氷は存外簡単に溶ける

皿うどん

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ざまぁみろ!

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 ワーズワース家長、パトリツィオは押し寄せる負の感情で震えていた。
 毎年家族で参加するのを楽しみにしていた星辰の儀で、これほどの屈辱を噛みしめることになるとは思ってもいなかった。

 すべての元凶はアンナだ。
 あれが大人しく自分の分をわきまえて、殴られるなりそのまま死ぬなりすればよかったのに、いつの間にかグラツィアーナと親しくなりフィアラークの養女になってしまった。
 アンナに支払う金銭は用意できそうもない。せめて減額をしてほしいが、フィアラークとの接触を禁止されているため、アンナに手が出せなかった。

 今夜のパーティは、星辰の儀が開催されることを祝う盛大で重要なものだ。援助してくれる人物を探しつつ、せめてワーズワースにそれほど非がないことだけでも広めなければ。
 自分たちがしてきたことを棚に上げ、パトリツィオは必死に声をかけて回った。だが、同じ子爵にすら無視され、男爵位には逃げられる。
 広いパーティ会場を見回せば、妻のヴァレリアーナも、娘のクラリーチェも、声をかけては無視されている。

「くそっ……!」

 一番希望があるのは、学院に通っているクラリーチェなのに。
 援助してくれる相手を探し出せ、力のない貴族なら脅してもいいと言ったが、誰もがクラリーチェをいないものとして扱っていて難航しているらしい。
 クラリーチェの縁談は白紙に戻った。学院で男を襲って責任を取らせて結婚しろ、金を引き出せと言っているのに、そちらも未だ成功していない。

「学費が先払いでさえなければ、結納金をもらってさっさと嫁がせているのに……!」

 不健康に痩せてきているパトリツィオは、足早に男爵位の男に近づいたが、周囲がさっと隠してしまった。文句を言おうにも、隠しているのはワーズワースより格上だ。
 遠回りして目的の場所についたがすでに男爵はおらず、やけ酒を煽った。
 パトリツィオは斜め前の空間があいているのに気が付き、そこにいるのがゲーデルと知り、いびつに顔を歪めた。

 衣服は売ってしまって安っぽい既製品を着て、みなに避けられているが、ゲーデルよりはマシだ。
 ゲーデルは前々から家庭内暴力があるのではと囁かれており、あの家に嫁げば出てこられないと言われていた。それが今回暴かれ、何代もかかるだろう莫大な賠償金の支払いを命じられた。没落はもう目の前だ。
 ゲーデルはもう諦めているのか、父と息子ふたり、虚ろな目をしてただ立っていた。

「ゲーデル夫人はいらっしゃらないわね」
「ご病気で、もう10年以上前からご実家に戻られているそうよ」
「ゲーデルに嫁ぐと、夜会どころかお茶会にすらいらっしゃらないのは本当なのね」

 実際にゲーデル夫人が実家へ戻ったのはつい最近だが、フィアラークとグラツィアーナが率先して噂を広めたため、それが真実として受け入れられていた。


 父親と同じく、遠くからゲーデルを見ていたクラリーチェはくちびるを噛み締めた。
 安っぽい、庶民が着るのと大差ない布で作られたドレスは、自分のために仕立てたものではないから裾がやや短い。アクセサリーすらない。
 それでも金のため必死に話しかけるが、誰も相手にしてくれない。下品な匂いがすると笑いものにされたこともあった。

(あれを殴っても、どんな言葉を浴びせてもいいじゃない! あれはそのために産まれてきたのだから、殺したって構わないはず。それなのにどうして私が責められて蔑まれて、あれが脚光を浴びているの!?)



 ヴァレリアーナは焦っていた。
 社交はそこまでしてこなかったが、話し相手はいくらでもいた。それが今は無視され、嘲笑され、時にはヒールで脚を突き刺される。

「我が子を骨を折るまで虐待するなんて、なんておぞましいの」
「食事すら与えなかったんでしょう? あれは人間ではないわ」
「悪魔でも、まだ情があってよ」

 くすくすと笑われ、ヒールで痛めつけられた足の甲はズキズキと痛む。

(誰か……誰かいないの。わたくしは腹いせに少しいじめただけよ。虐待なんかじゃない。わたくしは悪くない、パトリツィオがそうしろと言ったのよ。わたくしの意思ではないわ。このままでは平民落ちなのに、どうして誰も助けてくれないの?)

 ヴァレリアーナはよろける脚で進むが、嘲笑が渦のようにつきまとい、ついには立ち止まってしまった。一度止まると、もう進めない。
 ヴァレリアーナが絶望の瞳で顔を上げたとき、さっと光が当たった。それはヴァレリアーナではなく、フィリップとともに入場してきたアンナを照らし出す。

 ワーズワースでは一生着れない、細やかな刺繍と宝石が彩るドレス。星辰の儀に出る者のみが許される服を着ているフィリップと色を揃えており、きらびやかだが落ち着いた印象を与える。
 首には、宝石より高いとされる、大粒にカットされた色付きの魔石のついたネックレス。小粒だが様々な淡い色をした魔石が彩りを添えて、アンナを引き立てていた。

「どうして……どうしてあの子だけ」

 ふと、アンナの視線がヴァレリアーナを捉えた。ふっと笑い、何事もなかったようにそらされる青い瞳に、ヴァレリアーナは激しい嫉妬を覚えた。
 だが、どうにも出来ない。話しかけられない。契約を破ればさらに罰が与えられる。

「アンナ、お前さえ産まなければ……!!」



 ワーズワースとゲーデルの粘ついた視線を感じながら、アンナはにこやかに入場した。すぐに人に取り囲まれ、フィリップと仲睦まじいフリをしながら貴族の相手をしていると、やがてクレヴァリアンを治める王族が入場した。
 開催の挨拶を聞き、フィリップに連れられるまま流れで陛下に挨拶をすると、そのままダンスの時間となった。
 フィリップは感心しきってアンナを見つめる。

「きみはすごいな。大抵の人間は、初めて陛下に挨拶すると緊張しきってしまうのだが」

 アンナは周囲を見回し、そっとフィリップの耳にくちびるを寄せた。フィリップが屈んで、ふたりの距離が近づく。

「あまり興味がなかったので。でも、緊張はしてましたよ」
「ふっ、はは、そう言えるのはアンナくらいだな」

 フィリップが声を上げて笑うのは非常に珍しく、周囲の視線が集まる。
 その視線が他へうつってしまう前にと、フィリップはアンナの前でうやうやしく跪いた。

「アンナ嬢、私と踊っていただけませんか」
「はい、喜んで」

 フィリップにエスコートされ踊りの輪の中に滑り込むと、アンナは満面の笑みをフィリップへ向けた。

「見ましたか、ワーズワースとゲーデルの恨めしそうな顔! きっと、わたしを産まなければよかったとか、わたしが悪いとか、お門違いなことを言っていますよ!」
「……きみは気にしないのだな」
「生ゴミがたまたま人間の言葉を喋っているだけですので」
「アンナが楽しいならばそれでいい」
「とっても楽しいです! ざまぁみろ!」
「そうだな。ざまぁみろ、だな」

 フィリップが柔らかに微笑む。
 アンナはそれはもう楽しげに笑っており、令嬢の微笑みとしては失格だが、フィアラークが外で印象操作していた。

「ワーズワースは、アンナにデビュタントもさせなかったのですよ。愛する人と初めてのパーティで踊る事ができて嬉しいのでしょう。とても楽しそうですわ」
「ワーズワースは、アンナ嬢が公爵家に嫁ぐことを妬んで骨を折ったのでしょう? 恐ろしいわ」
「いえ、その前からだと聞きましたわ。あの恨みのこもった目、とても娘に向けるものではありません……なんて恐ろしい」

「アンナ様の姉はフィリップ様に懸想していて、妹に嫉妬して口にするのも恐ろしいことをしようとしたとか」
「日常的に虐待をしていて、エスカレートしていったのでしょうね」
「ありもしない噂を流し、アンナ様を不当に貶めたらしいですわ。アンナ様のよくない噂はすべて嘘だとフィアラークが言っていましたもの。アンナ様はフィアラークに相応しいと」

「アンナ様の母親も、母となるべきじゃなかったんだろうな。あんな女が親だなんてぞっとするよ」
「見ろよ、いまも被害者面して、厚かましいったらない」
「アンナ嬢を平民以下の扱いをするよう指示していたらしいぞ。自分が平民にでもなればいいのにな」

「ゲーデルも終わりだな。婚約者とはいえ、未婚で他家の令嬢を殴るなんてあり得ないだろ。俺は学年が違うけど、学院に来ているのか?」
「まさか! よっぽど面の皮が厚くないと無理だろ。ああ、クラリーチェは来ているらしいけどな」
「ギュンターとクラリーチェが結婚すればいいんじゃないか? お似合いだろ」
「違いない」


 アンナは噂話を聞きながら、軽やかにステップを踏む。向けられた笑顔に、フィリップの胸がぎゅんっと音をたてた。

「ね、楽しいでしょう?」
「そうだな」

 そこで肯定してはいけないと、実は来ていたヴィクターは思った。言えなかったが、心底思った。

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