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冷蔵庫には1970年のドンペリニヨン・プラチナと、高級食材を散りばめたオードブルが入っている。継人は文恵の指示通りに居間に運ぶと、2つのグラスにその高価なシャンパンを注いだ。
どうやら彼女は本気で祝杯を挙げるつもりらしい。
「妖しく不条理なこの世界に」
文恵はニッコリ笑って片手でグラスを持ち上げる仕草をしたが、継人は乗らなかった。彼女のもう一方の手は相変わらずクレンメを握っている。
「キミが田野倉氏の子供だってことを社長、いや克登さんは知っているのか?」
「知ってるわけないでしょ。母は昭和36年の夏に死んだ事になってるのよ。母のいない兄妹関係なんて存在しないわ」文恵はキャビアをトッピングしたスモークサーモンを摘まんで、シャンパンと一緒に流し込んだ。「私と夏美は、母が生きてるのに知らない人を母と呼ばなければならなかったのよ。これって結構ツラいと思わない?」
「たしかにツラいかもしれないが、それは咲恵さんだって同じじゃないのか」
「ブー。あの女は麻倉一朗と内縁だった市子さんの娘よ。私たちとは血の繋がりなんかない。同じなのは、3人とも市子さんに育てられたってことだけ。市子さんは私と夏美には冷たかった。当然よね。どんな母親だって自分が生んだ子供は可愛いはずだもの。私たち2人は物心ついた時から母の世話をさせられた。外に出かけるのはいつも咲恵だけ。運動会の日も、家族が旅行に行く日も、私たちはずっとあの地下の部屋で母を看てきたのよ」
過酷な少女時代の一端を、文恵はサラリと話した。継人は絶句した。まるでグリム童話の導入部のような話だ。芙美は身に係っている恐怖に震えながらも話に耳を傾けている。
文恵はさらに続けた。
「私が12歳になった時、母は始めて父のことを教えてくれた。きっと母は、自分をこんな目に遭わせた張本人が実の父親だと理解させるのに、それだけの時間が必要だと判断したのね。でも私はそんなに聞き分けのいい娘じゃなかった。次の日、母の制止を振り切って1人で田野倉邸に乗り込んだの。あいにく本人は留守で、玄関先には私と同じくらいの年恰好の男の子が出てきた。まるで両親の溢れんばかりの愛情を受けて育った王子様みたいだった。私は自分の運命を呪ったわ。本来はこっちにいるべきじゃなかったのか、ってね。悔しかったけど、それ以上踏み込めなかった。引き返そうとして振り返ると、そこにお父さんが帰って来たの。私が自分の名前を言うと、慌てた顔で“家まで送るよ”と言って車に乗せてくれた。大人の事情があることはすぐに分かったわ。ああ、私は不義の子なんだって。そう思うと悲しかった。地元じゃ人目に付くからマズイと思ったのね。結局どこにも降りることなく、琵琶湖の周りをドライブしたの。でもお父さんは身の回りの大人達のようなクズじゃなかった。過去の心の傷に苦しんでる少年のような人だったの」
芳田から聞かされた人物像とはずいぶん違うじゃないか、と継人は思った。昭和36年の夏、その少年は自分と芳田の父親を見捨てて、ひとりで逃げて行ったはずだ。
「じゃあ、田野倉氏はなぜそんなキミたちを救おうとしなかったんだ?」
「本人はそのつもりだったの!」
文恵は憮然となって、グラスを荒々しくテーブルに置いた。その様子を見た芙美の表情に緊張が走る。
「そもそも母が生きていることを暴露して、田野倉家からお金を強請ろうと考えたのは市子さんだったのよ。以前は献身的な家政婦だったみたいだけどね。でも例の事件のあと、一朗さんの奥さんが死んで内縁関係になったものの、麻倉産業は毎年の赤字続きでどこの銀行にも相手にされないありさま。そこで彼女は事件の首謀者だったお父さんを地下室の母に引き合わせて多額の賠償金を引き出そうと考えた。これが効果覿面だったみたいね。お父さんは生涯をかけて償う約束をしたばかりか、思わぬ副産物をこの世に送り出すことになったってわけよ」
それが今ここにいる自分だということなのだろう。
継人は文恵の視線から逃れるようにグラスを一気に煽った。たしかにこの組み合わせは予想できなかった。いくらかつての憧れの先生だといっても、年齢はひと回りも違う。ひょっとすると田野倉守氏を動かしたのは、贖罪よりもっと別の感情だったのかもしれない。
「話を戻すけど」文恵はそう言って、空になった継人のグラスにシャンパンを注いだ。「お父さんは12歳の私が逢いに行くまで、市子さんに送金したお金のすべてが母の介護に使われてると信じてた。おまけに私の存在もそのとき初めて知ったみたい。でもお父さんは市子さんを責めることはしなかった。たぶん母と私たちの身を案じたのね。その代わりに私に銀行口座を作ってくれた。私と夏美が困ったときに自由に使える魔法のポケットだと言ってね。そこで私は根乃井を説得して、あの地下室を母の介護と自分の頭脳と知識の宝庫に造り変えたの」
あの異様な空間は文恵が造ったのか・・・。継人はあらためて感嘆した。あの地下室には多感な少女の面影が微塵も感じられないばかりか、世俗の入り込む余地すらない。あるのは冷徹なまでの合理性と、知への執念のようなものだけだ。
「ところがこれを造ったことが、市子さんと咲恵をさらにエスカレートさせたってわけ。あの2人はすでに生活のすべてをお父さんの賠償金に頼っていたから、まだ相手には余力があるはずだと考えたのね。そこで2人は、母の病気をでっち上げてさらにお金を要求してきたの。お父さんにはデタラメだと伝えたけど、私たちとの軋轢が深まるのを恐れてあえて要求を呑んだみたい。悔しかったけど、そんな関係は市子さんが死んでからも続いたのよ」
「浅ましいとしか言いようがないな」金とは、かくも人間を狂わせるものなのか・・・。継人は首を振った。「でも、恵子さんを連れて他所に移る方法もあったんじゃないのか? その魔法のポケットを使って」
「もちろん考えたわ。私はこのままじゃ歯止めが利かなくなると思って、母と一緒に家を出る計画を立てた。そこでまず夏美をお父さんの会社に就職させて、パイプ役を頼んだの。連携が取り易いように秘書課の社員としてね。それから、従来のやり方だと送金記録が会計監査に引っ掛かるからという理由で、咲恵とのお金のやり取りを、夏美が定期的に現金で手渡す方法に変えた。あいだに夏美が入ることで、少なくともデタラメな理由で強請ることは出来なくなると考えたのよ。しかも、これはまったく予想外だったけど、夏美が克登さんと結婚したことでさらにパイプは太くなった。ところが忌々しいことに、それでもなお咲恵の強欲は収まらなかった。自分の思い通りにならないと分かると、こんどは根乃井の姉と組んで、隠し子がいることを世間に公表すると言って脅したり、あなたの絵を直接売り込んだりする手段に出たのよ」
文恵は “あなただって頭にくるでしょ”とでも言いたげな表情を見せたが、継人が乗ってこないのをみて、そのまま続けた。
「もうこれ以上我慢できない。この連鎖を断ち切るには1日も早く母を連れ出すしかない。そう思ってあらかじめ購入しておいた東京のマンションを、今まで通りの処置が出来る環境に改修したの。そしていよいよ決行しようと麻倉家の地下室に戻ると、母は自分の舌を噛み切って亡くなっていた。ちょうど周りに誰もいない時に。ひと言の遺言も残さずにね。その瞬間、私を取り巻く世界はすべて意味を失ってしまった」
そこまで言って、文恵は喉を詰まらせた。それを聞いていた芙美も小さく唸りながら、嗚咽を漏らしている。
「なんていうか・・・」継人はそれ以上、何も言えなかった。さぞ無念だったことだろう。医学に明るい彼女のことだ。とうぜん他殺の可能性も考えたに違いない。
しかし、誰にも麻倉恵子を殺す動機など無かった。周りにいる人間たちはみんな彼女が生きている事で利益を享受している者ばかりだからだ。それだけに、彼女が自分の意志で死を選んだという事実がよけいに重くのしかかるのだろう。
継人は芙美の反応を窺いながら言った。「やっぱり夏美さんがとつぜん田野倉家を出て行ったのは、恵子さんが亡くなったことが原因なのか?」
「そうよ。あそこに居られなくなった夏美は、ある意味もっと辛かったのかもしれないわね。あの子は本当に克登さん、いいえ、お兄さんを愛していたんだから」
継人は心臓を握られたような気がした。そのお兄さんはいま、名乗りあうことも叶わないただ1人の妹を追い詰めるべく、警察に協力しているのだ。非情かもしれないが悟られるわけにはいかない。こっちも、芙美の命が懸かっている。隙は必ずあるはずだ。とにかく今は、文恵との会話のなかに機会を見つけるしかない。それにまだ聞き出したいこともある。
「キミのお父さん、田野倉守さんは本当に咲恵さんに殺されたのか?」
「そうよ。警察の判断は自殺。新聞発表は急性肺炎ってことになってたと思うけど」
「でも、言い方は悪いが、彼女にとって守さんは大事な打ち出の小槌だったはずだ」
「ところが、母が亡くなったことで状況は変わったのよ。その後、お父さんは麻倉家に関連するすべての送金を打ち切ったの。でも私と夏美との関係は続いている。それが我慢ならなかったのね。そこで今度は自分も同じ扱いにしろと主張してきた。でもあいにく母の死の喪失感で、お父さんは以前ほど寛容では無くなっていたのね。これが最後だと言って、東京のマンションを譲ることにしたわけ。私はそのやり取りがあったことをお父さんから直接聞いてる。そしてその話を聞いた4日後に、お父さんはマンションの欄間に括り付けたロープで首を吊っている姿で発見されたのよ」
「なぜ警察は自殺だと断定したんだろう?」
「遺体の側のテーブルに遺書が置いてあったの。内容は本人の肉筆でたった1行“もう我慢の限界だ。これで終わりにする”ってね」
「それは、遺書なんかじゃ・・・」
継人は血の気が引いた。そういえば、田野倉邸で克登氏から1度聞いた覚えがある。あの時は聞き流していたが、今はまったく別の意味に聞こえる。
「そうよ。遺書じゃない。その手紙は母が亡くなったあと、お父さんが咲恵に向けて夏美に託した最後の言葉だった。手紙の内容は手渡される前に、お父さんから直接聞かされてたらしいわ。夏美の話だと、その封筒のなかに、いつものように現金が入ってないことを咲恵からひどく咎められたみたい。咲恵はたぶんその文面を見て偽装を思い付いたに違いないわね」
継人は息を呑んだ。今までの経過を知っている者が読めば、この手紙が事実関係をミスリードさせるためのデタラメだということは直ぐに分かる。
しかし、事情を知らない者が読めば、まったく解釈が違ってくる。
田野倉守氏が特許をめぐる裁判のせいで実際にノイローゼ気味になっていたこと、マンションのなかに何やら痴情のもつれを想起させるような女性の私物があったことは、その手紙を遺書と判断するに十分な説得力を与えたに違いない。
それにこの判断を世間に流布されたくないという伊吹繊維工業とのやり取りが、警察の捜査をより表面的なものにしてしまったとも考えられる。
「でも、キミはけっきょく咲恵さんを官憲に引き渡さなかったわけだ」
「当然でしょ。あの女が奪ったのはお父さんの命だけじゃない。私と夏美の輝かしいはずだった年月を奪ったのよ。法律は本の中に印字されている以外の言葉を認めない。だから私は自分の言葉に従ったの」
「それだけとは思えん」継人は語気を強めた。「咲恵さんが裁判に駆り出されれば、キミたちの出自もバレる。資金援助を受けていたことだって曲解されるかもしれない。だから他殺を裏付ける重要な証拠を握り潰したんだ」
「そう、よく分かってるじゃないの」文恵は嬉しそうにローストビーフのピンチョスを口に放り込んだ。「真実はその解釈によって簡単に形を変えてしまう。母の命を救った勇敢で心優しい大型犬が、血に飢えた凶暴な野犬に姿を変えさせられたようにね。けっきょく母は生きて好奇の的になることを恐れて、自分の存在そのものを消した。でもウソは所詮ウソでしかないし、貫き通すにはさらにウソを重ねるしかない。その最たるものが私と夏美の存在よね。なにせ生んだ本人が大昔に死んだことになっているんだから。まさに生きる矛盾。存在してはいけない間違いそのもの」
「ごめん。少し言い過ぎた」継人はトーンを下げた。「でも、今回はどうしてそれをさらけ出そうとするんだ?」
「もちろん完全犯罪も考えたけど、けっきょくまた新しいウソをつかなきゃならない。今まで通りにね。でも、それじゃいつまで経ってもこの世に生きていることを実感できない。ちゃんとした証を得るには、事実を歪めることなく誰かに伝えなきゃならないの。そのためには、その誰かに私たちの足跡を手繰ってもらう必要があったのよ」
「それがオレだったわけか」
高原文恵は不敵に笑った。「そうよ」
どうやら彼女は本気で祝杯を挙げるつもりらしい。
「妖しく不条理なこの世界に」
文恵はニッコリ笑って片手でグラスを持ち上げる仕草をしたが、継人は乗らなかった。彼女のもう一方の手は相変わらずクレンメを握っている。
「キミが田野倉氏の子供だってことを社長、いや克登さんは知っているのか?」
「知ってるわけないでしょ。母は昭和36年の夏に死んだ事になってるのよ。母のいない兄妹関係なんて存在しないわ」文恵はキャビアをトッピングしたスモークサーモンを摘まんで、シャンパンと一緒に流し込んだ。「私と夏美は、母が生きてるのに知らない人を母と呼ばなければならなかったのよ。これって結構ツラいと思わない?」
「たしかにツラいかもしれないが、それは咲恵さんだって同じじゃないのか」
「ブー。あの女は麻倉一朗と内縁だった市子さんの娘よ。私たちとは血の繋がりなんかない。同じなのは、3人とも市子さんに育てられたってことだけ。市子さんは私と夏美には冷たかった。当然よね。どんな母親だって自分が生んだ子供は可愛いはずだもの。私たち2人は物心ついた時から母の世話をさせられた。外に出かけるのはいつも咲恵だけ。運動会の日も、家族が旅行に行く日も、私たちはずっとあの地下の部屋で母を看てきたのよ」
過酷な少女時代の一端を、文恵はサラリと話した。継人は絶句した。まるでグリム童話の導入部のような話だ。芙美は身に係っている恐怖に震えながらも話に耳を傾けている。
文恵はさらに続けた。
「私が12歳になった時、母は始めて父のことを教えてくれた。きっと母は、自分をこんな目に遭わせた張本人が実の父親だと理解させるのに、それだけの時間が必要だと判断したのね。でも私はそんなに聞き分けのいい娘じゃなかった。次の日、母の制止を振り切って1人で田野倉邸に乗り込んだの。あいにく本人は留守で、玄関先には私と同じくらいの年恰好の男の子が出てきた。まるで両親の溢れんばかりの愛情を受けて育った王子様みたいだった。私は自分の運命を呪ったわ。本来はこっちにいるべきじゃなかったのか、ってね。悔しかったけど、それ以上踏み込めなかった。引き返そうとして振り返ると、そこにお父さんが帰って来たの。私が自分の名前を言うと、慌てた顔で“家まで送るよ”と言って車に乗せてくれた。大人の事情があることはすぐに分かったわ。ああ、私は不義の子なんだって。そう思うと悲しかった。地元じゃ人目に付くからマズイと思ったのね。結局どこにも降りることなく、琵琶湖の周りをドライブしたの。でもお父さんは身の回りの大人達のようなクズじゃなかった。過去の心の傷に苦しんでる少年のような人だったの」
芳田から聞かされた人物像とはずいぶん違うじゃないか、と継人は思った。昭和36年の夏、その少年は自分と芳田の父親を見捨てて、ひとりで逃げて行ったはずだ。
「じゃあ、田野倉氏はなぜそんなキミたちを救おうとしなかったんだ?」
「本人はそのつもりだったの!」
文恵は憮然となって、グラスを荒々しくテーブルに置いた。その様子を見た芙美の表情に緊張が走る。
「そもそも母が生きていることを暴露して、田野倉家からお金を強請ろうと考えたのは市子さんだったのよ。以前は献身的な家政婦だったみたいだけどね。でも例の事件のあと、一朗さんの奥さんが死んで内縁関係になったものの、麻倉産業は毎年の赤字続きでどこの銀行にも相手にされないありさま。そこで彼女は事件の首謀者だったお父さんを地下室の母に引き合わせて多額の賠償金を引き出そうと考えた。これが効果覿面だったみたいね。お父さんは生涯をかけて償う約束をしたばかりか、思わぬ副産物をこの世に送り出すことになったってわけよ」
それが今ここにいる自分だということなのだろう。
継人は文恵の視線から逃れるようにグラスを一気に煽った。たしかにこの組み合わせは予想できなかった。いくらかつての憧れの先生だといっても、年齢はひと回りも違う。ひょっとすると田野倉守氏を動かしたのは、贖罪よりもっと別の感情だったのかもしれない。
「話を戻すけど」文恵はそう言って、空になった継人のグラスにシャンパンを注いだ。「お父さんは12歳の私が逢いに行くまで、市子さんに送金したお金のすべてが母の介護に使われてると信じてた。おまけに私の存在もそのとき初めて知ったみたい。でもお父さんは市子さんを責めることはしなかった。たぶん母と私たちの身を案じたのね。その代わりに私に銀行口座を作ってくれた。私と夏美が困ったときに自由に使える魔法のポケットだと言ってね。そこで私は根乃井を説得して、あの地下室を母の介護と自分の頭脳と知識の宝庫に造り変えたの」
あの異様な空間は文恵が造ったのか・・・。継人はあらためて感嘆した。あの地下室には多感な少女の面影が微塵も感じられないばかりか、世俗の入り込む余地すらない。あるのは冷徹なまでの合理性と、知への執念のようなものだけだ。
「ところがこれを造ったことが、市子さんと咲恵をさらにエスカレートさせたってわけ。あの2人はすでに生活のすべてをお父さんの賠償金に頼っていたから、まだ相手には余力があるはずだと考えたのね。そこで2人は、母の病気をでっち上げてさらにお金を要求してきたの。お父さんにはデタラメだと伝えたけど、私たちとの軋轢が深まるのを恐れてあえて要求を呑んだみたい。悔しかったけど、そんな関係は市子さんが死んでからも続いたのよ」
「浅ましいとしか言いようがないな」金とは、かくも人間を狂わせるものなのか・・・。継人は首を振った。「でも、恵子さんを連れて他所に移る方法もあったんじゃないのか? その魔法のポケットを使って」
「もちろん考えたわ。私はこのままじゃ歯止めが利かなくなると思って、母と一緒に家を出る計画を立てた。そこでまず夏美をお父さんの会社に就職させて、パイプ役を頼んだの。連携が取り易いように秘書課の社員としてね。それから、従来のやり方だと送金記録が会計監査に引っ掛かるからという理由で、咲恵とのお金のやり取りを、夏美が定期的に現金で手渡す方法に変えた。あいだに夏美が入ることで、少なくともデタラメな理由で強請ることは出来なくなると考えたのよ。しかも、これはまったく予想外だったけど、夏美が克登さんと結婚したことでさらにパイプは太くなった。ところが忌々しいことに、それでもなお咲恵の強欲は収まらなかった。自分の思い通りにならないと分かると、こんどは根乃井の姉と組んで、隠し子がいることを世間に公表すると言って脅したり、あなたの絵を直接売り込んだりする手段に出たのよ」
文恵は “あなただって頭にくるでしょ”とでも言いたげな表情を見せたが、継人が乗ってこないのをみて、そのまま続けた。
「もうこれ以上我慢できない。この連鎖を断ち切るには1日も早く母を連れ出すしかない。そう思ってあらかじめ購入しておいた東京のマンションを、今まで通りの処置が出来る環境に改修したの。そしていよいよ決行しようと麻倉家の地下室に戻ると、母は自分の舌を噛み切って亡くなっていた。ちょうど周りに誰もいない時に。ひと言の遺言も残さずにね。その瞬間、私を取り巻く世界はすべて意味を失ってしまった」
そこまで言って、文恵は喉を詰まらせた。それを聞いていた芙美も小さく唸りながら、嗚咽を漏らしている。
「なんていうか・・・」継人はそれ以上、何も言えなかった。さぞ無念だったことだろう。医学に明るい彼女のことだ。とうぜん他殺の可能性も考えたに違いない。
しかし、誰にも麻倉恵子を殺す動機など無かった。周りにいる人間たちはみんな彼女が生きている事で利益を享受している者ばかりだからだ。それだけに、彼女が自分の意志で死を選んだという事実がよけいに重くのしかかるのだろう。
継人は芙美の反応を窺いながら言った。「やっぱり夏美さんがとつぜん田野倉家を出て行ったのは、恵子さんが亡くなったことが原因なのか?」
「そうよ。あそこに居られなくなった夏美は、ある意味もっと辛かったのかもしれないわね。あの子は本当に克登さん、いいえ、お兄さんを愛していたんだから」
継人は心臓を握られたような気がした。そのお兄さんはいま、名乗りあうことも叶わないただ1人の妹を追い詰めるべく、警察に協力しているのだ。非情かもしれないが悟られるわけにはいかない。こっちも、芙美の命が懸かっている。隙は必ずあるはずだ。とにかく今は、文恵との会話のなかに機会を見つけるしかない。それにまだ聞き出したいこともある。
「キミのお父さん、田野倉守さんは本当に咲恵さんに殺されたのか?」
「そうよ。警察の判断は自殺。新聞発表は急性肺炎ってことになってたと思うけど」
「でも、言い方は悪いが、彼女にとって守さんは大事な打ち出の小槌だったはずだ」
「ところが、母が亡くなったことで状況は変わったのよ。その後、お父さんは麻倉家に関連するすべての送金を打ち切ったの。でも私と夏美との関係は続いている。それが我慢ならなかったのね。そこで今度は自分も同じ扱いにしろと主張してきた。でもあいにく母の死の喪失感で、お父さんは以前ほど寛容では無くなっていたのね。これが最後だと言って、東京のマンションを譲ることにしたわけ。私はそのやり取りがあったことをお父さんから直接聞いてる。そしてその話を聞いた4日後に、お父さんはマンションの欄間に括り付けたロープで首を吊っている姿で発見されたのよ」
「なぜ警察は自殺だと断定したんだろう?」
「遺体の側のテーブルに遺書が置いてあったの。内容は本人の肉筆でたった1行“もう我慢の限界だ。これで終わりにする”ってね」
「それは、遺書なんかじゃ・・・」
継人は血の気が引いた。そういえば、田野倉邸で克登氏から1度聞いた覚えがある。あの時は聞き流していたが、今はまったく別の意味に聞こえる。
「そうよ。遺書じゃない。その手紙は母が亡くなったあと、お父さんが咲恵に向けて夏美に託した最後の言葉だった。手紙の内容は手渡される前に、お父さんから直接聞かされてたらしいわ。夏美の話だと、その封筒のなかに、いつものように現金が入ってないことを咲恵からひどく咎められたみたい。咲恵はたぶんその文面を見て偽装を思い付いたに違いないわね」
継人は息を呑んだ。今までの経過を知っている者が読めば、この手紙が事実関係をミスリードさせるためのデタラメだということは直ぐに分かる。
しかし、事情を知らない者が読めば、まったく解釈が違ってくる。
田野倉守氏が特許をめぐる裁判のせいで実際にノイローゼ気味になっていたこと、マンションのなかに何やら痴情のもつれを想起させるような女性の私物があったことは、その手紙を遺書と判断するに十分な説得力を与えたに違いない。
それにこの判断を世間に流布されたくないという伊吹繊維工業とのやり取りが、警察の捜査をより表面的なものにしてしまったとも考えられる。
「でも、キミはけっきょく咲恵さんを官憲に引き渡さなかったわけだ」
「当然でしょ。あの女が奪ったのはお父さんの命だけじゃない。私と夏美の輝かしいはずだった年月を奪ったのよ。法律は本の中に印字されている以外の言葉を認めない。だから私は自分の言葉に従ったの」
「それだけとは思えん」継人は語気を強めた。「咲恵さんが裁判に駆り出されれば、キミたちの出自もバレる。資金援助を受けていたことだって曲解されるかもしれない。だから他殺を裏付ける重要な証拠を握り潰したんだ」
「そう、よく分かってるじゃないの」文恵は嬉しそうにローストビーフのピンチョスを口に放り込んだ。「真実はその解釈によって簡単に形を変えてしまう。母の命を救った勇敢で心優しい大型犬が、血に飢えた凶暴な野犬に姿を変えさせられたようにね。けっきょく母は生きて好奇の的になることを恐れて、自分の存在そのものを消した。でもウソは所詮ウソでしかないし、貫き通すにはさらにウソを重ねるしかない。その最たるものが私と夏美の存在よね。なにせ生んだ本人が大昔に死んだことになっているんだから。まさに生きる矛盾。存在してはいけない間違いそのもの」
「ごめん。少し言い過ぎた」継人はトーンを下げた。「でも、今回はどうしてそれをさらけ出そうとするんだ?」
「もちろん完全犯罪も考えたけど、けっきょくまた新しいウソをつかなきゃならない。今まで通りにね。でも、それじゃいつまで経ってもこの世に生きていることを実感できない。ちゃんとした証を得るには、事実を歪めることなく誰かに伝えなきゃならないの。そのためには、その誰かに私たちの足跡を手繰ってもらう必要があったのよ」
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