天使

亀沢糺

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 銃を撃っていたのは少年じゃなかったのか。くずおれる少年に亡霊たちが群がり、次々とその胸に手を伸ばす。亡霊の手が傷口に差し込まれると、溢れる鮮血が見る間に凍りついていく。
 意を決して少年のもとへと駆けつけ、思い切りコートを振るった。亡霊たちの姿が雨粒とともに弾ける。少年の顔は虚ろげで、その視線はこちらへ向いているのに、瞳は私を捉えてはいないようだった。どこか雨を凌げる場所はないかと視線を走らせると、おあつらえ向きの洞が目に留まった。
 少年に肩を貸して起き上がらせる。その身体は酷く冷たかった。亡霊たちの動きは緩慢だけれど、精気を失った少年に手を貸している状況ではこちらの足も負けず劣らず遅い。少年は小柄だったが、こちらへ預けられた体重は実際よりもずいぶん重たく感じられた。それでも、何とかあの洞の中までたどり着ければ助かるはずと、力を振り絞る。
「俺のことは、もういいよ……」
 すぐそこまでの距離がなかなか縮まらずにもどかしい。
「いいから、もう降ろしてくれ……」
 あの洞までなら、諦めて少年を置いて行ってしまえば、足に自信のない私でも亡霊に追いつかれることなく駆け込めるだろう。
「まだ、かたきをとってないから……」
「どうしてそんなにまでしなくちゃならないの」
 私がこんなに必死になっているのに、まだそんなことを言っているのか。
「俺だって、早く終わりにしたいよ」
「どうしてできないの」
「終わりにしたいけど、したくないんだ……」
「相手がお兄さんだから?」
「それもあるけど……」
 怖いんだ、と少年は言った。
「かたきを討てば弟は許してくれる、かたきを討つまでは自分にも存在する価値があると思えるけれど、そのあとはもう、アイツの怨みを受け入れるしかない。それが耐えられないんだ。だから、きっとまた別の敵を探す。あるいは俺が誰かの敵になる。いつか世界のすべてが敵になる。もし世界をみんな壊してしまったとしても、それは俺の存在する意味を失うのと同じことだ。俺は、いらないものになるのが怖い」
どうすれば終わりにできる――? その言葉に少年の抱えた苦悩を垣間見る。
 傷の深さを比べることに意味がないように、幸せの数や不幸の大きさを比べることにも意味はないのかもしれない。それでもやっぱり、私は彼と比べればずっと何でもない日常を過ごしてきたのだろう。だからといって自分が恵まれているとも思えなかった。
 私はどうしてこんなことをしているのだろう。感謝されたいわけではなかった。きっと私も彼と同じなのだろう。自分のしていることには意味があるのだと信じたい。私たちはいつだって不安なのだ。私たちには理由が必要だった。生きるのにも、死ぬのにも。
 足が重い。頭も重い。肩で支える少年の身体が重かった。雨は全身に染み渡り、手足はすっかり冷えて、強張り始めている。それでもようやく、目指した洞は目の前だった。
 限界の近づいていた足がもつれた。少年をかばおうとして後ろ向きに倒れる。すぐそこに亡霊が迫ってきていた。少年の身体を押しのけて攻撃に転じるような余裕はなかった。
 もう駄目だと思った瞬間、跳ね起きた少年が亡霊に体当たりした。
 亡霊の体が弾ける。そのままうずくまった少年の顔面は蒼白だ。急いでコートを拾い上げ、群がる亡霊たちに思い切り叩きつけた。水を吸ったコートは重く、力いっぱい振り過ぎたせいで体勢が崩れた。そのままもう一度コートを振るうも、そんな体勢では力が入らず、亡霊の表面を撫でただけで、べしゃりと地面に落ちた。
 逃げろ、と呻くように少年が言った。
 迫ってくる亡霊にもう一度コートを振るうような余裕は、なかった。思わず目を閉じる。
 ――そのまま数秒が過ぎた。恐る恐る目を開けると、亡霊の姿はどこにもない。
 いつの間にか、雨が止んでいた。
 全身の力が抜け、大きく息を吐く。すぐには起き上がれなかった。しばし放心して、ようやく少年のことを気にする余裕が出てきた。
「だいじょうぶ?」
 酷く顔色が悪い。
「動ける?」
 返事がない。どうしたらいいのだろう。温めた方が良いのだろうか。でも、コートもびしょ濡れだし、火を起こす道具もない。ともかくこのままおろおろしているわけにもいかない。今は雨も止んでいるけれど、いつまた降り出すかも分からない。
 ひとまずはあの洞まで少年を運ぼう。いざとなれば一人で町まで戻って必要なものを調達してくればいい。服か火か食べ物か……、何かあればいいのだけれど、どうだろう。あの亡霊だらけの町に住んでいる人なんているのだろうか。いや、今はそんな心配をしている場合ではない。
 脇の下に腕を差し込み、後ろ向きに少年を引きずって行く。起き上がる気力もなさそうだ。意識を失った人を動かすのは大変だというけれど、本当だなと思った。虚ろな瞳が痛ましい。これがあの少年の姿か。見下ろす少年の胸には、うっすらと血の滲んだ傷口が露わになっていた。塞がりもせず、かといって傷の大きさに比べてあまりに血の量が少ない。なんだか亡霊の胸に空いた穴のようだと思うも、そんなはずはないと、すぐにそんな考えを否定した。
 ずるずると洞の中へと少年の身体を引きずって行く。暗くて見えないけれど、どうやら奥行きがあるらしい。中腰での作業は大変だったけれど、何とか全身が収まったと、腰を降ろそうとしたところ、そのまま後ろに倒れ込む。
 奥は坂になっていたらしい。どうしてそんなことを確認しなかっただろう。それは滑り台のように滑らかな滑り心地とはいかず、一回転して壁に背中を強く打ちつけた時には、一瞬だけ意識が飛んだ。全身打撲の痛みを堪えて起き上がる。肋骨の辺りが痛くて、息まで苦しい。まさか折れたのではと不安になったけれど、触ってみても異常はなさそうだし、きっと本当に折れていたらこんなものでは済まないだろう。それでもあんまり痛くて涙が出てきた。こんなに酷い怪我はこれまでにしたことがなかった。
 暗澹たる気分になったものの、打ち身と擦り傷に切り傷の痛みさえ我慢すれば、動けない怪我ではない。幸いだったと言えるだろうか。何とか周囲を観察するだけの余裕を取り戻し、闇の向こうに小さな明かりがふらふらと揺れているのを見つけた。少年を置いて行くのは心配だったけれど、すぐには上へ戻る気力もなく、痛むあばらを押さえて明かりの方へと向かってみる。
 そこは広い川原になっていた。雨で増水しているのか、川は狂暴な濁流と化していた。にもかかわらず、桟橋からは一艘の渡し舟が出るところだった。舳先に掲げられた明かりを見て、私が見たのはそれか、と思った。舟には人影が二つ。もしや、
「おじいさん?」
 二つの人影、それはお祖父さんと天使なのでは。
「おじいさーん!」
 ごろごろと石の転がった川原は走りにくい。桟橋に着いた時にはもう舟は完全に岸を離れていた。もう一度大声でお祖父さんを呼び、両手を大きく振った。けれど川の音がうるさいのか、二人ともこちらに気づく様子はない。天使なら気づいていても無視しているだけかもしれないけれど。
 舟は荒れた流れを切り裂くようにしてすいすい進んでいく。まるで魔法がかかっているみたい。天使って魔法が使えるんだっけ? 空も飛べないのに?
 魔法の使えない私は、どうやって川を渡ればいいのだろう。二人を乗せた舟はもう川の半ばに差し掛かっている。わざわざこの濁流を舟で渡っているくらいだから、橋はなさそうだ。何とか追い掛ける方法はないものかと闇の中に目を凝らしていると、上流から大きな箱が流れてくるのを見つけた。人が入れるくらいの大きな箱。あれは、棺、だろうか。
 流れてきた棺が桟橋に引っかかって動きを止める。ちょっと悪趣味な思いつきだけれど、舟の代わりにできるかもしれないと思った。私にこの濁流を渡るだけの操船技術がないことは分かりきっていたけれど、それでも可能性の一つとして確保はしておくべきだろう。
 ともかくまずはそれが舟として使えるかどうか確かめるためにも、蓋を開けてみることにした。中身が入っていなければいいのだけれど、と願いながら。
 桟橋の上から身を乗り出して揺れる棺の蓋を外すという作業は、思いのほか大変だった。悪戦苦闘して、中身のことなんてすっかり忘れてしまったころに、ようやく蓋が持ち上がった、と、その蓋の端には私のとは別の手が掛けられていた。内側からにょっきりと現れた手が。
 口から心臓が飛び出すかと思った。
 ばしゃん、と大きなしぶきを上げ、蓋の端が川面を打つ。死人みたいな顔をした少女がのっそりと身を起こす。まるでゾンビみたいだと思いながら、私は恐る恐る彼女の胸を確認した。そこにはちゃんと私の胸にあるのと同じような傷が存在し、血を流していた。私は少しだけほっとする。
 彼女はぼんやりとした表情で辺りを見回し、弟はどこ、と言った。
 本当なら彼女をすぐにそこから出してあげるべきなのだろうけれど、今は棺を確保することの方が重要だった。少女が乗ってきたのなら、それは舟として利用できるということだ。
 桟橋にあった舫い綱の端を少女に握らせた。慌てる私にはそれくらいしか棺を留めておく方法が思いつかなかったのだ。少女の腕は私から見ても細く、しかもまだぼんやりした様子で、甚だ不安ではあったけれど、とにかく今は急いで少年を連れてこよう。それで向こう岸まで渡れるかという問題は、とりあえず保留にして、大慌てで少年のところまで戻った。
 少年は私がそこに運び込んだ時の状態のまま、ぼうっと天井を見上げていた。
「おじいさんたちを見つけたの。行こう、今度はちゃんと天使も一緒だよ」
 天使なら助けてくれるかもしれないよ、と私は言った。
「天使は俺を迎えに来ない」
 こちらを見もせずに少年は言った。
「俺は悪いことをたくさんしてきたから、天使は助けてなんかくれない」
 諦め切った声。
「小さい頃は、きっといつか死ぬとき、天国へ行く列車が迎えに来るんだって、信じてたんだ。今でも心のどこかでは期待してたのかもしれない。神様が見てるなら、慈悲のひとつもかけてくれるんじゃないかって」
 私は彼がどんな悪いことをしてきたのか詳しく知っているわけではなかった。悪いことをすればそれ相応の報いがあるのも当然かもしれない。それでも、彼が必死に生きようとする中で犯した少しばかりの悪事くらいは、許されてもいいのではないかと思った。それとも、それは許されるようなことではなかったのだろうか。
「なあ、お前のじいさん、天国へ行ったんだよな」
「うん、きっと行ったよ」
 あの川の向こうが天国かなんて知らないけれど、そう答えた。
「途中までだけど、同じ列車に乗ることができたんだ、神様に感謝しなくちゃな」
 そんな中途半端な慈悲に感謝することなんてないと、私は思った。彼がこんなことを言うのは、きっと亡霊が命の熱を奪っていったからだ。それはつまり、私のせいだ。
 突然、頭の中で光が弾けた。
「天使が来ないなら、私が天使になる」
 きっと気の迷いだったのだろう。私が天使だというなら信じる、と言った彼の言葉が脳内で鐘を撞いたみたいにうわんうわんと響いていた。それなら信じてもらおうじゃないかという気がしてきた。
 私が天使なら、彼をこんなところに放っておかない。
 そうだ、やってやる。
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