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 一階や二階の華やかさと贅沢さとは段違いである。壁がむきだしの暗灰色なのでいっそう暗く見えるのだろう。

「ふふ。びっくりしているんでしょう? 階下と全然ちがうから。でも、娼館て、どこもこういうものなのよ。お客の目に触れるところはお金をかけて豪華で贅沢に見せても、娼婦や下働きの部屋は粗末で貧乏くさいものよ」

 キクの口調に、コンスタンスは気を引かれた。

「あなた、歳幾つなの?」

 東洋人の年齢はわかりにくい。こうして喋っていると同年代のようだが、その言葉からはこうした世界のことを長く知っていることがうかがえる。

 キクは唇の端をゆがめた。もともと細い目が、いっそう細められる。

「十九、と客には言っているけれど……、二十五よ」

 二十五。コンスタンスは目を見開いていた。

 とてもそうは見えない。やはり東洋人の年齢はわかりづらい。

「実はね……、これも内緒だけれど、私日本人じゃなくて中国人なの」

「え?」

 それが何が違うのかわからずコンスタンスは目をぱちくりさせた。

「前の店で、初めてこの仕事をしたときついたお客さん……学生だったんだけれど、その人、東洋文学を勉強していて、ロティっていう人が書いた本に出てくる『お菊さん』ていう本をたまたま読んでいてね……」

 光のない廊下にほのかに初夏の陽光がはじけたようにキクの頬が明るく見える。

「君もキクと名乗ればいいって。キクって、日本語で菊っていう意味なんですって。ふざけて、その人私のことをマドモワゼル・クリザンティアムって呼んだの。で、そのときから私キクっていう名前にしたのよ。いわば、その人が私の名づけ親。娼婦としての、ね」

 初めての客だというその学生は、キクにとって忘れられない人なのだろう。

「どのみち中国人といっても、生まれたのはパリだから中国語なんて全然わからないし、名前も……本名もフランス名だし、他の人には中国人だろうが日本人だろうが関係ないしね。だから、私はここでは日本人のキクなのよ。それに、ここの人たちだって皆名前も年齢も嘘か本当かわからないし、そんなこと……誰もなんとも思わないわ。貴族のご令嬢だっていう人もいれば、女学校を出ているっていう人もいるけれど、それがどこまで嘘か本当かわからない。田舎に子どもがいるのに、それを隠している人もいるし。それは、まぁ、しょうがないけれど」
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