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エピローグ

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「冗談だろ」
継人は新聞を持つ手を震わせ、思わず2度見した。
あの特別な夏からほぼ1年が経ち、その記憶の断片が日々の生活のなかで顔を出すことは殆ど無くなっている。
もちろんあれほどの出来事に出くわすことは、そうそうあるとは思えない。
とはいえ、小さな衝撃は日々の生活のなかにも唐突に現われる。
今朝の新聞がまさにそれだった。
経済面の片隅に、あまり大きい扱いではないが『中堅商社・○○商事、経営破たん』とある。
新卒から10年、ついこのあいだまで在籍していた会社だ。
もし今の職場に転職していなかったなら、今まさにその渦中にいたかもしれない。
まるで直前に途中下車したおかげで事故死を免れたような、手放しで喜べない居心地の悪い幸運のようだ。
継人は大きく溜息をついて、新聞を静かにテーブルの上に置いた。顔を上げると、芙美がキッチンで目玉焼きを焼いている。
運命を分けたのは何か?
それはハッキリしている。もっとも運命というより転機と言ったほうがいいかもしれない。
あの故郷での5日間から数ヵ月後のある日のことだった。芙美が明け方に琴音を出産した、その日の午後に会社から転勤の辞令が出たのだ。
転勤先は『東京本社』
目と耳を疑った。何という皮肉。長い間、ただ想い焦がれるに過ぎなかった未来がまさに手元にある。
しかも、もうひとつの未来が示された同じ日にやってくるなんて。
もし芙美と出会う前なら喜んで飛びついていただろうか?
たぶん二つ返事で受けていただろう。そして、今ごろ煌びやかな都会の真ん中で途方にくれていたに違いない。もちろんその着地点に芙美と琴音はいない。
あの辞令が「どちらかを選べ」というサインだったのか、それとも甘美な罠だったのか、今となっては分からない。ただ心は決まっていた。

オレはこの街を出ていかない。

「あれっ?手紙見なかった?」
「手紙?」
「やだっ。新聞広げる前に気付かなかったの?」芙美は琴音を腕に抱きながら、テーブルの周りを見回した。「ほら、そこっ。あなたの足元」
「ああ、えっ?」継人は封筒を手に取った。
差出人は田野倉夏美。宛名は栗村継人様・芙美様、とある。左下には青い文字でAIR MAIL。差出人住所はUNITED REPUBLIC OF TANZANIA。
タンザニア・・・・
一瞬、心臓を掴まれたように固まっていると、芙美は琴音が寝ついたのを確認して、隣に擦り寄ってきた。
「連名だから、私にも読む権利はあるよね?」
「もちろん。でも後悔するなよ。ドロ沼の三角関係の始まりになるかもしれんぞ」
「そんな度胸もないくせに」芙美は右口角を上げて、自信たっぷりに言った。
継人は憮然とした表情で封筒を開けた。忌々しいが、芙美はオレが一線を越えないことを知っている。
小さく深呼吸をしてから手紙を広げた。

《 拝啓 栗村継人様 芙美様、ご無沙汰しております。
本来であれば、きちんとお会いしてお詫びをしなければいけないのに、こんな不躾な形でお目汚しをする非礼を、どうかお許しください。
いつか晴れやかな気持ちで再びお会いできたらと想いつつ、心の中に取り散らかったモヤモヤを整理できないまま、時間だけが過ぎてしまいました。
たぶん、私たち姉妹が犯してきた過ちと向き合って次の一歩を踏み出すには、まだ幾つもの重りを下ろす必要があるのかもしれません。
でも、栗村さんが御尽力してくださったおかげで、おぼつかないながらも心穏やかな日々を送っております。
本当に心から感謝しています。
あの事件のあと田野倉の家に戻り、お義母様ともなんとか打ち解けて、3人で泊まりの温泉旅行にも行きました。田野倉の仕事の絡みで、生まれて初めて飛行機にも乗りました。ほとんど地元を出たことがない私にとって、毎日が目の眩むような冒険でした。
でもその反面、思い通りにいかないこともありました。
田野倉とのあいだに授かった小さな命が2度も流れてしまい、初孫の誕生を心待ちにしていたお義母様も失意のうちに肺炎で他界してしまったのです。
これからどう生きていけばいいのか?
答えが見つからず悶々とする日々が続きました。
そんなある日、管財人の方から根乃井の破産手続きの際に旧家の遺品が出てきたので確認してほしいという連絡が入り、小さな桐の箱を受け取りました。それは母屋の古い仏壇に安置されていたもので、中には硬い毛並みの毛皮の切れ端と一枚の絵が束ねてありました。
絵を見た私は思わず声を上げそうになりました。
水墨画のような筆づかいで描かれたそれは、首と手足が長くとても俊敏そうな大型犬の絵だったのです。
そして絵の左側には、落款印とともに“昭和36年8月25日 麻倉一朗”とありました。毛皮がその大型犬のものであることはたぶん間違いありません。
いままで誰も知らなかったことですが、母の命を救った恩を報われることも無く、凶暴な野獣の汚名を着せられたまま命を閉じた《魂》を、祖父は密かに供養していたのです。
その祖父の気持ちに思いを馳せると、いまでも胸が締め付けられそうになります。
でも、それは私にひとつの道を示してくれました。
姉のように過去を完全に消し去るのではなく、過去を乗り越えるために、その《魂》と出逢いたいと思うようになったのです。
もちろんあのときの《魂》と会うことは出来ません。でも、彼らの子孫たちに受け継がれた《魂》になら会えるかもしれない、そう思ったのです。
ところが、彼らにたどり着くのは容易ではありません。動物学者の方に絵と毛皮を分析して頂いたところ、おそらくタンザニア共和国のザンジバル諸島にかつて生息していたザンジバル・グレイハウンドの混血種がもっとも近いということでした。
この種は、日本はもとより世界中の国々、そして本国のタンザニアでもほぼ絶滅したと言われています。
でも、私はどうしても諦めることができませんでした。
田野倉を2度も裏切ることを思うと気が重かったのですが、彼は「待ってる」とだけ言って、私を送り出してくれました。
この地に来て3ヶ月目になりますが、まだ糸口すら掴めていません。でもいつか邂逅を果たして、次の一歩を踏み出したいと思います。
そのとき、あらためて栗村さんご夫婦とお会いできればと願っています。
私事ばかりを書き綴って申し訳ありません。
栗村さんご夫婦のご健康とご多幸をお祈りしています。敬具 》

「私も会ってみたいなぁ」
 手紙から視線を離した芙美は遠くを見るように目を細めた。まるで風に煽られた銀杏の葉の向こうに高原夏美がいるかのように。
 ただ、継人には最早どんなに眼を凝らしてもあの日の少女の姿を思い描くことはできなかった。そう思うと、何故か笑い出しそうになる。でも、継人はむしろそれでいいと思った。止まっていたはずの時間は動き続けているのだ。これからもずっと。
                                         
                             了
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