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みんな胸に傷を抱え、許されたいと願っていた。私はどうだろう。
私は許されたいとは思わない。お母さんの死も、お祖父さんの死も、私のせいではなかった。誰にも私の罪を許すことはできない。私には、彼らにとっての弟に当たるようなものは存在しなかった。
私にこんなところまで来るような資格はなかったのではないか。私には、強い怒りや憎しみも、深い後悔や悲しみもなかった。
少年が復讐を望むのが当然なように、少女が死を求めるのも無理がないように、私にも自分の行動を裏づけるような確固たる理由があればいいのに。私のことを誰も咎めることができないような、誰の目にも分かるような――、
――そんな傷が、私にもほしい?
ぎくりとした。目の前に赤いコートがぼんやりと浮かんでいる。
誰?
闇の中の人影が首を傾げる。私に分からないはずがないだろうとでも言いたげだ。
この暗闇の中で、その赤色は酷く場違いな気がして、いらいらする。
誰なの? そう問いかけた時には、本当はもう分っていた。
――ここは鏡の中なんだから、鏡に映った自分がいるのは当たり前よね。
そうだ、その顔は紛れもなく私のものだ。見たくなくてもついてまわる、私の顔そのものだ。でも、私は傷が欲しいだなんて望んだりしない。他人の傷を羨むだなんて、そんなのどうかしている。
――そうだよね、別に傷つきたいわけじゃない。できるなら傷つきたくないと思ってる。当然だけど。でも、他人の傷を羨むって、そんなに変なことかしら。
だって、傷なんてその人にとっては誇らしいものでもないし……。
――そう? 自分の傷を誇らしげに語る人だっているんじゃない?
だとしても、その傷の意味も痛みも知らない他人が無神経なことを言うのは失礼だと思う。
――でも、他人の持っているものを羨ましく感じるのって、普通のことじゃない? 良い趣味とは言えないにしても。
これが私自身だというのなら、どうしてこんなに意見が食い違うのだろう。これが鏡に映った私だから、性格も反転しているとか?
鏡像はじっと私を見つめている。答えは分かっているはずだというように。それは当然なのかもしれない。目の前にいるのが、本当に鏡に映った自分自身だというのなら。
私は認めなければならなかった。正反対のことを言っているように思えても、そのどちらも自分の中にあるものだ。頭の中では、相反する二つの考えが同居することだってある。意見をころころ変えれば、無責任だと言われるのも当然だけれど、他人の意見に耳を傾けようとしなければ、自分勝手だと非難されるのもまた当然だ。頭の中にある複数の自分を場面によって切り替えることが、私たちには日常的に求められている。
だから、正反対に思える主張でも、そのどちらも自分の中に存在するものなのだと言える。
鏡に映った私が本当に私と同一人物ならば、私の中に隠れている気持ちまで分かってしまったとしても当然なのかもしれない。意図して隠しているものも、意図せず隠れてしまっているものも……。
――私が本当に望むなら、ちゃんと叶うの、ここなら。あの二人がそうしたみたいに。
あの二人は、望みを叶えたのか。確かに少年は復讐心を満たすための世界を手に入れたのかもしれない。永遠に続く復讐の世界を。少女は焦がれた死に満ちた世界を手に入れたのかもしれない。繰り返す死の世界を。
鏡に映った私には分かっているのか。私にも分からない、私の本当の望みが。
目の前の私が、コートの下の胸に触れる。コートの赤よりももっと暗く、もっと赤い液体が、指の間から溢れ、滴る。自分の胸を見ると、同じように赤黒く濡れていた。触れればぬるりとした感触。
これが私の傷。
これでやっと安心できる。私の心も、ちゃんと血を流しているのだ。
そうだ、これが私の望みだ。目に見えない傷もちゃんと目に見えるようになり、その傷を誰もが尊重する世界、だ。この傷を見れば誰も私のことを責めたりはできないだろう。私はずっと恐れていた。自分がこの先へ進むのにふさわしくないのではないかと。
ここまでの道程を共にしてきたあの二人が、見えなくても深い傷を負っているのだと知った時、私の中にあったのは憐れむ気持ちではなく、焦りの気持ちだった。あの二人がこの旅の道中にあることを、きっと誰も責めはしないだろう。けれど私のことは――。
何の傷も持たない私では、きっと誰もここにいることを認めてはくれないだろうという絶望。進んでも戻っても、きっと誰かから責められる、そんな気がしていた。けれどこの傷を見れば、誰が私のことを責められるだろう。
私は自分の傷が誇らしくなってきた。
たとえ誰かがそれをおかしいと非難しても、あなたに私の傷の何が分かるんですか、と言い返してやればいいのだ。私の傷は私だけのもの。誰に理解されなくたっていいのだ。
私はずっと苦しかった。お祖父さんの後をつけてきたのは、ちょっと軽薄な行動だったかもしれない。けれど、私だって何の考えもなしに、少しの迷いもなく行動したわけじゃない。それでも、自信がなかった。私の行動を正当化する理由が欲しかった。私が悩み、苦しんできたことの証があれば、と思った。
誰にも見えない傷が、誰にも見えるかたちになるというのは、まさに私が求めていたことだった。どうしてそのことにもっと早く気がつかなかったのだろう。
心が軽くなったみたいだ。望みを叶える鏡に、私の望みを正しく表現してくれたもうひとりの私に、心から感謝した。自分に感謝するというのはおかしいだろうか。
闇に溶けていた身体が、その輪郭を取り戻す。手が、足が、目が耳が、再び世界を捉える。私は私のかたちを取り戻す。
この胸から流れ出る、私の、私だけの傷を示す、この真っ赤な血が、私という存在の輪郭を描き出す。
光が見えた。
トンネルを抜ける。
私は許されたいとは思わない。お母さんの死も、お祖父さんの死も、私のせいではなかった。誰にも私の罪を許すことはできない。私には、彼らにとっての弟に当たるようなものは存在しなかった。
私にこんなところまで来るような資格はなかったのではないか。私には、強い怒りや憎しみも、深い後悔や悲しみもなかった。
少年が復讐を望むのが当然なように、少女が死を求めるのも無理がないように、私にも自分の行動を裏づけるような確固たる理由があればいいのに。私のことを誰も咎めることができないような、誰の目にも分かるような――、
――そんな傷が、私にもほしい?
ぎくりとした。目の前に赤いコートがぼんやりと浮かんでいる。
誰?
闇の中の人影が首を傾げる。私に分からないはずがないだろうとでも言いたげだ。
この暗闇の中で、その赤色は酷く場違いな気がして、いらいらする。
誰なの? そう問いかけた時には、本当はもう分っていた。
――ここは鏡の中なんだから、鏡に映った自分がいるのは当たり前よね。
そうだ、その顔は紛れもなく私のものだ。見たくなくてもついてまわる、私の顔そのものだ。でも、私は傷が欲しいだなんて望んだりしない。他人の傷を羨むだなんて、そんなのどうかしている。
――そうだよね、別に傷つきたいわけじゃない。できるなら傷つきたくないと思ってる。当然だけど。でも、他人の傷を羨むって、そんなに変なことかしら。
だって、傷なんてその人にとっては誇らしいものでもないし……。
――そう? 自分の傷を誇らしげに語る人だっているんじゃない?
だとしても、その傷の意味も痛みも知らない他人が無神経なことを言うのは失礼だと思う。
――でも、他人の持っているものを羨ましく感じるのって、普通のことじゃない? 良い趣味とは言えないにしても。
これが私自身だというのなら、どうしてこんなに意見が食い違うのだろう。これが鏡に映った私だから、性格も反転しているとか?
鏡像はじっと私を見つめている。答えは分かっているはずだというように。それは当然なのかもしれない。目の前にいるのが、本当に鏡に映った自分自身だというのなら。
私は認めなければならなかった。正反対のことを言っているように思えても、そのどちらも自分の中にあるものだ。頭の中では、相反する二つの考えが同居することだってある。意見をころころ変えれば、無責任だと言われるのも当然だけれど、他人の意見に耳を傾けようとしなければ、自分勝手だと非難されるのもまた当然だ。頭の中にある複数の自分を場面によって切り替えることが、私たちには日常的に求められている。
だから、正反対に思える主張でも、そのどちらも自分の中に存在するものなのだと言える。
鏡に映った私が本当に私と同一人物ならば、私の中に隠れている気持ちまで分かってしまったとしても当然なのかもしれない。意図して隠しているものも、意図せず隠れてしまっているものも……。
――私が本当に望むなら、ちゃんと叶うの、ここなら。あの二人がそうしたみたいに。
あの二人は、望みを叶えたのか。確かに少年は復讐心を満たすための世界を手に入れたのかもしれない。永遠に続く復讐の世界を。少女は焦がれた死に満ちた世界を手に入れたのかもしれない。繰り返す死の世界を。
鏡に映った私には分かっているのか。私にも分からない、私の本当の望みが。
目の前の私が、コートの下の胸に触れる。コートの赤よりももっと暗く、もっと赤い液体が、指の間から溢れ、滴る。自分の胸を見ると、同じように赤黒く濡れていた。触れればぬるりとした感触。
これが私の傷。
これでやっと安心できる。私の心も、ちゃんと血を流しているのだ。
そうだ、これが私の望みだ。目に見えない傷もちゃんと目に見えるようになり、その傷を誰もが尊重する世界、だ。この傷を見れば誰も私のことを責めたりはできないだろう。私はずっと恐れていた。自分がこの先へ進むのにふさわしくないのではないかと。
ここまでの道程を共にしてきたあの二人が、見えなくても深い傷を負っているのだと知った時、私の中にあったのは憐れむ気持ちではなく、焦りの気持ちだった。あの二人がこの旅の道中にあることを、きっと誰も責めはしないだろう。けれど私のことは――。
何の傷も持たない私では、きっと誰もここにいることを認めてはくれないだろうという絶望。進んでも戻っても、きっと誰かから責められる、そんな気がしていた。けれどこの傷を見れば、誰が私のことを責められるだろう。
私は自分の傷が誇らしくなってきた。
たとえ誰かがそれをおかしいと非難しても、あなたに私の傷の何が分かるんですか、と言い返してやればいいのだ。私の傷は私だけのもの。誰に理解されなくたっていいのだ。
私はずっと苦しかった。お祖父さんの後をつけてきたのは、ちょっと軽薄な行動だったかもしれない。けれど、私だって何の考えもなしに、少しの迷いもなく行動したわけじゃない。それでも、自信がなかった。私の行動を正当化する理由が欲しかった。私が悩み、苦しんできたことの証があれば、と思った。
誰にも見えない傷が、誰にも見えるかたちになるというのは、まさに私が求めていたことだった。どうしてそのことにもっと早く気がつかなかったのだろう。
心が軽くなったみたいだ。望みを叶える鏡に、私の望みを正しく表現してくれたもうひとりの私に、心から感謝した。自分に感謝するというのはおかしいだろうか。
闇に溶けていた身体が、その輪郭を取り戻す。手が、足が、目が耳が、再び世界を捉える。私は私のかたちを取り戻す。
この胸から流れ出る、私の、私だけの傷を示す、この真っ赤な血が、私という存在の輪郭を描き出す。
光が見えた。
トンネルを抜ける。
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