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アンナ・ワーズワース1
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「ここ、は……」
ゆるやかに目覚め、見覚えのない豪奢な天井を見たとき、アンナは静かに自分の死を悟った。
ひどく殴られたり真冬に外で寝ろと言われたとき、アンナはいつも死を感じながら眠っていた。最後に覚えているのは、窓から落ちてくる女生徒の背中。
きっと女生徒の下敷きになって死んだのだろう。でなければ、学院でもないこんな綺麗な場所に自分がいるわけがない。
「起きたのか? 怪我は治療させたが、痛むところはないだろうか」
部屋に入ってきたのは、アルベルト・キングストゥーリだった。
この国の皇太子であり、公平な目と柔和な笑みを持つ人物。絹糸のような金髪が揺れ、澄んだ菫色のひとみにアンナが映る。
「……殿下も死んだのですか?」
「私も、とは?」
「わたし、死んだのでしょう? 体も痛くないし、きっとここは神の膝上だわ。……まさか、殿下もあの女の下敷きに?」
わずかに目を開いたアルベルトは、思わず吹き出した。
「私も君も死んでいないよ。今回は私のせいで怪我をさせてしまったね。詫びに、出来うるかぎり君の望みを叶えよう」
「あれは殿下のせいではありません」
「そうか、君は寝込んでいたから……。君を押しつぶした女は隣国のスパイだ。正体を突き止めるのは、私とグラツィアーナに陛下から課せられた試練だった」
「わたくしからもお詫びを。巻き込んでしまってごめんなさい」
気づくと、アルベルトの後ろに美しい女性が立っていた。
グラツィアーナ・マグリーニ。アルベルトの婚約者で、貴族からも民からも評判もいい才色兼備の女性だ。
グラツィアーナは派手になりがちな赤毛を上品に編み込み、赤みがかった薄茶の目に心配を浮かべていた。
「関係のないアンナを巻き込んでしまったのは、わたくしたちが未熟だからです。あなたはとても危険な状態で、3日も意識が戻らなかったのよ」
アンナは何度かまばたきをして、ようやく事実を飲み込んだ。
「つまり……死んでいない?」
「死んでいないよ」
アンナは勢いよく起き上がり、ふらついて倒れ込んだ。アルベルトの側近が慌てて背を支えてくれ、アンナが起き上がるのを手助けしてくれた。
「横たわったまま、このような姿で申し訳ございません。この無礼が許されたうえで褒美をいただけるのなら、報酬は我がワーズワース家ではなく、わたし個人にいただきたいのです」
アンナはベッドにひれ伏して願った。
「そして、わたしとゲーデル家ギュンターの婚約を破棄してください!」
・・・
アンナの人生は惨めだった。
政略結婚で結ばれた両親の間には、愛と名のつくものは何ひとつ芽生えなかった。子をひとり、そのスペアとしてもうひとり産めば好きにしていいという契約のもと産まれた時点で、次女のアンナの人生は日が当たらないと決定していた。
長女が7歳を過ぎ健康に育つと、3つ下のアンナは虐待を受けるようになった。父は無関心、母は姉と共に負の感情をすべてぶつけてくる。
子を産ませるために腹は狙わないが、そのほかは容赦なく痛めつけてくる。
頬を張られ、手足を扇でしたたかに打たれ、アンナは体が傷まない日はなかった。
「あんたの駄目なところを100個挙げなさい。あんたはいいところなんてないから、言うのは簡単でしょう? 終わるまで食事は抜きよ」
座って優雅にティータイムを楽しむ母と姉の前で、アンナがそう言われるのも珍しくない。姿見の前でみすぼらしい自分を見つめながら、自身を否定する言葉を吐く。
それは想像以上にアンナの心を蝕んだ。
10歳までそんな生活は続いたが、それより先はさらなる地獄だった。
アンナに婚約者ができたのだ。
ギュンター・ゲーデル。アンナの家は子爵で、侯爵であるゲーデル家と繋がりがもてることを喜んだ。
ギュンターはアンナより2つ上の12歳で、とっくに婚約者がいてもおかしくなかったが、性格に難があり婚約がまとまったことはなかった。
これ以上よくない噂が広がる前にと目をつけられたのがアンナだった。
ギュンターは非常に加虐的だった。暴言や体罰を与えることは日常となっており、父親はそれを咎めるどころか増長させる。
ゲーデル家は代々、男性が暴力をふるい女性が耐える家系だった。
ゲーデル家の男性は、外では爽やかでユーモアがあると通っているが、すべての噂は隠しきれない。ゲーデル家が代々格下の家から妻をもらっている理由だった。
家族から大切にされていないアンナは好都合で、ギュンターは婚約者に会いに行くという名目を得て、喜々としてアンナをいじめた。
男の力は強く、アンナは拳で顔を殴られたときに奥歯がなくなった。ギュンターが来るときはオットマンになれと言われ、床に這いつくばらなければいけない。
常に使用人が見張り、死ぬことも許されなかった。
「アンナ様、お辛いでしょうが絶望してはいけません。一緒に……一緒に頑張りましょう」
アンナが耐えられるのは、メイドのララがいるからだった。
ララには病気の弟がおり、ワーズワース家の主治医がときおり診察に行き薬を出していた。ララには治療代を差し引いた額を給金として渡され、ほとんど手元に残らなかった。
アンナの味方をするララもいじめられることが多かったが、弟のため、アンナのために仕事をやめることはしなかった。
ふたりで寄り添い、支えながらやっと生きていくふたりに束の間の平穏が訪れたのは、姉とギュンターが学院へ入ってからだった。
ゆるやかに目覚め、見覚えのない豪奢な天井を見たとき、アンナは静かに自分の死を悟った。
ひどく殴られたり真冬に外で寝ろと言われたとき、アンナはいつも死を感じながら眠っていた。最後に覚えているのは、窓から落ちてくる女生徒の背中。
きっと女生徒の下敷きになって死んだのだろう。でなければ、学院でもないこんな綺麗な場所に自分がいるわけがない。
「起きたのか? 怪我は治療させたが、痛むところはないだろうか」
部屋に入ってきたのは、アルベルト・キングストゥーリだった。
この国の皇太子であり、公平な目と柔和な笑みを持つ人物。絹糸のような金髪が揺れ、澄んだ菫色のひとみにアンナが映る。
「……殿下も死んだのですか?」
「私も、とは?」
「わたし、死んだのでしょう? 体も痛くないし、きっとここは神の膝上だわ。……まさか、殿下もあの女の下敷きに?」
わずかに目を開いたアルベルトは、思わず吹き出した。
「私も君も死んでいないよ。今回は私のせいで怪我をさせてしまったね。詫びに、出来うるかぎり君の望みを叶えよう」
「あれは殿下のせいではありません」
「そうか、君は寝込んでいたから……。君を押しつぶした女は隣国のスパイだ。正体を突き止めるのは、私とグラツィアーナに陛下から課せられた試練だった」
「わたくしからもお詫びを。巻き込んでしまってごめんなさい」
気づくと、アルベルトの後ろに美しい女性が立っていた。
グラツィアーナ・マグリーニ。アルベルトの婚約者で、貴族からも民からも評判もいい才色兼備の女性だ。
グラツィアーナは派手になりがちな赤毛を上品に編み込み、赤みがかった薄茶の目に心配を浮かべていた。
「関係のないアンナを巻き込んでしまったのは、わたくしたちが未熟だからです。あなたはとても危険な状態で、3日も意識が戻らなかったのよ」
アンナは何度かまばたきをして、ようやく事実を飲み込んだ。
「つまり……死んでいない?」
「死んでいないよ」
アンナは勢いよく起き上がり、ふらついて倒れ込んだ。アルベルトの側近が慌てて背を支えてくれ、アンナが起き上がるのを手助けしてくれた。
「横たわったまま、このような姿で申し訳ございません。この無礼が許されたうえで褒美をいただけるのなら、報酬は我がワーズワース家ではなく、わたし個人にいただきたいのです」
アンナはベッドにひれ伏して願った。
「そして、わたしとゲーデル家ギュンターの婚約を破棄してください!」
・・・
アンナの人生は惨めだった。
政略結婚で結ばれた両親の間には、愛と名のつくものは何ひとつ芽生えなかった。子をひとり、そのスペアとしてもうひとり産めば好きにしていいという契約のもと産まれた時点で、次女のアンナの人生は日が当たらないと決定していた。
長女が7歳を過ぎ健康に育つと、3つ下のアンナは虐待を受けるようになった。父は無関心、母は姉と共に負の感情をすべてぶつけてくる。
子を産ませるために腹は狙わないが、そのほかは容赦なく痛めつけてくる。
頬を張られ、手足を扇でしたたかに打たれ、アンナは体が傷まない日はなかった。
「あんたの駄目なところを100個挙げなさい。あんたはいいところなんてないから、言うのは簡単でしょう? 終わるまで食事は抜きよ」
座って優雅にティータイムを楽しむ母と姉の前で、アンナがそう言われるのも珍しくない。姿見の前でみすぼらしい自分を見つめながら、自身を否定する言葉を吐く。
それは想像以上にアンナの心を蝕んだ。
10歳までそんな生活は続いたが、それより先はさらなる地獄だった。
アンナに婚約者ができたのだ。
ギュンター・ゲーデル。アンナの家は子爵で、侯爵であるゲーデル家と繋がりがもてることを喜んだ。
ギュンターはアンナより2つ上の12歳で、とっくに婚約者がいてもおかしくなかったが、性格に難があり婚約がまとまったことはなかった。
これ以上よくない噂が広がる前にと目をつけられたのがアンナだった。
ギュンターは非常に加虐的だった。暴言や体罰を与えることは日常となっており、父親はそれを咎めるどころか増長させる。
ゲーデル家は代々、男性が暴力をふるい女性が耐える家系だった。
ゲーデル家の男性は、外では爽やかでユーモアがあると通っているが、すべての噂は隠しきれない。ゲーデル家が代々格下の家から妻をもらっている理由だった。
家族から大切にされていないアンナは好都合で、ギュンターは婚約者に会いに行くという名目を得て、喜々としてアンナをいじめた。
男の力は強く、アンナは拳で顔を殴られたときに奥歯がなくなった。ギュンターが来るときはオットマンになれと言われ、床に這いつくばらなければいけない。
常に使用人が見張り、死ぬことも許されなかった。
「アンナ様、お辛いでしょうが絶望してはいけません。一緒に……一緒に頑張りましょう」
アンナが耐えられるのは、メイドのララがいるからだった。
ララには病気の弟がおり、ワーズワース家の主治医がときおり診察に行き薬を出していた。ララには治療代を差し引いた額を給金として渡され、ほとんど手元に残らなかった。
アンナの味方をするララもいじめられることが多かったが、弟のため、アンナのために仕事をやめることはしなかった。
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