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落花流水 三
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壁際には小さな台に龍首の水瓶ひとつと銅杯が四つ置かれてある。水は毎朝召使が清水をくんでおくのだという。
磨きぬかれた黒い石卓をはさんで英風も腰かけ、侍女と輪花はそれぞれの主の後方にたたずんだ。
「金媛は子どもの頃は病弱でして、そのせいか、私や母ですっかり甘やかして育ててしまいましたの。行き届かぬところもあるとは思いますが、どうか大目に見てやってください」
玉蓮がかすかに頭を下げ、英風はあわてた。
「とんでもない。私の方こそ不調法者で。何か不足があっても、どうかおゆるしください」
金媛は無言であるが、横目で母を怨じるかのように睨み、かすかに紅色の袖を小さな指で引っ張っている。お母様ったら……、というふうに。その色白の顔は充分に愛らしく、怒りよりも甘えがにじみ出ている。
「少し喉がかわいたわね。お水を」
玉蓮に命じられた侍女が急いで水瓶を取りに向かう。輪花も手伝おうかと思ったが、玉蓮は笑って首を振った。
「輪花は婿殿のお側にひかえていなさい。婿殿の御用があるときすぐ動けるようにね」
そういうものかと思って輪花はおとなしく引っ込んだ。
侍女が三つ杯を盆にのせて持ってきた。
「あっ……」
金媛の紅をさしたちいさな唇がかすかに開かれた。受け取ろうとして水を袖にこぼしてしまったのだ。
「お、おゆるしくださいませ!」
若い侍女はあわてて懐から取り出した自分の手巾で、濡れた所をぬぐおうとした。
「気をつけなさい」
玉蓮が侍女をたしなめた。
(あら……)
実際には、侍女ではなく金媛がぼんやりしていたように輪花には思えたのだが、当然そんなことは口に出せない。こういう場合、悪いのは使用人となる。
だが、それよりも輪花が気をひかれたのは、侍女が袖に布をあてて水気を拭きとろうとした瞬間、かすかに見えた金媛のほそい手首だ。
その白く華奢な手首の内側に、赤い痣のようなものが見えた。
一瞬のことだったが、あれは間違いなく痣だ。輪花は背がこわばった。
(まさか……)
どこかにぶつけたのかもしれない。だが、まさかとは思うが……、英風がつけたものなのだろうか。
輪花は英風の背を見た。こちらからは顔は見えない。かすかに耳から首にかけての、男性にしては白い肌だけが見えて、表情は見えない。輪花は妙なことを考えている自分に不快感をおぼえた。
(まさかね。英風様が暴力をふるったりするわけないわ)
断言できるほど付き合いがあるわけではないが、直感的にそう信じ、かすかな疑惑をふりはらった。
玉蓮は優雅に扇をふって微笑んでいる。貴婦人たちはめったに己の感情を見せない。喜怒哀楽を率直にあらわすのは貴族の女性にとってはあるまじきことなのだ。つねに扇や袖で顔半分をかくし、喜びも悲しみも半分だけしか見せようとしないのだ。
だが、一瞬、ほんの一瞬、輪花と目が合った瞬間、玉蓮のいつもはなごやかな瞳に、かすかに影が走ったのを輪花は感じた。
輪花はそのとき玉蓮に見た半端な笑みと、かすかな影を、後々まで忘れることがなかった。
磨きぬかれた黒い石卓をはさんで英風も腰かけ、侍女と輪花はそれぞれの主の後方にたたずんだ。
「金媛は子どもの頃は病弱でして、そのせいか、私や母ですっかり甘やかして育ててしまいましたの。行き届かぬところもあるとは思いますが、どうか大目に見てやってください」
玉蓮がかすかに頭を下げ、英風はあわてた。
「とんでもない。私の方こそ不調法者で。何か不足があっても、どうかおゆるしください」
金媛は無言であるが、横目で母を怨じるかのように睨み、かすかに紅色の袖を小さな指で引っ張っている。お母様ったら……、というふうに。その色白の顔は充分に愛らしく、怒りよりも甘えがにじみ出ている。
「少し喉がかわいたわね。お水を」
玉蓮に命じられた侍女が急いで水瓶を取りに向かう。輪花も手伝おうかと思ったが、玉蓮は笑って首を振った。
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そういうものかと思って輪花はおとなしく引っ込んだ。
侍女が三つ杯を盆にのせて持ってきた。
「あっ……」
金媛の紅をさしたちいさな唇がかすかに開かれた。受け取ろうとして水を袖にこぼしてしまったのだ。
「お、おゆるしくださいませ!」
若い侍女はあわてて懐から取り出した自分の手巾で、濡れた所をぬぐおうとした。
「気をつけなさい」
玉蓮が侍女をたしなめた。
(あら……)
実際には、侍女ではなく金媛がぼんやりしていたように輪花には思えたのだが、当然そんなことは口に出せない。こういう場合、悪いのは使用人となる。
だが、それよりも輪花が気をひかれたのは、侍女が袖に布をあてて水気を拭きとろうとした瞬間、かすかに見えた金媛のほそい手首だ。
その白く華奢な手首の内側に、赤い痣のようなものが見えた。
一瞬のことだったが、あれは間違いなく痣だ。輪花は背がこわばった。
(まさか……)
どこかにぶつけたのかもしれない。だが、まさかとは思うが……、英風がつけたものなのだろうか。
輪花は英風の背を見た。こちらからは顔は見えない。かすかに耳から首にかけての、男性にしては白い肌だけが見えて、表情は見えない。輪花は妙なことを考えている自分に不快感をおぼえた。
(まさかね。英風様が暴力をふるったりするわけないわ)
断言できるほど付き合いがあるわけではないが、直感的にそう信じ、かすかな疑惑をふりはらった。
玉蓮は優雅に扇をふって微笑んでいる。貴婦人たちはめったに己の感情を見せない。喜怒哀楽を率直にあらわすのは貴族の女性にとってはあるまじきことなのだ。つねに扇や袖で顔半分をかくし、喜びも悲しみも半分だけしか見せようとしないのだ。
だが、一瞬、ほんの一瞬、輪花と目が合った瞬間、玉蓮のいつもはなごやかな瞳に、かすかに影が走ったのを輪花は感じた。
輪花はそのとき玉蓮に見た半端な笑みと、かすかな影を、後々まで忘れることがなかった。
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