波乱万丈

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20代のうち

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 逆送致されたうちは、二十歳の誕生日、成人式を横浜拘置所で過ごすこととなってしまった。
 平成6年3月11日に、懲役1年執行猶予(保護観察付)3年の判決を言渡された。
 執行猶予を取ると、一度横浜拘置所に戻り、荷物をまとめて出所した。
 まず、金井さんに連絡を取った。
 金井さんに、春日部に部屋を借りているから、春日部に来るように言われ、電車で春日部に向かった。
 春日部に着くと、金井さんに連絡を取り、迎えに来てもらった。
 金井さんは、うちのために部屋を借りてくれていたのである。
 そして、春日部駅の目の前で、店長としてホストクラブを任されていた。
 うち的には、ホストクラブは全く興味なかったのだが、将来的にはゲイバーで働くつもりでいたから、水商売をするという点では、ゲイバーに行く前に、覚えておいて損はないだろうと思い、一緒に仕事をやった。
 捕まっていた間、女性ホルモンも打ちに行けなかったため、再び女性ホルモンの投与も再開した。
 春日部は、すごく田舎で、夜になると何もない。
 うちが住んでいたところも、周りは田んぼと畑で、住むには良かったが、仕事的には全然良いところではなかった。
 終電がなくなると、人など誰も歩いていないのである。
 よくこんな所で、ホストクラブなんかやる気になったものだと思う。
 ぶっちゃけ、お客なんてあまりいなかった。
 春日部に住むようになってからも、努さんの家には何回か行っているのだが、結局努さんとは一度も会うことができないまま、努さんは引っ越しをしてしまい、いなくなってしまった......。
 その日とても悔しくて、一人で部屋に引きこもり、1日泣いていた。
 この日は、仕事も全くやる気になれず、仕事も休んだ。
 辛く、悲しい一日だった。
 この日をきっかけに、急に春日部にいるのも嫌になり、5月に入ってすぐ横浜に行くことに決めた。
 保護会で知り合った人が、住み込みで仕事を紹介してくれるということで、横浜に行くことに決めた。
 本当は、越谷にあるゲイバーで働くつもりで面接もして受かっていたのだが、努さんの件でショックが大きくて、埼玉を離れることにしたのである。
 もう一つの理由が、この時に深い心の闇に陥ってしまったのである。
 うちは、女として生まれてきたかったという話は、前にも述べている。
 うちの場合、“性と心の不一致”つまり、性同一性障害になるのだが、いくら女性ホルモンを打っても、女の子らしい体にはなるが、女の子になれるわけではない。
 性別適合手術をしたら、女の子になれるのかといったらそれも違う。
 うちは、女の子らしい体が欲しかったわけではなく、本当の女の子になりたかったのである。
 “好きな人の子供を産める”(うちの夢は、好きな人の子供を産むこと)本当の女の子になりたかったのである。
 もし、性別適合手術を受けたら、うちは男でも女でもない体になってしまう。
 それを考えた時、とても悩んだ。
 女性ホルモンを打てば、胸も膨らみ、女の子らしい体型にはなれるが、それで本当の女の子になれるわけではないし、性別適合手術を受けても、“好きな人の子供を産める体”になるわけではない。
 そうなったら、うちは何になってしまうのか?
 そんなことを考えていたら、頭がおかしくなってきそうだった。
 ニューハーフ(うちはこの呼び方は嫌いである。差別的な言葉に聞こえる)と呼ばれる人は沢山いるが、その人達は、確かに見た目では元男の子だったとは全くわからない娘もいる。
 しかし、女性ではない。
 やっぱり心の葛藤はあったことと思う。
 うちはその事を考えたとき、まず女の子にはなれない(子供を産めない)ということに絶望した。
 うちが望んでいることは、好きな人の子供を産むことであって、女の子らしい体を作ることではない。
 どう頑張っても、子供を産むのは不可能である。
 女の子になりたい。
 女の子として愛されたい。
 子供を産みたい......。
 そんな心の葛藤が大きくなり、自分ではどうして良いのか分からなくなり、結局、女性ホルモンを打つのも辞めてしまった。
 どうしてうちは、男として生まれてきたのに、男らしくないのか?
 どうしてうちは、こんな事で苦しまなきゃならないのか?
 どうしてうちは、男として生まれてきたのか。
 そんなことを考えるのに、とても疲れ、深く傷つき、悩んだが、答えを出すことはいまだにできていない。
 うちなんか生まれてこなければよかったのである。
 一体うちは、なんのために生まれてきたのかな......と、今でも思うことがある(これを書いたときが43歳の時で、今はまた考え方が少し違います)。
 こんなことを考えているうちに、だんだん自分のことが嫌になり、横浜に行くことにしたのである。
 横浜の戸部という所に行き、営業の仕事についた。
 保護会で知り合った人が、紹介してくれた所で、家のリフォームの仕事を取る営業である。
 最初の1ヶ月は、色んな人と一緒に回り、営業トークを覚えると、2ヶ月目からは、一人で回るようになった。
 月に3本契約が取れれば楽に生活を送れると教わったが、毎月3本以上仕事を取っている人はいなかった。
 元々仕事が大嫌いなうちは、1人で回るようになると、ほとんど仕事をしないで、パチンコをしたり、ゲームセンターや喫茶店で時間を潰していた。
 たまに本気を出し、一本でも、二本でも仕事を取ってしまえば、あとは何も言われることがなかったから、とても楽な仕事であった。
 うちが一番続けることができたのが、この仕事である。
 とは言っても、たったの半年なのだが......。
 横浜に住み始めてすぐ、とても病んでいた時期、ᒍ君と連絡を取ったり、手紙のやり取りをしたりしている。
 ᒍ君とやり取りをしていたのは、戸部に住んでいたときまでである。
 仕事を辞めて、シャブをやるようになってから、ᒍ君と連絡をしたり、手紙のやり取りをしなくなってしまった。
 ᒍ君に、クスリをやっていることがバレるのが怖くて、連絡を取れなくなってしまったのである。
 ᒍ君にだけは、シャブをやっていたことや、少年院に入っていたことを知られたくなくて、結局連絡をしなくなってしまったのである。
 自分が行けないのだが、やっぱりᒍ君とやり取りが出来なくなったことは悲しく思う。
 うちが営業の仕事を辞めるきっかけとなったのは、車の免許を取り、他の仕事をやるようになったからである。
 車の免許は、平成7年2月に合宿で取りに行った。
 免許を取りに行く前に、ボーリング場で女連れの男に一緒にボーリングをしようと誘われ、一緒にボーリングをした。
 その時に、免許を持っているかを聞かれ、これから取りに行くところだというと、免許を取ったら連絡をしてきてと言われ連絡先を教えてもらった。
 車の免許は氏家自動車教習所に取りに行った。
 合宿で色々と探していたら、氏家にもあったから、そこに決めた。
 当日氏家まで行き、そこから迎えのバスに乗って教習所まで行った。
 行った日から教習が始まり、初日教官について運転をすると、だいぶ運転に慣れてると言われた。
 当然である。なんせ、車は16からずっと乗っているのだから。
 試験も順調に受かり、免許を取った。
 免許を取る気は全く無かった。
 一生無免許で乗っているつもりでいたのだが、戸部にいるとき、車で問題を2回起こしていて、それがきっかけで免許を取ることになった。
 一つ目の出来事が、戸部に住むようになってすぐ、うちは車を一台買った。
 その車で、友達とある時ドライブを楽しんでいた。
 その頃、車のナンバーを外して、窓のところに置くのが流行っていたのだが、それが厳しく規制されるようになったのだが、そんなことを全く知らなかったうちは、ナンバーを外して窓のところに置いていた。
 昭島のある交差点で、お巡りに停止を求められたのだが、それを振り切り逃げた。
 昼間でとても渋滞しており、なかなか引き離すことが出来ず、裏道を探した。
 普段あまり走らないところだったので、道が分からず、裏道を見つけたのでそこに入った。
 これでうちの勝だと思い、加速させたのは良いが、ちょっと走ると道がなくなり、畑に入ってしまったのである。
 “この先行き止まり”って看板出しておけよ!!と思ったが、もう遅い。
 仕方がないので、車を乗り捨てて走って逃げることにした。
 友達にもそのことを伝えて、うちは走って逃げた。
 友達は逃げ出さなかった。
 助手席に乗っていただけで、悪さを何もしていなかったからである。
 お巡りが走って追いかけてきたが、足には自信のあるうちである。思いっきり走り、近くに中学校があったので、そこに逃げ込んだ。
 中学校に逃げ込んだは良いが、どうしようか悩んだ。
 もたもたしていれば、そこの中学校の先生にも怪しまれてしまう。
 そんなことを考えていたら、一人運動着を着た男の子が通りかかったので、うちはその男の子を呼び止め、次の授業が体育だというので、制服の上着を借りる事を思いついた。
 ズボンは黒のスラックスを履いていたから、上着を着てしまえば学生に見える。
 うちは1時限だけ上着を貸してくれと頼み、男の子から上着を借りた。
 上着を借りるとそのまま中学校の門を堂々と出た。
 中学校の周辺には予想したとおり、お巡りの数が増えていた。
 中学校を出るときに、お巡りと目があったのだが、お巡りはまさかうちが中学校から出てくるとは思っていなかったようで、声をかけられることもなく、無事に横浜まで帰ることができた。
 車は後日知り合いに取りに行ってもらった。
 もう一つの出来事は、雅也と久しぶりに会い、街を流しに行くことに決めた。
 このときの車は族車である。
 うちは自分の車を二台持っていた。
 セドリックとマークIIの二台で、この車はちゃんと自分のお金で買った車である。
 雅也に久しぶりにあったのだが、その頃のうちは、努さんのことと、その後の心の問題とで、一番精神不安定になっていた時期である。
 努さんのことでショックが大きかったうちは、自暴自棄になっていた。
 雅也と会っていたにもかかわらず、心は穏やかではなかった。
 そんな状態での再会である。
 雅也の家まで行き、雅也と合流すると、雅也が新宿に行きたいと言った。
 目的は、シンナーである。
 本来なら、絶対に反対したところだが、そのときは反対すらしないで、新宿に寄り、雅也はシンナーを購入。
 新宿でもう一人乗せて、街を流していた。
 マークIIは、ノーサス、直管でもの凄くうるさい車で、車内でも怒鳴り合わないと会話ができなかった。
 そんな車でエンジンをふかしながら走っていたら、途中、ヤクザ者に追いかけられた。
 相手の車は、インフィニティQ45。
 こっちは、直管にしたマークIIで、最高速度120キロ出すのがやっとの車だった。
 滅茶苦茶しつこい野郎で、ずっと追いかけてきていた。
 大通りでは勝負にならないため、うちは路地に入って勝負をかけようと思った。
 大通りから路地に入り、ごちゃごちゃと走ったのだが、最終的に一方通行を逆走した。
 夕方過ぎだったせいか、車が来てしまい、形的には挟み撃ちされたような形になってしまった。
 うちは頭にきて、ギアをバックに入れ、思いっ切りヤクザ者が乗っている車に突っ込んでやった。
 次に、ギアをドライブにいれて、前から来た車にも突っ込んでやり、再びギアをバックに入れて、ヤクザ者の車に突っ込んでやった。
 完全に切れたうちは、自分の乗っていた車が煙を吹き出し、動かなくなるまで同じことを繰り返してやった。
 ヤクザ者は慌てて車から降りてきて、
「やめろ!!何にもしないからやめろ!!」
などと言って、ものすごく焦っていたが、そんなことうちには全く関係なかった。
 しつこく追いかけてくるのがいけないのである。
 反撃されて焦るくらいなら、最初から追いかけてくるなと言ってやりたかった。
 しかし、完全に切れたうちは、冷静なわけがない。
 相手は、“ヤクザ者に反撃などする奴はいない”と、高を括っていたのだろうが、そこが甘いのである。
 うちは、看板がないと何もできない野郎など“眼中”にないのである。
 皆が皆、ヤクザ者を怖がると思ったら、大間違いである。
 うちは、ヤクザ者がアウトローの世界で一番偉いとは、昔から考えていない。
 ヤクザのルールなど、うちには関係ない。
 うちにはうちのルールがある。
 ヤクザ者のルールに、わざわざ従うつもりなどサラサラもない(相手が正しい時は別です)。
 だから、思いっ切り突っ込んでやったのである。
 あの時は、相手を殺してやるつもりで、何度も突っ込んでやった。
 慌てて車から降りてきて、
「やめろ!!何もしないからやめろ!!」
なんて、うちには関係なかった。
 それなら最初から、しつこく追いかけて来なければ良いのである。
 反撃されて慌てるようなヤクザ者など、怖くもなんともない
 こうして、うちのマークIIはベコベコになり、動かなくなってしまった。
 車が動かなくなると、みんなで車を降りてバラバラに逃げた。
 後日、雅也から連絡が来て、事後処理をどうするつもりなのがを聞かれ、後日、警察と連絡を取ったが、この時も、なんのお咎めもなく済んだ。
 相手との話合いも、自分でするように言われ、連絡をした。
 言われた第一声が、
「うちに入らないか?」
であったが、入る気など全く無かったから(そんなダサいやつにつくバカもいない)断り、修理代も請求されたが、それもシカトしてやった。
 ヤクザ者など、うちには関係ない事である。
 先にちょっかいをかけてきて、何が修理代をよこせだ、このバカがと思ったが、そこは言わないでおいた。
 こういった件があったから、免許をみんなから取ったほうが良いと言われ、合宿に行って免許を取ったのである。
 免許を取ったあと、すぐにボーリングを一緒にやった人の所へ連絡をした。
 その人は、ホテトルをやっていて、運転手が欲しかったみたいで、うちを誘ってきたのである。
 給料が良かったので、運転手をやることにした。
 女の子をラブホテルや自宅に送り迎えする仕事で、かなり楽な仕事だった。
 早い時間は、電話の受付をやることもあった。
 マンションの一室を借りていて、そこに電話を4、5本ひいてやっていた。
 マンションは、女の子の待機場としても使っていたから、女の子と話をしながら電話が鳴るのを待ったりしていた。
 仕事自体はとても楽で、たまにピンクチラシをマンションやアパートのポストに配布したりもしていた。
 ある時、みね子という女の子と、マンションで電話の受付をしていたら、女の子に、シャブをやったことがあるか?もしあったらやりたいか?と聞かれ、その子に持っているのかと聞いたら、持っていると言って、目の前に出された。
 女の子にやるかと問われ、「やらない」というのは格好悪いと思い、「やる」と言ってしまった。
 小田原の保護会にいた時も、一回やってすぐ辞められたから、この時も大丈夫だと思っていた。
 女の子は、ポンプ(注射器のこと。他にも“Ꮲ”“道具”“カイキ”“ペン”“オレペン”等、色々な呼び方がある)を持っていたので、ポンプをもらって、静脈注射をした。
 まさかこの時は、うちがシャブにハマるなんて思ってもいなかった。
 少年時代のうちは、車等の窃盗が専門だったが、この日を境にシャブがメインで捕まるようになってしまう。
 シャブとはこの先長い、長いお付き合いが始まることになる。
 変な言い方をしてしまえば、“第二の恋人”みたいなもので、シャブについては少し詳しい説明を加えておくことにする。
 “多くの人は、覚醒剤は(シャブの事。以下シャブと記す)、アヘンなどの麻薬類と同じように、植物性だと思っているのではないだろうか。
 しかし、シャブは麻黄(まおう)という植物から抽出されたエフェドリンなどの化学物質を原料とした化合物である。
 白色若しくは無色透明の結晶で、無臭だが(日本に出回っているものには臭がするものもある。売人が色んなものを混ぜたりするからである)、味にはやや苦味がある。
 シャブには、他にも「スピード」「Ꮪ」「クリスタル」「品物」等、色々な呼び方がある。
 うちは、「白い恋」と呼んでいた。
 取引をするときは、「ネタ」とか「品物」と呼んでいた。
 シャブは、ある程度の知識と設備があれば比較的簡単に製造できてしまう。それゆえに、医療用で使われることがあるシャブの原料については、当局への届け出など、厳しく管理されている。
 第二次乱用期までは、国内にも密造工場が暴力団などによってつくられていたが、現在の第三次乱用期においては、そのほとんどが外国からの密輸入品である。
 暴力団など、大量に密売する組織は、密造所を自分でつくるより、外国から密輸したほうがリスクが少なく、かつ経済的だからである。
 ただ、国内でも少量なら簡単に作ることができるから、覚せい剤取締法では、製造されたシャブはもちろん、原材料である“エフェドリン”なども取締りの対象としている。
 法規制を受けている材料は、「エフェドリン」「クロロエフェドリ」「メチルエフェドリン」「クロロメチルエフェドリン」「ジメチルエフェドリン」などである。
 第三次乱用期にあたる現在、シャブの取締りについては、その低年齢化や裾野の拡がりを重く見て、各取締り機関は最重点事犯として取り組んでいるようである。
 シャブは、脳内にあるドーパミンという神経伝達物質の量を増やす働きをする。
 正確に言うと、脳内の神経細胞にドーパミンが取り込まれるのを防ぐ作用があるため、脳内のシナプスとシナプスの間が、通常ではあり得ない量のドーパミンでいっぱいになり、大脳は異常に覚醒し、本人にとっては興奮して頭が冴えわたったような感覚をおぼえる。
 また、シャブを継続して摂取することにより、食欲が減退していく。
 その作用が注目されて、シャブは一時「痩せ薬」と見なされ、それが乱用のきっかけとなった。
 最近、シャブが高校生の間に広がった原因の一つには、そうしたダイエット効果があると信じて、多くの女子高生がシャブに手を出したこともある。
 たしかに、第二次世界大戦以前には、アメリカでシャブが痩せ薬として市販されていたこともあった。
 しかし、シャブはあくまでも精神の一部を麻痺若しくは亢進させる作用をもち、摂取し続けることで、習慣性を植えつけ、乱用から依存に至る恐ろしい薬物である。
 この危険性を理解していないことが、女子高生の間にまでシャブの魔の手が伸びた第一の理由である。
 痩せる効果があるという錯覚が女子高生にアピールしたのと同じように、「元気になる」「眠くなくなる」「セックスでの快感が高まる」という効果もあることが、一般の人々が安易にシャブに手を出すきっかけとなっている。
 薬物依存の多くの解説書にも書かれているが、、たしかにシャブを摂取した人が味わう共通したしょきこうかとして、「集中力や注意力の増大」「興奮感が強く現れ、疲れを感じない」「性感の増大」などが指摘されている。
 ただし、シャブの作用は、摂取した量、シャブの質、摂取した個人の体調、体質などが影響するから、一概にはこうだとは言えない。
 ただ、シャブの使用が完全になくならない大きな理由は、それによって強い快感を伴う効果を体験し、「どうしても、もう一度やりたい」というやみがたい願望が湧いてくることと深く関係している。
 シャブが身体に与える作用は様々である。
 先程も述べたが、「心悸亢進」「気分の高揚」など、シャブにはそれを摂取した人の身体および精神を興奮や高揚に導く効果もある。
 しかし、それはあくまでも一過性のもので、そう長くは続かない。
 身体への副作用は、シャブをどのような方法で摂取したかによっても異なるが、大体10分から20分後くらいに、何らかの身体作用が現れる。
 シャブを摂取することによって、心拍数の増加、血圧の上昇、呼吸回数の増加などが起きる。
 しかしながら、一番大きい作用は、「心」つまり「脳」への影響。
 シャブは、脳の中枢神経系全体に作用するため、いしきしょうがい、妄想、幻覚、記憶力の低下が顕著になってくる。
 シャブを摂取すると、中枢神経系の細胞に作用して興奮し、「眠りたくなくなる」「何でもできそうな気がする」などの意欲・情動面が強化され、万能感に満ちあふれた心的状態になる。
 しかし、薬が切れたときには、逆に全く何もする気が起きない「虚脱状態」や「うつ状態」になってしまう。
 この「虚脱状態」に陥ると、意識は朦朧(もうろう)とし、問いかけられても何を聞かれているのかさっぱりわからなくなる。
 もちろん、会社勤めはいうにおよばず、もはや普通の生活さえできない状態(もっとも、シャブをやった時点でもはや普通じゃないけど)になってしまう。
 会社は辞めるしかない。それでも禁断症状は待ってくれない。
 もがき苦しみながら薬物を求め、一時の快楽を味わったあとに再び禁断症状の地獄に堕ちる......。
 シャブへの依存なくては生きていけない、そんなどうしようもない
悪環境に陥ってしまうのが、覚醒剤依存症という病気である。
 先に、シャブの作用とあらわれ方は、その摂取方法によって異なると述べたが、次に、その方法について解説を加えておく。
 経口による摂取
 口から服用する方法だが、シャブではあまりこの方法は使わない。
 シャブでこの方法を取る場合は、シャブを水やジュースなどの液体に溶かして摂取するという方法を取ることが多い。
 騙して飲ませるときによく使われる方法の一つである。
 粘膜からの吸収
 シャブの摂取方法としては、鼻腔吸引、つまり鼻の粘膜から吸収するのが一般的。
 比較的早く作用するから、現在の日本では、この本法が一番多く使われている。
 ただし、作用までの時間には個人差がある。
 シャブを微粉にしてそのまま吸引するのではなく、通称「あぶり」と呼ばれ、アルミホイルやガラス製のパイプにシャブを入れて、下から火で炙り、薬を蒸気にしてその煙を吸い込む方法。
 静脈注射
 シャブが一気に血管から心臓に達して全身にまわるから、効果が圧倒的に高い方法。
 しかも、作用が現れるまでの時間が早く、薬の使用量も少なくてすむ。
 しかし、あまりにもダイレクトな方法の為、あっという間に「中毒症状」を起こすから、最も危険な方法でもある。
 さて、いままで何度か「中毒」という言葉を使ってきたが、その内容についても少し詳しく記しておく。
 中毒とは、薬物を摂取している最中や、摂取直後に起こる身体的及び精神的障害のことをいう。
 覚醒剤中毒には、米国精神医学会が策定した「DSM-IV」による診断基準がある。
A アンフェタミン(シャブのこと)、またはその関連物質を最近使用していること。
B シャブなどを使用中もしくは使用直後に、著しく興奮したり、感情のコントロールができないくらい意識が朦朧(もうろう)とする。
 不安感や緊張感、人に対する警戒感などが起こる。
C シャブを使用中もしくは使用直後に、次のうち2つまたはそれ以上が出現すると、「覚醒剤中毒」の診断を下される。
 頻脈または徐脈、瞳孔拡大、血圧の上昇または下降、発汗または悪寒、吐き気または嘔吐、体重の減少、精神運動興奮または制止、筋力低下、呼吸抑制、胸痛または心拍不整、錯乱、痙攣発作
D 症状は一般身体疾患によるものではなく、他の精神疾患ではうまく説明できない。
 精神科医は以上のことを参考にして、患者が覚醒剤中毒であるかそうでないかを診断することになっている。快感の後にくるものは、地獄のような苦しみといえる。
 その苦しみこそが薬物の効果が切れた状態、すなわち離脱症状、俗にいう「禁断症状」である。
 苦しみは、再度シャブを摂取することで、ひとまず収まり、薬の作用がなくなると、また禁断症状があらわれて、苦しい思いをするといった風に、どうにも抜け出せない「悪循環」に陥ってしまう。
 シャブの離脱症状の中で、特徴的なのは、精神分裂病の症状と似たところがある。
 覚醒剤中毒患者が引き起こす犯罪は、このことと密接に関わっている。
 その典型的な症状として、誰かに危害を加えられるといった「被害妄想的」な不安が非常に強く出現することが挙げられる。
 その一つの表れが「幻聴」である。
 幻聴は、「誰かが自分の悪口を言っている」という被害妄想からはじまり、「自分を捕まえにやってくる」という強迫観念に進み、やがて「自分を殺しに来る」という確信にまで至る(シャブをやっている人間が必ずしも全員なるわけではない。全くならない人もいる。気の弱い人や、部屋に引きこもりがちの人、普段から人を信用してない人に多い)。
 覚醒剤中毒の一番恐ろしいのは、この「誰かに殺される」という被害妄想から始まり、「自分を捕まえにやってくる」という強迫観念に進み、やがて「自分を殺しに来る」という確信にまで至る(何度も言うが、シャブをやってる人間が必ずしも全員なるわけではない。全くならない人もいる)。
 覚醒剤中毒の一番恐ろしいのは、「誰かに殺される」という強迫観念が出現すること。
 もちろん本人にとっては「殺される」という思いは切実で、まさに現実の恐怖として迫ってくる。
 殺されるという著しい不安だけならば、当人が不安から逃れようとしたり、あるいは萎縮することで済むかもしれない。
 しかし、覚醒剤中毒がもたらす強迫観念の恐ろしさは、その不安が他人への攻撃へと用意に転化することだといえる。
 つまり、じっとしていたらただ殺されるのを待つだけだから、逆に自分から「相手を殺すしかない」と思い込んでしまうのである。
 例えば、新幹線に乗っていたとする。
 自分と反対側の席に座っている2人連れの男がチラチラこちらを見ながら、何やら内緒話をしているような気がする。
 そのうち2人の会話が聞こえてくる。
「あいつを殺せ」
 そんな幻聴が聞こえてきて、間違いなく反対側に座っている男たちは自分を殺そうとしていると確信する。だから、殺される前に相手をどうにかしなくてはならないと、真剣に考えるようになる。
 覚醒剤依存症の患者が、凶器を持って全く関係ない人を襲ったりする事件がしばしば起こるのは、覚醒剤の作用が切れて、上に例示したような精神病状態になってしまうからである(薬が切れたときには、逆に全く何もする気が起きない虚脱状態やうつ状態になると説明しているではないか!!幻聴や妄想は、薬の作用が切れて現れるわけではなく、薬が聞いているときからすでに現れる。この手の本を読むと、大体ごっちゃにして説明されているが、いくらシャブの怖さを知らしめる為とはいえ嘘はいけない!!元ポン中として一応記しておく)。
 ただ、実際的には、シャブを使用する人の中には、暴力団から抜けた人や多額の借金を背負って逃げている人も多いので、自分のおかれた現実的状況とも密接に関連した妄想が生まれることもある。
 なお、分裂病患者と覚醒剤依存者とは、どちらも「幻聴」が起こるということで似ているが、両者には明らかな違いがある。
 単純な言い方をすれば、分裂病は被害妄想と幻聴が主であり、覚醒剤の離脱症状では、幻聴だけでなく、「自分が包囲されて攻撃される」あるいは、「自分を殺しに誰かが来る」という妄想が主体となることが多い。
 また、両者の違いは、平常時の対人関係にも現れる。
 つまり、分裂病ではかなりの程度まで人格が崩れていて、まともな受け答えができなくなっており、話せばすぐわかるが、一方のシャブの場合は、症状が出ていないときには正常な人間関係は保てており、通常と変わりなく人と付き合える。
 これが両者の大きな差だと言える。
 シャブは最初使ったときはそれほど効果が現れないが、しだいに「陶酔感」が増していく。
 シャブに独特なこの陶酔感は、全身がスーッとする心地よい刺激と性感覚における絶頂感に似ているとされている。
 とくに、静脈注射で摂取すると、そのような陶酔感にすぐさま到達できる。
 この陶酔感を求めて、苦しい禁断症状(?)がありながらも、シャブから離れられない人が多い。
 しかしながら、静脈注射💉で摂取し続けていると、急速に「耐性」が生じる。
 現在主流になっている鼻からの吸引でも、注射💉ほど早くはないものの、耐性がしだいに生じてきて、初回と同じ量ではもはや快感を味わうことができなくなり、一回あたりに摂取する量が次第に増加していく。
 シャブの恐ろしいところは、まさにこの「耐性」にあると言える。
 つまり、陶酔感を求めるあまり、最初の摂取量では陶酔感を感じることができなくなるため、どんどん摂取するシャブの量が増えて、「乱用」レベルから「依存」レベルへと急速に移行する。
 その結果、先程も述べたように、シャブの作用が切れたときには、凶悪な犯罪を起こすといった最悪の事態を招いてしまう。
 乱用から依存に至るまでのシャブの摂取量がどれほどなのかは、摂取者の体質などによって大きな個人差がある為、一概には言えない
 毎日100mg以上摂取していても、禁断症状が出ない人もいれば、100mg以下でもすぐに症状が現れる人もいる。とはいえ、短い期間に(個人による)連続して摂取すると、そのうち殆どの人がシャブへの「依存」に陥ってしまう。
 致死量についても定説はない。
 多くの医学書には、「一回に100mg以上摂取したら死に至る」とされているが、一回に200mgくらい静脈注射💉で注入しても死なない人もいる。
 しかし、あくまで致死量がある以上、人によっては少量の摂取でも死に至ることはある。
 シャブは、本来薬が有効に作用する量が、0.001~0.005gなのに対して、中毒量(禁断症状が出る量)は、0.02~0.2g。
 致死量は個人差がありすぎるためになんとも言えない。
 また、こうした量による影響は、摂取方法によっても異なる。
 経口や吸入と皮下注射では薬物の吸収作用に大きな違いがあり、静脈注射💉や皮下注射に比べて、経口や吸入のほうが吸入率は悪くなる(静脈注射💉がなんと行っても一番!!それ以外のやり方は、ポンプ使用者から言わせると邪道の一言に尽きる)。”
 ちなみに、シャブをやる理由も、その人その人で全く違うのだが、うちがシャブをやる一番の理由は、寝たくないからである。
 これは、うちの考えだから、他の人にも当てはまるとは言えないが、うちがシャブをやる理論は、人間は、大体一日平均すると、8時間位の睡眠を取っているし、それが良いとされている。
 1日は24時間。
 これはもう決まっていることで、人間がこれをどうこうすることはできない。
 24時間のうち、8時間も睡眠に使うという事は、3分の1の時間を睡眠に使っていることになる。
 たとえば、60歳(計算がしやすいから60歳に設定した)まで生きたとすると、60年間のうちの3分の1といえば、20年である。
 トータルすると、人間は60年生きても、そのうち20年は寝ているのである。
 その20年がうちにはとても勿体なく思えてしまうのである。
 もし、睡眠時間を半分削る事ができたとしたら、同じ60年生きたとしても、10年は人より長く生きたのと同じことではなかろうか?
 普通の人は、60-20=40年となるが、60-10=50年つまり、60歳で死んだとしても、70歳まで生きたのと同じではないだろうか。
 これが、うちがシャブをやる理由の一つである。
「少年院や刑務所に入るほうが、よっぽど時間の無駄だろう!!」という声が聞こえてきそうだが(幻聴ではないので悪しからず)、ずばり、うちもそう思う......。
 うちのシャバでの1日はとても長い。
 普通の人は1日は24時間なのだろうが、うちの1日のサイクルは、104時間ある。
 そのうちの8時間は、しっかりと睡眠を取っている(もっというと、1ヶ月に一度は24時間寝る日がどこかで来る)。
 うちの時間についてこれる人は、今のところ1人もいない。
 体力だけは、自信がある。
 だから、捕まって、普通の人と同じ時間で行動をすると、とても一日が早いが、うち的には、寝る時間が多過ぎるのである。
 他にも、エッチの時の快感が何十倍も良いとかあるが、多くの理由は、寝る時間がもったいないというのが、うちがシャブをやる大きな、大きな理由である。
 よく、若いときに無理をすると、年を取ってからガタがくるというが、年を取れば遅かれ早かれガタが来る。
 動けるのは、やっぱり若いうちである。
 年を取れば、力もなくなり、どうせ衰えるのだから、動けるときに動きたい。
 こうしてうちは、シャバにどっぷりとハマってしまったのである。
 最初のうちは、みね子にシャバを買いに行ってもらっていたのだが、それが面倒になってくると、売人の連絡先を聞き、自分で買いに行くようになった。
 売人はWと言って、鶴見に事務所を構えている、O一家の人間である。
 最初は、シャバを買うだけだったのだが、それをきっかけに事務所に出入りするようになり、そのまま組員になった。
 最初は全く興味のない世界だったが、ある時、事務所に入れば、少しは男らしくなれるかもしれないと思い、入る事にしたのである。
 事務所に入ってからは、ホテトルの運転手を辞めた。
 事務所に入るようになってからは、川崎に住んでいた。
 事務所の若衆部屋である。
 当番は、順番でやるのだが、当番以外でも毎日事務所に顔を出さなきゃいけなかったのだが、うちはそれが一番嫌だった。
 事務所に入ることによって、自由が少なくなってしまった。
 何より自由を愛したうちにとって、事務所はストレスでしかなかった。
 事務所にいても、何もやることなどなく、ただくだらない話をしているだけで、お金にもならない。
 事務所に入ってすぐ、彫師を紹介してもらった。
 刺青は、中学時代からずっと入れたいと思っていたからである。
 一番最初に行ったときは、もの凄く痛く感じ、もう嫌だと思ったのだが、2回目以降は痛いのだが、慣れてしまい、結局全身に入れてしまった。とは言え、まだ完成はしていないのだが、早く完成させたい。
 刑務所に入ってばかりいるのでなかなか進まない(泣)。
 刑務所に彫師が来てくれたら、すぐ完成なんだけどな......なんていつも思ってしまう。
 うちが事務所に入ってやっていたシノギは、シャブの売人である。
 普段は事務所の近くのパチンコ店に行っていたのだが、そこだと事務所の人間も多く、落ち着いてパチンコを出来ないから、少し離れた所でやっていた。
 シマ内のパチンコ店だったからか、負けることは殆どなかった。
 シャブを打って、パチンコ店に行き、殆ど用事のないときは、パチンコをやっていた。
 最初の頃は、事務所の人間に怒られてばかりいたのだが、1日一回事務所に顔を出し、連絡を怠らないでしっかり取っていれば怒られることはなくなった。
 シャブをやりたての頃は、うちもテンパったりして、おかしなことを言ったり、車を運転していると、覆面に尾行されているような気がして、横浜中を走ったりしていたが、親父(組長の事)と兄貴分に鍛えられて、それ以後、シャブをやってもテンパる事はなくなった。
 シャブは、一緒にやる人がしっかりした人だと、自分も鍛えられるが、シャブをやっておかしくなるようなやつと一緒にやると、自分までおかしくなってしまうから、そこは気をつけたほうが良い。
 うちの場合は、兄貴分がやっても全く変わらない人で、しっかりした人だったから良かった。
 そうでなければ、多分うちも、やるとおかしくなったりしていたのだろうと思う。
 シャブで、一度だけ死にそうになったことがある。
 兄貴分の家に行った時、兄貴分が作ってくれたやつを打ったら量が多くて、ひっくり返り、呼吸困難になり、あの時は本当に死ぬと思った。
 兄貴分が、対処法をしっていて、的確な処置をしてくれたから良かったが、もし、的確な処置を出来ない人だったら、うちもヤバかったのではないかと思う。
 この時初めて、シャブも量を間違ったりすると危ないのだということを知った。
 それ以来、人に作ってもらうのはやめた。
 やり始めの頃は、幻聴も凄かったが、うちの場合は「殺す」などの声ではなく、自分が打っているパチンコ台のメロディーが一日中頭の中で流れたりしていたが、それもすぐ治まった。
 要するに、気の持ちようでおかしくなったりならなかったりするのではないかと思う。
 シャブは、アップ系の薬物で
 うちの場合はいつも楽しい気分でいられた。
 自分ではそんなに変わったとは思わないのだが、やるとテンションが高くなると知り合いには言われる。
 事務所に入るようになってから、あまり遠出ができなくなり、やることもガラッと変わった。
 事務所にいない時のうちは、パチンコ店か、ポーカー店のどちらかにいた。
 朝一から閉店までパチンコ店にいて、パチンコ店が閉店になると、ポーカーを朝までやり、パチンコ店へまた行く。
 毎日それの繰り返しであった。
 パチンコやポーカーをやってる時、シャブが欲しいという連絡が入れば、お客を近くまで呼び、シャブを捌いていた。
 シャブ以外にも、キリトリ(取立て)や、O一家は賭場も開いていたから、たまに見張り役をやることもあった。
 若衆部屋には、Wもいた。
 全部で三人で住んでいたが、みんなポン中である。
 うち以外の二人は毎日寝ていたが、うちはほとんど寝ることがなく、部屋にもほとんど帰らないので、よく皆から「今日も寝てないのか?」とよく言われた。
 たまに朝早く親父に合うとやっぱり「早く帰って寝ろ」と言われるのだが、それを守るということはない。
 うちは、警察が大嫌いである。
 ある時、兄貴分と用事で池袋に行った。
 用を済まし、夜遅くなってから帰ることになった。
 車に乗り、大通りにでると、パトカー🚓に停止を求められ、職務質問をされた。
 兄貴分に、外には出なくても良いと言われ、うちは免許だけ見せた。
 兄貴分はネタも持っていたし、二人とも体に入っている(シャブをやっているの意)。
 うちは、初めての職務質問だったから、もう捕まると思って諦めていた。
 お巡りはしつこく車から出てこいと言っていたが、兄貴分に出ていく必要はないから大丈夫だと言われ、警察対応は兄貴分がしていた。
 お巡りは応援を呼び、数がどんどん増える。
 兄貴分はどこかに電話をしていて、うちは初めてのことだし、どうして良いのか全くわからず、大月の時見たく振り切ってやろうかとも考えた。
  パトカー🚓に停止を求められた時も、兄貴分には止まらないで振り切るか聞いた。
 うちは逃げる自信があったからである。
 しかし、兄貴分にそんな事をしなくても大丈夫だと言われ、やらなかったのである。
 うちはどうなるんだと、不安になっていたら、2時間弱くらいすると、O一家の顧問弁護士と親父が車で来て、弁護士がお巡りと話をしてすんなり帰れることになった。
 一時はどうなることかと思っていたが、兄貴分に、職務質問は任意だから従う必要などないと教えられた。
 この日を境に、うちは法律の抜け穴や、法律の知識を独学でするようになった。
 平成7年9月21日、この日は朝から事務所にいた。
 昼過ぎに、用も住みパチンコでもやりに行こうと思い、事務所を出たら、刑事に囲まれた。
 逮捕状が出ていたのである。
 事務所の人間には、それとなくそんな話を聞いていて、体からシャブを抜いておくように言われていたのだが、全然体からは抜いていなかった。
 おまけに、シャブも持っていて、結局シャブの使用、所持、譲渡で起訴される事となった。
 神奈川警察署に捕まり、勾留されていたのだが、それまで毎日シャブをやっていたうちが、逮捕され急にシャブをやれなくなると、眠くて仕方なく、最初の20日間は、取調べとご飯の時以外は、ずっと寝っぱなしであった。
 さて、このとき捕まったのは、客からのチンコロである。
 客が捕まり、うちからシャブを買ったとペラペラと喋られたのである。
 なぜ捕まると、こうも皆さんは口が軽くなってしまうのかと思う。
 言ったからといって刑が減刑されるわけではない。
 この辺を勘違いしているバカがあまりにも多すぎる。
 刑事は当然、売人や共犯者がいればしつこく聞いてくる。
 その時に「反省しているなら全部話せ」とか「言わないと刑が重くなる」「庇っても良いことないぞ」と色々なことを言って落とそうとしてくるが、そんなことは絶対にない!!
 なぜそんなことも分からないのかと思う。 
 捕まると、何でもかんでもペラペラと話してしまうおバカさんのために記しておいてあげるからよ~く覚えておくように!!
 おバカさんには無理かもしれないが、取調べを受けるに当たっての心構えを教示してあげよう。
 まず、お馬鹿なお馬鹿なあなた達が、一番覚えておかなきゃならないのが“黙秘権”である。
 今から記すことを、しっかりと覚えておくように。「エッ!!覚える頭がないって!?そうだよな......それなら、メモしていつでもポケットに入れておきなさい!!」
 まず、憲法第38条1項には、「何人(なにびと)も自己に不利益な供述を強要されない」と定められており、黙秘権を保証されている(自己に不利益なとあるが、他人に不利益になることも同じ。むしろ、こっちの方が大事!!)。
 また、刑事訴訟法第198条2項には、「取調べに際しては、被疑者(逮捕された者のこと)に対し、あらかじめ、自己の意志に反して供述する必要がない旨を告げなければならない」と定められている。
 すなわち、刑事の取調べに対して(検事調べも同じ)、何を聞かれようが、何を言われようが、ずっと黙ったままでいることもできるのである。
 黙秘権とは、権力が無実の人から無理矢理にウソの自白をさせてきたことの反省から生まれたもので、近代国家である限り、黙秘権が認められることは、当然の権利なのである。
 刑事や検事に聞かれたことに対して、何も答えなくても、不利に扱うことは絶対にできないことなので、刑事や検事に騙されてはいけない。
 また、刑事や検事は、供述調書を作成するが、あいつらは汚い手を使い、微妙な言い回しを使い、自分達の良い内容の調書を作成しようとする。
 その為、こっちが話した内容をそのまま調書に書こうとしない。
 気を付けなくては、刑事や検事の思う壺である。
 うっかりしていると、罠にかかってしまうから、気を付けなくてはならない。
 後で裁判官や弁護士が調書を見たときに、自分が話した事なのか、刑事や検事のデマなのか、区別がつかなくなってしまう。
 日本では、取調べに弁護士の立会いが認められていない為、後から調べようがない。
 刑事や検事は平気で汚い手を使ってくるから、本当に気を付けなくてはいけない。
 供述調書は、事件の証拠になる。
 供述調書が裁判所で証拠として採用された場合は、供述調書で決まってしまう。
 裁判で、「供述調書の内容が違う」と言ってもすでに手遅れである。
 だから供述調書の作成の際には、十分に気をつけなくてはならない。 刑事訴訟法第198条5項には、「被疑者が調書に誤りのないことを申し立てたときは、これに署名押印(しょめいおういん)することを求めることができる。但し、これを拒絶した場合は、この限りではない」と明確に規定している。
 つまり、署名押印拒否権が認められているのである。
 供述調書が言い分通りに正しく書かれていたとしても、署名押印する義務はない。まして、刑事や検事が言ってもいないことや、認めていないのに、認めた内容になっていたり、微妙な言い回しで、どちらとも取れるような内容で供述調書を作成していると感じたら、署名押印などせず、拒否するべきである。
 供述調書に署名押印をしてしまうと、供述調書に書かれている内容をすべて真実として認めたことになってしまう。
 供述調書に署名押印をする時は、しっかりと内容を確認すること。
 少しニュアンスが違うというだけでも、裁判になると大きな違いになるから十分に気をつけなくてはならない。
 供述調書を作成した後、その内容を確認する。
 その方法は、刑事訴訟法の規定では取調官が供述調書を読み聞かせる方法でも構わないとしているが、必ず自分の目で供述調書を読むようにしたほうが良い。
 もし、自分で読むと言っているのにそれに応じないのであれば、供述調書への署名押印を拒否したほうが良い。
 最後に、刑事訴訟法第198条4項には、取調官がが供述調書を作成したあと「被疑者に閲覧(えつらん)させ又は読み聞かせて誤りがないかどうかを問い、被疑者が増減変更の申立てをしたときは、その供述を調書に記載しなければならない」と定めている。
 もし供述調書を読んで、間違いがあった場合は、供述調書の記載を直してもらわなくてはいけない。
 ただ、訂正が一部だけだと、訂正しなかった部分については納得したと思われてしまうから、訂正をする時は、よく考えて、少しでも疑問があれば供述調書の署名押印も拒否するべきである。
 以上、黙秘権、署名押印拒否権、増減変更申立権の3つは必ず覚えておくこと。
 法律は、刑事や検事だけの為にあるわけではないから、奴らの言いなりになるのだけは気をつけましょう。
 弁護士から言わせると、調書などはなからない方が戦いやすいのだそうである。
 ペラペラ喋っても、喋らなくても、共犯者の事を言おうが言うまいが、刑には全く影響しない。
 共犯者の事をペラペラと喋ったからと言って、刑が減刑されるといったこともない。
 よ~く覚えておいたほうが良い。
 平成7年10月12日に起訴をされ、同年11月24日の判決で、
「まず理由から述べます。
 第一 被告人は、平成7年7月19日ころ、横浜市港南区上大岡東1丁目7番19号付近路上に駐車中の自動車内において、大山幹晴こと催幹晴に対して、覚せい剤であるフェミルメチルアミノプロパン塩酸塩を含有(がんゆう)する結晶性粉末約0.5グラムを代金、うち5000円については受領済みでみだりに譲り渡した。
 第二 被告人は同年9月21日、横浜市鶴見区鶴見中央4丁目26番10号所在の朝銀神奈川信用組合鶴見支店駐車場において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン塩酸塩の結晶性粉末約0.675グラムをみだりに所持した。
 第三 被告人は、法廷の除外事由がないのに、同日ころ、横浜市鶴見区鶴見中央4丁目20番9号所在の清兆ビル2階共同便所において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパン約0.05グラムを含有する水溶液約0.2ミリリットルを自己の右足すね内側に注射した。
 よって、被告人を懲役1年6月に処する。未決勾留日数中15日を刑に算入する。横浜地方検察庁で保管中の覚せい剤四袋を没収する。被告人から5000円を追徴する」
 と言い渡された。
 この時は、すぐに上訴権放棄をして、11月30日に刑が確定し、この日から懲役となった。
 神奈川警察署で起訴されたあと、暫くしてから横浜拘置所の方へ移鑑された。
 未決の間は、独居部屋で生活をしていたのだが、刑が確定してアカ落ち(分からない人はググりましょう)してからは、何故か雑居部屋での生活となった。
 20歳から26歳までの成人は、少年刑務所に行くことになる。
 移動になるまでの間、横浜拘置所のアカ落ち房で仕事(作業)をしなくてはならないのだが、やっていた仕事は、色々なデパートや、お店の手提げ袋を作っていた。
 うちのいた部屋は6人部屋で、1人ペルー人がいた。
 マルチンという名前で、日本語もなかなか話せる陽気で楽しい人だった。
 たまに、余計なことを教えて、担当に怒られたりしていたが、懲役になることはなかった。
 例えば、点呼のときは「○○番」と言う所を、「○○番でごんす」と言わせたり、担当に呼ばれた時は大きな声で「オッス」と言わせたりしていた。
 1月に入り、お正月を迎えた後、川越少年刑務所の分類センターの方へ移送され、そこで色々な面接や調査を行い、盛岡少年刑務所、松本少年刑務所、水戸少年刑務所(現水戸刑務所)にさらに分かれることになる。
 川越少年刑務所は、少年院にも一回も入ったことのない人間が行くところだから、うちのような人間は絶対に川越少年刑務所に入ることはない。
 久里浜少年院に入っていて、事務所に入っているヤクザ者は、ほとんどが水戸少年刑務所に行く。
 川越少年刑務所には、3ヶ月ちょっといたと思う。
 あそこの刑務所は、少年院の延長みたいな所で、生意気なクソガキみたいなのが多いのが特徴で、イジメとかがひどい刑務所らしいが、本当かどうかはわからない。
 古い人間が、新入りが入ってきたりすると、シャリあげをしたり、くだらないイジメをしたりするらしい。
 うちは、川越少年刑務所の掃夫(そうふ)といきなり揉めたが、川越少年刑務所に入っているクソガキなどとは年季(悪の年季)が違う。
 その日のうちに黙らせ、文句など一言も言わせなかった。
 川越少年刑務所にいるようなヒヨッコなど、ちょっと脅せばみんな黙ってしまう程度の人間ばかりで、相手にもならない。
 しょせん、小悪党にちょっと毛が生えたくらいの子供の集まりで、我々の相手ではない。
 分類センターで、面接、調査、IQテスト等が終わると移送されるのを待ち、うちは水戸少年刑務所に移送された。
 いよいよ本格的な、刑務所生活の始まりである。
 まず、水戸少年刑務所に行くと、新入工場に入り、これから始まる刑務所生活の準備が始まる。
 少年院と一緒で、基本動作をやらされたり、個人個人で色々と面接をしたりする。
 水戸少年刑務所は、今はどうなのか知らないが、昔は8割近くが不良で(ヤクザ者)、カタギの人間は2割程度しかいなかった。
 その為、しょっちゅうあちらこちらで喧嘩の絶えることがない刑務所であった。
 不良はまず、組を離脱するかどうかを聞かれるのだが、うちは離脱する気はないと伝えた。
 離脱するかしないかは、仮釈放がもらえるかどうかというところで変わってくるのだが、うちは仮釈放をもらうためだけでわざわざ離脱などしたくないと思い、そのときはする気などないと断った。
 しかし、後々に仲良くなった人に(先輩)、そんなの流行らないし、少しでも早く出所することを考えたほうが良いと言われ、離脱書を書いて提出している。
 水戸少年刑務所に移送された初日、うちは一日だけ雑居部屋で過ごしたが、次の日担当に、独居部屋に移すと言われた。
 理由はあれである。
 そのお陰で、うちの場合かなり得をしている。
 普通は、大体雑居部屋に入れられて、順番で古い人から独居部屋に移るのだが、うちの場合は“同性愛者”(この当時はそういう言われ方をしていた)と刑務所では見られるから(うち的には全然違うのだが、刑務所ではそういう見方をされる。うちからしたら偏見である。本当は女の子として生まれてくるところが、何かの間違いで男として生まれてしまったのである!!ホモではない(怒)うちの中では違うのである)、いきなり独居部屋に入れるのである。
 その為、余計なトラブルを起こしたりする確率が減るし、何よりも大きいのが、雑居部屋だと、夜自分の好きなテレビばかり見る事ができないが、独居部屋は100%自分が見たいテレビを自由に見れるし、面倒な人間関係もないからとても楽である。
 そういった意味では、いきなり初日から独居部屋に入れるというのは、ある意味VIP待遇なのかもしれない。
 刑務所の中での独居部屋は、競争率がとても高く、中には入れない人も結構いるなか、うちはそれを飛び越えて独居部屋に入れる為、皆にどんな手を使ったら独居部屋に入れるのかと質問されることが多かったが、そこは企業秘密(?)で絶対に教えられない。
 新入教育の最後の日に、配役審査会というのがあり、10人くらいの幹部クラスの担当(主任、統括、首席、部長)の前で色々なことを聞かれたりして、どこの工場に配役されるかが決まる。
 刑務所作業には、一般工場と経理工場がある。
 一般工場というのは、シャバから仕事をもらってやる工場で、様々な仕事がある。
 簡単な軽作業から、金属工場のような重労働まであり、刑務所によっても色々と違う。
 経理工場というのは、内掃、営繕、掃夫、図書、洗濯、炊場といった仕事をやる工場で、一般工場に比べると待遇も担当から見られる目も全く違う。
 うちが配役された所は、内掃工場で、本来うちのように看板を背負っていると行けない工場なのだが、ここでもうちの場合は、特別な扱いとなり、経理工場に配役されたのである。
 この話は、懲役同士の話だから本当かどうかは定かではないのだが(もしかすると、水戸少年刑務所ではという意味だったのかもしれない)、内掃工場はバカ工場と呼ばれていて、知能の低い人間が殆どで、その中に2、3人まともな人間がいるような工場だと言われている。
 一般工場にもやはり、そういった人間ばかりが集まっている工場もある。
 うちが看板もちなのに、内掃工場に配役された理由は、あの事が原因である。
 これは担当から直接聞いた話だから、嘘ではないと思う。
 ちなみに、府中刑務所には、「第二内掃」という工場があるらしく、そこの工場は全員が性同一性障害の人が集まった工場らしい。
 本来、経理工場などに行けるはずのなかったうちが、内掃工場に行くことができたのは、まさに性同一性障害のお陰である。
 うちが行った内掃工場は、本当にビックリするようなバカしかいない工場だった。
 行ってすぐに言われた言葉が、
「お前、ロケットパンチ知ってるか?」
である。
 最初、何を言われているか全くわからなかった。
 内掃工場が、バカ工場だと知ったのはこの後だったから、最初はなんてところに来てしまったのかと、只々ビックリしたが、1人だけしっかりとした人がいて、その人が唯一うちが本当に尊敬している人である。
 この人とは、シャバに出てからもずっと付き合いが続いている。
 付き合いでいったら、この人が一番長い。
 雅くんと言って、うちの先輩であり、大親友である。
 雅君には、いつも色々なことで助けてもらったりした。
 内掃工場で、まともな話ができるのは、雅君だけであった。
 しかし、作業的には、皆を使って指示さえしていれば、言ったことはやるから、雅君とうちはいつも楽することができた。
 内掃工場でやる仕事は、舎房の清掃、各工場のゴミ回収、入浴場の清掃などで、春から秋にかけては毎日除草作業を行う。
 雅君とうちは、芝刈り機を使って芝を刈り、他の人間はそれを集めていく。
 機械を使えるのは、勿論まともな人間で、4人くらいしかいなかった。
 うちは、水戸少年刑務所にいる間に交通違反の罰金をずっと払わないで逃げていたら、平成8年6月30日から同年7月5日の間、労役を務める羽目になってしまった。
 その為、その分満期出所日が延びてしまった。
 しかも、7月に入ってすぐ、警視庁の碑文谷警察がわざわざ水戸少年刑務所まで来て、うちはシャブの譲り渡しの件で色々と聞かれた。
 この件は、久里浜少年院で知り合った、西村信一郎と言う奴に、シャブを売った件で、西村は碑文谷警察で捕まり、うちから買ったと供述(チンコロ)したらしい。
 しかも、1年弱くらい前の話で、こんなくだらない内容でわざわざ来るとは思わなかったし、なぜもっと早くに来なかったのかと思うと、嫌がらせ以外の何でもないと思った。
 しかし、シャブの譲り渡しなど、一対一で取引をしていれば、やったやってないの水掛け論で起訴などされない。 
 起訴できるような内容ではない(もっとも、罪を認めてしまえば、起訴もされるし、刑もまた伸びてしまうから、バカ出ない限りは否認する。今は、厳しくなったから逮捕者が二人以上になると認定でやられるらしいが、うちはやられた事はない)。
 うちも、本当は西村にシャブを渡しているが、そんな事をわざわざ「ハイ、渡しました」などと認めるはずがない。
 西村に、シャブなど渡していないと供述し、刑事は帰っていった。
 この時は、調書も作成したから、これで終わりなのかと思っていたら、後日逮捕されてしまった。
 8月に入ってすぐ、担当からそのことを告げられて、まず東京拘置所に移送された。
 この頃の東京拘置所は今の東京拘置所と違い、とても汚く、5cm以上のゴキブリが沢山いるところだった。
 ゴキブリの大嫌いなうちは、生きた心地がしなかった。
 夜になると、カサコソ音が聞こえたり、見かける度に、西村を殺してやりたいと思った。
 平成8年8月19日に、東京拘置所に刑事が来て、碑文谷警察署で逮捕された。
 留置所は、目黒警察署の留置所に預けられる事になった。
 刑事は、水戸少年刑務所に来た時は低姿勢だったくせに、警察署では物凄く生意気な野郎であった。
 口の聞き方も横暴で、うちが一番嫌いなタイプである。
 何回か取調べをしたある時、刑事に、
「お前の取調べはもうやらない!!本当の事を言いたくなったら連絡をしてこい」
と言われ、目黒警察署に戻った。
 この頃は警察署でもタバコを吸うことができ、取調べ中も好きなだけタバコを吸うことができた。
 取調べに出ないと、好きなだけタバコを吸うことができない。
 留置所では、運動の時に1日2本しかタバコを吸えない。
 うちは刑務所に戻れば、またタバコが吸えなくなるから、最後にもう一度タバコを吸いたいと思い、どうするか考えた。
 そして......。
 うちは留置所の担当に、
「本当の事を言いたくなったから、調べに来てほしいと碑文谷警察に連絡をしてくれ」
と頼んだ。
 次の日、碑文谷警察の刑事が、バカ見たくニコニコした顔でお昼ちょっと前に来た。
 車で碑文谷警察に行く道中も、
「そうか、本当の事を言いたくなったか」
と、1人でバカみたくにやけていた。
 警察署に着くと刑事は、
「調べは午後からやるから店屋物でも取るか?暫くうまいものも食えなくなるだろうから、カツ丼を取ってやるからな」
と言われた。
 こうもコロっと変わるものなのかと思うくらい態度が変わった刑事である。
 カツ丼が来ると今度は、
「これも飲んでいいぞ」
と言って、コーラまでくれた。
 うちはカツ丼を食べ、コーラを飲みながら、1時までゆっくりとタバコを吸って過ごした。
 1時になると、刑事がニコニコニコニコしながら取調べ室に入ってきて、
「西村にシャブを渡したことを認めるんだな?」
と言われ、うちは、
「はっ?シャブなんて渡してないけど」
と言ってやった......🤣🤣🤣
 すると刑事はボールペンを机に投げつけ、顔を真っ赤にして怒り出した🤬
 普通に考えて、そんなことを認めると本気で思うほうがどうかしているのだ。
 バカな刑事だと思いながら、一言
「カツ丼とコーラご馳走様」
とだけ言って、留置所に戻った。
 これ位ふてぶてしくならなくては駄目ですよ🤣🤣🤣何でもかんでもペラペラ喋ってしまうようではね!!
 今は昔みたく、店屋物などを取ってくれなくなった。
 裁判で、「店屋物を取ってくれたから罪を認めたが、本当はやっていない」と言いだすバカが多かったかららしい。
 この話が本当だとしたら、情けのない話だと思う。
 ただ単に意地汚いだけで、プライドというものが全く感じられない。
 そんな奴は、足を洗って真面目になるか、それこそ乞食でもしていれば良いのである。
 刑事は、あくまでも敵である。
 利用することがあっても、協力をしたり、情報を与えたりしてはいけないのである。
 そこをよ~く肝に銘じて、悪さをするならしてほしいものである。
 まぁ、ヤクザ者でもできる奴が少ないから、所詮無理か......。
 ヤクザもうちからしたら、“役立たず”“クズ”“雑魚”なんだけどね!!
 それぞれの頭文字を取って“ヤクザ”です。
 こうしてうちは、この件では不起訴処分となったが、うちの予定通りであり、当然の結果であった。
 不起訴処分になると、再びゴキブリ館ならぬ東京拘置所に戻され、そこから水戸少年刑務所に戻った。
 刑務所も年中行事がある。
 水戸少年刑務所では、卓球大会、ソフトボール大会、ソフトドッジボール大会、カラオケ大会、運動会などがあったが、他の刑務所もそんな変わらない。
 水戸少年刑務所の生活は、毎日が楽しくて、アッという間に終わってしまった。
 水戸少年刑務所にいた時は、気になる存在の人はどこにも現れなかった。
 平成10年5月15日が満期出所日だったが、仮釈をもらい、平成10年3月5日に水戸少年刑務所を仮釈放で出所した。
 たったの2ヶ月しか仮釈をもらえず、離脱書など提出しなければ良かったと思った。
 水戸少年刑務所を出所した後の帰住地は、東京の荒川区にある保護会に行った。
 3月5日に仮釈放で出所したのは、うち一人だけだった。
 仮釈放式書を貰ったあと、最寄りの駅まで車で送ってもらい、電車でまず東京保護観察所に向かい、保護観察官と面接をした後、保護会の場所を聞いて保護会に向かった。
 保護会は、町屋駅から歩いて10分、15分くらいの所にあった。
 うちは捕まったのが9月で、その時の服を着ていたから凄く寒く感じ、コンビニがある度にコンビニに立ち寄った。
 保護会に着くと、保護会の先生から色々な説明やルールを聞き、その日は近くで買い物をしたり、銭湯が近くにあったからそこでゆっくりと過ごした。
 刑務所を出所してから1週間はのんびりとしていたのだが、保護会の先生に早く仕事を見つけるようにと言われた。
 うちは、荒川区には満期になるまでの間しかいる気はなかったし、仕事など最初からやる気がなかったから、探すふりだけして事務所に顔を出したりしていたのだが、兄貴分も捕まって刑務所に入っており、他の事務所の人間も皆パクられていて、親父しかいないような状態であった。
 その為、顔を出してもやることがなく、取り敢えず満期をむかえるまでは顔を出すのをやめることにした。
 事務所に顔を出すのをやめると、余計に行くところが無くなり、毎日フラフラしていたら保護観察所から呼び出しを受けてしまい、東京保護観察所へ行き、保護観察官と仕事の事で色々と面接をした。
 仕事の事を色々と言われ、うちは保護観察官に、夜の仕事なら働き口があるといった。
 なぜかというと、保護会では基本夜の仕事は(水商売)、お酒を飲んではいけない為、認めてもらえないのである。
 保護観察官に、夜の仕事ならすぐに働ける場所はあるが、昼間の仕事はなかなか見つからないと説明をした。
 実際には、面接など1件も行っていないのだから見つかるわけがないのだが、そうやってのらりくらりやり過ごし、満期までやり過ごすつもりでいた。
 すると、保護観察官に、
「本当なら水商売系の仕事は許可しないのだが、特別に許可するからすぐに仕事をやるように」
と言われてしまったのである。
 まさか許可されるとは思っていなかったうちは、仕方なく仕事をやることにした......。
 ただ、仕事は許可されたが1つだけ条件を付けられた。
 それは、他の人には仕事内容を言わないという約束である。
 勿論、他の人になど、そんなことを言うつもりも、働いている場所を教えるつもりも一切なかった。というか、絶対に教えたくもなかった。
 なぜなら、うちがやっていた仕事は、“ウリ専ボーイ”だったからである......。
 町谷は上野が近い。
 上野には、男性専用のウリ専バーがある事は、その道の人には有名な話である。
 新宿二丁目だけではない。
 上野や浅草にもそういったお店はある。
 その筋の人ならみんな知っている。
 だからうちも、上野で働くことにしたのである......。
 うちは不良をやれば少しは男らしくなるだろうと思って、事務所にも入ったのだが、全然意味がなかったのである。
 うちの心の問題は、そんな単純なものではなかったのである。
 うちにとって、事務所に入った意味は全くなかった。
 悪さなど、事務所に入らなくてもいくらでもやれる。
 むしろ、事務所に所属などしていない方が自由に動ける。
 事務所に所属していると、窃盗や詐欺などは、ヤクザ者のやるようなことではないなどと言われてしまう。
 うちからしたら、犯罪集団のくせに何を訳の分からないことを言っているのだと思ってしまう。
 そのくせ最近のヤクザ者は、窃盗やオレオレ詐欺なんかをやっている野郎もいる。
 格好つけたことを言っている割には、ヤクザではご法度とされていることを平気でやっている。
 所詮、ヤクザもお金。こんなものでしかないのである。
 最初から「うちはヤクザじゃなくてギャングだから何でもありだよ」と言っているところのほうが、全然格好良いとうちは思う。
 ちなみにうちは、一匹狼の方が性に合っている。
 うちは組織に属して、かたにはまるタイプではない。
 うちが不良になった理由は、“男らしくなる”ことが目的であって、他に理由など全く無かった。
 しかし、不良をやったからと言って、簡単に男らしくなるのかといえばそうではなかったのである......。
 保護観察官と保護会の先生には水商売と言ったが、実際にはお酒も飲むが、目的は売春である。
 しかし、そんなことを言えるはずがないので、水商売と言ったのである。
 ちなみに......売春は、女がやれば違法で逮捕されてしまうが、男の場合は、売春行為として罰せられることはない。
 その為、逮捕されないのである。
 うちはすぐその日に、働く所をスポーツ紙の求人情報で見つけ、面接をして、その日から働き始めた。
 その店は、京成上野駅から歩いて20分くらいの所にあった。
 夕方6時から朝5時までやっているお店で、カウンター式のテーブルになっており、お客さんが来るとお酒やカラオケもあるので、お酒を飲みながら歌を歌ったりすることも出来た。
 そして、お客さんから指名されるとお店を出て、近場のホテルに行く。
 ホテルでお客さんと過ごしたら、またお店に戻る。
 たまに泊まりで指名されるとそのまま朝までお客さんと過ごしたり、お客さんの自宅に直行することもあった。
 うちは童顔だったからか、お客さんから人気が集まり、まさかのNo.1になってしまう。
 好きな人から好かれるならとても嬉しいことなのだが、少し複雑な気分であった。
 お店で働いている男の子は6、7人いた。
 その中のNo.1とは言っても......。
 風俗で働いている女の子の気持ちが、こういう仕事をしてみて分かったような気がする。
 うちは固定のお客さんが何人かでき、うち一人は必ず毎週土曜日になると、泊まりで指名してくれる人がいた。
 その為、毎週土曜日は直行直帰で九十九里浜の方まで行っていた。
 こういった仕事をやっていたので、あまり保護会にいる人とは深い付き合いをしないようにしていた。
 一度保護会の人に、
「今度飲みに行くから場所教えて」
と言われたときは少し焦ったが(教えてなくても漏れてたんだなと)、なんとか誤魔化した。
 こうして満期の5月15日までの約二ヶ月は、上野で仕事をして過ごした。
 お店に1人、うちのタイプの人が働いていた。
 いつもその人と話をしたりしていたが、その人に自分の気持ちを伝えることはなかった。
 後になってその事を後悔したが、もしあの時、自分の気持ちを伝えていたらどうなっていたのだろうかと思うことはあったが、お店の従業員同士の恋愛は禁じられていたから仕方がない......。
 満期の5月15日を向かえたあと、うちは埼玉県の大井町というところに住んだ。
 これは保護会で知り合った太田という人が、占有物件が大井町にあり、そこに住んでいてほしいと言われ、大井町に行くことにしたのである。
 そこは一軒家で、保護会で知り合った佐藤という人と一緒に行くことにした。
 太田は、住吉会のᏦ一家の人で、うちが鶴見の事務所の人間であると話をしたら、それは関係ないから大丈夫だと言ってくれた。
 こうしてうちは、5月15日を過ぎるとすぐに大井町に行き、占有物件の一軒家で生活を始めた。
 それと同時に、Ꮶ一家の事務所にも顔を出したりした。
 本来、ヤクザの世界だと、二股をかけるような事をしてはいけないのだが、太田が大丈夫だと言うし、うち的にも、不良のルールなど関係ないと思っていたから、気にもしなかった。 保護会にいた時も、山口組のI会の事務所にも行ったりしたこともある。
 この時は、I会のやつに付き合いのつもりでうちは行ったのに、皆に紹介されて、I会の人間はうちがI会に入ったと思い違いをして、あとで揉めてしまうのだが、その話はもうちょっと後のことになる。
 うちは保護会にいた時から、シャブを隠れてたまにやっていたが、大井町に住むようになってからは、また毎日シャブをやるようになった。
 1日104時間の生活に戻ったのである。
 うちにとっては、24時間ではとてもじゃないが短すぎる。
 Ꮶ一家の事務所に顔を出したりしていたある時、ある人から
「知合いがテキヤをやっているのだが、人が足りなくて困っているから手伝ってもらえないか」
と言われ、うちは部屋も世話をしてもらっていたから、手伝うことにした。 ただ1つだけ、手伝うにあたって条件は付けてもらった。
 その条件というのは、シャブをやっても何も言わないという条件である。
 それさえ許可してもらえるなら手伝いをすると話した。
 相手の人は新宿に住んでいる人で、飯島会というテキヤ組織の人である。
 О会の理事長をしている人で、とてもうちのことを可愛がってくれた。
 お祭りがあると必ず呼ばれて、商売を手伝った。
 うちがやっていたのは、五平餅の売り子である。
 仕事はずっと理事長が側でつきっきりで、商売のノウハウを教えてくれ、毎回完売していた。
 他にも、ソースせんべい、じゃがバターもやっていた。
 テキヤの仕事は凄く楽しかった。
 理事長と知り合ったのは6月で、お祭りは色々なところであった。
 その都度その都度行くところが違うので、飽きっぽいうちにとっては、テキヤはむいていたのではないかと思う。
 しかしそんなある時、大阪のI会がうちのところへ連絡をしてきて、グダグダと訳のわからないことを言ってきた。
 うちはそのことをᏦ一家の人間に話すと、
「今度連絡が来たら、来るなら来いと言ってやれ」
と言うので、そう言ってやって電話切った。
 これが原因で、Ꮶ一家とI会は抗争になる1歩手前までなったのだが、最後の最後でᏦ一家に裏切られた。
 I会は「あいつはうちの人間だからうちに返せ」と言ってきたのである。
 そして、抗争をしたくないᏦ一家はうちを引き渡すことを合意したのである。
 うちからしたら、まさかの裏切りである。
 I会にしても、Ꮶ一家にしてもうちからしたらクソである。
 うちはᏦ一家の事務所に呼ばれて、事務所に顔を出したら、元々知り合った太田はバックレていなくなってしまい、うちはI会の人間に引き渡されてしまったのである。
 I会の人間が2人Ꮶ一家の事務所に来て、引き渡されたのである。
 Ꮶ一家の事務所からタクシーに乗り、ちょっと走るとI会の車が一台止まっていた。
 その車で大阪に行くと言われたのだが、うちは冷静にどうするかを考え、取りあえずは一旦、自分の体制を整えることを優先することにした。
 タクシーを降りると、腕を1人に掴まれたままタクシーを降りて、1人は支払いをしていた。
 普通、人をさらうのにタクシーなどを使うバカはいない。
 そのお陰で、うちはうまく逃げることができたから良かったのだが、もしうちが人をさらう側だったら、タクシーを使うようなヘマは絶対にしない。
 うちはタクシーを降りると掴まれていた腕を振り払い、その場はとりあえず走って逃げ出すことに成功した。
 危機的立場に立たされたうちは、滅法強いのである。
 ちんけなヤクザ者など目ではない
 I会のバカなヤクザ者は、追いかけてくる事もできないのである。
 こうしてうちは、一旦その場は逃げて、後日体制を整えてから、I会とは話をうまい具合に取り付けた。
 この件のせいで、テキヤの手伝いも一時できなくなってしまった。
 そしてうちは鶴見に戻り、事務所に寝泊まりしていた。
 鶴見に戻ると、1人刑務所から戻ってきた人間がいる。Wである。
 Wは、うちが事務所に入ってすぐにパクられてしまったので、本当に会うのは久しぶりだった。
 Wと飲みにいこうという話になり、うちは川崎の飲み屋に行くことにした。
 そこはうちがパクられる前に、事務所の人間に連れて行ってもらったところである。
 「アスカ」という飲み屋である。
 その飲み屋で知り合った女の子と、うちは付き合い始めた。
 美樹ちゃんである。 
 初めてあった日にお互いの連絡先を交換し、事務所に戻るとすぐ連絡を取った。
 そして次の日に、一緒にボーリングをやりに行き、その後、美樹ちゃん住んでいる部屋に遊びに行った。
 美樹ちゃんは、川崎の藤崎という所に1人で住んでおり、スーパーの正社員としても毎日働いていたとても働き者の女の子だった。
 うちが初めて、唯一女の子で本気で惚れ込んだ子である。
 美樹ちゃんはいつも家に着くと、紅茶を作ってくれた。
 その紅茶を飲みながら、2人で話をするのが大好きだった。
 付き合ってすぐ美樹ちゃんはうちに、
「事務所なんかで寝泊まりなんかしないで、うちに来な」
と言ってくれて、それからは美樹ちゃんの部屋で一緒に暮らした。
 うちは、美樹ちゃんには子供の頃の生活などについて全て話しをしている。
 なぜ、そんな話をしたのか分からないが、あの話以外は全て美樹ちゃんに話した。
 美樹ちゃんは、毎日朝早く起きると、夕方5時までスーパーで働き、アスカでも週に数回仕事をしていた。
 うちは、美樹ちゃんが仕事に行っている間はいつも事務所に行って時間を潰していた。
 しかし、付き合い始めて1ヶ月くらいすると美樹ちゃんからは、仕事をやってほしいと言われるようになる。
 うちは探すフリだけして、仕事をしようとはなかなかしなかった。
 ある時、美樹ちゃんの仕事が休みだった日、美樹ちゃんのお母さんに会いに行くことになった。
 うちはガラの悪い服しか持っておらず、美樹ちゃんが買ってきてくれたカジュアルな服に着替えたのだが、カジュアル系の服はほとんど着たことがなく、
「スーツとかはおしゃれに着こなすのにセンスがない」
と笑われ、教わりながら着替えなおした。
 美樹ちゃんのお母さんは、戸塚区(横浜市)に住んでいて、たしか初めて行ったときは、電車で行ったと思う。
 美樹ちゃんのお母さんは、戸塚区にある精神病院で看護婦をしている人だった。
 始めて家に行き、うちはものすごく緊張し、足を落ち着き無く動かしていたら、いきなり美樹ちゃんのお母さんに太ももを「ピシャリ」と叩かれ、
「貧乏ゆすりをしない」
と注意をされてしまい、物凄く恥ずかしかった。
 しかし、とても優しいお母さんで、うちならいつ来ても良いからねと言ってもらい、とても嬉しかった。
 美樹ちゃんのお母さんには、車関係の仕事をしていると嘘をついたのだが、このときの嘘だけは生まれて初めて嫌だなと思った。
 美樹ちゃんは、いつもうちに「普通の生活を味わわせてあげたい」と言ってくれていた。
 凄く有難いことだったが、それでもうちは仕事をする気にはなれないでいた。
 うちがお金を稼ぐと、
「このお金は使わないで貯金しときな」
と言って、うちのお金はいつも預かってくれていたので、お金はいつも美樹ちゃんが全部出してくれていた。
 うちは寝るのが嫌いだから、寝ないでいつも起きていると、美樹ちゃんが心配するので、なるべく心配させないようにするため寝るようにしていた。
 そのうち、美樹ちゃんが一緒に寝てくれれば、うちも毎日ちゃんと寝るようになった。
 寝る時は、いつも美樹ちゃんの胸に顔を埋めて寝ていた。
 だから美樹ちゃんには、
「普通は逆だよね」
といつも言われていた......。
 今思えば、この頃からうちは、美樹ちゃんに凄く依存するようになったと思う。
 美樹ちゃんの胸に顔を埋めて寝るのが大好きだったし、胸に顔を埋めて寝るととても心が落ち着くのである。
 寝る時は、美樹ちゃんの胸に顔を埋めなくては、絶対に寝なかった。
 喧嘩(怒らせてという方があっている)をして、寝るときに背中を向けられるだけで、もう寝れなくなり、一晩中起きている。
 不安で不安で、全く寝れなくなってしまう。
 美樹ちゃんがイライラしたりしていると、敏感にそれを察知し、うちも不安になってしまうのである。
 まるで子供が、親の不安を察知して不安になるように......。
 いつしかうちは、美樹ちゃんなしの生活なんて考えられなくなっていたのである。
 美樹ちゃんと出会ってすぐ、クリスマスを迎えた。
 この日も美樹ちゃんは、朝から仕事をしに行っていた。
 うちは美樹ちゃんの仕事が終わるまで事務所にいようと思い、事務所で時間を潰していたのだが、全然落ち着く事ができなくて家に戻った。
 しかし、家にいても全く落ち着かなくて、美樹ちゃんが働いているスーパーまで行き、スーパーの周りを車でうろうろうろうろして美樹ちゃんの仕事が終わるのを待っていた。
 うちはたまにスーパーに行き、ガラス越しに美樹ちゃんの働く姿を眺めていた。
 美樹ちゃんの働いている姿を眺めているのが凄く好きだった。
 5時になると、仕事を終えた美樹ちゃんを車に乗せ、2人で部屋に帰った。
 美樹ちゃんは、クリスマスケーキやチキンも用意してくれていた。
 お互いプレゼント交換をして、部屋でゆっくりと過ごした。
 生まれて初めて彼女と迎えたクリスマスで、うちは凄く楽しく過ごす事ができ、美樹ちゃんに感謝をした。
 美樹ちゃんは、いつも一生懸命うちの為に尽してくれた。
 まず一番に、うちのことを考えて何でもやってくれた。
  それにうちは甘えきっていた。
 美樹ちゃんは凄く大変だったのではないかと思う。
 この時のことを振り返ると、何も美樹ちゃんにしてあげられなかったことを情けなく思う。
 美樹ちゃんには苦労ばかりかけていた。
 美樹ちゃんは、12月31日まで仕事をしていた。
 うちはお正月にむけて事務所が忙しくなり、あっちに行ったり、こっちに行ったりしていた。
 この頃のうちのシノギは、盗難カードを使って買い物をしたり、盗難カードを売ったりしていた。
 盗難カードとは、JCBカードやVISAカードの事で、うちはそのカードでガソリンや石油を買ったりしていた。
 一ヶ所盗難カードだと分かっていて、カードを切ってくれるスタンドがあって、そこで買い物なども全部していた。
 盗難カードが手に入ると、まずそこのスタンドに持っていけば、使えるかどうかまで調べてくれるので、いつもそこに持っていっていた。
 カードさえ手に入れば、そこのスタンドに毎日行っていた。
 もう1つのシノギはシャブだったが、美樹ちゃんにシャブをやっていることを知られたくなかったから、美樹ちゃんと一緒に住むようになってからは、自分でシャブを使う(シャブを打つ)のは辞めて、売るだけにしていた。
 シャブを美樹ちゃんの家には持ち込みたくなかったから、内緒で事務所に隠していた。
 お客や事務所の人間にも住んでいるところは絶対に教えたくなかったから、誰にも藤崎に住んでいることは言わなかったし、美樹ちゃんと一緒に過ごす時間帯には、もう出かけたくないので、お客からの連絡が入っても全て断り、事務所から連絡が来ても、近場にはいないと嘘をつき、行かないようにしていた。
 たまに事務所の人間に、彼女が出来てから変わったと言われるようになったが、そんなの当たり前である。
 美樹ちゃんと事務所、うちが大事なのは、美樹ちゃんである。
 12月31日は、事務所もかなりバタバタしていた。
 うちも事務所に行って本来なら手伝わないといけないところだったのだが、途中でそれどころではなくなり、家に帰ってしまった。
 この日は5時に美樹ちゃんが仕事を終えたらスーパーに美樹ちゃんを迎えに行き、美樹ちゃんとお母さんのところに行くことになっていた。
 事務所の事よりも、そっちのことが気になり、落ち着いて事務所などにいることができなくなり、一旦家に帰るとすぐまた家を出て、スーパーの周りをうろうろうろうろしながら美樹ちゃんの仕事が終わるまで待っていた。
 5時になると仕事を終えた美樹ちゃんがお店から出てきて、そのまま一緒にお母さんのところへ向かった。
 この日は美樹ちゃんの、兄弟姉妹とそれぞれの恋人が揃い、みんなでお正月を迎えた。
  凄く新鮮で、凄く楽しい時間を過ごすことができ、美樹ちゃんには心から感謝した。
 美樹ちゃんはうちに、家族の良さ、普通の生活の良さを一生懸命経験させてくれようとしてくれていたのである。
 美樹ちゃんと出合ってから、美樹ちゃんはうちに色々なことを経験させてくれて、色々なことを教えてくれた。
 いつもいつも美樹ちゃんは、一番にうちのことを考えてくれていた。
 そんな美樹ちゃんに、うちは甘えてばかりで、美樹ちゃんには何もしてあげられなかった。
 美樹ちゃんはいつもうちに、
「普通が一番なんだよ」
と言っていた。
 そんな美樹ちゃんに、うちはどんどん惹かれていき、いつか美樹ちゃんと結婚をしたいと思うようになった。
 美樹ちゃんに精神的に依存しきっていた。
 そのため、美樹ちゃんには苦労ばかり掛けてしまっていた。
 前に、うちの精神年齢は4、5歳以下かもしれないと述べた。
 それが美樹ちゃんと出合ったことで、全面にでてしまったのである......。 
 うちは美樹ちゃんに甘えることで、幼少期の頃の愛情を取り戻そうとしてしまったのではないかと、今考えると思う......。
 その頃は、そのことに気づくことができなかった。
 あの頃そのことに気づくことができていたら、もう少し違ったのかな......と、後悔の気持ちで心がいっぱいになる。
 もっと早く気づくことができていたら、美樹ちゃんに苦労ばかりかけることなく、もっと美樹ちゃんの気持ちを考えることができたのかもしれない......。
 子供の頃の影響は(特に心の問題や家庭環境)、一生ついて回るのだなと思う。
 それを考えると、もしかしたらうちは、美樹ちゃんと付き合っていたときに、その事に気付いたとしても、どうすることもできなかったかもしれない。
 今となっては分からないが、それでももう少し違っていたのではないかと思う。
 お正月は美樹ちゃんの家で過ごしたり、川崎大師に2人でお参りに行ったりして過ごした。
 うちは、美樹ちゃんと一緒にいられるだけで幸せだった。
 24時間いつでも一緒にいたいと思ったのは、女の子では美樹ちゃんが初めてである。
 いつだったか美樹ちゃんに、
「美樹ちゃんが働いているスーパーで俺も仕事をしようかな?」
といったことがある。
 うち的にはかなり本気でそう思ったのだが、美樹ちゃんに、
「24時間一緒にいたら疲れる」
と言われ、かなり凹んだ。
 とにかく、どこへ行くにも、何をやるにも、美樹ちゃんとは常に一緒にいたかったのである。
 美樹ちゃんがいない時間帯は、例えそれが仕事でいないと分かっていても、不安で落ち着かなかったし、うちが用事で出かけていて家に帰った時、いるはずの美樹ちゃんがたまたま買い物でいなかっただけでパニクっていたし、出先から美樹ちゃんに電話をして、呼び出しているのに出なかったり(出れない状態)、電源が切れていようものなら大騒ぎである。
 何度も電話をしたり、用事など放ったらかしにして家に帰っていた。
  美樹ちゃんと付き合ってから、この後うちも仕事をするのだが、休憩の度にいつも連絡をしていたある日、美樹ちゃんの携帯の電源が切れていたことがあった。
 何回も何回も連絡をしても、電源が入っていなくて、何かあったんじゃないかと不安になったうちは、仕事を途中で放り投げて家に帰ったことがある。
 家に帰ると、美樹ちゃんの携帯はあるのだが、美樹ちゃんがいなくてあちこち探したことがある。
 結局、美樹ちゃんが携帯を忘れて出かけていただけだったのだが、うちにとっては大事件なのである。
 美樹ちゃんにそこまで心配することはないといつも言われるのだが、自分でも十分分かっているのである。
 分かってはいるのだが、それでも「ひょっとしたら、今回は何か起きたんじゃないか」と、心配で心配で落ち着かなくなってしまうのである。
 こうなると、いても立ってもいられず駄目なのである。
 美樹ちゃんの事になると、前が見えなくなってしまい、冷静でいられなくなる。
 お正月が終わったあと、姐さんに、兄貴分の面会に行くから、犬の面倒を見ていてほしいと言われ、3日間くらい姐さんの部屋に泊まり、犬の面倒を見ていた。
 姐さんが、「彼女も一緒に連れてきても良い」と言ってくれたので、美樹ちゃんと一緒に姐さんの住んでいたマンションで3日間過ごした。
 初日、うちは朝から姐さんの家に行き、犬の面倒を見ていた。
 美樹ちゃんは仕事だったので、夕方姐さんのところへ来てくれた。
 夜になり、そろそろ寝ようかということになり、部屋の電気を消して横になった。
 すると美樹ちゃんが、「なんか変な音がする」と言う。
うちは外で風が吹いていたから、その音じゃないかと言った。
 暫くすると、また同じことを美樹ちゃんが言うのだが、うちには聞こえない。
 気のせいではないかと言っていたら、
「ほら、今も聞こえるよ」
と言うのである......。
 そんなはずはないと言おうとしたら、消したはずの電気がいきなりパッとついて、うちは叫びながら美樹ちゃんの胸に顔を埋めて暫く動くことができなかった。
 美樹ちゃんは落ち着いていたが、うちは怖くて仕方がなかった。
 犬を見ると(犬は2匹いた)、2匹とも同じところを見つめているのだが、そこは天井で何もないはずであった。
 少なくとも、うちには何も見えなかった......。
 この日以来、姐さんの家に1人でいることができなくなった。
 うちは、心霊現象など信じていないのだが、この時だけは本当にビビった。
 悪い冗談はよしてほしい。
 この事を姐さんが帰ってきてから話したが、姐さんには一言、
「あんたテンパってたんじゃないの?」
と言われたが、この頃シャブはやっていなかったし、うちはシャブをやってもテンパったりしない。
 本当に起きた、嘘のような出来事なのである。
 初日からこんなことがあったので、2日目、3日目は1人で部屋にいるのがすごく嫌で、美樹ちゃんが仕事を終えて帰ってくるまで、犬を連れてなるべく部屋にはいないようにした。
 お正月が終わってすぐ、うちは知り合いに仕事を紹介してもらい、バイトを始めた。
 美樹ちゃんに、仕事をいつまでもやらないでいたら本気で怒られてしまい、嫌われたくなかったから仕事を探すことにしたのである。
 しかし、やりたい仕事が何も浮かばず、神奈川警察署に捕まっていたときに知り合った守谷さんに仕事を紹介してもらった。
 守谷さんは、大地主の息子で、探偵の仕事をしている人だった。
 この人が、大船の方で三菱電機の下請けの会社を紹介してくれた。
 姐さんの家で犬の面倒を見ていた3日目、うちは電車で大船に向かい、守谷さんを待った。
 昼過ぎに守谷さんと合流して、お昼を食べたあと会社を紹介してもらい、面接をした。
 面接と言っても、守谷さんが話を通してくれていたので、顔を見せて、「よろしくお願いします」と言うだけで終わった。
 こうしてうちは、守谷さんに仕事を紹介してもらい、大船で仕事をやることになった。
 仕事が決まると、美樹ちゃんはもの凄く喜んでくれて、その夜は美樹ちゃんが就職祝いをしてくれた。
 仕事の内容は簡単なもので、うちでもすぐに覚えることができた。
 仕事に行き始めてから1週間が経ったとき、美樹ちゃんに、
「これでもう、仕事のプロだね。1週間経ったらもうその仕事のプロなんだよ」
と言われ、とても照れくさかったが、凄く嬉しかった。
 仕事をやり始めると、お金の管理は全て美樹ちゃんが計算してやってくれていた。
 お金の管理や生活は、美樹ちゃんに任せておけば間違いなかった。
 美樹ちゃんは、うちにとってはパーフェクトに何でもこなしてくれる子であった。
 うちは今までまともな生活などしたことがなかったので、普通の人ならできて当たり前のことが当たり前にやれない。その為、美樹ちゃんは1つ1つうちに教えてくれていたので、本当に大変だったと思う。
 それでも文句一つ言わず、一生懸命うちのために尽してくれた。
 美樹ちゃんに、どうしてこんなにうちのためにやってくれるのかを聞いたことがある。
 美樹ちゃんは、
「普通の生活の良さを教えてあげたい」
「親に対する恨みを少しでも和らげさせたい」
と、いつも言ってくれていた。
 美樹ちゃんには頭が上がらない。
 感謝しても感謝しきれないくらい感謝をしている。
 美樹ちゃんのことを思い出すと、うちがもっとしっかりとできていたら......と後悔の念しかない。
 もっと違う形で、もっとしっかりとした状態で出逢いたかった......。
 うちが美樹ちゃんにしたことと言えば、苦労をかけて、苦しめたことだけである。
 本当に情けない。
 仕事も、毎日は行っていない。
 寝坊をすれば仕事を休み、気分が乗らないとまた休みの繰り返しだった。
 その度に美樹ちゃんに怒られていた。
 一度あまりにもそれをやり過ぎて、美樹ちゃんを本気で怒らせてしまい、1日口を利いてもらえなかったことがあった。
 1日口を利いてもらえなかったことは初めてで、美樹ちゃんはその日仕事が休みだったのだが、朝から出かけていなくなってしまった。
 この頃、美樹ちゃんの職場の女の子が居候していた。
 その女の子にも、うちが悪いと言われてしまった。
 うちは、一人でその日は部屋にいた。
 美樹ちゃんに謝ろうと思い、美樹ちゃんが帰ってくるのをずっと待っていた。
 しかし、お昼になっても、夕方になっても美樹ちゃんは帰ってきてくれず、うちはパニクってしまった......。
 どうしたら良いのか分からなくなってしまい、このまま美樹ちゃんが帰ってきてくれないのではないかと、気が気ではなかった。
 時間が経てば経つほど不安になり、その重圧に耐えられなくなり、寂しさで心が破裂する思いであった。
 夜になっても美樹ちゃんは帰ってこなくて、うちはもう駄目だと思い、持っていたハルシオン(睡眠薬)を全部飲んでしまった。
 なぜあんな行動を取ってしまったのか、自分でも分からない。
 しかし、ハルシオンを大量に飲んでしまった直後に美樹ちゃんが帰ってきた。
 美樹ちゃんが帰ってきて、顔を見た瞬間に我に返り、ハルシオンを慌てて吐き出そうと思って立ち上がろうとしたところまでは覚えている......。
 朝、美樹ちゃんに起こされ、思いっきりビンタされ、怒られた。
 本当にうちはバカな子だと思う。
 余計美樹ちゃんの事を悲しませてしまっただけなのである。
 後から美樹ちゃんの職場の女の子から聞いた話だが、美樹ちゃんはうちのことを泣きながらベッドに運んでくれたらしい。
 本当に悪いことをしてしまった。
 仕事に行き始めるようになって、生活がガラッと変わった。
 朝は6時半に起きるようになった。
 毎朝6時半に起きると美樹ちゃんはそれより早く起きて、食事を作ってくれていた。
 美樹ちゃんも仕事があるのに、いつも朝は食事を作ってくれていた。
 美樹ちゃん自身は、いつも朝は食べないで仕事に行っていたから、わざわざうちのためだけに朝早くから起きて食事を作ってくれていたのである。
 うちは食事を食べると、着替えをして家を出る。
 仕事は5時までで、終わると寄り道もしないで家にまっすぐ帰っていた。
 さぼることも多かったが、少しづつ行くようになった。
 美樹ちゃんはお弁当箱を買ってくれ、お弁当も作ってくれた。
 毎日のお弁当は、楽しみの一つであった。
 うちは美樹ちゃんの職場の女の子がいつまで一緒にいるのか分からず、それが嫌で守谷さんに相談して家を借りた。
 今思うと、このときに家を借りなければ良かったと思う。
 もし家を借りることがなかったら、後に事件を起こしてパクられる事も、パクられて美樹ちゃんと別れることになる事もなかったのではないかと思う。
 家を借りれば、美樹ちゃんも一緒にすぐ来てくれると思っていたうちは、美樹ちゃんに相談もしないで部屋を借りてしまった。
 守谷さんは瀬谷(横浜市)に住んでいる大地主の息子で、守谷さんの家の隣の一軒家を借りた。
 家を借りると守谷さんは、うちにワゴン車も一台くれた。
 瀬谷区は横浜市の端にある町で、川崎と比べると何もない田舎である。
 昼間は車も多く走っているのだが、夜になると車はほとんど走っていないところである。
 瀬谷に引っ越すと、美樹ちゃんも来てくれると思っていたうちは、すぐには無理だと言われてしまい、部屋など焦って借りなければよかったと後悔した。
 うちは、美樹ちゃんと離れるのは嫌だった。
 ずっと美樹ちゃんの側を離れたくなかったのである。
 せっかく仕事も少しづつやれるようになり、休む(サボる)回数も減り、これからという時で、うちが大きく変わろうとしていた一番大事な時期だった。
 それを、焦って部屋を借りたことで全て台無しにしてしまったのである。
 うちは、美樹ちゃんが側にいてくれて、1から10まで教えてくれてたから生活を出来ていたのであって、1人では当たり前の事も当たり前にやれないのである。
 子供の頃から、あまりにも自由気ままに自分のしたいことだけをしていたから、普通の生活というものを自分でする事が出来ないのである。
 身体は(見た目は)大きな成人男性なのだが、頭の中(心の中)はまるっきりの子供だから、1人では何もできない困ったちゃんなのである。
 1人にさせておくと、自分の好きなことしかやらないのである。
 うちってもしかして、知的発達障害(精神遅滞)なのかな......。
 普通の人がしている普通の生活を、うちは普通にやれない。
 普通の人なら考えなくても分かるようなことが分からないし、出来ない。
 それが美樹ちゃんと出会い、美樹ちゃんが1つ1つ教えてくれて、その都度、その都度諭してくれてたから、少しづつ出来ていた。
 だから、美樹ちゃんは本当に大変だったと思う。
 それまで誰の言うことも聞かなかったうちが、唯一言うことを聞いていたのは、美樹ちゃんだけである。
 それも側にいてくれないと駄目なのだ。
 その都度、その都度何回も同じことを言われて、やっと覚えるといった調子で、気を抜くとまたすぐ忘れてしまう。
 だから情けない話なのだが、うちは美樹ちゃんが常に側にいてくれて、指示をしてくれないと、何も1人ではやれなかった(普通の生活は)。
 瀬谷に1人で生活をするようになったうちは、最初のうちは仕事もしっかり行っていたのだが、また休むようになってしまった。
 川崎で美樹ちゃんと一緒に生活をしていた時は、家に帰れば美樹ちゃんが家にいてくれてたから良かったが、瀬谷は帰っても誰もいない。
 たまに帰ると、美樹ちゃんが内緒で来てくれていて、食事を作って待っていてくれることもあった。
 そんなときはすごく嬉しかった。
 仕事が終わる度に、今日は来てくれてるかな?と思いながらワクワクしながら家に帰った。
 美樹ちゃんは、うちが瀬谷に家を借りるちょっと前にスーパーを辞めて、キャバクラで仕事をするようになった。
 この時も、本当はうち的にはキャバクラなんかで働いてほしくなかったのだが、その事を美樹ちゃんに伝えることができなかった。
 後になってからそのことを言ったら、もっと早く働く前に言ってほしかったと言われた......。
 美樹ちゃんが川崎を離れなかったのは、仕事の件も理由の一つであった。
 焦って部屋を借りなければよかったのである。
 せっかく少しづつではあったが、仕事も行くようになり、普通の生活を始めつつあったのに、美樹ちゃんと離れてしまったことで心のバランスが崩れ、仕事に行かなくなってしまう。
 しかも、美樹ちゃんと離れてしまったことによって、睡眠も取らなくなり、更に寂しさを紛らすためにせっかく辞めていたシャブもまたやり始めてしまったのである。
 家にもあまり帰らなくなり、友達とフラフラ出歩いたりするようになり、あっという間に美樹ちゃんと出会う前の生活に戻ってしまった。
 本当は川崎に、美樹ちゃんの側に戻りたかった。
 美樹ちゃんの側を一時も離れたくなかった。
 いつもうちの側にいてもらいたかった......。
 しっかりしないといけないと、頭では分かっているのに、何をやれば良いのか分からなくなってしまい、只々美樹ちゃんの側に戻りたかった。
 情けない話なのだが、美樹ちゃんと離れてしまったら、何一つ出来ていたことが出来なくなった。
 うちは毎日毎日美樹ちゃんに1つ1つ言ってもらい、美樹ちゃんが側にいてくれないと何一つまともなことはできないのである。
 瀬谷に行ったのは、本当に失敗であった。
 仕事に行かないから収入がなくなり、結局シャブで生計を立てるようになってしまい、全てが狂ってしまった。
 美樹ちゃんが瀬谷に来てくれると仕事も行くのだが、いないと仕事に行かないでフラフラしているだけだった。
 守谷さんにも心配されて、色々と言ってもらってたのだが、聞く耳を持たなかった。
 それでも守谷さんの仕事には興味があった為、探偵の仕事を手伝うようになった。
 尾行をしたり、役所などに行ったり、守谷さんに探偵のノウハウを教えてもらった。
 元々、スパイや潜入調査のような事は好きだったから、探偵の仕事は凄く楽しくやれた。
 実際に守谷さんに任されて、何件かは仕事を1人でやっている。
 素行調査、浮気調査は特に好きだった。
 自分でも、「トラブル・ハンター」という名前で看板を作り仕事をやった。
 うちの場合は、○○探偵としなかったのは、探偵だと仕事が調査に絞られてしまうから、トラブル・ハンターとしてトラブル、揉め事を全般に渡って扱っていた。
 イジメ、債権回収、素行調査、浮気調査、痴漢、ストーカー、家庭内暴力、DV等のトラブル全てを扱っていた。
 しかし、仕事などすぐに入るはずもなく、守谷さんの仕事を手伝っていた。
 美樹ちゃんからは、
「自分で仕事を探すのも大事だから、自分で仕事を探してごらん」
と言われていたので、もう一度今度は自分で仕事を手伝いながら探そうと思った。
 美樹ちゃんは、うちが1人でアップアップしそうになるといつもタイミングよく家に来てくれた。
 その辺は、とても上手くやってくれる子だった。
 そして、何かあればいつも必ず駆け付けてくれた。
 美樹ちゃんの声を聞きたいうちは、美樹ちゃんに連絡を取るのだが、出てくれないときもある。
 そうするとうちは不安で不安でたまらなくなり、何度も電話をし、結果的には怒られてしまうのだが、怒られると分かっていても不安のほうが強くなり、いつも電話をしてしまう。
 とにかく1人でいると寂しくて、寂しくて、美樹ちゃんの気を引くような事をわざとやったりしていた。
 本当に子供と変わらないことばかりしていた。
 1人で家にいると、美樹ちゃんが1人でどこかに行ってしまうのではないか、もう美樹ちゃんに会えないのではないかと不安で不安で落ち着くことが出来なかった。
 うちは美樹ちゃんにすべてを頼りきっていたから、1人では何もすることが出来なかった。
 1日中美樹ちゃんのことばかり考えていた。
 うちは雅也の時もそうだったが、好きな人、好きな子が出来ると、いつも24時間一緒にいたい。
 しかも、二人の間に第三者を入れたくないのである。
 美樹ちゃんと川崎に住んでいたときは、美樹ちゃんの職場の女の子が来て、一緒に生活をするようになり、それが嫌で嫌で仕方なく、瀬谷に部屋を借りてしまい、離れ離れになり、結果せっかく変わりつつあったのに最終的には破滅してしまった。
 もしあのとき美樹ちゃんの職場の女の子が来るようなことがなかったら、うちは瀬谷に部屋など借りなかった。
 もしあの時、瀬谷に部屋を借りて、瀬谷などに行きさえしなかったら、もう少し違っていたのではないか......。
 瀬谷に、焦って部屋を借りた事をもの凄く後悔している。
 何でうちが変わりつつあった時に、美樹ちゃんの職場の女の子が来たのか、悔やまれて仕方ない。
 美樹ちゃんと出会えた事で、初めて普通の生活ってこんなに楽しいのかと知り、仕事も最初の頃はさぼったりする事もあったが、それもなくなり少しづつ行くようになった。
 当たり前の事が少しづつではあったが、当たり前にやれるようになっていた。
 しかし、それは美樹ちゃんがいつも側にいてくれて、1つ1つうちに言ってくれていたから出来ていたのであり、決して1人では出来ないことだった。
 美樹ちゃんが言ってくれるから素直にやれたのであって、他の人だったら絶対にやらなかったと思う。
 それくらい、うちが美樹ちゃんを心の支えにしていたからである。
 何度も記すが、美樹ちゃんは本当に大変だったと思う。
 美樹ちゃんに、うちがあまりにも美樹ちゃんに甘えてばかりいるから、「私は甘えられない」と言われたことがある。
 美樹ちゃんには悪いなとは思いつつも、べったり甘えきっていた。
 それでも、うちはうちで必死になって変わろうとしていたのである。
 それが全て、瀬谷なんかに行ってしまい台無しになってしまった。
 この事は、本当に後悔しても後悔しきれないくらい後悔している。
 前に、“うちは自由気ままにやりたいから、1人の時間も欲しいし、何よりも束縛されるのは大嫌いなのである。うちはうちで1人になりたい時もあるし、突然1人でどこかに行きたくなることもある。そんな時に一緒に着いてきてほしくないのである。寂しがり屋なんだけど、ほっといてほしいのである。”と述べたが、美樹ちゃんに限って言えば、この考えが当てはまらない。
 それだけ美樹ちゃんはうちにとっては大きな大きな存在であり、美樹ちゃんを頼りきっていた。
 守谷さんにある時「大人のおもちゃ」の販売をやりたいから、卸問屋を調べてほしいと言われ調べてあげた。
 一緒に行き、色々な物を守谷さんは購入した。
 うちもふざけて、エアドールというものを手に入れて、部屋に膨らませて置いておいたら、出かけている時に美樹ちゃんが来て怒らせてしまった。
 そんなつもりではなかったのだが、別れるとまで言われてしまった。
 うちは必死に謝り、誤解はなんとか溶けたのだが、美樹ちゃんを凄く傷付けてしまった。
 このことを境に、美樹ちゃんがあまり瀬谷に来てくれなくなった。
 今思えば、あれが美樹ちゃんに与えられた試練だったのかもしれない。
 暫くうちの様子を見るから、瀬谷には来ないと言われてしまった。
 うちも変わるから、それまでは連絡をしないから待っていてほしいと言った。
 美樹ちゃんに、「半年くらいで連絡してきても駄目だよ」と言われ、目の前が真っ暗になった。
 守谷さんにも、
「頑張って自分を変えて、美樹ちゃんの所に行けるようにしな。美樹ちゃんはそれまで必ず待っていてくれるから」
と言われた。
 最初の2、3日はそれでも美樹ちゃんは来てくれるだろうと思っていた。
 しかし、4日過ぎても、5日過ぎても連絡がなく、うちは不安で不安で何もやる気になれず、このまま美樹ちゃんとは二度と会えないのではないかと気が気ではなかった。
 美樹ちゃんに、うちの方からは連絡をしないと言ったのに、それも出来ず美樹ちゃんに連絡をしてしまった。
 しかし、美樹ちゃんは出てくれなかった。
 それまて、美樹ちゃんを頼りきって、美樹ちゃんに依存していたうちは、只々パニクり、どうして良いか分からず部屋で泣いたりして過ごした。
 情けない話だが、本当の美樹ちゃんの気持ちを冷静に考えることが出来ないで、本当に見捨てられたと思ってしまったのである。
 守谷さんや周りの人がそれは違うと言ってくれれば言ってくれるほど疑心暗鬼になり、誰の言うことも信用できないでいた。
 1人で闇の世界にどっぷりと浸かってしまい、1人でもがいていた。
 只々美樹ちゃんに会いたかった。
 美樹ちゃんの顔を見たかった。
 美樹ちゃんの声を聞きたかった......。
 うちは1人では全く何もやれなかった。
 やれない自分に焦り、何とかしなくてはと更に焦り、悪い方、悪い方にしか物事を考えられなかった。
  苦しくて苦しくて、何度か死んでしまおうかと思ったこともあった。
 そんなうちを心配して、守谷さんは色々とアドバイスをしてくれたり、手を差し伸べてくれたが、美樹ちゃんの事でイッパイイッパイになっていたうちは、只々子供のように泣くことしかできなかった。
 自分がこんなに脆いとは思ってもいなかった。
 美樹ちゃんを失いたくない、別れたくないという気持ちが先行してしまい、そのくせどうしたら良いのか全く分からなかった。
 本当に辛くて辛くて、生きているのも嫌だった。
 どうしてうちは何も出来ないのか、どうしてうちはこんななのか、自分を呪った。
 自分の情けなさをとても憎らしく思った。
 悪いことは続くもので、こんな状態の時に事務所と揉めてしまった。
 うちもいけないのだが、親父(組長)には、仕事をするからと言って事務所に行っていなかったのに、仕事に行かないでシャブを捌いていたことがバレてしまったのである。
 しかも、瀬谷の家もバレてしまい、毎日のように事務所の人間や親父が来て、嫌がらせをされた。
 暴力にまで発展し、警察も介入する騒ぎになった。
 守谷さんは地主の息子ということもあり、地元警察には顔もきく人だった。
 守谷さんから連絡を受けた美樹ちゃんも駆けつけてくれて、3人で瀬谷警察署の暴力担当の刑事を交えて話をした。
 この時刑事に、
「ヤクザなんか辞めて彼女を大事にしないと、とても心配してるぞ」
と言われた。
 最初は1人で取調べ室に入れられていた。
 まず刑事は、美樹ちゃんと守谷さんから事情を聞いていた。
 その後に刑事がうちの所に来て、美樹ちゃんの気持ちを教えてくれたのである。
 刑事と話をしていたら、美樹ちゃんが取調べ室に入ってきた。
 刑事も1人入ってきて、紙を渡された。
 そして刑事にもう一度どうするか聞かれ、うちはペンを借りた。
 刑事に渡された紙は、離脱書だった。
 こうしてうちは正式に、O一家から抜けてカタギになった。
 この時ある刑事に「小便も置いていけ」と言われたが、他の刑事が、「カタギになるんだからそういうことを言うな」と言ってくれた。
 もし、この時に小便を取られていたら、シャブが出たのは間違いない。
 こうしてうちは部屋に戻り、美樹ちゃんはまた川崎に戻ってしまった。
 刑事には、O一家と話がつくまでは、おとなしく家にいるように言われた。
 この日を境に再びシャブも辞めた。
 しかし、うちはまた1人になり、美樹ちゃんに会いたくて会いたくて仕方がなかった。
 2日位は頑張れた(?)が、また不安で不安で仕方なくなり、美樹ちゃんにまた連絡をしてしまった......。
 この時は、美樹ちゃんは携帯に出てくれた。
 美樹ちゃんの声を聞いたら、色々な感情が一気にこみ上げてしまい、泣くことしか出来なかった。
 美樹ちゃんに、どうしたのか、何があったのかを聞かれても、何も答えられず、只々泣くことしかできず、美樹ちゃんに、
「今から行くから、そこにいるんだよ」
と言われた。
 美樹ちゃんが来てくれたあとも、ずっとうちは美樹ちゃんの胸の中で泣くばかりだった。
 まるでその姿は、小さな子供がお母さんを求めて泣くように、いつまでも泣いていた......。
 いつしかうちは、泣きながら美樹ちゃんの胸の中で寝てしまった。
 美樹ちゃんは、うちがパンパンになるといつも側にいて見守ってくれていたのである。
 しかし、あの頃は冷静に考えることができず、見捨てられるのではないかとそればかり考えていた。
 本当はうち以上に、美樹ちゃんも辛い思いをしていたのではないかと思う。
 うちはあまりにも、美樹ちゃんに依存しすぎていたのである。
 美樹ちゃんを、美樹ちゃんの心を独占していたかったのである。
 うちはものすごく弱かった。
 しかも、美樹ちゃんに言われたことをそのままストレートに聞いてしまっていたから、本当の美樹ちゃんの気持ちや考えに気づくことができなかったのである。
 守谷さんにもいつも言われていたが、その言葉を信用できなかったのである。
 しかし冷静に考えてみると、美樹ちゃんはいつも見守ってくれていたし、うちが寂しさに耐えられなくなると、いつも絶妙なタイミングで側にいてくれていた。
 それをうちは全く見えていなかったのである。
 寂しさや不安の方が先になってしまい、全く見えていなかったのである
 本当にうちは小さな小さな子供と何一つ変わらなかった。
 昼過ぎまで、美樹ちゃんの胸の中で寝ていた。
 起きると美樹ちゃんに、
「お母さんに話しておいたから、暫く戸塚でゆっくりしていな」
と言われ、2人で戸塚に向かった。
 美樹ちゃんは、すぐ川崎に帰ってしまったが、夜仕事が終わると戸塚に来てくれた。
 こうしてうちは、自分の心が落ち着くまで、美樹ちゃんのお母さんのところで過ごした。
 暫くの間は、夜仕事が終わると美樹ちゃんが来てくれて、戸塚で過ごした。
 美樹ちゃんの側を離れたくなかったうちは、美樹ちゃんが来てくれるとずっと美樹ちゃんの側から離れなかった。
 落ち着くと再び瀬谷に戻り、守谷さんの仕事を手伝ったりして過ごしつつ、仕事も探し始めた。
 ある時、美樹ちゃんに、
「もし私と別れたらどうするの?」
と聞かれ、また不良に戻ると言ったことがある。
 すると美樹ちゃんに、
「それじゃ私がヤクザ辞めさせた意味がないじゃん」
と言われた。
 うちは美樹ちゃんとの約束を何一つ守れなかったので、ヤクザだけは二度とやらないと心に誓い、今日までやってきた。
 その間、何度か事務所への誘いがあったが、全て断っている。
 せっかく美樹ちゃんが苦労してヤクザを辞めさせてくれたのだから、これだけは死ぬまで守ろうと思っている。
 瀬谷に戻ると、やっぱりすぐに精神不安定になり、うちの頭の中は美樹ちゃんのことでいっぱいになり、何も手につかない状態になってしまった。
 せっかく戸塚で心が落ち着いたと思ったのだが、美樹ちゃんと離れるとたちまち落ち着きをなくし、もっと戸塚にいればよかったと思った。
 うちは美樹ちゃんが常に側にいてくれれば、生活も安心して送れるのだが、美樹ちゃんがいなくなると全く何もできなくなってしまう。
 美樹ちゃんは本当に苦労したと思う。
 それでも、本当にうちの為に色々と尽くしてくれた。
 瀬谷に戻り、また何もできないうちに1つ1つ課題を与えてくれるようになった。
 最初の課題は、「仕事を見つける事」だった。
 時間が掛かっても良いから、まず自分で仕事を見つけるように言われた。
 他のことは何も考えず、仕事を見つける事だけに集中するように言われた。
 うちは、美樹ちゃんに与えられたことだけをやることにした。
 美樹ちゃんに言われた通りにやっていて、間違った事は何一つなかったからである。
 それでも、やっぱり最初の頃は美樹ちゃんのことばかり気になり、仕事を探すことができないでいた。
 守谷さんの仕事を手伝いながら、 まず自分で仕事を探すことを考える努力をした。
 守谷さんの事務所は二俣川という所にあり、いつも仕事を手伝っている時はその近くでご飯を食べていた。
 その1つにラーメン屋があった。 
 うちはラーメンが好きだから、よくそこのラーメン屋で食べていた。
 店長はイラン人で、よく話をしたりしていた。
  ある時ラーメンを食べに行った時にそこの店長に、
「うちがもしここで働きたいって言ったらどうする?」
と冗談のつもりで聞いたら、
「 うちで働く?いいよ。何時からやる?」
と言われた 。
 まさかこんな風な展開になるとは思ってもいなかったうちは、店長にゆっくり話をしようと言われ、次の日に会うことになった。
 次の日、店長と会い、色々と話をすると雇ってくれることになった。
 こうして思わぬことから、仕事が決まったのである 。
 仕事が決まるとすぐ美樹ちゃんに報告をし、守谷さんにも報告をした。
 守谷さんは、美樹ちゃんや仲間を集めて就職祝いをしてくれた。
 仕事が決まると、次の課題を与えられた。
 うちの次の課題は、、「仕事をサボらずに行くこと」だった。
 美樹ちゃんは、 仕事が決まると携帯に出てくれるようになり、うちはそれが凄く凄く嬉しかった。
 もともとうちは、料理を作るのが好きで、川崎に住んでいた時も美樹ちゃんに料理を作ってあげたりしたこともあった。
 料理は4歳からたまに見様見真似で作っていたから、好きなのである。
 親父が料理人だったからかもしれないが、そこはうち的には認めたくないところであり、親父なんかよりも、料理の腕はうちの方が上だと思っている。
 仕事は思っていたより楽しくできた。
 うちが働き始めたラーメン屋は、基本はラーメン屋だったが、うちが働くようになってから店長が、夕方6時以降は居酒屋もやりたいからと言っていて、どんなメニューを出したいかを考えて欲しいと言われた。
 従業員は、店長を入れると3人。
 他に昼間はパートのおばちゃんが2、3人、夕方以降はうちと従業員でやっていた。
 3人いれば忙しい時間帯でもなんとかこなしていた。
 店長にメニューを考えて欲しいと言われたうちは、店長と何軒か居酒屋に行って、どんなものがいいのか色々と食べては店で実際に作って、みんなで食べたりしてメニューを考えたり、図書館や本屋に行ってメニューを考えて、それを作ってはみんなで食べてメニューを決めた。
 店長はなぜか他に2人の従業員がいたのに、その2人に任せないで、メニュー作りはうちに任せてくれた( 従業員の1人は18歳の高校を出たばかりの子、もう1人は頼りのない50過ぎのおじさんで、店長にもよく注意ばかりされていたからなのかもしれないが、バイトで入ったうちに全てやらせてくれた)。
 メニューを決めて行くのはとても楽しかった。
 やがてメニューも決まり、お客さんも少しづつ増えてきた。
 うちがラーメン屋で働き始めると、たまに守谷さんがラーメンを食べに来てくれたり、夕方以降飲みに来てくれたりして、うちの様子を見に来たり、応援してくれたりした。
 ラーメン屋で1ヶ月を過ごしたら店長が、
「本当は1ヶ月では普通させないのだが、バイトじゃなく正社員になりな」
と言ってくれて、うちは1ヶ月で正社員にしてもらった。
 まさかうちが社員として認めてもらえるとは思ってもいなかったから、とても嬉しくてすぐ美樹ちゃんにも報告をした。
 美樹ちゃんもとても喜んでくれた。
 そして、美樹ちゃんも 仕事が終わると朝方ラーメンを食べに来てくれるようになった。
 何よりも、美樹ちゃんが来てくれるようになったことが一番うちにとっては嬉しかった。
 うちは仕事を朝までやっていた。
 美樹ちゃんは、 うちの仕事が終わる2時間くらい前から来てくれて、うちが仕事をしているところを見てくれて、仕事が終わると一緒に部屋に帰り、部屋で一緒に寝て、夕方になると車でラーメン屋まで乗せてもらい、美樹ちゃんも仕事に向かっていた。
 最初は週に1回くらいだったのが、3回、4回と来てくれるようになり、うちはそれが毎日楽しみで仕事に行っていた。
 美樹ちゃんは、 うちのやる気をうまく操作してくれていたと思う。
 うちはちゃんとやっていれば、美樹ちゃんが来てくれることが分かり、それを支えに仕事を頑張った。
 うちはすごく頭の中が単純なのかもしれない。
 美樹ちゃんは本当に大変だったと思う。
 それでもうまく、うちを良い方に、良い方に導いてくれていたと思う。
 美樹ちゃんの言うことを聞いてやっていれば、間違いは絶対に起こらなかった。
 美樹ちゃんは、うちにはもったいない最高の女の子だった。
 うちは美樹ちゃんに見てほしい、認められたい、褒められたいという一心だけで仕事を頑張れた。
 美樹ちゃんが、世界で一番うちの扱いが上手だと思う。
 美樹ちゃんだったから、うちもこうして一つ一つではあったが、普通の人よりも、ものすごく時間もかかったが、当たり前のことを当たり前にやれるようになったのだと思う。
 美樹ちゃんの凄い所は、うちの美樹ちゃんへの依存を逆にうまく利用してくれて、うちを良い方向へ導いてくれたことである。
 少し話が逸れるが、依存症関係の本で読んだのだが、依存といっても色々なものがある。
 薬物、アルコール、タバコ、食べ物、ギャンブル、恋愛、セックスなどだ。
 うちの場合は、美樹ちゃんに依存しきっていた。
 本に書いてあったのだが、
「 依存症の人の配偶者や家族の中には、相手を心配するあまりに世話を焼きすぎたり、面倒なことを避けるためにすぐに手助けをする人がいる。こうした行為の背景には、“あの人は私が支えてあげないとダメなんだ”と思い込むことで自分の存在価値を見出そうとする気持ちがある。 これも一種の依存であり、このような人を共依存と呼ぶ。
 共依存者は、相手の依存症がひどくなって自分に迷惑がかかるほど、“私がいないと”という気持ちが大きくなり、今まで以上に世話を焼くようになる。依存症の本人も、共依存者を自分に尽くさせるためにいっそう依存症を深めていく( 当時はこんなことを全く考えたことがなかったから、自分が美樹ちゃんに依存しているなどと思ってもいなかったが、思い当たることが沢山ある......)。 そして、互いの依存がより強固になるという悪環境に陥る。このように、共依存者となった家族は、依存者の被害者であり加害者でもある。ひとりの依存者の周囲には、複数の共依存者がいることが多い」そうだが、美樹ちゃんは、そこも上手くコントロールしてくれていたと思う。
 しかも、うちの場合それだけではなかった。
 「境界性パーソナリティ障害」という心の病気を知っているだろうか?
 この境界性パーソナリティ障害とは、簡単に説明すると「見捨てられる」という思い込みや不安が強く、相手を引き留めるために対人関係を操作したり、リストカットなどの行動をしてしまう。
 依存症との関係が深く、「見捨てられる不安」が強まり、耐えられなくなった結果、衝動的な逃避行動として依存に走ってしまう。
 うちの場合、依存症が先なのか、境界性パーソナリティ障害が先だったのかは分からないが、その2つがとても強かった。
 そこを美樹ちゃんは本当に上手くコントロールして、うちを良い方向へと導いてくれていたと思う。
 当時はそんなことを知りもしなかったから、美樹ちゃんと離れるのがとても怖かったし、美樹ちゃんが側にいてくれないと不安で不安で何も手につかず、本当に辛かった。
 辛くて辛くて、何回も死のうとした。
 特にラーメン屋で仕事をするまでの間(仕事を見つけるまでの間)、 毎日がそんな状態だったうちに、一つ一つ課題を与えてくれた美樹ちゃんは、必死でうちを支えてくれていた。
 こんな彼女は二度と現れないと思う。
 仕事を始めて2、3ヶ月経った時に美樹ちゃんに、
「これでもう普通の人だね」
と言われた。
 その後に、
「もう私がいなくても大丈夫だね」
と言われた時は、美樹ちゃんがいなくなってしまうのではないかと、暫くは不安で不安で仕方なかった。
 ラーメン屋での仕事は楽しかった。
 色々なお客さんがいたが、その中でも一番記憶に残っているお客さんは、手話を使って話をするお客さんである。
 従業員は、誰も手話を使えないので、 注文を聞く時に苦労していた。
 そんなある時、そのお客さんの対応をうちがした。
 その時が初めての対応だったうちは、注文を聞きに行き、その人が何を言いたいのかがなぜか分った。
 みんなには、「アーアー」とか「ウーウー」としか聞こえないというのだが、うちにははっきりと、そのお客さんが何を言っているのかが理解できたのである。
 するとそのお客さんは、いきなり泣き出した。
 最初はなぜ急に泣き出したのか全く意味が分からなかったのだが、次の日その人の娘さんが一緒に来て、
「伝えようとしたことがいつもは伝わらないのですが、初めて理解してもらえたことがとても嬉しかったみたいです。有難うございます」
と言われた。
 娘さんは、そのことをわざわざうちに伝えるためだけに、お店に来てくれたのである。
 うちにとっては、それくらいのことでわざわざお店に来てもらったことの方が嬉しかった。
 そんな出来事があってから、そのお客さんはよくお店に来てくれるようになり、うちは図書館に行って手話の本を借りて、少しだが勉強をした。
 そのお客さんにも、手話を暇な時間や、休憩時間に教えてもらったりしていた。
 他の人のことだとこんなに分かるのに、なぜ美樹ちゃんのことになると何も分からなくなってしまうのかと思う。
 うちは美樹ちゃんのことでは、まるっきりの赤ん坊と変わらなかった......。
 美樹ちゃんがうまい具合に一つ一つうちに課題を与えてくれ、うちは美樹ちゃんに自分を見てもらいたくて、さらにかまってもらいたくて一生懸命美樹ちゃんに言われたことだけに集中した。
 だから辛いなりにも仕事を見つけることもでき、仕事を続けることもできるようになった。
 ラーメン屋の時は、1回もサボったことがなかった。
 こんな事は、本来なら当たり前のことだが、うちには大変なことだった。
 美樹ちゃんのおかげで、一つ一つできるようになったのである。
 せっかく仕事も見つけて、順調にいっていたのに、大きくつまずき、取り返しのつかないことをやってしまった......。
 平成11年の11月に入ってすぐのことである。
 この日、うちは仕事が休みで、後輩と二人でいた。
 福島という名前の後輩である。   朝から一緒にいた。
 夕方福島の携帯に、福島の後輩から、
「薬の金欲しさにお金を巻き上げられた」
という連絡が入り、助けを求められた。
 うちは美樹ちゃんに、人のことに首を突っ込んではいけないと言われていたのに、首を突っ込んでしまった......。
 福島の後輩からお金を巻き上げた人間を捕まえて、人気のない山に連れて行き、ボコボコにぶっ飛ばし、巻き上げたお金を取り戻し、逆にお金を持って来いと脅し、借用書を書かせたりした。
 これが原因で警察に逃げ込まれ、まず福島の後輩が捕まったという連絡が来た。
 うちは福島を呼び体(たい)をかわすために、守谷さんの知り合いの所へ逃げた。
 福島の後輩が捕まったのは、ぶっ飛ばした二日後の朝である。
 うちが守谷さんの知り合いの所へ行ったのは、夕方過ぎからである。
 この件にはもう一人、海藤というやつが絡んでいた。
 こいつは、水戸少年刑務所で知り合ったやつである。
 借用書を書かせたりしたのは海藤である。
 海藤は、勘ぐりのひどいやつで、何でもないようなことですぐ勘ぐるやつで、この時もうちに向かって、
「俺のことをはめる気だろ?」
などと抜かしてきやがった。
 こいつだけは、本当に頭にくる野郎である。
 最終的には、この野郎が一番得するのである。
それもうちにとっては未だに許せない。
 夜みんなと対策を考えるために集まって話をしていたら、守谷さんから美樹ちゃんの所に連絡をするように言われた。
 すぐに美樹ちゃんに連絡をすると、会って話をしたいことがあると言われ、うちは川崎に急いで向かった。
 美樹ちゃんに会うと、子供ができたことを知ったうちは、美樹ちゃんに自分がやらかした事件を話した。
 とても怒られ、気持ちはとても複雑だった......。
 美樹ちゃんに、子供は堕ろすと言われた時は、とてもショックだった。
 せっかく仕事も落ち着いてやれるようになり、これからという時に取り返しのつかない失敗をやらかしてしまった。
 美樹ちゃんに、
「あれだけ人のことに首を突っ込んじゃいけないって言ったのに......」
と何度も怒られた。
 美樹ちゃんとの話が終わると、福島と海藤に再び合流したが、話どころではなかった。
 福島は出頭すると言い出し、全て否認すると言い出したが、うちはその言葉を信用していなかった。
「俺はパクられてもチンコロはしないですよ」
「俺は口が固いから」
というやつに限って、刑事に捕まると、みんなペラペラペラペラと喋ってしまうのである。
 第一、「俺はパクられたらチンコロしますよ」とか、「俺は口が軽いからペラペラ喋りますよ」なんて言う奴など一人もいない。
 みんな口を揃えて言う言葉は、「チンコロなんて絶対にしません」だ。
 しかし、うちはチンコロなんてしないと言ったやつの中で、しなかったやつなど見たこともない。
 こういうことを普段から言っているような野郎は、間違いなく捕まった途端になんでもかんでもペラペラペラペラと喋り出すタイプである。
 本当に口の堅い人は、そんなことすら言わない。
 それが本当に口の堅い人である。
 うちが知る限り、喜連川少年院で知り合った雅也と、水戸少年刑務所で知り合った雅君 の二人しかいない。
 あとは皆さん、機関銃の如くペラペラペラペラ口の軽い御仁ばかりでお話にもなりません。
 だから福島の言うことなど信用できなかった。
 しかし良い考えも浮かばず、結局刑事と話をして、福島は出頭することになり、うちは美樹ちゃんとのこともあったから、刑事に事情を話し、逮捕を待ってもらうことにした。
 うちは美樹ちゃんにどうしても子供を産んでもらいたくて、何度もお願いしたが、結局うちもパクられてしまえばすぐに出てこれないだろうし、その間、美樹ちゃんが苦労することになるので、堕ろすことで納得するしかなかった。
 自分がしてしまったことに対して、後悔しても後悔しきれないくらい後悔した。
 うちは一番大切だった美樹ちゃんに、取り返しのつかない傷を負わしてしまったのである。
 生まれてはじめて、自分がしてしまったことを呪った。
 時間を、少しでも良いから戻してほしいと思った。
 平成11年11月17日、朝早い時間から美樹ちゃんの家に行き、一緒に病院に行った。
 病院に行く途中もやっぱり子供を産んで欲しくて、美樹ちゃんに頼んだが、やはりダメだと言われてしまった。
 美樹ちゃんは入院し、午後1時に手術室に入って行った。
 手術室に入る時の美樹ちゃんの姿を一生忘れられない......。
 うちは一体何をしているんだと思った。
 美樹ちゃんと子供に、本当に本当に申し訳ないことをしてしまったと思った。
 手術は30分くらいで終わり、美樹ちゃんは病室に戻ったが、しばらくは麻酔のせいで眠っていた。
 うちは美樹ちゃんの側で、美樹ちゃんが麻酔から覚めるまで待った。
 麻酔から目を覚ました美樹ちゃんに、うちは何も声をかけてあげることさえできなかった。
 本当に情けない男である。
 看護婦が、食事を持ってくると美樹ちゃんはうちに、
「朝から何も食べてないんでしょ?私はお腹すいてないから代わりに食べてくれる?」
と言ってくれた。
 こんな事になってしまったのに、美樹ちゃんは文句の一つも言わず、自分のことよりも先にまずうちの体のことを心配してくれたのである。
とても情けなく、本当に申し訳のないことをやらかしてしまったと思った。
 そして、美樹ちゃんの優しさがとても心に染みた......。
 出会ってからずっとそうだった。
 美樹ちゃんは、いつでもうちのことを何よりも一番に考えてくれて、色々なことを教えてくれた。
 家族の温もり、普通の生活の楽しさ、仕事の面白さ、一つ一つゆっくりと時間をかけて、うちができるようになるまで諦めることなく教えてくれて、いつでも見守ってくれていた。
 それなのに、うちは美樹ちゃんには何もしてあげることができなかった。
 うちが美樹ちゃんにしたことといえば、心配させて、困らせて、苦しめたことだけである......。
 美樹ちゃんと結婚して、美樹ちゃんを幸せにしたかった......。
 ずっとずっと死ぬまで美樹ちゃんの側にいたかった。
 ずっとずっと側にいてもらいたかった。
 それなのに、結局はうちが美樹ちゃんを裏切ってしまったのである。
 夕方になって美樹ちゃんは退院し、部屋に戻った。
 結局うちは、美樹ちゃんに何も声をかけてあげることさえできなかった。
 しかも、傷つき一番側にいてあげないといけない時にいてあげることさえできなかったのである。
 平成11年11月19日の昼過ぎに、うちは旭警察署に出頭をした。
 出頭をする少し前に海藤から連絡が入り、
「女のことで目がくらんで俺の事言ったりするなよ」
と言われた。
 このうちに向かって、よくそんな口をきけたものである。
 海藤の口から出たこの言葉は、一生忘れない。
 誰に向かって、そんな生意気な口をきいているんだ‼と思った。
 福島は、最初の20日間は何も言っていなかったらしいが、再逮捕されたとたん、ペラペラと喋りだした。
 所詮この程度だとは思っていたが、手前の後輩の落とし前くらい二人で何とかして欲しいものである。
 うちの方は福島の様子を見ながら最初は否認をしていたのだが、途中から福島がペラペラと喋り出したことを知り、どうにもならなかった。
 結局、傷害と恐喝未遂で起訴されたのである。
 海藤のことはうちしか詳しい事を知らず、福島から話は出たのだが、それだけではどこの海藤なのかが全く分からず、刑事や検事はうちにしつこく海藤のことを聞いてきたが、うちがそのことは言わなかったから、海藤は捕まることなく、うちが刑務所に入っている間シャバでぬくぬくとしていやがった。
 この野郎が一番得して、助けてやったのに、うちが出所した日に迎えにも来ることもなく、しかもたったの50万しか持って来なかった。
 ケタが違うだろうと思った。
 たったの50万円でうちが納得すると思っていたのだとしたら、うちも舐められたものである。
 この件で一番バカを見たのはうちである。
 こんなくだらないことに首を突っ込み、大きな大きな犠牲を受けた。
 うちの一番大切な子を傷つけ、子供まで犠牲にしてしまった。
 この事件が、うちにとっては一番納得できない事件である。
 この事件が、その後のうちの人生を大きく大きく変えてしまった。
 美樹ちゃんを失った事が凄く凄く辛かった......。
 最初逮捕された時は、強盗傷人で逮捕されたのだが、それは事実が違うから認めなかった。
 こんなので起訴されたら、間違いなく5年以上刑務所に入ることになる。
 事実とも違うから認めるわけがない。
 本当のことを言うと、ぶっ飛ばした後にお金を取っているから、認めていたらヤバいことになっていたと思うが、そこはうちがたとえ弱っていたとはいえ、認めるほどバカではない。
 だから傷害と恐喝未遂で起訴となったのだが、 恐喝未遂は海藤がやったことである。
 その分も、うちが背負って刑務所に入っているのである。
 平成12年6月1日に判決を受け、懲役2年6月、未決勾留日数150日を刑に算入された。
 この時は、上訴権放棄をしなかったため、6月16日に自然確定した。
 横浜拘置所には、年が明けてからすぐに移鑑になった。
 接見禁止がずっとつけられていたこともあり、拘置所ではずっと独居房だったので(もっとも、うちは性同一性障害なので 独居部屋なのだが)、やることも何もなく、毎日辛かった。
 特にこの時は、美樹ちゃんのことばかり考えていたためとても辛くて、精神安定剤や睡眠薬を処方してもらい、毎日飲んでいた。
 毎日一人で後悔していた。
 美樹ちゃんの事ばかり考えて過ごした。
 美樹ちゃんに、とても会いたかった。
 この時は本当に辛くて、自分がしたことを後悔したり、みんなの事を憎んだりしていた。
  福島、福島の後輩、海藤に対してはもちろんのことだが、被害者にも頭に来ていた。
 もともとは、薬の金欲しさに恐喝をしていたくせに、ちょっと(実際はちょっとではないが......) やられたくらいで警察なんかに飛び込みやがって情けのない野郎である。
 それなのに、なぜこっちだけがパクられなきゃいけないのかと思った。
 つまらないことに首を突っ込まなければよかったことなのだが、納得のいかない話ではあった。
 アカ落ちすると、隣の横浜刑務所に移り、そこで分類にかけられて、テストや面接をして最終的にどこの刑務所に務めることになるかが決まる。
 面接の時、どこの刑務所に行きたいか希望を聞かれる(必ずしも全員が聞かれるわけではないらしく、聞かれない人もいるらしい。なぜ聞かれる人と聞かれない人がいるのかは分からない)。
 うちは聞かれたから、北海道を希望した。
 北海道は、仮釈放率が良いと聞いたことがあるからである。
 1日も早く出所して、美樹ちゃんに会いたいと思っていた。
 出るまで待っていてほしいと思った。
 もし面接で、「どこか行きたい所はあるか?」と聞かれなかったら、自分から言ってでも北海道を希望しようと思っていたが、うちは聞かれたから当初予定していた通り「北海道」と答えた。
 希望を答えたからといって必ず希望通りになるわけではないが、聞かれないよりは、聞かれた方が良い。
 8月に入ってすぐ、移送が決まった。
 移送日が決まると、前日に教えられるのだが、行き先は当日まで教えてもらえない。
 前日に荷物をまとめて準備をする。
 次の日、朝はいつも通り起き、食事を済ませると担当が来て、移送の最終準備をし、着替えが済むと行き先は「網走刑務所」だと言われた。
 希望通り、北海道に行けることが分かった。
 横浜刑務所から羽田空港にはバスで向かい、羽田空港から女満別空港までは飛行機で向かった。
 うちは高所恐怖症なので、女満別に着くまでの間は気が気ではなかった。
 うちには、あんな鉄の塊が空を飛ぶということ自体信じられない。
 飛行機を降りるとバスが迎えに来ていて、網走刑務所まではバスで向かった。
 バスで30分から40分くらいで網走刑務所に着いた。
 その日から新入工場に行き、網走刑務所での生活が始まった。
 北海道は、8月を過ぎると日差しはまだ暑いのだが、風はすでに涼しく、夜は窓を開けて寝ると、肌寒いくらいである。
 だからとても過ごしやすかった。
 一番びっくりしたのが、水の冷たさである。
 夏でも水道の水はとても冷たくて、30秒も水を触っていられないくらいである。
 網走刑務所に移送されてから二日後に、美樹ちゃんから手紙が来た。
 うちは担当に、
「もし手紙の内容が、別れ話だったら絶対に入れないで欲しい」
と頼んだ。
 刑務所は、手紙が来ると作業が終わって部屋に戻ってから手紙を渡されるのである。
 担当に別れ話だったら絶対に入れないで欲しいと頼んだら、担当は了解してくれた。
 夕方、部屋に戻ると、手紙が部屋に入っていたので、別れ話は書いていないのだと思い手紙を読んだ......。
 しかし、書いてあった内容は、別れ話であった。
 手紙を読んでしまい、ショックがあまりにも大きくて、目の前が真っ暗になった。
 自分が一番悪いのだが、美樹ちゃんを失いたくなかった。
 手紙を読んでしまった後、担当が4、5人慌てたようにうちの部屋に来て、「手紙を読んじゃったか?」と聞かれた。
 とっくに読んでしまい、時すでに遅しである......。
 何もかもやる気をなくして、夕食も一口も食べなかった。
 担当に色々と聞かれたりしたが、一切耳に入ることはなかった。
 夜も、あまりにもショックが大きすぎて寝る気にもなれず、一晩中涙を流していた。
 朝も朝食を食べず、放心状態であった。
 昼前に、担当に呼ばれたりしたが、まともに話もできないでいたら、部屋を変えられた。
 その部屋は、24時間カメラが部屋に取り付けられた部屋である。
 昼食の時、部屋に醤油入れが入った。
 網走刑務所は、醤油を使うおかずが入ると、その都度、その都度、醤油入れが入る。
 うちは何かの本で、「醤油を大量に飲むと死ぬ」ということを知っていたため、部屋に入った醤油を全部飲んだ。
 しかし、量が足りなくて死ぬことまではできなかった。
 しかも、担当にすぐ気づかれ、体を抑えられて、ヤカンに入った水を飲まされそうになったが抵抗して水を飲まなかったため、そのまま保護房に入れられた。
 保護房には一週間入れられていたが、その間食事は一口も食べなかった。
 醤油がダメなら餓死してやろうと思ったのである。
 水さえ取らなかったのに、なんともならなかった......。
 とにかく、もう死にたいと思ったが、刑務所の担当には、
「お前を絶対に死なせないからな」
と言われた。
 うちは絶対死んでやると思ったが、一週間経った時、数人の担当が来て、「これ以上食事をとらなければ、鼻からチューブを通して無理やりでも食事をとらせる」
と言われた。
 とても惨めで、とても情けなかった。
 もう美樹ちゃんとはやり直しがきかないのだと思うと、何もかもがどうでもよかった。
 網走刑務所では、結局一度も工場には行くことがなく、1年以上監視カメラのついた部屋から出ることができなかった。
 保護房は一週間で出ることができたが、自殺防止の措置を取られてしまい、部屋には一切何も入れてもらえなかった。
 保護房を出た後もずっと放心状態が続き、何もやる気が起きなかった。
 只々、死にたかった。
 美樹ちゃんのことを思うと、涙ばかり出て、自分の感情を全くコントロールすることができなかった。
 心が苦しくて苦しくてどうしようもなく、後悔の念しかなかった。
 保護房から出ると、暫くして教育主任(係長クラスの担当)がうちのところに来て、色々と話をしてくれる。
 初めて来てくれた時も、いきなり来て、全く意味のない話をしていた。
 それもうちはただ聞いているだけで、何も答えることはなかったから、教育主任が一方的に話すだけで会話などしていない。
「○○ のチョコレート知ってるか?」
「......」
「あれはうまいよな」
「......」
とこんな調子である。
 しかも、教育主任の話は、車の話だったり、食べ物の話だったり、全く関係のない話ばかりして、「また来るよ」と言っていなくなり、また次の日も同じ調子で部屋に来ると、全く関係のない話ばかりして帰っていく。
 最初の数日間は、何も口をきかなかったうちだったが、なぜこの担当は、毎日毎日こんな話ばかりしていくのかと気になるようになった。
 何日目か後に、うちも少しだけだが話をできるようになってきたが、最初の頃は涙ばかり出て、ろくに話もできなかった。
 うちが網走刑務所で唯一心を開いて話をできたのは教育主任だけであり、他の担当には噛みついてばかりいた。
 ちょっとでも気に入らないことがあれば食ってかかった。
  廊下に食事をわざとぶちまけたりした。
 美樹ちゃんを失ったうちに怖いものなど何もなかった。
 うちは、他の担当には手に負えるような状態ではなかった。
 そのため、網走刑務所にいた期間、うちの事は全て教育主任が受け持ちとなった。
 このことは、教育主任から、
「お前の事は全て俺に任せると上の人に言われたから、全部俺に言ってこい」
と言われた。
 しかし、教育主任は、うちが出所するまでの間、毎週うちのところに来てくれて、うちの空気抜きをしてくれていた。
 本来なら担当に噛み付いたり、食事をぶちまけたりしたら懲罰になるのだが、網走刑務所でうちが懲罰にかかったのは、自殺未遂をした時の1回のみで、他のことでは色々と担当に暴言を吐いたり、手に負えないことをしていたのに、懲罰になることはなかった。
 その辺りはかなり面倒を見てもらっていたと思う。
 美樹ちゃんを失ったことは、うちにとっては本当に大きな大きな痛手であった。
 美樹ちゃんは、本当にうちのために色々と尽くしてくれていた。
 もっとうちがしっかりしていたら、美樹ちゃんを傷つけることも、美樹ちゃんを失うようなこともなかったのではないかと思う。
 自分の人生がこの時ほど憎らしく思ったことはない。
 もっと普通の家庭に生まれて、普通の生活を子供の頃から送ることができていたら、もっと違った人生を送れたのではないかと思う。
 美樹ちゃんと出会えたことで、うちは色々と教えてもらい、たくさんの愛情を注いでもらった。
 それなのに、うちは美樹ちゃんに何もしてあげられず、最後の最後まで最低な男だった。
 なんでもないようなことが
 幸せだったと思う
 何でもない夜のこと
 二度とは戻れない夜
という詩がとても痛く心に突き刺さった。
 本当にそうだなと思う。
 美樹ちゃんと出会って、家族の温もりを知り、仕事の楽しさを知り、美樹ちゃんと一緒にいられるだけで本当に本当に幸せだった。
 美樹ちゃんに言われたことをしっかり守っていたら、こんな失敗をしなかったのである。
 あの時、瀬谷になど部屋を借りたりしなければ良かったと後悔している。
 美樹ちゃん以外の人間なんかと、付き合いをしなければ良かったと、心の底から思った。
 何よりも、美樹ちゃんの側を離れなければ良かったと思う。
 美樹ちゃんからしたら大変だったかもしれないが、美樹ちゃんの側で、美樹ちゃんの言うことだけを聞いていたらこんなことにならなかったのである 。
 美樹ちゃんを幸せにしてあげたかった。
 美樹ちゃんと結婚して、幸せな家庭を築きたかった。
 いつまでも、いつまでも一緒にいてほしかった。
 美樹ちゃんのことを思い出すと、未だに後悔しか出てこない。
 もっとうちがしっかりしていたら、一番大切な人を失うことはなかったのである。
 本当に、本当に、後悔している。
 美樹ちゃんには、心の底から感謝している。
 感謝しても感謝しきれないくらいに感謝している。
 初めて心の底から愛した子が(女の子でという意味です)、美樹ちゃんである。
 今のうちを美樹ちゃんには絶対に見られたくない。
 今のうちを見たらきっと美樹ちゃんは、
「普通の生活が一番なんだよ」
と言うだろうなと思う(これを書いていた時期は丁度捕まっていた時で、今は実はとても幸せです。それは後々記します)。
 網走刑務所にいた時は、教育主任がいてくれたからよかったが、もし教育主任と出会うことがなかったら、精神が 壊滅的に崩壊しても不思議ではなかったと思う。
 一度だけ、教育主任に、
「そろそろ落ち着いてやれるようになっただろうし、工場出てみたらどうだ?」
と言われたことがある。
 そこである主任に面接をし、工場に出してもらおうとした。
 主任と面接をし、主任に、
「みんなと一緒にやれるのか?」と聞かれ、うちは「はい」と答えた。
 するとその主任に、
「もしやれなかったら、焼きを入れるぞ」
と言われ、うちはブチ切れて、
「焼きを入れるだと‼この野郎、やれるもんならやってみろよ‼」
と突っかかっていき、それが原因で工場を駄目になってしまった。
 その日から、その主任を目の敵にし、部屋の前で見かける度に、「焼き入れてみろよ‼この野郎‼」と毎回突っかかっていた。
 教育主任にも、
「あの主任だけは出てからお礼参りする」
と言ってきかなかった。
 結局この件があって、一度も工場に出ることなく、満期出所となった。
 今まで4回刑務所(これを書いていたときはまだ入っていなかったから4回と記しているが、実際は5回である)に入っているが、網走刑務所が一番辛かった。
 死ぬこともできず、只々部屋で生活をするしかなく、本当に辛い2年半であった。
 網走刑務所で、1年くらいしてから心理学の本を読んだ。
 その本を読んで、うちが美樹ちゃんにとっていた行動は、ことごとく逆効果になる行動ばかりとっていることを知り、愕然とした。
 何冊も何冊も購入して、心理学の本ばかり読んでいた。
 もっと早く心理学の本を読んでいたら、美樹ちゃんをあんなに傷つけることもなかったし、美樹ちゃんの考えていることも理解できたのにと思った。
 そうしたら、美希ちゃんをあんなに苦しめることもなかったのである......。
 平成14年7月4日に、網走刑務所を満期で出所した。
 この日は、守谷さんや、数人の仲間が迎えに来てくれたが、その中に海藤はいなかった。
 まず、それが一番面白くなかった。
 海藤は、誰よりも先にうちのところへ来なくてはいけない人間である。
 うちが庇ってやったから、パクられることもなく、シャバでぬくぬくと生活をしていたくせに、迎えに来なかったことに対し頭にきた。
 守谷さんにも、なぜ海藤が来ていないのか理由を聞いたが、わからないという。
 他の人間に理由を聞いても、わからないという。
 門を出ると、一人がタバコを持ってきてくれたので吸ったが、あまり嬉しくなかった。
 守谷さん以外は、うちがイライラしていることにピリピリしているのが分かり、余計にイライラした。
 守谷さんたちは、前日から網走に来ていたらしく、網走刑務所のすぐ目の前にあった (100メートルくらいのところ?もうちょい離れてたかな?)ビジネスホテルに部屋を取っていた。
 まず、ホテルに行くと、そこでうちの部屋をとり、朝食を食べた。
一人守谷さんの部下(?)が、うちの付き人役をやってくれて、身の回りのことは全部やってくれた。
 食事が済むと、タクシーを1台貸切り(ワゴン車)、 みんなで網走の周辺を観光した。
 守谷さんや周りの人間が気を使って色々としてくれるのだが、うちは楽しい気分には全くなれないでいた。
 カニを食べたり、牧場や湖を見たりして夕方ホテルに戻った。
 うちはホテルに戻る前に、網走刑務所で車を停めてもらい、一人で刑務所の中へ入って行こうとしたら、 付き人も一人に着いてきた。
 うちは付き人には戻ってもいいと言ったのだが、着いて行くというので、仕方なく一緒に行くことにした。
 正門まで行き、うちは呼び鈴を鳴らした。
 すると、
「はい、どちら様ですか?」
と返事が返ってきたから、うちは、
「今日の朝出所した覚だよ。主任に用事があるから主任を出せ」
と言った。
 どんな用事があるのかを聞かれたうちは、
「色々と世話になったから、礼参りしに来てやったんだから主任を出せ」
と言ってしつこく呼び鈴を鳴らし続けた。
 すると、20人くらい担当が集まってきて、すったもんだやり取りをした。
 付き人はどうしてよいかがわからず、うちに
「もう帰りませんか?」
と言っていたが、うちはそれを無視して、ずっと正門のところで悪態をついて騒ぎ回っていた。
 担当は、うちに向かって、
「とにかく主任を出すことはできないので、もう帰ってください。お願いします」
と低姿勢だった。
 刑務所にいる時は口の利き方も横暴なくせに、一歩外へ出た人間に対しては、180度態度が変わる。
 ずっとグダクダと言っていたら、教育主任も出てきて、
「警察を呼んだらしいから、今日は俺の顔を立てて帰ってくれ」
と言われたので、それで帰ることにした。
 教育主任と敷地を出ると、ちょうどパトカーが来た。
 しかし、刑事に足止めを食うことなく、ホテルに戻った。
 ホテルに戻ると車を降りて、一度部屋に戻り、みんなで銭湯に行き、その後居酒屋に入って食事をしたり、お酒を飲んだりして過ごした 。
 食事をしていると、地元のチンピラみたいなのがこちらを気にしてチラチラと見ては、よそ者は帰れ的な雰囲気を出していた。
 うちがチンピラを気にしていることに気づいたみんなは、うちが問題を起こす前に席を立ち、店を出た。
 店を出ると、目の前にドカンとベンツが停まっていたから、うちは大きな石を拾ってきて、ベンツの窓ガラスに思い切り投げつけてやり、窓ガラスを叩き割ってやった。
 田舎ヤクザなど、くそくらえである。
 本当は、ボコボコにしてやろうかと思ったが、出所したその日だったし、美樹ちゃんのことで心が病んでいたうちにそこまでの元気がなかった。
 もしあの時、万全な体制だったら、ベコベコに潰していたと思う。
 居酒屋を出て、どこかで飲みなおそうということになり、店を探していたら、ロシア人の女の子が二人歩いていた。
 付き人がそのロシア人に声をかけて、一緒に飲み屋に連れて行った。
 カラオケバーのような店に入ったのだが、お客はうちたち以外全く入っていなくて、田舎っぽさを感じるお店だった。
 網走自体、夜は人も全く歩いていないところで、寂しい街であった。
 2、3時間カラオケバーで過ごした後、ホテルに戻り、ロシア人と朝まで過ごしたうちは一睡もしないでロシア人と話をしていた。
 皆が起きだすと食事をとり、帰り支度をし、ホテルを後にした。
 うちは飛行機で帰るのは嫌だったため、守谷さんには電車でゆっくりと帰ると言っていた。
 そのため、守谷さん達は付き人を一人置いて先に帰っていった。
 うちと付き人はゆっくりとホテルを出て、札幌に向かった。
 そして、札幌で一泊したうちは、海藤が来ないのが納得いかなかったため、付き人に海藤と連絡を取らせて、札幌に来させた。
 海藤が一人、うちの後輩をなぜ か連れてきて、札幌で50万円を手渡されたが、先ほども述べたように、随分と少ない金額だと思った。
 しかも、うちが中に入っている間に、守谷さんと色々あったようだが、その事情も一言も話さないくせに 、守谷さんの所へ行くなら俺は...... みたいなわけのわからないことを言い出してきた。
 この時は、美樹ちゃんのことで心も病んでいたから、頭もあまり回ってなく、まともに考えていなかったが、海藤の野郎は、何を勘違いしていやがるのかと思う。
 そもそも、この野郎が捕まらずに済んだのは、うちが庇ってやったからである。
 例え守谷さんと何かあったにしても、真っ先にうちのところに来るのが筋のはずである。
 それを忘れて、守谷さんがどうのこうのと、うちの知ったことではない話だ。
 うちの周りには、恩を仇で返してくる野郎が本当に多い。
 そこはうちも少し考えなきゃいけないところではある。
 この件があって、海藤に対する考えが変わった。
 海藤が、こんなに礼儀の悪いクソ野郎だとは思ってもいなかった。
 守谷さんと、何があったかも口を濁して、何も言わず、汚い野郎である。
「守谷さんとはこんなことがあったから、俺は嫌なんだ」
とはっきり言えもしないで、何が、
「女のことで目がくらんで俺のこと言ったりするなよ」
だと思う。
 手前がやったことの尻拭いもできなくて、捕まることにビビっている野郎が、何様のつもりでいやがるのかと頭にくる話である。
 まず先に、うちに筋を通してから、偉そうな口をきけと思う。
 海藤とは、少し話をしただけですぐに別れた。
 海藤と別れた後、付き人に連絡をしたのだが、連絡が取れなかったから、一人で札幌をふらふらした。
 朝になっても付き人と連絡を取れなくて( 付き人が、連絡を取れなくて、付き人とは言えませんね。全くどいつもこいつも使えない野郎ばかりである)、 面倒になったうちは、付き人を置いて一人で先に帰った。
 電車で帰るつもりだったのだが、それすら面倒になり、結局飛行機で帰った。
 羽田に着くと海藤に迎えに来させて、うちは守谷さんの所へ向かった。
 神奈川はとても暑くて、2、3週間はまともに歩くことさえできなかった。
 網走刑務所では、運動も一切やらなかったため、入浴以外で部屋から出ることのなかったうちは、体力が相当落ちていたのである。
 それでも北海道は涼しかったからか、まだ平気だったのだが、神奈川はとても暑くて、100 M 歩くのがやっとだったうちは、コンビ があるごとに、コンビニに入り、休憩をしたり、誰かに車で迎えに来てもらわないととてもじゃないが動くことが出来なかった。
 守谷さんに、
「車椅子でも用意しようか?」
と言われたくらい、体力が落ちていた。
 神奈川に戻ってからは、しばらくホテル暮らしをした。
 暑くて、ほとんどホテルから動くことが出来なかった。
 おまけに、一週間は寝ることもできなかった。
 普段なら、全然平気なのだが、一番病んでいた時期でもあり、精神的にも身体的にもかなり辛い時期であった。
 普通は、刑務所を出所すると、どこどこへ行きたいとか、何々が食べたいとかあるのだが、この頃のうちは、そういったものが何もなかった。
 行くところ行くところ、美樹ちゃんと過ごした想い出の場所ばかりで、逆に辛かった。
 それでも、神奈川を出ることは考えられなかったし、神奈川を出ようとも思わなかった。
 出かける時は、後輩に車を出してもらい出かけていた。
 一度、後輩と買い物に出かけたら、お店の中で倒れた。
 倒れる前に、気分が悪くなったりした兆候が何もなかった。
 後輩と別行動をしていたのだが、うちの感覚では、いきなり知らない人に、「大丈夫ですか?」と声をかけられたという感覚で、最初は全く意味が分からなかった。
 いきなり知らない人に「大丈夫ですか?」と言われたうちは、何が大丈夫なのか意味が分からず、「何が?」と聞き返すと、今度は、「今の状態、理解できてますか?」と聞かれ、何をこいつは言っているんだと思った。
 そして、説明をされて、やっと自分が倒れていることに気づいたのである......。
 うちが話をしていた人は、救急隊員であった。
 話を聞くと、店内を歩いていたうちは急にぶっ倒れたらしく、近くにいた 女の子がびっくりして、119番通報をしてくれたのである。
 しかし、うちはなぜ倒れたのか全く意味が分からなかったのだが、とりあえず気分が悪いわけでもなかったから、救急車に乗らずに後輩の車で帰った。
 あれは一体なんだったのかと、今でも原因がわからない。
 網走刑務所を出所して、1ヶ月くらいしてやっと体力も戻り、出歩くことも普通にできるようになった。
 普通に出歩くことができるようになると、新宿の飯島会のO会の理事長のところへ連絡をした。
 残念なことに、理事長は病気が悪化し、うちが網走刑務所に入っている間に亡くなってしまった。
 理事長が亡くなる直前まで、うちの事を心配してくれていたことを知り、とても残念に思った。姐さん達はみんな元気で、お祭りの手伝いがあればうちも手伝った。   
 網走刑務所を出て、体力が戻りだした頃からシャブをやり始めた。
 美樹ちゃんに振られたうちは、自暴自棄になっていたから、シャブをやりだしたら、はまるのはとても早かった。
 シャブに精神依存してしまい、シャブを手放すことができない状態にまで陥ってしまった。
 シャブについては、詳しく述べたが、今回は「依存症」について少し詳しく述べておく。
 薬物依存症の人も、薬物依存症ではない人も、まだ、薬物依存症ではないが、これから薬物依存症になる予定の人(?)も、参考にして役立てて下さい。
 依存症と言っても色々とあるから、シャブに限らず述べておく。
 まず最初に、「薬物依存症の診断基準」から述べることにする。
 WHO(世界保健機関)は、精神作用物質(その物質を使用することで気分や認知や行動が変化し障害が生じる薬物)の使用による精神・ 行動の障害として薬物依存症の概念を1992年に規定している。
 過去1年間に少なくとも1ヶ月間、次の6項目のうちで3項目以上を満たしていると、みごと薬物依存症候群(以後、薬物依存症とする)と診断される。
 1、 アルコールやその他薬物を使用したいという強い願望と欲求。
 2、薬物の使用の開始や終了を自制することができない。つまりいつどんな時でも「やりたい」と思う。
 3、物質の使用を中止したり、減量した後、生理的離脱が起こり(禁断症状)、その物質に特有な離脱症候群が発生する。
 4、 物質の使い始めの頃は少量だったが、最初に味わったのと同じ快感を得るために量が増えていく。
 5、物質を使用する以外のことへの興味が薄らいでいく。
 6、物質を使用したために、身体的、精神的に有害な結果が起きているにも関わらず、物質の使用が止められない(ちなみにうちの場合は、1、2、4、5、6である)。
 依存しているアルコールや薬物の使用を突然やめる(離脱する)と、強烈な薬物渇望が起こり、様々な症状が現れる。これを離脱症状(禁断症状)という。
 その程度は、薬物の種類、用量、乱用期間、頻度によって異なり、症状が重い場合は、入院などの処置が必要となる。
 薬物依存あるいは乱用の状態について、世界保健機構は、1966年に「薬物乱用とは、認められている医療行為に反し、又はこれと関連なく継続的あるいは 散発的に 過量の薬物を摂取すること」と定義している。
 さらに、「薬物依存の特徴は、生体と薬物の相互作用の結果発現する精神的および /あるいは身体的依存状態であり、薬物の精神的作用を期待し、または薬物の脱落状態時の不快感を回避するために、継続的にあるいは定期的に薬物を摂取したいと強迫観念に陥る行動と、その他の身体反応」としている。
 個人にとって、また社会にとって、有害な作用を及ぼすことが分かっていても、薬物摂取が続くのである。
 このような、薬物依存の状態は、2つのカテゴリーに分けられている。
 その1つは、「身体的依存」で、その薬物を中止したときに、身体的な混乱状態が明らかに起こる状態を言う。
 使用している薬物の種類にもよるが、痙攣、吐き気、嘔吐、発熱、錯乱、震え、発汗など身体的錯乱状態の症状が現れる。
 これを、「薬物離脱症状」あるいは「禁断症状」という。
 オピオイド系の薬物、例えばモルヒネの場合は、依存の程度と薬物離脱の 時間とも関係してくるが、離脱時の初期症状としては、流涙、あくび、発汗過多、瞳孔散大が起こってくる。
 やがて薬物離脱の時間が長くなってくると、振戦、立毛筋収縮、筋肉痙攣などの 症状が現れてくる。
 この時薬物依存者は耐えられないような苦痛を感じる。
 そして、その苦痛から逃れるために薬物を何とかして摂取しようと行動を起こすことになるのだ。
 これらの症状は、離脱後30~36時間くらいがピークとなり、次第に治まってくる。
 個人差はあるが、5~10日で消失する。
 もう1つは、「精神的薬物依存」で、自己の健康や社会生活に支障をきたしているにも関わらず、またそのことを理解しているにも関わらず、自己の満足のためにあらゆる手段を講じて薬物を手に入れようとする強い脅迫的渇望をいう。
 したがって、精神的薬物依存に陥っているものは薬物を手に入れるために多くの時間を費やし、一般的社交や職場での活動にも支障が出るこのような症状があらわれていてもなお(ま~、本人はそんなことに気づいていないと思いますが)、 薬物探索行動を止められない状態となる。
 なお現在では、身体的依存性が 強い薬物と、精神的依存性が強い薬物が分かっている。
 例えば、モルヒネは身体的依存性が強い物質で、特に離脱症状が厳しく、虚脱状態になることもある。
 しかし、一旦薬物が与えられると、それまでの症状が嘘のようになくなり爽快な気分になる。
 一方、コカイン、大麻、覚せい剤(メタンフェタミン)などの物質には、精神的依存性はあるものの、身体的依存性はさほど強くない。
 ニコチンもこの部類に入る。 
 このような差は、薬物が作用する脳の部位の違いによるものであると言われている。
  コカインや覚醒剤は、人間の精神活動を司る、「上位の脳」に作用し、快感を覚えさせるが、薬物が消失しても、身体的な症状はあまり現れない。
 アルコールやモルヒネなどは、主に命の根源に関わる欲望や情動に関係する「下位の脳」の部分に働きかけるので、問題が複雑になってくる。
 依存症になると、本人が辞めたいと思っているかどうかは別として、辞められない状態になる。
 朝からお酒を飲まずにはいられない。
 薬が良くないのは分かっているけれど、切れると落ち着かないという具合。
 なぜ、このような状態に陥ってしまうのか。
 そのカギは脳の状態にある。
 人間の脳の中には、心地よさや気持ち良さを感じる、快中枢がある。
 心地よさや気持ち良さを伴う行動は快中枢を刺激しながら記憶されていく。
 「素敵なものを買うと気分が晴れる」などと、脳に刷り込まれていく。
 快中枢を刺激されると、脳の前頭連合野が活発になる。
 ドーパミンには記憶・学習に関する作用があるため、情動と結びつくことでその行動が強化される。
 すると、依存の対象である行動による快感に脳が強く反応するようになり、またドーパミンが大量に放出されて、より一層行動が強化されるという悪環境に陥る。
 こうして、病的に同じ行動を繰り返すようになる。
 脳内でのこうした変化を、「ドーパミンリモートパスウェイ」という。
 脳内での負のループが出来上がると、依存症に陥る危険性が高くなる。
 依存症という病の大きな特徴は、本人が病気を否認するということ。
 お酒を飲みすぎていても、賭け事にはまっていても、「自分より飲んでいる人はたくさんいる」「仕事をしているのだからいいだろう」などと理由をつけて、存症であることを認めない。
 家族や周囲の人が注意しても、聞く耳を持ちません。
 しかし、本人が病気を認識していない間にも、家族には精神面、物理面ともに多大な悪影響が及んでいる。
 これもまた、依存症の特徴であり問題点である。
 例えば、親が何かの依存症であるために、家庭内で言い争いが絶えなくなったり、配偶者が暴力によって怪我を負わされたり、 多額の借金を抱えて離婚に至ったり、子供が精神不安定から不登校になるといったことがよくある。
 これほどの問題が生じながらも、本人は病気だとは思っていない。
 自ら病院を受診することはまずない。
 家族はアルコールや薬物依存症のように体に重大な影響が出たり、暴力事件になりやすいものの場合には、比較的早いうちに本人を病院に連れて行こうとする。
 しかし、その他の依存症の場合には、借金が膨らんで いよいよ破産するほかないなど、どうにもならない状況になるまではなにも対処できないのが実情。
 治療の第一歩は、本人が依存症であることを認めること。
 そのためには、家族が本人の逸脱した言動や心身の異変を指摘してあげることが大切である。
 現代は、家族間のコミュニケーションが不足しているため、大事件が起きても、何も気づかなかったなどということがある。
 依存症の場合は、家族も振り回されるため、薄々は気付いているはずである。
 しかし、言わなくてもわかるだろうと思わずに 、気づいた ことを伝えよう。
 少しでも早く、本人が病気を認識することが、最悪の事態を避けることに繋がるからである。
 本人に伝えるタイミングは、本人が冷静になっているとき。
 アルコール依存症であれば酔っていないとき。
 一般論を振りかざしたり、相手を非難する言い方は、相手を頑なにさせるだけなので、避けること。
 本人の身になって辛さを共感すると共に、「あなたの心身を心配している」ということを伝えよう。
 話を聞き入れず、反論するようなら、依存症に陥っている可能性があるから、医療機関に相談しよう。
 最後に、平成28年4月6日の新聞に掲載されていた記事を記しておく。
 これは、薬物依存症にとってはかなり良い内容であるから、参考にしてもらいたい。
 ~患者との対話から断薬へ~
薬物依存症の専門治療
 覚せい剤や危険ドラッグなどを使用して、やめられなくなる薬物依存症。著名人の逮捕などで関心が高まるが、専門治療を行える医療期間は少ない。埼玉県立精神医療センター(埼玉県伊奈町)の取り組みを紹介する。
 薬物依存症患者の多くは、ストレスから逃れようと使用を始める。だが、続けるうちに以前よりもストレスに弱くなる。少量では効かなくなる「耐性」が生じることもあって、使用量や使用頻度が増えていく。
 すると脳が病的な状態に陥り、使用しないと強い不安が生じるようになる。この状態を「精神依存」と呼び、意思の力では使用の欲求を抑えられなくなる。
 このような患者に対して、日本で行われてきた対応は逮捕、収監だった。医療機関も患者を管理し、「今度使ったら通報する」などと脅す例もあった。
 ところが、こうした対応では十分な成果があがらず、出所者の再犯率は高いままだった。病院の高圧的な対応を嫌って通院をやめ、孤立して再び薬物に手を出す患者も多かった。薬物依存症は脳の病気で、それが原因でやめられないのに、精神論ばかりが重視される環境が患者を回復から遠ざけていた。
 同センターの薬物依存症外来は、通称「ようこそ外来」。副院長の成瀬暢也さんは 患者を「ようこそ」と出迎え、暮らしぶりを丁寧に聞き取る。患者が「また薬を使ってしまった」と明かしても責めず、「よく言ってくれました」と患者の勇気を評価する。使用の引き金になった出来事を一緒に振り返り、再使用を防ぐための方法を話し合う。
 患者には共通の特徴がある。自己評価が低く、人から見捨てられる不安や嫌われる不安が強い、人を信じられずに孤立する。幼児期の虐待など、つらい過去を持つ人も多い。そのような人を一方的に責めると、自己評価は更に低くなり、自分への嫌悪感が強まって、ますます薬物におぼれてしまう。
「患者に必要なのは安心して何でも話せる居場所。話すことで癒しを得られるようになると薬物に頼る必要はなくなる」と成瀬さん。
 ようこそ外来は、患者の約半数が1年以上の通院を続け、44パーセントが6ヶ月以上の断薬に成功している。
 同センターでは、外来の集団療法にも力を入れる。 臨床心理士の小川嘉恵さんと看護師ら2、3人がチームを組み、週に一度1時間半かけて行う。
「誘惑を断る」「怒りをコントロールする」など、自分を変える方法を学んだり、「自分の好きなところ」などのテーマと話し合ったりする。小川さんは「参加者が楽に過ごせる場になるように、心がけている」と話す。
 薬物依存症の集団療法は、今月から健康保険で受けられるようになった。だが、実施医療機関は国立精神・神経医療研究センター病院(東京都小平市)、神奈川県立精神医療センター(横浜市)など数少ない。
 成瀬さんは「刑法では、刑の一部執行猶予など、治療を重視する流れが強まっている。専門治療が可能な医療機関を増やす必要がある」と訴える。
  以上が、薬物依存症についてである。
 この本は、何てためになる本(?)なんだろう。
 また一つ、賢くなっちゃった‼
 網走刑務所を出所し、1ヶ月くらいしてから体力が戻ると、海藤に「トラブル・ハンター」の看板を作らせて、横浜を中心に看板を貼り、依頼があるまではフラフラしていた。
 たまに、債権回収や人探しの依頼が入ると仕事をしたが、この頃のうちは、何も目標が無かったし、何をやっても楽しいと思わなかった。
 トラブル・ハンターの依頼で一番多かったのは、金銭トラブルだった。
 なかでもうち的に面白かった依頼が、女の子からの依頼で、元彼氏に貸しているお金を回収してほしいという依頼である。
この女の子は、他にも何人かに頼んだらしいのだが、誰も成功していないという。
 その理由が犬である。
 回収相手は右翼らしく、犬を放し飼いにしていて、その犬のせいで回収ができないらしい。
 早い話が、凶暴な犬を放し飼いにしていて、回収相手のところまで辿り着けないらしい。
 回収相手も、「返さない」とは言っていないらしく、「取りに来れば返す」と言っているのだが、皆さん犬がネックとなり行けないのである。
 相手も相手だが、犬一匹どうすることもできないとは情けない話である。
 うちはその依頼を受けて、次の日には回収相手と連絡を取った。
 相手は、「家に取りに来たらお金は返す」と自信満々に言ってきたため、家まで行った。
 相手の家に着き、呼び鈴を鳴らそうとしたら、犬が牙を剥いて吠えだした。
 なるほど、誰も入れない わけである。
 しかし、うちにはそんなものは一切通用しない。
 うちは、生意気なその犬に、人間様に楯突くとどうなるかを教えてあげた。
  うちは犬に向かって、催涙スプレーを吹きかけてやった。
 一瞬で勝負がついた。
 催涙スプレーを喰らった犬は、地面に何度も顔を擦り付けてもがき苦しんでいた。
 こうしてうちは、自称右翼からお金を取り立てた。
 うちからしたら、とてもくだらない内容の仕事であった。
 うちは、刑務所を出所した後、美樹ちゃんの住んでいる所も調べている。
 守谷さんの所で仕事を手伝っていたから、そういったことをすぐ調べられる。
 調べて、美樹ちゃんの住んでいるところへ行ったが、男と住んでいた。
 本当にもう、美樹ちゃんとは終わってしまったのだと、只々悲しく思いつつ、美樹ちゃんの幸せを祈った。
 幸せを祈ったが、現実を受け入れることはなかなかできず、その後もずっと引きずっていた。
 二度と、美樹ちゃんのような子には出会えないだろうと思った......。
 美樹ちゃんとの別れは、うちにとっては、口では言えないくらいとても大きなことであった。
 あの日以来、うちが本当に楽しいと思えた出来事は何もない。 
 何をやっても張り合いがなく、つまらないと思うことばかりで、ワクワクすることがなくなった(これも今は違います)。
 トラブル・ハンターの仕事も、結局すぐ辞めてしまい、知り合いの仕事をたまに手伝ったりして生活をしていた。
 そんなある時、横浜で小田原の保護会で知り合った高橋さんとバッタリ会った。
 この頃のうちは、シャブばかりやっていた時期で、お金を持っていなかった。
 そんなうちに、高橋さんは良い金儲けを教えてくれた。
 この頃、あっちこっちにドン・キホーテができていた。
 ドン・キホーテに行き、ゼロハリバートン(ジュラルミンケースのこと)の中に、PlayStation 2のゲームソフトや、DVD 、CD を入れて持ってくるのである。
 簡単な話が、万引きである。
 ゲームソフトや DVD には、万引き防止のタグなどが付いているのだが、ジュラルミンケースの中に入れると、その万引き防止のタグが反応せず簡単に持って来ることができるのである。
 万引きしたゲームソフトや DVD は、ゲオに持って行き、買い取ってもらう。
 ジェラルミンケースの中には、ゲームソフトが4枚入る。
 買取額をチェックし、3000円以上で買い取ってくれるものだけを狙うと、12000円になる。
 なかには、4000円、5000円で買い取ってくれるものもあった。
 最低でも12000円になる。
 うちは、ジェラルミンケースを2個持ち歩き、1店舗で24000円である。
 毎日、神奈川にあるドン・キホーテにあっちこっちと行き、それだけでご飯を食べていた。
 最初の頃は、高橋さんと一緒に行動をしていたが、すぐに車を買い、一人で行動をとるようになった。
 この頃は、ドン・キホーテがあれば、一生暮らしていけると思った。
 まだ、ドン・キホーテの数は少なかったが、それでも毎日ドン・キホーテに行き、ゲームソフトや DVD を盗んで、ホテル暮らしをしていた。
  網走刑務所を出てからしばらくの間は、守谷さんの知り合いの所などを転々としていたのだが、ドン・キホーテをしのぎにするようになってからはホテル暮らしをするようになった。 
 それもビジネスホテルではなく、ラブホテルに一人で泊まっていた。
 ラブホテルの方が料金が安いし、ビジネスホテルよりも部屋もベッドも広かったからである。
 毎日寝るという習慣のないうちは、ラブホテルに入ってもゲームをしたり、シャブを打ったりして過ごすだけで、寝ることはほとんどなかった。
 ドン・キホーテに行く時間もバラバラで、オープンと同時に行くこともあれば、閉店間際に行くこともあったし、昼や夕方に行くこともあったが、オープンと同時に行くのと、閉店間際に行くのが一番手薄で楽であった。
 うちくらいになると、何時行こうが全く関係ないのだが、いつもバラバラの時間帯に行っていた。
 その方が神出鬼没で目をつけられづらくなるからである。
 うちは、ドン・キホーテだけで月収150万円以上は毎月稼がせてもらっていた。
 あそこほど盗みが楽にできるところはない。
 ドンキ様々である。
 貯金をしておけば良かったと、後で後悔したが、なんせあの頃はドン・キホーテーがあれば、一生楽に生活をできると考えていたから、貯金などというものを考えもしなかった。
 今思うと、本当にもったいない話である。
 貯金をして、まとまったお金があったら、ラーメン屋でもやれたのにな......と思う(ご利用は計画的に)。
 うちは自分の車を買ってからは、高橋さんと一緒に行動をしなくなったのだが、時々一緒にドン・キホーテに行くこともあった。
 最後に高橋さんと行ったドン・キホーテは、渋谷のドン・キホーテである。
 この日、高橋さんはパクられてしまった。
 この日は、夕方過ぎに高橋さんから誘われて、一緒に行くことにした。
 高橋さんと待ち合わせをし、高橋さんの車で渋谷のドン・キホーテに向かった。
 渋谷のドン・キホーテに着くと、まず高橋さんが先にゲームソフトを取るのを確認した後、うちも高橋さんに続いてゲームソフトをジェラルミンケースに入れ、待ち合わせの場所へ向かった。
 ドン・キホーテを出ると、店の外で高橋さんの声がしたので、あれ何であんなところで騒いでいるのかな?と思い、高橋さんのところへ行こうとしたら、高橋さんはお巡りに囲まれていたのである。
 高橋さんは、うちに気付かせるためにわざと大声を出して騒いでくれていたのである。
 高橋さんもうちに気づき、お互い目が合うと合図を送り、うちは人ごみの中に紛れてその場を離れた。
 こうして高橋さんはパクられてしまった。
 うちは高橋さんにはとても感謝している。
 うちがお金を持っていなくて、ピーピーしていた時に、悪いことではあるが、自分のシノギを教えてくれて(普通はこういう世界では自分がやっているシノギを教えたりはしないものである。シノギを教えればくわれたりしてしまうからである)、そのおかげで楽な生活を送ることができたのである。
 だから次の日、うちは渋谷のドン・キホーテに行き、高橋さんの弔い合戦(?)のつもりで、 普段なら一人で東京には絶対行かないのだが、行った。
 店内にうちが入ると、店員がうちの周りに4、5人ついた。
 たぶんこうなるであろうことは予想していたから、普段なら他のドン・キホーテに行くところなのだが、この日は高橋さんの弔い合戦のつもりで行っていたから、何が何でも仕事(?)を 成功させるつもりでいた。
 うちの場合、マークされていると思うと、逆に燃え上がってしまうのである(むしろうちレベルになると、と言ってもいいかもしれない)。
 マークされればマークされるほど、どうやって店員のスキを狙うかワクワクしてしまうのである。
 ドン・キホーテの店員のマークの仕方はとてもわかりやすい。
 あれは「あなたを警戒していますよ」と意思表示しているのかどうかは分からないのだが、うちからするとわざとらしくて笑えてしまうのである。
 とはいえ、4、5人にマークされているのは間違いないことだから、そのマークの目を盗んで、ゲームソフトをジュラルミンケースの中に入れなくてはならない。
 あっちこっちチョロチョロして、結局2時間くらいお店の中で粘り、店員の一瞬をついてゲームソフトをジェラルミンケースの中へ入れた。
 完璧な仕事であった。
 ゲームソフトをジェラルミンケースの中へ入れたうちは、階段を上り(当時渋谷のドン・キホーテのゲームコーナーは地下にあった)店を出ようとしたら、階段のところでいきなり「パーン、パーン、パーン」とサイレンが鳴り出した......。
 びっくりしたうちは、一瞬しくじってしまったのかと思ったら、「火災が発生しました。至急避難してください」
という店内放送が流れたのである。
 こうしてうちも、放送に従って避難をした。
 弔い合戦を終えたうちは、渋谷のドン・キホーテにその後は行っていない。
 心が病んでいたうちは、後輩にある女の子を紹介された。
 里奈ちゃんという子で、すらっとしたとても可愛い子であった。
 毎日会っているうちに、こともあろうかり里奈ちゃんに精神依存するようになってしまった。
 最初の頃は、毎日遊びに行ったり、飲みに行ったりしていただけだったのだが、気づくとその子がそばにいてくれないとだんだん不安になり、落ち着かないのである。
 一緒にいてくれるだけでよかった。
 それ以上のことは望まなかったが、とにかく 一緒にいてほしかった。
 もしかするとうちは、女の子に母親を求めていたのかもしれない......と気付いたのはこの時である。
 だから美樹ちゃんの時も甘えてばかりいて、美樹ちゃんの気持ちを考えることができなかったのではないだろうか。
 子供が母親に甘えるような調子で甘えているのではないだろうか。
 きっと美樹ちゃんは、そのことにうちよりも早く気づいていたのかもしれない。
 これも、やっぱり幼少期の大きな影響なのかもしれない。
 多分美樹ちゃんだけがそれを理解してくれて、一生懸命うちのために尽くしてくれていたのだと思う。
 やはり美樹ちゃんのような子は二度と現れないと思う。
 美樹ちゃんと出会ってから、女の子に対する考えが変わったと思う。
 まず一番変わったと思うのが、いつでも側にいて欲しいという気持ちが強くなったことである。
 誰でも良いというわけではないが、母性本能の強い子に依存するようになったと思う。
 もしかすると、美樹ちゃんのような子を探し求めているのかなという気もする(自分のことなのになぜかはっきりしないが美樹ちゃんを求めていたと思う)。
 うちの精神年齢は、やっぱり3、4歳で止まっている。
 本当にそうとしか思えないのである。
 見た目は正常なのだが、頭の中もしくは心の中は異常なのではないか......。
 一度病院に行った方がいいのかな......なんて思ってしまう。
 多分うちの中身は、大人になりきれずに子供のまま止まってしまっているのだと思う。
 幼少期って本当に大事なんだなと思う。
 里奈ちゃんとは毎日いろんなところへ遊びに行った。
 里奈ちゃんの友達を連れて大阪などにも遊びに行っている。
 お金はドン・キホーテさえあればすぐに作れたから、どこへでも行くことができた。
 そんなある時、里奈ちゃんと全く連絡が取れなくなり、精神的におかしくなってしまった。
 それまでは、毎日連絡も取れていたし、毎日会っていたから精神的にも少し落ち着いていたのだが、それが急にパッタリと連絡が取れなくなり落ち込んでいた。
 平成15年6月7日。
 この日も、朝から気持ちが沈んでいた。
 それを心配してくれた知人が、うちをお祭りに誘ってくれた。
 テキヤをやってる人で、飯島会の関係で知り合った人である。
 うちも気分転換のつもりで、最初は断っていたのだが、お祭りに行くことにした。
 行き先は蒲田である。
 東京は嫌だなとは思ったのだが、せっかく心配してくれているので車で向かった。
 途中、川崎大師までは首都高速を走り、大師からは一般道路を走った。
 神奈川県内は、昼だろうが夜だろうが警察に止められて、職務質問をされるなどということは絶対にないのだが、東京がすぐに停められる。
 うちが東京が大嫌いなのはそのためである。
 大師で高速を降り、産業道路から国道15号線に入り、もうすぐで目的地に着くという時に、パトカーに停止を求められた。
 こうなるのが目に見えていたから東京は嫌なのである。
 しかも、車の免許も取り消しになっていたため、無免許であり、車の中にはシャブも置いてあった。
 うちは止まらないで逃げることにした(最初から止まる気など全くない)。
 国道15号を川崎方面に向けパトカーを振り切り、途中、裏道に入りパトカーを撒こうと思い右折をした......。
 ところが、右折をしたその先は踏切で、しかもその踏切は電車が通過している最中であった。
 うちはとっさにブレーキを踏み、ギアをバックに入れ、15号に戻ろうとしたら、パトカーに道を塞がれてしまった......。
 普通の人ならそれで諦めてしまうのだろうが、うちはそんなことで諦めてしまうほどこういう時は弱くないのである。お巡りはきっと「馬鹿な奴め」くらいにしか思わなかったことであろうが、馬鹿なのはお巡りの方である。
 うちはそのままバックでパトカーに突っ込んでいき、思い切りパトカーにぶつけて強引に15号に出て、ギアをドライブに入れた。
 タイヤは煙を上げながら川崎方面を目指した。
 川崎から先に入ってしまえば管轄も変わるし、何よりも川崎に入ってしまえば道がわかるから逃げやすくなる。
 昼間で車は結構混んでいたため、うちは回転灯を取り出し、屋根の上に乗せて回転灯を回しながら逃げた。
 うちは、車にはいつも回転灯を積んでいた。
 こういう時に、大いに役立つからである。
 パトカーはサイレンを鳴らして追いかけてくるから、回転灯を回すと、一般車はうちの車も警察車両と勘違いをしてくれるのでどいてくれるのである。
 だからとても逃げやすくなる。   一度お試しあれ🤣
 お巡りは後ろで、
「コラ~‼ふざけるな~‼」
と怒鳴っていたが、ふざけてなどいない‼
 こっちは捕まりたくないから、真面目に逃げているのである。
 それをふざけていると思うとは、うちに対してとても失礼である。
 だからうちを捕まえられないんだよ(逃げるのに、なりふりなどかまっていられません‼こっちも命懸けなんですよ。事故らないように。そしてパクられないように)。
 こうしてうちは川崎に入り、パトカーを撒いた。
 車ベッコリと凹んでいた。
 車に乗っているうちを捕まえたかったら、死ぬ気で追いかけてくるか、うちを殺す気で追いかけてこなければ、うちを捕まえるのは絶対に不可能である。
 カーチェイスで、日本の警察などに負ける気なんかしない。
 所詮お巡りなど、うちからしたらへなちょこである。
 うちは一回で良いから、アメリカでカーチェイスをやってみたいと思っている。
 日本では全然面白くない。
 アメリカの警察と、生死をかけたカーチェイスをやってみたいものである。
 きっと楽しいだろうな......。
 パトカーを撒いたあと、車を止めてシャブを一発食い、心配してくれていた知人には、パトカーと追いかけっこをしたため顔を出すことができないことを伝えた。
 次の日の、6月8日にうちはパクられた。
 朝方、ラブホテルに入り、夕方過ぎまで一人で過ごしたのだが、いぜん里奈ちゃんと連絡が取れず、寂しくて仕方がなかった。
 うちはこの日もテンションが低く、もうどうでもいいやと投げやりになっていた。
 最後のシャブをやり、ドン・キホーテに行き、いつものようにゲームソフトをジュラルミンケースの中に入れたが、この時すでにマークされていたことには気づいていたのだが、どうでもよかったうちはそのまま店を出て、そのまま捕まった。
 バカな捕まり方をしたと思うが、あの時は本当にどうでも良いという気持ちの方が大きくて、むしろわざと捕まったともいえる。
 それくらい病んでいたのである。
 自分ではどうすることもできなかったし、どうしたらよいのかも全く分からなかった。
 緑警察署に連れて行かれ、窃盗の罪で捕まり、6月24日にシャブの使用で再逮捕された。
 緑警察に捕まると、すぐに何人かの知り合いが面会に来てくれた。
 その中に一人、うちがシャブをいつも手に入れていた人も来てくれたが、その人はうちがチンコロしていないか心配だったらしいが、余計な心配である。
 うちは、いちいちそんなことを言ったりはしない。
 シャブは、渋谷でイラン人から買ったと言っている。
 そこは抜かりないです。
 いくら病んでいて弱っていたとはいえ、そこはそこである。
 普段から世話になっている人や、仲間を裏切るようなことは絶対にやらない。
 普段は愛情に飢えた子供であっても、こと犯罪については一流(?)なのである。
 仲間を裏切るようなことはやらない。
仲間じゃないやつはその限りではないが......。
 緑警察で捕まった時は、しばらくの間心が苦しかった。
 どこかにうちを理解してくれるママ(?)はいないのかな...... なんてね。
 こうしてうちは、窃盗と覚せい剤取締法違反で起訴された。
 この時は、上申書を書き、裁判所に提出をしているのだが、半分は同情を誘う作り話を書いている。
 そういったところも、抜かりはない。
 平成15年8月7日に、
「主文、被告人を懲役2年4月に処する。
 未決勾留日数中30日をその刑に算入する。
被告人は、
 第一、平成15年6月8日午後8時30分頃横浜市緑区 霞が丘5丁目1番地所在の株式会社ドン・キホーテ東名横浜インター店内において、同店店長桑原慎太郎管理に係るゲームソフト3点、販売価格合計17930円相当を摂取した。
 第二、 法定の除外事由がないのに、平成15年6月8日頃横浜市瀬谷区中央35番地ハイツ川口敷地内( 駐車場のことである)において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンの塩類若干量を含有する水溶液を自己の身体に注射し、もって覚せい剤を使用したものである。
 被告人の判示第1の行為は(窃盗のこと)刑法235条に、判示第2の行為は覚せい剤取締法41条の3第1項第1号、19条にそれぞれ該当するところ、被告人には前記の前科があるので刑法56条1項、57条により再犯の加重をし、以上は同法45条前段の併合罪であるから、同法47条本文、10条により 犯罪の重い判事第1の刑に同法14条の制限の範囲内で法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役2年4月に処し、同法21条を適用して未決勾留日数中30日をその刑に算入することとし、訴訟費用については刑事訴訟法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととする。
 本件は、被告人が覚せい剤を自己使用するとともに、小売店において、ゲームソフトを摂取したという事案である。
 被告人は、前記被害品をジュラルミンケースに入れて摂取していて、その犯行態様には巧妙な面がある。
 被告人は、密売人から覚せい剤を入手して使用していて、その覚せい剤の使用の犯行態様も芳しくない。そして、約8年前から覚せい剤を使用し、今まで100回ほど使用したと供述していること等に照らして、その覚せい剤に対する親和性も否定しがたい。
 そして被告人は平成12年6月宣告にかかる累犯前科もあり、その執行終了期間もない時期に本件各犯行に及んだことを併せ考えると、被告人には遵法精神が欠如していたと認められる。
 以上の事柄を考慮すると、被告人の刑事責任は相当重く、相当期間の実刑はやむを得ない。
 そこで、被告人が当公判廷において、本件について真摯に反省していること、本件窃盗の被害者は還付されていること、被告人には交際者である結婚予定の女性がいること(本当はいませんよ。上申書に書いた嘘である)、身柄拘束を相当期間受けていることといった被告人に有利な諸事情を考慮しても主文程度の実刑はやむを得ないと判断した」
と判決を言い渡された。
 そして、8月22日に自然確定して、アカ落ちした。
 アカ落ちすると、隣の横浜刑務所に移り、毎回のことなのだが、面接やテストなどを受けて、最終的にどこの刑務所に行くかが決まる。
 横浜は、アカ落ちすると、アカ落ち房へ行くのだが、そこも独居部屋と雑居部屋があり、どちらかに分かれる。
 雑居部屋に入れると、なぜか雑居部屋だけはテレビが見れて、独居部屋だとテレビが見れないという不公平なことをしているという話を聞いたことがあり、うちはダメ元で、担当に雑居部屋に行きたいと言ってみたら、何故か雑居部屋に行くことができた。
 どうやら拘置所では、うちの情報はないのかもしれない。
 てっきり知られているのかと思ってたが、あのことを刑務所側が知るのは、移動した刑務所かららしい。
 なぜかと言うと、刑務所に入ると身分帳を刑務所は作成する。
 それはずっと残るらしく、最後に入った刑務所に保管されているらしく、再犯などで再び刑務所に入ると、その身分帳は、最後自分が入所していた刑務所から次に入る刑務所の方へ運ばれるらしいが、拘置所にはに身分帳はいかないようである。
 アカ落ちして分類にかけられて、例えばそのまま横浜拘置所刑務所に務めることになれば、横浜刑務所に身分帳が送られてくるのだが、そうではなく、他の刑務所に行く場合は送られてこない。
 だから、どうやら横浜刑務所にはうちの詳しい資料はないらしいが、そうなると、今までずっと拘置所で独居になっていたのはたまたまということなのだろうか?
 よくわからない。まぁ、独居部屋の方が気を使わないから楽で良い。
 考えてみたら、初犯の時も、アカ落ちしてから雑居部屋だったな。
 でもあの時は、テレビは見れなかった😖😤
 刑務所には色々な役割の担当がいるが、分類の担当がどこの刑務所に行かせるかを判断する。
 だから、アカ落ちすると、必ず分類の担当と面接をするのだが、うちはたまたま分類の担当に廊下で会い、「お前はまた北海道で良いのか?」と聞かれ、「お願いします」と言ったら分かったと言われて終わってしまった。
 随分と適当だなと思ったが、ちゃんと希望通り北海道の刑務所に行くことができた。
 3回目の刑務所は、月形刑務所であった。
 月形刑務所までは飛行機とバスを使って行ったのだが、その日は天気が悪くて、朝から雨が降っていた。
 そのため、飛行機も乱気流にもまれ、その度に、「ガン!!」と飛行機は揺れるし、おまけに飛行機の羽はブルンブルン上下に揺れていて、折れるのではないかとずっと恐怖であった。
 飛行中は、ずっと真っ青な顔をしていたらしい。
 札幌空港に無事着陸した時は、本当にホッとした。
 空港に着くと、刑務所のバスが迎えに来ており、そのバスに乗って月形刑務所に向かった。
 月形刑務所に着くとそのまま新入工場に行き、月形刑務所での生活が始まった。
 なぜか雑居部屋に入ったのだが、3日くらいしてから担当に、「悪いお前は雑居は駄目だったから独居に移すから」
と言われて、それから出所するまでの間独居部屋で過ごした。
 月形刑務所ではいろんな人に、
「どうしたら独居部屋にいきなり行かせてくれるの?」
「どうやったら独居に行けるのか教えて欲しい」
と言われたが、そんなもの自分で考えろという感じである。
 どうせ教えたところで、どうにもならないのだから。
 うちにとっては、とてもデリケートな問題なのである。
 そこらの、デリカシーのないおっさん達には、理解もできないことなのである。
 こうして月形刑務所での生活が始まり、新入工場で行動訓練や面接などをした後、一般工場である3工場におりた。
 三工場の仕事は、豆の選別と紙袋を作る工場で、とても楽な作業ばかりであった。
 いわゆるモタ工場(年寄りが多く、もたもたした人が多いからきてる)と言われている工場で、半分以上は年寄りしかいない工場であった。
 水戸少年刑務所でいうところの、内装工場よりはちょっとまともかな?という工場であった。
 老人ホームみたいな感じである。
 30人ちょっといる工場であったが、2/3は年寄りしかいなかった。
 それでもあとの1/3は若い人間もいた。
 うちにとって、月形刑務所は色々な意味で楽しい刑務所であった。
 3工場に入ってすぐ、好きな人ができてしまったのである。
 浩二さんという人で、うちより1つか2つ年上の人だった。
 最初は全く何でもなかったのだが、3工場に行き、すぐに仲良くなり、いつも一緒に話をしたりしているうちに好きになってしまったのである。
 この時期は、うち自身心がとても病んでいた時期だったから、うち的には浩二さんとの出会いはとても大きかった。
 毎日工場に出て、浩二さんと話をするのがすごく楽しかった。
 土日も祭日もなしで、毎日工場に行きたいくらいであった。
 浩二さんと一緒に話をできるだけで、うちは落ち着いて生活をすることができた。
 休憩時間や運動時間も、工場ではいつも一緒に行動をしたりしていた。
 そのため、月形刑務所での生活はとても楽しくて、浩二さんに夢中になっていたため、それまでの苦しさが全く消えてしまったのである。
 うちは、女の子に求めていたのは、やっぱり彼女ではなく、母親だったのかもしれないと、この時にハッキリと思った。
 女の子はうちの中では恋愛対象ではなく、母親(ママ)なのかもしれない。
 美樹ちゃんのこともそうなのかな?と考えるとちょっと違うように思うのだが......(いやいや、違わないでしょ??)
 でも、浩二さんと一緒にいた時は、浩二さん以外の人に目がいかなかったことは確かな話だし、女の子のことを考えることが一切なかったのも事実である。
 浩二さんとずっと一緒にいられるのであれば、刑務所を出れなくても構わないと思ったくらい、浩二さんに対しての思いが強かったのは確かである。
 一日中浩二さんのことばかり考えていた。
 うちの場合、肉体的な繋がりよりも(本当は肉体的な繋がりもうちとしては欲しいのだが、それはまず叶うことがないので......)、精神的な繋がりが強くなるため、好きな人がそばにいるというだけでとても幸せな気分になれるのである。
 この時点で、かなり精神的に依存していると言える。
 そのため、土日や祭日、ゴールデンウィークや正月休みに入ると、好きな人にも会えなくなるので、逆にイライラしてしまうのである。
 刑務所は、時としては、うちにはパラダイスになってしまう。
 なぜなら、普通の人は恋人や奥さんとは離れ離れになるが、うちの場合は恋愛対象がいつでも身近にいるからである。
 だから刑務所に入ってばっかりいるのかな?
 そう考えるとあまり良くない......。
 月形刑務所に限って言えば、あの時期は本当に心が病んでいて、精神的にはあまり良い状態ではなかったから、それこそちょっと気を抜けば自殺なんてことも考え出さないとは言えない状態だったため、浩二さんと出会えたことはうちにとっては本当に大きかった。
 浩二さんと出会えて、浩二さんといつも一緒にいることができたから、精神的にも落ち着いて生活をすることもできたし、病んでいた心も治癒することができたと言える。
 浩二さんには感謝している。
 うちにとっては、女の子よりも男の人(好きな人)と一緒にいる方が精神的には落ち着くのかもしれない。
 やっぱりうちは、見た目は男なのに、中身は女の子なんだなと思う。
 どうして男なんかに生まれてきちゃったのかな......。
 オナニーをしたことのない読者は、多分いないことと思う。
 なぜいきなりこんな話をするかと言うと......。
 男なら(女の子もかな?)一度はオナニーを経験しているだろう。
 うちも、初めてやったのは中学1年生の時だが、未だに時々やっている。
 皆さんは、どんなやり方をしているのであろうか?
 エロ本を見ながらやる人、アダルトビデオを見ながらやる人、頭の中で空想しながらやる人と色々なやり方があると思う。
 うちは、いつも空想しながらやるのだが、空想をするのはずっと好きな男の人で、やっている時の自分は女だと思ってやっていた。
 ずっとそうだったから、それがうちの中では当たり前のことだったのだが、普通の男の人は、女の子のことを考えるんですね。
 最近気づいた‼
 オナニー1つにしても、やっぱりうちって女の子なんだなと思った。
 ずっとうちの中では好きな男の子の事を空想してやるのが当たり前だったし、多分これから先もそうなんだろうなと思う(空想の世界では何回自分が妊娠してるか数えきれないです)。
 うちの中では、男は恋愛対象、女は母親的存在なのかな?
 自分でも女の子をどう見ているのかよく分からないというのが、正直なところである。
 一つ言えることは、 女の子には子供のようにいつも甘えていたい。
 そして、グイグイとうちを引っ張ってくれる子じゃないと、うちは無理だと思う。
 やっぱり、ママを求めているのかもしれない。
 ダメージの受け方で考えると、女の子と別れたり、喧嘩したりした時の方が精神的なダメージはとても大きい(これも今は違います)。
 男に対しては、最初から叶う恋ではないという思いがあるからだと思うが、ショックを受けることはあっても、そう長く引きずることはない。
 しかし、ヤキモチを焼くのは、男の方が強い。
 浩二さんが、他の人間と楽しそうに話をしていたりするのを見るのはとても嫌だった。
 月形刑務所に入った時は、新宿の姐さんが引受人になってくれた。
 最初は、商売が商売だから、許可されないかなと心配したのだが、すんなりと許可された。
 だから、姐さんとは手紙のやり取りをすることができ、毎月の姐さんとの手紙のやり取りは楽しみの一つでもあった。
 少年時代からうちは鑑別所や少年院に入っていたが、手紙のやり取りは一回もしたことがない。
 月形刑務所に入って、初めて手紙のやり取りをした。
 だから、それまでは手紙のくる人が羨ましかったが、手紙のやり取りをできるようになり、やっぱり手紙のやり取りができるというのは良いものだなと思った。
 うちの場合は、考えようによっては好きな人がすぐそばにいるから、他の人たちよりも恵まれているのかもしれないが......。
 刑務所には、色んな人間がたくさんいるが、中にはとても行儀の悪い人間や、どうしようもない人間もたくさんいる(まあ刑務所に入っている時点で、皆さんどうしようもない人間なんだけどそこはあまり深く考えないようにして......。)
 特にうちが思ったのは、住吉会の人間は、本当に行儀の悪い人間が多いと思った。
 これは、個人の感想なので必ずしもそうとは限らないとは思うのだが、住吉会の人間はろくなのがいない(うちがいた3工場のことである)。
  3工場にも、一人ろくでもないのがいた。
 S会の内田というやつで、茨城出身のおっさんだ。
 田舎者丸出しで、話すときも方便丸出しの野郎だった。
 聞く話によると、そこそこ偉いらしいが、うちには全くそうは見えなかった。
 部屋にいるカタギの人間をいじめたり、他の人間には部屋で大便をさせなかったりしていたらしい。
  内田はとても意地汚い野郎で、運動会の時に、土井というやつからアイスをもらう約束をしていたらしいのだが、土井はその約束を忘れて、アイスを食べてしまったらしい。
 そのことを内田はいつまでも根に持っていたらしく、
「土井の野郎は、俺にアイスをくれるって言ってたのに手前で食いやがった」
といつまでも言っていたが、まるで乞食ではないか。
 よく恥ずかしくもなく、そんなことをいつまでもいつまでも言っていたものだと思う。
 そんなに刑務所で出すアイスが食べたいかな?と笑えてくる。
 食べ物といえば、住吉会の人間は、毎日食べ物の話ばかりしていた。
「今日のおかずは何だ?」
とか
「明日は何が出る?」
とか、そんなに気になるのか?
 刑務所で、何が出るかなんて、全然うちは気にしたこともないけど、住吉会の人間は娑婆で良いもの食べないのか?
 いいヤクザ者が、刑務所で出る飯の話って......レベル低すぎるだろ。
 情けないと思わないのかなと思う。
 刑務所なんだから、たいしたものが出るわけじゃないんだから、出された物を黙って食べてろよと思う。
 それができないなら、パクられるようなことなどやめて、真面目に働けば良いんだよ。
 刑務所で出る100円のアイスなんか、シャバでいくらでも買って食べれば良いだろうと思うのだが、バカはそういうことを考えられないのかなと思うと、かわいそうな奴らだと同情してしまう。
 それとも、住吉会の人間て、100円のアイスも買えないくらいお金を持っていないのかな?もしかして ......。
 だとしたら、ヤクザは向いてないと思うから、堅気になって働いた方がいいのでは?
 そしたらアイスくらいは毎日食べれるぞ‼🤣
 なかにはビっとしている人も多い。
 そういう人たちが、一部の馬鹿のせいで、同じに見られるのはちょっとかわいそうな気がしてしまう。
 変な見栄ばかり張ってないで、そういったところに気を使えと思う。
 刑務所の中で息巻いても仕方がないでしょ。
 それとも、刑務所の中じゃないと息巻くこともできないかわいそうなやつなのかな......。
 やくざ者ってやっぱり大したことないんだな。
 所詮、みんなで集まって看板がなきゃ一人では何もやりないのであろう。
 だから集まるのか......。
 ダサすぎる。
 良い大人がいつまでもいつまでも、ガキみたく群れていないと何もできないとはゞ(≧ε≦*) 爆笑。
 うちも、内田のおバカにはとても迷惑を被った。
 ある時、うちのところに来て、「この野郎俺のことシカトしてるのか」
と言われ、取り調べになってしまった。
 シカトも何も内田みたいなチンピラなど、はなから相手にもしていない。
 内田のせいで懲罰にはならなかったものの、工場が変わってしまい、浩二さんと離れ離れになってしまった。
 あの糞野郎だけは許せない。
 せっかく毎日、浩二さんと過ごすことができて、うち的には幸せだったのに、それを邪魔された内田みたいな勘違いしたチンピラは大嫌いである。
 刑務所でいきがんないで、娑婆でいきがれよ‼
 本当にダサい野郎である。
 うちは、浩二さんと毎日過ごせるだけで楽しかったのに、それをぶち壊されて、頭にきたのは言うまでもない。
 うちは、チンピラのせいで、3工場から清掃工場(経理工場)に移動となったが、清掃工場はとても楽で、良い工場であった。
 舎房の清掃や、洗濯物の回収と返納などの仕事で、休憩時間もとても長く、おまけに毎日入浴することができ、最高の工場であった。
 浩二さんが一緒だったら、もっと良かったんだけどな......。
 一方の内田は、問題ばかり起こし、行儀が悪かったせいで(うちの前にも問題を起こしたばかりで、取調べから戻って来たばかりだった)、工場にはどこにも行けなくなり、独居房でずっと生活をしていたようであるが、自業自得である。
 うちに喧嘩など売ってくるのがいけない。
 どこの刑務所に行っても、ヤクザ者が工場を仕切っているが、「勘違いしているんじゃねえよ」と声を大にして言いたい。
 アウトローの世界で、やくざ者が一番なんて誰が決めたんだと思う。
 勝手に仕切ってるんじゃねぇよ。
 こっちは不良じゃないんだから、しゃしゃり出てくるなと思う。
 不良は不良同士で勝手にやっていろ‼
 常に不良が仕切ろうとするなと思う。
 月形刑務所では、仮釈放で出所している。
 落ち着いて(精神的にという意味)生活ができたのは、やはり浩二さんがいてくれたことがとても大きかった。
 美樹ちゃんのことや、里奈ちゃんと連絡を取れなくなり、精神的にガタガタな時期で、人生で一番心が病んでいた時期である。
 うちは、ガキの頃から何でも一人でやれると思い込んでいたが、美樹ちゃんと出会ってからは、自分がとても精神的に脆いと気づいた。
 まさか、自分でもこんなに脆い部分があったとは思いもしなかった。
 悪さに関しては図太いうちにも、こんな弱点があるとは思いもよらなかった。
 しかも、重症であり、下手すると自殺まで考えてしまうからヤバすぎる。
 心の病気は本当に怖いと思う。
 もっと強いと思っていたのだが、ひょっとして、シャブをやるようになって、精神的に弱くなったのかな?
 そんなことことってあるのだろうか?
 もしそうだとしたら、シャブはやっぱり辞めないといけないなと思う。
 思うがなかなか辞められないのがシャブなのである。
 月形刑務所で浩二さんと過ごす事によって、普通の状態に戻れたと言っても言い過ぎではない。
 それくらい、あの頃のウチはガタガタであった。
 浩二さんがいてくれたから、浩二さんのそばにいることができたから苦しむこともなく、毎日楽しく刑務所生活を送ることができ、しかも落ち着くことができた。
 浩二さんは、うちの精神安定剤の役目をしてくれていた(しかも自然と)。
 気持ちが楽になり、心の傷を癒すことができたのは、浩二さんのおかげである。
 平成17年8月10日。
 3ヶ月の仮釈をもらって月形刑務所を出所した。
 浩二さんとずっと同じ工場でいることができてたら、満期でもよかったな......。
 こうしてうちの恋(?)は、出所と共に終わったが、気持ちはとても晴れ晴れとしていた。
 浩二さんには本当に感謝しています。
 浩二さん有難う‼
 20代は、色々なことがあったなと思う。
 特に、20代後半はうちにとっては辛い日々が続いたと思う。
 美樹ちゃんとの出会いが、うちにとってはとても大きかったが、一番後悔していることでもある。
 もっとうちがしっかりしていたら、あんな形で別れることはなかったのにと、未だに後悔している。
 比べるのは良くないことなのだが、あれから今日まで、美樹ちゃん以上の女の子には出会っていない。
 多分この先も、美樹ちゃん以上の女の子に出会うことはもうないと思う。
 「サヨナラ」という言葉は大嫌いである。
 サヨナラが連想させる言葉は、うちの中では「永遠にさよなら」だからである。
 美樹ちゃんからの最後の手紙に書いてあった言葉。
「サヨナラ」
 この言葉を聞くだけで、あの日のことが蘇る。
 だから、この言葉だけは聞きたくない。
 もし、あの時パクられるようなことをしていなかったら、今頃はどうしていたのかな?
 10代の後半から、少年院や刑務所を出たり入ったりしている。
 よく聞く話なのだが、少年院や刑務所に出たり入ったりを繰り返していると、そこで年が止まると言われている。
 だとすると、うちは16歳からずっと時が止まっていることになるのかな?
 それじゃなくても、精神年齢は3、4歳くらいなのに困ったものである。
 まてよ、うちの1日は104時間だから、本当はまだ十歳ぐらいじゃないの?
 それだと納得できてしまう。
 うの成長はとても遅いのである。


 


 
 
  
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