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蝶々は甘ったるい蜜がお好き
⑦
しおりを挟む蝶々は兄弟もいない一人っ子で両親から溢れるほどの愛情をうけて育ってきた。そして、生まれてからの二十四年間、人のために一生懸命になるとか、涙を流すとか、そういう感情を全く知らずに自分のためにだけ生きてきた。
人を愛すること… 人を救うこと…
聖母マリアの教えに無償の愛という言葉がある。
蝶々は自分の個性は自己愛の元に成り立っていると思っていた。自己愛は悪魔の要素を持ち、無償の愛は神様の尊い願いだ。人を愛し人を救うことに不慣れで未熟な蝶々は、一生懸命の矛先が違う場所へ向かっている事にまだ気づいていない。
「今日、後藤先生のお母様と会いました…」
藤堂はまだ立ち尽くしている蝶々の手を取り、自分の隣に座らせる。
「それで?」
藤堂はもう怒るつもりはない。壁にぶつかって思い悩んでいる蝶々に手を差し伸べるだけだ。
「後藤先生を捜すための捜索願や行方不明者リストへの登録は、家出をした一年後に全て取り下げたということでした」
藤堂は驚いて目を見開いた。
「何のために? 後藤の居所を知ってたのか?」
蝶々は歯を食いしばりながら首を横に振った。後藤の父親が憎くてしょうがない。幼い頃から受けてきた父親の無自覚な虐待から逃れるために、十七歳の少年は自由を求めて家を飛び出した。
全てのものを犠牲にしてそれでも出て行くしかなかった少年の決死の覚悟を、父親である西園寺順也は寄り添う事も考える事もせず、自分の世間体のためだけに息子の存在価値を全く違うものに変えた。考えれば考えるほど、蝶々の怒りは悲しみへと変わっていく。
「後藤先生を捜すために出された捜索願や行方不明者リストの登録も彼が家出をした一年後には取り下げたと、後藤先生のお母様からそう聞きました。
父親の西園寺順也は、自分の世間体のために後藤先生をアメリカに留学していることに仕立て上げたんです。
そして、身内や学校関係者、ましてや友達にまでそのように伝えているため、後藤先生は今アメリカに居ることになっています。
だから、もし後藤先生がデビューをして世間に出てくると分かったら、西園寺順也は全ての権力を使ってそれを阻止するし、この出版社を潰すことになるだろうって、お母様がそう言ってました」
蝶々はくちびるを噛みしめ俯いている。藤堂はそんな蝶々の手を優しく握りしめた。
「マジか… でも、蝶々、後藤の母親はどっちの味方なんだ?」
蝶々の目から見る見る大粒の涙が溢れ出す。
「……お母さまは、後藤先生のことを愛してます。
漫画家になる夢も、表には出さないけど、心から応援してます」
それを聞いて藤堂の心は救われた。
……それだけで大丈夫。母親が後藤の事を愛してくれてるだけでそれだけで十分だ…
「藤堂さん、この事は今週まで私達二人だけの胸にしまっていてもらえますか?
来週になったら編集長に私の方から報告します。新人賞の締切だってもう迫っているし、今は後藤先生のために集中したいんです」
「集中するっていうのは具体的に何をするんだ?」
蝶々は大きく深呼吸をした。
「後藤先生のお父様に直談判に行ってきます」
蝶々は藤堂の目がまた釣り上がるのが分かった。
「勝機は? 言い負かす見込みは?」
蝶々は藤堂の視線に負けないほどの目力で見つめ返した。
「あります……
絶対、勝ちます…
どういう手を使おうと、私は後藤先生の漫画を描く権利を何があっても守ります」
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