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僕も君も結局は
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社会人になって、一時期恋人がいたことがある。
僕の初恋は君だったけれど、ほとんどの初めてをその恋人と経験した。
同期で、優しく、大人しく、気配りのできる人。
会社で馴染めない僕を気にかけ、僕の隣にいてくれた人。
僕にとって、とにかく良い人だった。
向こうから付き合おうと言われ、断る理由は思い付かなかった。
でも、付き合って一年経ち、向こうから別れようと言われた。
引き止める理由は思い付かなかった。
するとその子は、見たことのない引き攣った笑顔で
「こんなことなら、初めから受け入れないでほしかったな」
と、明るく、悲しく言うのだった。
僕は
「ごめん。傷付けてごめん」
と伝え、それ以上何も言えなかった。
その時、葉山さんの言っていたことが、僕の脳内で、葉山さんの声で再生されたのを覚えている。
「好きな人より、好きって言ってくれた人の元に行ってみようかなって」
ああ、そうか。
僕はまた同じ過ちを犯したのだ。
葉山さんに縋ろうとした僕は、違う人に同じように縋ってしまったんだ。
誰かからの優しさは、付き合うのに十分な動機だった。
そして同時に、言い訳でもあったのだ。
「そんなことがあったんですね」
マスターは、眉間に皺を寄せ、頷いた。
彼もまた、過去の恋愛を思い出しているのだろうと、思わせる表情だった。
「マスターの言葉、よく思い出すんです。その恋はきっと諦められないよって言葉です」
「ああ。そうでしたか」
その言葉を言ったことも、言った時の空気感までもはっきり覚えているような反応だった。
「彼女への期待が、大きさの差はあるとしても、変わらずに、存在し続けて消えてくれません」
マスターは、僕の空になったコップに水を注ぎ足しながら、同感した。
「分かりますよ。痛い奴だと自分で思ってしまうほど、厄介な気持ちですよね」
「はい。そうです」
そこまで話しても、マスターはまだ本題に入ってくれない。
「あの。彼女はまだ、陽介さんと付き合っているんでしょうか」
また、マスターと目が合う。
今度は僕が先に逸らしてしまった。
「実は、舞人君がここに来たら、連絡が欲しいと言われています」
「え?」
マスターのその一言で僕は、社会人になった一人の人間でも、昔のことを懐かしく語る僕でもなく、昔の僕そのものに戻ってしまったようだ。
君に片想いする、切ない僕へと、完全に戻っている。
「彼女はもう、陽介君とは付き合っていません。今、恋人もいないようです。そして、舞人君に会いたがっている」
僕は、何も言えなかった。
胸が締め付けられる。
「舞人君がここにいるうちに、連絡が欲しいと言われています。だから、本当なら今すぐにでも、連絡してあげなくちゃいけない。でも、舞人君に選択肢を与えるべきだと思っています。涙を流すほど、彼女を想っていたのを知っていますから」
マスターは本当に真剣だった。
もしかすると、過去の自分を試すような気持ちなのかもしれない。
過去の恋の選択が本当に正しかったのか、似た恋をしている僕を見て、答え合わせするつもりで。
「僕がここに来たことを彼女に伝えるか、伝えないかの選択を僕がするということですか?」
「はい。彼女に会いたいですか?」
「会いたいです」
躊躇いもなく、その言葉だけは言うことができた。
「彼女が、舞人君と同じような状況にいるのは理解が出来ているかな?」
「え?」
マスターは、苦笑した。
「彼女は、陽介君に振られたんだ。そして、君に会いたいと言っている。事の流れ、順序から考えてみるといい」
その瞬間、僕の中の切なさは、今まで感じたことのないほどの痛みを伴った。
胸が締め付けられるだけではない。
君が陽太さんと一緒にいるところを見た時とも全く違う。
親友と書かれた手紙を読んだ時の気持ちも越えていた。
苦しかった。
「彼女は、僕に縋ろうとしているということですか?陽介さんにフラれたから、僕を好きなんじゃなくて、自分を好きだった人に会いたがっているということですか?彼女は僕の気持ちを知っていたんですか?」
「そうだと思います。あくまで僕の推測ではありますが。ここのカウンターで君が涙を流した後の、彼女の表情の変化を見ました。もしかしたら、きっと、君の気持ちを知っていた。それに、ついこの間ここに来た時、彼女はこう呟きました」
僕はマスターを見る。
マスターはついに言った。
「舞人と付き合ってたらどうなってたかな、と」
僕は項垂れ、言葉を失った。
君はようやく、僕を必要としている。
でもそれは、僕が犯した罪と同様の、罪だ。
僕にただ、縋ろうとしているだけだ。
僕も君も結局、人を傷つけている。
僕は、君が僕を好きじゃなくても良いとは思えない。
それでも君のそばにいたいなんて、思えない。
マスターは落ち込む僕を見て、慌てもせず、落ち着いたトーンで言った。
「でも、分かりません。本当に舞人君のことが好きだった時期もあるかもしれないし、現に好きなのかもしれない。ただ、君には一度冷静になってから、選んでほしいと思ったんだ。そういう見方もあることを知っていてほしかった。あまり傷付かないでほしい。それに、後悔は誰でもするものだ。過去の選択を、選ばなかった道のことを考えてしまう。ただ、彼女の後悔は良くない後悔ですね」
僕は、君との間に、危うい空気が流れた日のことを思い出した。
あの時は、僕と陽介さん、どっちに気持ちが傾いていたのだろうか、と。
そして、君がマスターに、僕と付き合っていたらどうなっていたかと呟いた日。
その発言の前には、長い沈黙があったのかも気になった。
ふてくされた顔をしたのかどうかも。
悩んだ末の発言だったのか、ただの気の緩みだったのか。
「舞人君?」
僕の長い沈黙にさすがに耐えられなくなったマスターが言う。
僕は決意した。
「そうですね。良くない後悔だと思います。だから、連絡、しないで下さい。ここに来たことは、なかったことにして下さい」
僕はお会計を済まし、マスターに一礼すると、店を出た。
僕の初恋は君だったけれど、ほとんどの初めてをその恋人と経験した。
同期で、優しく、大人しく、気配りのできる人。
会社で馴染めない僕を気にかけ、僕の隣にいてくれた人。
僕にとって、とにかく良い人だった。
向こうから付き合おうと言われ、断る理由は思い付かなかった。
でも、付き合って一年経ち、向こうから別れようと言われた。
引き止める理由は思い付かなかった。
するとその子は、見たことのない引き攣った笑顔で
「こんなことなら、初めから受け入れないでほしかったな」
と、明るく、悲しく言うのだった。
僕は
「ごめん。傷付けてごめん」
と伝え、それ以上何も言えなかった。
その時、葉山さんの言っていたことが、僕の脳内で、葉山さんの声で再生されたのを覚えている。
「好きな人より、好きって言ってくれた人の元に行ってみようかなって」
ああ、そうか。
僕はまた同じ過ちを犯したのだ。
葉山さんに縋ろうとした僕は、違う人に同じように縋ってしまったんだ。
誰かからの優しさは、付き合うのに十分な動機だった。
そして同時に、言い訳でもあったのだ。
「そんなことがあったんですね」
マスターは、眉間に皺を寄せ、頷いた。
彼もまた、過去の恋愛を思い出しているのだろうと、思わせる表情だった。
「マスターの言葉、よく思い出すんです。その恋はきっと諦められないよって言葉です」
「ああ。そうでしたか」
その言葉を言ったことも、言った時の空気感までもはっきり覚えているような反応だった。
「彼女への期待が、大きさの差はあるとしても、変わらずに、存在し続けて消えてくれません」
マスターは、僕の空になったコップに水を注ぎ足しながら、同感した。
「分かりますよ。痛い奴だと自分で思ってしまうほど、厄介な気持ちですよね」
「はい。そうです」
そこまで話しても、マスターはまだ本題に入ってくれない。
「あの。彼女はまだ、陽介さんと付き合っているんでしょうか」
また、マスターと目が合う。
今度は僕が先に逸らしてしまった。
「実は、舞人君がここに来たら、連絡が欲しいと言われています」
「え?」
マスターのその一言で僕は、社会人になった一人の人間でも、昔のことを懐かしく語る僕でもなく、昔の僕そのものに戻ってしまったようだ。
君に片想いする、切ない僕へと、完全に戻っている。
「彼女はもう、陽介君とは付き合っていません。今、恋人もいないようです。そして、舞人君に会いたがっている」
僕は、何も言えなかった。
胸が締め付けられる。
「舞人君がここにいるうちに、連絡が欲しいと言われています。だから、本当なら今すぐにでも、連絡してあげなくちゃいけない。でも、舞人君に選択肢を与えるべきだと思っています。涙を流すほど、彼女を想っていたのを知っていますから」
マスターは本当に真剣だった。
もしかすると、過去の自分を試すような気持ちなのかもしれない。
過去の恋の選択が本当に正しかったのか、似た恋をしている僕を見て、答え合わせするつもりで。
「僕がここに来たことを彼女に伝えるか、伝えないかの選択を僕がするということですか?」
「はい。彼女に会いたいですか?」
「会いたいです」
躊躇いもなく、その言葉だけは言うことができた。
「彼女が、舞人君と同じような状況にいるのは理解が出来ているかな?」
「え?」
マスターは、苦笑した。
「彼女は、陽介君に振られたんだ。そして、君に会いたいと言っている。事の流れ、順序から考えてみるといい」
その瞬間、僕の中の切なさは、今まで感じたことのないほどの痛みを伴った。
胸が締め付けられるだけではない。
君が陽太さんと一緒にいるところを見た時とも全く違う。
親友と書かれた手紙を読んだ時の気持ちも越えていた。
苦しかった。
「彼女は、僕に縋ろうとしているということですか?陽介さんにフラれたから、僕を好きなんじゃなくて、自分を好きだった人に会いたがっているということですか?彼女は僕の気持ちを知っていたんですか?」
「そうだと思います。あくまで僕の推測ではありますが。ここのカウンターで君が涙を流した後の、彼女の表情の変化を見ました。もしかしたら、きっと、君の気持ちを知っていた。それに、ついこの間ここに来た時、彼女はこう呟きました」
僕はマスターを見る。
マスターはついに言った。
「舞人と付き合ってたらどうなってたかな、と」
僕は項垂れ、言葉を失った。
君はようやく、僕を必要としている。
でもそれは、僕が犯した罪と同様の、罪だ。
僕にただ、縋ろうとしているだけだ。
僕も君も結局、人を傷つけている。
僕は、君が僕を好きじゃなくても良いとは思えない。
それでも君のそばにいたいなんて、思えない。
マスターは落ち込む僕を見て、慌てもせず、落ち着いたトーンで言った。
「でも、分かりません。本当に舞人君のことが好きだった時期もあるかもしれないし、現に好きなのかもしれない。ただ、君には一度冷静になってから、選んでほしいと思ったんだ。そういう見方もあることを知っていてほしかった。あまり傷付かないでほしい。それに、後悔は誰でもするものだ。過去の選択を、選ばなかった道のことを考えてしまう。ただ、彼女の後悔は良くない後悔ですね」
僕は、君との間に、危うい空気が流れた日のことを思い出した。
あの時は、僕と陽介さん、どっちに気持ちが傾いていたのだろうか、と。
そして、君がマスターに、僕と付き合っていたらどうなっていたかと呟いた日。
その発言の前には、長い沈黙があったのかも気になった。
ふてくされた顔をしたのかどうかも。
悩んだ末の発言だったのか、ただの気の緩みだったのか。
「舞人君?」
僕の長い沈黙にさすがに耐えられなくなったマスターが言う。
僕は決意した。
「そうですね。良くない後悔だと思います。だから、連絡、しないで下さい。ここに来たことは、なかったことにして下さい」
僕はお会計を済まし、マスターに一礼すると、店を出た。
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