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夏の暑さと深まる関係
〈2〉……賢二郎視点
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「ルイとデュオ? …………ふぅん、へぇ、まぁ、いいんじゃないか?」
サーシャからは聞こえてきたことのないような低音ボイスだ。
累との弦楽デュオをやることについて、事前にサーシャにひとことも相談せずにその場で決めた。たぶんそれがよくなかったのだろう。
この件が決定した夜、ふらりと賢二郎の部屋にやってきたサーシャに、「今後、ちょいちょい累クンとデュオの仕事やることになったし」とさらりと告げたら——……サーシャはしばし固まって眉を寄せ、低い声でそう応えたのだった。
普段からなんでも相談して決めようという関係性ではないため、互いに事後報告になることのほうが多い。
賢二郎もサーシャも当たり前のようにスケジュールはすべて仕事優先、タイミングが合えば二人で過ごす、という暗黙の了解があったのだが、今回ばかりは事前に相談したほうがよかったかもしれないと、賢二郎は珍しく反省していた。
累とサーシャの関係もすっかり落ち着き、やたらとやきもちを妬くことはなくなったサーシャだ。だからもう、累と賢二郎の関係性についてあれこれ文句を言ってくることもないだろうと踏んでいたのだが……どうやら、まだ少しひっかかるところがあったらしい。
「……てことは、これからちょくちょく、彼とふたりきりで密室にこもってレッスンするってことか」
「え? いやまぁ、そういうこともあるかもやけど……」
「ふーん……そうなんだ」
サーシャは手に提げていたコンビニの袋をがさりとキッチンに置き、冷蔵庫にテキパキと中身を仕舞い込み始めた。
普段穏やかなサーシャの背中からは、明らかに不機嫌なオーラを放たれまくっている。風呂上がりにソーダ味の棒アイスを咥えていた賢二郎は、そのアイスと同じくらい青ざめた。
「……お、怒ってんの?」
「別に、怒ってはない。怒ってはないよ。今後のことを思えば、デメリットなんてひとつもない。賢二郎の知名度も上がるだろうし」
「そ……そやんな。そう思うやろ? 僕もそう思ってさ……」
「理屈はわかる。それでいいと思う。……でも」
はぁ…………と、サーシャが重いため息を吐いた。
サーシャが怒っている。
賢二郎は青ざめつつ目を瞬き、次にサーシャが何を言うのか戦々恐々としながら待っていた。だが、サーシャは背を向けたまま何も言わない。とろりと溶けかけたアイスを、賢二郎はあわてて唇で受け、しゃりしゃりと残りも食べ尽くした。
「……サーシャ?」
「ふー…………だめだな。もう何も気にすることもないはずなのに」
「え? な、なぁ、ごめんて。相談もなく勝手に決めて」
「いや、いいんだ。君自身の選択に、俺がとやかく口を挟むべきじゃない。それはわかってる……わかってるんだけど」
賢二郎は、おそるおそるサーシャの前に回り込む。そして、キッチンのカウンターに片手をついて額を押さえているその顔を見上げてみると——……サーシャは口をへの字に曲げ、ぎゅっと目を瞑って、もやもやと込み上げてくる葛藤と必死で戦っているような、ややこしい表情を浮かべていた。
初めて見るサーシャの苦悶の表情に、賢二郎は慌てた。
「え、ど、どないしてん」
「わかってる……わかってるんだよ。もちろん悪いことじゃない、むしろいい話だと思うんだ。でも、でもさ……あぁ……こういうの、日本語でなんていったらいいんだろう」
「ドイツ語でもええけど……わからんかったらごめん」
「いや……複雑なことはよそう。こういうの、溜め込むのは良くない」
「う、うん、せやな。言いたいことあるなら全部言うてほしい」
そう言うと、さらに深いため息をついたあと、サーシャは血の涙が溢れ出そうな悲壮な目つきで、賢二郎に向き直った。
「……いい話だと思うけど俺はおもしろくない。南禅寺のコンサートでちょこちょこ君がルイとレッスン室という密室で会ってることも正直おもしろくはなかったし、君のこともルイのことも疑うわけじゃないけどおもしろくはなかったんだ。だけど、今後もっと彼との仕事が増える? しかもデュオ? 君たち、演奏中ものすごく見つめ合ったりしてるし息ぴったりでとってもいい雰囲気なのわかってる? 君はきれいだしルイも美形だ。お客さんたちはきっと、美形同士の君たちの関係に麗しいものを感じて萌えてるひとが多いと思う。君は俺の恋人なのに、俺の大事なパートナーなのに、ルイの相手だと思われてるかもしれないんだ。……いや、べつにひとにどうみられていても俺は構わないし、それはそれで一つの戦略にもなりうる。だから構わないんだけど……けど……っ」
「……うん、うん、言いたいことはようわかった」
自らのシャツの胸元を握りしめながら苦悶の表情で早口に訴えるサーシャを、賢二郎はぎゅうっと抱きしめた。
「この件に関しては、事前に相談してから決めるべきやった。ほんまに、ごめん」
「い、いや……かまわないんだ。けど、この胸のモヤモヤは……そうしてほしかったってことなのかもしれない……」
「ごめんな」
「……いや、カッコ悪いところを見せたね。もっと余裕をもって、快く応援してあげられたらよかったんだけど」
「ううん。僕のほうこそ配慮がなかったわ」
サーシャの肩口に埋めていた顔を上げ、ひたと見上げる。あいかわらず眉を顰めたままのサーシャの頬に、伸び上がってキスをした。
すると、そっと腰に手が回り、身体がぴったりと密着する。
「僕が惚れてんのは、サーシャやで」
「う、うん……それは、わかるよ。めずらしいな、君がそんなこと言うなんて」
「不安にさして、ごめんな」
「……いや、いいんだ。俺はルイのことも、君のことも信じてる。ちょっと、わがままがいいたくなっただけさ」
「わがままて」
ふ、と賢二郎が笑うと、サーシャもようやく笑顔になった。
そのまま吸い寄せられるように唇が重なり、その夜はいつにも増して濃厚に、激しい愛撫にずいぶんと啼かされてしまった。
サーシャからは聞こえてきたことのないような低音ボイスだ。
累との弦楽デュオをやることについて、事前にサーシャにひとことも相談せずにその場で決めた。たぶんそれがよくなかったのだろう。
この件が決定した夜、ふらりと賢二郎の部屋にやってきたサーシャに、「今後、ちょいちょい累クンとデュオの仕事やることになったし」とさらりと告げたら——……サーシャはしばし固まって眉を寄せ、低い声でそう応えたのだった。
普段からなんでも相談して決めようという関係性ではないため、互いに事後報告になることのほうが多い。
賢二郎もサーシャも当たり前のようにスケジュールはすべて仕事優先、タイミングが合えば二人で過ごす、という暗黙の了解があったのだが、今回ばかりは事前に相談したほうがよかったかもしれないと、賢二郎は珍しく反省していた。
累とサーシャの関係もすっかり落ち着き、やたらとやきもちを妬くことはなくなったサーシャだ。だからもう、累と賢二郎の関係性についてあれこれ文句を言ってくることもないだろうと踏んでいたのだが……どうやら、まだ少しひっかかるところがあったらしい。
「……てことは、これからちょくちょく、彼とふたりきりで密室にこもってレッスンするってことか」
「え? いやまぁ、そういうこともあるかもやけど……」
「ふーん……そうなんだ」
サーシャは手に提げていたコンビニの袋をがさりとキッチンに置き、冷蔵庫にテキパキと中身を仕舞い込み始めた。
普段穏やかなサーシャの背中からは、明らかに不機嫌なオーラを放たれまくっている。風呂上がりにソーダ味の棒アイスを咥えていた賢二郎は、そのアイスと同じくらい青ざめた。
「……お、怒ってんの?」
「別に、怒ってはない。怒ってはないよ。今後のことを思えば、デメリットなんてひとつもない。賢二郎の知名度も上がるだろうし」
「そ……そやんな。そう思うやろ? 僕もそう思ってさ……」
「理屈はわかる。それでいいと思う。……でも」
はぁ…………と、サーシャが重いため息を吐いた。
サーシャが怒っている。
賢二郎は青ざめつつ目を瞬き、次にサーシャが何を言うのか戦々恐々としながら待っていた。だが、サーシャは背を向けたまま何も言わない。とろりと溶けかけたアイスを、賢二郎はあわてて唇で受け、しゃりしゃりと残りも食べ尽くした。
「……サーシャ?」
「ふー…………だめだな。もう何も気にすることもないはずなのに」
「え? な、なぁ、ごめんて。相談もなく勝手に決めて」
「いや、いいんだ。君自身の選択に、俺がとやかく口を挟むべきじゃない。それはわかってる……わかってるんだけど」
賢二郎は、おそるおそるサーシャの前に回り込む。そして、キッチンのカウンターに片手をついて額を押さえているその顔を見上げてみると——……サーシャは口をへの字に曲げ、ぎゅっと目を瞑って、もやもやと込み上げてくる葛藤と必死で戦っているような、ややこしい表情を浮かべていた。
初めて見るサーシャの苦悶の表情に、賢二郎は慌てた。
「え、ど、どないしてん」
「わかってる……わかってるんだよ。もちろん悪いことじゃない、むしろいい話だと思うんだ。でも、でもさ……あぁ……こういうの、日本語でなんていったらいいんだろう」
「ドイツ語でもええけど……わからんかったらごめん」
「いや……複雑なことはよそう。こういうの、溜め込むのは良くない」
「う、うん、せやな。言いたいことあるなら全部言うてほしい」
そう言うと、さらに深いため息をついたあと、サーシャは血の涙が溢れ出そうな悲壮な目つきで、賢二郎に向き直った。
「……いい話だと思うけど俺はおもしろくない。南禅寺のコンサートでちょこちょこ君がルイとレッスン室という密室で会ってることも正直おもしろくはなかったし、君のこともルイのことも疑うわけじゃないけどおもしろくはなかったんだ。だけど、今後もっと彼との仕事が増える? しかもデュオ? 君たち、演奏中ものすごく見つめ合ったりしてるし息ぴったりでとってもいい雰囲気なのわかってる? 君はきれいだしルイも美形だ。お客さんたちはきっと、美形同士の君たちの関係に麗しいものを感じて萌えてるひとが多いと思う。君は俺の恋人なのに、俺の大事なパートナーなのに、ルイの相手だと思われてるかもしれないんだ。……いや、べつにひとにどうみられていても俺は構わないし、それはそれで一つの戦略にもなりうる。だから構わないんだけど……けど……っ」
「……うん、うん、言いたいことはようわかった」
自らのシャツの胸元を握りしめながら苦悶の表情で早口に訴えるサーシャを、賢二郎はぎゅうっと抱きしめた。
「この件に関しては、事前に相談してから決めるべきやった。ほんまに、ごめん」
「い、いや……かまわないんだ。けど、この胸のモヤモヤは……そうしてほしかったってことなのかもしれない……」
「ごめんな」
「……いや、カッコ悪いところを見せたね。もっと余裕をもって、快く応援してあげられたらよかったんだけど」
「ううん。僕のほうこそ配慮がなかったわ」
サーシャの肩口に埋めていた顔を上げ、ひたと見上げる。あいかわらず眉を顰めたままのサーシャの頬に、伸び上がってキスをした。
すると、そっと腰に手が回り、身体がぴったりと密着する。
「僕が惚れてんのは、サーシャやで」
「う、うん……それは、わかるよ。めずらしいな、君がそんなこと言うなんて」
「不安にさして、ごめんな」
「……いや、いいんだ。俺はルイのことも、君のことも信じてる。ちょっと、わがままがいいたくなっただけさ」
「わがままて」
ふ、と賢二郎が笑うと、サーシャもようやく笑顔になった。
そのまま吸い寄せられるように唇が重なり、その夜はいつにも増して濃厚に、激しい愛撫にずいぶんと啼かされてしまった。
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