2 / 18
第2話:「墜落」
しおりを挟む
イベントは滞りなく始まり、滞りなく終了した。
とはいえ、小説の書評家が詩集を選書して皆を驚かせたり、主催者の文芸評論家が選んだ、日本の新人小説家の本を持参していた参加者が五人もいて注目度をうかがわせたり、ランダムに指名された参加者が自分のベスト本とその理由を発表するといった一幕もあったが、終了時刻は予定の八時を少し回った頃だったので、私は過度の情報に圧倒されることもなく、他の面々が退室していく中、会場に残る熱気を楽しんでいた。
紹介された本は全てメモしていたし、帰りにこの書店で買って帰るのも悪くない、と考えていたその時、
「あの」
と、左側の男性が声を掛けてきた。私が彼の方を向くと、
「えっと、変な意図は全然ないんですけど、俺、日極灯哉っていいます。もし差し支えなければ、お名前を伺ってもいいですか?」
これには少々驚いたが、ギュスターヴ・マルを読んでいる『同志』という意識もあったので、名乗り返した。
「無理がありますよね、『洸』を『あきら』と読ませるのは」
私が半ば自嘲気味に言うと、
「え、とってもきれいな名前じゃないですか」
その時の彼の笑みは、頬にえくぼができるような類ではなかったが、目尻が下がり、彼の持つ生来の優しさがしっかりと伝わるものだった。
「あ、それで静井さん。実は俺、本業は音楽なんです。『Touya』って名義で。でも別に、宣伝とか、そういうつもりは全くなくて、単にギュスターヴ・マルを愛読される人に俺の音楽ってどう聞こえるのか気になって。えと、これ名刺です! もし、よかったら、その、このQRコードから俺のYouTubeチャンネルに飛べるので——」
ヒズメさんは、こちらが頭を下げたくなるほど遠慮がちだった。
「聞かせていただきます。ただ、私は音楽の知識とか、良し悪しとか、全然分からなくて……。流行りの曲とかも知らないし、文学一筋で生きてきたのでご期待に応えられるかどうか——」
「だったら尚更聞いていただきたいです」
その声は、二秒前までの恐縮しきった声音とは掛け離れた、強い芯のあるものだった。そして彼はふんわりとした笑みをうかべたまま、
「じゃ、俺今からまたスタジオに戻るんで、失礼します!」
と、まるでつむじ風か小動物のような素早さで階段に向かった。呆然としていた私は書店員の案内でエレベーターに乗り込んだ。
帰りの電車内で、私は今日のイベントの収穫を想起しようとした。詩はあまり読んだことがないのでチャレンジしてもいいと思い、五名もの参加者が持参していた新人作家にも、興味を惹かれた。私と同年代か少し上に見える女性が紹介していた国産ミステリも——
『え、とってもきれいな名前じゃないですか』
混み合った電車内で、ヒズメさんの声が聞こえた。『灯哉』という名前も相当きれいだと思うが。それに、やはりギュスターヴ・マルを好む人間が書く歌詞に興味はあるし、帰宅したらあの人の音楽を聞いてみようと決めた。
だが、先ほど本人に伝えた通り、私は本当に音楽が分からない。正直興味もなかった。学生時代、友人知人があのバンドがいいだのこのシンガーがヤバいだの語り合っていたが、私は、どうしてか、関心を持てずにいた。
いや、音楽に落とすお金があるなら本を買いたい、と思って生きてきたのだ。無論それは音楽だけではなく、ファッションやメイクやそういったほぼ全ての事象より、文学が私の人生では最優先事項、それだけの話だ。
とはいえ、小説の書評家が詩集を選書して皆を驚かせたり、主催者の文芸評論家が選んだ、日本の新人小説家の本を持参していた参加者が五人もいて注目度をうかがわせたり、ランダムに指名された参加者が自分のベスト本とその理由を発表するといった一幕もあったが、終了時刻は予定の八時を少し回った頃だったので、私は過度の情報に圧倒されることもなく、他の面々が退室していく中、会場に残る熱気を楽しんでいた。
紹介された本は全てメモしていたし、帰りにこの書店で買って帰るのも悪くない、と考えていたその時、
「あの」
と、左側の男性が声を掛けてきた。私が彼の方を向くと、
「えっと、変な意図は全然ないんですけど、俺、日極灯哉っていいます。もし差し支えなければ、お名前を伺ってもいいですか?」
これには少々驚いたが、ギュスターヴ・マルを読んでいる『同志』という意識もあったので、名乗り返した。
「無理がありますよね、『洸』を『あきら』と読ませるのは」
私が半ば自嘲気味に言うと、
「え、とってもきれいな名前じゃないですか」
その時の彼の笑みは、頬にえくぼができるような類ではなかったが、目尻が下がり、彼の持つ生来の優しさがしっかりと伝わるものだった。
「あ、それで静井さん。実は俺、本業は音楽なんです。『Touya』って名義で。でも別に、宣伝とか、そういうつもりは全くなくて、単にギュスターヴ・マルを愛読される人に俺の音楽ってどう聞こえるのか気になって。えと、これ名刺です! もし、よかったら、その、このQRコードから俺のYouTubeチャンネルに飛べるので——」
ヒズメさんは、こちらが頭を下げたくなるほど遠慮がちだった。
「聞かせていただきます。ただ、私は音楽の知識とか、良し悪しとか、全然分からなくて……。流行りの曲とかも知らないし、文学一筋で生きてきたのでご期待に応えられるかどうか——」
「だったら尚更聞いていただきたいです」
その声は、二秒前までの恐縮しきった声音とは掛け離れた、強い芯のあるものだった。そして彼はふんわりとした笑みをうかべたまま、
「じゃ、俺今からまたスタジオに戻るんで、失礼します!」
と、まるでつむじ風か小動物のような素早さで階段に向かった。呆然としていた私は書店員の案内でエレベーターに乗り込んだ。
帰りの電車内で、私は今日のイベントの収穫を想起しようとした。詩はあまり読んだことがないのでチャレンジしてもいいと思い、五名もの参加者が持参していた新人作家にも、興味を惹かれた。私と同年代か少し上に見える女性が紹介していた国産ミステリも——
『え、とってもきれいな名前じゃないですか』
混み合った電車内で、ヒズメさんの声が聞こえた。『灯哉』という名前も相当きれいだと思うが。それに、やはりギュスターヴ・マルを好む人間が書く歌詞に興味はあるし、帰宅したらあの人の音楽を聞いてみようと決めた。
だが、先ほど本人に伝えた通り、私は本当に音楽が分からない。正直興味もなかった。学生時代、友人知人があのバンドがいいだのこのシンガーがヤバいだの語り合っていたが、私は、どうしてか、関心を持てずにいた。
いや、音楽に落とすお金があるなら本を買いたい、と思って生きてきたのだ。無論それは音楽だけではなく、ファッションやメイクやそういったほぼ全ての事象より、文学が私の人生では最優先事項、それだけの話だ。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
マスク ド キヨコ
居間一葉
現代文学
ある日に見た白昼夢をもとにした短編です。
生き物のオスにとっての幸せってなんだろう、という問いに対する一つの答えとして書きました。
本作を補完するものとして、オスの本質、幸せについて、近況ボードに私見を書いています。
3月11日から毎日18時更新します。
※露骨さ、下品さは抑えたつもりですが、一部性的な描写があります。
妻が心配で成仏できません
麻木香豆
現代文学
40代半ばで不慮の死を遂げた高校教師の大島。
美人の妻の三葉や愛猫のスケキヨを残したことややり残したことが多くて一周忌を迎えたとある日、冗談でスケキヨに乗り移らたらいいなぁと思っていたら乗り移れちゃった?!
さらに調子に乗った大島はあちこちと珍道中。しかし受け入れなくてはいけない事実がたくさん……。
周りの人たちを巻き込んだおっさんの大騒動をお楽しみください!
愛の行方
オガワ ミツル
現代文学
会社という生き物は、それぞれに摩訶不思議な世界で、懸命に生きなければならない。
そうしなければ、従業員とその家族を養えない。
会社の業績を上げるために、企業戦士達は切磋琢磨して働いている。
小企業から上を目指し脱皮しようと藻掻いているなかで、或る疑惑が持ち上がっていた。
それを解決するために会社はどう解決しようとするのか。
そのなかで生まれた男と女の関係、さらに彼等を取り巻く人たちの愛と性。
そこには深い人間のドラマがある。
この小説に書かれている社会的な現象は、フィクションでははありません。
部分的には事実に基づいてはいますが、多分に作者のイメージが入っています。
それらを踏まえてお読み下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる