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その傷跡を抱きしめて
その傷跡を抱きしめて5
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木下さんの依頼を終えてから一週間がたった。
あの日を境に僕は少しずつ朗読の依頼を受け持つようになり、一つ一つの物語に対して配達人としての自分と向き合いながらこなしてきた。弁当屋のバイトの時はいかに早く確実に届けるかというのが腕の見せ所だったけど、今は到着してからが本番となる。まだまだ戸惑うことも多いけど、一歩一歩成長していく実感はそのままやりがいとなった。
一方で、雪乃さんとはあの日以来殆ど話していない。もちろん、元々話していたわけでもないのだけど、木下さんの依頼の日に一歩近づいたと思った距離は即座に数歩離れてしまったように感じる。
別に仲良くしたいとかそういうのじゃない。ただ、同僚として困らないくらいの関係にはなっておく必要があるだろうっていう使命感であって――自分にそう言い聞かせると知らず知らずのうちに息が溢れだしてきた。
「田野瀬さん、手続きは以上です。お疲れさまでした」
名前を呼ばれてハッと顔をあげると、大学の事務職員さんは次の学生の名前を呼んでいた。既に僕の方を向いていない職員さんに頭を下げて事務室を出る。奨学金の手続きの為に夏休み中の大学に出てきたけど、思っていたより早く終わった。
バイトまでまだしばらく時間があるし一度帰って軽く休もうか。そんなことを考えながら事務室から外に出るとまだ昼間の太陽がギラギラと路面を照らして存在感を主張している。そんなキャンパスの木陰に設けられた木製のテーブルに数人の女子学生の姿が見えた。その他には蝉の鳴き声くらいしかしないから、自然とその声が聞こえてくる。
「照乃、どうする? この後どこか遊び行く?」
「あー、今日はいいや。午前中のゼミだけでなんかちょっと疲れちゃった」
「大丈夫? 照乃さ、まだあの事引きずってるんじゃないの?」
「まさか! もうしっかり切り替えてるよ。ほら、私のことはいいから行って行って!」
そのグループの中の一人は木下さんだった。他の学生がテーブルから離れていく中、木下さんは笑顔で手を振って見送って、その姿が見えなくなったところで表情が暗く沈み重い息をつく。テーブルに肘をつきぼんやりと空を見上げる。その姿は“切り替えた”ようには見えなかった。
「……木下さん」
仕事で一回会っただけの人に声をかけるのはあまりよくないかなと思ったけど、物憂げな雰囲気を漂わせる木下さんを放っておくことができなかった。僕が声をかけると木下さんはきょとんとした様子で顔を上げて、それからバツが悪そうに微笑んだ。
「や、後輩君! この前はありがとね。おかげですっかり切り替えられたよ」
慌てて笑ってみせる木下さんの言葉はどこか乾いていて、それが本心でないことはすぐにわかった。僕が気づいたことに木下さんも気づいたようで、力のない笑みがその顔に浮かぶ。
「あーあ。見られたくないとこ、見られちゃったなあ。これじゃ元気になったって言っても信じてもらえないよね」
あの日、成功したと思った仕事は僕の勝手な思い違いだったのだろうか。でも、朗読を終えた後の木下さんは確かにいい方向に変わって見えた。だとしたら、その後に何かあったのだろうか。
「色々考え込んでるみたいだけど、君が失敗したとかじゃなくてね。君が物語を運んでくれた時はスパッと切り替えられたのはホントにホント。だけど、段々とまたズルズルと引きずられるように戻っちゃって」
木下さんは声のトーンとは裏腹におどけたように両手をうんと空に向けて伸びをする。顔も笑っているけど、やりきれない思いが見え隠れしている。
僕が思っていたよりもずっと、木下さんが背負っていた傷は深かった。だから、たとえその表面を覆ったとしても、それがはがれてしまえばすぐにまた傷が顔を出す。
やっぱり、僕じゃダメなのか。夏希さんみたいに困った人を勇気づけて、背中を押すことはできないんだろうか。
「ほら、後輩君。表情硬くなってるよ!」
無意識のうちに奥歯をグッと噛みしめていた。木下さんの言葉に力を抜いて笑ってみたつもりだったけど、表情が上手く作れた自信はない。そんな僕を見て、木下さんは困ったように笑う。
「一回じゃ足りなかっただけなら、後何回かすれば本当に全部切り替えられる気がするの。もしかしたらまたお願いするかもしれないけど、その時はよろしくね、後輩君!」
「あ、木下さんっ――」
木下さんは明るい調子でそう言うと立ち上がって、僕が返事をするより先に歩いていってしまう。追いかけても何を伝えればいいのかわからなくて、じっと黙ってその背中を見送る。一人木陰のテーブルに残された僕に聞こえてくるのは飽きることなく鳴き続ける蝉の声。
木下さんは繰り返すうちによくなるかもしれないと言ったけど、それは深い傷の上の覆いをただ取り換えるだけにならないだろうか。本当に切り替えるためには、もっと根元から手当しないといけないんじゃないか。でも、そこにピタリとはまるものがわからない。僕には木下さんみたいな経験がなくて、その傷の深さも形も想像することしかできなかった。
自分の手に負えない時はどうすべきか、それは前のバイトでも散々教え込まれた。今の僕にわからないことは仕方ないことだと自分に言い聞かせてみる。そんなことをしてみても、バイト先に向かう足はずっしりと重かった。
あの日を境に僕は少しずつ朗読の依頼を受け持つようになり、一つ一つの物語に対して配達人としての自分と向き合いながらこなしてきた。弁当屋のバイトの時はいかに早く確実に届けるかというのが腕の見せ所だったけど、今は到着してからが本番となる。まだまだ戸惑うことも多いけど、一歩一歩成長していく実感はそのままやりがいとなった。
一方で、雪乃さんとはあの日以来殆ど話していない。もちろん、元々話していたわけでもないのだけど、木下さんの依頼の日に一歩近づいたと思った距離は即座に数歩離れてしまったように感じる。
別に仲良くしたいとかそういうのじゃない。ただ、同僚として困らないくらいの関係にはなっておく必要があるだろうっていう使命感であって――自分にそう言い聞かせると知らず知らずのうちに息が溢れだしてきた。
「田野瀬さん、手続きは以上です。お疲れさまでした」
名前を呼ばれてハッと顔をあげると、大学の事務職員さんは次の学生の名前を呼んでいた。既に僕の方を向いていない職員さんに頭を下げて事務室を出る。奨学金の手続きの為に夏休み中の大学に出てきたけど、思っていたより早く終わった。
バイトまでまだしばらく時間があるし一度帰って軽く休もうか。そんなことを考えながら事務室から外に出るとまだ昼間の太陽がギラギラと路面を照らして存在感を主張している。そんなキャンパスの木陰に設けられた木製のテーブルに数人の女子学生の姿が見えた。その他には蝉の鳴き声くらいしかしないから、自然とその声が聞こえてくる。
「照乃、どうする? この後どこか遊び行く?」
「あー、今日はいいや。午前中のゼミだけでなんかちょっと疲れちゃった」
「大丈夫? 照乃さ、まだあの事引きずってるんじゃないの?」
「まさか! もうしっかり切り替えてるよ。ほら、私のことはいいから行って行って!」
そのグループの中の一人は木下さんだった。他の学生がテーブルから離れていく中、木下さんは笑顔で手を振って見送って、その姿が見えなくなったところで表情が暗く沈み重い息をつく。テーブルに肘をつきぼんやりと空を見上げる。その姿は“切り替えた”ようには見えなかった。
「……木下さん」
仕事で一回会っただけの人に声をかけるのはあまりよくないかなと思ったけど、物憂げな雰囲気を漂わせる木下さんを放っておくことができなかった。僕が声をかけると木下さんはきょとんとした様子で顔を上げて、それからバツが悪そうに微笑んだ。
「や、後輩君! この前はありがとね。おかげですっかり切り替えられたよ」
慌てて笑ってみせる木下さんの言葉はどこか乾いていて、それが本心でないことはすぐにわかった。僕が気づいたことに木下さんも気づいたようで、力のない笑みがその顔に浮かぶ。
「あーあ。見られたくないとこ、見られちゃったなあ。これじゃ元気になったって言っても信じてもらえないよね」
あの日、成功したと思った仕事は僕の勝手な思い違いだったのだろうか。でも、朗読を終えた後の木下さんは確かにいい方向に変わって見えた。だとしたら、その後に何かあったのだろうか。
「色々考え込んでるみたいだけど、君が失敗したとかじゃなくてね。君が物語を運んでくれた時はスパッと切り替えられたのはホントにホント。だけど、段々とまたズルズルと引きずられるように戻っちゃって」
木下さんは声のトーンとは裏腹におどけたように両手をうんと空に向けて伸びをする。顔も笑っているけど、やりきれない思いが見え隠れしている。
僕が思っていたよりもずっと、木下さんが背負っていた傷は深かった。だから、たとえその表面を覆ったとしても、それがはがれてしまえばすぐにまた傷が顔を出す。
やっぱり、僕じゃダメなのか。夏希さんみたいに困った人を勇気づけて、背中を押すことはできないんだろうか。
「ほら、後輩君。表情硬くなってるよ!」
無意識のうちに奥歯をグッと噛みしめていた。木下さんの言葉に力を抜いて笑ってみたつもりだったけど、表情が上手く作れた自信はない。そんな僕を見て、木下さんは困ったように笑う。
「一回じゃ足りなかっただけなら、後何回かすれば本当に全部切り替えられる気がするの。もしかしたらまたお願いするかもしれないけど、その時はよろしくね、後輩君!」
「あ、木下さんっ――」
木下さんは明るい調子でそう言うと立ち上がって、僕が返事をするより先に歩いていってしまう。追いかけても何を伝えればいいのかわからなくて、じっと黙ってその背中を見送る。一人木陰のテーブルに残された僕に聞こえてくるのは飽きることなく鳴き続ける蝉の声。
木下さんは繰り返すうちによくなるかもしれないと言ったけど、それは深い傷の上の覆いをただ取り換えるだけにならないだろうか。本当に切り替えるためには、もっと根元から手当しないといけないんじゃないか。でも、そこにピタリとはまるものがわからない。僕には木下さんみたいな経験がなくて、その傷の深さも形も想像することしかできなかった。
自分の手に負えない時はどうすべきか、それは前のバイトでも散々教え込まれた。今の僕にわからないことは仕方ないことだと自分に言い聞かせてみる。そんなことをしてみても、バイト先に向かう足はずっしりと重かった。
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