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01.夜のお世話役
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肌を突き刺すような冷たい風が吹き付けてくる。
神殿の庭を掃除していたアンジェリアは、一瞬、手を止めてびくりと身を震わせた。
北に位置するこの地では、冷たい風など珍しくもないはずだったが、いつもとは違う胸騒ぎを運んでくるような風だった。
「早く、掃除を終わらせないと……」
どことなく不安に駆られ、風によって乱された淡い金色の前髪をかき上げると、アンジェリアは掃除の手を早める。
今年十八歳になったアンジェリアが、物心ついた頃から暮らしている神殿はさびれていて、今や常駐しているのは、神殿長代理の老神官とアンジェリアのみだ。
アンジェリアは神官見習いという名の、雑用係である。
幼い頃に父が亡くなり、母がアンジェリアを連れて神殿に住み込んで働いていたのだが、その母も昨年亡くなってしまい、アンジェリアに残されたのは一つのペンダントだけだった。
どこかから声が聞こえてくるような気がして、アンジェリアはふと掃除の手を止める。小さな青い石が中心にはめ込まれた、雪の結晶をかたどったペンダントにそっと手を伸ばし、包み込むように触れて目を閉じた。
「アンジェリア、領主様の使いがいらしています」
そのとき、神殿長代理であるカプリスの声が響いた。
神殿長は領主なのだが、名目上でしかなく、実務はカプリスがこなしている。
アンジェリアにとっては師匠であり、また祖母のような存在でもある。
「はい、すぐにまいりますわ」
アンジェリアは掃除を中断し、カプリスと共に領主の使いが待つ部屋に向かった。
いつもの定期連絡ならば自分は必要ないはずだ。それなのに呼ばれるということは、いったい何があるのだろうと、アンジェリアは戸惑いながら歩いていく。
緊張しながら領主の使いの待つ部屋に入り、挨拶をすると、アンジェリアは促されて椅子に座った。
「この神殿に、王都から上級神官様がやって来られます。なんでも、この地にある結界が弱まっているので、その補修のためだそうです」
領主の使いが話を切り出す。
この地には魔の領域とを隔てる重要な結界があるという話は、アンジェリアも知っていた。
三百年ほど前に作られ、神殿長が代々管理していたという。
その結界が弱まっているというのは大変なことで、アンジェリアは衝撃を受けたが、自分が何故呼ばれたのかは、まだわからなかった。
「上級神官様と、その一行を受け入れるための準備をしてください。そして、アンジェリアさん。あなたには上級神官様のお世話役をお願いしたいのです」
「……上級神官様のお世話役ですか? それはもちろん、光栄なことですわ」
突然話を振られて驚きながらも、大きな青い瞳でまっすぐに相手を見つめ返し、アンジェリアは答えた。
何の疑問を抱くこともない純粋な瞳に見つめられ、領主の使いの目がわずかに泳ぐ。しかしそれは瞬きする間ほどのことで、すぐに領主の使いはアンジェリアの視線をしっかりと受け止めた。
「お世話役といっても、日常的な身の回りのことは、従者を伴ってくるでしょうから、おそらく必要ないと思われます。あなたにお願いしたのはただひとつ、夜のお世話役だけです」
「夜のお世話役……?」
意味がわからず、アンジェリアは首を傾げる。
日常的なこと以外で、夜に特別な何があるのだろうか。神官見習いとはいっても、まだまだ未熟な身には理解が及ばぬことがあるのだろうと、アンジェリアは答えを求めて、カプリスをちらりと伺う。
すると、カプリスがわなわなと震えながら、怒りの形相で領主の使いを睨みつけているのを見て、アンジェリアはぎょっとして言葉を失ってしまった。
「どういうことですか。そのような真似をこの子にさせるなど、許しません。これほど恥知らずな要求を、上級神官様がなさったというのですか。どなたですか、その上級神官様は」
「やって来られるのはベルナルド上級神官様ですが、要求があったかは……」
カプリスの怒りにやや怯みながら、領主の使いは歯切れ悪く答える。
「ベルナルド上級神官様といえば、名門貴族の出身で強大な法力をお持ちだそうですね。そして、黒の神官という異名を持ち、様々な芳しくない噂も聞いております。彼からの要求か、それとも領主様が取り入る材料として使いたいのかは存じませんが、どちらにせよ、この子にお世話役などさせられません」
アンジェリアを庇うように身を乗り出して、カプリスは毅然と言い放つ。
「悪く考えず、いっときの妻になるようなものだと思えばいいのです。妻として夫の世話をするのと、さほどかわりはないでしょう」
「いっときだけ……つまり妾ではありませんか。この子にはそのような日陰の身ではなく、誠実な男性と結ばれて幸せになってほしいのです。貴族のおもちゃにされるなど、冗談ではありません」
領主の使いとカプリスのやり取りを聞きながら、ようやくアンジェリアにも夜のお世話役の意味が飲み込めてきた。
ずっと神殿で清い生活をしてきたアンジェリアには、まだその行為は聞きかじったことがある程度のものでしかなかったが、考えるとかすかに体が震えてくるようだった。
本来ならば夫婦の神聖な営みとなるはずの行為であるのに、相手の欲望を満たすための道具となれと言われているのだ。
「残念ながら、拒否権はありません。アンジェリアさんは、ここを追い出されて行く場所があるのですか? カプリス神官も、仮に追放などということになったら、他の地で受け入れてくれるところはあるでしょうかね」
だが、領主の使いは表情をほんのわずかに同情の色に染めつつも、首を横に振った。
拒否すれば、追放すると匂わせてくる。
領主であり神殿長でもある相手から追放されたとなれば、この地に居場所はない。他の地に行ったところで、すねに傷を持つ身となった者を受け入れてくれる場所など、限られるだろう。
あまりの内容に、アンジェリアもカプリスも言葉を失う。
「だ……だからといって……」
「……わかりましたわ。お世話役、つつしんで承りますわ」
抗議しようとするカプリスを推し留め、アンジェリアはか細い声で答える。
いつか愛する相手と結ばれたとき、幸福と共に散らすはずだった純潔は、貴族の慰みものとして踏みにじられることになる。
恐ろしく、悔しくもあるが、神殿を追い出されたらアンジェリアに行き場はない。しかも、恩あるカプリスの追放までがかかっているのだ。断ることなどできず、受け入れざるを得ない。
「それが賢明ですね。それでは受け入れ準備をよろしくお願いします」
領主の使いはそそくさと帰っていった。
「アンジェリア……」
「大丈夫ですわ。私も、もう子供じゃありませんもの」
沈痛な面持ちのカプリスに対し、アンジェリアは精一杯強がって微笑む。
内心では泣き出したくてたまらなかったが、そのような姿を見せるわけにはいかない。
「さあ、受け入れ準備を始めましょう。使っていない宿舎のお掃除も必要ですわね」
アンジェリアは立ち上がり、動き出そうとする。
不安に押し潰されそうで、何かに没頭していなければ、おかしくなってしまいそうだった。
いそがしく準備をしているうちに、日々が過ぎていった。
街中では上級神官がやって来るという噂がちらほらと流れており、買い出しに行ったときなど、アンジェリアの耳にも噂が聞こえてきた。
その上級神官の噂は恐ろしいものばかりだった。
魔物など素手で倒してしまうといった、良い意味での恐ろしいものはまだよい。女をいたぶるのが好きで、妻として迎えた女は夜明けに殺してしまうという話を聞いたときは、アンジェリアは震えが止まらなくなってしまった。
「アンジェリア……これ、おまけしとくよ」
アンジェリアが世話役をすると聞いたらしい店の者から、気の毒そうな眼差しを向けられることもあった。
もしかしたら、純潔どころか命を失うことになってしまうのかもしれない。
最初の頃は恐怖で気が狂いそうなほどだったが、だんだんと諦めが勝ってきて、アンジェリアはむしろ落ち着いてきた。
すると、アンジェリアが世話役を仰せつかることになった理由についての推測も聞こえてきた。
上級神官は名門貴族の出身なので、田舎貴族である領主は取り入っておきたいのだという。
独身だというのだから、妻として身内をあてがえばよい。領主には娘はいないが、姪ならばいる。本来ならば姪を差し出すのが一番だろうが、上級神官には恐ろしい噂があり、ためらわれたのだろう。
そこで身内がおらず、もし殺されても問題がないアンジェリアをあてがうことにしたのだ。
たとえ殺されたところで、むしろ上級神官に恩を着せて取り入ることができるくらいのことを、あの領主ならば考えているに違いないと、街の人々はひっそりと囁き合っていた。
そしてとうとう、上級神官とその一行がやって来る日が訪れてしまった。
アンジェリアは生贄として捧げられるべく、領主の屋敷に呼び出されて、磨き上げられていた。
上級神官とその一行を歓迎しての宴が開かれるが、アンジェリアはそれに出席することなく、寝室で待機させられる。
宴に出たいわけではなかったが、寝室に置かれた道具そのものの扱いが、アンジェリアの心をちくちくと突き刺す。
忘れていた恐怖もじわじわとわきあがってきて、アンジェリアは腰掛けたベッドのシーツをぎゅっと握った。
いったいベルナルド上級神官というのは、どのような男性なのだろうか。
名門貴族の出身で強大な法力を持ち、黒の神官と呼ばれるほど、数々の恐ろしい噂に包まれているのだ。
アンジェリアのような平民など、人間とも思っていないに違いない。おそらく、体つきは貴族らしい典雅な細身で、目鼻立ちは整っているものの、酷薄な目つきをしているのだろう。
部屋に入ってくると、何だこの貧弱な小娘はといわんばかりに、冷めた目つきで見下ろして、ため息を吐き出すのだ。仕方がない、我慢してやるかといった調子でアンジェリアに手を伸ばし……そして……。
思わずぎゅっと目をつむり、そこで思考を打ち消す。
それでも、この先の出来事からは逃げられないのだ。ならばせめて、いっときとはいえ妻になったつもりで、お仕えすることにしよう。いや、それはかえって相手の気に障ってしまうだろうか。
ただ待つだけの長い時間、アンジェリアはとりとめもなく、そのようなことを考えていた。
やがて、そうして恐怖に震える時間の終わりがきた。
ドアが開かれ、部屋に一人の男が入ってきたのだ。
だが、アンジェリアの想像していた姿とはかけはなれている。細身で、整った顔立ちの冷めた男など、どこにもいない。
現れたのは、一言で言えばむくつけき大男だ。
大きながっしりとした体つきをしており、顔立ちは無骨で、頬の傷跡が凶悪な印象を深めている。短く刈り込んだ黒い髪は、労働に支障がないことを目的としているようで、アンジェリアの考える貴族らしくはない。黒い目は酷薄どころか、戸惑ったような、アンジェリアに対する憐れみのようなものすら伺えた。
想像と正反対の男が現れ、アンジェリアは息をのんだ。
これまで彼を見た多くの女が似たような反応を示し、次に悲鳴をこらえるか、視線をそらした。
だがアンジェリアは、ゆっくりと吐息を漏らすと、目の前の相手に視線を奪われて、動けなくなってしまう。
これまで見たことがないような立派な体格と、優しい瞳は、まるで童話に出てくる大きな熊のようで、アンジェリアの心から恐怖は消え失せて、かわりにひとつの思いで頭が占められる。
――なんて、素敵な方なのだろう。
神殿の庭を掃除していたアンジェリアは、一瞬、手を止めてびくりと身を震わせた。
北に位置するこの地では、冷たい風など珍しくもないはずだったが、いつもとは違う胸騒ぎを運んでくるような風だった。
「早く、掃除を終わらせないと……」
どことなく不安に駆られ、風によって乱された淡い金色の前髪をかき上げると、アンジェリアは掃除の手を早める。
今年十八歳になったアンジェリアが、物心ついた頃から暮らしている神殿はさびれていて、今や常駐しているのは、神殿長代理の老神官とアンジェリアのみだ。
アンジェリアは神官見習いという名の、雑用係である。
幼い頃に父が亡くなり、母がアンジェリアを連れて神殿に住み込んで働いていたのだが、その母も昨年亡くなってしまい、アンジェリアに残されたのは一つのペンダントだけだった。
どこかから声が聞こえてくるような気がして、アンジェリアはふと掃除の手を止める。小さな青い石が中心にはめ込まれた、雪の結晶をかたどったペンダントにそっと手を伸ばし、包み込むように触れて目を閉じた。
「アンジェリア、領主様の使いがいらしています」
そのとき、神殿長代理であるカプリスの声が響いた。
神殿長は領主なのだが、名目上でしかなく、実務はカプリスがこなしている。
アンジェリアにとっては師匠であり、また祖母のような存在でもある。
「はい、すぐにまいりますわ」
アンジェリアは掃除を中断し、カプリスと共に領主の使いが待つ部屋に向かった。
いつもの定期連絡ならば自分は必要ないはずだ。それなのに呼ばれるということは、いったい何があるのだろうと、アンジェリアは戸惑いながら歩いていく。
緊張しながら領主の使いの待つ部屋に入り、挨拶をすると、アンジェリアは促されて椅子に座った。
「この神殿に、王都から上級神官様がやって来られます。なんでも、この地にある結界が弱まっているので、その補修のためだそうです」
領主の使いが話を切り出す。
この地には魔の領域とを隔てる重要な結界があるという話は、アンジェリアも知っていた。
三百年ほど前に作られ、神殿長が代々管理していたという。
その結界が弱まっているというのは大変なことで、アンジェリアは衝撃を受けたが、自分が何故呼ばれたのかは、まだわからなかった。
「上級神官様と、その一行を受け入れるための準備をしてください。そして、アンジェリアさん。あなたには上級神官様のお世話役をお願いしたいのです」
「……上級神官様のお世話役ですか? それはもちろん、光栄なことですわ」
突然話を振られて驚きながらも、大きな青い瞳でまっすぐに相手を見つめ返し、アンジェリアは答えた。
何の疑問を抱くこともない純粋な瞳に見つめられ、領主の使いの目がわずかに泳ぐ。しかしそれは瞬きする間ほどのことで、すぐに領主の使いはアンジェリアの視線をしっかりと受け止めた。
「お世話役といっても、日常的な身の回りのことは、従者を伴ってくるでしょうから、おそらく必要ないと思われます。あなたにお願いしたのはただひとつ、夜のお世話役だけです」
「夜のお世話役……?」
意味がわからず、アンジェリアは首を傾げる。
日常的なこと以外で、夜に特別な何があるのだろうか。神官見習いとはいっても、まだまだ未熟な身には理解が及ばぬことがあるのだろうと、アンジェリアは答えを求めて、カプリスをちらりと伺う。
すると、カプリスがわなわなと震えながら、怒りの形相で領主の使いを睨みつけているのを見て、アンジェリアはぎょっとして言葉を失ってしまった。
「どういうことですか。そのような真似をこの子にさせるなど、許しません。これほど恥知らずな要求を、上級神官様がなさったというのですか。どなたですか、その上級神官様は」
「やって来られるのはベルナルド上級神官様ですが、要求があったかは……」
カプリスの怒りにやや怯みながら、領主の使いは歯切れ悪く答える。
「ベルナルド上級神官様といえば、名門貴族の出身で強大な法力をお持ちだそうですね。そして、黒の神官という異名を持ち、様々な芳しくない噂も聞いております。彼からの要求か、それとも領主様が取り入る材料として使いたいのかは存じませんが、どちらにせよ、この子にお世話役などさせられません」
アンジェリアを庇うように身を乗り出して、カプリスは毅然と言い放つ。
「悪く考えず、いっときの妻になるようなものだと思えばいいのです。妻として夫の世話をするのと、さほどかわりはないでしょう」
「いっときだけ……つまり妾ではありませんか。この子にはそのような日陰の身ではなく、誠実な男性と結ばれて幸せになってほしいのです。貴族のおもちゃにされるなど、冗談ではありません」
領主の使いとカプリスのやり取りを聞きながら、ようやくアンジェリアにも夜のお世話役の意味が飲み込めてきた。
ずっと神殿で清い生活をしてきたアンジェリアには、まだその行為は聞きかじったことがある程度のものでしかなかったが、考えるとかすかに体が震えてくるようだった。
本来ならば夫婦の神聖な営みとなるはずの行為であるのに、相手の欲望を満たすための道具となれと言われているのだ。
「残念ながら、拒否権はありません。アンジェリアさんは、ここを追い出されて行く場所があるのですか? カプリス神官も、仮に追放などということになったら、他の地で受け入れてくれるところはあるでしょうかね」
だが、領主の使いは表情をほんのわずかに同情の色に染めつつも、首を横に振った。
拒否すれば、追放すると匂わせてくる。
領主であり神殿長でもある相手から追放されたとなれば、この地に居場所はない。他の地に行ったところで、すねに傷を持つ身となった者を受け入れてくれる場所など、限られるだろう。
あまりの内容に、アンジェリアもカプリスも言葉を失う。
「だ……だからといって……」
「……わかりましたわ。お世話役、つつしんで承りますわ」
抗議しようとするカプリスを推し留め、アンジェリアはか細い声で答える。
いつか愛する相手と結ばれたとき、幸福と共に散らすはずだった純潔は、貴族の慰みものとして踏みにじられることになる。
恐ろしく、悔しくもあるが、神殿を追い出されたらアンジェリアに行き場はない。しかも、恩あるカプリスの追放までがかかっているのだ。断ることなどできず、受け入れざるを得ない。
「それが賢明ですね。それでは受け入れ準備をよろしくお願いします」
領主の使いはそそくさと帰っていった。
「アンジェリア……」
「大丈夫ですわ。私も、もう子供じゃありませんもの」
沈痛な面持ちのカプリスに対し、アンジェリアは精一杯強がって微笑む。
内心では泣き出したくてたまらなかったが、そのような姿を見せるわけにはいかない。
「さあ、受け入れ準備を始めましょう。使っていない宿舎のお掃除も必要ですわね」
アンジェリアは立ち上がり、動き出そうとする。
不安に押し潰されそうで、何かに没頭していなければ、おかしくなってしまいそうだった。
いそがしく準備をしているうちに、日々が過ぎていった。
街中では上級神官がやって来るという噂がちらほらと流れており、買い出しに行ったときなど、アンジェリアの耳にも噂が聞こえてきた。
その上級神官の噂は恐ろしいものばかりだった。
魔物など素手で倒してしまうといった、良い意味での恐ろしいものはまだよい。女をいたぶるのが好きで、妻として迎えた女は夜明けに殺してしまうという話を聞いたときは、アンジェリアは震えが止まらなくなってしまった。
「アンジェリア……これ、おまけしとくよ」
アンジェリアが世話役をすると聞いたらしい店の者から、気の毒そうな眼差しを向けられることもあった。
もしかしたら、純潔どころか命を失うことになってしまうのかもしれない。
最初の頃は恐怖で気が狂いそうなほどだったが、だんだんと諦めが勝ってきて、アンジェリアはむしろ落ち着いてきた。
すると、アンジェリアが世話役を仰せつかることになった理由についての推測も聞こえてきた。
上級神官は名門貴族の出身なので、田舎貴族である領主は取り入っておきたいのだという。
独身だというのだから、妻として身内をあてがえばよい。領主には娘はいないが、姪ならばいる。本来ならば姪を差し出すのが一番だろうが、上級神官には恐ろしい噂があり、ためらわれたのだろう。
そこで身内がおらず、もし殺されても問題がないアンジェリアをあてがうことにしたのだ。
たとえ殺されたところで、むしろ上級神官に恩を着せて取り入ることができるくらいのことを、あの領主ならば考えているに違いないと、街の人々はひっそりと囁き合っていた。
そしてとうとう、上級神官とその一行がやって来る日が訪れてしまった。
アンジェリアは生贄として捧げられるべく、領主の屋敷に呼び出されて、磨き上げられていた。
上級神官とその一行を歓迎しての宴が開かれるが、アンジェリアはそれに出席することなく、寝室で待機させられる。
宴に出たいわけではなかったが、寝室に置かれた道具そのものの扱いが、アンジェリアの心をちくちくと突き刺す。
忘れていた恐怖もじわじわとわきあがってきて、アンジェリアは腰掛けたベッドのシーツをぎゅっと握った。
いったいベルナルド上級神官というのは、どのような男性なのだろうか。
名門貴族の出身で強大な法力を持ち、黒の神官と呼ばれるほど、数々の恐ろしい噂に包まれているのだ。
アンジェリアのような平民など、人間とも思っていないに違いない。おそらく、体つきは貴族らしい典雅な細身で、目鼻立ちは整っているものの、酷薄な目つきをしているのだろう。
部屋に入ってくると、何だこの貧弱な小娘はといわんばかりに、冷めた目つきで見下ろして、ため息を吐き出すのだ。仕方がない、我慢してやるかといった調子でアンジェリアに手を伸ばし……そして……。
思わずぎゅっと目をつむり、そこで思考を打ち消す。
それでも、この先の出来事からは逃げられないのだ。ならばせめて、いっときとはいえ妻になったつもりで、お仕えすることにしよう。いや、それはかえって相手の気に障ってしまうだろうか。
ただ待つだけの長い時間、アンジェリアはとりとめもなく、そのようなことを考えていた。
やがて、そうして恐怖に震える時間の終わりがきた。
ドアが開かれ、部屋に一人の男が入ってきたのだ。
だが、アンジェリアの想像していた姿とはかけはなれている。細身で、整った顔立ちの冷めた男など、どこにもいない。
現れたのは、一言で言えばむくつけき大男だ。
大きながっしりとした体つきをしており、顔立ちは無骨で、頬の傷跡が凶悪な印象を深めている。短く刈り込んだ黒い髪は、労働に支障がないことを目的としているようで、アンジェリアの考える貴族らしくはない。黒い目は酷薄どころか、戸惑ったような、アンジェリアに対する憐れみのようなものすら伺えた。
想像と正反対の男が現れ、アンジェリアは息をのんだ。
これまで彼を見た多くの女が似たような反応を示し、次に悲鳴をこらえるか、視線をそらした。
だがアンジェリアは、ゆっくりと吐息を漏らすと、目の前の相手に視線を奪われて、動けなくなってしまう。
これまで見たことがないような立派な体格と、優しい瞳は、まるで童話に出てくる大きな熊のようで、アンジェリアの心から恐怖は消え失せて、かわりにひとつの思いで頭が占められる。
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