白銀の竜と聖なる魔女

加永原

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第1章

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 魔物の脅威に晒された翌日とは思えぬ、透き通るような朝だった。
 微睡みの縁から睫毛を震わせ、未だ微かに残る眠気を帯びながら目を開ける。寝台に横たわっていた身体を緩慢な動きで起き上がり、次いで朝日が差し込む窓へと視線を上げる。
 朝と言えど明け方であるからか、宿舎内は昨夜の騒々しさから打って変わり、夢の中に浸っている者も多いようだ。とはいえ早朝から鍛錬に励むものもいるようで、遠くから剣戟の音が聞こえてくる。
 身を起こして簡易的な服に身を包み、顔を洗ってから部屋を出る。既に眠気などなく、静かな廊下を進んで行く。
 廊下には仄かに朝食の香りが漂っており、あと数時間もしないうちに食堂は賑わいを見せる。食堂に顔を覗かせ、戦場のように駆け回るシェフたちに挨拶をすれば、彼らは手を止めてまで深く頭を下げる。
 ご苦労さまですと、一言告げてからその場を離れると、先程よりも熱い声が上がるのだが、スクートの意識は既に練武場へ向かっていた。
 部屋にいた頃よりも鮮明になる剣戟の音に、手合わせをしている息遣いまでが耳に入る。
 眼前に広がるのは宿舎内部に設けられた練武場であり、中庭に位置するそこへは数人が集まっていた。その面々はスクートと共に王都から派遣された騎士たちであり、彼らの飽くなき鍛錬にスクートは感心した。
 スクートの存在にいち早く気付いたのはヴォゼスであり、カインとの手合わせ中だというのに喜色を含んだ満面の笑みで手を振った。

「あぁ、聖女様! 朝から聖女様のご尊顔を拝見出来るなんて、僕はなんて幸せ者なんでしょう! やっぱり遠征先で見られるその飾らないお姿も大変素敵でいらっしゃいますね。僕はそんな素敵な聖女様のお姿を見るために、こんな明け方から団長なんかと手合わせをしていたのですね。あっ、違いますよ。団長なんかとなんて、団長を軽んじてるわけじゃないですよ。僕は団長と手合わせすることも楽しいとは思っているんですから、嫌な意味ばかりを捉えないでくださいね!」

 剣を交えながらも変わらず達者な口に、カインが足元を崩そうと払う。しかし、ヴォゼスは軽く宙返りをして距離をとると、着地と同時に一足飛びに間合いを詰める。
 下から掬い上げるような剣の軌道を逸らし、横からなぎ払おうともヴォゼスは難なく受け止める。
 ビリビリとした痺れが両者の手に伝わるが、カインの渋面とは異なり、ヴォゼスは恍惚とした表情で未だに聖女に対してのお喋りが絶えない。
 拮抗する二人の打ち合いは決着がつかず、素振りをしていたキールが息を呑んで見ていた。
 キールが思わず感嘆の声を漏らすと、近くにいたロサンテリアはその背を叩いてけらけらと笑う。

「駄目よ、キール。いい? あんなものはただの化け物なのだから、あなたは立派な騎士を目指しなさい。まぁ小隊にも選ばれるくらいなのだから、あなたの腕は既に並よりも優れていると証明されているし、そこまで心配は要らないでしょうけれど」

「うっ、トライティカム様にそんなことを言っていただけるなんて、もっと頑張ります!」

「ロサでいいというのに、あなたはちっとも慣れないわね」

 ロサンテリアはまたも背中を叩いて笑みを零し、キールは背中を丸めながら剣を握り直す。
 二人の視線の先には尚も打ち合うカインとヴォゼスがおり、練武場の面々はその光景にどこか呆れをもった顔で見詰めていた。
 スクートがロサンテリアに近付くと、彼女は頭を下げて騎士の礼をとる。穏やかな鍛錬の時間に顔を出すのはあまり良くないと思ってはいても、スクートはロサンテリアに会いに来たのだ。

「おはようございます、ロサンテリア。キールも鍛錬に励んでいるようで感心しました」

 微笑むことはないが、口調から伝わるのは柔らかさだ。
 声を掛けられ動揺するキールを視界の端に捉えながら、顔を上げたロサンテリアはその言葉に極上の笑みをもって返す。すると、スクートの手がロサンテリアの頬に触れる。人形のような見目の少女であるが、体温は人間と変わらない。
 笑みを浮かべたまま目を丸くするという、器用なことをしたままのロサンテリアは意図を掴めずにいた。

「ロサンテリア、荷物持ちなどあなたに相応しくない役回りを押し付けてしまっていることを、心の底から申し訳なく思います」

 ロサンテリアよりも背の低いスクートは、瞳に申し訳なさを滲ませて言う。
 ロサンテリアは目を瞬かせると、目の前に跪く。謝罪など恐れ多いとばかりに頭を下げるものの、スクートは顎に手を伸ばして優しく上を向かせる。
 朝日を背にし、揺らめく金糸の髪が煌めいて神々しさが増す。見上げたロサンテリアの目に映るのは紛うことなき聖女であり、在り方の違いが滲んでスクートの言葉を逃さぬようにと意識が集中する。

「あなたに救われている私を、どうか許してください」

「いいえ、いいえ聖女様。貴女のお力になれるのであれば、どのような些事も厭うことなどありません。ですが、貴女の許しを得て喜びとしてしまう卑しい私を、どうかお許しください」

 震える睫毛は喜びによるもので、ロサンテリアはそう願わずにはいられなかった。
 仕える騎士としてあるまじき願いと思えども、これはロサンテリアとしては褒美を得られるまたとない好機である。それを逃すのであればそれこそ騎士としての矜恃が許さず、場所も忘れて懇願の眼差しでスクートを見上げる。
 いつの間にか剣戟も止んでおり、周囲の視線はスクートとロサンテリアに注がれている。だが、二人にそのような視線は届いてはいない。
 お互いを見つめるほんの数秒後、スクートはさらりとロサンテリアの頭を撫でた。

「あなたの喜びを、私がどうして奪えるのでしょうか」

 目を細めてスクートの手を享受したロサンテリアは、やがて誇らしげに顔を上げる。視線はもちろんヴォゼスに向けていて、言外に良いだろうとでも言いたげな面持ちだ。
 彼女たちのやり取りに見蕩れていた面々も、これには思わず苦笑を漏らす他ない。ヴォゼスにいたっては怒りに剣を振り回しながら何事かを口走っており、カインに羽交い締めにされている始末だ。
 スクートが窘める声にロサンテリアはヴォゼスから視線を外すも、ふっと勝ち誇った笑みを残すものだからヴォゼスはヒートアップする。
 高笑いをするロサンテリアを追い掛けるのは、拘束を振り切ったヴォゼスだ。二人は練武場を縦横無尽に駆け回り、外野の声援も相まって一種の競技のようにも見える。
 カインが駆け寄って来るのに合わせ、スクートはそちらへと向く。

「スクート様、先日のお言葉をお守りいただき、ありがとうございます。そして起き抜けだというのに騒がしく、申し訳ありません」

 溜息を混じえた言葉には彼の心労が窺え、スクートは問題ないと返す。

「活気があるというのは良いことです。私も彼らのように羽目を外せたなら良いのですが、そのような機能を持っていないことを残念に思っているくらいなのですよ」

「お戯れを。スクート様まで加わるとなると、俺の胃は蜂の巣になってしまいますよ」

「それは困りますね。カインが健康を損ねるというのであれば、やはり私には不要な機能であるということなのでしょう」

 練武場を駆け回る彼らを見詰めるスクートの瞳には、どこか憧憬とも取れるような揺らぎがあった。
 横顔に見とれ、掛けるべき言葉を探せども出てくるのは曖昧な返答だけだ。彼女の求める答えを出せないのはいつものことで、カインは切り替えるように口を開く。

「祈りへと向かわれるのですか?」

 カインへと向けられる金の瞳が、凪いだ湖のごとく煌めいた。
 スクートは頷きをもって返答とする。
 練武場へと寄ったのはそもそも事のついでであり、最初からスクートは祈りへと向かおうとしていた。ロサンテリアへの感謝と謝罪をすることを決めていなかったら、練武場へと出向くこともなかったのだ。
 イレモトランの騎士団宿舎には、王都には及ばないものの聖堂が併設されている。とはいえ、それなりに立派な聖堂なのだが、王都以外にはイレモトランにしかないものだ。
 マクァラトルに祈るべき神はおらず、祈りは聖女へと捧げられるもの。場所を問わず祈りを捧げ、結果として聖堂のような特定の建物も必要が無いとされている。
 領地に住む人々はおろか、街の住民にいたっても聖堂に集う習慣はないため、ほとんどスクートしか使用していない建物だった。

「調査へ出立の時間まではまだありますので、皆も程々にして朝食を食べ損ねないようにしてください」

 スクートは緩やかなウェーブの髪をふわりと靡かせ、静かに練武場をあとにした。
 その背中を見えなくなるまで見詰めてから振り返り、カインは未だに騒がしい連中をどうしたものかと頭を抱える。ロサンテリアは淑女らしさを捨てている傍らで、ヴォゼスの表情は既に人を捨てていた。
 こんな光景を聖女に見せていたと思うと情けなさや恥ずかしさを通り越し、最早無感情にもなり得よう。
 遠い目をしたカインがどう収拾をつけるかと考えていると、小走りで練武場に入って来た騎士がいた。街の駐在騎士であり、彼はカインに駆け寄ると耳打ちをする。
 目を見開き、次いで眉間に皺を寄せたカインは騎士を下がらせ、腰に差していた剣を抜く。そしてまた鞘に戻したことで音が鳴り、これまで好き放題に騒いでいた自由な騎士たちの視線が一気にカインに向けられた。
 そこにある顔は最早先程までの奔放さはなく、騎士としての面持ちをしていたのだから、混じっていた駐在騎士は目を見開いた。
 誰の声など届きようもなかっただろうに、カインの剣を抜いてまた戻すという、一見すると意味の分からないその行為一つで静寂を取り戻す。統率が取れていると表現していいものかと、駐在騎士は驚きを隠せずにいるとカインは低くも通る声で命令をくだす。

「朝食後、速やかに支度を整え待機せよ」

 返事は一切の乱れのない見事なもので、彼らは今しがたの姿が嘘だったかのように練武場をあとにして行く。
 残されたイレモトラン駐在騎士の面々は、王都の騎士たちとの格の違いを見せられたことに、しばらく茫然とした表情で残っていた。
 だがカインにはそんなこと預かり知らぬことだ。
 報せを受け、小隊をいつでも出撃出来るように手筈を調える。自身は食堂に向かわず、第二執務室に向かうと扉の前で立ち止まる。
 一拍の迷いのあと、カインは扉を開くと中には机の上に1羽の鳥が止まっている。小さく雪のように真白い羽毛は穢れを知らないようでいて、その鳥は毒を撒き散らして病をもたらす魔物だ。
 じっと見詰めてくる鳥に一瞬眉を顰めるも、扉を閉めてからカインは鳥の前に跪く。

『なにか嫌なことでもあったのかな?』

 小鳥――ラドリオンの口からは鳴き声ではなく、人間の声が聞こえる。
 その声はカインのよく知るものであり、思わず身構えたくなるような愉快に弾む声だった。

「......いえ、なにもありません。クルムノクス大公閣下」

『そうかい? それならそういうことにしておこうか』

 ジルの声にはすべてを見透かしているというのに、敢えて泳がせることで楽しむ性格の悪さが窺える。表情に出すまいとしながらも、カインは無意識ながらに奥歯に力を入れてしまう。
 挨拶もまともにしないまま投げかけられた質問はあまりにも不躾で、カインがジルを苦手としていることは既に彼には見抜かれているのだ。

『つくづくきみは似ているね。本当にうんざりするよ』

 独り言とも取れるその呟きは、ぞっとするほど冷たいものだった。目の前にジルがいれば、彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべたままにその声色だけで周囲の者を萎縮させていたことだろう。
 ラドリオンの口から告げられたからか、幾分か和らぎはしているものの、カインは本能としてジルを畏れてしまう。

『そんなに眉間に皺を寄せていたら、いつかその皺が取れなくなってしまうよ?』

「クルムノクス大公閣下にご心配をお掛けするとは、情けない姿を晒した非礼をお詫びいたします」

『いいだろう、今回はきみを許すこととしよう。では、本題に入ろうか』

 ジルが足を組み直す気配をラドリオン越しに察し、カインは返事をする。

『国壁内部にはもう魔物の侵入は見られない上に、復興に関しても既に現地騎士団は除いても、これ以上の介入は不要だろうと僕は思うんだ。だから、きみたちは速やかに王都へ戻れ』

「......それは、国王陛下や貴族院の方々も承認なさっているのでしょうか」

 カインはジルのいつにない性急な物言いに疑問を抱く。
 理由としては十分だ。彼の目はどういった原理を持っているのかは不明であるが、国の内部のすべてを見通していることは周知の事実。言葉通り、国壁内部には既に生存している魔物はいないのだろう。
 だが、常であれば前置きはもっと長くあるだろうし、命じるとしてもあくまでも柔和な態度を崩すことはない。
 それでも、僅かな綻びを見せるかのような口調に、カインは思わず口を挟んでしまった。
 途端に、ぶるりと悪寒に震えそうになる。

『承認を得ることに、なんの意味があるんだい?』

 ゆっくりと、聞き分けのない子供に言い聞かせるように紡がれた。口を挟むことを許してはないという表れに、言いようのない威圧感が込められている。
 しかし、カインは眉間に皺を寄せたままを隠すこともせずに声を上げる。

「クルムノクス大公閣下の一存では、我々は動くことは出来ません」

 喉が異様に渇き、背中には嫌な汗が伝っている。
 しん、と部屋には静寂が生まれ、それがカインの不安を助長させる。時間の流れが嫌に遅く感じられ、じっとこちらを見詰めてくるラドリオンの瞳に僅かに新芽の色が宿る。

『――随分と偉くなったじゃないか、カイン・ウェールス・フィデティス』

 ラドリオンの口からジルの言葉が紡がれると同時に、心臓を鷲掴みにされる錯覚がカインを襲い、呼吸がしづらくなる。蹲ったカインは酸素を求めるも、上手く吸えずに喉からは嫌な音が耳に響く。
 カインは文字通り、息も絶え絶えになりながらラドリオンを睨み上げることしか出来ない。小鳥は小首を傾げ、そんなカインを無感情に見下ろしていた。
 一般的に、ミドルネームは他者に教えてはならないとされている。ミドルネームとは真実の名を指すとされ、その名を知られてしまえばその者のすべてを掌握されてしまうと考えられているからだ。
 そんな一般的な考えは、貴族にしか適用されないはずだった。ミドルネームを持つのは貴族に限ったことなので、名しか持たない平民には関係の無い話なのだから。
 適用外のカインは名誉貴族といえど平民出身であるため、本来であればミドルネームを持たないはずである。だが、彼の一族は過去、その地位を剥奪された没落貴族であり、ミドルネームも持っていることはもちろん、その名は既にジルには割れていた。
 床に這いつくばるカインの目の前に、ラドリオンは降り立つとその顔を覗き込む。瞳の色は既に新芽の色に輝き、そこには苦渋に歪むカインが映っている。

『苦痛に歪む顔もそっくりなのだから、血筋って恐ろしいものだと思わないかい? あぁ、そんなに睨まないでくれよ、嫌われてると思うと悲しくなるだろう』

 心にもないことを、と内心で吐き捨てるが、心臓を蝕む痛みのせいでまともに話すことも出来ない。
 そんなカインを嘲笑うかのようにラドリオンが一鳴きすると、ふっと痛みが消えて締まっていた喉もようやく酸素を取り込み始める。
 心臓を押さえつつ呼吸も整えようつつも、乱れた息はなかなか戻りそうにない。
 痛ましいね、などと白々しくも嘯くジルの本心など、理解する気も起きなかった。

『きみはアレのラドリオンなのだから、あんまり意思を持ってはいけないよ』

 ジルの言葉に抵抗出来る気力を削がれたカインは、僅かに拝命の意を絞り出すのが精一杯であった。
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