波乱万丈

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幼少時代

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 うちは昭和49年1月11日に新宿の大久保で生まれた。
 うちの母親は、うちが乳離れするかしないかという時期に離婚をしている。離婚の原因は、母親の浮気が原因らしい。
 親父が仕事に行ってる間にうちを隣の家などに預けて浮気をしていたらしい。
 ちなみに、浮気相手は親父の勤め先のオーナーとの浮気らしい。その話をうちが知ったのは30歳を過ぎてからである。
 その為、母親の事で覚えているのは、大雨が降って雷がすごかった日に母親に抱かれながら二人で外を見ていたことくらいである。何故かその時のことだけは今でもハッキリと覚えている。
 親父は新宿でコックをしていた。
 いつも夕方近くになると家を出て行った。
 母親がいなくなったあと、うちの面倒を見てくれていたのはおばあちゃんだった。
 三重県からわざわざ上京してきてくれて、うちの世話をしてくれていた。
 しかし、東京の空気が悪かったせいか、おばあちゃんはしょっちゅう体調を崩し、入退院をしていた。
おばあちゃんが入院をすると、うちはいつも親父が仕事に行っている間、保育所やら知らない人の家に預けられていた。
 いつも行くところがバラバラで、知らない人の所に預けられるのはとても嫌だった。
 3歳になると保育園に通わされていたが、うちは保育園が大嫌いであった。
 親父は朝の4時か5時頃に仕事から帰ってくると8時過ぎまで寝て、それからうちを保育園に送りまた寝ていた。
 保育園が嫌いで嫌いで仕方のなかったうちは親父が起きる前に起き出すと、すぐに着替えを済ませて、朝食も食べずに外に遊びに行っていた。
 最初のうちは親父もうちを探しだすと、家に連れ戻されて怒られたりしていたが、うちもめげずに毎日同じ事を繰り返していたら、そのうち親父も諦めて怒られる事も家に連れ戻される事も一切なくなった。
 2ヶ月か3ヶ月に1回、たま~に保育園に行きたくなる時があり、その時は保育園の先生に、
「今日保育園に行くね」
と電話をしてから保育園に行っていた。
 基本的には、保育園に行くのが嫌いだったうちは、
 親父が仕事に行くまでは家に帰ることはなかった。
 外に自転車が置いてあるとまだ仕事には行っていないということだから、自転車がなくなるまで家に帰るということはなかった。
 お昼ご飯はどうしていたかというと、知らない人の家で食べさせてもらったり、親父が起きているか様子をうかがい、まだ起きていないことが分かると家に戻って、おばあちゃんに食事を作ってもらい食べていた。
 そして食事が終わるとまた外に遊びに行っていた。
 うちは毎朝7時頃起き出すと着替えて外に遊びに行ってしまうが、こんな早い時間から何をしていたかというと、新宿の町をうろうろしていた。
 近くの神社に行ったり、公園に行ったりとにかく気のむくままやりたいことをやり、行きたい所へ行って遊んでいた。
 今ではとても考えられない話である。
 うみの子供時代の話をしてもとても信じられないだろうが、全て本当の事である。とにかく自由気ままに好きなことをしていた。
 子供の頃から束縛をされるのが何よりも大嫌いだった。1人で色々な所へ行ってしまううちの行動範囲は、子供の限度を超えた広範囲に及んでいた。
 コインランドリーで洗濯をしているお兄さんがいると自分から話しかけていき、ゲームをやらせてもらったり(コインランドリーの中にブロック崩しのテレビゲームが置いてあった)、挙げ句の果てにはそのまま後楽園遊園地に連れて行ってもらったりした事もある。
 今思うとよく事件に巻き込まれたりしなかったものだと思う。
 日曜日は親父の仕事が休みだからその日だけはなぜか外に遊びに行ってしまう事はなかったのだが、親父が今日は仕事が休みだということをどうやって判断していたのかは、今となっては覚えていない。
 親父が休みの日は、動物園や遊園地、高尾山の釣り堀などに連れて行ってもらったり、歌舞伎町に馬券を買いにいったあと、歌舞伎町周辺の公園に連れて行ってもらったりして遊んでいた事もあった。
 親父の仕事場が歌舞伎町だった事や、仕事場にたまに連れて行ってもらった事があり、歌舞伎町にはよく遊びに行っていた。
 夜家を飛び出して、1人で親父の仕事場に行って怒られたこともあった。
 生まれてから3歳くらいまでは大久保に住んでいて、4歳から小学校に入学するまでは北新宿に住んでいた。
 朝も夜もうちには全然関係がなかった。
 夜でも、例えば消防車がサイレンを鳴らして走っていくのを見つけると家を飛び出して消防車を追いかけたり、事件か何かでお巡りさんが家の周りをウロウロしているのを見掛ければ一緒になってお巡りさんについていってしまったりと、とにかく落ち着きのない子供で、大人であれば誰にでもくっついていったりしていた。
 だから同じ年頃の子と遊ぶということはほとんどなく、いつも小学生や大人の側にいって遊んだりしていた。
 うちはテレビも大好きで、親父がよく❝太陽に吠えろ❞や刑事ものを見ていた影響で刑事ものドラマが好きだった。
 テレビで見たシーンを次の日に神社や駐車場などに行き真似をするのである。
 犯人が車のボンネットや屋根に登って逃げるシーンを真似して車から車に飛び移ったりして遊んでとても怒られたことがあったが、なぜ怒られたのかその時は全く意味が分からなかった。
 うちからしたらテレビの真似をして遊んでいただけなのに、という感じであった。
 親父は毎日仕事に行く時にお金を200円置いていってくれた。その200円を握りしめて駄菓子屋に行き、駄菓子や女の子が身につける指輪などを200円分買い込んでいた。
 うちが好きだった駄菓子は、ふ菓子ときなこ飴だった。
 夕方、お腹が空くと家に帰り、夕食を食べてお風呂に入る。お風呂を出るとテレビの前にかじりつき、ダイヤルをガチャガチャ回しアニメが終わってしまうとテレビを消して外に遊びに行ってしまう。
 夜であろうが何であろうがうちには全く関係がなかった。おばあちゃんはよく心配をしてうちを探してくれてたが、うちの行動範囲は広すぎて、うちを探せるものではなかった。
 夜遊びしていたことを親父は知らない。おばあちゃんが親父には内緒にしてくれてたからである。
 夜外に出て何をしていたかというと、1人でパトロール(笑)していた。 これも刑事ドラマの真似なのだが、街を歩いている人に声をかけて怪しい奴がいなかったかを聞きまくっていた。
 うちが一番怪しい子供だったことだろう。
 今なら間違いなく新宿などを子供が1人で歩いていたら大問題になっていただろうし、間違いなく補導されていたことであろう。
 そして、変な意味でとても有名になっていたかもしれない。
 自称夜のパトロールが終わると、うちが最後に行くところがゲームセンターである。
 ゲームセンターには毎日行っていた(親父が休みの日以外)。
 いつも行くゲームセンターは決まっていた。なぜかと言うと、そこのゲームセンターに行くと店員のお兄さんが好きなゲームを5回行くたびにただでやらせてくれてたからである。しかも、行くとジュースも必ず一杯ご馳走してくれた。
 うちのお気に入りのゲームは、レーシングゲームとインベーダーゲームだった。
 4歳にして夜の新宿をフラつきゲームセンターに出入りしていたのは、うちぐらいのものだったと思う。
とても信じられないだろうが、毎日こんな生活をうちは当たり前だと思って過ごしていた。
 だからたまにが自分より少し大きな子と遊ぶと、その子達の親は決まって
「〇〇には行っちゃダメよ危ないから」
「遠くに行っちゃダメだからね」
などと言われているので理解できなかった。
 なぜならうちは1人でそれより先まで行って遊んだりしていたし、何も危ない目にあったこともなかったからである。
 だからダメと言われてもうちは無視していた。
 なによりも理解できなかったのが、なぜ大人の目の届く範囲でしか遊んではいけないのか、そんな事を一度も言われたことのないうちには全く理解の出来ない事であった。
 夜、ゲームセンターに1人で遊びに行く事も、大人の目の届かないような遠くで遊ぶ事もうちにとっては当たり前に毎日やっている事だったから、いけないことをしているという自覚は全くなかった(そういうことで怒られた事が一度もなかった)。
 今じゃ全く考えられない事だが、うちが子供の頃の新宿はとても楽しく住みやすい街だった。
 新宿のようなゴミゴミとした都会が好きかというと残念ながらその逆で大嫌いである。都会の街には全く魅力を感じないし、行きたいと思う事もない。
 3歳、4歳、5歳と新宿の街を駆けずりまわって遊んでいたうちだったが、新宿よりも大好きだった所は三重のおばあちゃんの家である。
 4歳か5歳の時、数ヶ月間おばあちゃんと一緒に田舎で生活をしていた。
 三重県津市にある美杉村という所で、周りは山と川しかない田舎だったが、そこはうちにとっては一番のお気に入りの場所である。
 周りはみんな身内の人みたいな感じで、どこの家に遊びに行ってもうちのことを知らない人はいなかった。
 ちょうど夏頃に行ったので、よく隣のおじさんに川に連れて行ってもらった。
 おじさんが川で鮎を釣っている間、うちは川に入って一人で遊んでいた。
 おばあちゃんの家には親父の弟と、多分おじいちゃんだと思うが(おじいちゃんの記憶が全く無いので、もしかしたら違うかもしれない)、3人いたように思う。
 おばあちゃんがおじいちゃんをおいて一人で東京に来ていたということはないだろうから、もしかすると近所の人だったかもしれない。
 三重に住んでいた人達は、うちはいつもチョロチョロしていてちょっと目を離すとどこへ行ったか分からなくなると言っていたそうである。
 実際、山だろうが川だろうが一人で行ってしまうから目を離せなかったらしいが、家の周りはうちの遊び場の宝庫だった。
 山や畑に行けば泥だらけで帰ってくるし、川に行けば全身びしょ濡れで帰ってくるしかなりの腕白ぶりを発揮していた。
 親父の弟とうちにとってのおじさんは、うちのことをとても可愛がってくれていた。
 うちが小学校に入ってしばらくして親父から聞いた話だが、おじさんは本気でうちのことを引取って三重で育てようとしていたらしい。
 その話を聞いたとき、うちはなぜそうしてくれなかったのかと親父を恨んだ。
 うち的には東京なんかよりずっと三重に住んでいたかった。それくらい三重はうちにとっては魅力いっぱいで楽しいところだった。
 うちが都会よりも、山や川がある田舎が大好きなのはこの頃の影響が大きいと思う。
 おばあちゃんと東京に戻る日、東京に戻るのが嫌だったうちはかなりごねたことを覚えている。
 ちなみにうちを可愛がってくれたおじさんは大工さんだったが、うちが小学校2年生のときに仕事中に屋根から落ちて亡くなってしまった。
 おじさんは親父にうちを欲しい。
「俺が引取って育てたい」
とよく言っていたらしい。とても残念である。
 もし、あのまま三重に残ることができて三重で育っていたら、おじさんも仕事中に事故で亡くなることもなかったのではないだろうか。
 うちが親父のことを恨んでいるのはこのことだけが原因ではないが、このことも理由の1つである。
 三重から戻って再び新宿で生活をすることになったうちは、それまで以上の腕白ぶりを発揮したのは言うまでもない。
 この頃、休みのたびに親父に連れられて後に親父の再婚相手となる人のところへ行って三人で出かけることが多くなってきた。
 今思うと、うちが慣れるために接触する機会を作っていたのではないかと思う。
 親父の再婚相手だと知らなかったうちはいつも
「お姉ちゃん」
なんて呼んでいたが、今思うと気色悪い話である。
 うちが小学校に入学するちょっと前に結婚式もやっている。
 こうしてうちの人生は、乳離れするかしないかという時期から少しづつ狂い始めていたのである。
 多分、うちのような幼少期を送った人などどこを探してもいないのではないだろうかと思う。
 小学校に入学するまでのうちは、毎日自由気ままで行きたいところに行き、やりたいことをやり手に負えない子供だった。
 うちにとっては毎日が冒険であり、毎日がとても楽しかった幼少時代である。
    
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