氷は存外簡単に溶ける

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エレナ・リドマン

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 エレナ・リドマンには前世の記憶があった。

 今世と同じくエレナという名だった彼女は裕福な家庭に生まれ、一人っ子で母親の愛情を一身に受けて育った。父は家庭にあまり興味がなく仕事一筋で、結婚せねば出世に支障をきたすため結婚したに過ぎなかった。
 母親は夫に愛されないぶんエレナに愛情を注ぎ、叱らずに育てた。そうして、わがままなエレナが出来上がった。

 小学校低学年で、エレナは気に入らない女子を無視して仲間はずれにすることを覚えた。嫌いな人間が泣きながら傷つくのを見るのは楽しく、わざとらしく嫌味を言っては相手が涙目になるのを、くすくすと笑って眺めた。
 中学生になるとイジメはさらに過激に陰湿になり、高校二年になると、ついに自殺する生徒が現れた。結果死ななかったが、エレナはただ

「なんだ、死ななかったの。面白くない」

 と言うだけで、それきり相手のことは忘れてしまった。
 エレナの周囲には同じような人間が固まっていたがこれにはドン引きし、徐々に距離を置かれるようになった。エレナは憤慨した。

「自分だって同じようにイジメてたのに、最後にはわたしに全部なすりつけて被害者面するの!? ふざけんじゃないわよ!」

 エレナは便宜上「友人」と呼んでいた人間たちを、長年培ったテクニックで追い詰めはじめた。そんなエレナに周囲は怯え、宇宙人でも見るような目を向けた。そのくせエレナと視線を合わせないようにするものだから、エレナの苛立ちは募るばかりだった。


 そんなある日、憂さ晴らしにでかけた帰りにエレナは声をかけられた。エレナはそこそこ可愛く、プロポーションもよかったためナンパはよくあることだった。

「……あんたがエレナね」
「なに、ナンパじゃないじゃん。女はお断り」
「あんたのせいで……あんたなんかのせいであの子は自殺なんか!」
「自殺? なにそれ」

 エレナは知らないのではなく、忘れていた。

「死ね!」
「っ何すんのよ! 痛いっ! わたしの顔を傷つけるなんて信じられない、このブス!」

 ふたりはもみ合い、劣勢だと感じたエレナは途中で逃げ出した。無我夢中で飛び出した先は線路だった。
 眩しくて目が開けられないほどの光がエレナを照らし出す。エレナが感じたのは痛みではなく衝撃だった。



 次にエレナが目を覚ますと、見覚えのない場所で赤ん坊になっていた。輪廻転生の知識があったエレナは、混乱はしたものの割とすんなりと自分の死亡と転生を飲み込んだ。

(前世で住んでたとこ、田舎だったのよね。だから噂がまわるのも早かったし、遊びに行くにも長いこと電車に乗らなきゃいけなかった。この部屋は豪華だし、期待できるかも!)

 しかし、ほどなくしてエレナが知ったのは自分が子爵という事実だった。憧れであった貴族令嬢として生まれ変わったのに、ただの子爵。

(わたしに似合うのは王族だっていうのに、下から数えたほうが早い子爵だなんてありえない!)

 リドマン子爵領は豊かだったが王都からは遠く離れている。エレナの顔立ちも、この領地ではかなり上位だが、王都に行けば埋没する程度でしかない。
 前世とまったく同じ状況に、エレナのコンプレックスは爆発しそうだった
 政略結婚で結ばれた両親に愛はなく、父親はエレナの浪費を叱るばかりで歓談などしたことがない。母親はエレナを溺愛しており、いつか王子様と結ばれると、自分が叶えられなかった理想をエレナに押し付けた。

「どうして、どうしてうまくいかないの!? わたしの思い通りにいかないことばかり!」

 荒れたエレナは使用人にあたり、いびり倒してやめさせることを繰り返した。人をいじめるのはエレナにとって大切な憂さ晴らしであり、気分転換であり、愉悦だった。
 そんなエレナを父親は嫌っていた。いくら言っても態度を改めない娘と、それを増長させるだけの妻。エレナに婿をとって跡を継がせようと考えていたが、弟の息子から有能な者を選び養子にし、跡継ぎにすると決めた。

 察したエレナはさらに暴れたが逆効果で、学院に入る年齢になると、厄介払いでさっさと放り込まれた。

「問題を起こせば家から放り出すと何度も言ったが……理解していないだろうな」

 リドマン子爵は大きなため息をついた。エレナが生まれてから、彼は老ける一方だった。



 学院に入ったエレナは、嫌でも社会階級を実感することになった。リドマン子爵領では誰より偉かったのに、ここでは階級が上の者ばかりだ。
 好き勝手に暴れることはできないし、相手を選ばなければ即打ち首。爵位が下のものをいじめても、リドマン子爵より権力を持っていたため返り討ちにあったりと、エレナのストレスは溜まる一方だった。
 前世と同じ感覚だったために、生徒ひとりひとりに後ろ盾があるなど考えもしていなかったのだ。
 軽率な行動のせいで、学院生活一週間にして、エレナは付き合うに値しないと烙印を押された。

 目先のことしか考えないエレナに目をつけたのは、隣国と通じている貴族だった。学院に通っている子息を通じて、皇太子の情報をエレナに流す。
 アルベルトの弱みを知ることができれば上々、もし駄目でもエレナを切り捨てれば終わりだ。
 エレナはアルベルトが行く先々に現れ、自身に惚れるよう媚を振りまいた。アルベルトに相手にされることはなく、途中からテオに冷たく追い払わるようになり、エレナは怒りをアンナにぶつけた。

 ここまできて王都から離れたリドマン子爵はようやく状況を知り、何より先にエレナを呼び戻した。エレナが迷惑をかけた相手に急いで詫び状をしたため、死にそうな顔で王族にも送った。
 エレナを平民にし、子爵家が管理している修道院に送り二度と外には出さないと書いた子爵だったが、実行する前にエレナは学院へ戻ってしまった。隣国と通じている子息がエレナを連れ戻しに来て、母親も大喜びで家に通してしまったのである。
 子息はリドマン子爵より爵位が上だったからもてなさないわけにはいかなかったが、エレナに会わせないことはいくらでも出来た。
 これには子爵も激怒し、妻を実家へ送り返した。皇太子につきまとってグラツィアーナを貶すだけでも、リドマン子爵家などお取り潰しになってもおかしくないほどの無礼なのだ。
 子爵は急いで学院に退学の手紙を送り、確実に連れ戻すために自身が学院へと出向いた。まさかその僅かなあいだに、娘が取り返しがつかないほど馬鹿なことをするとは思わなかった。




「な、なんでわたしがこんなところに……出しなさいよ! アルベルト様が黙っていないわよ!」

 光が差さずじめじめとした牢屋で、エレナは声を上げた。息をするたびに饐えたにおいが体に入り込んできて不快だ。
 隣国のスパイと言われても、エレナは隣国の知り合いすらいなかった。アルベルトの情報を漏らしたと言われても、今日あったことをキープくんに話しただけ。

(キープはわたしに惚れてるし、余計なことを言わないはず……。でも、ここであいつの名前が出てくるってことは何かしでかしたのよね。アルベルトが無理だったときのキープの分際で、よくもわたしを!)

「出しなさい! 誤解でこんなことをして、お前らみんな殺してやる!」
「静かにしろ!」
「ぐぁっ……! い、痛い! なんてことするの!」
「別にいいだろ、これから拷問されるんだから」
「ご……拷問……?」

 見張りの男の言葉に、エレナはここに来て初めて血の気が引いた。すぐにここから出られると思いこんでいたエレナは、自分の人生がこんな薄汚い場所で終わるとは思ってもいなかった。

「お、お母様は……?」
「縛り首だよ。スパイとあんたの橋渡しをしてたんだから当たり前だろ。ああ、リドマン子爵だけは爵位返上だけで済んだぞ。事情を知らないなりに奔走してたみたいだからな。妻と子を把握できていなかった無能と知れ渡ったが、お前よりは立派だった。自ら極刑を願い出たんだから」
「わたしはスパイなんかじゃない!」
「お前は捨て駒だよ。本当のスパイはとっくに拷問されてる」
「ひっ……!」

 怯えて周囲を見回すが、エレナを助けてくれる者はいない。前世の両親にも心の中で助けを求めたが、返事はなかった。
 エレナが電車に飛び込んだのはSNSで話題となり、一週間ほどでニュースに取り上げられた。エレナのひどいイジメが明らかになっていくにつれ、人々は大いにエレナの悪口を言い、死んで当然だと口にする。
 エレナの両親は耐えきれず離婚と引っ越しをした。父親は無関心だった報いを、母親は一種のネグレクトをしたツケが回ってくることとなった。


 エレナを助ける者は誰もいなかった。前世も、今世も。


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