すべて媚薬のせいにして

山吹花月

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「お! いい感じ」
 窯から出したアップルパイはこんがりといい焼き色を付けていた。香ばしい匂いに思わず自画自賛する。
 ジェイデンの誕生日当日、ふたりでお祝いをするため店は臨時休業にしている。少し早起きをして、彼の好物であるアップルパイを作っていた。
 ハムやチーズ、いくつかのオードブルも整え、今日のために準備したお酒も籠に詰めて彼の家へ向かう。
 一足先に誕生日を迎え二十歳の成人になっていたマリアベルだが、ジェイデンの誕生日に初めてのお酒を一緒に飲もうと約束していた。食事に合わせるお酒については全くの無知だったので果物屋の女主人にいろいろと教わり、折角ならアップルパイに合うものがいい、と薦められたのがシードルだ。限定品のちょっといいものを奮発し準備万端だ。お揃いのグラスはジェイデンの家にあるので、料理とお酒を持ち家を出た。
 店の扉を施錠した時、覚えのない女性の声が聞こえた。彼の家の前に見知らぬ女性がいる。玄関先でジェイデンと話しをしているようで、楽しそうに笑っている。女性が彼になにかを渡した。本と細長い紙袋だ。女性に促され、彼はその場で紙袋からなにかを取り出す。シードルの瓶だ。
「っ……!」
 マリアベルが準備したものと同じ銘柄だ。ラベルが他のお酒と違い独特だったので遠くからでもそれとわかった。
 反射的に声が出そうになったがぐっと抑え込む。胃からなにかがせり上がってくるような苦しさを感じた。シードルを見てジェイデンが嬉しそうに笑っている。自分以外の女性に笑いかける姿なんて見たくないのに、ふたりから目を離せなかった。
 会話が終わったのか、女性が軽く手を振りジェイデンが会釈をする。やっと女性は立ち去っていった。マリアベルはそのまま彼の家へ向かうことが出来ず、店へ戻りカウンターの後ろへしゃがみこんだ。
「…………っ」
 正直、お似合いだと思った。自分と違い長身で綺麗な印象の女性。休みの日にわざわざ自宅まで来るのは、ジェイデンに特別な想いを寄せているからであろうと容易に想像出来る。もしかしたらすでに関係が進展しているのかもしれない。そう思った瞬間、肺が握り潰されたような息苦しさと、重々しい感情が湧きあがる。彼が他の女のものになってしまうのが嫌だ、悔しい、許せない。今まで飼い慣らしていたはずの恋しさが、突如荒々しく心を苛む。
「……妹。……私は、妹………ジェイデンの、家族……」
 小さく声に出し自分に言い聞かせる。深く息を吸い、どす黒い感情を飲み込んだ。苦しくてわずかに涙が滲む。
「………………っはぁ」
 ゆっくり呼吸を整えるうちに徐々に波は去り、少しずつ落ち着きを取り戻した。わずかに残る独占欲には気付かない振りをして口角を上げる。
 ふっと短く息を吐き立ち上がった。籠からシードルの瓶を出しカウンターの裏へ隠す。わざと大きく扉を開け、玄関のベルを鳴らす。澄んだ鐘の音が鳴り止むころ頃、自分の気持ちもゆったり凪いでいく。そう言い聞かせ彼の家へ向かった。
「ジェイデンお待たせ!」
 飛び切り楽しい時の顔をして彼に声を掛ける。
「マリアベル! 待ってたよ」
 屈託のないジェイデンの笑顔に複雑な感情が湧いてくる。
「あ、そうだ。一緒に飲もうと思ってたお酒なんだけど、うっかり割っちゃって……」
 嘘をつく後ろめたさから彼の目を見れなかった。
「えっ怪我は?」
 顔色を変えた彼はすぐさまマリアベルに駆け寄り傷の有無を確認する。真っ先に心配してくれる、そんな些細な行動にすら嬉しさが込み上げた。
「大丈夫、怪我はないよ。……それよりお酒、ごめんね?」
「よかった。お酒は気にしなくていいよ。さっき仕事先の人が忘れ物を届けるついでに、これ。アップルパイに合うって置いてってくれたんだ。俺が誕生日にアップルパイ焼いてもらうって話したの、覚えてたみたい」
「ん……そっか。よかった……」
 先程の情景が蘇り頬が引きつりそうになる。
「ねえ、さっそく飲んでみようよ! 乾杯したいな! あ、アップルパイとオードブル並べちゃうね」
 これ以上笑顔でいられる自信がなく、テーブルの準備をする振りをして彼に背を向けた。
「そうだね。グラス持ってくるよ」
 彼が奥の部屋へ移動しほっと胸を撫で下ろす。気が緩み、じわりと目頭が熱くなる感覚がして慌てて目を閉じた。手を動かしてテーブルのセッティングに集中し、湧きあがる嫉妬も涙も誤魔化した。



「ん、ふふ……。アップルパイ、おいしいなあ……ふふ」
 4切れ目のアップルパイを頬張りながら、ジェイデンは嬉しそうに笑っている。目は据わり頭は揺れ、滑舌が甘くなって語彙力が低下している。典型的な酔っ払いだ。
 現在シードルは二杯目。彼のグラスは半分ほどに減っている。一杯目を飲み終えた時点ですでに兆候が表れていた。ジェイデンはあまり酒には強くないようだ。
「ジェイデン、お水飲んで」
 反対にマリアベルはそこそこ強いようで、2杯目を飲み終えたが特に変化は感じていなかった。
 食事を始めた時には向かい合って座っていたが、早々に酔っぱらい始めたジェイデンの身体が不安定に揺れるのが危なっかしくて、今は隣に移り彼の身体を支えている。かろうじて捕まえることが出来ているが、そもそもの体格の差があるのでこれ以上ふらつくようだと支えきれなくなってしまう。
「ね、ジェイデン。お水!」
「んん……おさけ……」
「ほ、ほら! 新しいお酒だよ!」
「ん……」
 水の入ったグラスをお酒と偽りジェイデンに手渡す。疑うことなく飲み干してくれてひとまず安堵した。
 これ以上飲ませるのは危険だと判断し、なんとか彼を誘導して寝室のベッドへ放り込む。
「お水ここに置いておくから。こまめに飲んでね」
「…………」
「……ジェイデン?」
 急に反応が無くなり不安になる。ベッドへ潜り込んだ彼を覗き込むと、両手が伸びてきて頬を包まれた。
「……目、もう赤くないね」
「っ!」
 家に来た時に赤くなっていたのだとこの時初めて気付く。
「なんか、あった?」
 彼の親指が頬を優しく摩る。涙を拭うような仕草で目尻を撫でていく。ゆっくり動く指の感触は、慈しみ愛でるように柔らかい。家族に向ける親愛ではなく異性としての愛情表現のようで、自分に都合のいい解釈をしてしまいそうになる。
 この手であの人にも触れたのだろうか。ふと日中の映像が蘇り、苦々しさが喉に込み上げ眉間に皺が寄る。
「……ん? なに考えてる?」
 彼の人差し指が眉の間に押し込まれた。またしても薄暗い感情に飲まれていたことに自己嫌悪する。
「っ……よ、酔っ払いの世話は大変だなあって」
「酔ってないからぁ」
「酔っ払いはみんなそう言うんだって奥さん言ってたよ」
 彼の頬を摘まみ少し強めにつねる。
「いひゃ……ごめんへぇ……」
 酔っぱらってふにゃふにゃだったジェイデンの顔が、引っ張られてさらにだらしない顔になっている。普段は気を張っているのか凛々しい表情をすることが多くなったので珍しい。
「私だけだよね、知ってるの……」
こんなにも油断した顔を見られるのは自分だけ、今はまだ。そう言い聞かせた。
「んん、なにぃ?」
 頬を開放したが、いよいよ眠気が限界なのか彼の瞼はほとんど開いていない。
「なんでもないよ。合鍵で施錠しておくから。もう寝よ?」
「一緒に?」
「ばかっ」
 酔っ払いの戯言だとわかっていても、どうしてもときめいてしまう。
 彼の鼻を軽く摘まんで反撃してみる。その手が彼の両手で握られてしまい更に心臓が強く打つ。
「……今日、楽しかった。来年も、一緒に……」
「…………う、ん」
 来年の彼の隣に自分は居られるのか、という疑念が湧きあがり歯切れが悪くなる。
「再来年も……」
「……ん」
「その次の年も……」
「…………っうん」
 マリアベルの葛藤など露知らず、彼女の返事に幸せそうな笑顔を見せるジェイデンは、そのまま満足そうに寝息を立て始めた。
 包まれたままの手をそっと抜き去り、明かりを消し彼の寝室を後にする。
「…………ずっと、側に、居てよ……」
 彼の声に振り返る。それ以降言葉は続かず穏やかな呼吸音だけが聞こえた。ただの寝言だ。
「……うん。ずっと、側に居る」
 囁くように、しかしはっきりと言葉にした。返事はない。
この言葉がマリアベルに向けたものかどうかはわからない。返事もきっと聞こえていない。
「好きだよ、ジェイデン」
 小さく小さく、囁くよりももっと小さく、声にならない音で呟く。
 言いたくても言えなかった気持ち。たとえ聞こえていなかったとしても、本人へ向かって伝えられたことはマリアベルにとって大きな区切りとなった。
すっと背筋を伸ばし、静かに寝室の扉を閉めた。



 開店前、空が白み始めた頃合いに、マリアベルは分厚い薬草専門書を前に気合を入れた。
 初めてお酒を飲んだ翌日の割に、噂に聞いていた身体の不調はなく爽やかな目覚めだった。
「私、お酒強かったのね」
 ジェイデンを寝かしつけた後、食事をしてそのままになっていたテーブルを軽く片付けていた。ふとボトルに半分残っているシードルが目に入る。まだ飲めるお酒を捨ててしまうのは勿体ない。しかし昼間の女性を思い出し、もやもやとしてしまう。どう処理しようかひとしきり悩んだ結果、お酒に罪はない、と残りを全部ひとりで飲みきったのだ。想い人へ贈られた他の女からの酒を飲む自分、という絵面に落ち込むかとも思ったが、あなたのプレゼントは本人ではなくほとんど幼馴染が飲んでやったわよ、という謎の優越感で少し気分が軽くなった。加えて自身のお酒に対する強度がわかったのでよしとした。
 昨日の告白のお陰もあってか、ここ数日で一番気持ちがすっきりしている。
「うん! 仕事仕事!」
 今は恋心にかまけている暇はない。なにせ王妃からの調合依頼を仰せつかっているのだ。作ったことのない薬だけにより慎重にしっかりと準備をしなければならない。材料を隣国から仕入れるまでに時間がかかるので、まずは専門書で学び、手持ちの薬草で出来る部分だけでも調合を進めていくことにした。
 細かく薬草を量り、混ぜ合わせたり潰したり、細々こまごました作業に没頭できる時間は好きだ。目の前のことに集中していれば、他の見たくない感情は鳴りをひそめてくれる。マリアベルは黙々と調合を進めた。

「…………あ、もうこんな時間か」
 調合に没頭していて随分と日が高くなるまで気付かなかった。記録をつけて今日の作業を終了する。
 ふとジェイデンが心配になる。グラス一杯半であれだけ酔ってしまうなら二日酔いも酷いかもしれない。手早く二日酔いに効く薬と清涼感のある飴を持ち、彼の家を訪ねた。
「ジェイデン? 起きてる?」
 玄関扉をノックして呼びかけるが反応がない。寝込んでいるといけないので合鍵を使って開錠する。なにかあった時のために、とお互いの家の合鍵を交換していたが、まさか二日酔いが心配で使うことになるとは思ってもみなかった。
 鍵を開け中に入る。物音がしないのでまだ寝ているのかもしれない。静かに寝室へ向かい小さくノックをする。
「……ジェイデン?」
「……………………はぁい」
 掠れて今にも消え入りそうな声が聞こえる。おそらくジェイデンだ。
「入るよ?」
「うん……」
 視界に入ったのはベッドに丸まったままつらそうに顔をしかめた、気の毒になるほどしんどそうなジェイデンの姿だった。
「……大丈夫?」
 全然大丈夫そうには見えないが一応聞いてみる。
「う、ん……」
 さすがに絶対嘘だとわかる。
「どこがつらい? 頭痛? 胸やけ? 倦怠感?」
「…………ぜんぶ」
 絵に描いたような二日酔いだ。持ってきた薬と水を差し出す。
「二日酔いの薬、飲める?」
 マリアベルの問いかけからややしばらくして、緩慢な動きで彼が起き上がった。
 こんなに弱ったジェイデンを見るのは、彼が8歳の頃犬に追いかけ回されて泣きべそをかいていた時以来かもしれない。
 背中を支え、口元へグラスを持っていく。差し出した薬も水も、彼は素直に飲み込んだ。
「はいお疲れ様。すっきりする飴も舐めて」
「あー……ん」
「っ!」
 手渡すつもりで摘まんでいた飴は、指ごとジェイデンの口に頬張られてしまった。初めて触れた彼の唇は想像以上に柔らかくて、マリアベルの心を乱すには十分だった。
 急に軽く歯を立てられる。わざとなのかまだ酒が残っているのか、なに食わぬ顔でがじがじ齧っている。
「もう! 噛まない!」
 急いで手を引き気持ちを落ち着ける。昨夜の酔っぱらった時といい今といい、無防備にもほどがある。
「そういえば、今日仕事は?」
 いつもなら家を出ていてもおかしくない時間だ。
「ん……、職場で、誕生日に初めてお酒飲むって言ったら……、翌日は休みにしとけって言われて……だから休み」
 大量に飲んで使い物にならなくなると思われたのか、お酒が弱いと判断されたのか、どちらにしろありがたい判断だ。使い物にならないし、お酒にも弱かった。
「もう少し寝て? 薬とお水、ここに置くから」
 昨夜も同じようなことをしたな、と記憶が蘇る。と同時に彼の言葉や自分の告白を思い出してわずかに動揺した。
「ねえ、ジェイデン……昨日のこと、覚えてる?」
 もしかしたら、という期待に抗いきれず聞いてしまった。
「んん……アップルパイ……食べたとこまで…………。俺、なんか、しちゃった?」
 寂しいようなほっとしたような、微妙な感情が沸く。
「……小さい子供みたいにわがまま言ってた」
「えっなにそれ」
 寝室での会話を言ってしまおうかとも思ったが、ただの酔っ払いの戯言で本気じゃない、と言われてしまうのが怖い。なんとか踏み止まり当たり障りのないことを言う。
「グラス一杯半でふらふらなのに、まだ飲むって駄々こねてたよ」
「嘘だろ……かっこわる……」
 額を押さえたのは頭が痛いせいだけではないのだろう。心底落ち込んだようで、彼のまとう空気がどんよりした。
「あ、えっと、可愛かった、よ?」
 咄嗟にフォローが思い付かず適当なことを口走る。
「…………可愛いとか」
 ぼそりと呟き、彼はシーツに包まりこちらに背を向けてしまった。励ましの言葉が見つからず、とりあえず彼の背中を優しく摩った。
「マリアベルは、体調は? 平気なの?」
 寝返りを打ちこちらを向いたジェイデンがマリアベルの髪を撫でる。
「うん……えっと……ちょっとだるい? 気がするかな?」
 お酒の失敗で落ち込むジェイデンを前にとても元気だとは言いにくく、ぼんやりと濁した。
「俺はもう大丈夫だから、マリアベルもゆっくり休んで。ね?」
 髪を一房掬った彼はそのままゆったり口付けた。
「っ! じゃあ! 私は戻るから、ジェイデンもゆっくりね! また夕方来るから!」
 髪に口付けなど初めてされて気が動転する。
「ありがと、待ってるよ」
 彼の言葉に頷くことしかできず、真っ赤になっているであろう顔を隠したくて慌てて寝室を飛び出した。


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