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音楽祭編
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「累!」
「あ……そら」
コンサートホールから観客がはけてからたっぷり一時間ほどが経ち、ようやく累が裏口から外に出てきた。
疲れているのだろうか。どことなくぼんやりとした表情のまま、駆け寄る空に無防備な笑顔を見せる。
「累、累……お疲れ様」
「うん……ありがとう」
「すっごくよかった。本当に、本当に……素晴らしかったよ、累!」
ヴァイオリンケースを背負った累の両手をぎゅっと掴み、空は唇を震わせながら万感を込めて言葉を贈る。すると累は何度か目を瞬き、ようやく我に返ったような表情で微笑んだ。
「……ありがとう。無事に終わってホッとした」
「すごかった、すごかったんだよ、累は! うまく言えないけど、高一のときの演奏も綺麗だったけど、今日のはもっとすごかった! 迫力があって、もっと……もっとダイナミックな感じがして……累の表情、すごくきれいで、楽しそうで……っ」
「うん……弾けた。思い描いた通りの音が出せて、弾いてることを忘れるくらい、音楽に没頭できたんだ」
空の手を握る累の指にも力がこもった。その指先は、微かに震えている。
伏せていたまつ毛がゆっくりと持ち上がる。
薄暗がりの中でも光を抱き、澄んだ輝きを湛える青い瞳が、潤んで揺れ——……。
膨れ上がった涙の粒が、ぽろ、ぽろと頬の上を転がり落ちる。
「弾けたよ、空。……ちゃんと、弾けた」
「うん、うん……! がんばったね、累」
「ん……」
累はそっと空に身を寄せ、上半身を屈めて空の肩口に額を埋めた。空はすぐに累を抱きしめ、硬く目を閉じる。そうしていなければ、空までわんわん声をあげて泣いてしまいそうだった。
今は、ちゃんと累の涙を受け止めていたい。
暗く長い不調の道程のなか、もがき苦しんで不安に駆られ、それでもその先を信じて進み続けた累の努力を、しっかりと抱きしめたかった。
「累……るい。お客さんたちも、みんな感動してたよ。伝わってた?」
「うん……うん」
「石ケ森さんなんて、涙ぐみながら怒ってたんだよ。負けてられないって、帰って練習するって、言って……すぐ帰っちゃった」
「ふ……ふふっ、そっか。……うん」
「るい、るい……っ、よかったね。本当に……」
だめだ、どうしても涙声になってしまう。
壮大で華やかな音楽を見事に弾いてみせた累とオーケストラの素晴らしい演奏に、ホールにいる全員が感動していた。あれだけ大きな空間に千人近くの観客がいたというのに、空気を通じてそれがわかった。
未経験の一体感だった。そこにいる皆が演奏に酔い、痺れるような感動に肌を粟立たせ、音色に没頭していた。
時折花開く累の笑顔や、サーシャの躍動的な指揮と、美しいハーモニーを造り上げるオーケストラ。ステージにいる全員が集中していて、それでいてとても楽しそうで……聴いているこちらまで笑顔になる。そんな演奏だった。
いつまでも鳴り止まない拍手がホールを揺るがす中、累は華やかな笑顔で拍手に応じ、額に輝く汗をきらめかせながら一礼した。そして、指揮台から降りてきたサーシャと硬い握手を交わす。
感極まったらしいサーシャがぎゅうぎゅう累を抱きしめる姿が微笑ましくて、オケのメンバーや観客から笑いが起きて……。
感動の余韻が冷めやらぬホール内には笑顔が溢れ、とてもあたたかい雰囲気だった。それが深く印象に残っている。
累は音楽を愛し、音楽に愛され、観客に愛されている——それをあの場で実感することができて、空はとても誇らしかった。
「空……ありがとう。ずっとそばにいて、応援してくれて」
「なにいってんだよ。当たり前じゃん」
「うん……。嬉しい。ありがと。そら……」
ぐす、と鼻をすすりながら、累が顔を上げる。
眉を下げて金色のまつ毛を涙で濡らし、目と鼻を赤くしている累の泣き顔にキュンとしてしまう。大人になってから累の泣き顔を見るとは思わなかった。
いじらしくて、愛おしくて、胸が苦しいほどに累が可愛い。
「……ステージの上じゃあんなだったのになぁ……」
「え……?」
「へへ……。累が泣いてるとこなんて何年ぶりに見たかなぁって」
「あ……ほんとだ、泣いてた」
ごし、と拳で目元を拭おうとする累の腕に触れ、空はその場で伸び上がり、累の頬にキスをした。
滑らかな肌は熱く、少ししょっぱい味がした。
「ふふっ、泣いてる累も可愛いなぁ」
「空……やめてくれよ、恥ずかしい」
「もっと見せてよ。こっち向いて」
「や、やめてってば」
涙に濡れた頬を指で拭ってやりながら、顔を背けようとする累の顔をこちらに向かせる。泣いていたせいか、恥ずかしいからか、困った顔をしている累の頬はさっきよりもずっと赤い。
ほんの一時間前まで、大勢の観客の喝采を浴びていた累が、自分の前ではこんなにも無垢な表情を見せてくれる。空の前で気を許している証拠に違いない。
累のスランプは苦しい日々が続いたけれど、これまでにない累の表情をたくさん見ることができたし、より深く累の気持ちを知ることができた。絆が確かに深まったと、感じることができた。
鼻をすすっている累を見上げて空は満面の笑みを浮かべ、累としっかり手を繋ぐ。
「もう帰る? どうしよっか、このあと」
「そうだ、後夜祭に一緒に行かない?」
このあと、中庭のステージで高城音大生のみの打ち上げイベントがあるという。ヴァイオリニストとハーピスト、そして打楽器専門の学生らが組んでいるバンドのライブで盛り上がるらしい。
「後夜祭? 音大生じゃないけど、俺もいていいの?」
「大丈夫だよ。僕もライブ見たらすぐに帰るし」
「オケの打ち上げは?」
「また後日ってことになったんだ。すごく集中してたから、サーシャを含めてみんなヘロヘロでさ」
「そっか。うん、じゃあ行こっか!」
空が笑って頷くと、累はするりと指を組み替えて恋人繋ぎをした。そしていたずらっぽく微笑んで、そのまま中庭へと歩き出す。
「こ、このままでいいの? 手……」
「いいよ。こうしてたいんだ」
「そ、そっか……」
おずおずと大きな手を握り返すと、累はことさら愛おしげな眼差しで空を見つめた。
累は一瞬立ち止まり、流れるような自然さで空の唇にキスをした。そしてなにごともなかったかのような涼しい顔で、またキャンパス内を歩き出す。
遅れて、かぁぁと空の頬が赤く染まった。
「……さっきまで泣いてたのに、急にサラッとこういうことするんだもんなぁ」
「え?」
「な、なんでもない。行こ!」
「うん。あぁ、お腹空いたなぁ」
「俺も俺も。何か食べよっか」
「うん、そうしよう」
中庭のステージのほうからは、学生たちの楽しげな歓声と、陽気なメロディが聴こえてくる。
ふたりはしっかりと手を繋いで、にぎやかに弾む音のほうへ歩き出した。
『音楽祭編』 おしまい♡
ここまでお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました!
「あ……そら」
コンサートホールから観客がはけてからたっぷり一時間ほどが経ち、ようやく累が裏口から外に出てきた。
疲れているのだろうか。どことなくぼんやりとした表情のまま、駆け寄る空に無防備な笑顔を見せる。
「累、累……お疲れ様」
「うん……ありがとう」
「すっごくよかった。本当に、本当に……素晴らしかったよ、累!」
ヴァイオリンケースを背負った累の両手をぎゅっと掴み、空は唇を震わせながら万感を込めて言葉を贈る。すると累は何度か目を瞬き、ようやく我に返ったような表情で微笑んだ。
「……ありがとう。無事に終わってホッとした」
「すごかった、すごかったんだよ、累は! うまく言えないけど、高一のときの演奏も綺麗だったけど、今日のはもっとすごかった! 迫力があって、もっと……もっとダイナミックな感じがして……累の表情、すごくきれいで、楽しそうで……っ」
「うん……弾けた。思い描いた通りの音が出せて、弾いてることを忘れるくらい、音楽に没頭できたんだ」
空の手を握る累の指にも力がこもった。その指先は、微かに震えている。
伏せていたまつ毛がゆっくりと持ち上がる。
薄暗がりの中でも光を抱き、澄んだ輝きを湛える青い瞳が、潤んで揺れ——……。
膨れ上がった涙の粒が、ぽろ、ぽろと頬の上を転がり落ちる。
「弾けたよ、空。……ちゃんと、弾けた」
「うん、うん……! がんばったね、累」
「ん……」
累はそっと空に身を寄せ、上半身を屈めて空の肩口に額を埋めた。空はすぐに累を抱きしめ、硬く目を閉じる。そうしていなければ、空までわんわん声をあげて泣いてしまいそうだった。
今は、ちゃんと累の涙を受け止めていたい。
暗く長い不調の道程のなか、もがき苦しんで不安に駆られ、それでもその先を信じて進み続けた累の努力を、しっかりと抱きしめたかった。
「累……るい。お客さんたちも、みんな感動してたよ。伝わってた?」
「うん……うん」
「石ケ森さんなんて、涙ぐみながら怒ってたんだよ。負けてられないって、帰って練習するって、言って……すぐ帰っちゃった」
「ふ……ふふっ、そっか。……うん」
「るい、るい……っ、よかったね。本当に……」
だめだ、どうしても涙声になってしまう。
壮大で華やかな音楽を見事に弾いてみせた累とオーケストラの素晴らしい演奏に、ホールにいる全員が感動していた。あれだけ大きな空間に千人近くの観客がいたというのに、空気を通じてそれがわかった。
未経験の一体感だった。そこにいる皆が演奏に酔い、痺れるような感動に肌を粟立たせ、音色に没頭していた。
時折花開く累の笑顔や、サーシャの躍動的な指揮と、美しいハーモニーを造り上げるオーケストラ。ステージにいる全員が集中していて、それでいてとても楽しそうで……聴いているこちらまで笑顔になる。そんな演奏だった。
いつまでも鳴り止まない拍手がホールを揺るがす中、累は華やかな笑顔で拍手に応じ、額に輝く汗をきらめかせながら一礼した。そして、指揮台から降りてきたサーシャと硬い握手を交わす。
感極まったらしいサーシャがぎゅうぎゅう累を抱きしめる姿が微笑ましくて、オケのメンバーや観客から笑いが起きて……。
感動の余韻が冷めやらぬホール内には笑顔が溢れ、とてもあたたかい雰囲気だった。それが深く印象に残っている。
累は音楽を愛し、音楽に愛され、観客に愛されている——それをあの場で実感することができて、空はとても誇らしかった。
「空……ありがとう。ずっとそばにいて、応援してくれて」
「なにいってんだよ。当たり前じゃん」
「うん……。嬉しい。ありがと。そら……」
ぐす、と鼻をすすりながら、累が顔を上げる。
眉を下げて金色のまつ毛を涙で濡らし、目と鼻を赤くしている累の泣き顔にキュンとしてしまう。大人になってから累の泣き顔を見るとは思わなかった。
いじらしくて、愛おしくて、胸が苦しいほどに累が可愛い。
「……ステージの上じゃあんなだったのになぁ……」
「え……?」
「へへ……。累が泣いてるとこなんて何年ぶりに見たかなぁって」
「あ……ほんとだ、泣いてた」
ごし、と拳で目元を拭おうとする累の腕に触れ、空はその場で伸び上がり、累の頬にキスをした。
滑らかな肌は熱く、少ししょっぱい味がした。
「ふふっ、泣いてる累も可愛いなぁ」
「空……やめてくれよ、恥ずかしい」
「もっと見せてよ。こっち向いて」
「や、やめてってば」
涙に濡れた頬を指で拭ってやりながら、顔を背けようとする累の顔をこちらに向かせる。泣いていたせいか、恥ずかしいからか、困った顔をしている累の頬はさっきよりもずっと赤い。
ほんの一時間前まで、大勢の観客の喝采を浴びていた累が、自分の前ではこんなにも無垢な表情を見せてくれる。空の前で気を許している証拠に違いない。
累のスランプは苦しい日々が続いたけれど、これまでにない累の表情をたくさん見ることができたし、より深く累の気持ちを知ることができた。絆が確かに深まったと、感じることができた。
鼻をすすっている累を見上げて空は満面の笑みを浮かべ、累としっかり手を繋ぐ。
「もう帰る? どうしよっか、このあと」
「そうだ、後夜祭に一緒に行かない?」
このあと、中庭のステージで高城音大生のみの打ち上げイベントがあるという。ヴァイオリニストとハーピスト、そして打楽器専門の学生らが組んでいるバンドのライブで盛り上がるらしい。
「後夜祭? 音大生じゃないけど、俺もいていいの?」
「大丈夫だよ。僕もライブ見たらすぐに帰るし」
「オケの打ち上げは?」
「また後日ってことになったんだ。すごく集中してたから、サーシャを含めてみんなヘロヘロでさ」
「そっか。うん、じゃあ行こっか!」
空が笑って頷くと、累はするりと指を組み替えて恋人繋ぎをした。そしていたずらっぽく微笑んで、そのまま中庭へと歩き出す。
「こ、このままでいいの? 手……」
「いいよ。こうしてたいんだ」
「そ、そっか……」
おずおずと大きな手を握り返すと、累はことさら愛おしげな眼差しで空を見つめた。
累は一瞬立ち止まり、流れるような自然さで空の唇にキスをした。そしてなにごともなかったかのような涼しい顔で、またキャンパス内を歩き出す。
遅れて、かぁぁと空の頬が赤く染まった。
「……さっきまで泣いてたのに、急にサラッとこういうことするんだもんなぁ」
「え?」
「な、なんでもない。行こ!」
「うん。あぁ、お腹空いたなぁ」
「俺も俺も。何か食べよっか」
「うん、そうしよう」
中庭のステージのほうからは、学生たちの楽しげな歓声と、陽気なメロディが聴こえてくる。
ふたりはしっかりと手を繋いで、にぎやかに弾む音のほうへ歩き出した。
『音楽祭編』 おしまい♡
ここまでお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました!
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