Blindness

餡玉(あんたま)

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epilogue

ー結糸目線ー

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「ふうん、ついに番になったんやね」


 結糸が葵の番となった日から、さらに一月余りが過ぎた、とある日の午後。結糸は須能とふたりでカフェに入っていた。

 ここは綾世医師の勤務する総合病院のすぐそばにある店であり、コーヒーが美味いと評判のカフェだ。ふたりはオープンテラス席に並んで座り、人や車がまばらに行き交う道を眺めていた。初夏の日差しは眩しいが、濃茶色のオーニングテントが作り出す日陰のおかげで、吹き抜ける風の清々しさを感じることができる。

 結糸は今日、葵の通院に付き添って街へ出てきた。そしてちょうどこっちで巡業をしていた須能に連絡を取り、二人で会う時間を作ってもらった。葵とのことを、須能には直接伝えておきたかったのだ。

 須能は珍しく洋服姿で、カフェで待つ結糸の前にふらりとやって来た。
 長い髪は高い所でゆるく結わえ、小さな顔に大きなサングラスをかけ、軽い素材のジャケットとダメージデニムといういでたちで現れた須能を見ても、結糸は一瞬それが誰だか分からなかった。柔らかな京都弁で「おばんどす」と声をかけられ、ようやくそれが須能だと判別できたのだった。

 須能はシャツの襟元にサングラスを引っ掛け、結糸に素顔を見せた。そして、いつぞやは鬼の形相で結糸に迫ったことが嘘のように柔らかい表情を浮かべ、「おめでとさん」と口にする。結糸は深々と頭を下げ、「ありがとうございます」と伝え返した。

「番になったのに首輪してんねや。もう自分がオメガやってこと、隠すんやめたんやな」
「はい、お屋敷のみんなにもきちんと伝えました。みんな最初はびっくりしてたけど、今はすごく協力的で、ありがたいです」
「へぇ、そらよかったなぁ」
「はい」

 既に番う相手がいるのだから、別のアルファに首筋を噛まれたとしても、結糸には何の変化も起こらない。

 番の契約は絶対だ。今後は突然のヒート訪れたとしても、それを察知できるのは番である葵だけ。結糸のフェロモンは、他のアルファを惹きつけるものではなくなった。

 首輪型のネックガードは『オメガが自衛するためのもの』、という意味合いが強い。しかし結糸にとって、これは葵からもらった初めての贈り物だ。これまでひた隠しにしていたオメガ性を世間に晒しながら歩くようなものだが、これをつけていると、自分が葵のものであるということをことさら強く実感できて、何だかとても心強いのである。

 須能はゆったりと脚を組み、香り高いコーヒーを一口飲んでいる。結糸もそれに倣ってコーヒーを口にしたが、屋敷で飲むものよりも数段濃いコーヒーは結糸にとってあまりに苦く、結糸は思わず渋い顔をしてしまった。

「君のことは、社交界のお偉いさんたちには公表すんの?」
「いえ……まだです。蓮さまは、当分このことは発表しないとおっしゃってまして」
「まぁ、そのほうが賢明やろうな。こう言っちゃなんやけど、きみは一般家庭の出で、しかも元下働きや。お高くとまらはったアルファさんたちにとったら、格好のいじりネタやもんな」
「はい、そうなんです……」
「ま、よろしいやん。余計なプレッシャーなんて感じてたら、元気な子ぉが産まれへんしな。蓮さまもそのあたりを考慮してくれてはるんやろ」
「……はい、そうおっしゃってました。よくお分かりになりましたね」
「まぁね。僕はこれでも名家のオメガやし。そのへんのことはようようわきまえてまっせ」

 そう言って、須能は淡く微笑んだ。

 蓮は結糸のことを、いつまでも世間に秘匿するつもりではないと言っていた。いずれ二人の間に子どもが産まれ、その子どもがある程度の学齢に達したときに、結糸のことも公表しようと考えているらしい。

 ただでさえ、クニシロ・ホールディングスの今後数年は忙しない。いずれ来たるトップの交代に併せて、蓮は組織全体のバランスを見直すつもりでいるのだ。大々的な変革に伴い、人事にもかなりの動きがある。傘下にある企業のいくつかは統合されることになるであろうし、不本意な人事に対する不満も湧き上がってくるだろう。

 そういった大事な時期に、蓮は隙を作りたくないのだ。結糸にも、そのくらいのことは理解できる。自分の存在が国城家にとっての隙や弱味となってしまう現実を、結糸はすでに受け入れているのだ。

 少し前の結糸ならば、そのことに強い不安や申し訳なさを感じていただろう。しかし結糸はもう、腹をくくっている。葵に首筋を噛まれたあの瞬間から、国城家の一員となるために自分がすべきことは何なのかということを、ずっとずっと考え続けてきた。


 そして葵が結糸の祖父へ伝えた言葉からも、結糸は一つの自信をもらっていた。


 この数日前、葵は祖父のもとへ挨拶に訪れていた。
 祖父は、将来を憂いていた孫が、葵という良家のアルファと番ったことを祝福する一方、ふたりの身分差についてひどく心配していたのである。

 しかし葵は、きっぱりと祖父にこう言った。

『結糸は僕にとって、かけがえのない大切な人です。彼がすぐそばで僕を支えていてくれるから、僕はどんな困難にも向き合っていくことができる。僕には、結糸が必要なんです』と。

 そしてまた、こうも言ってくれた。

『結糸は、僕ら兄弟の絆を結び直してくれた。国城家に平穏な日々が戻ったのは、結糸のおかげだと思っています。国城家にとっても、結糸の存在はすでになくてはならないものになっているんですよ』と。

 まっすぐに祖父を見つめながら、凛とした口調で葵がそう言ってくれたことが、とても嬉しかった。その言葉を耳にした瞬間、これまで結糸が持っていなかった新たな力が、結糸の胸の中に生まれた気がした。

 祖父の病室に入るまでの葵は、珍しくとても緊張していた。しかし、祖父にそう語ってくれた葵の口調には揺るぎがなく、どこまでも真摯で、とてもとても頼もしかったのだ。


 結糸はその時のことを思い出し、唇に笑みを浮かべた。


「何はともあれ、よかったやん。僕としてはまーったく妬けへんわけじゃないけど、葵くんが幸せなら僕も嬉しいし、まぁええか」
「あっ、す、すみません……」
「オメガはどんな風に生きてたって何やかんや言われてまうもんやけど、ま、きみも僕を見習って図太く生きることやな。きみは国城葵の番なんやもん、誰に何を言われようとも、葵くんだけ信じて前に進むことや」
「は、はい! ありがとうございます!」
「僕もこっちの演舞場でしょっちゅう仕事あるし、また遊びにいかしてもらうよって。美味い酒と食事を楽しみにしてますいうて、蓮さまにも伝えといて」
「はい、分かりました」

 結糸がにこやかにそう答えると、須能ははぁ~と気の抜けたため息をつきながら、頬杖をついた。そしてコーヒーカップを玩びながらこんなことを言う。

「やれやれ、幸せそうでええなぁ。どっかにええアルファ余ってへんかな」
「余って……ですか」
「ええとこのフリーのアルファってのはな、意外と余ってへんもんやねん。葵くんに振られてからこっち、僕にもあちこちから番にならへんかって声かけられんねんけど、ぜーんぜんピンとくるやついいひんねんなぁ」
「へぇ、そうなんですか」
「こないだ会うた御門くんもフリーやしええとこのアルファやけど、彼にはもう心に決めてる人がおるみたいやしな」
「あ、あー……なるほど」

 パーティの時に蓮を追いかけていった御門は、あの後どうしたのだろう……ということに思いを巡らせていると、からんからん、とドアベルの涼やかな音が店内から聞こえてきた。

 親しんだ仄かな香りを感じて振り返ると、葵が秘書の麻倉とともに店に入ってくるのが見えた。麻倉は葵との相性がよかったため、第一秘書として葵のそばで働くようになったのである。

「葵さま!」
「ああ結糸、外にいたんだ。須能も、久しぶりだな」
「どうも。葵くん、今日もすこぶる男前やねぇ」
「そうか? ありがとう」

 うっとりしながら葵を見つめる須能の視線を受け流し、葵は爽やかに微笑む。そして結糸の隣に腰を下ろすと、麻倉にも「一杯飲んで帰ろうか」と声をかけた。須能の隣に腰掛けた麻倉が、ちらちらと須能を気にしている。そのようすを見て取った結糸は、麻倉に負けず劣らずそわそわしてしまった。

 そんな結糸の隣で葵はゆったりと脚を組み、メニューを広げつつ、三人の様子を眺めて微笑んだ。

「いい香りだな。けど結糸、ブラックなんか飲めたっけ?」
「えっ!? あ、ええ……美味しいですよ」
「嘘やん。きみ、さっきから苦そうにしとったやん」
「だって、こういう雰囲気の店でミルクとかもらうのダメなのかなって……」
「ははっ、そんなこと気にしてたのか?」

 葵は軽やかに笑い、自分と麻倉のコーヒーを頼むついでにミルクと砂糖を頼んでくれた。そんな中、須能は麻倉の差し出す名刺を受け取りながら、満更でもないような表情で笑っている。その様子を見た結糸は、また一段とそわそわしてしまい、まだ砂糖もミルクも入れていないコーヒーを飲んで、派手にむせてしまった。

 背中をさすってくれる葵の顔をそっと見上げると、葵はすぐにその視線に気づき、柔らかな笑みを返してくれる。結糸はそれだけで嬉しくなり、ついつい緩んだ照れ笑いを浮かべるのだ。

「どうした?」
「い、いえ……何でもないです」
「どうしたんだよ、顔が赤いぞ」
「な、何でもないですってば。そんな目で見ないでください」
「どんな目?」
「い、いや、それは……」
「ああーー!! 君らホンマええ加減にしいや! 暑苦しいねん! 身体じゅうかゆなるわ!!」
「あっ、す、すみません!!」

 須能の声が、オープンテラスに響き渡る。結糸が大慌てで謝ると、まぁまぁと葵が須能を宥めはじめた。


 眩しい夏を予感させる真っ青な空のもとで過ごす、のんびりとした午後のひととき。


 結糸はこの瞬間を、心から幸せだと感じた。

 



 

『Blindness』  ・  完
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