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番外編ーchildren's storyー
〈2〉
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そして夕方。授業と部活を終えて帰宅すると、普段は物静かな屋敷の中から、賑やかな声が聞こえてきた。
須能家の人々がやって来たのだろう。きっと、悠葉もここに来ているはずだ。
久しぶりに悠葉に会えると思うと楽しみで、トクトクと鼓動が速くなる。最近少しつれない感じがしていたけれど、こうしてここへ来てくれたということは、悠葉もまた、紫苑に会いたいと思ってくれているということだろう。
年齢は一つ下だが、悠葉は紫苑のよき理解者だ。
紫苑が胃を痛めながらプレッシャーと闘っていることも知っている。打ち明けることにためらいはしたが、勇気を出してみてよかった。悠葉は紫苑の感情を否定しなかったし、「大変やねんな」とねぎらってもくれた。
フォートワースの学友たちには情けなくて打ち明けられない心情を、悠葉にならば話すことができる。学校も学年も違うし、毎日顔を合わせることができないという、微妙な距離感も良かったのかもしれない。学校では「国城紫苑」という名前に恥じない振る舞いをしなくてはいけないが、悠葉の前でなら、紫苑はただの紫苑でいられるのだ。
今の紫苑にとって、悠葉の存在はなくてはならないものなのである。
悠葉がそこにいる。
そう思うと居ても立っても居られなくて、紫苑は着替えもせずに早足でリビングへと向かった。開け放たれたドアの向こうからは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「紫苑。おかえり」
「た、ただいま……! あれ、悠葉は?」
「ああ、今、チビたちを外に連れ出してくれてるんだよ」
「あ、そうなんだ……」
部屋の中を窺うように顔を覗かせた紫苑にまず気がついたのは、スーツ姿の結糸だった。結糸は現在、オメガのメンタルケアを専門とするセラピストとして、病院で仕事をしている。
オメガの人々も広く社会進出を果たすようになってきたこともあり、彼らの悩みはさまざまだ。上司のセクハラに悩んだり、自身のオメガ性を受け入れることができなかったり、発情期をコントロールできなかったり、またはアルファと出会えない悲しみを訴えたり——。
その悩みを聞き、しかるべき機関と連携をとって、彼らの悩みを解決に導いてゆくことが仕事らしい。
昨今理解が進んできたとはいえ、古くから続く偏見は消えてはいない。オメガの社会進出を妨げていた発情期も、今は薬でコントロール可能になっている。けれど、フェロモンに生活を左右されにくいベータの人々からの理解は満足に得られていない状況だ。
運命のように惹かれ合うアルファとオメガの関係性についても、ベータの人々にとっては想像さえしにくい世界であるらしい。「番」という独特の制度のこと、ヒートのこと、過去にあった忌まわしい数々の事件のこと——それらは初等部でも教育を受けることだが、紫苑自身も、まだフェロモンに影響されるといった経験がないため、実際どういう感覚になるのかは分からない。
「紫苑。ちゃんと手ぇ洗ったかー?」
「あー……まだ、これから。先に挨拶したかったし」
「そっか、そうだよな。こっちにきてもらうの久しぶりだもんな」
結糸はそう言って、紫苑を手招きしつつ優しく笑う。紫苑はもう十二歳だが、そうして微笑みかけられるとやっぱり嬉しい。口調が荒くて口うるさいところはあるけれど、結糸はいつでもおおらかに紫苑を見守り、いつでも明るく励ましてくれる。
だが、紫苑が最も気を張って頑張っていることについては、結糸に弱音を吐くことができない。結糸は一般家庭の出身で、葵と出会った時は使用人だった。今でこそ、きちんと大学を出て人の支えとなる仕事をしているものの、根本的な生まれの差のようなものに、結糸は引け目を感じている。
初等部に入学したばかりの頃、紫苑はしばしば周囲の優等生たちのすごさに圧倒され、結糸の前で弱音を吐いていた。すると結糸は少しだけ、ほんの少しだけ傷ついたような顔をしたあと、いつものように明るく笑って「大丈夫だよ、紫苑は国城家の血を継いでるんだから」と言い、紫苑の頭を優しく撫でるのだ。
その言い回しになんとなく違和感を覚えた紫苑は、「母さまの子、だよ?」と首をかしげた。すると結糸は困ったような顔で微笑んで、「うん、もちろんだよ」と言ってくれたのだが……。
少しずつ大きくなるにつれ、色々なことが分かるようになってきた。
この家には、結糸の出自のことをとやかく言うような人間は一人もいないけれど、紫苑が周囲に遅れをとれば、結糸が心を痛めてしまうのだと気がついたのだ。
だからこそ、紫苑は気を張り詰めて、国城の名に恥じない男になるよう努力を重ねている。
なので今も、須能の前で粗相をしてはいけない。紫苑はリビングで紅茶を振る舞われている須能に丁寧にお辞儀をし、「お久しぶりです、須能さま」と挨拶をした。
「わぁ、紫苑。おおきゅうなったねぇ」
「はい、おかげさまで」
「なんやろ、ちょっと会わへん間にずいぶん大人びたんちゃう? まだ十二歳やのに」
「そう……ですかねぇ」
「お顔も葵くんによう似てきたはって、男前やなぁ。けど近寄り難い感じがせぇへんとこは、結糸くんに似てんな」
「へへ……そうですか?」
葵に似ているとはよく言われるが、結糸に似ていると言われると妙に嬉しい。幼い頃から紫苑をよく知る須能に言われるとなおさらだ。
紫苑が頬を赤らめながら照れていると、結糸もまた嬉しそうに「そうそう、かわいげがあるところは俺の遺伝」と誇らしげに笑ってくれた。
結糸がそうして笑っていてくれると、紫苑はすごくホッとするのだ。そして、色々とクヨクヨ悩んでいたことがどうでも良くなり、心がふわっと軽くなる。
「しかもアルファ確定やってね。おめでとさん」
「ありがとうございます」
「こらあかんわぁ、もう学校でもモテモテやろ? モテモテすぎて困ってんちゃう?」
「えっ? いや……モテモテ……ではないです……」
「もー、まだ早いってそう言う話題は!」
質問攻めにしどろもどろになっていると、結糸がすかさず須能をたしなめた。実際のところ、アルファと確定してからは、確かにちょっとだけ、モテたかもしれない。
まだ第二性が未確定のクラスメイトの男女から妙に優しくされることが増えたし、人生初の告白をされたこともあった。だが、紫苑はまだまだうぶなほうなのだ。付き合うとか付き合わないとかそういうことがよく分からないので、断ったのだが。
「紫苑、着替えといでよ。悠葉くんたち、もう庭で遊んでるから」
「あ……そうなんだ。行ってみる!」
「うん。おやつ食べにくるようにって、みんなに伝えといてくれる?」
「オッケー……じゃなくて、はーい!」
須能と話をしているうちにすっかり機嫌が良くなってしまった。紫苑はぺこりと一礼して、ダッシュでリビングルームを飛び出した。
須能家の人々がやって来たのだろう。きっと、悠葉もここに来ているはずだ。
久しぶりに悠葉に会えると思うと楽しみで、トクトクと鼓動が速くなる。最近少しつれない感じがしていたけれど、こうしてここへ来てくれたということは、悠葉もまた、紫苑に会いたいと思ってくれているということだろう。
年齢は一つ下だが、悠葉は紫苑のよき理解者だ。
紫苑が胃を痛めながらプレッシャーと闘っていることも知っている。打ち明けることにためらいはしたが、勇気を出してみてよかった。悠葉は紫苑の感情を否定しなかったし、「大変やねんな」とねぎらってもくれた。
フォートワースの学友たちには情けなくて打ち明けられない心情を、悠葉にならば話すことができる。学校も学年も違うし、毎日顔を合わせることができないという、微妙な距離感も良かったのかもしれない。学校では「国城紫苑」という名前に恥じない振る舞いをしなくてはいけないが、悠葉の前でなら、紫苑はただの紫苑でいられるのだ。
今の紫苑にとって、悠葉の存在はなくてはならないものなのである。
悠葉がそこにいる。
そう思うと居ても立っても居られなくて、紫苑は着替えもせずに早足でリビングへと向かった。開け放たれたドアの向こうからは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「紫苑。おかえり」
「た、ただいま……! あれ、悠葉は?」
「ああ、今、チビたちを外に連れ出してくれてるんだよ」
「あ、そうなんだ……」
部屋の中を窺うように顔を覗かせた紫苑にまず気がついたのは、スーツ姿の結糸だった。結糸は現在、オメガのメンタルケアを専門とするセラピストとして、病院で仕事をしている。
オメガの人々も広く社会進出を果たすようになってきたこともあり、彼らの悩みはさまざまだ。上司のセクハラに悩んだり、自身のオメガ性を受け入れることができなかったり、発情期をコントロールできなかったり、またはアルファと出会えない悲しみを訴えたり——。
その悩みを聞き、しかるべき機関と連携をとって、彼らの悩みを解決に導いてゆくことが仕事らしい。
昨今理解が進んできたとはいえ、古くから続く偏見は消えてはいない。オメガの社会進出を妨げていた発情期も、今は薬でコントロール可能になっている。けれど、フェロモンに生活を左右されにくいベータの人々からの理解は満足に得られていない状況だ。
運命のように惹かれ合うアルファとオメガの関係性についても、ベータの人々にとっては想像さえしにくい世界であるらしい。「番」という独特の制度のこと、ヒートのこと、過去にあった忌まわしい数々の事件のこと——それらは初等部でも教育を受けることだが、紫苑自身も、まだフェロモンに影響されるといった経験がないため、実際どういう感覚になるのかは分からない。
「紫苑。ちゃんと手ぇ洗ったかー?」
「あー……まだ、これから。先に挨拶したかったし」
「そっか、そうだよな。こっちにきてもらうの久しぶりだもんな」
結糸はそう言って、紫苑を手招きしつつ優しく笑う。紫苑はもう十二歳だが、そうして微笑みかけられるとやっぱり嬉しい。口調が荒くて口うるさいところはあるけれど、結糸はいつでもおおらかに紫苑を見守り、いつでも明るく励ましてくれる。
だが、紫苑が最も気を張って頑張っていることについては、結糸に弱音を吐くことができない。結糸は一般家庭の出身で、葵と出会った時は使用人だった。今でこそ、きちんと大学を出て人の支えとなる仕事をしているものの、根本的な生まれの差のようなものに、結糸は引け目を感じている。
初等部に入学したばかりの頃、紫苑はしばしば周囲の優等生たちのすごさに圧倒され、結糸の前で弱音を吐いていた。すると結糸は少しだけ、ほんの少しだけ傷ついたような顔をしたあと、いつものように明るく笑って「大丈夫だよ、紫苑は国城家の血を継いでるんだから」と言い、紫苑の頭を優しく撫でるのだ。
その言い回しになんとなく違和感を覚えた紫苑は、「母さまの子、だよ?」と首をかしげた。すると結糸は困ったような顔で微笑んで、「うん、もちろんだよ」と言ってくれたのだが……。
少しずつ大きくなるにつれ、色々なことが分かるようになってきた。
この家には、結糸の出自のことをとやかく言うような人間は一人もいないけれど、紫苑が周囲に遅れをとれば、結糸が心を痛めてしまうのだと気がついたのだ。
だからこそ、紫苑は気を張り詰めて、国城の名に恥じない男になるよう努力を重ねている。
なので今も、須能の前で粗相をしてはいけない。紫苑はリビングで紅茶を振る舞われている須能に丁寧にお辞儀をし、「お久しぶりです、須能さま」と挨拶をした。
「わぁ、紫苑。おおきゅうなったねぇ」
「はい、おかげさまで」
「なんやろ、ちょっと会わへん間にずいぶん大人びたんちゃう? まだ十二歳やのに」
「そう……ですかねぇ」
「お顔も葵くんによう似てきたはって、男前やなぁ。けど近寄り難い感じがせぇへんとこは、結糸くんに似てんな」
「へへ……そうですか?」
葵に似ているとはよく言われるが、結糸に似ていると言われると妙に嬉しい。幼い頃から紫苑をよく知る須能に言われるとなおさらだ。
紫苑が頬を赤らめながら照れていると、結糸もまた嬉しそうに「そうそう、かわいげがあるところは俺の遺伝」と誇らしげに笑ってくれた。
結糸がそうして笑っていてくれると、紫苑はすごくホッとするのだ。そして、色々とクヨクヨ悩んでいたことがどうでも良くなり、心がふわっと軽くなる。
「しかもアルファ確定やってね。おめでとさん」
「ありがとうございます」
「こらあかんわぁ、もう学校でもモテモテやろ? モテモテすぎて困ってんちゃう?」
「えっ? いや……モテモテ……ではないです……」
「もー、まだ早いってそう言う話題は!」
質問攻めにしどろもどろになっていると、結糸がすかさず須能をたしなめた。実際のところ、アルファと確定してからは、確かにちょっとだけ、モテたかもしれない。
まだ第二性が未確定のクラスメイトの男女から妙に優しくされることが増えたし、人生初の告白をされたこともあった。だが、紫苑はまだまだうぶなほうなのだ。付き合うとか付き合わないとかそういうことがよく分からないので、断ったのだが。
「紫苑、着替えといでよ。悠葉くんたち、もう庭で遊んでるから」
「あ……そうなんだ。行ってみる!」
「うん。おやつ食べにくるようにって、みんなに伝えといてくれる?」
「オッケー……じゃなくて、はーい!」
須能と話をしているうちにすっかり機嫌が良くなってしまった。紫苑はぺこりと一礼して、ダッシュでリビングルームを飛び出した。
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