龍蘭帝国奇談夜話

平坂 静音

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風歌月舟 二

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「若様は、そちらの伊蘭樹いらんじゅの芸をご所望じゃ」
 老いた大家の従僕が伊蘭樹を名ざしした。
「お言葉ですが、それは芸人同士の仁義をやぶることになります」
 伊蘭樹はつつしんで辞退した。自信がないわけではないが、芸自慢のあまり、仁義もかえりみず栴檀樹に技くらべをしかけたと思われてはこまる。
 伊蘭樹には龍蘭の人からは蔑まれる南方の民の血がはいっている。おそらく下級芸人であった母親の両親のどちらかが南方の出だったのだろう。
 芸人というだけで世間一般の人からは見下されるうえに、伊蘭樹はさらに異種の血をひいているということで、迫害の鞭を幼いころから身にも心にも痛いほどにあびせられてきた。それでなくとも遊芸で食べていくのはきびしく、一座の上下関係や芸事のしきたりというのは、宮殿づとめほどに過酷で複雑だ。
 伊蘭樹は苦界とよばれるような場所で六つのころから独力でやりぬいてきたのだ。もちろん芸の天分にもめぐまれていたが、なによりものを言ったのは伊蘭樹の不屈の闘志と筋金すじがね入りの気骨だろう。
 十二歳で粗末ながらも舞台にあがり、座頭から伊蘭樹という名をもらったときは、眉をひそめる周囲のものを尻目に、勝ちほこったように笑ってみせたほどだ。
 ――伊蘭樹。伝説のその樹は、はるかかなたからも嗅ぎわけられるという異臭をはなち、その実を食せば狂うといわれる悪名たかい毒樹どくじゅである。
 あえてその名を芸名としてかがけたところからして、伊蘭樹の非凡さと、一筋縄ではいかない強烈な個性がうかがわせられる。
 一座は自分たちの舞台を持たぬため、よその舞台を借りたり、人でにぎわう場所をえらんで芸を演じたりして日銭を稼いできた。だが、どんな場所でも伊蘭樹の踊りはぬきんでていた。
 ここ一年ほど、伊蘭樹の踊りは人目につくようになり、河原でも市場でも祭りの場でも、伊蘭樹が踊ると聞くと人があつまるようになってきた。
 このままうまくいけば一座も自分たちの小屋を持てるのではないかと期待していたときに、願ってもない御曹司のお誘いである。座頭としては、ここで一気に一座と伊蘭樹の名を売りたいところだ。だが、当の伊蘭樹がいい顔をしない。
 伊蘭樹は従者の耳にはいらぬよう小声で朋輩にこぼした。
「俺の踊りと、栴檀樹の踊りをくらべようという腹なのだろう? 誰かとくらべられるなんて、まっぴらだ。俺の踊りは、誰ともくらべられるものじゃない」
 伊蘭樹は肩のあたりで切りそろえた黒髪をかすかにふり乱し、きかん気な娘のように唇をとがらせた。
 太陽に、よりふかく愛された民の血をひく飴色あめいろの肌に、木炭のように燃える黒い瞳。
 異国の風をまとう華やかでありながら野生を感じさせる美貌には、たしかに一口食せば気がふれるという毒樹の名は似合いかもしれない。こういう人間を思いどおりに動かすのは無理だろう。
 座頭の目にあきらめがかげり、一座の者が、せっかくの好機なのに話はここで終わりかと落胆しはじめたそのとき、場に聞きなれぬ声がわりこんできた。
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