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第三章 毒入り林檎

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*************



翔梧は宿屋に向かうパトリシアとアシュラフの背中を見ていた。

その表情はどこまでも切ない痛みを伴っていた。



一体何の話をしているのか、翔梧の方からは分からなかったのだが、それでも憑き物が落ちた表情で笑うパトリシアに安堵もしていた。



「……帰るか」



何をやっているんだろうな、俺は。

もうあの人の隣には並ばないと決めたはずなのに。



未練たらしく、追いかけたりしてよ。



明け渡したそこに、ぽっと出のアシュラフが入ったことに嫉妬してよ。



駄目な男だ、俺は。



とぼとぼと帰還する翔梧の姿に、アシュラフだけが気が付いていた。



*************



🐫



夜半すぎ、俺の隣にはパトリシアが寝ていた。



『俺と既成事実を作るんだよ。もちろん、形だけだがな。それでお前はめでたく婚約破棄ってわけだ』



あのとき、わざと意地悪くそう言ったのにも関わらず、こいつは楽しそうに目を輝かせた。



『それだわ! どうしてそんなことにも気付かなかったのかしら』



なんて強がりも痛々しい。

だけど、俺の提案を肯定したのも事実だ。



俺は、俺のために彼女と一緒に宿屋へと向かった。



鋭い視線が俺とパトリシアに向けられていたが、敵意はなかった。

"過去の男"に見せつけるように、俺はにやりと笑ってパトリシアの華奢な腰を引き寄せた。



そして今、今度はパトリシアの方が当て付けのように真横ですやすやと健やかな寝顔を見せつけてくるのだ。



「あしゅ、らふ。……今日は、たの、し、かった…ねぇ……」



むにゃむにゃと寝言を言いながら、彼女は俺の身体に腕を回した。



誘っているのか?

本気で疑うほど、彼女は無防備だった。



そして無防備であると同じくらい純粋無垢で、あどけない寝顔だった。



これでは手を出そうにも出せないじゃないか。

ふつふつと湧き上がる苛立ちは何に対してなのか。



ぐしゃりと自分の前髪を強く掴んだ。



「たのしい、か」



そうか、この感情を人は「楽しい」と、そう名付けるのか。

昼間には知り得なかった単語を、自分とは程遠く決して手に入らないと思っていた感情の名前を、思いがけず俺は今日手に入れることが出来た。



かぁぁぁぁと、火照る頬を誤魔化すように、俺はパトリシアの頬を摘んだ。

柔らかくて、もちもちのふわふわで、すべすべした、まるで綿菓子のように甘い頬だった。



「よく、こんな状態で眠れるよな。この俺が隣にいるというのにな。……ふっ」



ふがっと豚みたいな寝息が聞こえた。

ぶはっと声を出して俺は笑った。



ぐしゃぐしゃとパトリシアの髪を撫でてやり、三日月の光が入ってくる部屋で幸せそうに眠る彼女の寝顔を、俺はいつまでも眺めていた。



夜が明けて、太陽が空に昇り始める。

朝日が暖かく降り注ぎ、まるで俺たちを祝福してくれているみたいだと思った。



🌈



次の日。

パトリシアが目を覚ますと、目の前には目の下に真っ黒な隈を作ったアシュラフの顔があった。



それから彼は不機嫌そうな顰めっ面で、パトリシアを睨む。



「おはよう」

「あぁ、おはよう……」



しゃがれた声で、けれどもその端正な顔は一切を損なうことなく、ただ一睡もしていないだけのアシュラフがそこにいた。



そんな彼を見て、パトリシアは涙を流すほど声を出して笑う。



「うるさい……」



文句を言いながら、枕にうつ伏せになったアシュラフはそれでも決してパトリシアの側から離れようとはしなかった。



新しい出会いと、堪えた悲しみと、それでもやってくる明日にパトリシアは希望を見出した。



覚悟を決めてみればいっそ清々しく、悩んでいる間にも雲の隙間から陽光が差し込んでくる。



宿屋の周囲を王室の近衛兵たちが囲んでいることは明白で、ノエルはブチ切れているだろう。

ロイド公爵家の恥さらしとなってしまっただろう。当然ながら、勘当もされるだろう。



ーーーー翔梧、は。

翔梧はきっと、失望しただろう。



後先を考えない決断だった。

それでも、必要な選択だった。



後悔するのは未来の自分に任せて、今はただ明け方の微睡みを楽しもう。



やけにすっきりとした表情でパトリシアはもう一度瞼を閉じた。



第一部(完)
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