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番外編『ジレンマ』
〈2〉
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「おう、おかえり。空」
てっきり、家にいるのは壱成だと思っていた。
だが、キッチンで黒いエプロンを身につけ、スパイシーな香りが漂う鍋をかき混ぜているのは彩人だった。
「ただいま……。兄ちゃん、今日休みだっけ。壱成は?」
「壱成、接待だってさ。なるべく早く切り上げて帰ってくるって言ってたけど」
「ああ……そうなんだ。カレー……いい匂い」
「壱成からのリクエスト。あいつも好きだよな、カレー」
鼻歌混じりにカレーの味見をして、彩人は「うん、ばっちり」と満足げに微笑んだ。接待での食事は食べたらしくないといって、帰宅してからがっつりカレーを食べつつ、彩人に「二十代の思考がマジでわかんねぇ……」と部下たちとのジェネレーションギャップをボヤくのが壱成お決まりのコースだ。
「空も手ぇ洗ってこいよー。腹減ってるだろ」
「んー」
気のない返事をしながら洗面所で手を洗い、ふたたびダイニングに戻ってくると、彩人は新妻よろしくフンフンと鼻歌を歌いながらテーブルセッティングをしているところだ。兄たちが付き合い始めてからもう十年以上は経っているだろうに、彩人は壱成の帰りを待つのが幸せで仕方がないといった表情をしている。
——……ほんと、兄ちゃんたち仲良いなぁ……うらやましい……
ふとそんなことを考えて、空はハッとした。
別に喧嘩をしているわけでもなんでもないし、累も空も、互いに互いのことをじゅうぶんに思いやりながら交際を続けている。……なのに、どうしてだろう。今はすごく、空の目にもわかるほどに強い兄たちの絆を前にして、妙に泣きたい気分になった。
——……喧嘩してるとこなんか一回も見たことないし、普段から友達みたいに何でもかんでもたくさん喋ってさ……隠し事なんてなさそうだし……
隠し事をされているわけでも、しているわけでもない。
だけど、累のことがわからない。わかってあげられない……それがすごくもどかしい。
スランプに陥っているのなら、もっと空の前で動揺を見せてくれてもいいのに……と思いもする。だが、累のことだ、音楽家としての苦悩などわかりそうもない空の前で、不安や苛立ちを露わにするような真似などしないだろう。
空のことを大事にしようとしてくれているからこそ、累は苦しみを覆い隠そうとする。
——……そうか、それが俺は嫌なんだ。だからこんなにイラついてんだ……
「……ら、空?」
「…………えっ……?」
「どうしたんだよ、すげぇ眉間にしわ寄ってんぞ」
「あ……いや、べつに……」
スプーンを持ったまま固まっていたらしい。顔を上げると、心配そうに眉を顰めた兄の顔がすぐそこにあった。
「累くんとなんかあったのか? まさか、なんかひでぇことされたんじゃ……」
「は? されてないし」
「ほんとか? ここんとこのお前に元気がないって、壱成も気にしてたぞ」
「……」
ふたりの兄の前ではいつも通りの自分でいようと気を張っていたけれど、やはり無理だったようだ。壱成の懸念は、そのまま彩人にまで伝わっているらしい。
兄たちは、何でも包み隠さずに話し合える関係だからだ。
親友で、恋人で、家族で、確固たる絆で結ばれているから。
——どうすれば、兄ちゃんたちみたいな関係になれるんだろう……
空は、唇をぎゅっと固く結んだ。そうしなければ、涙が溢れてしまいそうだった。
だが、その表情を見た彩人はなおさら、「空。お前、ほんとに大丈夫なのか?」と心配そうに表情を曇らせる。
心配されているのがわかるからこそ、無性に腹が立ってしまう。自分達のことは放っておいてほしいと思うのに、どうすればわからなくて途方に暮れている。誰かに救いを求めたい気持ちもあるけれど、そんなことをしてはいけないような気がして、前にも後ろにも進めない。
こんなにも感情をコントロールできないことなど、生まれて初めてだ。
空はテーブルの上で拳を握りしめ、キッと兄を睨みつけた。
「……ひどいことされるならまだいいよ、むしろ、そっちのほうがずっといい!!」
「……空?」
「わかんない、わかんないんだよ……!! あんなに苦しそうなのに、あいつ、全然俺の前でそういうこと言わないで、カッコつけてばっかでさぁ!! どーせ俺には話したってわかんないって思ってんだ! そりゃ、わかんないよ! なんにも言ってくれないんだから、わかりようがないじゃん!」
空にできることといえば、焦燥の滲む荒っぽいセックスを受け入れることくらいだ。だけど、そんなことしか自分にはできないのかと思うと情けなくもなるし、やはり悲しい。
それに、もっと悔しいのは……。
——石ケ森さんなら、何も言わなくても累のことをわかってあげられるのかもしれない……。
累の不調に気づき始めた頃から、同時に空の瞼の裏にチラつくのは、石ケ森賢二郎の顔だった。
ウィーンへ留学しているあの男なら。累が唯一心を許している音楽家で、同じヴァイオリニストの石ケ森なら、累の苦悩を理解できるのかもしれない、助けてあげられるのかもしれない……そんな考えが浮かんでしまう。
そのたびに、息苦しくなる。
石ケ森が現れてからずっと胸の奥に押さえつけ続けてきた嫉妬という黒い感情に、胸が焼かれる。これまで感じたことのない悔しさや焦りに、心がついていかないのだ。
「空……」
「うううーっ……うぇっ……」
隣の席に移動してきた彩人の肩口に頭を抱き込まれ、空の目からはとうとう涙が溢れた。
こんなにも兄の体温を近くに感じるのはいつぶりだろう。懐かしい匂いとぬくもりに包み込まれて、安堵するような、泣きたいような、子ども扱いしないでほしいような……とにかくぐちゃぐちゃの感情が涙となって溢れ出し、空は彩人に抱かれながら嗚咽を漏らした。
ぎゅっと彩人のスウェットを掴むと、手の上に大きな手のひらが重なった。言葉はなくとも、彩人が自分を慰め、励まそうとしてくれていることがわかる。
「うっ……うぅえ……ぐずっ……」
「ったく……泣くほど苦しんでんのに、どうして累くんにそう言わねーんだよ」
「だって……だっでぇ……」
「よしよし。……とりあえず今はいっぱい泣いとけ。つらかったな」
「ううー……」
子どもの頃のように頭を優しく撫でられてしまうと、目を固く瞑っているというのに、とめどなく涙が流れ出す。もうすぐ二十歳だというのに兄に頭を撫でられながら慰められている自分が情けないし、居心地がいいわけでもなんでもない。
だけどこうしていると、不安や嫉妬ですり減り、凍えていた心をあたたかく包み込んでもらえているように感じた。
しばらく彩人にひっついて泣いたあと、空はぐずんと鼻を啜りながら身体を離した。安堵とともに、ようやく心に力が戻ってくる。
ふと見ると、空の涙を受け止めていた彩人の淡いグレーのスウェットは濃い色に変色している。バツが悪くなって、空は彩人を見上げた。
「……兄ちゃん……ごめん、スウェットぐしょぐしょ」
「いいって、気にすんな」
「……はぁ……ちょっとすっきりした。ありがと」
「ま、とりあえずカレー食え。そんで、何があったのか話してみろよ」
「うん……」
空はこくんと素直に頷き、テーブルに向き直った。少し冷めてしまったようだが、とてもいい匂いがする。食べ進めるうちに空腹だったことに気づき、空はぱくぱくと勢いよくカレーを平らげていった。
ひとくち、ふたくちと、鼻を啜りながら食べた兄のカレーは少し辛めだ。「おれもおんなじのがいい!」と言って、兄たちと同じ辛さのカレーを口にしたのはいつだっただろう。
さすがに少し辛かったけれど、スプーンを運ぶ手は止まらなかった。その時は、ちょっぴり大人の仲間入りができたような気がして、すごく誇らしかったのを覚えている。
あの頃から変わらず、とても美味しい。兄が家族のために作った味だ。
食べるごとに、萎れていた心に力が戻る。
てっきり、家にいるのは壱成だと思っていた。
だが、キッチンで黒いエプロンを身につけ、スパイシーな香りが漂う鍋をかき混ぜているのは彩人だった。
「ただいま……。兄ちゃん、今日休みだっけ。壱成は?」
「壱成、接待だってさ。なるべく早く切り上げて帰ってくるって言ってたけど」
「ああ……そうなんだ。カレー……いい匂い」
「壱成からのリクエスト。あいつも好きだよな、カレー」
鼻歌混じりにカレーの味見をして、彩人は「うん、ばっちり」と満足げに微笑んだ。接待での食事は食べたらしくないといって、帰宅してからがっつりカレーを食べつつ、彩人に「二十代の思考がマジでわかんねぇ……」と部下たちとのジェネレーションギャップをボヤくのが壱成お決まりのコースだ。
「空も手ぇ洗ってこいよー。腹減ってるだろ」
「んー」
気のない返事をしながら洗面所で手を洗い、ふたたびダイニングに戻ってくると、彩人は新妻よろしくフンフンと鼻歌を歌いながらテーブルセッティングをしているところだ。兄たちが付き合い始めてからもう十年以上は経っているだろうに、彩人は壱成の帰りを待つのが幸せで仕方がないといった表情をしている。
——……ほんと、兄ちゃんたち仲良いなぁ……うらやましい……
ふとそんなことを考えて、空はハッとした。
別に喧嘩をしているわけでもなんでもないし、累も空も、互いに互いのことをじゅうぶんに思いやりながら交際を続けている。……なのに、どうしてだろう。今はすごく、空の目にもわかるほどに強い兄たちの絆を前にして、妙に泣きたい気分になった。
——……喧嘩してるとこなんか一回も見たことないし、普段から友達みたいに何でもかんでもたくさん喋ってさ……隠し事なんてなさそうだし……
隠し事をされているわけでも、しているわけでもない。
だけど、累のことがわからない。わかってあげられない……それがすごくもどかしい。
スランプに陥っているのなら、もっと空の前で動揺を見せてくれてもいいのに……と思いもする。だが、累のことだ、音楽家としての苦悩などわかりそうもない空の前で、不安や苛立ちを露わにするような真似などしないだろう。
空のことを大事にしようとしてくれているからこそ、累は苦しみを覆い隠そうとする。
——……そうか、それが俺は嫌なんだ。だからこんなにイラついてんだ……
「……ら、空?」
「…………えっ……?」
「どうしたんだよ、すげぇ眉間にしわ寄ってんぞ」
「あ……いや、べつに……」
スプーンを持ったまま固まっていたらしい。顔を上げると、心配そうに眉を顰めた兄の顔がすぐそこにあった。
「累くんとなんかあったのか? まさか、なんかひでぇことされたんじゃ……」
「は? されてないし」
「ほんとか? ここんとこのお前に元気がないって、壱成も気にしてたぞ」
「……」
ふたりの兄の前ではいつも通りの自分でいようと気を張っていたけれど、やはり無理だったようだ。壱成の懸念は、そのまま彩人にまで伝わっているらしい。
兄たちは、何でも包み隠さずに話し合える関係だからだ。
親友で、恋人で、家族で、確固たる絆で結ばれているから。
——どうすれば、兄ちゃんたちみたいな関係になれるんだろう……
空は、唇をぎゅっと固く結んだ。そうしなければ、涙が溢れてしまいそうだった。
だが、その表情を見た彩人はなおさら、「空。お前、ほんとに大丈夫なのか?」と心配そうに表情を曇らせる。
心配されているのがわかるからこそ、無性に腹が立ってしまう。自分達のことは放っておいてほしいと思うのに、どうすればわからなくて途方に暮れている。誰かに救いを求めたい気持ちもあるけれど、そんなことをしてはいけないような気がして、前にも後ろにも進めない。
こんなにも感情をコントロールできないことなど、生まれて初めてだ。
空はテーブルの上で拳を握りしめ、キッと兄を睨みつけた。
「……ひどいことされるならまだいいよ、むしろ、そっちのほうがずっといい!!」
「……空?」
「わかんない、わかんないんだよ……!! あんなに苦しそうなのに、あいつ、全然俺の前でそういうこと言わないで、カッコつけてばっかでさぁ!! どーせ俺には話したってわかんないって思ってんだ! そりゃ、わかんないよ! なんにも言ってくれないんだから、わかりようがないじゃん!」
空にできることといえば、焦燥の滲む荒っぽいセックスを受け入れることくらいだ。だけど、そんなことしか自分にはできないのかと思うと情けなくもなるし、やはり悲しい。
それに、もっと悔しいのは……。
——石ケ森さんなら、何も言わなくても累のことをわかってあげられるのかもしれない……。
累の不調に気づき始めた頃から、同時に空の瞼の裏にチラつくのは、石ケ森賢二郎の顔だった。
ウィーンへ留学しているあの男なら。累が唯一心を許している音楽家で、同じヴァイオリニストの石ケ森なら、累の苦悩を理解できるのかもしれない、助けてあげられるのかもしれない……そんな考えが浮かんでしまう。
そのたびに、息苦しくなる。
石ケ森が現れてからずっと胸の奥に押さえつけ続けてきた嫉妬という黒い感情に、胸が焼かれる。これまで感じたことのない悔しさや焦りに、心がついていかないのだ。
「空……」
「うううーっ……うぇっ……」
隣の席に移動してきた彩人の肩口に頭を抱き込まれ、空の目からはとうとう涙が溢れた。
こんなにも兄の体温を近くに感じるのはいつぶりだろう。懐かしい匂いとぬくもりに包み込まれて、安堵するような、泣きたいような、子ども扱いしないでほしいような……とにかくぐちゃぐちゃの感情が涙となって溢れ出し、空は彩人に抱かれながら嗚咽を漏らした。
ぎゅっと彩人のスウェットを掴むと、手の上に大きな手のひらが重なった。言葉はなくとも、彩人が自分を慰め、励まそうとしてくれていることがわかる。
「うっ……うぅえ……ぐずっ……」
「ったく……泣くほど苦しんでんのに、どうして累くんにそう言わねーんだよ」
「だって……だっでぇ……」
「よしよし。……とりあえず今はいっぱい泣いとけ。つらかったな」
「ううー……」
子どもの頃のように頭を優しく撫でられてしまうと、目を固く瞑っているというのに、とめどなく涙が流れ出す。もうすぐ二十歳だというのに兄に頭を撫でられながら慰められている自分が情けないし、居心地がいいわけでもなんでもない。
だけどこうしていると、不安や嫉妬ですり減り、凍えていた心をあたたかく包み込んでもらえているように感じた。
しばらく彩人にひっついて泣いたあと、空はぐずんと鼻を啜りながら身体を離した。安堵とともに、ようやく心に力が戻ってくる。
ふと見ると、空の涙を受け止めていた彩人の淡いグレーのスウェットは濃い色に変色している。バツが悪くなって、空は彩人を見上げた。
「……兄ちゃん……ごめん、スウェットぐしょぐしょ」
「いいって、気にすんな」
「……はぁ……ちょっとすっきりした。ありがと」
「ま、とりあえずカレー食え。そんで、何があったのか話してみろよ」
「うん……」
空はこくんと素直に頷き、テーブルに向き直った。少し冷めてしまったようだが、とてもいい匂いがする。食べ進めるうちに空腹だったことに気づき、空はぱくぱくと勢いよくカレーを平らげていった。
ひとくち、ふたくちと、鼻を啜りながら食べた兄のカレーは少し辛めだ。「おれもおんなじのがいい!」と言って、兄たちと同じ辛さのカレーを口にしたのはいつだっただろう。
さすがに少し辛かったけれど、スプーンを運ぶ手は止まらなかった。その時は、ちょっぴり大人の仲間入りができたような気がして、すごく誇らしかったのを覚えている。
あの頃から変わらず、とても美味しい。兄が家族のために作った味だ。
食べるごとに、萎れていた心に力が戻る。
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