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その傷跡を抱きしめて
その傷跡を抱きしめて9
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久しぶりに乗った原付バイクの調子は悪くない。
木下さんの仕事を終えてから一週間、いい加減炎天下の中自転車を漕ぐのが嫌になって、前のバイト先だった弁当屋のおじさんに店が再開するまで宅配用のバイクを借りていいか聞いてみたら、二つ返事でOKを貰えた。
というわけで、しばらく置きっぱなしにされていたバイクが無事かどうか試運転の為にとりあえず大学まで来てみたのだけど、今思えば他に行き先が無いのが少しだけ切ない。
とにもかくにも、荷台に宅配用のボックスのついたデリバリー用のバイクをしばらく使えることになった。雪乃さんが書いた冊子を入れるには少し過剰な設備かもしれないけど。
バイクの調子は確認できたし、このまま職場に向かおうかな。キャンパスの出口に向かってUターンしたところで見慣れた人影が目に入る。
木下さんが誰かと歩いているところだった。バレない程度に速度を落として追い抜きざまに様子を伺う。一緒に歩いているのは男子学生で「TRACK AND FIELD」と印字されたTシャツを纏っていた。
もしかして早速新しい彼氏が、なんて思い浮かんだけど、そんなことは直ぐにどうでもよくなった。男子学生が何かを口にすると木下さんはお腹を抱えて笑っている。
その仕草はとても自然に見えた。
どうやら、僕の初めての仕事は無事に終わったようだった。
「――ということがあってですね。木下さん、元気そうでした」
言の葉デリバリーの事務所には夏希さんと雪乃さんがそろっている。注文が入っていたけどまだ時間には余裕があったから、大学で見かけた一部始終を報告すると夏希さんにパッと笑顔の花が咲いた。
「よかったね、悠人君。これでもう一人前だよ」
「いや、僕はまだそんな。僕はただ雪乃さんの物語を読んだだけなので」
今日は珍しく雪乃さんも手を止めて僕の話を聞いていた。木下さん用の物語を一日でしたためた雪乃さんとしても顛末が気になっていたのかもしれない。
木下さんへの二度目の宅配を終えてから、雪乃さんともそれまでのように話ができるようになった。といっても元々が元々だから、殆ど仕事の話だけど。
「雪乃さんの物語なしに僕が何を言ったって、多分木下さんには響かなかったと思います」
弁当でいえば、僕がやったのは雪乃さんが作った弁当をお客さんの家で温めただけだ。だから、おいしいお弁当の評価は雪乃さんが受けるべきだと思う。その雪乃さんは黙ったまま僕の方をじっと見ている。その視線に初めてバイトを終えた後のことを思いだした。
――そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるって気づいた方がいい。
「……でも、僕が届けたことにも何か意味があったなら嬉しいなって。そう思います」
雪乃さんに向かって口にしたつもりだったけど、雪乃さんはすっとノートパソコンと向き合ってしまった。うーん、また気に障ることを言ってしまったんだろうか。
少しずつ出発の時間が近づいている。夏希さんと仕事の話に戻ろうとしたところで、もう一度ちらっと雪乃さんの方を見てドキリとした。
雪乃さんの口元が本当に微かにだけど笑っているように見えた。でも、今の雪乃さんに浮かんでいるのはいつも通りの表情だった。気のせい、だったのだろうか。
「あ、そうだ。悠人君に1つだけ確認だけど」
「はい?」
笑顔の夏希さんに小さく影が差したように見えた。何か少し嫌な予感がする。
「悠人君がどれだけ頑張ってるかは知ってるけど、仕事が終わってすぐナンパはお姉さん感心しないなー」
それが何のことを指しているかすぐに気づいた。
――普通にチクってるじゃないですか!
心の中で木下さんにツッコミを入れていると、冷やりとした気配を感じた。ノートパソコンに視線を戻した雪乃さんが再び僕を見ている。透明感のある零度の視線が今は絶対零度になっている。じとっとしているというか、汚いものでも見るような。
「じゃあ、宅配行ってきます!」
「あ、ちょっと。悠人君!」
夏希さんの声から逃げるように伝票と冊子をとると事務所の外に出る。あれ、でも弁明しないと本当に僕が木下さんをナンパしたようになってしまうんじゃ。だけど今から事務所内に戻る勇気はなかった。
いや、夏希さんは冗談だとわかってるんだろうけど、雪乃さんの方が心配だった。あとはもう夏希さんが上手くフォローしてくれることを願うしかない。
「雪乃さんと、もう少し話せるようになれるのかな」
物語を読んだ後、雪乃さんが何を考えているのか無性に気になる時がある。もっと言葉を交わせれば、雪乃さんが何を思って物語を紡いでいるかわかる日が来るのだろうか。
いや、焦る必要はない。雪乃さんの物語を読んでいけば何かわかるかもしれない。今はただ目の前の仕事に集中しよう。まだ僕は雪乃さんの物語につける色を見つけられていない。
それに、僕はまだ自分の家族とすらまともに向き合えていない。
深呼吸をしてバイクのエンジンをかけるとドッドッドッドと心地いい振動が返ってきた。
ゆっくりでいい。でも、家族とのこともゆっくりでも向き合っていかなければならない。木下さんに偉そうなことを言ったからには、自分の言葉に責任を持ちたかった。
遠くから吹いてきた夕暮れの夏の潮風の温さに包まれながら、バイクはトコトコと走り出した。
木下さんの仕事を終えてから一週間、いい加減炎天下の中自転車を漕ぐのが嫌になって、前のバイト先だった弁当屋のおじさんに店が再開するまで宅配用のバイクを借りていいか聞いてみたら、二つ返事でOKを貰えた。
というわけで、しばらく置きっぱなしにされていたバイクが無事かどうか試運転の為にとりあえず大学まで来てみたのだけど、今思えば他に行き先が無いのが少しだけ切ない。
とにもかくにも、荷台に宅配用のボックスのついたデリバリー用のバイクをしばらく使えることになった。雪乃さんが書いた冊子を入れるには少し過剰な設備かもしれないけど。
バイクの調子は確認できたし、このまま職場に向かおうかな。キャンパスの出口に向かってUターンしたところで見慣れた人影が目に入る。
木下さんが誰かと歩いているところだった。バレない程度に速度を落として追い抜きざまに様子を伺う。一緒に歩いているのは男子学生で「TRACK AND FIELD」と印字されたTシャツを纏っていた。
もしかして早速新しい彼氏が、なんて思い浮かんだけど、そんなことは直ぐにどうでもよくなった。男子学生が何かを口にすると木下さんはお腹を抱えて笑っている。
その仕草はとても自然に見えた。
どうやら、僕の初めての仕事は無事に終わったようだった。
「――ということがあってですね。木下さん、元気そうでした」
言の葉デリバリーの事務所には夏希さんと雪乃さんがそろっている。注文が入っていたけどまだ時間には余裕があったから、大学で見かけた一部始終を報告すると夏希さんにパッと笑顔の花が咲いた。
「よかったね、悠人君。これでもう一人前だよ」
「いや、僕はまだそんな。僕はただ雪乃さんの物語を読んだだけなので」
今日は珍しく雪乃さんも手を止めて僕の話を聞いていた。木下さん用の物語を一日でしたためた雪乃さんとしても顛末が気になっていたのかもしれない。
木下さんへの二度目の宅配を終えてから、雪乃さんともそれまでのように話ができるようになった。といっても元々が元々だから、殆ど仕事の話だけど。
「雪乃さんの物語なしに僕が何を言ったって、多分木下さんには響かなかったと思います」
弁当でいえば、僕がやったのは雪乃さんが作った弁当をお客さんの家で温めただけだ。だから、おいしいお弁当の評価は雪乃さんが受けるべきだと思う。その雪乃さんは黙ったまま僕の方をじっと見ている。その視線に初めてバイトを終えた後のことを思いだした。
――そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるって気づいた方がいい。
「……でも、僕が届けたことにも何か意味があったなら嬉しいなって。そう思います」
雪乃さんに向かって口にしたつもりだったけど、雪乃さんはすっとノートパソコンと向き合ってしまった。うーん、また気に障ることを言ってしまったんだろうか。
少しずつ出発の時間が近づいている。夏希さんと仕事の話に戻ろうとしたところで、もう一度ちらっと雪乃さんの方を見てドキリとした。
雪乃さんの口元が本当に微かにだけど笑っているように見えた。でも、今の雪乃さんに浮かんでいるのはいつも通りの表情だった。気のせい、だったのだろうか。
「あ、そうだ。悠人君に1つだけ確認だけど」
「はい?」
笑顔の夏希さんに小さく影が差したように見えた。何か少し嫌な予感がする。
「悠人君がどれだけ頑張ってるかは知ってるけど、仕事が終わってすぐナンパはお姉さん感心しないなー」
それが何のことを指しているかすぐに気づいた。
――普通にチクってるじゃないですか!
心の中で木下さんにツッコミを入れていると、冷やりとした気配を感じた。ノートパソコンに視線を戻した雪乃さんが再び僕を見ている。透明感のある零度の視線が今は絶対零度になっている。じとっとしているというか、汚いものでも見るような。
「じゃあ、宅配行ってきます!」
「あ、ちょっと。悠人君!」
夏希さんの声から逃げるように伝票と冊子をとると事務所の外に出る。あれ、でも弁明しないと本当に僕が木下さんをナンパしたようになってしまうんじゃ。だけど今から事務所内に戻る勇気はなかった。
いや、夏希さんは冗談だとわかってるんだろうけど、雪乃さんの方が心配だった。あとはもう夏希さんが上手くフォローしてくれることを願うしかない。
「雪乃さんと、もう少し話せるようになれるのかな」
物語を読んだ後、雪乃さんが何を考えているのか無性に気になる時がある。もっと言葉を交わせれば、雪乃さんが何を思って物語を紡いでいるかわかる日が来るのだろうか。
いや、焦る必要はない。雪乃さんの物語を読んでいけば何かわかるかもしれない。今はただ目の前の仕事に集中しよう。まだ僕は雪乃さんの物語につける色を見つけられていない。
それに、僕はまだ自分の家族とすらまともに向き合えていない。
深呼吸をしてバイクのエンジンをかけるとドッドッドッドと心地いい振動が返ってきた。
ゆっくりでいい。でも、家族とのこともゆっくりでも向き合っていかなければならない。木下さんに偉そうなことを言ったからには、自分の言葉に責任を持ちたかった。
遠くから吹いてきた夕暮れの夏の潮風の温さに包まれながら、バイクはトコトコと走り出した。
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