逃避録

桜舞春音

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 充は服を着替えて二段ベッドの下に腰掛けた。
 というか、考え事で現実世界にいない彼を類がそうさせたというべきだ。

「あの人って誰?なんで怪我してるの?先生にやられたの?それともころんだ?あ、喧嘩騒ぎとか……
「アカハギ」
 珍しく類を遮って、充は呟いた。まるで重い鉄の塊を落とすような、低い声で、床に向かって。

「アカハギ」
 類はオウム返ししながら息を呑む。
 類は壁に耳をつけた。
「ちょっと危な……」
 充は制止しようとしてやめる。

 外は騒がしかった。

 爽伸は屋上テラスでくつろいでいた。最近で言う、チルい時間。少し風が強い。北西の、風力四といったところか。でも爽伸には下に戻れない理由がある。だからここに居る。

「下は片付けた」
「おつかれ」
 鍵はかけていなかったから、入るのは簡単だったようで、少しほつれた感じで│赤萩朝陽《あかはぎはるひ》はやってきた。
 片付けたといっても、数刻のうちに目を覚ます程度の気絶。でも爽伸はこの時間を狙った。

 一応公用車という扱いになるこの施設の車たち。爽伸は所長のズボンのベルトから奪ったマスターキーで次々そのキーを抜き取っていく。
 爽伸は日産キャラバンを二台とスズキのクロスビーを一台、あとは適当に見繕って抜き取る。
 その鍵に付けられているGPSを警告音も鳴らせないくらいの反応速度で朝陽に破壊させたあと、何事もなかったかのように部屋を出る。

 爽伸は外に待っていた赤萩の家の者たちと、その車を運ばせた。

「しずかになった」
 ひたすら音だけを聞いていた類が耳を離す。
「なんの音だったの」
「なんか、こう……ざわざわって」
「ざわざわ」
「うん」
 あいも変わらず薄暗い部屋。コンクリの壁。
 無機質な、無為な牢。

 ここから出よう―

「充!類!」
 言いかけた刹那、未咲が飛び込んできて、充は口を閉ざす。強く噛みすぎて痛い。
「ああ、よかった、よかった……」
 未咲は二人をその腕に抱く。手足の長いスタイルの未咲の胸には子ども二人など造作もない。
 
「どうしたの、ねぇ」
 充は尋ねる。少し強く。
「なんでもないの。でもね、突然男の人がやってきて、先生たち意地悪されちゃった。車も盗まれたわ。だけどあなたたちは無事ね!よかった……」
 今一度安堵に浸る未咲。
 あんな人でも、こんなに優しい顔ができるんだ。

「あんな人って?」
 気づいたら、未咲が涙目に訊いてきていた。思わず口にしてしまったか。悪い癖だ。
「いつも、痛いこと」
「え?」
「してるだろ。類やその他の子に」
 充はそのまま進めた。
「それは……」
「俺だけか。しないのは。でも他の部屋の子たちにもしてるんだろ」
「充……」
「大丈夫だ、類。それより先生、知ってんの」

 未咲は思わず尻込む。充は怒っていた。

「夜になるとさ、言うんだよ類が。足音がしても言う。いつも未咲せんせいが怖いって。痛いから怖いって。ねぇ知ってんの。怖い怖い怖いって!怖い怖い怖い!」
 
 押し黙る未咲。

「嫌なことされると、俺たち、怖くなるんだ。先生だけじゃない。みんなもう、自分で動くのが、考えるのが怖いんだ。怒られるから」

 未咲は、混乱していた。
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