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 麻酔で眠ったことがある人のほとんどが“一瞬の出来事のようだった”と言うように、継人も一切眠った記憶がなかった。目を開けると、真っ白な天井と点滴がぶら下がっているのが見える。カーテンの隙間から差し込んでくる眩い光が、闇夜を照らす電気の光ではなく自然光であることに気がついて、急いで飛び起きた。
 ここは病院なのか? あれから何時間経ったんだ?
 まるで美術室から瞬間移動したみたいだった。流れる時間の中でその間の記憶だけがきれいに抜け落ちている。どうやら“眠る”ことと、“意識を失う”ことは別物らしい。
 ベッドの隣にあるキャビネットの上に、左の手首から外されている腕時計が置いてあった。9時27分。朝というには些か微妙な時間だ。
「チッ」悪態をついて時計をはめ直すと、人影が近づいているのに気がついた。
「まずはご生還おめでとうと言った方がええか?」
どら声の男が病室を仕切っているカーテンから顔を覗かせた。「悪運は続くもんやないと言ったはずやが」
「どうしてここに?」継人は唐木の服装を見て驚いた。ハンチング帽を被った、さながら山菜取りに出かける初老の小男だ。
「あんた達のおかげで勤務時間が30時間を超えたんでな。今日は非番や。まあ盆休みやゆうても何処かに行く当てもないしな。それに制服姿じゃ医者の先生も訝って面会を取り次いでくれんかもしれん。だからちょうどええわ」
「そりゃあどうも」唐木の様子が作為的なのはすぐに分かった。と同時に、別の疑念が浮かんできて血の気が引いた。「まさか、芳田が?」
「あっちは大丈夫や」唐木は鼻息をもらした。「いま隣町の市民病院におる。今朝、集中治療室から一般病棟に移ったちゅう話や」
「よかった・・・」継人はホッと胸を撫で下ろした。
「あんたはてっきりあっちに行っとるもんやと思っとったが」
「すいません」イヤミだとは分かっていたが、それより気になることがある。「でも、 “あっちは大丈夫”ってことは、“こっちは”大丈夫じゃないってことなんですか?」
「まあ、結論を急がんでくれ。根乃井のほうは容疑が固まり次第、再逮捕ってことになるやろうな。ところが直井高校のほうは不可解なことだらけなんや」
「たしか、下着姿の女性がいたはずなんですが」
「会ったんか?」
「いえ、会ったというより、見えたっていう感じですが」
 唐木は顔をしかめた。
「どういう状況なんかよう分からんが、彼女は無事やった。あんたが倒れとった隣の部屋で発見されたんや。何時間も監禁されて相当衰弱しとったみたいやが」
「彼女は高原夏美さんなんですか?」
「そうや」唐木はサラっと言った。
「ああああっ」湧き上がった感情が頭から飛び出しそうになって、継人は思わず天井を見上げた。「すいません。ちょっと、なんていうか」
「あんたと同時に此処へ運び込まれてきたんや。まあ、積もる話は彼女の意識が落ち着いたらゆっくり話せばええやろ」唐木はその手の話は苦手らしい。ベッドの隅に腰掛けて、カーテンの向こうにいる背広姿の男を招き入れた。「こんどはこっちの質問に答えて貰えんか?」
「岐阜県警刑事部捜査一課の岸本です」
 刑事・・・だったのか。継人は名刺を受け取ると、改めて本人を見返した。麻倉邸にいた、IT企業の社員のような若い男だ。肩書きは警部。唐木より2階級も上だ。見た目と物腰からすると地方に出向しているキャリアなのかもしれない。いつも職責とのギャップを指摘されることにウンザリしているのだろう。継人の視線に同じ色を感じ取ると、挨拶もそこそこにぶっきらぼうな口調で切り出した。
「なぜ、高原夏美が直井高校にいるのが分かったのですか?」
 そらきた、と継人は思った。たぶん1番最初に聞かれると思っていた質問だ。“警察にはくれぐれも内密に”という根乃井の言葉が頭を過ぎったが、彼女が本当に無事に保護されたのなら隠す必要もないだろう。ただ、彼女の名前を呼び捨てにしているのが気になる。まだ容疑者の1人ということなのだろうか? とにかくここは真実を話すしかない。
「じつは、根乃井氏がこっそり教えてくれたんです。自分が逮捕されたら夏美さんを救い出すことができない。もし監禁されている場所が警察にバレたら『姉』は彼女を殺すだろう。だから私にその役目を託したい、と」
「なるほど」
 100%の答えではないが、岸本はとりあえず頷いた。そして付け加えた。
「いま『姉』とおっしゃいましたが」
「長女の高原文恵のことじゃないんですか?」
「いや、もっとリアルな意味で」
「はぁ?」この刑事は何を言っているんだ? 継人はポカンと口を開けた。
 岸本は表情を変えなかった。
「では、藤森真知子はご存知ですか?」
「藤森って、私の知ってる藤森は直井高校の担任だった藤森先生だけですが」
「その夫人ですよ。そして今回の事件の容疑者でもある」
「ちょっと待ってください。あの奥さんが何をしたって言うんです?」思いもよらない名前だった。『髪を噛む少女』の画像を見せたことで、先生の自宅から追い返された記憶が頭をよぎる。
 岸本は事務的に続けた。「たしか、水色のワンピースを着た栗色の長い髪の女性を見たと言っておられましたよね?」
「高原咲恵さんの店の前と、ホームセンターの駐車場の2回ですが」
「顔は確認しましたか?」
「いえ。顔までは・・・」そこでピンときた。細身で、年齢の割にはスラッとした優美な佇まい。「まさか」
「それが藤森真知子だったんですよ。ウィッグというカツラで顔を巧みに隠して、あなたに3人姉妹の長女の高原文恵だと信じ込ませようとしたのかもしれません」
「でも、どうして?」
「容疑者の旧姓は根乃井真知子です。麻倉一朗の実妹の娘で、ほかに弟がひとり。あえて紹介するまでもないと思いますが、昨晩逮捕した根乃井修一です。今回の一連の事件はこの姉弟が共謀していた可能性が高いと考えています」
「あの2人が姉弟・・・」にわかには信じられず、刑事の言葉を反芻した。
「2人が麻倉家と関わるようになったのは、おそらく税理士をしていた修一が重度の痴呆を患っていた麻倉一朗の成年後見人に選出された頃からだと思われます。経営破綻した会社の後処理のことや、本人と血縁が近いことを考えれば当然の成り行きだったのかもしれません。ところがご存知のように、麻倉一朗は公には死んだはずの恵子を密かに自宅の地下に住まわせていました。腑に落ちなかったのは、修一が麻倉家に入る前の18年間、恵子の面倒を誰が看ていたかということです。一朗の妻の幸子は、恵子の葬儀後すぐに亡くなっていますからね」
「それが高原家の誰かなんですか?」
「おそらくそうでしょう。何々家といっても、正確には便宜上の擬似家族と言ったほうがいいかもしれませんがね。彼女たちは、母1人娘3人のいわゆる母子家庭でした。家族としては法律上なんの問題もありませんが、母親の高原市子は未婚で、しかも3人の娘はすべて養子だったのです。高原市子はもともと麻倉家に住み込んでいた家政婦でした。幸子夫人が急逝したあと一朗と内縁の関係になり、故郷の石積町に娘たちと暮らす一軒家まで与えられたようです。しかし一朗が亡くなり、根乃井修一が成年後見人として出入りするようになって12年後に、今度は市子も亡くなります。その後、恵子がどうなったのかは分かりません。おそらく3人娘の誰かが市子の意思を継いで、恵子の世話をしていたのでしょう。それも、それほど昔のことではありません。あなたもご覧になったと思いますが、地下にあった設備や書籍のなかには直近5年以内の物もありましたからね」
「でも、なぜ次女の咲恵さんが殺されなければならなかったのですか?」
 畳み掛けるような継人の質問に、聴取しているのはこっちのほうだと言いたげな表情で岸本は続けた。
「根乃井姉弟の2人は、高原咲恵から強請られていたと見ています。滋賀県警が根乃井から押収したパソコンと資料から不可解な金のやり取りが何度もあったことを確認しています。相手先はS。咲恵のイニシャルです。根乃井の税理士としての収入はじつはあまり芳しくはなく、真知子のほうも夫の藤森忠弥の散財が原因で、長年教師として勤め上げた退職金をあっという間に食い潰し、年金だけで慎ましく暮らしている状態でした。ところが、3女の夏美が伊吹繊維工業に入社したあたりから、麻倉家に幾度となく大金が入るようになります。それが田野倉守氏の遠い過去に対する贖罪なのか、夏美への愛情だったのかは分かりません。しかし、根乃井姉弟はその金を流用してそれぞれの自宅のリフォームや生活資金に充てていたのです。おそらくそのことを巡って高原3姉妹との間にトラブルがあったのではないかと見ています」
 継人はため息をついた。岸本の話には、まるで事件がすべて終息したような雰囲気がある。たしかに客観的な事実だけをみれば、よくある金銭トラブル絡みの殺人事件だ。そもそも警察にとって動機などさほど重要ではないのかもしれない。起きてしまった事実と向き合い、容疑者を逮捕するのが仕事なのだから。
「じゃあ藤森先生の奥さんも逮捕されたんですね」そう言いながら、継人はちょっと違和感をおぼえた。いまさら『奥さん』もないだろう。フルネームというのもしっくりこないので、どうしてもこんな言い回しになってしまう。
「たしかに逮捕はした。いとも簡単にな」唐木が言った。「まるで罠にかかった女狐みたいやった。ただ、そこがどうにも引っ掛かるんや。あまりにも間抜け過ぎてな」
「どういう状況だったんですか?」
 再び、岸本が答えた。「直井高校の防犯ベルが鳴ったのは昨晩の午前2時8分。その時あなたは3階の美術室、高原夏美は美術準備室に倒れていました。近くを巡回していた警備会社の職員がセキュリティを解除して急いで現場に向かうと、水色のワンピースを着た茶髪の女が血相を変えて階段を駆け下りてきたそうです。ウィッグはずり落ち、化粧も剥がれ落ちて、我々に身柄を渡されるまでに何度も“違う! 私じゃない!”と泣き叫んでいたそうです。高原咲恵を殺害したときの周到さと比べると、なんともお粗末な話です。ただ、そう考えると腑に落ちない点は他に幾つもあります。まず、あなたが侵入したときは全く作動しなかった警報装置が、藤森真知子が美術室に入った途端に鳴り出したのはなぜか?ということです」
岸本はそこまで言うと、わざと間を取った。継人がどんな反応をするのか見ているのだ。期待した効果がないことに気付くと、そのまま続けた。
「警備員の話によると、この日は残務処理が深夜までかかるという事前連絡があり、事務長本人には仕事が終わる際に電話連絡を入れるように指示してあったそうです。しかし、警報装置は後にセットされたものの肝心の電話はなく、警報が鳴ってからは本人との連絡も取れなくなったようです。現在、事務長の行方を追っていますが、まだ確認には至っていません」
 継人は息を呑んだ。校舎に忍び込んだとき、事務室は真っ暗で人の気配も無かった。あの女だ。あの女が絡んでいるのに違いない。
「腑に落ちない点はもう一つ」岸本は自分の首をポンポンと叩いた。「左側の首筋に手を当ててみてください」
 継人は恐る恐る手で触れると、採血のあとに貼る小さな四角の絆創膏があるのに気がついた。
「注射痕です。どんな状況で打たれたのか覚えていますか?」
 継人は絆創膏を剥がした。もちろん射たれる前のことは鮮明に覚えている。
「私が美術室で大声を上げると、隣の準備室から『彼女』が両手足を縛られた状態で転がり出てきました。部屋は電気を点けていなかったので、その衣装と雰囲気から『彼女』を夏美さんだと判断したんです。“脚が痛い”と言うので、食い込んだ縄を必死で解こうとしました。すると、私がそれに気を取られている隙に首筋に激しい痛みが走りました。ほんの一瞬のことで『彼女』が起き上がっていたことすら分かりませんでした」
「一瞬で?」
「一瞬です。反射的に抵抗することすら出来なかったくらいですから」
 岸本は唐木と顔を見合わせた。岸本はさらに続けた。
「この病院の医師の話によると、実行犯は医療関係者に違いないということです。内頸静脈に正確に薬剤を注入するには、血種ができないように注意することはもちろん穿刺する角度も重要で、かなりの技術と経験が必要とされるようです」
「しかもあんたに顔を見られんように、視線を足元に集中させたのもなかなかに賢い。まさに冷静そのものやな。髪の毛を振り乱して泣き叫ぶ藤森真知子の人物像とはまったく噛み合わん」
 唐木がそう言うと、岸本は完投寸前でリリーフに見せ場を持っていかれた先発投手のような表情になった。
「つまり、2人の『姉』が居たっていうわけですね」
 継人はそれほど驚かなかった。むしろあの女を藤森夫人と考えるほうがムリがある。いくら周りが暗くても、足首ひとつにだって年齢が出るものだ。あれは決して60歳代の女性のものではない。それにあの少女っぽい残酷さは「若さ」の証であるように思える。
「ところが、もう1人の高原文恵の所在だけがまったく謎なんや」唐木は肩をすくめた。「まるで麻倉恵子みたいに生きとる人間なんかどうかも分からん」
 そこで、岸本の携帯が鳴った。腰に手を当てて胸を突き出す様子を見るに、どうやら部下からの連絡らしい。マナーに反すると思ったのか、壁側を向いて小声で喋っている。なにか進展があったのかもしれない。やがて「分かった」と言って電話を切ると、唐木に向き直った。
「これから直井高校に向かいます。こっちのほうはもう1人付けますが、不審な人物の出入りが無いかだけ注意してください」
「分かりました」唐木は短く敬礼した。「ところで、向こうで何か見つかったんですかね?」
 岸本はうんざりした表情で言った。
「行方が分からなくなっていた直井高校の事務長が見つかったようです。校舎の屋上で、手足を拘束された状態でね」
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