた参加者が五人もいて注目度をうかがわせたり、ランダムに指名された参加者が自分のベスト本とその理由を発表するといった一幕もあったが、終了時刻は予定の八時を少し回った頃だったので、私は過度の情報に圧倒されることもなく、他の面々が退室していく中、会場に残る熱気を楽しんでいた。
 紹介された本は全てメモしていたし、帰りにこの書店で買って帰るのも悪くない、と考えていたその時、

「あの」

 と、左側の男性が声を掛けてきた。私が彼の方を向くと、
「えっと、変な意図は全然ないんですけど、俺、日極ひずめ灯哉とうやっていいます。もし差し支えなければ、お名前を伺ってもいいですか?」
 これには少々驚いたが、ギュスターヴ・マルを読んでいる『同志』という意識もあったので、名乗り返した。

「無理がありますよね、『洸』を『あきら』と読ませるのは」

 私が半ば自嘲気味に言うと、

「え、とってもきれいな名前じゃないですか」

 その時の彼の笑みは、頬にえくぼができるような類ではなかったが、目尻が下がり、彼の持つ生来の優しさがしっかりと伝わるものだった。
「あ、それで静井さん。実は俺、本業は音楽なんです。『Touya』って名義で。でも別に、宣伝とか、そういうつもりは全くなくて、単にギュスターヴ・マルを愛読される人に俺の音楽ってどう聞こえるのか気になって。えと、これ名刺です! もし、よかったら、その、このQRコードから俺のYouTubeチャンネルに飛べるので——」

 ヒズメさんは、こちらが頭を下げたくなるほど遠慮がちだった。

「聞かせていただきます。ただ、私は音楽の知識とか、良し悪しとか、全然分からなくて……。流行りの曲とかも知らないし、文学一筋で生きてきたのでご期待に応えられるかどうか——」
「だったら尚更聞いていただきたいです」
 その声は、二秒前までの恐縮しきった声音とは掛け離れた、強い芯のあるものだった。そして彼はふんわりとした笑みをうかべたまま、
「じゃ、俺今からまたスタジオに戻るんで、失礼します!」
 と、まるでつむじ風か小動物のような素早さで階段に向かった。呆然としていた私は書店員の案内でエレベーターに乗り込んだ。


 帰りの電車内で、私は今日のイベントの収穫を想起しようとした。詩はあまり読んだことがないのでチャレンジしてもいいと思い、五名もの参加者が持参していた新人作家にも、興味を惹かれた。私と同年代か少し上に見える女性が紹介していた国産ミステリも——

『え、とってもきれいな名前じゃないですか』

 混み合った電車内で、ヒズメさんの声が聞こえた。『灯哉』という名前も相当きれいだと思うが。それに、やはりギュスターヴ・マルを好む人間が書く歌詞に興味はあるし、帰宅したらあの人の音楽を聞いてみようと決めた。

 だが、先ほど本人に伝えた通り、私は本当に音楽が分からない。正直興味もなかった。学生時代、友人知人があのバンドがいいだのこのシンガーがヤバいだの語り合っていたが、私は、どうしてか、関心を持てずにいた。
 いや、音楽に落とすお金があるなら本を買いたい、と思って生きてきたのだ。無論それは音楽だけではなく、ファッションやメイクやそういったほぼ全ての事象より、文学が私の人生では最優先事項、それだけの話だ。
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