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幻覚魚:2 【奥津の場合-2】
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いつから鞭打たれていたのだろうか。
ぼろぼろだった着物は見る影もない。それなのに、背中の傷はそれほどでも無いように見受けられる。
否。傷は人の身では有り得ないほどの早さで癒えているのだ。新しい傷が二、三できる頃には血は止まり裂けた皮膚が塞がっている。傷の程度にもよるが。
何と言うことだ。
奥津は、その傷の癒える様をただ見詰めていた。
あれが、あれこそが人魚の持つ力か、と。人魚が不老不死と言うのも分かる気がする。
鞭打つ音がひときわ大きく響いた。
奥津はそこで我に返った。
我に返って、またひどい頭痛に襲われた。視界もなんだかチカチカする。
それでも体の不調をおして、奥津は一歩前に踏み出す。
「もうその辺にしませんか?」
奥津は弟姫に声をかけた。医師としてこれ以上は見過ごせない。いくら傷が驚異的な早さで癒えるのだとしても。
「何を仰いますか、お前さま。」
手を止め、振り返った弟姫が言った。
「わたしは騙され、腹を抉られましたえ? こんなものでわたしの気は済みませぬ。」
その表情は憤怒に染まっていた。
「それは… そうかもしれません。ですが、一人の医者として、これ以上人が傷付けられるのを見過ごすわけにはいきません。」
「綺麗事を! みんな、綺麗事しか言いませぬ。このおなごもその番《つがい》も、たろ様も。」
弟姫は唇を噛み、鞭を握りしめ声を絞り出した。
「たろ様、ですか?」
そんな場合ではない事は分かっていたが、初めて聞く名前に奥津はつい疑問の声をあげていた。
「…もうずいぶん前にこの竜宮へお招きした方ですえ。わたしの眷属の亀を助けてくださったのです。」
溜め息を一つ、その後に弟姫は奥津の疑問に答えた。
…浦島太郎か!!
奥津は言葉を飲んだ。やっぱり、彼女は乙姫だったのだ。まさか、乙姫が人魚だとは思わなかったが。
それにしても…
「その、たろ様は何をしでかしたんですか?」
所詮はお伽噺なのだろうか。幼い頃聞いた話では、乙姫が太郎を恨んでいるようには思えなかった。
「たろ様は、ここには戻ってくれませんでしたえ。地上の様子を見たら、また戻ってくると仰っていましたのに。」
一転、悲しそうな表情に変わる。
「それに、玉手箱もすぐに開けてしまったようでしたし…」
「ああ… そういえば、どうして開けてはいけない玉手箱を渡したんですか?」
「あれは開けてはいけない訳ではありませぬ。」
なぜそんな話に? と、弟姫が首を傾げる。そして、
「すぐに開けてはならぬだけです。再び竜宮に来るために必要な物なのですえ。それについてはたろ様にちゃんと説明しましたのに…」
項垂れた弟姫からは、それまでの怒りや憎悪が消えているようだった。
間違った使い方をしたから、浦島太郎は老人になったのだろうか。奥津は痛む頭で考える。
「ともかく、人間の言うことは信用なりませぬ。そしてわたしの腹の虫も未だ治まりませぬ。それとも、お前さまが人は信用に足る存在だと証明なさるか?」
そう言った弟姫は顔を上げて奥津をじっと見詰める。
ひときわ大きな痛みが、奥津を襲った。
気絶しそうだ、かすむ視界に奥津はやけに冷静に思う。だが、ここで気を失うわけにはいかない。
「私にできることなら。」
奥津は力を振り絞って、ようやく言葉を発する。
「そのお言葉、努々《ゆめゆめ》お忘れなさいますな。」
にぃ、弟姫が不気味に微笑んだ。
奥津の視界が急激に歪み──… 暗転した。
「お前さまが竜宮に帰ってこられるのを、ずっとお待ち申しておりましたのよ。たろ様。」
暗転した視界の先、意識の遠くで、弟姫が誰かに話しかけている。夢うつつで、奥津はその言葉を聞いていた。
その言葉の意味までは、考えられない。意識が、もう。
ぼろぼろだった着物は見る影もない。それなのに、背中の傷はそれほどでも無いように見受けられる。
否。傷は人の身では有り得ないほどの早さで癒えているのだ。新しい傷が二、三できる頃には血は止まり裂けた皮膚が塞がっている。傷の程度にもよるが。
何と言うことだ。
奥津は、その傷の癒える様をただ見詰めていた。
あれが、あれこそが人魚の持つ力か、と。人魚が不老不死と言うのも分かる気がする。
鞭打つ音がひときわ大きく響いた。
奥津はそこで我に返った。
我に返って、またひどい頭痛に襲われた。視界もなんだかチカチカする。
それでも体の不調をおして、奥津は一歩前に踏み出す。
「もうその辺にしませんか?」
奥津は弟姫に声をかけた。医師としてこれ以上は見過ごせない。いくら傷が驚異的な早さで癒えるのだとしても。
「何を仰いますか、お前さま。」
手を止め、振り返った弟姫が言った。
「わたしは騙され、腹を抉られましたえ? こんなものでわたしの気は済みませぬ。」
その表情は憤怒に染まっていた。
「それは… そうかもしれません。ですが、一人の医者として、これ以上人が傷付けられるのを見過ごすわけにはいきません。」
「綺麗事を! みんな、綺麗事しか言いませぬ。このおなごもその番《つがい》も、たろ様も。」
弟姫は唇を噛み、鞭を握りしめ声を絞り出した。
「たろ様、ですか?」
そんな場合ではない事は分かっていたが、初めて聞く名前に奥津はつい疑問の声をあげていた。
「…もうずいぶん前にこの竜宮へお招きした方ですえ。わたしの眷属の亀を助けてくださったのです。」
溜め息を一つ、その後に弟姫は奥津の疑問に答えた。
…浦島太郎か!!
奥津は言葉を飲んだ。やっぱり、彼女は乙姫だったのだ。まさか、乙姫が人魚だとは思わなかったが。
それにしても…
「その、たろ様は何をしでかしたんですか?」
所詮はお伽噺なのだろうか。幼い頃聞いた話では、乙姫が太郎を恨んでいるようには思えなかった。
「たろ様は、ここには戻ってくれませんでしたえ。地上の様子を見たら、また戻ってくると仰っていましたのに。」
一転、悲しそうな表情に変わる。
「それに、玉手箱もすぐに開けてしまったようでしたし…」
「ああ… そういえば、どうして開けてはいけない玉手箱を渡したんですか?」
「あれは開けてはいけない訳ではありませぬ。」
なぜそんな話に? と、弟姫が首を傾げる。そして、
「すぐに開けてはならぬだけです。再び竜宮に来るために必要な物なのですえ。それについてはたろ様にちゃんと説明しましたのに…」
項垂れた弟姫からは、それまでの怒りや憎悪が消えているようだった。
間違った使い方をしたから、浦島太郎は老人になったのだろうか。奥津は痛む頭で考える。
「ともかく、人間の言うことは信用なりませぬ。そしてわたしの腹の虫も未だ治まりませぬ。それとも、お前さまが人は信用に足る存在だと証明なさるか?」
そう言った弟姫は顔を上げて奥津をじっと見詰める。
ひときわ大きな痛みが、奥津を襲った。
気絶しそうだ、かすむ視界に奥津はやけに冷静に思う。だが、ここで気を失うわけにはいかない。
「私にできることなら。」
奥津は力を振り絞って、ようやく言葉を発する。
「そのお言葉、努々《ゆめゆめ》お忘れなさいますな。」
にぃ、弟姫が不気味に微笑んだ。
奥津の視界が急激に歪み──… 暗転した。
「お前さまが竜宮に帰ってこられるのを、ずっとお待ち申しておりましたのよ。たろ様。」
暗転した視界の先、意識の遠くで、弟姫が誰かに話しかけている。夢うつつで、奥津はその言葉を聞いていた。
その言葉の意味までは、考えられない。意識が、もう。
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