波乱万丈

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10代後半

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 学校を辞めて、日立の工場で働き始め、一時は親父に見つかりどうなるかと思ったが、おじさんが上手く話をしてくれた。
 どんな風に話をしてくれたのか全く分からないが、よくあの頑固親父が納得をしたものである。 
 うちの仕事は、梱包された荷物をパレットにどんどん積んでいくという、とても簡単なものだった。
 山口という人が、仕事を教えてくれた。
 山口は、仕事はとても真面目な人なのだが、お酒を飲むととてもだらしなくなる人だった。
 うちは、寮に三人で生活をしていたが、山口は同じ寮生活ではあったが、一人部屋で生活をしていた。
 休みの日に行くと、必ずお酒を飲んで酔っ払っていた。
 そんなある時、山口が車を持っていることを知り、酔っ払った山口を無理やり車に乗せて、ドライブに行った。
 途中、山口に運転をしたいと言って、運転をさせてもらった。
 山口が乗っていた車は軽だった。
 運転を変わると山口は寝てしまい、うちは奥多摩に向かって走った。
 これが初めて運転をしたきっかけで、それから毎日山口の部屋に行くと、勝手にキーを持ち出して、奥多摩に一人で走りに行っていた。
 仕事が終わると、毎日奥多摩に出かけていたから、毎日寝不足で仕事に行っていた。
 ある時、寮に戻るとマイク放送で呼び出された。
 内容は、親父からの連絡だった。
 多分、寮の番号をおじさんにでも聞いたのであろう。
 電話に出ると、
「毎日夜遅くまでどこに出かけてる、9時には部屋に戻れ」
などど言われた。
 ガキでもあるまいし(いえ、目茶苦茶ガキですけど......)、うちに一々指示をするなと思い、一言
「うるせー!!」
と言って電話を切った。
 うちの中では、家を出た時点で、親は一切関係ないものになっていたから、本当に気分の悪い出来事であった。
 それ以後は、連絡が来ても一切無視してやり過ごした。
 車を覚えたうちは、毎日走りに行くことに夢中であった。
 奥多摩湖に行くと、走り屋もいた。
 うちはノーマルの軽自動車だったが走り屋を見つけると、後ろからパッシングをして煽ったりして勝負をするのにハマっていた。
 走り屋は、ほとんどが形だけで、ノーマルの軽でも負けたことがない。
 うちはバイクよりも、車の運転のほうが自身があった。
 青梅駅から奥多摩湖(有料道路がある橋のところまで)までの間を毎日走っていたから、自然とコースも覚えた。
 勘も良かったから、カーブに入っても、対抗者が来るか来ないかなんとなく分かったから、平気でカーブでも逆車線に入り、他の車を抜き去ったりしていた。
 車で怖いものは、何もなかった。
 よく、ハンドルを握ると人が変わるというが、うちはまさにそれであった。
 スピード狂で、軽自動車では全然物足りなく感じていた。
 しかし、奥多摩を毎日毎日走り、運転の技術を磨いた。
 たまに、街の中をドライブすることがあった。
 うちのお気に入りは、夜の横田基地である。
 最初はJ君が住んでいる近くまで行きたかったのがきっかけで行き、J君がアメリカに帰ったあとは、J君との日々の思い出の場所として行っていた。
 夜景がものすごく綺麗で、よく車を止めて夜景を楽しんでいた。
 J君がいた所というだけで、余計にうちには綺麗に見えていたのかもしれないが、夜の横田基地は、うちの一番のお気に入りスポットであった。
 特にJ君がアメリカに帰ってからは、よく横田基地に走りに行っていた。
 横田基地の夜景を見ていると、嫌なことを忘れられ、心がとても落ち着くのである。
 家を出たことにより、J君と会う回数が減った。
 たまに仕事をサボって、J君の家に遊びに行っていた。
 仕事は楽だったが、遊びたい盛りのうちにとっては、とてもつまらないものであった。
 特に、J君がアメリカに帰ると知ってからは、一気にやる気を失くし、休みがちになってきた。
 寂しさを紛らすために、車で走ってばかりいた。
 J君がアメリカに帰ったあとから、うちの生活はどんどん荒れた。
 あの頃は、J君がうちの心の支えだったのだと思う。
 おじさんや先輩からも心配をされて、よく食事などに連れて行ってもらったり、元気付けてくれた。
 そんなある時、一人の先輩を誘って奥多摩に走りに行った。
 この頃のうちは、車を運転しているときだけが、嫌なことを忘れることが唯一できた。
 いつものように奥多摩に行くと、バカみたく走り回った。
 そろそろ帰ろうかという頃、レガシーが前を走っていた。
 うちはレガシーの後ろにピッタリとくっつき、パッシングをした。
 かなりしつこくパッシングをして、レガシーを煽り、カーブに差し掛かったところで逆車線に入り、レガシーをぬいた(この頃はまだキャッツが中央線になかったから、走りやすかった)。
 バトルの開始である。
 どんどんスピードを上げていき、うちはウキウキしながらハンドル操作をした。
 時間にすると、多分2、3分位だったのかもしれないが、結果はうちの勝ち。
 呆気なかったなと思いながら、自動販売機で止まり、先輩とジュースを買った。
 道は1本しかないから、当然レガシーが目の前を走り抜けて行く。
 うちは先輩に、
「2回戦行きますか?」
と言って車に乗り込み、レガシーを追った。
 レガシーに追いつくと、1回戦目と同じようにピッタリと後ろにくっつき、パッシングの連打を浴びせた。
 そしてどかないので、カーブに差し掛かったところで1回戦目と同じように対向車線に入り、レガシーを抜いた。
 第二回戦目の始まりである。
 1回戦目同様、余裕で勝った。
 スポーツタイプの良い車に乗っているくせに、運転はうちより下手くそだった。
 車がとても可愛そうだと思った。
 奥多摩に走りに来ている車の殆どが、走り屋風の改造をした車ばかりなのに(夜に限る。昼間は当然、ファミリーカーのほうが多い)、いざ勝負をしてみると、みんな大した走りをしない(出来ないかな?)。
 形ばかりの車で、乗っている人の運転技術は大したことがない。
 一方、うちはノーマルの軽自動車だったが、運転はとても上手かった(自分でそれを言うか、普通......?敢えて言わせてもらう。うちの運転はとても素晴らしい)。
 うちこそ、改造車に乗って、奥多摩を走ってみたかった。
 きっと、素晴らしい走りをしたことであろう。
 レガシーとの二回戦目も余裕で勝つと、先輩がトイレに行きたいと言うから、車を端に寄せて止めた。
 先輩が用を足しているときに、レガシーが目の前を走り去って行った。
 うちは先輩を呼び、
「もう一発からかってやりますか?」
と言って、車に乗り込んだ。
 レガシーを追いかけていき、1回戦、2回戦同様に後ろにピッタリとくっつき、かなりしつこくパッシングをして煽りまくった。
 レガシーの速度が上がる。
 軽自動車だから、直線では絶対に勝つことができないが、奥多摩周辺はカーブばかり続く道なので、軽自動車でも、運転が“上手ければ”ピッタリとくっついて走れる。
 1回戦、2回戦同様にうちは対向車線に入り、レガシーを抜いてやった。
 しかも、うちを抜き返しやすいように、暫く対向車線を走ってあげた(いわゆる“ハンデをあげた)。
 時速は、100キロを超え、タイヤはキューキューキューキュー鳴っていた。
 相手の走りが変わったなと思い、ワクワクしながらハンドル操作をした。
 対向車線から元の車線に入り、レガシーは後ろから必死についてきている。
 しかし、少しづつ差が開いていた。
 先輩がうちに、
「大丈夫か?」
と聞いてきた(うちに、大丈夫か?なんて、失礼な言葉である!!)。
 うちは先輩を見て、
「全然余裕ですよ。でも、この先に急カーブがあるから、このままの速度じゃ曲がりきれないですけどね」
と言って、レガシーを少し引き離してから、そこの急カーブの手前で減速をしてからカーブをやり過ごした。
 一方、レガシーはというと......。
 カーブを曲がり切り、そこから直線になる。
 うちはルームミラーで後ろのレガシーを確認した。
 すると、レガシーがうちの視線から消えてしまったのである。
 うちはビックリして思わず「エッ!!」と声を出してしまい、車を止めた。
 レガシーはカーブを曲がり切れずに、そのままガードレールを突き破り、谷底へ落ちてしまったのである。
 先輩に、
「ヤバい!!車が消えた!!谷底に落ちちゃいましたよ!!」
と叫んだ。
 うちは怖くなり、車を走らせた。まさかの、転落事故である。
 その後どうなったか知らないが、無傷ですんだということはないだろうと思う。
 その日はそのまま寮に帰った(助けろよ!!レガシーよ、ゴメン🙏)。
 奥多摩でこんなことがあったのに、次の日にはもう、ケロッとして、いつものように車を走らせていた。
 事故るのはうちが悪いわけではない、下手くそなのがいけないんだと、あの頃は考えていたのである。
 J君がアメリカに帰ってしまってからのうちは、寂しさから自暴自棄になっていたのである。
 だから、無茶をやらかし、狂っていた。 
 青梅駅から奥多摩駅、そこからさらに車で走り、奥多摩湖有料道路方面に向かうと山梨県に入る。
 山道をずっと走ると、やがて甲州街道にぶつかり、八王子方面へ向かって走るのがうちのドライブコースだった。
 ある時、スカイラインが走っていたので、いつものようにパッシングをして煽り、追い抜いてやった。
 暫くスカイラインは後ろにくっついてきてた。
 うちは、信号が赤だったから車を止めた。
 すると、スカイラインがうちの前に入ってきた。
 何だこいつはと思っていたら、降りてきた運転手は、女連れのヤクザ者だった。
 目茶苦茶怒っていた。
 うちは車の窓を開けて、そのヤクザ者に、
「ヤクザがスカイラインなんかに乗るな!!」
と言って逃げた。正直、殺されるかと思った。
 毎日車に乗っては誰から構わずパッシングしたり、煽ったりしていたが、あるときは検問をやっていて、捕まりたくなかったうちは検問を突破して、パトカーにしつこく追いかけられたこともあった。
 奥多摩でバトルをやるのも楽しかったが、パトカーに追いかけられるのも、スリルがあって楽しかった。
 うちは、自分で車のハンドルを握っていて、警察に捕まったことは一度もない。
 車の運転だけは、誰にも負けない自信がある。
 唯一、信用できる相棒が車である。
 車は唯一、うちの思い通りに走ってくれる良き相棒である。
 うちはバイクより、車が好きだ。

車の運転は、素晴らしいうちだが、バイクだけはからきし自信がない。良く後輩に、「あんな運転よくできますね」と言われる。
 だからうちは後輩に、「バイクでよくあんな運転できるな?怖くないのか?」と聞く。
 後輩は、車は怖いけどバイクは平気だという。
 うちは逆に、車は平気だが、バイクは怖い。
 バイクは、事故ったら確実に死ぬだろう、という恐怖が先に立ってしまう。
 青梅、奥多摩が一番好きで、住みたいところであると述べたのは、16から毎日のように走りに行っていたということもある。
 休みの前の夜、いつものように走りに行った。
 この日は、甲州街道を塩山に向かって走った。
 途中、工事の看板が目立ったが、全く気にすることなく走った。
 1ヶ所、マンホールがものすごく突き出ていたところがあった。
 ヤバいと思ったときには、「バン」と物凄い音を立て、車の下っ腹を打ち付けてしまい、オイルを撒き散らして車が止まってしまった。
 スピードを出していた為に、ブレーキが間に合わなかったのである。
 うちは車を端に止め、たまたま通りかかった車を止めて、近くの駅まで乗せてもらい、朝方まで待って電車で帰った。 
 このことが会社にバレて、首になった。
 首になったこと自体はちょうど良かったのだが、車は悪い事をしてしまったと思った。
 首になったあと、どこに行くかが決まるまでは、寮にいても良いと言われたが、うちは行くところを全く考えていなかった。
 立川に買い物に行き、その後美容院に行った。
 髪の毛をやってもらっている間、雑誌を読んでいた。
 女性自身だったか、女性セブンだったかは、ハッキリと覚えていないのだが、女性誌を読んでいた。
 すると、求人の欄があった。
 うちは、その求人欄の一番最初に載っていたところで目が止まった。  そこには、寮付きと出ていて、場所は京都とあった。
 “女性誌”であるということを忘れていた。
 京都ということに目が生いき、ここなら、何かあっても親父も来ることはないだろうと思い、仕事の内容もわからないままに、連絡先を暗記し、美容院を出たあと、すぐに電話をした。
 すると、住み込みで仕事をやれるということだったから、うちは行く旨を伝えて電話を切った。
 寮に戻り、行くところが決まったからと伝え、荷物をまとめて寮をあとにした。
 京都には、夜行バスで行くことにした。
 バスだと他の交通機関よりも、安く行けることを知ったからである。
 夜行バスは、新宿から出ているので、まず新宿に向かった。
 新宿に着いたのは夕方で、バスの時間までは数時間あった。
 うちは、山口の部屋からJCBカードを盗み出していた。
 ヨドバシカメラに行き、CDコンポとウォークマンをカードで買い、CDショップではCDを買い込んだ。
 こうして新宿では、買い物をして時間を潰した。
 時間が来るとバスの停留所に向かい、京都駅行きのバスに乗り込んだ。
 京都駅に着くのは朝だ。
 あとはバスで寝るだけである。
 うちは早速ヨドバシカメラで買ったウォークマンを取り出し、音楽を聞きながら京都までの道のりを過ごした。
 京都に着くと食事を取り、まだ時間が早かったため時間を潰してから、京都に着いたことを電話で伝えた。
 うちはもう着いた気になっていたが、実は京都は京都でも、更に電車で二時間弱行くところだと知った。
 場所は、“福知山”だったのである。
 電車に乗り、福知山に向かった。
 とても遠かった。
 まず、福知山に着いて思ったことは、随分と遠くまで来たなぁと思った。
 駅で着いたことを連絡すると、タクシーで指定されたところに向かった。
 着いて初めて知ったのが、うちが電話をしていたところは、“ピンサロ”だったのである。
 ピンサロは、年齢的に無理だから(ピンサロ嬢として働くという意味ではないのであしからず)という事で、焼肉屋で働くことに決まった。
 ピンサロ以外にも、スナックや飲食店もやっているところだったのである。
 ます、社長のところに連れて行かれ、軽く面接をし、うちが寝泊まりする部屋まで連れて行ってもらった。
 福知山の駅から歩いて5分位のところにあるマンションで、1階がお店で、2階が部屋である。
 1階で焼肉屋をやることになっていたが、まだ工事も始まっていなかったから、店が出来るまでうちのやることは何も無かった。
 それなのに社長は、うちに毎日お金をくれて、食事も食べさせてもらっていた。
 うちは何をやっていたかというと、会社の事務所の前にある川で、朝から晩まで釣りばかりしていた。
 ピンサロ、スナック、ヘルスといった仕事しかなく、焼肉店ができるまでやれることが無く、たまに掃除を手伝うくらいであったため、毎日暇を持て余していたのである。
 だから毎日、川で釣りばかりしていた。
 そこの川は、50cm位の鯉や、ナマズがよく釣れるところだった。
 福知山でうちが一番最初に買ったものが、釣り道具一式である。
 朝は毎日マンションに事務の仕事をしてる人が迎えに来てくれて、事務所まで車で乗せていってもらう。
 そして、みんなに挨拶をすると、釣り竿を持って釣りに行く。
 餌は、目の前の畑でミミズを捕まえて使っていた。
 たまに社長が様子を見に来て、大きい鯉が釣れると泥を吐かせて、鯉こくを作ってくれて皆で食べたりした。
 夜は何もないところだったが、唯一駅前にレンタルショップがあったから、そこでCDを借りてはダビングをしたりしていた。
 夜もたまに釣りをしに行っていた。
 もともと田舎暮らしが好きだったうちにとって、福知山での暮らしは楽しかった。
 都会暮らしに慣れた16歳には何もない所だから、とてもじゃないが耐えられるような所ではないだろうが(ゲームセンターすら無かった)、うちは全然気にならなかった。
 むしろ何もないというのが、逆に新鮮に感じたくらいである(あの頃は、ゲームセンターどころか、コンビニも無かったっけ)。
 福知山に行ってから、うちはOと連絡を取り、連絡先を教えた。
 Oにしか教えなかったのに、親父から電話が来るようになった。
 Oが親父に、余計なことを教えたのである。
 正直、Oは馬鹿なのかと思った。
 せっかく福知山まで行ったのに、なぜ親父に余計なことをペラペラペラペラというのかと思った。
 うちは、口の軽い裏切り者は大嫌いなのである(実際問題、口の軽い裏切り者がこの世には多くていけない)。
「口の軽い、ペラペラペラペラと何でも話すようなやつは、どうしたら良い!!」
「殺せ~!!」
「言うなよと言って約束をしたのに、その約束を破った裏切り者は、どうしたら良い!!」
「殺せ~!!」
 「どうしたら良い!!」
「殺せ~!!」
(以上は、聖飢魔IIのライブ、いやいやミサをアレンジしたバージョンである)。
 こういうやつには、死んでもらうしかないのではないかとよく思う。
 Oのせいで、毎日親父から連絡が来るようになり(本当は、あいつはストーカーなんじゃないかと思ったくらいしつこかった)、迷惑で仕方がなかった。
 しかし、うちは電話に出たくないから、事務所の人にはいないと言ってもらっていた。
 しかし、あまりにもしつこくて、ある時社長に「1回出たらどうか」と言われ出た。
 親父は、従兄弟のおじさんのところに電話をして、おじさんに一言謝れと言っていた。
 うちは、おじさんに最初は電話をするつもりは全く無かったのだが、またしつこく電話をされるのも嫌だったから、おじさんの所に電話だけはした。
 おじさんはまだ仕事から帰っていなかったようで、おばさんが出た。
 おばさんは、「一回こっちに来な」とそればかりだったから、分かったと伝えてその日は電話を切った。
 社長が心配をして、どうなったのかと聞いてくるので、おばさんに言われたことを話したら、社長に一度東京(従兄弟のところ)に行って話をしてきてはと言われ、行かざるを得なくなってしまった。
 本当にOの野郎は、余計な事をしてくれたものである。
 この事があってから、Oとは二度と連絡を取るのをやめた。
 こうして、いとこの家に行くことになってしまったうちは、金曜日の夕方、まず京都駅に行き、そこから新幹線で東京駅に向かった。
 新幹線には、入場券を買って改札を抜けてそのまま乗り込んだ。
 無賃乗車である。
 最初は、夜行バスで行くつもりでいたのだが、満員でチケットを取ることができなかったので、仕方なく新幹線で行くことにした。
 東京駅に着いたのは夜だった。
 うちは新宿で朝まで時間を潰そうと思い、新宿に向かった。
 新宿に着くと歌舞伎町に行き、フラフラしていた。
 ディスコを見つけ、初めて入った。
 しかし、うちは人前で全くダンスをできないので、カクテルを飲みながら他の人たちが踊っているのを見ていた。
 うちは分からないままに、VIP席を確保し、雰囲気を楽しんだ。
 一人で楽しんでいたら、二人連れの男の人に声をかけられた。
 なぜ、声をかけられたかというと、同じVIP席に女の子の三人グループがいて、声を掛けたいのだが、一人足りずに、うちに声をかけてきたのである。
 うちは別にその日は予定もなかったから、心地よく話に乗った。
 三人ででテーブルにつくと、声をかけてきた二人が三人連れの女の子のところに行き、女の子達に声をかけ、見事に成功した。
 こうして六人で暫く過ごすと、それぞれ別れて、ディスコを出た。
 そして、うちもそのまま一人の女の子とホテルに入り、童貞を卒業したのである。これがうちの初体験(?)である。
 女の子と(と言っても、うちより年上の女の子)、朝までホテルで過ごし、朝ホテルを出て食事をし、新宿駅で別れた。
 女の子と別れたあと、うちは従兄弟の住んでいる金町に向かった。
 従兄弟の家に着くと、親父の野郎も来ていた。
 うちはおじさんに、なぜ親父までいるのだと聞いた。一瞬にして気分が悪くなり、その後は一言も話をしなかった。
 話もないし、親父の顔など見ていたくもなかったうちは、おじさんとおばさんに帰ると伝え、福知山に帰った。
 おじさんとおばさんには、
「せめて東京に戻ってきなよ」
と言われたが、ハッキリと東京には戻る気はないと伝えた。
 東京には、たとて親父と継母と別々であったとしても、絶対に住みたくなかったのだ!!
 “は~テレビもねえ ラジオもねえ 車もそれほど走ってねえ”そんな素晴らしい所に、おら住でぇ!!これがうちの本心だ!!以上。
 帰り際に、「二度と連絡をしてくるな」と親父に一言だけ言って、京都に戻った。
 京都に戻ってからは、親父からのしつこい電話も無くなった。
 事務所の下には(事務所は二階にあった)スナックがあった。
 そこのスナックに、愛媛から子供連れの女の子が来た。
 仲良くなり、たまにうちの寮にも遊びに来てくれた。
 年は聞かなかったが、うちより歳上であるのは確かである。
 子供は男の子で4歳くらいだった。
 最初のうちはたまに会うくらいだったのだが、関係を持ってからは毎日会っていた。
 20代前半だったと思うが、16歳のうちには凄く大人びて見え、「お姉ちゃん」と呼んでいた。
 お姉ちゃんと付き合うようになって、うちはだいぶ甘えん坊だとわかった。
 幼少時代甘える人がいなかったうちは、この年になって、その分を取り戻そうとするかのように、お姉ちゃんに甘えていた。
 お姉ちゃんに、「子供より甘えん坊だね」と言われたくらいである。
 そんなうちだったが、お姉ちゃんはいつもとても優しかった。
 お姉ちゃんからしたら、子供が一人増えた感じだったのかもしれない。
 今でも女の子に甘えられるより、甘えるほうが好きである(あくまでも、子供として甘えるという意味であり、恋愛感情は一切ない)。
 わがままで、甘えん坊だからちょっと大変かもしれない。
 まだまだうちは、体は大きいが、精神年齢は3、4歳の子供と変わらないのだと、自分で思ってしまうこともある。
 子供の頃の影響は大きい。
 うちは夜、フラフラと外を散歩する。
 そんなある時、いつもマンションの下に止めてある車を覗くと、キーが付いたままだった。
 ドアもロックされておらず、簡単に持っていくことができる。
 うちはすぐさまエンジンをかけて、車を出した。
 マンションの向かいに一軒家があり、その家の車である。
 その車は、マニュアル車だった。
 青梅で乗っていたときの車はオートマチック車だったから、ある意味つまらない。
 しかし、マニュアル車は、クラッチ操作があるから面白い。
 福知山周辺をあちこち走った。
 福知山は、夜中はほとんど車が走っていない。飛ばし放題である。
 二時間弱走り回ると、車を元のところに戻した。
 次の日も車を覗くと、キーは付けたままになっていた。
 いつでも、キーを付けたまま止めてあったので、毎日夜中になると車を乗り回していた。
 ある日曜日、マンションの下にプレリュードがこれまたキーを付けっぱなしで駐車してあった。
 うちは何も考えずに車に乗り込み、エンジンをかけて、お姉ちゃんの住んでいる寮に向かった。
 お姉ちゃんに車のことを話して、ドライブに行くことになった。
 お姉ちゃんと、お姉ちゃんの子供の三人で、大阪方面に向かってドライブをした。
 道など全く知らないうちは高速に乗り、標識を見ながら適当に走った。
 道もガラガラに空いていたから、160キロちょっとで走っていた。
 前の方に、ソアラとスカイラインが並んで走っていた。
 うちは、どちらかの車がどくと思い、アクセルを踏み込んだまま速度を落とさなかった......。
 あの時は、猛スピードで近づいているのだから、絶対にどちらかがどくと思っていた。
 しかし、どちらもどかず、ブレーキを思い切り踏むことになった。
 前の車に突っ込むことは避けたが、そのかわりに160キロでけつを振り、ハンドルをとられた。
 プレリュードは、左の壁に激突しそうになった。
 慌ててハンドルを右に切ると、今度は右側の壁に激突しそうになる。
 右に左に何度も激突しそうになり、少しづつブレーキを踏み、結局最終的に......。
 無傷で車を止めた。
 生まれて初めて死ぬかと思った。
 しかし、運を味方につけ、ドライブテクニックも抜群なうちだったから(?)止められたのである。
 良い子は絶対に真似をしないように。確実に死にます。
 後続車が一台もなかったことと、そこが直線だったから、事故ることなく止められたが、一歩間違えば確実にあのときに死んでいた。
 本当に運が良かったのだと思う。
 しかしこの件で、無傷で車を止められたことに馬鹿なうちは、逆に自信をもってしまう。
 お姉ちゃんには目茶怒られてしまった。
 暫くスピードを出すことも禁じられてしまった。
 その日は、山に行ったり、公園に行ったりして過ごし、夕方マンションに戻った。
 車はバレないように置いたつもりだったのだが、誰かに見られてしまったようで、警察が来た。
 出たらヤバイと思い、居留守を使った。
 お姉ちゃんと相談をした。
 お姉ちゃんは、一度寮に戻り、必要なものを取ってくると言っていたから、1階に降りてそこから外へ出た。
 警察も、まさか1階と2階が中で繋がっていたことまでは知らなかったようである。
 上手く外に出ると、三人でお姉ちゃんの寮に向かった。
 途中、会社の人に見つかって追われそうになったが(警察から連絡が行ったようである)、上手く逃げ切り、お姉ちゃんは必要なものを部屋に取りに行った。
 うちはその間、隠れて待っていた。
 お姉ちゃんが荷物を持ってくると、福知山駅に向かうつもりだったのだが、会社の人もウロウロしてることを知り、うちはお姉ちゃんに暗いところで待っていてもらい、一人で車を調達することを考えた。
 どこかに、キーを付けっぱなしにした車が止まっていないか探した。
 すると、2tダンプが4、5台止まっていた。
 現場車両は、大体キーを付けっぱなしにしてることが多い。
 うちは、ダンプのドアに手をかけ、ドアを開けた。
 すると予想通り、キーが付いていた。この際だから、ダンプだろうが何であろうが、動けば構わないと思った。
 エンジンをかけて、急いでお姉ちゃんの所に戻った。
 お姉ちゃんと子供を乗せて、夜の道を気の向くままに適当に走らせた。
 数時間走り、朝方ダンプを乗り捨てて、ホテルに入った。
 ホテルで一眠りして、どこへ行くかを考えたが、うちは全く思いつかずお姉ちゃん任せにしてしまった。
 お姉ちゃんと食事を食べるために、まずお店に入った。
 お腹を満たすと、大きな公園を見つけたのでそこへ行った。
 途中、お姉ちゃんは求人情報誌を手に入れ、仕事を探していた。
 うちはこの時点でも、まだ何も考えていなかった。
 何とかなると思っていたのである。それに、うちは自由に何でもやれるという頭もあった。
 暫くすると、お姉ちゃんがどこかに電話をしに行った。
 どうやら、行く所を決めたようである。
 タクシーに乗り、ある喫茶店に向かった。そこで誰かと待ち合わせをしたらしく、暫く待つと、おじさんが一人入ってきた。
 お姉ちゃんは、うちのことを弟と言って、おじさんに紹介をした。
 おじさんにご飯を食べるように進められ、焼肉定食ヲタのんだ。
 なぜ、喫茶店で焼肉定食(?)と思ったが、そこは突っ込まなかった。
 うちとお姉ちゃんの子供でご飯を食べている間、お姉ちゃんはおじさんと何やら話をし、一度喫茶店を出て、どこかに行ってしまった。
 後で分かったのだが、お姉ちゃんは風俗の面接を受けていたのである。
 見事(?)受かり、その日からマンションで生活をすることになった。
 細かい場所まではハッキリと覚えていないのだが、大阪の鶴橋の近くだったと思う。
 うちは、もともと荷物はあまり持っていなかったのだが、お姉ちゃんもあまり荷物を持っていなかった。
 マンションにも全く何もない。
 その日はそのまま動かなかったが、次の日お姉ちゃんと子供を連れて、買い物に出かけた。
 まず、お姉ちゃんの服を探した。
 そして次に子供の服を探し、それぞれ何組かカードで購入。
 山口の所から持ってきた、あのJCBカードである。
 とっくに止められていたと思うが、この頃は止められていても、ガッチャン(分からない人は、ググりましょう)が置いてある所ならすぐにバレることはなかった(良き時代だったのです。犯罪者には)。
 お姉ちゃんと、子供の服をある程度買い、次にホームセンターのようなお店を探し、そこで箸、お茶碗、お椀、お皿、フライパン、鍋などを一式買い揃えた。
 その日は、必要なものを色々と買い揃えていたら、あっという間に一日が過ぎ去り、お姉ちゃんは次の日から働き始めた。
 うちは、お姉ちゃんが仕事に行っている間は、ずっと子供と遊んで過ごしていた。
 しかし、1週間もしないうちに飽きてしまい、お姉ちゃんと別れて何処かに行くことに決め、そのことをお姉ちゃんにも話した。
 最初は全くどこに行こうか考えていなかったのだが、お姉ちゃんに愛媛の話を聞いているうちに、愛媛に行ってみたくなり、松山に行くことに決めた。
 うちは、昔から行きたいと思うと、すぐにでも行きたくなるタイプで、その時も松山に行くことを決めた次の日には、フェリーで松山に向かった。
 フェリー乗り場は、お姉ちゃんに調べてもらった。
 朝出港する便と、夜出港する便があった。
 うちは早く行きたかったから、朝の便で行くことに決めた。
 港に行き、チケットを買いフェリーに乗り込んだ。
 沖縄に行った時のフェリーとは違い、大きな船で、松山に着くまであっちこっち見て回った。
 フェリーの中には、ゲームコーナーや、映画を見れる所などもあり、着くまで飽きることなく過ごせた。
 松山に着いたのは、夕方だったと思う。
 取り敢えず、どこに行くという予定もなかったので、その日は港で1泊し、次の日、電車とバスを使って松山駅に向かった。
 松山に着くとまず食事をして、気の向くままに時間を過ごした。
 適当にフラフラ歩き、砂浜に行ったり、山に行ったりした。
 松山の海は凄くきれいだった。
 南の地方は、なぜあんなに海がきれいなのかと思う。
 夜になってら、再び松山駅に戻った。
 駅の周辺をフラフラしていると、あちこちに改造車(族車)が止まっていた。
 そう、このとき気付いたのだが、松山は改造車が普通に走っているのである。
 車を色々と見て歩いていたら、車に乗せてくれる人もいて、松山の街を走ってくれた。
 朝まで走り、松山駅で別れた。
 駅で別れたあと、お金が殆ど無かったから、仕方なく港まで歩くことにした。
 しかし、港まではかなりの距離があった......。
 それでも、歩くのは好きだったし、予定は何もなく、急ぐ旅ではなかったからのんびり歩いた。
 大通りばかり歩いていてもつまらないと思い、たまに路地に入ったりして、楽しみながら歩いた。
 港も本当は近場にもあったのだが(あとで知った)、うち自身ハッキリと行く場所を決めていたわけではなかったため、本当に適当に、行きたいと思う方向へ足を運んだ。
 うちはこの頃から、目的のない旅をするのが好きだった。
 目的地だけをきめて、そこまでの道中は気の向くままに行動をする。
 だから自分でも、目的地にいつ着くのかは全く予想できない。
 この時も、目的地は大阪というだけで、あとは何も考えていなかった。
 砂浜を見つければ、そこでスッポンポンになり、海で気の済むまで泳いだ。
 そして、泳ぎ疲れれば砂浜に戻り、体を乾かして、着替えてまた歩き出す。
 お腹が空けば、スーパーやコンビニを見つけて、食料を調達する(この場合の調達とは、盗むということである)。
 喉が渇けば畑に行き、イチゴなどを食べ放題。
 お金がなければないなりの行動を取っていた。
 夕方近くまで歩き回り、流石に疲れたうちは、中古の車を売っているお店を見つけ、車を一台調達し、港へ向かった。
 車で走って1時間ちょっとかかった。
 あの時、車を拝借(?)していなかったら、夜は多分野宿をしていたかもしれない。 
 港を見つけると、車を乗り捨てて、フェリー乗り場に向かった。
 そこの港は大きな港で、大型トラックがたくさん止まっていた。
 うちは最初、フェリーには見送りの人のふりをして乗り込もうと思っていたが(今は分からないが、この時はフェリーの中に見送りをする人も入ることができた。フェリーが出港する時間が来ると、マイク放送で「見送りの方はフェリーを降りてください」と流れる)、予定を変更し、トラックの運ちゃんに、
「フェリーに乗りたいが、お金がないからトラックにのせてほしい」
と頼み、トラックに乗せてもらってフェリーに乗り込んだ。
 フェリーに乗り込むと、お風呂に入ったり、映画を見たりしながら寛いだ。
 フェリーの旅はとても楽しい。
 フェリーによっては、食事も食べれるし、本当に最高である。
 それともう一つ、最高なことが......
 その話は、もう少し後で。
 夜出港すると、着くのは次の日の朝、大阪に着く。
 前の日に乗せてもらったトラックのところへ行き、トラックに乗せてもらいフェリーを降り、港でお礼を言ってトラックの運ちゃんとは別れた。
 この日着いた港は、南港である。
 トラックを降りたうちは、また気の向くまま目的地もなく歩き出した。
 この日も、途中お腹が空けば、スーパーやコンビニに寄り、食料を調達した。
 お昼過ぎ、悲しい事故を見た。
 車が、3、4歳の子供を轢いて電柱に激突......。
 一緒にいたおばあちゃんは、子供を抱きかかえて泣きながら名前を呼んでいたが、誰が見ても亡くなってると分かった。
 とても可哀想で、見ていられなかった。
 子供も可哀想だったが、おばあちゃんの泣いてる姿がとても可哀想で、その場から離れた。
 この日は、途中で自転車を盗んだ。
 まず、ビニール傘を調達した。
 ビニール傘の留め金具で、自転車の鍵を開けるのに使う。
 こうして自転車を手に入れ、知らない道をどんどん目的地のないまま進んだ。
 夕方着いたところは、また港町だった。
 どこをどう走ったか、全く覚えていないのだが、港があると分かると、目的地を再び愛媛県に決めた。
 このときの目的は、お金。
 お金を調達するために、再びフェリーに乗ることに決めたのである。
 港に着くとフェリーを待ち、見送り人のふりをしてフェリーに乗り込み、出港!!
 まずはお腹を満たし、ゆっくりとお風呂に入った。
 フェリーは、いろいろな部屋がある。
 うちは当然チケットなど買わずに、無賃乗船しているから、雑魚寝部屋である。
 料金が安いからだと思うが、結構そこにも人がいる。
 うちはみんなが寝るまで息を潜めて待った。
 夜中、みんなが寝静まると、仕事を始めた。
 荷物を持っていて、頭の上に荷物やバックを置いて寝ている人のところまで行き、財布を抜き取ったり、バックを盗んだ。
 フェリーの夜行便は結構儲かるのである。
 財布やバックを盗むとトイレに行き、お金だけ全部抜き取り、残りのものはデッキから海に捨てる。
 下手に船内に捨てるより、安心である(うちの場合は)。
 10万くらいなら、すぐ貯まる。
 そして、盗まれた人もなかなか気づかないという利点もあった。
 なぜなら、起きるとすぐ下船となる。フェリーの中で、財布を出すという人は少ないのである。
 こうしてうちはお金を稼ぎ、新たな旅を楽しむのである。
 お金がなくなるまで遊び、美味しいものを食べてまた遊ぶ。
 お金がなくなると、夜行便に乗ってお金を稼ぐ。
 これほど楽なお金儲けはなかった。
 そのおかげで、お金に困ることは全く無かった。
 何回か同じことを繰り返し、それに飽きると大阪に戻り、住み込みで仕事を探した。
 仕事はすぐに見つかり、うちは西成に行った。
 仕事は、土方をやった。年齢的には無理だったから、18歳と偽った。
 うちが面接をしたところは、事務所の上が寮になっていて、うちはそこに住み込んで働いた。
 そこの寮は、朝と晩は家政婦が来て、食事を作って食べさせてくれるところだった。
 西成はとても治安の悪いところで、「西成に住んでいた」というと、知っている人には「よく西成になんかに行ったね」と言われるが、うちはとても気に入っていた。
 当時は、治安の悪いところだということを全く知らなかった。
 しかし、みんなが言うほど治安が悪かったようには思わない(最もうちは、治安を悪くさせていた一人だったかもしれないが......)。
 ただ、乞食はものすごくたくさんいた。
 特に、ドヤ街はすごかった。
 うちは、最初のうちは仕事を真面目に行っていた。
 そんなある時、寮の食堂に同じ年ぐらいの女の子がいた。
 その子は、早苗と言って、家政婦の娘だった。
 よく会ううちに話をするようになり、1つ下の15歳と知った。
 うちの仕事が終わるまで早苗はいつも寮で待っていてくれ、食事をし、お風呂に入ると、毎日西成の街を二人で散歩しながら、色々なところを紹介してもらった。
 そのうち早苗の家に行くようになり、早苗との付き合いが本格的に始まった。
 夜は毎日早苗と出歩き、一睡もしないで仕事に行ったり、早苗の家で少しだけ寝て仕事に行ったりしていたが、仕事にならなくなり辞めてしまった。
 もともと仕事はあまりやる気がなかった。
 ただ住むところ(寝場所)が欲しかったから、嫌々働いていただけで、早苗の家に寝泊まりできるようになってからすぐ辞めてしまった。
 早苗には、地元の先輩や後輩、友達もたくさん紹介してもらった。
 うちは東京から西成に来たから、あだ名も皆から“東京”と呼ばれていた。
 初めて先輩達を紹介してもらった夜、みんなでバイクで走った。
 その日から毎週土曜日の夜は、集会に出ていた。
 色々なチームが集まり、西成や難波周辺を走った。
 大阪は族狩りも頻繁で、ヤクザ者やとっぽいお兄ちゃんに車で追われたり、木刀を構えて道を塞がれたりする。
 その中に突っ込んで突破するから、運が悪いと木刀で殴られたりする。
 気を抜いて走っていると、ワゴン車などがスーッと近づいてきて、いきなり木刀で殴られそうになることもあるから、走っているときは気が抜けない。
 うちが入ったチームは西成のチームで“悪心鬼”という。
 毎週土曜日の夜は必ず集まって走る。
 普段は、いつも早苗と一緒にいた。
 うちと付き合うようになって、早苗はそれまでしていた仕事を辞めてしまった
 うちといると、仕事などやっていられなくなってしまうのである。
 なぜかというと......。
 当時、福知山にしても、西成にしても、何故かキーをつけたまま車を止めていることが多かったので、色々な車を盗んでは、早苗と後輩を連れて、放浪のたびに出ていたのである。
 だから、仕事など行けるはずがない。結果、辞めることになる。
 西成を早苗と歩いていたとき、ワゴン車(キャラバンだったと思うが、車だったら何でも良かったから、車種までハッキリと覚えていない)が、キーを付けたまま止まっていたから盗んだ。
 盗んだあと、車の中を調べると、財布があり、10万円ちょっと入っていた。
 10万円もあるなら、どこかに行こうということになった。
 せっかくワゴン車を盗んだのだから、他にも誰かを連れて行こうとなり、後輩三人(男の子2人、
女の子1人)を連れて行くことに決めた。
 うちはみんなにどこへ行きたいかを聞くと、東京だという。
 あんなつまらないところが良いのかと思いながらも、東京方面を目指すことにした。
 まず、スタンドに行き、車を洗車して(盗んだ車でもきれいにして乗っていた)、ガスを満タンにして出発!!
 うちの旅は気まぐれである。
 途中、面白そうなところを見つけると、あっちこっち寄り道をする。
 湖を見つければちょっと寄ろうとなり、湖に行って遊ぶ。
 当然湖に行けば、泳ぎたくなるからみんなで泳ぐ。
 泳げば今度はお腹が空くからバーベキューをしようとなり、ホームセンターを探してバーベキューセットと炭を調達する。
 お金は持っているが、高速代やガス代などで使うため、基本的には使わない。
 すべて万引きをする。
 うちのか気まぐれ旅行は、基本お金を使わず、現地調達がベースとなる。
それぞれジャンケンをして、何を調達するかを決めて、それぞれが係になった物を持ち寄る。
 次に、スーパーを見つける。
 途中、タバコ屋があったから立ち寄り、タバコを購入しようと思ったら人が出てこないから、後輩と持てるだけタバコを調達。
 もう一発行こうとなり、行くと今度はおばちゃんが出てきたから仕方なくタバコを1箱だけ購入した。
 この辺は、臨機応変に対応をする。
 車に戻り、再びスーパーを探し、それぞれ調達するものを決める。
 スーパーでは、お肉をうちが担当し、後輩には紙皿と箸、焼肉のタレを調達してもらうことにした。
 車を駐車場に止めて、うちはカゴを2つ持ってスーパーの中に入っていき、カゴにいっぱいお肉を入れて車に戻る。
 後輩達は先に車に戻っていたので、車を出して湖に戻る。
 バーベキューの始まりだ。
 バーベキューは暗くなるまで続けた。
 その晩は、そのまま湖で一泊した。
 次の日また高速に乗り、東京を目指した。
 この日、静岡で高速を降りた。
 理由は、富士山を見てみんなが喜んでいる姿を見て、それならせっかくだから富士山に行こうとなったのである。
 途中、食事をしたり、お土産屋を見つけると皆で入り、Tシャツならタオル等を盗む。
 車の中は、盗んだものでいっぱいになっていた。
 とにかくうちと一緒にいると、時間も何も気にせず、あっちこっちに寄り道をする。
 だからものすごく楽しい旅になるのだが、あっという間に一日が終わってしまう。
 朝から晩まで寝る時間などない。
 うちは特に車を運転しているから、ほとんど寝ない。たまに眠くなると、2時間くらい寝る。
 2時間も寝れば元気になる。
 寝ないで仕事に行くと眠くて仕事にならないが、遊びだと3日でも4日でも起きていられる。
 うちの体力について来れる奴はまずいない。
 富士山の入り口に着くと、5合目まで車で登った。
 後輩は富士山に登りたいというから、うちと早苗は5合目で待つことにし、後輩は歩いて富士山に登りに行った。
 その間にうちは少し寝た。
 後輩は1時間くらいで帰ってきた。
 手軽な服装のまま、何も持たずに挑戦していたから、寒くて帰ってきたらしい。
 寒そうにしていたから食堂に入り、みんなで食事をし、富士山を後にした。
 富士山を下りると、高速に乗らずに下道で東京を目指すことにした。
 まず山梨に入り、温泉を見つけたからみんなで温泉にのんびりと入り、食事もとった。
 山梨から甲州街道に入り、東京に向かった。
 渋谷、原宿と行き、時間を過ごした。
 うちは全然面白くなかった。
 しかし、みんなは初めての東京だったらしく、はしゃぎ回っていた。
 あの頃はまだ、職務質問とかも全く無かったから行ったが、今だったら冗談ではない。
 東京の何が楽しいのかと思う。
 東京にいる間、うちは1人楽しくなかった。
 みんなは東京のお土産を買ったり、盗んだり(?!)していた。
 たっぷりと東京を満喫してもらい、次の日は土曜日だったから、集会に間に合うように大阪に帰った。
 何だかんだと、結構お金も使っていて、大阪に着いたときには数百円しか残っていなかった。
 西成に着くと、溜まり場にそのまま向かい、先輩や後輩にお土産をあげたりして、集会の時間まで過ごした。
 うちが集会で乗っていたのは、単車ではなく、車に乗っていた。
 バイクの運転には本当に自信がなかったから、車で走っていた。
 たまに、先輩のケツに乗せてもらうことはあったが、うちがバイクを運転するということはなかった。
 大阪は、原チャリで集会に参加する野郎も多い。
 なぜ、集会に原チャリ(?)とよく思ったものである。
 集会に原チャリはダサすぎる。
 うちは車で参加すると暴れまくった。
 ただ、たまに渋滞にはまると、みんなとはぐれることもあった。
 特に難波駅周辺はいつも渋滞していた。
 そこさえクリアしてしまえば、あとは空いているから自分の走りを楽しんだ。
 集会はうちの楽しみの一つだった。
 特に、パトカーに追いかけられるのが好きだった。
 渋滞にはまらない限り、捕まらない自信があった。
 集会が終わると、みんなでいつも食事をして解散した。
 みんなと解散すると、再び後輩や早苗と合流し(早苗は集会に出ていなかった。うちのチームは女の子の参加は認められていなかった)、ワゴン車に乗り換え(車は何台か所有(?)していた)、再び次の週の土曜日までの1週間は、“ぶらり窃盗ワゴン車の旅”をスタートした。
 メンバーは、前回と同じメンバーである。
 このときの所持金は数百円だった。
 この時は、次の集会まで丸々1週間の旅に出た。
 まず高速に乗り、サービスエリアに入った。
 まだ、朝の早い時間(4時、5時)だったため、ベンチでライダーが睡眠をとっていた。
 近付いてみると、ウエストポーチをしたまま寝ていたから、後輩(男のみ)とジャンケンをして、負けた奴がウエストポーチを開けて、財布をくすねることにした。
 ジャンケンに負けたのはうちだった。
 うちは寝ている奴に近付いていき、そっとチャックを開けていき、2つ折りの財布を抜いて車に戻った。
 お金は、確か三万円ちょっと入っていたと思う。
 こうして、まず高速代をゲットした。
 しかし、三万円じゃ少ないから、もう一発やろうという話になり、急いで次のサービスエリアまで車を飛ばして向かった。
 サービスエリアに入ると、何人かライダーが寝ていた。
 早くやらないとライダーが起き出すと思い、このときは後輩と一緒に行った。
 ウエストポーチを腰にしたまま寝ているライダーに近付き、うちがチャックを開けていき、後輩が財布を抜いた。
 走って車に戻り、サービスエリアを後にした。
 財布の中身は、3、4万しか入っておらず、ライダーはあまりお金を持っていないのだなぁと思った。
 仕事(?)をすると、当然お腹が空くから次のサービスエリアに移動して、食事をとった。
 食事が済むとお土産売り場に立ち寄り、それぞれ欲しい物をレジを通さずゲット。
 急ぐ旅ではないから、のんびりしてから車に戻り出発をした。
 このときの旅行は、サービスエリアがあるごとにそこに寄り、お土産売り場を見て回った。
 そして目ぼしいものがあると、何でもゲットしていた。
 自分達さえ楽しく過ごせれば、周りはどうなろうと知ったことではなかった。
 お金が無くなれば、車上荒らしをしたり、ライダーから財布を抜いたり、置き引きやスリもたまにやった。
 お金はいくらでも持っている人がいるから、困るということがなかった(ガキの頃のほうが羽振りが良かったな......。今は全然だめです。シャブをやるようになってから貧乏になった。心も貧乏になったように思う)。
 浜松につき、みんなで名物のうなぎを食べた。
 せっかく旅行をしているのだから、その地その地の名物を食べなきゃもったいない。
 色々なところに行き、色々な名物を食べた。
 考えてみると、シャブをやるようになってから、そういうのがない。
 やっぱりシャブは良くない。
 面白いことをやれなくなるし、人生がつまらなくなってしまう。
 シャブをやると、シャブが中心の生活になるから辞めないとな......(反省)。
 この時の旅行も、静岡で高速を降りた。
 適当に車を走らせているから、同じ道を走るということがない。
 ただそれでも、海はあまり好きじゃないうちだから、海の近くを走るということは殆どない。
 走るのは、決まって山がある方ばかりである。
 温泉を見つけてそこに寄った。
 山の中にある温泉でなかなか良いところだった。
 でも、そこは全く覚えていない。
 このときの旅行で、立ち寄って覚えていて今でも言っている温泉は、箱根湯本にある天山温泉である。
 ここはうちの一番お気に入りの温泉で、今でもたまに行く。
 旅行中、車の運転はうちしかできないから、ずっとうちが運転をする。
 旅行と言っても、どこかに宿泊するわけではないから、後輩や早苗は適当に車の中で寝ている。
 うちは前にも述べたが、ほとんど寝ないから夜中でもずっと車を走らせている。
 車とうちが一番タフなのである(車はたまにエンジンを切ってるから、結果うちが一番タフである)。
 静岡を一日走り、山梨に入った。
 前回は、静岡側から富士山に登ったから、このときは山梨側から富士山に登った。
 このときはあまり天気が良くなく、雨が降っていた。
 5合目まで登り、そこでゆっくりと時間を過ごした。
 もちろん、お土産売り場はしっかりと立ち寄り、色々なお土産をゲットさせてもらったのは言うまでもない。
 富士山でゆっくりと寛いだあと、河口湖、山中湖に行って遊んだ。
 山梨の名物といえばほうとうである。
 しっかりとほうとうも食べ、数件のお土産売り場により自由時間(!?)。
 それぞれ欲しい物を有難くいただき、お店をあとにした。
 雨の中、富士スカイラインを走り、どこをどう走ったかわからないが、芦ノ湖についた。
 しかし夜中だったし、雨もかなりひどく降っていたのでよらずに通過した。
 そして暗い山道を何時間か彷徨った。
 雨のせいで前もすごく見づらく、おまけに何もない山道だったから、ひょっとしたらヤバイ感じなのかな......と一瞬不安になった。
 うちは、中学生の頃から、聖飢魔IIの熱烈な大ファンで、車の中でも聖飢魔IIばかり聞いていた。
 “霧の立ち込む 森の奥深く
 少女を運ぶ 謎の老人~”
と良い具合に流れてきて、怖い感じを十分味わうことができた。
 山道はずっと続き、看板も出てこないし、車とも全然すれ違うこともなく、本当に霧も濃かった。
 そして、“子羊ども”ではなくて、後輩たちはみんなスヤスヤと夢の中。
 あのときは、狐が狸に化かされてるのではないか、さっきから同じ道を走ってないかと不安になった。
 昔はナビもなかったから、こういう楽しみ方(?)もできた。
 ナビは便利だが、そういった楽しみ方はできないと思う(ナビを付けなきゃ良いのか)。
 旅行にしても、行きあたりばったりの旅行のほうがうちは好きだし、楽しいと思う。
 現代人には、そんな時間と暇がないかな......。
 決して褒められるようなことはしていないが、この頃が一番楽しかった。
 今よりも、生き生きとしていた。
 山道を、大丈夫なのか、大丈夫なのかと不安になりながら走っていたが、不意に明るくなり、着いたところが天山温泉だった。
 うちはみんなを起こして、温泉に入ることにした。
 天山温泉は、山の中にある露天風呂で、このときは雨が見事にマッチしていて、とても幻想的だった。
 温泉にゆっくりとつかり、英気を養った。
 このときにとても気に入って、今でも天山温泉には行く。
 食事もできるし、凄く良いところである。
 天山温泉でゆっくりしたあと、再び車に乗り込み旅が続く。
 箱根湯本から小田原、綾瀬を通過して、八王子に行き、うちの好きな奥多摩へと向かった。
 奥多摩で夜明けを待ち、青梅へ入る。
 多摩川が流れているから、そこでみんなと川遊びを楽しむ。
 このときは、23区内には行かなかった。
 行っても、うちが楽しめないからである。
 それに、お金がかかるというのも理由の一つでもある。
 お金の掛かる遊びしかない。
 同じお金を掛けて遊ぶなら、新宿、原宿、渋谷、六本木よりも、難波(ミナミ)で遊んだほうが全然楽しいとうちは思う。
 東京より、大阪のほうが何をやるにしても絶対に楽しい。
 食べ物は美味しいし、何よりも楽しい。
 ファッションにしても、大阪のほうがセンスも良いし、大体ファッションは関西から流れてくる。
 東京がおしゃれだと思っているのは、何も知らない田舎者だけである。
 東京という名前に酔っているのは、田舎者なのである。
 多摩川では、みんなと泳いだり、バーベキューをしたり、釣りをして楽しんだ。
 残念ながら、魚は釣れなかったが、その代わりバーベキューは盛大にやった。
 スーパーに行き、お肉をどっさりとカゴに入れ、ジュースや紙皿、コップに割り箸も用意し、前回のバーベキューセットは捨ててしまってたから、新たにホームセンターで手に入れた。
 このときは、確か畑で野菜も収穫している。お肉だけでなく、バランスよく食べる。
 青梅で一泊し、うちもゆっくり睡眠を取った。
 次の日はゆっくりと起きて、大阪に向けて出発した。
 八王子に向けて走り、そこから高速に乗り大阪方面を目指した。
 行き同様に、サービスエリアごとに寄り道をして、お土産を物色し、気に入ったものがあれば有難く頂戴する。
 帰りは途中、琵琶湖に寄り、たっぷりと泳ぎ、お腹が空くとまたまたバーベキューを暗くなるまで楽しみ、あっちこっちと寄って土曜日の夜まで楽しんだ。
 この旅行のあと、うちは早苗と別れた。
 理由は、うちが全く甘えることができないからだ。
 早苗はうちに甘えてくるが、うちは自分が甘えたい方だから、甘えられるのは嫌なのである。
 しかも、年中金魚の糞見たく、どこに行くにも一緒について来られるのも嫌だった。
 うちは自由気ままにやりたいから、一人の時間もほしいし、何よりも束縛をされるのは大嫌いなのである。
 うちはうちで、一人になりたい時もあるし、突然一人でどこかに行きたくなるときもある。
 そんなときに、一緒についてきてほしくないのである。
 寂しがり屋なんだけど、ほっといてほしいのである。
 うちは結構気難しいところがあるから、ちょっとしたことから一気に冷めてしまう。
 冷めると、一緒にいるのも嫌になるのである(元々女の子に興味がなかったから、余計に女の子に対してはそうだったのだと思う。好きな男に対しては全然ない)。
 もう一つの理由が、他の男の話ばかりするのが腹に立つのである。
 どんな事であれ、うち以外の男の話など一切興味がない。
 そういう話を聞くのは、時間がもったいない。
 だったらあっちに行けば、バイバイとなる。
 好きな人の話は逆に細かい事まで気になる。
 うちが女の子に求める条件は、まず甘えられること。それでいてうまい具合にほったらかしにしてくれる子である。
 要するに、わかりやすく言うと母親を求めているのである。だから、とても難しいのである(ほったらかしにされると、逆に今度は不安になるのだが、それくらいが丁度よい)。
 早苗は、うちが別れ話をするととても嫌がっていたが、うちは一度嫌になると修復が全く効かなくなってしまう。
 その日以来、早苗とは会っていないし、町中ですれ違っても一切無視していた。
 早苗と別れたあとは、先輩の家に泊めさせてもらったり、後輩の家に泊めさせてもらったりしていた。
 早苗と付き合っていたときから、お金は大体車上荒らしをして稼いでいた。
 治安が悪いと言われている割には、みんな結構無用心で、車もロックをしないままで止めてあったり、キーを付けっぱなしで止めている車も多かった。
 だから、盗まれる=治安が悪くなる(なるほど、悪の法則が成り立つわけか......)。
 今はどうなのか知らないが、あの頃は本当に住みやすかった。
 三角公園(西成ではとても有名な、多分日本一治安が悪い公園)もよく行った。
 あそこは本当に凄いところだった。
 乞食がうじゃうじゃいて、凄く臭い。
 お酒を飲んだり、モツ煮を食べたりしている。
 うちは、乞食が皆でモツ煮を食べていたときの姿が強烈過ぎて、未だにモツ煮を見ると、乞食の食べ物としか思えず食べれない。
 西成は、下町っぽさがあり、優しい人が多く、とても住みやすい街であった。
 平成2年7月17日、この日うちは子犬(南港で拾った)を連れて、ウロウロと街の中を歩きながら物色をしていた。
 すると、ある家の駐車場に、トヨタのスープラが止まっていた。
 中を覗くと、キーが付いていた。
 ドアを開けて、子犬を助手席に乗せて、エンジンをかけた。
 初のターボ車をゲットし(正式には、2台である。ワゴン車のターボ車には乗っていた)、テンションはマックスまで上がった。
 一人で南港まで行き、スープラの性能をたっぷり堪能し(子犬はゲロゲロ吐いていた!!)、後輩の家に向かった。
 智也という後輩で、早苗と別れてからは智也とよくつるんでいた(ちょっと良い男で、気になる存在だった。だから、早苗と別れたとも言える)。
 智也は家に一人でいた。
 うちは智也にスープラを盗んだ話をして、出掛ける用意をさせた。
 智也や親の通帳を持ち出し、お金をおろした。
 10万円おろしたので、また旅に出ることにした。
 この日の目的地は、奥多摩湖。
 奥多摩を、スープラで思う存分走らせてみたかったのである。
 昼間は混むだろうから、夜出発することにした。どうせなら、高速道路もかっ飛ばして走りたかったからである。
 カーショップに行ったり、港で夜になるまで調子に乗りまわっていた。
 夜になり、ガソリンを満タンにして高速に乗った。
 しかし、混んでいたため一度サービスエリアに入り、夜中になるまでご飯を食べたりしながら時間を潰した。
 夜中、高速がガラガラになると、奥多摩目指してアクセルを全開で踏み込んだ。
 あっという間に180キロになり、智也もうちもテンションはマックス状態。
 しかし、180キロでずっと走っていると、リミッターが作動し、いきなりエンブレが掛かって危ないから、170~180キロのエンブレの掛からないギリギリをキープしてノンストップで走った。
 途中、スタンド以外はどこにも立ち寄らず、八王子インターまで四時間で着いた。
 途中、何ヶ所かでオービスにひっかかり、写真を撮られているが、全然気にもとめなかった(元々、無免だし、盗難車だから関係ないのである)。
 奥多摩に向かい、思いっきり走りを楽しんだ。
 やっぱりスポーツカーで山道を攻めるのは最高に楽しかった。
 一度ハマるとやめられない。
 気の済むまで、何回も何回も走った。
 そのまま八王子インターに戻り、富士山を目指した。
 道は空いていた。
 八王子から快調に飛ばしていた。
 大月に差し掛かったあたりで、後ろから覆面パトカーが走ってきたから、走行車線に入り、道を譲った。
 覆面パトカーはサイレンを鳴らしながら走り去って行った。
 ここまでは、いつもと全く変わらなかった。
 暫く走ると、また一台今度は普通のパトカーが走ってきたから、また道を譲ろうと思い走行車線に入った。
 すると、パトカーも同じ車線に入ってくる。
 今度は追い越し車線に入ると、やはり後ろにピッタリとくっついてくる。
 音楽をガンガンにしていたから、ボリュームをさげると、「前のスープラ止まりなさい」と言われた。
 “!!”と思い、アクセルを踏み込もうと思ったら、最初に抜いていった覆面が先の方で道を塞ぎ、なんと待ち構えていた。
 一瞬やられたと思い、仕方なく止まった。
 お巡りにドアを開けろと言われたが開けないでいた。
 すると、警棒でフロントガラスを叩かれヒビが入った。
 この時点では、他の車もいて逃げるに逃げれず、隙を伺っていた。 
 一瞬車が切れて隙ができたから、思い切りアクセルを踏んで強引に突破した。
 こういった自体が起きたときのうちは、とても往生際が悪く、なかなか簡単には捕まらないのである。
 一気に隙をついて逃げ出し、スピードを上げた。
 お巡りがフロントガラスを叩いたせいで、ヒビが入ったスープラの窓ガラスは、180キロのスピードに耐えきれず、一気にヒビが広がる。
 今にもガラスが割れて、ガラスを浴びるのではないかと思った。
 細かくヒビが入っていき、前はとても見づらかったが、運転に自身のあるうちは、とても冷静だった。
 テンパってる智也を落ち着かせ、一気にパトカーとの差を広げて逃げた。
 次のインターまで行こうと思ったが、警察にまた待ち伏せを受けると思い、路肩に車を寄せると一気にスピードを落とし、車の外へ出た。
 時間との勝負である。
 智也も外へ出てきたから、フェンスをどんどんよじ登って、登り切ると飛び降りた。
 着地したときにはお巡りがチラッと視界に入ったが、それもほんの一瞬だけだった。
 スリル満点の大冒険である!!心はなぜかワクワクしていた。
 フェンスを飛び降りて走り出した。
 そこは山だった。
 走って10メートルも行ったら、そこは20メートルちょっとある崖だった(その時は、まさか20メートルちょっともある崖だとは思わなかった。後でお巡りと行って計って知った)。
 捕まりたくないうちは、
「あばよ、とっつぁん!!」
とは言わなかったが......崖を飛び降りて逃げた。
 崖下は、土で柔らかいところではあったが、、高所恐怖症のうちがよく飛び降りたものである。
 いざというときのうちは、ビックリするくらいの力を発揮する。
 これは唯一のうちの取り柄であり、大きな大きな武器である。
 アウトローには欠かせない能力である。
 山の中を暫く走った。
 周りはススキと枝ばかりで、顔や腕は傷だらけになった、
 うちは智也もてっきり着いてきてると思っていたのだが、側にいなかった。
 途中ではぐれてしまったのかと思い、智也を探すことにした。
 山を出ると道路に出た。
 民家があったから民家を目指し、まずは車を調達することを考えた。
 一軒、一軒物色していると、山の中に美容院があった。
 なぜこんな山の中にあるんだと思いながら、目は美容院の前に止まっている車に狙いをつけていた(ディアマンテ)。
 近づいて車内を覗くと、キーが付いていた!!
 すぐ車に乗り込み、エンジンをかけてその場を離れたのは言うまでもない。
 智也を探すことに必死になっていたうちは、対向車線をはみ出して走っていた。
 “ガン”とぶつかる音がして、何だと思ったら、パトカーとすれ違いざまにぶつかってしまったのである。
 まさかのハプニングである。
 考えてみれば、うちを探すためにお巡りが来るのは当たり前である。
 よりによって、そのパトカーにぶつけるとは運が悪い。
 仕方ないので少し走ったところでサイドブレーキを引き、車で道を塞ぎ、車から出てまた何も考えずに崖を飛び降りた。
 そこも後で計ったら、20メートルちょっとあった。
 しかも、下は川で全身ビショビショになった。
 一瞬、どっちへ逃げようか迷ったが、水は上から下に流れるという法則に従い、下流に向かって逃げた。 
 逃げていると、上流の方から叫び声が聞こえたが、最初は何を言っているのか全くわからなかった。
 振り返ってみると、チャカを構えて、
「動くなー!!打つぞ!!」
と叫んでいたのである。
 うちの頭の中で、“足元を狙った玉がそれて、心臓に当たって死亡”という記事がよぎり、まだ死にたくないと思ったうちは手を上げて止まった。
 するといきなり後ろから警棒で頭を殴られて、捕まった。
 平成2年7月18日の午後、記念すべき初逮捕である。
 16歳と半年で、まさかお巡りに“チャカ”を向けられて、打たれそうになるとは思わなかった。
 今は、打たせれば大問題になっていたのになと、残念に思っている。
 可愛い、可愛い(?)少年にチャカを向けるなんて、信じられない話である!!
 あのとき、もっと法律に詳しかったらあのときのお巡りを叩けたのに......。
 川の中でびしょ濡れになったまま、パトカーに乗せられて大月警察署に連れて行かれた。
 そしてこのとき知ったのだが、智也はフェンスのところでとっくに捕まっていたのである。
 それが分かっていたら、ディアマンテを盗んだあと、あんなに必死に智也を探さなかったのになと思った。
 そうしたらこのとき捕まることもなかったのである。
 智也は捕まったとはいえ、何もしていないのだから、せいぜい大目玉を食らって親を呼び出されて終わっていただろうから、先に大阪に1人で帰れば良かったのである。
 大月警察署に勾留され、取り調べが終わると大月鑑別所に入った。
 最初に大月鑑別所に入ったのだが、親が田無に住んでいるということで、数日後に八王子鑑別所に移された。
 うちが大月鑑別所にいたとき、なぜか知らないが、生みの母親から手紙が来た。
 多分、親父が連絡をしたのだろうが、今更なんのつもりでそんなことをしたのか全く意味不明であった。
 手紙の内容も、うちには母親が二人もいて幸せなんだとか、訳のわからないことと、私のことは忘れてくださいと書いてあった。
 忘れるも何も、そのことは小学校の時のことでとっくに頭の中から消えていたことである。
 何を勘違いしているのかと思った。
 それに親父も親父である。
 あれだけのことを言っておきながら、手前から母親に連絡なんかして、何を訳のわからないことをしているのかと思った。
 あのときの、罪悪感か何か知らないが、全く自分勝手な野郎である。
「お前が会いに行くなら、二度とうちには戻ってくるな」
「生みの親には会わせたくない」
「会いに行くなら二度と敷居をまたがせない」
「母親のところに行って、知らない人の子供がいても良いのか?」
「お前の知らない人と結婚していても良いのか?」
「こっちのお母さんより怖い人でもよいのか?」
などと、散々言っていた野郎が、うちがパクられただけで、生みの親と簡単に連絡を取るとは情けない野郎である(結局いつまでも、いつまでもズルズルと引きずっているのは親父ではないか。うちは家を出た時点で、親父、継母、腹違いの妹、生みの親のことなんか一度も考えたことなどない。毎日がパラダイスなのに、そんなくだらない人たちのことを考えている暇など一秒もありません)。
「俺は卯千子(継母の名前)より、みや子が良いんだ~!!みや子~」
と一人で勝手にやってれば良い。
 いちいちそこに、うちを巻き込まないでほしい。“親はなくとも子は育つ”これがうちの座右の銘なのだから!!
 親父の自分勝手な考えには、本当に呆れてしまう。
 うちは、マザコンではない!!いつまでも、母親だか、淫乱女だか知らないが、そんな人の事を考えるほどお前たちたど求めてはいませんから。残念!!
 鑑別所にいる間は、色々なテストや、面接などをして過ごすのだが、初めてだったうちは要領が分からず、バカ正直に、家には帰る気が全く無いとか、また大阪に帰りたいとずっと言っていて、反省するフリさえしなかった。
 そのため、見事に中等少年院送致となった。
 入った少年院は、喜連川少年院である。
 八王子から電車に乗り、まず上野駅に向かいそこから氏家駅に行き、車で喜連川少年院へ。
 まず、氏家で電車を降りてビックリした。
 そして、少年院に着いて二度ビックリした。
 小学校の時に年中来ていたからである。
 少年院の上に喜連川温泉がある。まさか、少年院がその下にあるとは思わなかった。
 うちは少年院というものがどんな所だか全く知らなかったから、まず頭を坊主にすると言われたときに駄々をこねて「髪を切りたくない」と言った。
 少年院とは、学校みたいなところだと思っていたのである。
 だから先生に「家に帰りたいか?」と聞かれたとき、家になら帰れるのか(!!)と思い、家には全く帰る気がなかったが、「はい、帰りたいです!!」と答えた。
 すると先生が、「よし帰って良いぞ」と言うので、うちは本当に帰れるのだと思い、扉に向かった。
 しかし、鍵がないから当然開かない。
 うちは先生に「鍵を開けてくれ」と頼んだのだが、一言「帰れるわけがないだろう」と言われた。
 頭にきたうちは、「だったら最初からそんなことを言うな!!嘘つき!!」と言い返してやった。
 その後、少年院とはどういうところなのか詳しい説明を受けて、一年は出れないと知り、納得をして丸坊主にした。
 先生に「お前みたいなやつは初めてだ」と、お褒めの言葉を頂いた。
 余談になるが、喜連川少年院は、バカでは入れない少年院らしい。
 これは先生が言っていた話である。
 この話を聞いたとき、やっぱりうちって頭良かったんだなと、納得(!?)した次第である。
 喜連川少年院は、問題がなければ大体11ヶ月前後で退院できるのだが、うちはとても真面目(?)だったから、なんと一年四ヶ月もいた。
 この一年四ヶ月はうちにとって、大きな一年四ヶ月だった。
 この一年四ヶ月が、うちにとってはとても良い勉強となり、みんなよりも五ヶ月も長く余計に過ごしたが、無駄ではなかったと思っている。
 少年院に入ったのは、お盆前後で、行ってすぐ少年院で盆踊り大会をやると知り、テキ屋がたくさん来ると思ってとても楽しみにしていた......。
  しかし、夜店など一軒もなく、ただ地元の人たちが来て一緒に踊っただけである。
 まだまだ少年院を舐めきっていた内である(笑)。 
少年院に入ると、最初に新入教育というのを受ける。
 そこでは、基本動作である、“気をつけ”“前ならえ”“行進”といったものをしっかりとできるよう(覚えさせられる。
 これは日本全国どこに行っても同じだし、誰でもできる。
 ちなみに、刑務所も同じだから、覚えておくと良い。
 他にも、少年院で生活をする間のルールや決まりごと、遵守事項を教わる。
 遵守事項も、全国の鑑別所、少年院、拘置所、刑務所共通なので覚えておくと良い(全然覚えてなくても、本当に当たり前のことだから全然支障はないです)。でも、せっかくだから、記しておくことにする。
~遵守事項~
第1条 逃走し、又は逃走することを企   ててはならない。
第2条 自殺を企てはならない。
第3条 自傷し、若しくは異物を飲み込   む等の身体に害を及ぼすおそれ   のある行為をし、又はこれらの   行為を企ててはならない。
第4条 火を発し、若しくは使用し、又   は火を発することを企ててはな   らない。
第5条 建物、設備、備品(貸与品を含   む。以下同じ)等をこわし、又   は壊すことを企ててはならな    い。
第6条 建物、設備、備品等に落書きを   し、又はこれらを汚損してはな   らない。
第7条 水道、電気、ガス通報、通路そ   の他の施設の設備等の機能を妨   害し、若しくはこれらを本来の   用途に反して用い、又はこれら   の行為を企ててはならない。
第8条 視察孔を壊し、若しくは汚損    し、許可なく走り、又は隠れる   などして、職員による視察を妨   害し、又は妨害することを企て   てはならない。
第9条 残飯、ごみ等を所定の場所以外   の場所に投棄若しくは放置し、   又はたんやつばを吐き散らすな   ど、施設の環境衛生を害する行   為をしてはならない。
第10条 許可なく物品(金銭を含む。   以下同じ)を制作し、加工し、   所持し、隠匿し、壊し、若しく   は投棄し、又はこれらの行為を   企ててはならない。
第11条 許可なく他人と物品を授受    し、又は授受することを企てて   はならない。
第12条 使用を許されている設備又は   物品を本来の使用目的と異なる   用途に用い、又は定められた使   用方法に反して使用してはなら   ない。
第13条 他人の物品を盗み、だまし取   り、又は脅し取ってはならな    い。
第14条 許可なく、衣類等を洗濯し身   体若しくは髪を洗い、水を用    いて拭身し、又は水をまき散ら   すなどして、水を不正に使用し   てはならない。 
第15条 他人に暴行を加え、若しくは   傷害を与え、又はこれらの行為   を企ててはならない。
第16条 他人とけんかし、若しくは口   論し、又はこれらの行為を企て   てはならない。
第17条 他人を中傷し、ひぼうし、若   しくは侮辱し、又は他人に対し   粗暴な言動をしてはならない。第18条 他人を脅迫し、威圧し、だま   し、若しくは困惑させる言動を   なし、又は他人に対し義務なき   ことを強要してはならない。 第19条 壁や扉をたたくなどして騒音   を発し、放歌し、口笛を吹き、   又は正当な理由なく大声を発す   るなどして、静穏な環境を害し   てはならない。
第20条 他人と性的行為をしてはなら   ない。また、他人と寝床を共に   してはならない。
第21条 故意に陰部を露出するなど、   他人にわいせつな又は嫌悪の情   を起こさせるような行為をして   はならない。
第22条 酒類、たばこ若しくはこれら   と類似のものを制作し、所持    し、隠匿し、用い、若しくは他   人と授受し、又はこれらの行為   を企ててはならない。
第23条 とばく若しくはとばくに類似   した行為をし、又はこれらの行   為を企ててはならない。
第24条 文身を施し、又は髪若しくは   まゆをそり込むなどして、容ぼ   うを変えてはならない。
第25条 許可なく、又は許可された方   法をとらず、他人、外部の団体   等と連絡し、又は連絡すること   を企ててはならない。
第26条 他人の信書を代筆してはなら   ない。
第27条 交談を禁じられている時又は   場所において、正当な理由なく   話をし、又は話しかけてはなら   ない。
第28条 許可なく、指定された場所を   離れ、職員の付添いなく歩き、   又は立入りが禁止された場所に   立ち寄ってはならない。
第29条 故意に定められた起居動作の   時間帯に違反する行為をしては   ならない。
第30条 健康診断及びその実施上必要   な医学的処置を拒否してはなら   ない。また、生命に危険が及ぶ   おそれがあるとき又は他人に疫   病が感染するおそれがあるとき   に実施する診療及び医療上の措   置を拒否してはならない。
第31条 職員による人員点検又は身    体、着衣、居室若しくは物品の   検査を拒否し、又は妨害しては   ならない。
第32条 職員の職務の執行を、暴行、   脅迫その他の方法で妨げてはな   らない。
第33条 職員の職務上の調査、質問等   に対して、虚偽の申告をしては   ならない。
第34条 職員に対し、強要にわたるよ   うな要求を繰り返し行ってはな   らない。
第35条 職員に対し、抗弁、無視その   他の不当な方法で反抗してはな   らない。
第36条 刑罰法令に違反する行為をし   てはならない。
第37条 他の被収容者に対し、遵守事   項に違反することをあおり、唆   し、又は援助してはならない。
 以上、37個ある。
 当たり前のことしかないから、覚えるまでもないのである。
 ちなみに、遵守事項に違反をすると、懲罰を受けることとなる。
 新入教育が終了すると、いよいよ本格的な少年院生活が始まる。
 喜連川少年院は、1学寮から7学寮まであり、1学寮は、新入教育寮で、独居部屋となり、部屋では色々な作文を書かなくてはならない。
 それと、
基本動作を教わる寮である。
 2学寮は懲罰と、仮退院1週間前(確か)の人が入る寮で、3、4、5学寮は、新入教育が終わると、どこかに振り分けられて、共同生活をする寮で、うちは5学寮に行った。
 本当は、4学寮に行きたかった......。
 なぜかって?
 それは、4学寮に気になる人がいたからである......。
 後々、先生にそのことがバレてしまい、目茶苦茶冷や汗をかいた。
 そして、4学寮の先生には、
「うちの寮に来るか?」
とよく冷やかされていたが、本当は目茶苦茶4学寮に行きたかった。
 なぜ、先生にバレてしまったかというと、朝礼などで寮ごとに並ぶと、必ずその人のことを見ていて、目がその人のことばかり追いかけていたらしい......。
 さすが、少年院の先生はよく見ていらっしゃる。
 こうして、うちの秘密はあっけなくバレてしまったのである。
 これだけは自分でどうすることもできないしな。
 まさか、バレるとは思いもよらなかった。
 それに、隠そうにも隠せなかった。
 先生に呼ばれて、
「久保田のことが気になるのか?」
と聞かれたとき、意表を突かれ、顔を真っ赤にしてしまったのである。
 さすがのうちも、隠すことができなかった。
 しかし、それでなのかどうなのかは分からないが、先生達には他の人達以上に目をかけてもらっていたように思う。
 結果、バレて良かったのかな、とも思っている。
 6学寮は出院準備寮となっていて、7学寮は6学寮でも真面目だった優等生が仮退院の1、2週間前になると行ける開放房で、24時間鍵がオープンになっているところで、なかなか7学寮から仮退院できる人はいない。
 少年院は、普段の日は作業をやる。
 喜連川少年院では、木工科、金属科、陶芸科、農耕科、学科とあり、それぞれどこかに振り分けられる。
 うちは木工科になった。
 一方、気になるあの人は、残念ながら金属科だったから、一緒になれなかった。
 金属科を希望すればよかった......ととても後悔した。
 木工科に行くと、最初はカンナの刃の研ぎ方から始まり、カンナの練習や基本をまず覚えていかないと、いきなり何かを作れるというわけではない。
 うちは、面倒臭い細かな作業は苦手だから、あまり作業には没頭できず、適当にやっていた。
 先生も、キンキンと声のうるさい先生で、あまり好きになれないタイプの先生だったこともあり、作業は面白くなかった。
 少年院は、少年同士が話をしても平気なところと、一切駄目なところがある。
 喜連川少年院は、一切認められていない。
 それどころか、お互いで注意をしあって生活をしなくてはいけない少年院であった。 
 新入教育を終了し、5学寮に入ると、まず部屋が決まる。
 雑居部屋で、少ないときは3人から、多いときだと5、6人で部屋を使うのだが、部屋は寝るときと、配食のときくらいしか使わず、普段は教室のようなところがあり、!そこに部屋ごとにテーブルが置いてあり、そこで過ごす。
 読書をしたり、作文(課題を与えられる)を書いたり、自主学習をしたりして過ごす。
 自分で何をして過ごすかは決める。
 部屋は毎月変わる。
 月の終わりになると、メモ紙を渡されて、各自同じ部屋になりたい人と、同じ部屋にはなりたくない人を書き、生活に提出すると、それを参考に部屋替えをする。
 だから、嫌な人もいるし、そうでない人もいるし、その辺はさすがにうまい。
 どちらかに偏るということはない。
 5学寮に入り、部屋が決まると、最初の2週間位は部屋長が、色々と寮の決まり事や、生活パターンを教えてくれる。
 その期間がすぎると、あとは基本1人で考えて過ごさなくてはいけない。
 喜連川少年院は集団生活が基本で、院生同士がお互い注意をしあって生活をするのだが、これがまた凄いのである。
 お互いがお互いを監視しつつ、自分は他の人から注意を受けないように気をつけなくてはならない。
 これにもルールがあり、注意を受けた人は必ず「失礼しました」と謝らなくてはいけない。
 例えば、机に向かって作文を書いているとする。
 何かの拍子にペンを落として“カチャン”と音をたててしまったとする。
 こんなことはよくあることだが、その時に何も言わないと、
「○○さんうるさいです」
と注意をされてしまう。
 注意をされた人は、そこで必ず
「失礼しました」
と注意をしてきた人に謝らなくてはいけない。
 謝ればそれで終わりである。
 この場合は、注意を受けたくなければ、ペンを落としてカチャンと音をたてたらすぐに、
「集団(皆さんの意)失礼しました」
というのが正しい。 
 他にも例は沢山ある。
 作文を書いているときに、書きながら声を出す人がいる。
 すると、
「独り言がうるさいです」
とか、思い出し笑いをして見つかると、
「○○さん、何笑ってるんですか?」
「笑ってておかしいです」
と注意を受ける。
 様々な注意が飛び交っている。
 そしてこれの怖いところが、目をつけられたり、要領の悪い人が注意をされると、ものすごい集中攻撃を受けることにある。
 例えば、
「○○さん、集中してください」
などと注意をされたとする。
 その意味がわからなかったとする。
 それでも一応注意をされたわけだから、「失礼しました」と言わなければならないのである。
 それを言わなかったり、たまたま嫌いな人間に注意をされて、顔に出してしまうと、
「○○さん注意しました」
「○○さん注意されてます」
「しっかりやってもらえますか」
「態度が悪いです」
などと、総攻撃を受けるのである。
 どのようにすごいか例を挙げると、次のようになる。
「○○さん集中してください」
「......」
「○○さん注意しました」
「失礼しました」
他の人にも、
「○○さんしっかりやってもらえますか」
「失礼しました」
「言い方が(失礼しましたの言い方)おかしいです!!」
「失礼しました」
「まだおかしいです」
「失礼しました」
「変わってないです!!」
「失礼しました」
続けて他の人にも、
「しっかりやって下さい!!」
「態度が悪いです」
「目つきも悪いです」
とやられてしまう。
 なかにはこれをやられて泣き出す人もいる。
 泣けば許されるかといえば逆で、
「何泣いてるんですか?泣けば済むと思ってるんですか?」
「......」
「今、注意しました!!」
「しっかりしてもらえますか!!」
「泣くくらいなら注意されないように生活をしてください!!」
と追い打ちをかけられるのである。
 うちはこれをよく使って、ストレスを解消していた。
 口で泣かすのは、得意中の得意だった(泣きっ面に蜂ですね)。
 “ひっつき喜連川”と言われる所以である。
 喜連川少年院に入った人は大抵が、あそこだけは二度と行きたくないというが、うちはここで切り返し方や、様々な会話術を学べたと思う。
 要領を覚えたのもここである。 
 ようは、要領よくやれば、怖くもなんともないところなのである。
 うちもそれを学ぶまでは、みんなを敵に回していたから、1年4ヶ月も生活をすることになってしまったのである。
 少年院では、色々な行事がある。 
 花見、相撲大会、マラソン大会、盆踊り大会、運動会など、少年院ごとに違う。
 うちは、春と秋にやる相撲大会が大嫌いだった。
 聞いた話だが、今は相撲大会がなくなったらしい。
 練習中に怪我人が続出してやらなくなったらしいが、ひ弱な子が増えたのだなと思う。
 運動も毎日あった。
 少年院は、マラソンをよくやる。 
 うちの得意科目で、マラソンだけは一度も負けたことがない。
 いつ走らされても、必ずトップで走るのはうちである。
 喜連川町内会の駅伝大会にも、参加させてもらったことがある。
 うちは、マラソンでいつも目立っていたから、大分それで先生達からも期待されていた。
 そのおかげでかなり可愛がられてもいた。
 5学寮にいたとき、一度懲罰を受けている。
 寮の半分の人間と不正をしていた。
 連絡先を聞いたり、みんなに隠れてコソコソと仲間を作っていた。
 それが見つかって、みんなで仲良く懲罰を受けたのである。
 このとき特に仲良くなった人とは、少年院を退院したあと、外で会ったりしている。
 その一人とは事件も起こしているが、それはもう少しあとで述べることにする。
 懲罰に行ったあと、暫くはみんなの目がきつかったのだが、そこはなんとかうまく凌いだ。
 このとき、木工科から陶芸科に変わることになった。
 陶芸科は、3、4人しか人がいないところだった。
 きっと、目を離すとまた不正をやらかしかねないと思われていたのかもしれない。
 なんせ、不正をしていた人数が過去最高であり、寮の半分の人間と仲良くしていたのである。
 1時は5学寮も人がかなり減り、崩壊寸前だったらしい。
 周りは本来全て敵(?)のはずなのに、そういう状態の中で、人を取り込み、仲間にしてしまうという能力を身につけたのも、喜連川少年院で生活をしたから、身についたのだと思う。 
 悪い言い方をすると、人の弱いところから付け入り、仲間にしてしまう能力に、他の人より少しだけ長けていたのである。 
 喜連川少年院は、本当にうちにとっては良い勉強になったと思う。
 特に口が達者になり、会話中の頭の回転、のらりくらりと人を煙に巻いたり、口で人を怒らせたり、へこませたり、追い込むのがうまくなった。
 これはその後のアウトローな生活にはとても役だっている(アウトローとは、out=外、law=法律、法律の外、つまり法律を無視する人のこと)。
 平成3年12月18日に、喜連川少年院を仮退院した。
 うちの他にも一人いた。
 雅也といい、5学寮で共に過ごし、一緒に不正で懲罰になった仲間の一人で、連絡先も教えてもらっていた。
 うちは、本当は保護会に退院後は行こうと思っていたのだが、親父が引受人となり、親父のところへ帰らなくてはいけなくなってしまった。
 うちからすると、予定が狂ってしまい、迷惑な話でしかなかった。
 仮退院式を済ませると、服を着替え、雅也は車でお父さんと帰っていき、しばしの間お別れ。
 一方、うちはタクシーで氏家駅に向かい、宇都宮駅まで普通列車で行き、宇都宮駅から上野まで新幹線で行き、八王子観察所へ行った。
 そこで保護観察官と面接をして、親父が借りていた部屋に帰った。
 うちは、また継母の顔を暫くは見なきゃならないのかと、正直うんざりした気分だった。
 久しぶりに外に出たのに、なんでまた一緒に生活をしなきゃならないのかと、とても嫌な気分になった。
 しかし、前に住んでいたアパートではなく、別のアパートに着き、入ると継母も腹違いの妹もいないワンルームのアパートだった。
 親父も継母もうちが少年院に入ると、すぐに引っ越しをしていたのである。
 世間体ばかり気にする二人のやりそうなことである。
 うちがパクられて、少年院に入ったことなんか、誰にも分かるはずもないのに本当に呆れてしまう。
 アパートは田無駅のすぐ近くだった。
 田無は中学が1中~4中までしかないのだが、わざわざ4中側に部屋を借りたのであろう。
 そんなことをするくらいなら、田無から出ちゃえば簡単なことではないかと思う。
 少年院を出て、次の日保護司にあったあと、年が明けるまではのんびりすることにした。
 出てきたばかりでお金も持っていなかったうちはまず、東京工専でクラスメイトだったAのところに行き、お金を巻上げた。
 少年院に入ったからといって、急に真面目になるはずがない。
 きっかけがなければ、少年院や刑務所など何回入っても変わらないのである。
 Aからお金を巻上げると、お正月が来るまでは、久しぶりに東京工専の友達に会って遊んだりした。
 しかし、なぜかガキっぽく見えてしまい、その後会わなくなってしまった。
 話をしていても、面白くないし、ズレを感じてしまうのである。
 こいつ等ってこんなだったっけかな?もっと大人っぽくなかったっけ、なんて思ったら、急につまらなくなってしまったのである。
 多分、友達が変わったのではなく、うちが変わってしまったのだと思う。
 お正月に入ってから、あまりにも退屈だったうちは、少年院で連絡先を聞いた雅也と会ってみたくなり、家を尋ねることにした。
 家は新小岩駅から歩いて20分位の所だと聞いていたから、すぐ探せるだろうと思い、新小岩を目指した。
 田無駅から急行西武新宿線に乗り、高田馬場で山手線に乗り換え、新宿で総武線に乗り換え、新小岩に向かった。
 本当は連絡先を聞いていたのだから、先に連絡をすれば良かったのであるが、もし親が出て雅也に代わってもらえなかったら嫌だなと思い、それなら新小岩まで行って探したほうが早いと思ったのである(フットワークが素晴らしい!!これはうちの一番の自慢点である)。
 新小岩駅に着くとまず公衆電話を探し、電話帳で雅也の番号が載っているかを調べた。
 すると、雅也の番号が電話帳に載っていた。
 うちの勘が当たったのである。
 一度公衆電話を出て、交番に行きボールペンとメモ紙をもらい、再び公衆電話に入り、雅也の住所を写し、お巡りにその住所にはどうやっていげば良いのかを聞いた。
 こうして雅也の家を探して、さてどうしようかと考えていたら、雅也がたまたま歩いていた。
 こうして雅也とは、少年院を出たあとに再会した。
 雅也は家に気付くと、すぐに家にあがらせてくれた。
 年齢はうちと同じ年で、好きだった一人でもある。
 雅也にはなぜかそのことは話してしまった。
 普段シラフのときは怒られるが、お酒を飲んで酔っ払うと、雅也に甘えてもその時だけは許してくれた。
 雅也に会いたかったのは、雅也のことを少年院にいるときに好きになってしまったからである。
 しかし、雅也とは最初から仲が良かったわけではない。
 むしろ的にかけていたくらいであり、周りからは対人関係は良くないと思われていたくらいである。 
 それがいつしか仲良くなり、好きになるにまでにいたってしまったのである。
 雅也とはほとんど毎日会っていた。
 最初の頃はよく、上野のアメ横に買い物に行ったりした。
 お正月が開けてすぐ、仕事を見つけた。
 日産村山工場の期間契約で仕事の募集をしていたので、面接を受けることにした。
 まず日産の村山工場に電話をした。
 ところが、18歳になるまでは無理だと知り、1月11日の誕生日まで待つことにした。
 その間は、雅也の家に行ったり、雅也がうちの家に来てくれたりして遊んでいた。
 1月11日になり、18歳を迎えるとすぐ面接をして、日産の村山工場で働き始めたのだが、1ヶ月で工場長と喧嘩をし(というか、口うるさかったから反抗して仕事中に家に帰り、そのまま辞めたのである)、辞めてしまった。
 村山工場では、ローレルの組立をしていた。
 仕事を辞めるとすぐに他の仕事を探し、次はガードマンの仕事をした。
 日勤と夜勤とがあったが、うちは夜勤でやっていた。
 理由は、夜勤の方は、大抵仕事が早く終わり、半ドンでも1日分の給料が貰えたということが大きな理由である。
 ガードマンの仕事は、給料も週払いで、自由出勤だったため、うちには都合の良い仕事であった。
 お金必要なときだけ、本当にたまにしか仕事に行っていなかった。
 お金がなくなると、雅也と恐喝をしていたから、あまりお金に困ることもなかった。
 あるとき、雅也と新宿に行き、買い物をしたり、遊んだりした。
 この頃はまだ、新宿も職務質問などもなかったから行きやすかった。暗くなるまで遊んだ。
 この日は新宿で遊ぼうとなり、雅也に髪の毛をセットしてもらった。
 それも、XのToshlのように髪の毛をバッチリとセットしてもらった。 
 この頃は、お化粧もたまにしていたし、どちらかというと女の子に近い格好(ファッション)をしていた。
 完全に女の子のような格好をすると、雅也に怒られてしまうから、中性的な格好をしていた。(付け加えておくと、うちは髪の毛のセットを自分でやれないので、セットは雅也にやってもらっていた)。
 新宿で遊んだあと、最後路上ライブを見て別れた。
 うちは西武新宿線に乗り、田無に向かった。
 電車はガラガラに空いていたので、うちはシルバーシートに一人で座った。
 暫くして、隣の車両に座っている二人組の女の子がこっちに向かって手を降っていた。
 最初うちに手を降ってるとは思わなくて、無視していたら、向こうからうちに声をかけてきた。
 地元は立川の子だそうで、電車が違うことを聞くと、新宿で同じ路上ライブを見ていたそうである。
 そのときに、雅也とうちを見かけて、うちの後を着いてきたのだそうである(逆ナンされてしまったのですね)。
 だからうちと同じ電車に乗っていたのだそうで、見事に引っかかってしまったというわけである(尾行されていて気付かなかったとは......)。
 こうして二人の女の子はうちの家に着いてきたので、部屋で過ごした。
 部屋は、うちのためだけに借りた部屋らしく、親父が帰ってくることはなかった。
 継母と腹違いの妹と、別の所に住んでいたようである。
 だからやりたい放題できた。
 普通の男の子だったら、女の子を二人もあげたら有頂天になり、二人を頂いちゃうところなのだろうが、女の子に興味のなかったうちはどちらにも手を出さなかった。
 うちではなく、雅也に着いて行かなかったのはなんでなのか、うちにはとても不思議であった。 
 それとも、中性的だったから、逆に安全だと思われて声をかけてきたのだろうか。
 とても疑問である。
 雅也にその疑問をそのままぶつけた。すると雅也は、
「お前はモテるのにもったいないな」
と言われ、ますます意味が分からなくなった。
 うちからしたら、雅也の方が男らしいし、全然うちより格好良いと思うのだが、理解できなかった。
 うちは、雅也を彼氏のように思っていたから(雅也もそのことは十分知っていたはずだし)、女の子はどうでも良かった。
 しかし、うちが見ても二人ともまぁまぁ可愛かった。
 家に着くと、雅也にすぐに電話した。
 まず、家に着いたという報告と、女の子に電車の中で声をかけられて一緒にいると話した。
 すると雅也は、とても悔しがっていた。
 後日、雅也にもその二人を紹介したら、そのうちの一人に雅也を“盗まれた”(泣)。
 夏子(以下夏と記す)という子で、雅也と二人でイチャイチャされるのが凄く嫌で、それ以後夏を大嫌いになった。
 夏とはしょっちゅう口喧嘩をするようになり、雅也とも夏のことでしょっちゅう口喧嘩をした。
 雅也は知らないが(多分)、あるとき雅也と一緒にうちの部屋にいたとき、雅也は気持ちよさそうに寝ていたから、うちは雅也の雅也を口に含んで、ご馳走様している(何回かしている)。
いつも一緒に いたかった
隣で笑ってたかった
季節はまた かわるのに
このまま立ち止まったまま~......
 夏に一番腹が立ったのは、雅也とシンナーを始めたことである。
 もともと雅也もシンナーが大好きだったようで、夏とシンナーをやるようになってしまったのである。
 うちは雅也になんとかシンナーを止めてほしくて、夏のいないときに話をして、何度も止めてほしいとお願いした。
 二人で話をすると、もうやらないと言って約束をしてくれるのだが、夏が来ると結局いつもやっていた。
 そのため、夏にも毎回
「シンナーなんか止めろ!!やるなら雅也を巻き込まないで一人でどっかに行ってやれ!!」
と怒っていたのだが、あまり強く言うと、雅也に止められてしまい、余計に頭にくるのである。
 夏がシンナーを吸うのは、うちにとってはどうでも良いことであった。
 それでパクられようが、死のうが(むしろ死んでくれたほうがうちにとっては良かったくらいだ)そんなことは、うちには全く関係のないことだったが、雅也にだけは絶対にやらないでほしかったし、雅也がシンナーを吸っている姿など見たくもなかった。
 うちはシンナーは大嫌いで、一度もやったことがない。 
 西成にいたときに、普段は格好良い先輩が、シンナーを吸っていて、商店街を牛のようにヨダレを垂らしながら歩いていた姿が衝撃的で、シンナーだけは西成にいたときから、どんなに誘われてもやらなかった。
 プライドの高いうちは、人にそんな姿を絶対に見せたくなかったし、あんなものをやって何が楽しいのか、全く理解ができない。
 そんなうちが、シャブにはハマっちゃうんだよな......。
 まさか、そんなことになるとは、この頃のうちは思ってもいなかった。 
 薬は怖いと思う。
 雅也とシンナーのことで喧嘩をするのも嫌だったうちは、一度だけ暫く会うのをよそうと雅也に言ったことがある。
 実際、数日は会わなかったのだが......。
 うちが寂しさに耐えることができずに、すぐに雅也に会いに行ってしまった。
 雅也はこうなることを最初から分かっていたようで、うちの作戦は失敗に終わってしまった。......。
 うちはうちで、幼少時代からの家庭環境の影響のせいで(自分ではそう思っているのだが、実際のところはわからない)、普段はさほどではないのだが、好きな人ができるとその人に依存しきってしまうため、離れられなくなってしまうのである。
 恋愛は、“相手に惚れるな惚れさせろ”というが、うちの場合、相手が男の場合だと自分がぞっこん惚れ込んでしまうから弱くなってしまうのである。
 依存症関係の本で読んだことがあるのだが、うちの好きになった人への依存は、病気レベルなのである。
 その本には、“本来優先されるべきことがそっちのけになる、周囲の声が耳に入らない、それがないと(うちの場合、その人がいないと、あるいはいなくなると)不安やイライラがあらわれる、生活や体に支障が出る、さまざまな支障が出ているにもかかわらず、やめたいけどやめられなくなっている。依存の対象で頭がいっぱいの状態”と書いてあったが、まさにこの状態にどっぷりと落ち込んでしまうのである。
 だから、問題のないときは良いのだが、一度問題が発生すると(人が問題と思わないことでも、時と相手によってうちの場合は大問題と捉えてしまう)、ひどく傷付き、落ち込みも激しく、時には自殺まで考えてしまうのである。
 雅也に対してがそうであった。
 雅也はうちが雅也のことを好きだということを知っているが、理解もしてくれていた。
 体の関係はなかったにしろ、甘えたり、ある程度のことは許してくれていたから、精神的には相当雅也を頼りきっていた。
 身体的な繋がりよりも、精神的な繋がりが強かったために、余計雅也に対しての心の依存が強かった。
 そのため、うちのほうが雅也と会えない重圧に耐えきれなくなり、雅也に会いに行ってしまったのである。
 それでも、雅也にシンナーだけは絶対に止めさせたかったうちは、雅也に
「今度夏とシンナーをやったら、夏を殺すから」
と言った。
 結果的には、その後雅也がシンナーを吸わなくなったから、結果オーライであった。
 夏も、うちのいる前ではシンナーを吸わなくなった。
 きっと雅也が夏に言ったんだろうとは思うが、何はともあれ、雅也がシンナーを止めてくれたことは良かったと思っている。
 そんなあるとき、雅也と夏がうちの家に遊びに来た。
 雅也はいつも以上に夏とイチャイチャしていて、うちがイライラしているのを見て笑っている。
 明らかにわざとやって、うちをからかっているのが分かった。
 夏はうちのことをそこまで知らなかったから、うちがなぜイライラしているのか分かっていない。
 うちは少し冷静になろうと思い(?)一人で外に出た(むしろ、やきもちを焼いて飛び出したと言うべきかな)。
 一人でイライラ、カッカして駅周辺を歩いていた。
 うちが女の子だったら、あんな女に雅也を取られたりしないのに!!と思うと、余計にイライラして仕方がなかった。
 どこをどう歩いたかさえ分からなくなったくらい、一人プリプリしていた。
 田無警察署の隣に、レンタルビデオ店があり、そのレンタルショップの前にスカイラインGTS-Xがエンジンをかけっぱなしで止めてあった。
 警察署の前には、刑事が立っていたが、そんなのは全く問題にしなかった。
 我が物顔でスカイラインに乗り込み、その場を離れた。
 田無警察署は、無能だなと思った。
 まず、駐車禁止場所なのに、堂々と車を駐車されて、しかも刑事の見てる目の前で車を盗まれているのである。
 スカイラインの持ち主も、まさか刑事の見ているところで大事な車を盗まれるとまでは思っていなかったのではないかと思うが、そこが甘いのである。
 10秒もあれば、車など簡単に盗める。
 特にエンジンがかかっていれば、10秒もいらない。
 だからうちは、絶対に車を止めるときは、絶対にエンジンも切るし、ロックもかける。
 こんなことは、基本中の基本である。
 うちが車を盗むのは、コンビニの前、ガソリンスタンド、整備工場の中、工事現場内の駐車場などを狙ってやっていた。
 こういったところは、大体エンジンをかけっぱなしにして買い物をしていたり、キーをつけっぱなしで車を止めていたりすることが多いので、車を盗むには一番手っ取り早かった。
 車を盗まれたくない人は、気を付けましょう!!
 エンジンがかかっていれば、ドアを開けて乗り込み、ギアを入れたらサイドブレーキを解除して、アクセルを踏み込むだけだから、実際5秒もあればできてしまう。
 だから、仮に持ち主に見られていたとしても、人間は咄嗟に人の顔など覚えることなどできない(ここテストに出るので、覚えておくように)。
 だから、本当に気を付けましょう。
 スカイラインを手にしたうちは、急いで家に戻り、エンジンを切って、ロックももしっかりとかけ、雅也と夏に車を盗んだから、ドライブに行こうと誘い、車で二人を待った。
 二人はこともあろうか、うちがいなくなったのを良いことに、うちの部屋でエッチをしていた。
 二人はうちが急に帰ってきてかなり焦っていたが、うちはうちでかなりショックが大きかった。
 二人が付き合っていて、エッチをしてることも分かっていたが、それを目撃したくはなかった。
 浮気を目撃した奥さん、若しくは彼女の気分を味わったようですごく嫌だった。
 それ以来、夏を余計に大嫌いになったのは言うまでもないが、どうあがいてみても、女である夏にうちが勝てるはずはなく、とても悔しかった。
 二人が車に乗り込み、ドライブをした。
 雅也は助手席に座り、夏は後ろに乗った。
 このとき、もし二人が後ろに座りでもしたら、またうちは不機嫌になり、一人傷ついたかもしれないが、雅也もその辺はうまかった。
 どこへ行こうかと思ったが、うちの好きな奥多摩を目指した。
 五日市街道を走り、久しぶりに横田基地を抜けて、青梅街道に入り、奥多摩を目指した。
 うちからすると、夏は抜きで、雅也と二人きりでドライブをしたかった。
 この日を境に、田無周辺では色々な車を盗んでいる。
 雅也と二人でコンビニに買い物に行こうとしたら、コンビニの前にライトバンがエンジンをかけたまま止まっていて、その車を盗んだ。
 雅也を助手席に乗せ、暫く走ると、今度は別のコンビニにソアラがこれまたエンジンをかけたまま止まっていたので、雅也に運転を交代してもらい、ソアラも盗んだ。
 当時、大きな空き地があって、盗んだ車はそこに全部おいていた。
 他にも、マークII、スカイラインRS、軽自動車と選り取りみどり置いてあった。
 雅也とは色んな車に乗った。
 スカイラインで、雅也の地元に行って乗り回していたら、エンジンがいきなり止まり、故障してしまった。
 ボンネットを開けてみると、オイルキャップが付いていなかった。
 きっとオイル交換をしたときに、キャップをし忘れたのであろう。
 気に入っていただけにショックだったが、仕方がないので乗り捨てて、1時間後には別の車を手に入れていた。
 車の窃盗に関しては、変に自信があった。
 雅也の家の近くにあった、ホンダか三菱か忘れたが、そこの整備工場からも車を盗んでいる。
 単車も盗んでいる。
 単車の方は、もっぱら雅也が乗り、車はうちが乗り回していた。
 ちょっとだけ話が逸れてしまうが、少年院を出てすぐ、うちが住んでいたところから歩いて3分くらいのところに、イラン人が3人住んでいた。
 外で声をかけられて友達になったのだが、うち二人とは関係をもっている。
 一人は知り合ってすぐに関係をもっている。
 多分最初は女の子だと思って声をかけてきたのだと思う。
 中性的な格好をしていたから、多分勘違いされたのだと思う。
 それとも、最初から男の子とわかって声をかけてきてたのかな?
 少年時代、特に16歳から20歳になるまでの間、よく外人に声をかけられることが多かった。
 外国人(フィリピンや中国などのアジア系)に間違われることもよくあった。
 でも、うちのそういうことを理解してくれるのも、日本人より外人のほうが多かったし、関係をもつのも外人が多かった。
 なぜかうちは、外人の男にはモテるのである......。
 このことは雅也には話していない(これは浮気になるのかな?ならないよな。雅也とは付き合っていたわけじゃないし......。)
 こんなうちって、やっぱり変だったのであろうか。
 思春期だっただけに、このことに対しては本当に悩み、男に生まれてきたことに対しては本当に自分を恨んだ。
 J君のときもそうだったし、雅也のときもそうだったが、自分が男だということがとても悔しくて、一人で泣いたことも何回もある。
 なんでこんなに寂しい気持ちにならなきゃいけないのか、なんでこんなに苦しまなきゃならないのか、自分がとても嫌だった。
 せめてアメリカやタイのように、理解のある国で生まれていたら、もう少し違った人生を送れたのかもしれないと思う。
 特にうちの場合、好きな人に対しての感情移入が激しくなり、それにプラス精神的な依存も強くなってしまうから、好きになれば好きになるほど苦しみ、ほんの些細なことでも傷付き、計り知れない大ダメージを受けてしまうのである。
 女の子と付き合っているときには、前にも述べたが、うちは自分が甘えたい方だから、女の子に甘えられるのは嫌だし、年中金魚のフンみたくどこに行くにも、一緒について来られるのも嫌だし、自由気ままにやりたいから、一人の時間も欲しいし、何よりも束縛されるのは大嫌いで、うちはうちで一人になりたいときもあるから、どちらかといえばほっといてほしいし、突然一人でどこかに行きたくなることもある。
 しかし、男の子(好きになった人のみ)に対しては、1日24時間甘えていたいし、どこに行くにしても、常に一緒に行動をしていたいし、その人のことは幼少期のことから細部に渡って知りたくなる。
 どんな幼少期のを過ごしたのか、お父さんやお母さん、兄弟姉妹との関係、交友関係、小学校時代、中学校時代はどんなだったのか、どんな環境で育ったのか、そんなことまで細かく知りたくなるし、その人が使っている物や服、バックそういった物にまで感情移入してしまう。
 ここまでくると、ほとんど病気である。
 一日中好きな人のことで頭がパンパンになる。
 だからその分、会えなかったり、喧嘩になったりすると、不安で心の重圧に耐えきれなくなってしまうのである。
 うちを殺すのに刃物はいらない。
 好きな人と連絡が取れなくなるだけで十分である。
 悪いことは平気でやるし、それに対しての罪悪感は全く感じないくせに、恋愛のことに関しては、ほんの小さな出来事でも簡単に心が折れてしまう。
 自分でもビックリするくらい弱いのである。
 もし、願いが一つ叶うなら、“女の子として人生をやり直したい”。
 話を戻すが、車を色々と盗み、雅也と毎日どこかに出掛けるのは凄く楽しかった。
 うちは人前で歌を歌うのは大嫌いで、カラオケに行っても絶対に人前で歌うことはしなかった。
 しかし、雅也と二人きりで行くと歌う。
 そのうち人前でも歌えるようになり、今ではカラオケが大好きである。
 プライドがもの凄く高いうちは、人前で恥をかくのは絶対に嫌なので、自分が苦手とするものは、自身がつくまでは絶対にやらない。
 人に失敗したところを見られるのは、堪え難い屈辱を感じてしまうのである。
 お酒を飲むようになったのも、雅也とつるむようになってからである。
 それも、うちがお酒を飲むのは決まって雅也といるときのみだった。
 お酒を飲めば、雅也に甘えたりできるという理由で飲み始めたからだ。
 平成4年4月4日、雅也とうちは田無警察署にパクられてしまった。
 事件はそれぞれ少し違う。 
 この日は、うちの部屋に雅也と後輩と三人でいた。
 夕方過ぎてから、うちは車で街に流しに出かけた。
 そのときに乗っていた車は、コンビニの前で盗んだソアラである。
 マフラーを外していたので、爆音で走らせていた。
 田無警察署の前にも行き、エンジンを吹かし、警察をからかったりしていたら、パトカーがあちらこちらから来て、最終的には5、6台のパトカーに追いかけられるのだが、うちは車の運転にかけては、誰よりも自信を持っていたから、からかいながら逃げて、最終的にはパトカーを巻き、家の近くに車を置き(普段は空き地に車を止めているのだが、空き地までは歩くと20分くらいかかる)、一度部屋に帰った。
 部屋で暫く過ごしたあと、みんなで出掛けようということになり、雅也とうちは後輩を待たせておいて、ソアラを取りに向かった。
 二人でソアラのところへ行くと、お巡りの自転車がソアラの近くに二台止めてあり、どこかにお巡りが隠れていると思い、一度その場を離れ、どうしようか考えた。
 すると、二人組の男の人が歩いていたから、うちはその二人組に声をかけて、
「そこの駐車場に先輩の車が止めてあって、取ってこいと言われたんですが、狭くて車を出す自信がないので、出してもらえませんか?ぶつけたらヤバイのでお願いできないですか?」
と頼んだ。
 もしそれでソアラを持ってきてもらえればラッキーだし、お巡りに囲まれたら雅也とうちは逃げ出せば良いことだと思ったのである。
 二人組の人は心地良く引き受けてくれたから、うちは車のキーを渡した。
 二人はソアラのところまで行き、ドアを開けようとしたとき、お巡りが二人のところに行くのが見え、雅也とうちはその場から走って逃げた。
 部屋に戻り、空き地に別の車を取りに行こうかと思っていたが(車なら空き地に何台も止めてあるから、1台くらいなくなっても全然問題などなかった)、その日は20分も歩くのが面倒だったので、部屋で過ごすことにした。
 部屋に帰ったあと、雅也と後輩がコンビニに買い物に行くと言っていたから、うちは待つことにした。
 すぐに帰ってくると思っていたら、1時間立っても帰ってこないから、うちはとても不安になり、コンビニに行った。
 しかし、雅也も後輩もコンビニにいないのである。 
 不安がどんどん大きくなり、よせば良いのに、コンビニの周りを探していたら、お巡りと、車を駐車場に取りに頼んだ二人組の人に見つかり、捕まってしまったのである。 
 もし、このとき雅也ではなく、他の友達とか後輩とかだったら、わざわざ探しに行くなんてことはしなかったのである。
 好きな人だと、こういうときに冷静に動けなくなるのが、うちの欠点である。
 他のことを考える余裕がなくなってしまうのだ。
 智也のときと同じである。
 普段は冷静に行動できるのに、そこに好きな人が絡むと、その人のことで頭がいっぱいいっぱいになってしまい、不測の事態に冷静に対応できなくなるのである。
 だからこうやって、簡単なミスで捕まってしまうのである。
 これは、今も昔も変わっていない、唯一のうちの弱点なのである。
 このときだって、車の件があったのだから、家の周りはお巡りがいたことなど分かっていたことなのである。
 普段のうちだったら、その日は少なくとも家を出るなんてことは絶対にやらなかった筈である。
 そうすれば、少なくともその件で捕まるということはなかったのだ。
 こうしてうちは捕まり、田無警察署に勾留されてしまったのである。 
 雅也もやはり捕まっていた。
 単車を盗もうとして捕まったらしい。
 うちは雅也を庇って、車を盗んだのはうちが一人でやったことで、雅也には関係ないと言いはったのだが、雅也は雅也でうちを庇ってくれたみたいで、結局、うちが雅也に守られてしまい、雅也が全部被る形となり、凄く嫌だった。
 雅也のためなら少年院など何度入っても良いと思っていたし、雅也のためならいつ死んでも構わないと思っていたうちが、逆に助けられてしまったのである。
 うちを担当した刑事は、中学3年生のときに自転車の件で迷惑をかけた刑事だった。
この刑事は、凄く面倒を見てくれる人だった。
 このときは、ソアラ以外の余罪については一言も話さなかったが、
「スカイライン、マークII、ライトバン、ハイエースとか、お前心当たりないか?あるだろう?」
と聞かれ、“アッ!!それ全部うちが盗んだ車だ”とすぐに分かったのだが、うちは知らないととぼけた。
 しかし、刑事には、
「お前が簡単にやったなんて認める玉じゃないのは中学の時で良く分かってるよ」
と言われ、それ以上の追求はされなかった。
 対警察に対しては、この頃から滅法強いうちで、簡単に口を割る貴方達とは違うのである。
 成人でも捕まるとすぐに、ペラペラペラペラ話す口の軽いバカが多いが、そういう奴にはプライドがないのかと思う。
 捕まって、仲間も庇えないでペラペラペラペラ喋る野郎は一番大嫌いである。
 そういう奴は、アウトローになる資格などない。
 最近は、ヤクザ者でも捕まると、簡単に喋る情けない奴が多い。
 よくそんな情けない奴が、「ヤクザ
者です」なんて胸を張って威張っているものだと思う。
 自分だけで背負うこともできないのなら、格好悪いだけだからヤクザなんかさっさと辞めて、普通に仕事でもやっていろ!!とうちは思う。
 捕まって、ペラペラペラペラと刑事に何でも話してしまう情けないヤクザ者諸君!!
 アウトローぶっている情けないお前!!
 そう、お前たちみたいな奴は、裏の仕事は向いていないからとっとと足を洗って真面目に働け!!
 “ヤクザは利口でなれず、バカでなれず、中途半端じゃなおなれず”と言われているが、今のヤクザ者はバカと中途半端な奴ばかりである。
 ヤクザは利口じゃなきゃやれないとうちは思っている。
 時代は変わっているのである。
 少なくとも、口の軽い奴が、ヤクザなどやる資格はない。 
 そんな奴は、格好悪いだけだから真面目に働け!!とうちは思う。
 一度だけ、八王子地検で雅也と一緒になれた。
 普通、共犯者と一緒に同じ部屋に入るということはないのである。
 久しぶりに雅也に会ったうちは、
「もし、どっちかが少年院に入ったら、助け合おうね」
と言った。
 雅也は多分、うちが冗談でそういうことを言っているのだと思っていたのだろうが、うちは思いっきり本気で言っていた。
 このときから、うちは今回は、少年院に行かないと確信をしていたのだが、雅也は少年院に入ってしまうと思っていた。
 凄く気が重かった。
 うちが少年院に入るほうが、気が楽だった......。
 うちも、鑑別所には入った。
 前回同様、面接や、IQテストなどをやったりしたが、思いっきり反省している態度を示し、少年院には入らないで済むように努力をした。
 その結果、うちは少年院には入らずに済み、試験観察の委託預かり(分からない人はググりましょう)となり、横浜にある変な家に預けられた。
そこには、他にも20人くらい同じような人間がいて、そこで生活をさせられた。
 そこでやらされたことは、石磨きという馬鹿らしいことをやらされた。
 “石を磨いて、意志を磨く”とか訳のわからないことを言っていたが、阿呆臭いところだと思った。
 男臭いところは大嫌いなうちにとっては、とても耐えられるような所ではなかった。
 そこは、一軒家の大きな家で、2階建ての家だった。
 うちは最初からそこは逃げ出すつもりでいたから、暫くはどうやって逃げ出そうかを考えるために、一週間の動きをまず把握することにした。
 まず、朝と夕方はマラソンをやるのだが、そのときはパンツとシャツのみの格好でやらされる。
 外に出れるのは、その二回のみ。
 あとはずっと家の中で過ごす。
 ただひたすら、石を磨くだけである。
 玄関にはベルをつけてあり、扉を開けるとけたたましい音が鳴る。
 だから出入りすると必ずバレるようになっていた。
 2階はほとんど使わないのだが、大きな部屋があり、たまに集会などで使っていた。
 夜は1階で寝る。
 ほとんど毎日、石を磨くだけで、これといったことはやらない。
 少年院の方がよっぽど楽しいと思った。
 うちは、1日で嫌になった。
 嫌になると、頭の中は雅也のことでいっぱいいっぱいになり、雅也のこと以外考えられなくなった。
 こうなると何をやっても集中などできなくなり、余計に辛かった。

 最初は、一週間はそこで我慢して過ごすつもりでいたのだが、雅也のことしか考えられなくなり、5日後にはそこから脱出している。
 その日は(脱出をした日)、朝起きたときから雅也のことで胸がいっぱいで押しつぶされそうだった。
 これ以上は、とてもうちの心が耐えきれないというところまできていた。
 どうやって逃げ出すかは、もう決めてあった。
 この日の自分に課したミッションは、“脱出をして、イラン人のところへ行く”ことだった。
 まず夜まで待ち、就寝時間になると布団に入り、みんなが寝付くのを待ち、それからさらに一時間くらい待った。
 うちは時計がなくても、時間がなんとなく分かる。
 これも少年院で身につけた能力の一つである。
 みんなが寝付いたかどうかも、確認しなくても呼吸を聞くだけですぐに分かる。
 うちの耳はとても良い。
 気配も敏感に察知できるのである。
 うちが自慢できる唯一の能力と言っても良い。
 野性的な能力や勘に関しては、誰にも負けない自信がある。
 但し、好きな人のことで頭がいっぱいいっぱいになっているときや、落ち込んだときは、その能力も半分も発揮できなくなるという弱点もある......。
 みんなが完全に寝付くと、気配を殺して起き出し、2階へ上がった。
 2階に上がると、シーツを立てに切り裂き、まず柱に結び、切り裂いた残りのシーツを繋いで窓から垂らした。
 所々にコブを作り、滑らないようにした。
 こうしてうちは、シーツをつたって外に出た。
 靴は玄関に置いてあったが、下手に取りに行って見つかるのも嫌だったから、スリッパで逃げることにした。
 外に出ると、すぐ目の前に大通りがある。
 大通りを出ようとしたら、たまたまタクシーが目の前で止まり、お客を降ろしていた。
 ちょうど良いと思い、そのタクシーに乗り、
「お金を今持っていないが、ついたら渡す」
と話をしたら、それでも良いと言ってくれたので、田無まで走ってもらうことにした。 
 賢明なる読者の方は、もうお気づきのこととは思うが、タクシーの料金など最初から払うつもりなど全くなかった。
 第一、お金など一銭もある訳がない。
 全部、預けていたのだから。
 まさか、
「今夜逃げ出すから、お金を返してほしい」
なんて言えるはずがないのだから......。
 お金など、稼ぐ気になればいつでも稼げる。
 ただ、うちの場合、今も昔もあまりお金には執着心がない。
 欲しいものは盗めば事足りてしまうから、お金が無くてもほとんど気にしないのである。
 だからお金はあるときはあるのだが、ないときは全く持っていない。
 しかも、シャブをやるようになってからは、全部シャブでお金が消えてしまうようになった。
 シャブこそ盗むことができたら、苦労しないのである。
 誰か、盗めるところを教えて下さい。
 エッ!!「シャブを辞めろ」だって?おっしゃるとおりですね。
 シャブだけは本当に良い事がありません......。
 一度やると、辞めることも出来なくなるし、ヤバイです。
 タクシーに乗ると目立たないように座り、うちが住んでいたアパートの近くの団地でタクシーを降り、イラン人の家に向かった。
 タクシーには、最初からうちが逃げやすいところへと行ってもらったのである。
 イラン人の家に行くと、前に関係を持った一人はいなかった。
 違うところへ行ってしまったそうである。
 うちは、警察から逃げていて、家に帰ることができないと説明をした。
 するとイラン人は、
「家ならここを好きに使っても良いよ」
と言ってくれた。
 そうなることを最初から計算していて、イラン人の家に行ったのである。
 ミッションクリア!!
 その日は外に一歩も出ないで、イラン人の家でぐっすり寝た。
 家には、イラン人が二人と、ビルマ人が一人の三人で住んでいて、それぞれ仕事をしていた。
 イラン人の一人はおじさんで、あとの二人は若い人でお兄さん的な人達だった。
 若い人方のイラン人とは、関係を持っている。
 毎日一緒に寝ていた。
 うちが横浜の変な家を逃げ出した目的は、雅也を助けるためである。
 八王子地検で、
「もしどっちかが少年院に入ったら助けあおうね」
と約束をしたからである。
 ちなみに述べておくが、うちが雅也に言った「助けあおうね」とは、一人が外に出て、金銭面などでバックアップをして助けるという意味ではない。
 多分、読者の諸君もそれくらいにしか思っていないのだろうが、そんな小さなことではない。
 うちか言う助けるとは、雅也を少年院から“奪還”するということを意味する。
 簡単(?)に言ってしまえば、“ルパン三世みたいなことをやってしまおう”と、あの頃は本気で考えていたのである。
 それくらい、雅也のことが好きだった。
 やったらどんなことになるかなんて全く考えていなかった。
 純粋に、雅也の側にいつまでもいたかっただけなのである。 
 だから雅也を奪還したあとは、“海外逃亡”も本気で考えていた。
 それくらい、雅也のことが好きだったのである。
 だから、うちの雅也に対する依存度は、病気レベルでヤバイ子だった。
 冷静(?)に考えて、導き出した答えが、“雅也を少年院から奪還し、海外へ逃亡。そして、二人は海外で幸せに暮らす”これがうちの考え出した計画なのである。
 さて、横浜の変な家から逃げ出し、まずうちがやったことは、ワゴン車を1台盗んだ。
 いざというとき、ワゴン車をがあれば、山奥に行っても後ろをフラットにすれば車の中でもゆったり寝れるし、荷物も積める。
 自由に移動ができるワンルームである。
 空き地に置いてあった車は、キーがうちの家にあったが、なんせ横浜の変な家に鍵を預けていたから、そのまま放置してしまった。
 やる気になれば、自分の住んでいた家ぐらい開けて入れるのだが、逃走してる身分のうちが、そうそう家になど危なくて近寄る気にもならなかった。
 うちを逃がすと、刑事が把握しているところへなど絶対に立ち寄るようなバカはしないから、捕まえるのはなかなか難しい。
 一人で何でも行動してしまうから、うちの行動は読むことができないのである。 
 ワゴン車を盗んだあと、暫くの間は車上荒らしなどをしてお金を稼ぎ、イラン人の家でちゃくちゃくと準備をした。
 ワゴン車の窃盗や車上荒らしも、田無では絶対にやらなかった。
 田無警察署管内でそんなことをしたら、犯行手口から、うちが田無にいるとバレると思ったから、田無ではやらなかった。
 イラン人の家には、お風呂場がなかったため、うちは毎日隣町まで銭湯に行っていた。
 そんなある日、いつものように銭湯に行くと、いつもうちが車を止める駐車場に先着車が止まっていて、車を止めることができなかった。
 仕方なく車を違うところに止めて、銭湯に入ろうと思ったのだが、その車が気になって覗いてみると、やはりキーが付いていた。
 こういうときのうちの勘は大体当たるのである。
 長いこと盗みをやっているうちは、車を遠くから見るだけで、なんとなくキーが付けっぱなしかどうかが分かるようになっていた。
 うちの前世は、もしかしたら大泥棒だったんじゃないかと思う。
 ペルソナという車で、勿論うちが頂いたのは言うまでもない。
 結局この日は、銭湯に入ることができなかった。
 一度ペルソナを空き地まで持っていき、ペルソナを止めたあとに、歩いてワゴン車のところへ行き(1時間も歩いた)、ワゴン車も回収し、再び空き地に戻り、ペルソナに乗り換えた。
 こうして車を二台用意したうちは、第二ミッションを自分に課した。
 第二ミッションは、“雅也がどこの少年院に入ったかを調べ、少年院の下調べをする”
ことである。
 まず雅也の家に連絡をして、雅也がどこの少年院にいるのかを親に聞き出した。
 最初は教えてくれなかったのだが、しつこく連絡を取っていたら、“多摩少年院”に入っていると教えてくれた。
 多摩少年院の住所を聞いたうちはすぐ場所を調べ、お金を用意した。
 2、3万円お金を作り(盗み?)、まず電車で八王子駅まで行った。
 八王子駅に着くとタクシーに乗り、多摩少年院まで行ってもらった。
 このときはちゃんとお金を払っている。
 そのためにお金を用意したのだから。
 タクシーを降りると今度は歩いてもと来た道を戻り、しっかりと道を頭の中に叩き込み、アジトならぬイラン人の家に戻った。
 そして、夜になるのを待った。
 夜、ペルソナを空き地まで取りに行き、今度は車で多摩少年院まで行き、目立たないところに車を止めて、多摩少年院の様子を偵察し、監視カメラの有無を調べた。
 喜連川少年院もそうだったが、外には1台も監視カメラは取り付けられていなかった。
 うちからしたら、喜連川少年院も多摩少年院も外からの監視は何もなかったから、楽なところだと思った。
 こうして多摩少年院の外側の偵察が終わると、いよいよ次は中に潜入して、雅也がどこの建物にいるのか見つけ出すことと、中の偵察をしなくてはならない。
 少年院に入るのはとても簡単すぎて、スリルも何もなかった。
 全国の少年院がそうなのかは分からないが、喜連川少年院と多摩少年院は、周囲を金網で囲ってあり、上に有刺鉄線が張ってあるだけだったから、もの凄く簡単に潜入することができてしまったのである。
 張り合いが全くないところであった。しかも、木が沢山植えてあり、隠れる場所もかなりあった。
 こうして多摩少年院に簡単に潜入してしまったうちは、雅也のいる建物と、部屋を探し始めたのだが、目の前の建物から探そうと思い、まず最初の部屋を覗いた......。
 運が良いというべきか、或いは勘が良いというべきなのか、いきなり最初の部屋に雅也はいて、これもあっさりと見つけてしまったのである。
 雅也は三人部屋で寝ていた。
 まさかこんなにあっさり雅也を見つけてしまうとは思いもよらず、調子がねけてしまった。
 久しぶりに雅也を見たうちは、暫くその場で雅也の寝顔を見ていた。
 こうして雅也を発見したうちは金網に戻り、多摩少年院の中から外へ戻り、車に戻った。
 あまりにも簡単な潜入捜査だった。
 ミッションクリア!!
 次は最終ミッション。雅也の奪還をするだけとなった。 
 次のミッションは、台風か大雨が降ったら決行するつもりでいた。
 ガス溶接で、鉄格子を焼き切るつもりでいたから、その音を雨でかき消すために、土砂降りの日を待つことにしたのである。
 あと少し我慢すれば、雅也を奪還できる!!そのためなら、何でもやれるような気がした。
 こんな事をしたらどうなるのかなどという考えは、全く無かった。
 ただ単に、雅也といつまでも一緒にいたかっただけなのである。
 本当にそれしか、うちの頭の中にはなかったのである。
 純粋に、雅也を奪還したら、二人でいつまでもいつまでもいられると、それだけしか思っていなかったのである。
 うちは、本当に狂っているのかもしれない。
 とてもじゃないが、正常な回路ではないと自分でも思ってしまう。
 少年院の中に潜入してしまうなんてことを、まともな考えを持った人なら絶対にやらないはずである。
 自分でもよくこんな大胆なことをやらかしたものだと思う。
 “恋は盲目”なんて言葉があるが、まさにそのとおりである。
 だから自分でも、自分の中にある潜在能力がとても怖いのである。
 こういうときのうちは、何をしでかすか自分でも分からない。
 大月の20メートル以上あった崖を平気で飛び降りたり、少年院の中に潜入したり、まともだったら絶対にやらないはずである。
 しかし、いざとなった時のうちは、本能で行動をしてしまうから、理性を失ってしまう。
 そのくせこういったときの潜在能力は、素晴らしい能力を発揮できるので、自分でもビックリするような大胆な行動をしてしまうのである。
 自分の中の潜在能力がとても恐ろしい。
 本当に好きになった人のためには、何をやらかすか本当に分からないのである。
 次のミッションの用意をするために、うちは東京工専に行き、ガス溶接の一式を盗み、ワゴン車に積んだ。
 こんなのは簡単すぎてお話にもならない。
 本当は、ハンディタイプのガス溶接があれば欲しかったのだが、そんなものがあるのかどうかもわからなかったし、東京工専に行けば確実に、ガス溶接が置いてあることは分かっていたことだったから、無駄を省いた。
 こうして準備も整い、あとは台風を待つのみとなった。
 普段、ニュースなど見ないうちだが、このときばかりは毎日ニュースを気にして見た。 天気予報を見ては、まだまだ台風や大雨が振りそうもないことにイライラしていた。
 そんなあるとき、中学時代の友達とたまたま出会い遊んだ。
 森田という。森田とは、中学3年生のときにたまに遊んだりした。
 何回か会っていたら、森田がいきなり名古屋に行ってみたいと言ってきた。 
 何で名古屋に行きたいのかを聞くと、ダイヤルQ2で知り合った子がいるらしく、会ってみたいというから行くことにした。
 このときは、お金を二人とも持っていなかったのだが、いつものことだし(うちにとっては)、全く気にしなかった。
 名古屋へ行こうと思った理由は、週間天気予報を見ても、暫くは雨が降りそうもなかったからである。
 うちはついでだから、名古屋に行ったあと、大阪に寄っていくことにした。
 どうせ急ぐ必要もなかったので、高速道路は使わず、一般道路でのみ行くことに決めた。
 大阪に着くまで3日かけて行った。
 森田は何もできない奴だったから、道中色々と教えた。 
 まず最初に地図を盗み、名古屋までの大体の道を覚え出発した。
 森田は釣り竿を持っていたから、それだけは持たせ、途中、相模湖に寄り釣りをした。
 ブラックバスが一匹だけ釣れた。
 ガソリンがなくなれば、車からガソリンを抜き、お腹が空けばスーパーやコンビニに立ち寄り、うちにとっては毎度の旅だが、森田にとっては初めてのことらしく、まさかこんな旅をするとは思っていなかったようである。
 名古屋まで行くのに一日かけ、大阪には名古屋から2日かけていった。 
 名古屋から途中三重県により、そこで一泊した。
 河原を見つけたので、うちはそこで睡眠を取った。
 その間森田は釣りをしていたらしいが、一匹も釣れなかったらしい。
 大阪に着くと西成に行き、久しぶりに友達や後輩に会った。 
 大阪でトラブルが発生してしまった。 
 まず、車を先輩に貸したら、連絡が取れなくなってしまったのである。
 仕方がないので、車を一台調達することにした。
 森田と後輩を連れて、西成で車を探した。
 すると、スカイラインがエンジンをかけっぱなしで止まっていた。
 ところが、スカイラインと言っても、ランクが一番下のダサいスカイラインで、最初はこんな車よりもっと良い車を選ぼうかと思ったが、ないよりはましだし、また良い車を見つけたら乗り捨ててしまえば良いと思い、いただくことにした。
 森田と後輩には、落ち合う場所を言って一人でスカイラインに乗り込み、走らせようとするといきなりドアが開き、女の人に、「何しとんねん!!」と言われ、「車盗んどんねん!!」とは言い返さず、アクセルを踏み込んだ。
 しかし、ランクが一番下のスカイラインの加速はまるで軽自動車かと思うくらいトロかった。
 こうして車を手に入れ、森田と後輩に合流し、ドライブをした。
 ドライブ途中にうちは眠くなり、森田に運転をさせた。
 運転を変わったときにうちは、
「もし警察に囲まれたら絶対にドアは開けないで俺を起こせよ」
と言ってから寝た。
 どれくらい寝ていたのかは分からないが、後輩に起こされた。
 しかし、起こされたときにはもうお巡りがドアを開けていて、逃げることもできなかった。
 平成4年6月7日、こうしてうちは、大阪の泉佐野警察に捕まってしまったのである。
 森田のバカに運転などさせなければ良かったと、とても後悔した。
 まさかこんなくだらない捕まり方をするとは思ってもいなかった。
 本当に使えない野郎どもである。
 こんな奴等を信用したうちがバカであった。
 こうして雅也を、少年院から奪還することが出来なくなってしまった。
 大阪の鑑別所に入り、そこから八王子鑑別所に移鑑別所され、うちは中等少年院送致となった。
 八王子鑑別所に移動となった日、森田も一緒だった。
 森田の顔を見た瞬間にうちは森田に掴みかかり、ぶっ飛ばしてやろうと思ったら先生達に止められてしまった。
 森田だけは、本当に殺してやりたかった。
 うちは少年院送致になってしまい、久里浜少年院に入った。
 久里浜少年院は、特別少年院(何が特別なのかよく分からないが)、略して“特少”で有名なところなのだが、中等もある。 
 しかし、中等の方は4、5人しかいない。
 全体の1割もいない。
 なぜ、うちが久里浜少年院に行くことになったのかというと、うちの性癖のためである。
 久里浜少年院は、みんな独居房で、雑居房がないところだったからである。これは、先生から聞いた。
 だから久里浜少年院にうちは行ったのだが、久里浜少年院の中等がみんなそういう子ばかりなのかと言うとそうではない。
 一応、他の子の名誉のために付け加えておくが、うちだけである。
 久里浜少年院も、最初に行くとやはり新入教育を受けるのだが、ここの新入教育は物凄い量の作文を書かされた。
 うちは作文とか、字を書くことは大好きだったから(こういうところも女の子っぽい)、苦には感じなかったが、みんな結構苦労していた。
 書く内容によっては、原稿用紙に200枚以上書かないとならない課題があった。
 新入教育の内容は、喜連川少年とほとんど変わらない。 
 行動訓練と(行進のやり方や、基本動作)、作文を書いて過ごす。
 新入教育が終了すると、いよいよ本格的な少年院の生活が始まる。
 うちは中等なので、中等クラスに行く。
 しかし、中等クラスは4、5人と少なかったため、ほとんど全体行動や運動は、特少クラスと一緒の扱いで、一緒に何でもやっていた。 
 違うのは作業のときだけで、中等の人の作業は印刷科のみだった。
 仮退院準備寮に移ると(ここも中等と特少は分かれている)、人数はもっと少なくなり、1人か2人しかいない。
 そこでの作業は洗濯科で、みんなの着ているものを洗ったり、修理や交換をしたりする作業を仮退院になるまでやる。
 久里浜少年院は、毎日運動に力を入れていた。
 特にマラソンに力が入っていて1500m、3000m、5000m、1万mと走るのだが、うちはマラソンは得意だったから、ここでもトップを譲ったことは一度もない。
 先生の中には何人かマラソンを趣味にしていて、色々なマラソン大会に出て走っている先生もいて、その先生とも勝負をしているが負けたことは一度もない。
 久里浜少年院の先生は、うちのことを全て知っている。
 喜連川少年院に入っていた時の身分帳を引き継ぐからである。
 新入教育が終わり、中等クラスに行き、みんなとの生活が始まってすぐに、先生がうちのところに来て、「小林のこと好きだろ?」と聞かれた。
 なんでそう思うのか不思議に思い、逆に質問をした。
 すると先生は、うちを見ていればすぐ分かるという。
 うちってそんなに分かりやすいのかと、不思議で仕方がなかった。
 そんな素振りは見せていない筈である。
 そんなに簡単に分かるということは、他の人たちにも気付かれているのかと不安にもなった......。
 そう、あれだけ雅也に夢中だったのに、久里浜少年院でも好きな人が出来てしまったのである。
 うちの場合、常に誰かに依存していないと駄目で、それまでは雅也に依存していたが、離れ離れになってしまい、雅也とは会うことが出来なくなってしまった。
 いつも側にいれるときは良かったが、それがままならなくなり、他の人に心変わりしてしまったのである。
 そうすることで、心の安定を保たないと、心の重圧に押しつぶされて、うち自身がおかしくなってしまうのだ。
 結果的に、先生が聞いてきた質問の答えは、“イエス”である。
 特少クラスの人なのだが、毎日運動で会うことができ、話をしているうちに(久里浜少年院は、喜連川少年院と違い、院生同士で話をしても良かった)、いつの間にか好きになってしまったのである。
 その人は、努さんと言う。
 努さんのことをなぜうちが好きになったと先生が分かったのか、不思議で仕方なかった。
 自分では、努さんも、他の人も同じように接していた筈である。
 他の人を見ても、特定の人と過ごしているし、何も変わらないはずなのに(自分では少なくとも、そう思っていた)、なんでこうも簡単に先生は分かってしまうのか、凄く不思議であった。
 刑事さえうちの嘘を見抜けないのに、どうして先生はうちの心を読めるのか、そんなにうちが分かりやすい態度を取っているのか、本気で考えてみたが、答えは分からなかった。
 まぁ、バレたところで元々先生たちはそういうことも含めて、うちのことは知っていることだから、さほど気にしなかった。 
 だから先生に、「小林のこと好きだろ?」と聞かれ、正直恥ずかしい気持ちと、なんで分かるんだろ?という気持ちはあったが、否定はしなかった。
 むしろ、正直に答えている。
 こればかりは、正直自分でもどうにも出来ないのだから仕方がない。
 ただ、毎回思うことは、どうして女の子に生まれてこれなかったんだろかと、自分が男の子であることを恨みたくなる。
 結局最後は、実らない恋に深い傷を負うだけなのである。
 逆に、実らないと分かっているから、次々に好きな人ができてしまうのもしれない。
 そうすることで、心のダメージを必要最低限に抑えられているのかもしれない。
 そうでなければ、とっくにJ君がアメリカに帰ってしまった時点で、自殺していただろうなと思う。 
 普段は物凄く強いのだが、恋愛に関しては凄くうちって弱いと思う。
 このときも、もし努さんに出逢うことがなかったら、雅也のことで心がパンクしていただろうことは容易に想像がつく。
 本当に本当に、なぜうちは男なんだと、自分が嫌で嫌で仕方なかった。
 久里浜少年院は、喜連川少年院よりも楽しい少年院だった。
 まず、喜連川少年院と違って、お互い注意をしあわなくても良く、院生同士で話をしても良かった。
 これは何よりも、うちにとって嬉しいことであった。
 そのお陰で努さんとも話をしたり、一緒に運動をしたりして過ごす事ができたのである。
 先生達は、うちが努さんのことが好きだということを知っているが、だからといって努さんと話をしてはいけないとも言われることはなかった。
 しかし、たまに努さんや他の人達がいないところで冷かされたりすることはあった。
 久里浜少年院の運動は、マラソンを毎日やる。
 5000mを中心に大体やり、毎週金曜日は1万mをやっていた。
 先程も述べたが、マラソンはうちの得意なものであり、必ずトップを走っていた。
 うちと2位の差は、3、4周はつく。
 いつも走り終わると努さんを探して、努さんと残りの何周かを一緒に走る。
 努さんも足は早かったから、いつも5位以内には入っていた。
 努さんがゴールをすれば、そのままみんなが走り終わるまで一緒に運動をしたり、話をして過ごしていた。
 久里浜少年院は、目の前が海で、カッター訓練というのがあった。 
 みんなでボートに乗って沖の方まで行ったり、手旗信号や、人工呼吸、応急処置の訓練などもやった。
 元々、うちはサバイバルが好きなので、他の人達よりはそういうことに対しては少しだけ長けていた。
 なんせ、少年院の中に一人で潜入しちゃうくらいですからネ......(笑)。
 グリンベレー、スペツナズ、CIAエージェントなどには目茶苦茶に憧れていたし、そういう訓練を今でもやってみたいと思っている。
 うちを雇いたい方は、御一報をお待ちしています🤣
 久里浜少年院での生活は、ものすごく真面目であった。
 喜連川少年院で、要領を覚えたからである。
 だから先生達からも凄く可愛がられていた。そういった意味では、とても特をしていたと思う。
 先生達からすると、ウチの場合は少し特殊だったから、扱い方が大変だったのかなと思う。
 いつも色々な先生がうちのところに来てくれて、話をしてくれたり、様子を見に来てくれたり、構ってくれていたように思う。
 だから、少年院の生活がとても楽しかった。
 努さんと出会えたことも大きかったと思う。
 努さんとの出会いがもしなかったら、ちょっと大変だったんだろうなと思う。
 努さんと毎日運動の時に話を出来たのは、うちにとって大きな大きな生活の糧になっていたのである(アッ!!今1つ謎が解けた......。中等クラスのうち以外の人は、特少クラスの人と話をしていなかった。中等クラスで特少クラスの人と話をしていたのは、うちだけだった。だから、先生達はうちが努さんに気があると見抜いたのか......。20年経った今分かった)。
 久里浜少年院ではトラブルなく順調に生活を送っていた。
 帰住予定地は、保護会(更生保護施設といって、全国の少年院や刑務所に入っている人で、帰住地や身元引受人のいない人達をお世話してくれる施設)を希望していた。
 親父の所へなど、全く戻る気はなかった。
 小田原の“報徳更生寮”と言う所が、うちの帰住予定地であった。
 先生にも、親父の所へは絶対に戻る気はないとしつこく言い続けていたから、久里浜少年院では親父のところへ返そうとすよような事はされずに済んだ。
 喜連川少年院にいた時は、先生が親元に返そうとしていて、保護司(分からない人はググって下さい)が親父を説得していたらしいが、久里浜少年院の時は、うちの方からハッキリとそういったことはしないで、最初から保護会一本に絞ってもらっていた。
 努さんは、うちより2週間早く先に仮退院した。
 だから久里浜少年院にいた時期も、最初から最後までほとんど変わらなかったため、仮退院準備寮に移った時期も変わらない。
 これもうちにとってはラッキーなことだった。
 社会見学なども全て一緒に行き、一緒に過ごす事ができた。 
 仮退院した後も会う約束をし、どこに住んでいるのかもしっかりと聞いた。
 仮退院の日、保護会の先生が二人迎えに来てくれた。
 最初に電車で桜木町駅へ向かい、そこから歩いて横浜観察所へ行き、その後、小田原に向かった。 
 この日は8月で、とてもムシムシしていた。
 うちは喜連川少年院を出たときもそうだったのだが、急に外に出て、人混みの中に入ると頭が痛くなってしまう。
 久里浜少年院を出た時もやはり、頭が痛くなった。毎回必ず頭が痛くなる。
 やっぱりうちってデリケート(!?)なんだろうなと思う。
 途中で昼食を食べるために食堂に入ったのだが、あまり食欲がなかった。 
 小田原に着くと、歩いて10分、15分の所に保護会があった。
 小田原少年院と小田原拘置支所に挟まれた所にある、プレハブ建ての2階建てだった。
 保護会は全部で15人位の成人の人ばかりで、少年はうち一人しかいなかった。
 保護会に帰住してすぐに行ったところは、東京工専のクラスメイトだったAで、この時は100万以上のお金を巻上げている。
 Aから巻上げたお金は、一週間ももたずにすぐに無くなってしまった。
 温泉や、福島のハワイアンズへ行き、アッという間に全部使い切ってしまった。
 一度反抗的な態度をうちに取ったから呼び出して川原につれていき、ボコボコに焼きを入れている。
 ボコボコにした後、上半身の服を脱がし、馬乗りになって胸にタバコの火で根性焼きをそれぞれ左右に5個ずつ、計10個の入れた。
 その為、Aの胸にはクッキリと、10個の根性焼きをの跡が残っている。
 久里浜少年院を出てすぐ、うちは努さんの家に行くことにした。
 努さんは、浦和に住んでいた。
 教わった通り電車で北浦和駅まで行き、電話帳で努さんのお父さんの名前を探し出し、連絡先と住所をメモ紙にうつした。
 住所を調べるとそこまでの行き方を調べ、バスで向かった。
 努さんの家は、三室小学校のすぐ近くにあった。
 家の近くで様子を見ながら夕方近くまでいたのだが、努さんが出てくる気配はなく、その日は諦めて小田原の保護会に帰った。 
 家に帰ってから電話を掛けてみると、努さんのお母さんが出たのだが......全く取り合ってもらえず、電話を切られてしまい、ショックを受けた。 
 まさか、冷たく簡単に電話を切られてしまうとは思わなかった。
 少年院を出たばかりで、親がピリピリしているのかと思い、暫く様子を見てからもう一度訪ねることにした。 
 そう思わないと、うち自身が今度は逆に参ってしまうからである。
 何とか自分の心を奮い立たせ、まず仕事を探すことに決めた。
 仕事はすぐに決まり、面接も問題なく受かり、警備員をやった。
 警備員は前にも述べたが、週払いだし、仕事も楽なのにお金が良く、自由出勤できるから選んだ。
 この年は(1993年)、冷夏でコメが不作で、外国米を輸入してブレンド米が出回っていたときだったが、海には何回か行って泳いでいる。
 寮で知り合った人達と行った。 
 小田原にも海岸があり、泳いだ。
 しかし、その日は波が荒れていて、遊泳禁止の看板が出ていた。
 しかし、バカなうちはこれくらいの波なら大丈夫だと思い、泳いで死にかけそうになった。
 波にさらわれて、どんどん流されそうになり、必死になってもがき、なんとか助かったが、自然を馬鹿にしてはいけないと本気で思った。
 少年院を出てから、うちはやっぱり自分が男であることが嫌で嫌でどうしょうもなかった。
 たまたま少年院を出てすぐに本屋さんで、“シーメール”という本を見つけ、女性ホルモンを打つと胸が大きくなり、体型も女性っぽくなるということを知り、うちもその治療をして、女の子のようになりたいと思った。
 まず、女性ホルモンを打ってくれる病院を探した。 
 これは、簡単に見つかったのだが、どこも未成年者の場合は、親の承諾が必要だと言われ、なかなか女性ホルモンをすぐに打ってくれる病院が見つからなかった。
 まさか未成年者は、親の承諾を取らなくてはいけないなんて考えてもいなかった。
 何軒か病院を探しては電話を繰り返し、やっと一件独り暮らしをしていて、親と独立をしているなら、親の承諾がなくても大丈夫だという病院を見付けた。
 こういう時のうちは、しつこいから納得するまで色々な病院に電話をして調べたのである。
 その病院は、高田馬場駅のすぐ近くにあった。
 すぐに予約を取って、高田馬場の病院に行き、女性ホルモンを打ってもらった。
 その日から、毎週1回必ず病院に通っていた。
 病院に通い始めて6回目辺りから、胸が張ってきて痛くなってきた。
 鏡で横から見ると、少しだったが胸が膨らんでいるのが分かり嬉しかった。
 病院で女性ホルモンを打ち始めたことは、一切誰にも言わなかった。
 こんなことを言える勇気など、うちには全く無かった。
 病院の先生にすらうちの心の闇を話すことが出来ず、女性ホルモンを打つようになり、暫くしてから更に深い心の闇に陥ってしまうのである......。
 この時は、まさかそんなことになるとは(さらなる深みにハマり、悩むことになるとは)、うち自身全く考えてもいなかった。
 この頃は、お金を貯めたら外国に渡り、性別適合手術をすることも本気で考えていたのである。
 もし、この時にAから巻上げた100万円以上のお金を使わずに持っていたら、間違いなく性別適合手術を受けていたと思う。
 使わなければ......。
 しかし、この時もし、性別適合手術をしていたら、精神不安定だったうちは、どうなっていたか分からない。
 更に深く深く傷付き、立ち直ることができなかったかもしれない。
 普段、保護会にいる時は、金井さん、杉本さん、高橋さんの3人とよく一緒にいた。
 一緒に食事に行ったり、海やカラオケ、ボーリング、釣りなども一緒にしたりした。
 3人は、みんな30代後半の人達である。
 悪さもしている。金井さんには、一回だけシャブを打ってもらったことがある。
 初めてのシャブである。
 打ってもらった瞬間に全身の毛が逆立ったようになり、体もビックリするくらい軽くなり、とても気分が良く、何回も打ってもらった。
 しかしこの時は、その日にシャブをやっただけで、それ以後はやっていない。
 シャブの切れ目の時、もの凄い下痢になり、それが嫌だったのである。
 久里浜少年院を出てから捕まるまでの僅か2ヶ月の間に、数台の車を盗んでいる。
 ワゴン車、軽自動車、シルビア、マークII、サニー、覚えているのはこの五台なのだが、実際にはもう少し多い。
 思い出そうとしたのだが、あまりにも多過ぎて思い出せないのである。
 うちは、家の中より車の中が好きだし、車の中にいる時が一番安心していられる。
 この話を、久里浜少年院にいる時に先生に話した事がある。
 すると先生は、
「車の中というのは、心理学的に言うとお母さんのお腹の中にいるのと同じことで、君はお母さんのお腹の中で安心していたいんだね」
みたいな事を言われた。
 車は外敵から身を守ってくれて、自分の思い通りなるからだそうである。
 この話を聞いたとき、やっぱり幼少期の事が絡んでくるんだな......と思った。
 余談になるが、“タバコをなかなか辞められない人、ヘビースモーカーの人は、乳離れができていない人が多い”らしい。
 これは、うちが心理学の本で読んだ。
 心を満たされると、実際タバコを辞められる人が多いらしい。
 タバコを吸うという事は、おっぱいを吸っているのと同じ事であるらしい(ドキッ!!もしかしてうちって......まだ全然乳離れ出来てない赤ちゃんてこと?うちのママになってくれる方、至急御一報下さい😁)。
 ある時、うちが盗んた車で杉本さんと出掛け、その帰りに戸塚区(横浜市)でパトカーに停車を求められた。 
 うちは無免許だから、走りながら杉本さんに運転を変わってもらい、車を止めた。
 するとお巡りが来て、ワゴン車は、盗難車だと言われ、うちは
「そんな筈はない、お金を出して買ったのに」
と言い張った。
 取り敢えず、詳しく事情を聞きたいから、戸塚警察署まで来てくれと言われ、引っ張られてしまい、それぞれ取調室に入れられた。
 うちは、刑事に車はお金を払って買ったものであり、盗んでなどいないと言った。
 杉本さんは、全部知らないと言って、うちのせいにしてくるので、しつこく追求された。
 うちは、杉本さんは情けない野郎だなと思った。
 うちはまだこの時19歳で、杉本(“さん”なんて省略!!)は、34、5歳でうちと15、6も歳が離れているのに、全部うちの方に押し付けてくるのである。 普通、逆だろ!!本当に情けない奴である。
 うちの警察対応は、とても素晴らしい!!19歳であっても、そこらの小悪党とは出来が違う。
 そんじょそこらの人とは違うから、全く動じるようなことはない。
 刑事はうちの前歴を調べ、車の窃盗で何回も捕まっているから、うちがワゴン車を盗んだと思っている(実は正解!!)。
 しかし、そんな事を簡単に認めるうちではない。
 何を言われても、何を聞かれても最後まで、車は知らない人から買ったもので、うちが盗んだものではないと言いはった。
 一方、杉本は保護会の連絡先を刑事に言ったらしく、結局は先生が迎えに来てくれて、その件はウヤムヤで終わった。
 この件があってから、杉本を見る目が変わった。
 杉本みたいな情けない野郎は、大嫌いである。
 15、6も歳の離れた少年に助けてもらっているようでは、いくらもいかない。
 うちなんかプライドが高いから、若い子にこんなくだらない事で、全部の責任を押し付けるようなことは絶対にやらない。
 逆に庇うけどなと思った。杉本とうちとでは、出来が違う!!
 うちだったら、好きな人の為なら、自分が身代わりになって必死に助けようとする。そんな人ってなかなかいないなと思う。 
 皆、自分が一番なんだなと......。世の中そんな中途半端な小悪党ばかりで、ガッカリしてしまう。
 うちが本当に尊敬できる人は、この世にはたった一人しかいない(アウトローでという意味)。あとは皆さん、糞以下です。
 その人と出逢うのはまだ先の事になる。
 杉本にはこの後、大ヘタを打たれている。
 本当にどうにもならないクソ野郎であった。
 戸塚の件が無事に済んで、暫くしたある時、金井さんと杉本と出掛けることになった。
 小平に行き、車を一台調達しようという事になり、うちは金井さんと杉本には、ファミレスで待っていてもらう事にした。
 そしてうちは、ガソリンスタンドを探して、そこに止まっていた車(サニー)を盗んだ。
 この時は、スタンド一本に絞り、車を盗んだ。
 車を盗むと、金井さんと杉本が待っているファミレスに戻り、合流してサウナに行った。
 杉本はサウナでどうでもいいようなものを盗んだりしていた。 
 この時も、やっぱり杉本はバカな奴なんだなと思った。
 サウナには一泊し、次の日知り合いの所へ行くことになり出発した。
 最初は、うちが車を運転していたのだが、途中で杉本が運転をしたいと言い出し、うちは嫌だと言って断っていた。
 しかし、金井さんが大丈夫だからといって(何が大丈夫なのかよく分からないが)、杉本に運転を変わった。
 うちは、まさか杉本のバカが、高速に乗るなどと言い出すとは思いもしなかった。
 うちは、猛反対した。理由はこの頃から高速道路にカメラ(多分Nシステム)が設置されており、盗難車で走れば必ず追いかけられるからだ。
 杉本は、普段パトカーに追われても余裕で逃げられると言っていたがのだが、うちはその言葉を全く信用していなかった。
 どうせ、うちの前だから格好つけて、吹かしているだけだと思っていた。だから、猛反対したのだが、結局これも金井さんが大丈夫だと言って高速に乗ってしまった。
 うちはそれが面白くなくて、
「絶対に追われますよ。追われても俺は知らないですからね!!」
と言って、後ろのシートで不貞腐れていた。
 本当は、うちだけ車を降りたかったくらいである。絶対に追われると確信していた。
 津久井湖周辺のインターで高速を降り、料金所を通過すると、パトカー🚓が一台路肩に止まっていて、うち等が乗っている車が目の前を通り過ぎると、赤灯とサイレンを鳴らしてきて、停止を求めてきた。
 この瞬間にうちは思い切り二人に、
「だから言ったじゃないですか!!どうする気ですか?逃げれるんですか?」
と文句を言った。 
 杉本はいきなりテンパり、まともに逃げる事もできないし、周りも全然見えていなくて、どうにもならない有様だった。
 うちは、後ろから杉本に向かって、
「余裕で逃げられるんじゃなかったんですか?」
「前から車が来てますよ!!見えないんですか?」
「もっと落ち着いて周りを見てください」(こんなことを年下に言われてるようじゃ終わってる)
「ぶつかる!!危ない!!運転変わって下さい」
と捲し立てた。
 金井さんにも、
「全然大丈夫じゃないじゃないですか!!だから運転なんかさせたくなかったのに!!」
と文句を言った。
 金井さんは、まさかこんな不様を杉本が曝け出すとは思っていなかったようで、うちにも悪かったと誤ってきたが、うちの腹の虫はそんなことではなかなか収まらなかった。
 金井さんは、うちの勘を信じるべきだったのである。
 うちを信じて、杉本なんかに運転をやらせず、高速に乗せなかったらこんなことになりはしなかったのである。
 うちは後ろから、まず細い路地に入ってもらい、そこで運転を変わろうと思い、路地を見付けると杉本に、
「右側に路地があるから入ってください」
と言ったのだが、テンパっている杉本には、それさえ見えていないのである。
「どこだよ、どこだよ、路地なんかないぞ」
なんて言い出す始末で、全く周りが見えていない。
 よくこんな野郎が、「パトカー🚓におわれても、余裕で逃げられる」なんて言えたものである。
 うちには全然、余裕で逃げているようには見えなかった。
 杉本みたいな嘘を吐く野郎が、うちは本当に大嫌いである。
 こういうことを言う奴は、大抵が粋がりだから信用などしないほうが身の為である。
 出来ないことはできないと言ってくれたほうが、いざとなった時に対応がしやすい。
 読者の中にも、アウトローな生活をしている人がもしかしたらいるかもしれない。
 杉本のような、出来もしない事を出来るなどと粋がるのだけはよしたまえ。
 いざという時に、皆に迷惑が掛かる事になる。
 出来る事、出来ない事はハッキリさせておいたほうが良い。
 出来ない事を恥じる事はない。“だって人間だもの”
 結局杉本は、何を一人でテンパっているのか知らないが、後ろにピッタリとパトカー🚓が着いてきているのに、それさえ見えていないようで、「もうパトカー🚓はいない」なんてほざく始末である。
 “いやいや、真後ろにいるから!!”どんだけテンパってんだこのバカは......。
 結局杉本は、いきなりファミレスの駐車場にはいってしまい、捕まってしまった。
 平成5年10月16日の事である。
 久里浜少年院を仮退院してから、僅か2ヶ月である。
 ここで、アウトローワンポイントレッスン。
 もし、このような不足な自体になった場合は、運転手にシートを倒してもらい、そのまま運転手にはゴロンと後ろに行ってもらい、運転に自信のある人にチェンジするべし!!
 その時、気を付ける事は、カーブの多い所ではやらないということ。出来るだけ直線でやりましょう。
 普段から、練習をしておくと良い(来週、実技テストを行うので、各自練習をしておくように🤣)。
 杉本みたいなバカに運転をさせないのが一番です!!自分の身は自分で守りましょう。アウトローの鉄則です。
 杉本とうちとじゃ、悪いけど経験値が違う。
 年は、15、6離れていて若いが、経験値、レベルはうちの方が全然上である。
 雑魚以下の野郎が、うちと張り合うのなんて100年早すぎる。
 うちのレベルが、100としたら、杉本など2か3位である。
 どんなに背伸びした所で、所詮は“月と鼻くそ”位の差があるのだから、それを認めるのも力量ではないだろうか。
 アウトローの生活は楽しいが、とても厳しい世界なのである。ハッタリだけでは生きてはいけない。
 杉本は走りながら、黙ってうちに運転を任せれば良かったのである。
 そうすれば、捕まることも無かったのである。
 うちは、津久井警察署に勾留されてしまった。
 しかし、車の窃盗については、“身に覚えのない”事だったから(?)否認した。
 しかし、サウナでバカが盗んだしょうもない物は、うちがやったということにした。
 こんな物は、認めた所でどうもならないと思ったからである。
 車を盗んだのは、杉本だと言って、全部杉本のせいにすることもできたのだが、うちはそういう事は大嫌いだからしない。
 プロはそういうどうしょうもないことをやらないのである。
 どんなに、杉本がムカついたとしても、それはそれだとうちは思っているから、人に罪をなすりつけるようなことは絶対にしない。
 この件で、横浜鑑別所に入る事にはなったが、これくらいの事で少年院に入るとは全く考えていなかった。
 この時は、国選で弁護士が付いたので、八王子鑑別所に移動するような事はなかった。
 弁護士は、うちの為に住み込みで働ける所まで探してくれて、保護観察で出れるのはほぼ確定していた。
 平成5年11月19日に出れる予定だったのだが、その2日前の、平成5年11月17日に、町田警察署で再逮捕されてしまった。
 その日の朝、鑑別所の先生に、荷物をまとめるように言われ、2日も早いなとは思ったのだが、もしかしたら2日早く出れることになったのかと思い、ウキウキしていたら、町田警察署からのお迎えがきていた。
 うちは、町田周辺で悪さなどしたことが無かったから、なぜ町田警察署の少年課が来たのか全く意味が分からなかった。
 町田警察署に着き、逮捕状を見せられて、初めて分かったのが、うちは久里浜少年院で知り合った上原と、西荻窪周辺(東京工専の近く)のコンビニの前にマークIIが止まっていて、確かに盗んでいる。
 上原は、他の事件で町田警察署に捕まり、余罪でその事までペラペラと話しているのである。
 それなら一人で背負っていけば良いものを、わざわざうちの名前まで出しやがって。
 杉本にしても上原にしても、どうしょうもないバカである。
 自分で情けないと思わないところがまた凄い!!
 自分一人でケツも拭えないなら、犯罪などやるなと思ってしまう。
 まぁ、少年院も刑務所もこんなのばっかりなんだけど。うちみたいな考えの人っていないのかな??本当に!!
 うちは頭にきて、その件については否認した。
 刑事とは取調室でもの凄い言い合いをし、うちは刑事に髪の毛を引っ張られたりした。
 余計に収集がつかなくなり、取調べどころではなかった。
 取調べをするごとに嫌悪ムードとなっていた。
 うちは八王子警察署に身柄を預けられていたので、毎回取調べの時は町田警察署までドライブだったが、その道中も刑事をおちょくったり、挑発をしたり繰り返していた。
 そんなある取調べをやった日、午前中の取調べのあと、弁護士が面会に来た。
 刑事が音を上げて、弁護士を呼んだのである。
 弁護士に、本当に車を盗んでいないのかと聞かれ、本当は盗んでいるが、否認しているといった。
 すると弁護士は、否認して日数を使うと、うちに不利になるから認めて、早くこの件を終わらせないと、20歳の誕生日が近いから、保護観察で出れなくなってしまうと言われた。
 だから、仕方なく認めることにした。
 しかし、ただ認めるだけじゃ腹の虫が収まらないから、うちは弁護士に取調べの時に刑事から髪の毛を引っ張られたことを話し、抗議してもらいたい旨を話し、面会を終了した。
 弁護士と面会が終わったあと、昼食を食べ、午後になると刑事が来て、「認めるんだな」と言われた。
 そして、髪の毛を引っ張ったことに対しては、うちに謝ってきた。
 面会の後、弁護士が刑事に言ってくれたのである。
 こうして取調べも終わり、再び横浜鑑別所に入り、平成5年12月24日に逆送致になってしまい、結局は大人としての裁判を受けることになってしまい、そのまま横浜拘置所に入る事になってしまったのである。
 逆送致になるくらいだったら、町田警察署で認めずに、否認をしておけば良かったと思った。
 こうしてうちは、窃盗と窃盗幇助で起訴された。
 横浜のサウナでの窃盗はなぜか、窃盗幇助に変わっていた。
 この頃はまだ意味もわからない事ばかりだったので、どんな手続きが行われていたのか全く分からない。全部、弁護士任せにしていた。
 拘置所は、鑑別所と違って、面接をしたり、テストを受けたりということは全くやらない。
 おまけにうちは少年だったから、独居部屋(成人でもうちの場合は独居になる)だった為、とてもつまらなかった。
 拘置所は裁判を待つだけで、何もすることがなく、誰とも話も出来ずとても嫌だった。
これから、拘置所に行く読者ももしかしたらいるかもしれないから、そんな人達のために、拘置所生活についてうちが(?)指南しておいてあげよう。
 全国の拘置所でほとんど変わらないから、参考にしたまえ。

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