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19、また別の心配ごと〈累目線〉

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 結局、賢二郎の態度についてモヤモヤしたまま、累は次の週末を迎えようとしていた。明日どんな顔で賢二郎と会えばいいのか分からないまま一週間がすぎているけれど、累は学校生活の方でも問題を抱えている……。

「はい、じゃあ今日はここまで。これ、課題な」
「……はい。ありがとうございました」
「やれやれ、大変だな高比良も」

 この間のテストでひどい成績をとってしまったことによって、現代国語担当の若い男性教諭・加藤による補習授業が、週に二日行われるようになった。ヴァイオリンも大事だが、この高校では進級のためにそこそこの成績も収めておかねばならないため、マンツーマンで授業を受けているのである。

 物覚えは悪い方ではないため徐々に遅れを取り戻しているものの、くたびれるものはくたびれる。げっそりしながら累が黙って荷物を鞄に詰め込んでいると、加藤が苦笑する声が聞こえてきた。

「ほら、また廊下が騒がしくなってきたぞ。補習にまで出待ちがつくなんて、さすがだなぁ」
「……全然嬉しくないです」
「ははっ、だよなぁ。じゃ、俺が適当に追い返しといてやるから、いつも通り窓から出な。お疲れ」
「いつもありがとうございます」

 累はぺこりと一礼すると、加藤の言葉に甘えて窓から外へ出た。ここは職員室の隣にある会議室なのだが、すぐ外は植え込みと階段があり、その向こうにはグラウンドが広がっている。
 放課後のこの時間は、部活動が盛んだ。グラウンドでも陸上部が熱心に走り込みをしているところである。累はふと、空のことを思い出す。

 指はまだ治り切っていないが、空はもうバスケ部の練習に復帰しているのだ。手が使えないので雑用しかできないとぼやいていたが、今日はどうしているのだろう……。そう思うと、俄然空の顔が見たくなるというものだ。

 ——部活には来ないでって言われたけど、こっそり覗くくらいなら大丈夫だよな……。

 以前、累が体育館を覗きに行った時、半面を使って練習していた女子バスケ部員たちが一斉に色めきだち、パニックになったことがあるのだ。そのため、放課後の体育館には出禁をくらっている累だが、もう少し待てば部活も終わる。
 それならば、空と一緒に帰ろうと思い立ち、累は回れ右をしてまっすぐに体育館へ向かった。


   +


「早瀬! そんなことしなくてもいいって」

 バスケ部が練習に使っている体育館までやって来た累は、耳慣れない男の声にふと足を止めた。あと一歩、すぐそこの角を曲がれば、体育館の正面だ。体育の授業でも使う場所であるため、すぐそこに出入り口があり、水飲み場があることなど、累もよく知っている。

「あ……小山先輩。大丈夫ですよ、これくらい」
「ダーメだって。四宮に、早瀬には無理させるなって言われてるしさ」
「いやでも、左手は何ともないし……」
「じゃあ、洗うとこだけな。運ぶのは俺がやるから」

 小山先輩、と呼ばれた男が現れたことで何となく出づらくなり、こっそり角からふたりの様子を覗き込んでみる。

 空は水場で、ひと抱えもありそうな大きさのスポーツジャグを洗剤で洗おうとしていたようだ。そこへ小山という上級生がやってきて、手伝いを始めたらしい。

 小山という男は、黒髪短髪のスポーツマンらしい体格をした男だった。
 もうかなり寒くなりつつある屋外でも半袖のプラシャツを着ていて、見ているこっちが風邪をひきそうだ。一重瞼の切れ長の目は鋭く、外見だけで人柄を判断しようとするならば、バスケ部員というよりも不良集団の中にいるほうが似合いなように見える。だが、後輩を気遣う様子を見ていると、見た目ほど悪い人間ではないのかもしれないが……。

 ちなみに空は長袖長ズボンのジャージ姿だ。スポーティな姿はなかなかに物珍しいため、累はドキドキしながら、ストーカーよろしくこっそりと空を見つめた。

「包帯取れたからって、無理しちゃダメだぞ。治りかけが一番気をつけなきゃって言うじゃん?」
「は、はい。ありがとうございます……」
「あのさ、そんな緊張しないでよ。元はと言えば、俺のパスのせいで突き指しちゃったわけだし……ごめんな、本当に」
「いえいえ! 先輩のせいじゃありませんよ! 俺がぼーっとしてたのが悪いんだし」

 シャープな双眸を柔らかく細め、緊張気味の空を見つめる小山の表情は優しげだが——頬をうっすらと赤らめつつ、やや鼻の下を伸ばしながらチラチラと空を見ている。その表情に、累はピンとくるものがあった。

「ぼーっとしてたって、何か悩み事?」
「えっ!? い、いや……別にそういうわけじゃ……」
「俺で相談に乗れることなら、いくらでも話聞くよ? 部活がらみ? ……それとも、恋愛絡み?」
「いえ……ほんとに大丈夫なんで……」
「だからさ、そんな緊張しないでよ。俺、もっと早瀬に頼られたいなぁ」
「へっ、いや、じゅうぶん頼ってますから……」

 そもそも、空をぼんやりさせてしまったのは累の責任だ。つまり空の怪我の原因は累なのだから、これは二人の問題だと言えよう。
 親切心なのか下心なのか分からないけれど、この軽薄男に心配される筋合いはない——と思った累は、空と小山の前に姿を現そうとした。

 だが次の瞬間、小山がぽんぽんと空の頭を撫で、「怪我させた責任も感じてるからさ。よかったらこの後……」と馴れ馴れしく擦り寄りながら語りかけている姿が目に飛び込んできたではないか。
 かーーーーっとマグマのように湧き上がる不快感で、累は一瞬我を忘れそうになり……。

 ふと気づくと、累は空の前に立ちはだかり、バシッ!! と小山の手を払いのけていた。

「っ……てぇ……!! な、何だお前っ……」
「……る、るい!? なにやってんの!?」

 突然その場に現れた累に、空も仰天しているようすだ。大切な空に触れた小山のことが許しがたく、累はあえて身長差を見せつけるように小山に一歩近づき、真上からジロリと睨みつける。
 だが小山も素直に怯みはしない。面食らってはいたようだが、やや引き攣った笑みを浮かべつつ、累に向かってこう言った。

「ああ……お前、あれだろ。早瀬に付きまとってるハイスペ変態王子様だ」
「ハイスペ変態王子」

 日本語に弱い累には理解不能な言葉だったが、背後で空がその言葉を復唱している。何やら不名誉そうな響きを察知した累だが、ここで逆上するほど馬鹿ではない。にっこりと華やかな王子様スマイルを、小山に見せつける。

「すみません。空が困っているように見えたので、つい」
「はっ!? いやいや、んなもんお前に関係なくないか? 俺は先輩として、早瀬の相談に乗ろうとしただけで」
「空が何に悩んでいようが、あなたには関係ないと思います。僕の空に、馴れ馴れしく近寄らないでもらえますか?」
「僕の、空……?」
「ちょ! ちょっ……累っ!!」

 後ろからぐいと腕を引っ張られ、累は横顔で空を振り返った。空は怒り顔で、上目遣いに累を睨みつけている。

「こんなとこで、変なこと言わないでよ!!」
「変なことじゃないよ。それに空、この人に近づかれて困ってたじゃないか」
「困っ…………てはいたけど! でも、これくらい自分で何とかできるんだし……!!」

 累と空のやりとりを聞いていた小山は一瞬、「えっ、困ってたの……?」と傷ついたような顔をした。……が、すぐに弱り顔を隠してフンと鼻を鳴らし、累の胸ぐらをぐいと掴む。

「お前こそ、そうやって早瀬につきまとってるストーカー野郎なんだろ? 有名だぞ? 四六時中早瀬にベタベタベタベタ……何なんだよお前。なぁ早瀬、そっちのほうが困るよなぁ?」

 と、小山は首を伸ばして、累の向こうにいる空に向かってそう問いかけた。……が、空は首を傾げて、「いえ……別に困ってはないです」と言う。それにもまた、小山が傷ついた顔をした。

 きっぱり真実を言い放ってしまいたいところだが、ここで『空は僕の恋人だ』と明言してしまうと、空が後々困るということくらい累にも分かる。

 なので累は、胸ぐらを掴む小山の手首をガシッと掴み、自分の襟から外した。小山なりに抵抗しているようだが、ヴァイオリニストの腕力は強力だ。なんなくねじ伏せ、空いた方の手でガシッと小山の顎を掴み、上を向かせる。
 そして、鼻先が触れるほどの距離で視線を合わせてみると……ポッ、と小山の顔が赤くほてった。

「ひぇ……顎クイ……」と、背後から空の声が聞こえてきたが、どういう意味かよく分からないのでとりあえずスルーしておく。

「空は、僕の大事な幼馴染です。彼を困らせるのはやめてくださいね、先輩」
「っ……こ、後輩の心配して何が悪いんだよっ……!」
「それが大きなお世話なんですよ。それに、下心があるのがバレバレです。……今度空に近づいたら、僕、あなたに何をするか分かりませんよ?」
「ひん……♡」

 顎を掴む指に力を込め、笑顔でそう凄んでみると、小山が妙な声をあげた。それが絶妙に気持ち悪く、累はパッと小山から手を離す。すると小山はふらりとよろめき、手洗い場に手をついて「はぁ、はぁ……ちょ、ちょーしのってんじゃねーぞこの変態野郎!!」と言い捨てて、体育館の中へ駆け込んで行ってしまった。

「……僕のどこが変態なのかな」

と、累がひとりごとを呟いていると、背後から「……累」と名前を呼ぶ空の声が聞こえてきた。累は空に向き直り、肩に手を置いてこう言った。

「空、ダメだよ。あんなやつに髪を触らせるなんて」
「だ、だっていきなりだったし……」
「あいつ、まさかいつもああやって空にセクハラしてたんじゃないだろうね」
「んー……チャラいとこある先輩だけど、手を出すのはマネージャーさんばっかりだから、別に男には興味ないと思うけど……」
「手を出すって……! はぁ……見た目通りのチャラ男じゃないか」

 累は呆れたようにため息をつき、水で冷えた空の手を取る。冷たさのあまり赤くなっている手に掌を重ね、言い聞かせるようにこう言った。

「どこからどう見ても、空のことエロい目で見てた。もっと危機感持ったほうがいいよ、空」
「え、エロい目!? いやいや、気のせいだよ、累じゃあるまいし」
「空……僕と色々するようになってから、色気が増してるって自覚、ある?」
「はっ!? 色気!? どこに!?」
「やっぱり気づいてないか……」

 そう、それは累にとって、最近一番の心配事である。
 これまでは無邪気な幼さが可愛らしかった空だが、ここ最近、しっとりとした色気を身に纏わせるようになっているため、気が気ではないのである。

 授業中でも、休憩中でも、ふとした瞬間に漏らすため息。そして時折、累を見上げては頬を染め、潤んだ瞳を隠すように視線を逸らす仕草などなど……それは十二分に累の性欲を掻き立てる仕草でもあるし、クラスの中でも、ちらほらと空を情欲の滲む視線で眺めている男子生徒を見つけてしまった。

 なので余計に空のそばを離れられないし、部活などでは大丈夫かと心配でたまらなかったのだ。

 累に淡々とそう説明され、空は深々とため息をついた。

「はぁ……いやでも、まぁ……累にはそう見えるだけっていうことだろうとは思うけど」
「そんなことないよ! ほんと、気をつけた方がいいから……!」
「わ、分かったよ。……着替えてくるから、とりあえず一緒に帰ろ?」
「着替えも慎重にね! 恥じらいもなく、男らしく脱いじゃだめだからね!」
「……う、うん……」

 空っぽのジャグを左手に提げて体育館に戻っていく空を見送り、累もまたため息をついた。

「……なんか、モヤモヤすることだらけだな……」

 すっかり夜へと塗り変わった空を見上げながら、累は小さな声でそうボヤくのであった。
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