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お盆休みも最終日の夕方ともなると、高速道路は大した渋滞もなく緩やかな流れに変わっていた。帰省で行き来する車が減っていく代わりに、営業先に向かう車が徐々に入り始めている。慌しく過ぎた宴のあとのように、世界は少しずつ本来の日常を取り戻しつつあった。
しかし、継人はまだ日常と非日常のあいまいな境界線にいるような気がした。
たぶんこの数日間があまりにも濃密で、日常とかけ離れ過ぎていたせいだ。あるいは麻酔で意識を失っている間に切り取られていた時間の前後が繋がったことで、最後の1日がいつまで経っても終わらないような錯覚に陥っているせいなのかもしれない。
ただ、このままでは境界線を引けないまま明日を迎えることになる。積み残した想いはなかなか軽くならないが、今日を正しい時間軸に乗せなければならない。
継人は次のサービスエリアに寄って、芙美に電話を入れた。妻である彼女の声が、これから向かうべき日常への入り口になるはずだ。
ところが、呼び出し音が鳴ってすぐに留守番電話に切り替わった。
一昨日の夜に、お義母さんの具合がまた悪くなったというメールがあったのを思い出す。芙美はおそらく病院にいるのかもしれない。
留守番電話とメールのそれぞれに伝言を残して、再びエンジンを掛ける。
どうやら新しい日常の第一歩は、真っ暗な部屋に明かりを点すことから始めることになりそうだ。
それでも窓の外を次々と流れる雄大な里山の景色を見ながらSUVを走らせていると、不思議と落ち着いた気分になる。音楽プレイヤーから流れるクリス・マーティンの歌声が、徐々に薄暗くなる空と山を包み込み、全身を流れる血液に染み渡るようだ。
電話が鳴ったのは、まさにそんな時だった。ただ電話の主は芙美ではなかった。
〈携帯を持たん状態で喋れるか?〉
 ここ数日のあいだに何度も聞いたどら声だ。その響きはいまや心地よくすらあったが、どうやら世話ばなしをするつもりはないらしい。
 継人はナビと連動した無線システムのボリュームを上げた。「運転中ですが、ハンズフリーになってますから大丈夫です。何かあったんですか?」
 唐木はそれには答えなかった。〈いま、車の中はあんた1人か?〉
「はい」
 当たり前じゃないか、と継人は首を傾げた。唐木はかまわず続けた。
〈あんたはまだ尾けられとるんかもしれんぞ〉
「えっ?」何を言っているのか分からない。それはとっくに終わっているはずだ。「GPS追跡装置なら処分しましたよ。たしかそう説明したと思いますが」
〈たしかに聞いとる。でも車の中までは探しとらんやろ〉
「まあ、そうですが」
〈用心したほうがええ。高原文恵が次に狙っとるのは、あんたかもしれんのや〉
「どういうことなんですか?」
〈藤森真知子が自供したんや。どうやらあの姉弟は、すべて高原文恵の指示で動いとったらしい。あのオバはんが茶色のカツラ被って水色のワンピースを着とったのも、みんな文恵の指示だったと言うとる〉
「でも、どうしてそんな回りくどいことをする必要があったんですか?」
〈たぶん、あんたを事件の目撃者にするためや。もっともオバはんはそういう意識がまったく無いまま文恵に脅迫されて、仕方なく指示に従ったと言い張っとるがな。あの恰好で何時何分に指定した場所に行けば、過去の罪はすべて帳消しにしてやると言われたそうや。ただ、言われたんはそれだけで、目的も理由も一切聞いとらんらしい〉
 ずいぶん都合のいい話のようにも聞こえるが、納得できなくもないな、と継人は思った。
 インスタグラムに書き込んであったように咲恵が仕事前に薬を飲む習慣があったのだとすれば、その時間を見計らって店に出入りするフリをさせるだけでいい。しかも、店内は暗く遺体はカウンターの中だ。おそらく何が起こったのかすらも気付いていないだろう。
 湖岸町のホームセンターも然りだ。店舗からずいぶん離れたところに車を駐めて、顔は判別できないが身体的な特徴だけは確認できる微妙な距離に現われたのも、かなり作為的ではある。あのとき一瞬驚いたような様子を見せたのは、自分がつい数日前に家に現われた夫の教え子だということに気が付いたからかもしれない。
 そう考えれば、たしかにすべての行動の辻褄は合う。
 しかし、腑に落ちないこともある。
「じゃあなぜ私たちを殺そうとしたんです? 目撃者を殺せば元も子もないじゃないですか」
〈もちろん、文恵はそんなつもりはなかったはずや〉
「どういうことなんですか?」
〈少なくともあのガスを発生させる装置は人を殺せる状態やなかったんや。根乃井がそれを知っとったどうかは分からんが〉
「でも、芳田はもう少しで死ぬところだったんですよ」
〈運が悪かったってことやな〉
「運だって!」継人は語気を強めた。
〈まあ、そう興奮するな。鑑識が言うには、不活性ガスは部屋中を消火できる濃度まで放出し続ければ人の命はひとたまりも無いが、麻倉家の装置は人が昏睡状態になる8パーセントの濃度を超えんように放出量を抑えてあったらしい。たぶんあの部屋を使う必要が無くなったあとは、不法侵入者を捕らえる目的で設定を変更したんじゃないかっていう話や。ところが数値上は危険じゃなくても人間の反応には個人差がある。あんたの連れは、吐き気を催して嘔吐物を喉に詰まらせたまま気を失った。そのおかげで呼吸困難に陥ったんや〉
 そういうことだったのか・・・。継人は息を呑み込んだ。
気が付かなかったとはいえ、ずいぶん無茶をしたものだ。自分の身体に何の変調も無かったのは、隣の部屋のドアを開け放って汚染されていない空気が流れ込んだことで濃度が急激に下がったせいだと思っていた。
しかし、もしあの装置が本来の機能を発揮していたなら、そんなことでは済まなかったということだ。無知というのは恐ろしい。
〈勘違いしとったのはあんただけやないで。藤森真知子もあのガスであんた達2人を殺せると思っとったらしい。それが終わったらあんたの車を処分して、その足で夏美さんの身柄を引き取りに行く手筈だったそうや。ところが、あんたが反撃に転じたおかげで筋書きが狂ったと言っとる。ノートパソコンでその一部始終を見て、ヤバイと思ったんやろ。それで弟を放って逃げ出したんや〉
「じゃあ、なぜ直井高校に現われたんですか?」
〈あんたの絵や〉
「まさか・・・」藤森家で先生が『髪を噛む少女』を見るなり、スマホを居間のサイドボードに投げ捨てた姿が頭を過ぎる。
〈文恵には“美術室の窓に、あの絵が戻って来た経緯がすべて書かれた紙が貼ってあるから、すぐに行ったほうがいい。明日になると警察が来て厄介なことになるから”といわれたそうや〉
「そんな紙が貼ってあったなんて全然気が付きませんでした」
〈そりゃ無理もない。あんたとは探しとる対象が違うからな。しかし、あのオバはんにはちゃんと見えとった。罠とはうすうす気付きながらも、直井高校の3階の美術室の窓を見上げると、たしかに何かが貼り付いてるようなシルエットが浮かんでたそうや。それを見るなりカッとなって3階に駆け上がって美術室に飛び込むと、紙はたしかにそこに貼ってあったわけやが、よく見るとそれは元々そこに貼ってあった県の美術展の案内ポスターやったらしい。呆然として周りを見渡すと、あんたと夏美さんが倒れとったってわけや。そこまで来てやっと、オバはんは文恵に嵌めらとったことに気付いたらしい〉
 人を食ったような話だな、と継人は思った。ただ、自分が同じような屈辱を受けたことを考えると笑うわけにもいかない。
「藤森夫人がそこまでする理由は何だったんですか?」
〈じつはあのオバはんは、あんたの絵を有名画家並みの金額で伊吹繊維工業の先代社長に売りつけとったんや。そもそもあの絵は、あんたが卒業した後に当時担任やった旦那が学校から引き取ったらしいんやが、絵の中の少女があまりにも麻倉恵子の雰囲気に似とったんでゾッとしたと言っとる。旦那はあの絵に関しては、あんたが描いたっていうこと以外何も知らなんだそうや。ただ玄関先に飾るほどえらく気に入って、訪問客が来るたびに自慢しとったらしい。ところがこの旦那ちゅうのが、あんたも知っとるかもしれんが随分と人がよくて、教え子が金を無心してくれば貸す、保証人を頼まれればサインするっちゅう有様で、家計はいつも火の車やったらしい。田野倉守さんから“あの絵を売ってほしい”っていう連絡が入ったのはそんな時やったんや。オバはんは渡りに船とばかりに飛びついたんやが、相手は町1番の金持ちや。出来るだけふんだくってやろうと思って咲恵と相談した結果、麻倉恵子が四肢を失った状態で今も生きとることを暴露して、長年の慰謝料と治療費として強請ることにしたんや〉
「胸糞の悪くなるような話ですね」継人はハンドルをきつく握りしめた。創作への純粋な衝動が産んだ結晶が、拝金主義の卑しい闇の中に突き落とされていく。こんなことになるのなら、自分が引き取ればよかった・・・。
〈ああそれと、あんたから貰った2通の脅迫状は、オバはんが作ったもんやった。あんたが家から帰ったあと卒業者名簿をひっくり返して住所を突き止めると、筆跡がバレんようにワープロ文字で打って、自分で投函したと言っとる〉
「やはりそうでしたか」継人はうんうんと頷いた。「最初は3姉妹の誰かかと思ってましたが、母親を『彼女』と呼ぶのもおかしな話ですもんね。それに警告する側と誘い込む側が同じ人間だなんてことは有り得ませんから」
〈なるほどな〉
 短い沈黙があった。唐木の声が1オクターブ下がる。
〈じつは、その誘い込む側の人間が気になることを言っとるんや〉
「どんな?」
〈 “最後の仕上げに、アバターを殺しに行く”だそうや。どういうことか分かるか?〉
「アバターって、たしか自分の分身・・・って意味ですよね」継人は頭の中で反芻した。自分の分身を殺しに行く・・・。
〈よう知っとるな。じゃあそう聞いて、誰を連想する?〉
「夏美さんか、あるいは私ってことになるんですかね」
〈いい線やな。ちなみに高原夏美の病室の周りには念のため2人の私服組が張り付いとる。どういうわけか元旦那の田野倉氏も来とるそうや。万が一不審者が看護師に成りすますことも考えて、入室を厳しくチェックしとるらしい。でも、まだ確信は持てん。言葉の意味を読み間違えとる可能性もあるからな。もしそうやったら、危ないのはあんたの方ってことになるんやで〉
「お気遣いありがとうございます。そういうことなら、もちろん用心させてもらいます。なんせ2度も襲われた相手ですからね」
〈もし高原文恵が動いてる兆候があったら連絡してくれ。すぐに上に話して現地と連絡がとれるようにしとく。それと、くれぐれも言っとくが、ヘタに首を突っ込もうとするんやないで。2度助かったから3度目も安心とは言い切れん。最後と言っとる以上、今度は本気でくるかもしれんからな〉
 そう言うと通話は切れた。
 継人は真っ直ぐに伸びる道路の先をぼんやりと見つめた。日常との境界線はまだ先にあるらしい。自分のテリトリーだと思っていた風景は、もはやただの地続きの風景でしかなかった。
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