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第3章 ー結糸ー
2、ふたりのオメガ
しおりを挟む「何してるんだ、須能」
「あ……葵、くん……」
「結糸から離れろ」
葵は須能をぐいと引っ張って立たせ、有無を言わさぬ力で結糸から引き剥がした。
全身を圧迫していた恐怖や痛みから解放され、結糸はげほげほと激しく咳き込んだ。咬まれた肩口からはじくじくと血が滲み、シャツを赤く染めている。
結糸は締め上げられていた喉を押さえて起き上がり、燃えるような怒りを宿した瞳で須能を睨みつける葵を見上げた。
葵は荒々しく須能の浴衣の胸ぐらを引き寄せ、もう片方の手で強引に須能の頬を掴んだ。葵と間近に目を合わせる格好になった須能の表情は、ひどく悲しげに強張っている。
唇は結糸の血に濡れて、顔面は蒼白。
目の下に陰を宿した須能の姿は、まるで夜叉のようである。
そんな須能を燃えるような目つきで睨みつけていた葵が、ふと、何かに気づいたかのように目を瞬いた。
怒りのあまり震えていた手から、す……と力が抜けていく。
「……すまなかった」
「……え……?」
「もっと早く、お前にはきちんと話をすべきだったな」
「……っ……」
葵が静かな声でそう言うと、須能の両の目からどっと涙が溢れ出す。
その台詞は、葵と結糸の間に肉体関係以上のものがすでに存在していることを、はっきりと予感させるものだった。
須能はぎゅっと唇を引き結ぶと、鋭く葵の手を振り払った。バシッ! と肌を打つ音が東屋に響く。
「なるほどね。好き合うてんのか、君ら……」
肩からずり落ちそうになっていた羽織をかき合わせ、裾の乱れた着物を正す。須能は血で汚れた口元を拳で拭い、今まで見せていた動揺を押し隠すかのように、綽綽とした口調でそう言った。それでも、須能の目から流れる涙は、止まる気配を見せていない。
葵は静かな眼差しを須能に向け、深く頷いた。
「……ああ、そうだ」
「へぇ……そぉなんや。でも、ベータとは子ども作られへんやん。そんなんじゃ、パートナーにもなられへんのと違う? そもそも、蓮さまがこんなことをお許しになるはずが、」
「兄さんへの許しは、これからもらうつもりだ」
「これから? せやけど、どう話すつもりなん? 国城家のアルファと下働きのベータやなんて、誰がどう考えても釣り合いが、」
「結糸はオメガだ。俺は、結糸と番いたいと思ってる」
引き裂かれたプライドを覆い隠すかのように早口で捲し立てる須能に向かって、葵は迷いのない口調でそう言い放った。須能の表情が一瞬にして硬直し、信じられないものを見るかのような目つきで葵を見つめている。
「……なんやて」
「あ、葵さま!? なんで!? 何で今、それを……!!」
あっさり二つの秘密を口にした葵に、結糸も思わず声をあげた。葵はすっと膝を折り、血を流す結糸のかたわらに座り込む。そして、すぐそばに落ちていたタオルを傷口に押し当て、結糸をベンチに座らせた。
「ごめん、結糸。でも……須能には、これ以上隠し事をしちゃいけない気がするんだ」
「で、でも……」
「オメガ……なん? なんで、オメガやのに下働きなんか……」
須能は眉根を寄せ、きつい表情で結糸を見下ろしている。様々な情念のこもった須能の眼差しはひどく重く、結糸は思わず目を逸らしたくなった。しかしここで目線を外してはいけない気がして、結糸はぐっと歯を食いしばり、その目線を受け止めた。
「……色々と、俺にも事情があったんです」
「つまり君は、フェロモンで葵くんを惑わせてたっちゅうこと? 何やねんそれ……身分偽って国城家に潜り込むとか、ありえへんやろ!! 目ぇの見えへん葵くんに迫って、あわよくば子どもでも孕んで、そのままぬくぬくここで暮らしたろとか思ってたんと違うんか!?」
「ち、違う……違うよ!! 俺は、そんなつもりでここに来たわけじゃない!」
結糸は、かすれた声で思わずそう叫んだ。しかし、いきなり大声を出そうとしたせいで、またげほげほと咳き込んでしまう。葵の手が背中を摩る温もりを感じながら、結糸は痛む喉をぐっと押さえた。重い沈黙が流れる中、ふと、葵が静かな口調で話し始める。
「須能。結糸は、唯一の家族であるお祖父様が病に倒れてしまったことで、通っていた高校を辞めざるをえなくなったんだ。それで、ここで働くようになった。兄さんの大学時代の友人が結糸の高校の教師をしていて、その縁でな」
「……」
「こいつは、何か謀を持ってここに潜り込んだわけじゃない。オメガであることを隠すために、毎日のように抑制剤を服用しながら、ここで働いていたんだ」
「……は? 毎日薬飲んでたん? アホやろ」
「……分かってます。……でも、どうしても、じいちゃんの入院費、稼がなきゃいけなかったし……。オメガだってバレたら、追い出されるって思ってたから……」
「なんで? どうしてそこまでして、オメガやっていうことを隠そうとすんの?」
「そりゃ……だって、そうでしょ……!!」
あまりに無理解なその台詞に、結糸の何かがぷつりと切れた。
結糸はキッとなって、須能を見上げる。
「あんたは自分がオメガだってことに誇りを持ってるみたいだけど、俺は違う!! ごく普通の家庭で、ずっとベータだと思って生きて来たのに、急に発情期がきたんだぞ!! 心も、身体も、全部自分のものじゃないみたいに変わっちまって……! オメガだったせいで、生き方も、想像してた未来も、これまで作ってきた人間関係も、全部……捨てなきゃいけなくなったんだぞ!!」
「……結糸」
血を吐くような結糸の言葉に、葵が戸惑いの表情を浮かべている。葵にさえまだ言えていなかった苦しみを全てぶちまける格好になり、結糸は苦しげに唇を引き結んだ。しかし、理不尽な不安と恐怖に押しつぶされそうになっていた頃を思い出すにつけ、胸の奥から湧き上がる感情を堪えることはできなかった。
「俺は、ただの男として生きていきたかったんだ!! フェロモンがどうとか、男なのに妊娠するとか、そんなの急に受け入れられるわけねぇだろ!! だから薬飲んで、必死で自分の人生守ろうとしてたんだ!! でも……」
結糸は、隣にいる葵を見た。葵は物憂げな表情を浮かべて、じっと結糸を見つめている。悲しげに陰る美しい紺碧色の瞳と目線が結ぶと、結糸も泣きたいような気持ちになってきた。
たった今結糸が口にした言葉は、まるで葵への慕情を否定するもののように聞こえただろう。葵は、きっと傷ついたに違いない。
結糸は葵をまっすぐに見つめて、こう続けた。
「でも俺は……葵さまを好きになった。気づいたら、誰よりもそばにいたい人になってた。アルファだからとか、オメガだからとかじゃなくて、葵さまの優しさに……俺は」
結糸はふと我に返って、言葉を切った。
ーー心惹かれていた葵に選ばれたことが、嬉しくて、幸せで、たまらない。だけど同時に、足元が抜け落ちてしまいそうなほどの不安を感じてる……。
悲しげに目を潤ませている須能に向かって、そんな台詞を吐けるはずがない。
須能はどことなく苛立ったような表情を浮かべたまま、ゆっくりと懐手をした。そして、苦しげな表情を浮かべている葵に向かって、須能は静かに問いかける。
「葵くんはこの子がオメガやって、気づいてたん?」
「……途中から、な。でも、気付く前から、俺も結糸に惹かれてた」
「……なんで? そんなん、オメガのフェロモンにふわふわ酔わされてただけちゃうん?」
「否定はしない。俺は実際、結糸の匂いがすごく好きだった。視覚を取り戻すまで、俺はほとんど嗅覚で人の判別をしていたから」
「……匂い、か。僕の匂いは好かんかった、ってこと?」
「そうだな。……兄さんにパートナー候補だと言われて、お前のことを意識しなかったわけじゃなかった。けど……お前の匂いは、何かが違うって思ってた」
「セックスの対象には、ならへんって?」
「そういうことだ」
「……」
葵のその言葉に、須能は目を閉じて俯いた。白い指先で額を掻き、はぁ……と長いため息を吐く。
「なんやねん……僕、一人で浮かれて……あほくさ……」
「本当に、ごめん。俺は、」
「あぁ、もうええ。もう、なんも言わんといて。虚しくなるだけやから。君らの話聞いとったら……なんや、よう分からへんくなった」
須能は葵に向かって軽く手を上げ、首を振った。諦観の滲むもの寂しげな目を伏せて、須能はまた額を掻いた。
「今となっては、よう分からへん。国城家との縁が欲しかっただけなんか、それとも、ほんまに葵くんのことが好きやったんか……よう分からんくなった」
「須能……」
「……けどまぁ、たぶん僕が一番欲しかったんは、誰よりも秀でたアルファのパートナーと、その血を継ぐ子どもや。国城家のためだけと違う、須能家のためにも、僕は有能な後継を残さなあかん。……それが、僕に課せられた使命やからな」
須能はこれまでとは打って変わった静かな口調で、ゆっくりとそう語った。それはまるで、現実を自分に言い聞かせているようにも感じられ、結糸は息を潜めて須能の声に耳を傾ける。
「僕は今年で二十二や。こんな歳で須能流の家元やらせてもろてる理由、何だか分かる?」
「え……。いえ、分かりません。踊りが上手だから、でしょう?」
不意に須能に話しかけられ、結糸はたどたどしくそう答えた。須能はゆるゆると首を振り、自嘲するようにこう言った。
「僕の家系はもともとオメガが多い血筋やねん。家元継ぐんは大概オメガや。その性に生まれた以上、何よりも期待されてるんは、秀でたアルファの子種をもらうこと。ええ肩書き背負ってたら、優秀なアルファの目ぇに留まりやすいやろ? せやし、早うから名前を継がされんねん」
「そうなんですか……?」
「そ。オメガのフェロモンで客を惑わすから、芸が評価されるんやろうって言われることもしばしばや。誰も、僕をただの須能正巳としては見てくれへん。才能なんて、関係ないねん。
アルファのお偉い客に襲われそうになったことも一度や二度じゃない。けど、それも自業自得や言われるだけ。むしろ、何で相手を突っぱねたんやと責められる。……自分の身ぃは自分で守る。そのために、僕は武術も習得してきた。舞うのは元から好きやったけど、好きだけでやっていける世界とは違う。……僕はいっぱい努力して……ここに来た」
ぐ……と、須能は体側で拳を握りしめた。ついさっきまで須能の目から流れていた涙は、今はもう見られない。
「僕は誰にも負けとうない。……そのためには、何が何でも国城家の血が欲しかった。その想いと、葵くん個人への慕情のどっちが先やったんか……今となってはよう分からんわ」
結糸は、これまでの須能の人生を想った。結糸とはまるで異なる、オメガとしての彼の来し方について。
生きて来た道も、その意味も、まるで異なる。
でも、結糸には須能の気持ちが痛いほどに分かった。
オメガとしての存在理由を問われる前に、自分自身を見て欲しいという願いも。
「ま、僕は蓮さまに密告るなんてやらしいことせぇへんから。ま、せいぜいがんばることやな」
須能は場の空気を切り替えるかのように手を打つと、懐手をしてしゃなりと笑った。それはいつも通りの須能の顔だが、須能の話を聞いた今、その艶やかな作り笑顔は、須能自身を守る仮面のように見える。
結糸は須能に、何か言葉をかけたいと思った。が、しっくりとくる台詞は何も浮かんで来ない。須能の人生は結糸のそれとは比べようもなく、重く苛酷なものなのだ。軽い言葉は須能には届かない気がして、結糸を躊躇わせた。
「葵くんの二十歳のパーティには出席さしてもらいますよって。そんとき、僕の踊り、ちゃぁんと見てね。葵くんの前で舞うんは緊張するけど、頑張るわ」
作り笑顔のまま東屋から立ち去ろうとする須能の背中に、ふと葵の手が伸びた。音もなく立ち上がり、そこから去りゆこうとする須能の肩を、葵がぐっと掴んだのだ。
須能は驚いたように振り返り、葵をじっと見上げている。葵は須能の肩に手をかけたまま、しっかりとした声でこう言った。
「お前の舞台を、入院中に見た。検査を終えて談話室のそばを通りかかった時、ちょうどテレビで須能の舞台をやってたんだ。そこにいた入院患者は皆、お前の舞に釘付けだった」
「……え?」
「俺にはまだ、伝統芸能の良し悪しはよく分からない。でも、女の姿で舞うお前も、男の格好で舞うお前も、すごくすごく、綺麗だと思ったんだ」
「へ……? う、うそやろ、そんなん……。別に僕を慰めてくれへんでも、」
「慰めじゃない! ……映像だけであんなにも人を酔わせることができるお前に、才能がないわけないだろ。それに、うちの兄の目に適ったんだ。お前の芸は、本物に決まってる」
「……あ」
葵のその言葉に、須能の表情が解けていく。眉間からは力が抜け、斜に構えていたかのような目つきが緩み、茫然としたとした表情で葵を見つめているのだ。
そして一筋、須能の頬を滑る涙。
その涙の感触にはっと我に返ったのか、須能は慌てて頬を拭い、はにかむようにふわりと笑った。
「な、何やねんそれ。ずるいわ、振ったあとにそんなん言うん」
「……だよな。ごめん……」
「ふふっ……うそうそ。めっちゃうれしい。……ありがとうな、葵くん」
そう言って泣き笑いの表情を浮かべる須能のことを、結糸は素直に綺麗だと思った。
春風によって運ばれて来た薔薇の香りが、東屋の中をそっと満たしてゆく。
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