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ルシューランにて
カルの一日3.
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食堂を出るとロビーのソファにちょこんと座る少女の姿があった。足音に気づいた小さなシルエットが俺を見つけて駆け寄ってきた。
「どこ行くのぉ?」
首をコクりとかしげ、見上げてくる。
「ちょっと外にいこうと思って」
ちょっと近いな。足元まで走ってきた少女に戸惑いを覚える。ほぼ空間のない二人の距離に、半歩下がってしゃがむことで間隔を取る。けして子供が苦手なわけではなかったが、取り分け得意ということでもなかった。
「リュールも行きます!」
幼い子どもにありがちな抑揚の大きい話し方で無茶を言う。
「酒場にも行くんだ。君は行けないだろう?」
「行くぅ!」
困ったな。
「何も買ってあげられないよ」
少女は首を振る。
「いらない」
「でも、君のママがなんて言うかな」
「聞いてくりゅ」
くるりと振り返って駆け出した。その背中がカウンターの裏のドアに消えた。静かになったロビーを見渡す。ソファの上の開かれたままの絵本がなんとも言えない寂しさを演出していた。一人で遊んでいたのだろうか。そう思うと健気にも感じる。
今のうちに宿を出ればいいのだろうが、それをする勇気もない。数日は宿泊する予定なので嫌われることは何となく避けたかった。
ふと、カウンターの横の籠に目が留まった。「ご自由にお取りください」の札がついたハンカチのような紙のような柔らかい布が数枚置かれていた。客が手を拭くためのものだろう。さっき見たときはなかったものだ。手続きの際にペンを手についた土で汚してしまったので慌てて用意したようだ。さすがに、俺たちより汚れたやつが来るとも思えないが。
「ハンカチ、、持ってなかったな」
ガチャ
「━━━なのかい」
少女に手を引かれたおばちゃんが彼女に問いかけながら扉の向こうから現れた。
「あぁ、あんた」
小さな少女から顔を上げこちらを向いたおばちゃんが立ち止まる。
「本当にいいのかい? この子、手がかかると思うけど」
「えっと」
「この子、外に連れてってくれるんだろう?」
「、、、」
そんなこと、言ってない。少女を見ると俺の顔をじっと見つめていた。それは睨んでいるとも言えるようなそんな表情で、黙っていろと語っていた。
はぁ。
ため息は隠せない。本当はおばちゃんにうまい具合に説得してほしかったのだが。思いがけず後押しされる形となった。
「あぁ、あんまり面倒見るってのは慣れてないけど。いい子にしてるならっていう条件付きで」
少女の方を見るとその顔がパッと明るくなるのが見えた。この距離で見るのには可愛いんだけどな。
「ほんとかい? 悪いねぇ、助かるよ。リュール、お兄ちゃんを困らせちゃいけないよ!」
「はい!」
大きく頷いた少女は母親の手を放しこちらへ走ってくる。可愛いな、その無邪気さの裏に隠しているものを除けば。
小さな手が俺の手をとって歩きだす。後ろではおばちゃんが暢気に手を振っていた。
扉を開ける。
「君は策士だね」
少女を潜らせる際、聞こえない程度の声で呟いた。
その意味はおそらくわかっていないだろう。だが少女は、その幼い存在に似合わない含み笑いを俺に向けた。
宿を出ると昼過ぎということもあり、依然路は人でごった返していた。繋いだ手を強く握る。
「絶対に離しちゃダメだよ」
頷く少女を横目に人混みに踏み出す。
「どこ行くのぉ?」
「まずは人が集まりそうな場所かな。ゆっくり話ができるところ」
そうなるとやはり酒場になるか。
「ふーん」
少女の存在が邪魔だった。さすがに幼い子どもを酒場に連れていくことはできない。かといって一人で待たせるのも、、うーん、、、
「とそかんは?」
リュールが何か言った。
「とそかん?」
「ご本がね、いーっぱいあるんだよぉ」
なるほど。
「図書館かぁ」
この町には図書館があるのか。意外だな。リプラーのこと何かわかるだろうか。
「リュール場所知ってるよ」
「あっ、しょ、言えたじゃん」
「んー?」
首をかしげるその素振りは自らの誤りには気づいていないように見えた。わざわざ教えることでもないだろう。どうせいつか直ってしまうことだ。
のぞき込む円らな瞳を見つめ返して首を振る。
「なんでもない」
幼さはもう少し、魅力として残しておこう。
「図書館どこ?」
「あっちー!」
ぐいぐいと手を引いて歩きだす。人混みの中を何度もぶつかりながら抜けて行く。
「えっ、ちょっ、おっと。そんな急がなくても、まだ時間あるし、おい? うわぁっ」
何度か足を踏まれたし、何度も踏んだ。この混み入った場所で走るのはやはりよくないようで、手を引かれる大人の体は、少女のように人混みをすり抜けることができない。
大通りに出るといっそう人との間隔が狭くなり音の数も増えた。揉まれるように進む耳元で通りすぎる人々の声が聞こえる。老若男女いくつもの声で活気ある町の通りは散歩には向かない。
人混みを抜け出たところで少女の足は止まった。
「ここ!」
少女の指差す先をたどり、乱れた服を直しながら顔を上げるとそこには大きな建物があった。その大きさに目を開く。
「これが、図書館?」
「ここ!」
少女は間違いなく目の前のばかでかい煉瓦壁の建物を指差している。赤煉瓦の外壁に金色の枠で縁取られた多くの出窓が太陽の光を受けて反射している。石階段の先の木の扉は重厚な色合いで、けして主張しすぎない落ち着いた風合いの美しい彫刻が施されていた。博物館にも高尚なホテルにも見えるその外見は図書館であるという事実を疑わせる。
「ほんとに?」
「くどい」
少女の口から飛び出た言葉に思わずおののく。
「そっ、そんなこと言うなよ」
ふいと顔をそらし繋いでいた手を放した少女は、そそくさと扉の向こうへ入って行ってしまった。怒らせたか。
残された町。すぐ後方ではざわざわと賑わう声が聞こえるのに、何か小さな寂しさが心のなかで渦巻いている。
「っ、たく」
踏み出した足は、寂しさに負けた足。
「しょうがねぇな」
それには気づかないように大人を気取って扉を開く。隙間からふわりと香った蔵書の香りに足を踏み入れた。
扉が閉まると共に外の音がプツリと消えた。目の前には円形の大きなエントランスホールが広がっている。すでに少女の姿はない。ホールを取り囲むように縦方向に本棚が設置され、その数も建物の大きさに比例している。外から見えた出窓は案外低い位置にあり、明るい光を建物全体に届けていた。窓から視線を這わせてふと行き着いた階段。丸い壁に沿った階段で、そこから上の階へと上がれるようだ。
一通り館内を見渡したところで本棚の間へと入って行く。
「えほん、、絵本は、っと、、、」
一階には幼い子どもの気を引きそうなものは見当たらない。あるのは科学書や魔法書、地理本などの類いで、今のカルにはあまり役に立ちそうなものもない。
唯一目を引いたのは本棚が作り出した通路の奥、眠るように展示された古びた装飾品だった。
冠だろうか。散りばめられた宝石はくすみ、もとは美しく輝いていたのだろう銀枠も錆び付いている。ガラスケースの中のそれはとうに美しさを失っているが、その落ちた優美さの中からまだ確かに何か強いものを発していた。魔法か何か。魔法を使えないので詳しいことはわからないがそんな雰囲気を含んでいた。
その何かに引き付けられてそこまで足を運んだものの、いくら眺めたところで当然何が起こるわけでもないから結局は引き返して来ることになったが。
階段の前、もう一度辺りを見渡してから一段上る。大理石の空間にすみきった足音が響いた。
「ヤバッ」
次の段はもっと慎重に、静かに上って行く。
トン、トン、トン
小さく響く足音はだんだんと一階から遠ざかる。見えてきた二階はささやかではあるが人の声が聞こえている。最後の一歩が気品ある赤茶色のカーペットに受け止められた。
一階とは異なり空間の中央にも多くの本棚が並び、所々に親子連れや小さな子供の姿が見られる二階は、並んでいる本も一見したところ絵本が多数を占めているようだ。そこそこ身長のある青年が入るには少し浮く場所で、近くにいた小さな子供達が興味深そうにまじまじと見つめてくる。
小さな視線を受け止めながらその中にリュールの姿を探した。外から見えたように二階も計八つほどの出窓があった。多い上に大きさもあるので中は外と変わらず光に満ちている。ひとつ一階と違うのは出窓の位置が極端に低いことだ。カルの膝下ほどから始まる窓は、その低さに違和感を覚える。
ふと二つ隣の出窓を見ると親子連れが絵本を片手に楽しそうに会話をしながら近づいて行くのが見えた。そのうちの子どもの方、まだ五才にも満たないだろう少年が出窓に腰掛けた。母親が隣に座って読み聞かせる声が小さくこちらまで聞こえてくる。周りを見渡すと所々に出窓に座っている子どもの姿が見えた。
なるほどな。そういうことか。椅子代わりの出窓とは館長もおしゃれなことを考えたものだ。周りでは床の上で本を読んでいる姿も見受けられた。そのためのカーペットか。柔らかな感触が彼らを優しく包むのだろう。それに、これなら子どもが走ってもあまり音が響かない。椅子も用意してあったが、あまり使用された形跡はなかった。特別なことがしたいのは冒険心だ。
感心しながら本棚の間を歩いているといつのまにか次の階段の前に来た。おそらく全て見て回ったということだろう。しかしどこにも彼女の姿はなかった。
困ったな。ここじゃないならもう心当たりないし。「面倒見る」だなんてな。すでに見失ってるし。はぁ、面倒くさいこと引き受けちまったなぁ。
心で文句を唱えながら、考えていても仕方がないので階段を上る。館内にいることは確かなのだ。あとは、ひとつずつ潰していけば見つかるさ。
三階は、芸術や歴史、倫理と多種の棚が混在し、その中には多少なりとも動物学の棚もあった。
「えっと、、幻獣は、、」
あった。本棚の隅、動物図鑑の隣に隠れるように存在していた。
「幻獣伝録集・改訂版」
それほど厚みもなく新しくもない。革表紙に金文字で書かれたタイトルは掠れて消えかかっている。これだけ本が並んでいる中、この類いは本棚に一冊しかない。
開いてみるとかなり古いが、繊細で美しい絵が各ページに描かれていた。
「ドラゴン、、」
三ページ目の迫力ある火を吹く様子に見とれた。炎が反射し光る鱗が虹の光を帯び、見る者を圧倒する迫力を持つ。
「おぅ、これは、、くるな」
七ページ目のメデューサ。蠢く蛇を頭にもつ女の絵。目を合わせた男が複数人、彼女の周りで絶望の色に変わっていた。
「黄金の翼と牙、、石化ねぇ、」
少し体温が下がったような気がした。絵だとわかっていてもこちらを見つめる鋭い光を持った瞳には寒気を感じる。彼女の持つ妖艶な美しさがさらに恐怖を煽り、この絵自体がなにか特別な意味を持つのでは、なんていう突飛な発想に至って慌てて首を振る。ありえない。
この階には人がいない。出窓に腰掛ける人影はひとつとしてない。こちらは先程より低くはなく、大人でも苦なく座れる高さにある。あそこで読めば日の光が当たって心地好いだろうに。まぁ、外では祭りがあるようだし。わざわざそんな日に調べ物をする人がいないのは仕方ないことなのだけれど、、、ちょっと寒いな。
足は自然と階段へ向かう。言い訳は考えてある。リプラーの情報はここにはないのだからこれ以上ここにいても、、な。
先程より気持ち大きな足音が響く。後ろがやけに気になったのは秘密だ。
四階。ここが最上階らしく、この階には階段がない。
とすれば、あの子もここか。
辺りを見渡す。作りは三階とほとんど変わらずやはり出窓は万人が座りやすい位置につけられている。
ちらほらと人の姿が見える。ここはフィクション、ノンフィクションを問わず様々な小説が置いてあるようだ。読者の世代も広く子供から年寄りまで、椅子に座ったり窓を目指したりと各々の気に入った場所で熱心に読書に励んでいる。今は小説には用がないので大まかに棚を調べながら歩いていると一人の老人が目に留まった。
かっこいい爺さんだな。紺のスーツをピシッと着こなしたその男は本を片手に出窓に腰掛けていた。その長い足は優雅に組まれ、本を持つ手はシルクの手袋をはめており指先まで気品が溢れている。グレーの髪色も老いというよりその存在の奥深さを増す要因のひとつとなっていた。
「あの、爺さん」
特に理由があったわけではない。ただ、そろそろ彼女が見つからないことに少しばかり不安を覚え始めていたから。誰かに尋ねることも手だと思ったのだ。そして何となく、この老紳士と話してみたいと思った。
老紳士はゆっくりと顔を上げた。
「なんでしょう」
「あのさ、突然で悪いんだけど人探してて」
これくらいの。と手で腰の辺りを示す。
「女の子なんだけどさ、茶色い髪してて空色のワンピース着てんだけど。見てない?」
「ふむ、人探しですか。お子さん、もしくは妹さんでしょうか」
茶髪というのが気になったのだろう。その視線は一瞬だけ俺の赤い髪に注がれた。老紳士は見定めるように見据えてくる。
「あっ、いや、預かっててさ。知り合いの娘さんなんだ」
「ほぅ、なぜはぐれたのでしょう」
まだ信じてくれないか。
「ちょっと、怒らせちゃってさ。一人でここに入ってきちゃって。俺、ここのこと全然知らないからさ、二階は見たんだけどいなくて。他に子どもが行きそうな場所ってあるか」
「、、その子の居場所なら知っています」
「ほんとか!」
「ですが、ここを出る前に仲直りすること。これを守っていただけるならお教えしましょう」
老紳士の表情は柔らかい。しかし真剣にことを問うていた。
そんなこと、言われなくてもそのつもりだ。
「あぁ、わかった。ちゃんと仲直りするよ」
彼は頷いた。そして優雅に立ち上がる。
「あの子はこちらです。ついてきなさい」
美しさをも感じさせる立ち姿がカルの前を歩き出した。
連れていかれたのはスタッフオンリーの職員休憩所だった。階の隅、壁の色に合わせた白い扉を潜るとそこに、少女はいた。
二階と同じカーペットが敷かれている。踏み込んだ足には靴を隔ててもその柔らかさが伝わってくる。中央のテーブルにいくつかの椅子と茶色いソファがあるだけのシンプルな部屋だった。本当に座って休むだけ。それだけの部屋で少女は一人、テーブルに絵本を広げ、口の周りを白く染めながら両手で抱えたマグカップに顔を埋めていた。
どうりで見つからないわけだ。誰が司書室でホットミルクを飲んでるなんて思うだろう。少なくともカルには想像ができなかった。というか、司書室があったとは。壁の色と扉が保護色なので気づくことすらできなかった。
扉が閉まる音でこちらに気づいた彼女が掛けてきた。宿のときとは違い数歩前で立ち止まる。
見上げる瞳が薄く抗議の色を湛えていた。時間が経ち怒りも消えかかっているのだろう。最後の数歩がむず痒いのは彼女も同じのようだ。だがこの距離は彼女の意地。簡単には縮まらない。
わかってるさ、君が望むことくらい。
しゃがんで目線を合わせる。
「ごめんよ、疑ってた訳じゃないんだ」
ただちょっと、びっくりしてただけ。君を傷つけるつもりはなかった。
「許してくれる?」
手を差し出してみる。しゃがみ込むと少女の方が大きくなる。見下げる少女の表情は。瞳は。
笑った。
「ゆりゅしてあげる」
差し出した手を小さな手が掴んだ。その笑みは今この瞬間、何物にも代えがたく愛らしい。
「口の周り、ミルク付いてる」
宿のカウンターから拝借した布を差し出す。さすがに拭いてあげる勇気はなかった。
リュールが受けとるのを見届けてから後ろで見ていた老紳士が口を開いた。
「よかったねぇリュールちゃん」
口元を布で押さえこくりと頷くリュールは笑っている。、、知り合いなのか。
「あのさ。爺さん、一体誰なんだよ」
「おお、申し遅れましたな。私この館の支配人をしておりますハズトアと申します」
「館長だったのか!」
「はい。ルシューラン館館長です」
「でも、館長がなんで」
リュールの方をうかがう。拭き終えた布をくしゃくしゃに丸めポケットに詰めている。あぁ、あれはもう使えないかな。
「いつもはお母様と一緒に来られるリュールちゃんが今日は一人でしたので、事情を聞いてみますと喧嘩をしたと言うではありませんか。私何かの役に立ちたく、ああして待っていたのでございます。お母様がいらっしゃると思い込んでおりましたので気づくことができませんでしたが」
申し訳ないと腰を曲げる館長を止め、それならばと理解する。赤髪の男が現れたら確かに不審に思うだろう。わからないのも当然だ。
「リュール、ちゃんと説明してなかったのか」
「した」
「じゃあなんで━━」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。仲直りできたのだから」
「でも、、、そうだな。よかった」
子どもの説明には不備が付き物だ。細部まで説明したつもりができていなかった。今回もそんなところだろう。彼女を責めるのも違う気がした。
結果オーライ。そう言って館長は再び扉を開く。
「さぁ、仲直りもできたのです。読書を楽しんでいってください。そのための図書館なのですから」
「どこ行くのぉ?」
首をコクりとかしげ、見上げてくる。
「ちょっと外にいこうと思って」
ちょっと近いな。足元まで走ってきた少女に戸惑いを覚える。ほぼ空間のない二人の距離に、半歩下がってしゃがむことで間隔を取る。けして子供が苦手なわけではなかったが、取り分け得意ということでもなかった。
「リュールも行きます!」
幼い子どもにありがちな抑揚の大きい話し方で無茶を言う。
「酒場にも行くんだ。君は行けないだろう?」
「行くぅ!」
困ったな。
「何も買ってあげられないよ」
少女は首を振る。
「いらない」
「でも、君のママがなんて言うかな」
「聞いてくりゅ」
くるりと振り返って駆け出した。その背中がカウンターの裏のドアに消えた。静かになったロビーを見渡す。ソファの上の開かれたままの絵本がなんとも言えない寂しさを演出していた。一人で遊んでいたのだろうか。そう思うと健気にも感じる。
今のうちに宿を出ればいいのだろうが、それをする勇気もない。数日は宿泊する予定なので嫌われることは何となく避けたかった。
ふと、カウンターの横の籠に目が留まった。「ご自由にお取りください」の札がついたハンカチのような紙のような柔らかい布が数枚置かれていた。客が手を拭くためのものだろう。さっき見たときはなかったものだ。手続きの際にペンを手についた土で汚してしまったので慌てて用意したようだ。さすがに、俺たちより汚れたやつが来るとも思えないが。
「ハンカチ、、持ってなかったな」
ガチャ
「━━━なのかい」
少女に手を引かれたおばちゃんが彼女に問いかけながら扉の向こうから現れた。
「あぁ、あんた」
小さな少女から顔を上げこちらを向いたおばちゃんが立ち止まる。
「本当にいいのかい? この子、手がかかると思うけど」
「えっと」
「この子、外に連れてってくれるんだろう?」
「、、、」
そんなこと、言ってない。少女を見ると俺の顔をじっと見つめていた。それは睨んでいるとも言えるようなそんな表情で、黙っていろと語っていた。
はぁ。
ため息は隠せない。本当はおばちゃんにうまい具合に説得してほしかったのだが。思いがけず後押しされる形となった。
「あぁ、あんまり面倒見るってのは慣れてないけど。いい子にしてるならっていう条件付きで」
少女の方を見るとその顔がパッと明るくなるのが見えた。この距離で見るのには可愛いんだけどな。
「ほんとかい? 悪いねぇ、助かるよ。リュール、お兄ちゃんを困らせちゃいけないよ!」
「はい!」
大きく頷いた少女は母親の手を放しこちらへ走ってくる。可愛いな、その無邪気さの裏に隠しているものを除けば。
小さな手が俺の手をとって歩きだす。後ろではおばちゃんが暢気に手を振っていた。
扉を開ける。
「君は策士だね」
少女を潜らせる際、聞こえない程度の声で呟いた。
その意味はおそらくわかっていないだろう。だが少女は、その幼い存在に似合わない含み笑いを俺に向けた。
宿を出ると昼過ぎということもあり、依然路は人でごった返していた。繋いだ手を強く握る。
「絶対に離しちゃダメだよ」
頷く少女を横目に人混みに踏み出す。
「どこ行くのぉ?」
「まずは人が集まりそうな場所かな。ゆっくり話ができるところ」
そうなるとやはり酒場になるか。
「ふーん」
少女の存在が邪魔だった。さすがに幼い子どもを酒場に連れていくことはできない。かといって一人で待たせるのも、、うーん、、、
「とそかんは?」
リュールが何か言った。
「とそかん?」
「ご本がね、いーっぱいあるんだよぉ」
なるほど。
「図書館かぁ」
この町には図書館があるのか。意外だな。リプラーのこと何かわかるだろうか。
「リュール場所知ってるよ」
「あっ、しょ、言えたじゃん」
「んー?」
首をかしげるその素振りは自らの誤りには気づいていないように見えた。わざわざ教えることでもないだろう。どうせいつか直ってしまうことだ。
のぞき込む円らな瞳を見つめ返して首を振る。
「なんでもない」
幼さはもう少し、魅力として残しておこう。
「図書館どこ?」
「あっちー!」
ぐいぐいと手を引いて歩きだす。人混みの中を何度もぶつかりながら抜けて行く。
「えっ、ちょっ、おっと。そんな急がなくても、まだ時間あるし、おい? うわぁっ」
何度か足を踏まれたし、何度も踏んだ。この混み入った場所で走るのはやはりよくないようで、手を引かれる大人の体は、少女のように人混みをすり抜けることができない。
大通りに出るといっそう人との間隔が狭くなり音の数も増えた。揉まれるように進む耳元で通りすぎる人々の声が聞こえる。老若男女いくつもの声で活気ある町の通りは散歩には向かない。
人混みを抜け出たところで少女の足は止まった。
「ここ!」
少女の指差す先をたどり、乱れた服を直しながら顔を上げるとそこには大きな建物があった。その大きさに目を開く。
「これが、図書館?」
「ここ!」
少女は間違いなく目の前のばかでかい煉瓦壁の建物を指差している。赤煉瓦の外壁に金色の枠で縁取られた多くの出窓が太陽の光を受けて反射している。石階段の先の木の扉は重厚な色合いで、けして主張しすぎない落ち着いた風合いの美しい彫刻が施されていた。博物館にも高尚なホテルにも見えるその外見は図書館であるという事実を疑わせる。
「ほんとに?」
「くどい」
少女の口から飛び出た言葉に思わずおののく。
「そっ、そんなこと言うなよ」
ふいと顔をそらし繋いでいた手を放した少女は、そそくさと扉の向こうへ入って行ってしまった。怒らせたか。
残された町。すぐ後方ではざわざわと賑わう声が聞こえるのに、何か小さな寂しさが心のなかで渦巻いている。
「っ、たく」
踏み出した足は、寂しさに負けた足。
「しょうがねぇな」
それには気づかないように大人を気取って扉を開く。隙間からふわりと香った蔵書の香りに足を踏み入れた。
扉が閉まると共に外の音がプツリと消えた。目の前には円形の大きなエントランスホールが広がっている。すでに少女の姿はない。ホールを取り囲むように縦方向に本棚が設置され、その数も建物の大きさに比例している。外から見えた出窓は案外低い位置にあり、明るい光を建物全体に届けていた。窓から視線を這わせてふと行き着いた階段。丸い壁に沿った階段で、そこから上の階へと上がれるようだ。
一通り館内を見渡したところで本棚の間へと入って行く。
「えほん、、絵本は、っと、、、」
一階には幼い子どもの気を引きそうなものは見当たらない。あるのは科学書や魔法書、地理本などの類いで、今のカルにはあまり役に立ちそうなものもない。
唯一目を引いたのは本棚が作り出した通路の奥、眠るように展示された古びた装飾品だった。
冠だろうか。散りばめられた宝石はくすみ、もとは美しく輝いていたのだろう銀枠も錆び付いている。ガラスケースの中のそれはとうに美しさを失っているが、その落ちた優美さの中からまだ確かに何か強いものを発していた。魔法か何か。魔法を使えないので詳しいことはわからないがそんな雰囲気を含んでいた。
その何かに引き付けられてそこまで足を運んだものの、いくら眺めたところで当然何が起こるわけでもないから結局は引き返して来ることになったが。
階段の前、もう一度辺りを見渡してから一段上る。大理石の空間にすみきった足音が響いた。
「ヤバッ」
次の段はもっと慎重に、静かに上って行く。
トン、トン、トン
小さく響く足音はだんだんと一階から遠ざかる。見えてきた二階はささやかではあるが人の声が聞こえている。最後の一歩が気品ある赤茶色のカーペットに受け止められた。
一階とは異なり空間の中央にも多くの本棚が並び、所々に親子連れや小さな子供の姿が見られる二階は、並んでいる本も一見したところ絵本が多数を占めているようだ。そこそこ身長のある青年が入るには少し浮く場所で、近くにいた小さな子供達が興味深そうにまじまじと見つめてくる。
小さな視線を受け止めながらその中にリュールの姿を探した。外から見えたように二階も計八つほどの出窓があった。多い上に大きさもあるので中は外と変わらず光に満ちている。ひとつ一階と違うのは出窓の位置が極端に低いことだ。カルの膝下ほどから始まる窓は、その低さに違和感を覚える。
ふと二つ隣の出窓を見ると親子連れが絵本を片手に楽しそうに会話をしながら近づいて行くのが見えた。そのうちの子どもの方、まだ五才にも満たないだろう少年が出窓に腰掛けた。母親が隣に座って読み聞かせる声が小さくこちらまで聞こえてくる。周りを見渡すと所々に出窓に座っている子どもの姿が見えた。
なるほどな。そういうことか。椅子代わりの出窓とは館長もおしゃれなことを考えたものだ。周りでは床の上で本を読んでいる姿も見受けられた。そのためのカーペットか。柔らかな感触が彼らを優しく包むのだろう。それに、これなら子どもが走ってもあまり音が響かない。椅子も用意してあったが、あまり使用された形跡はなかった。特別なことがしたいのは冒険心だ。
感心しながら本棚の間を歩いているといつのまにか次の階段の前に来た。おそらく全て見て回ったということだろう。しかしどこにも彼女の姿はなかった。
困ったな。ここじゃないならもう心当たりないし。「面倒見る」だなんてな。すでに見失ってるし。はぁ、面倒くさいこと引き受けちまったなぁ。
心で文句を唱えながら、考えていても仕方がないので階段を上る。館内にいることは確かなのだ。あとは、ひとつずつ潰していけば見つかるさ。
三階は、芸術や歴史、倫理と多種の棚が混在し、その中には多少なりとも動物学の棚もあった。
「えっと、、幻獣は、、」
あった。本棚の隅、動物図鑑の隣に隠れるように存在していた。
「幻獣伝録集・改訂版」
それほど厚みもなく新しくもない。革表紙に金文字で書かれたタイトルは掠れて消えかかっている。これだけ本が並んでいる中、この類いは本棚に一冊しかない。
開いてみるとかなり古いが、繊細で美しい絵が各ページに描かれていた。
「ドラゴン、、」
三ページ目の迫力ある火を吹く様子に見とれた。炎が反射し光る鱗が虹の光を帯び、見る者を圧倒する迫力を持つ。
「おぅ、これは、、くるな」
七ページ目のメデューサ。蠢く蛇を頭にもつ女の絵。目を合わせた男が複数人、彼女の周りで絶望の色に変わっていた。
「黄金の翼と牙、、石化ねぇ、」
少し体温が下がったような気がした。絵だとわかっていてもこちらを見つめる鋭い光を持った瞳には寒気を感じる。彼女の持つ妖艶な美しさがさらに恐怖を煽り、この絵自体がなにか特別な意味を持つのでは、なんていう突飛な発想に至って慌てて首を振る。ありえない。
この階には人がいない。出窓に腰掛ける人影はひとつとしてない。こちらは先程より低くはなく、大人でも苦なく座れる高さにある。あそこで読めば日の光が当たって心地好いだろうに。まぁ、外では祭りがあるようだし。わざわざそんな日に調べ物をする人がいないのは仕方ないことなのだけれど、、、ちょっと寒いな。
足は自然と階段へ向かう。言い訳は考えてある。リプラーの情報はここにはないのだからこれ以上ここにいても、、な。
先程より気持ち大きな足音が響く。後ろがやけに気になったのは秘密だ。
四階。ここが最上階らしく、この階には階段がない。
とすれば、あの子もここか。
辺りを見渡す。作りは三階とほとんど変わらずやはり出窓は万人が座りやすい位置につけられている。
ちらほらと人の姿が見える。ここはフィクション、ノンフィクションを問わず様々な小説が置いてあるようだ。読者の世代も広く子供から年寄りまで、椅子に座ったり窓を目指したりと各々の気に入った場所で熱心に読書に励んでいる。今は小説には用がないので大まかに棚を調べながら歩いていると一人の老人が目に留まった。
かっこいい爺さんだな。紺のスーツをピシッと着こなしたその男は本を片手に出窓に腰掛けていた。その長い足は優雅に組まれ、本を持つ手はシルクの手袋をはめており指先まで気品が溢れている。グレーの髪色も老いというよりその存在の奥深さを増す要因のひとつとなっていた。
「あの、爺さん」
特に理由があったわけではない。ただ、そろそろ彼女が見つからないことに少しばかり不安を覚え始めていたから。誰かに尋ねることも手だと思ったのだ。そして何となく、この老紳士と話してみたいと思った。
老紳士はゆっくりと顔を上げた。
「なんでしょう」
「あのさ、突然で悪いんだけど人探してて」
これくらいの。と手で腰の辺りを示す。
「女の子なんだけどさ、茶色い髪してて空色のワンピース着てんだけど。見てない?」
「ふむ、人探しですか。お子さん、もしくは妹さんでしょうか」
茶髪というのが気になったのだろう。その視線は一瞬だけ俺の赤い髪に注がれた。老紳士は見定めるように見据えてくる。
「あっ、いや、預かっててさ。知り合いの娘さんなんだ」
「ほぅ、なぜはぐれたのでしょう」
まだ信じてくれないか。
「ちょっと、怒らせちゃってさ。一人でここに入ってきちゃって。俺、ここのこと全然知らないからさ、二階は見たんだけどいなくて。他に子どもが行きそうな場所ってあるか」
「、、その子の居場所なら知っています」
「ほんとか!」
「ですが、ここを出る前に仲直りすること。これを守っていただけるならお教えしましょう」
老紳士の表情は柔らかい。しかし真剣にことを問うていた。
そんなこと、言われなくてもそのつもりだ。
「あぁ、わかった。ちゃんと仲直りするよ」
彼は頷いた。そして優雅に立ち上がる。
「あの子はこちらです。ついてきなさい」
美しさをも感じさせる立ち姿がカルの前を歩き出した。
連れていかれたのはスタッフオンリーの職員休憩所だった。階の隅、壁の色に合わせた白い扉を潜るとそこに、少女はいた。
二階と同じカーペットが敷かれている。踏み込んだ足には靴を隔ててもその柔らかさが伝わってくる。中央のテーブルにいくつかの椅子と茶色いソファがあるだけのシンプルな部屋だった。本当に座って休むだけ。それだけの部屋で少女は一人、テーブルに絵本を広げ、口の周りを白く染めながら両手で抱えたマグカップに顔を埋めていた。
どうりで見つからないわけだ。誰が司書室でホットミルクを飲んでるなんて思うだろう。少なくともカルには想像ができなかった。というか、司書室があったとは。壁の色と扉が保護色なので気づくことすらできなかった。
扉が閉まる音でこちらに気づいた彼女が掛けてきた。宿のときとは違い数歩前で立ち止まる。
見上げる瞳が薄く抗議の色を湛えていた。時間が経ち怒りも消えかかっているのだろう。最後の数歩がむず痒いのは彼女も同じのようだ。だがこの距離は彼女の意地。簡単には縮まらない。
わかってるさ、君が望むことくらい。
しゃがんで目線を合わせる。
「ごめんよ、疑ってた訳じゃないんだ」
ただちょっと、びっくりしてただけ。君を傷つけるつもりはなかった。
「許してくれる?」
手を差し出してみる。しゃがみ込むと少女の方が大きくなる。見下げる少女の表情は。瞳は。
笑った。
「ゆりゅしてあげる」
差し出した手を小さな手が掴んだ。その笑みは今この瞬間、何物にも代えがたく愛らしい。
「口の周り、ミルク付いてる」
宿のカウンターから拝借した布を差し出す。さすがに拭いてあげる勇気はなかった。
リュールが受けとるのを見届けてから後ろで見ていた老紳士が口を開いた。
「よかったねぇリュールちゃん」
口元を布で押さえこくりと頷くリュールは笑っている。、、知り合いなのか。
「あのさ。爺さん、一体誰なんだよ」
「おお、申し遅れましたな。私この館の支配人をしておりますハズトアと申します」
「館長だったのか!」
「はい。ルシューラン館館長です」
「でも、館長がなんで」
リュールの方をうかがう。拭き終えた布をくしゃくしゃに丸めポケットに詰めている。あぁ、あれはもう使えないかな。
「いつもはお母様と一緒に来られるリュールちゃんが今日は一人でしたので、事情を聞いてみますと喧嘩をしたと言うではありませんか。私何かの役に立ちたく、ああして待っていたのでございます。お母様がいらっしゃると思い込んでおりましたので気づくことができませんでしたが」
申し訳ないと腰を曲げる館長を止め、それならばと理解する。赤髪の男が現れたら確かに不審に思うだろう。わからないのも当然だ。
「リュール、ちゃんと説明してなかったのか」
「した」
「じゃあなんで━━」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。仲直りできたのだから」
「でも、、、そうだな。よかった」
子どもの説明には不備が付き物だ。細部まで説明したつもりができていなかった。今回もそんなところだろう。彼女を責めるのも違う気がした。
結果オーライ。そう言って館長は再び扉を開く。
「さぁ、仲直りもできたのです。読書を楽しんでいってください。そのための図書館なのですから」
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