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何者でもない私と謎の歌

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 fubeの結婚に衝撃を受けながらも、バイトに向かう私はなんだかいつもよりテンションが高めだった。
ハイになっている気がする。

 夢を見るだけ見て、叶える努力をしなかった私。
それでも叶うと思っていた私。
そんな私はもういなくて、今は何者でもない私がいるだけだ。
fubeも結婚してしまった。
あんなに格好良くて才能のある人は、恋人がいて当たり前だったのだ。
 
 バス停にはいつもより早く着いた。
それに今日は走らずに、余裕を持って辿り着く事ができた。
少しして、髪を何度もとかしていた女子高生が私の隣に並んだ。
私は道路の方を見たまま、視界の端で彼女を意識した。
鏡を取り出し口紅をゆっくりと塗る。
私は自分の唇を意識した。
鏡も見ずに塗った、あくまで乾燥を防ぐためのリップクリーム。
いつもドラッグストアで一番安いものを選んでいた。
 彼女は恋をしているのだろうか。
私には眩しい存在として映った。
今しか感じられないものをしっかりと感じて生きているように見える。
そう思った。
羨ましかった。
ただ一つ。
強いて言うのなら、身だしなみのセットは家でしなさい。
それだけはどうしても私が正しい気がした。
たいした身だしなみをしていない私が言うのはおかしいけれど。
 そこにいつものおばさんも到着した。
今日も走って来たらしい。
チラッと横目で見ると、後ろの髪が跳ねていた。
高校生までなら可愛い寝癖も、大の大人なら何とも言えない気持ちになる。
家を出る前に、鏡を見なさい。
そう思った。
 誰も見ていないなんて事はない。
私なんかが見てるくらいだから、意外と多くの人が見てるかも。
女子高生に心の中で謝る。

「前は誰も見てないなんて思ってごめんね」

私もこれからは、身だしなみを気を付けようと、強い意志を持ち思った。

 何者でもない私の心はやはり、いつもより軽かった。
職場の人に挨拶をし、レジを淡々とこなし、昼ご飯を食べながら結婚したfubeの曲を聴く。
そしてまたレジをしながら、帰りの時間を待つ。

 家に帰るといつも通り、夕食の準備をし、ドラマを観る準備。
もう歌を歌いたいとも思わない。
私の想いはその程度だったのだ。

 急に電話をかける。
ギターと歌を習っている先生にだった。
突然ですが辞めますと伝える。
残念ですけどまた機会があればお願いします、と本意でやめるのではないような雰囲気を作り出す。
先生はあまりに一方的な私に、事情すら聞けないようだった。
凄くスッキリした。
軽い。
何者でもない私は軽い。
さあ、ドラマの世界へ行こう。
ドラマの延長の偽物の世界でもいい。
現実ではない世界のヒロインに感情移入しよう。
それだけで幸せだ。
大丈夫だ。


 すると突然隣の部屋からギターが聞こえてきた。
あのいつも彼氏がいるタイプの人の部屋からだった。
こんな事は初めてだったから、私は驚きながらただその音を聞いていた。
今のがイントロだろう。
そろそろ歌い出しそうな雰囲気だ。

「部屋の壁一面 君の写真が貼っているような そんな気分だよ今日は」

男の人の歌声だった。
その声を聞いた途端私の心は一気に引き寄せられた。
立ち上がり、隣の部屋とを隔てる壁の方に行く。
歌は続く。

「こんなに素敵な場所があったとは もっと早く気付けたら良かったのに」

”のに”の部分の裏声がまたなんとも良い。

「暖かくて幸せだよ なんでかは聞かないでよ 気持ちだけを受け取ってよ」

サビに向かう予感。
ギターの音が少し大きくなる。

「本当にありがとう だけど君に彼氏がいるのなら本当に申し訳なくて それでも住まわせてくれてありがとう」

ん?

「大金がどこからか飛んでこないかな よくイラストで見る羽がついてるバ~ジョン~~」

ん?
声は凄く良いのに。

「そしたら君にすぐ届けるよ 優しい君に 羽っていいな僕も欲しい~」

ん?

「さあ今から探しに行くね ずっと座ってたいけど 探しに行くね ジョブ~~~パートタイム~~~」

ん?
歌詞がおかしいぞ。

「ふ~~~う~~~イェ~~~」

そこで突然曲が終わった。
大きめのくしゃみが聞こえる。
私はいつの間にか壁につけていた耳を離した。

声がまだ残っている。 
私の中で響いている。
優しくて、温かくて、大人で、傷を治そうとしてくれるような声。
透き通るようで、目を細め聴いてしまう癒しの声。
それでいて強さも感じられる。
心が引き寄せられる。
声が残っている。

 私は部屋を出て、隣の部屋の前にいた。
自分が怖い。
止められそうにない。
声が残っている。
私の指はインターホンに少しずつ近く。
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