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 伊吹繊維工業は、創業者・田野倉錬二郎が終戦後に興したメリヤス工場を発祥としている。バブルの崩壊や中国製の台頭によって一時は倒産の危機に陥ったが、2代目・守が海外で学んだ技術を元に業種転換。化学繊維の加工製品の製造を中心に事業を拡大し、地元を代表する企業に成長した。守の死後、3代目の克登が社長に就任し、現在に至っている。
 継人はネットで“田野倉克登”で住所と電話番号を検索すると、意外なほど簡単にヒットした。
 問題は、簡単に本人と面会できるかどうかだ。
 住所をナビにインプットすると、田野倉社長の自宅は本社工場のすぐ隣だった。工場は完全休業している様子で静寂そのものだったが、おそらく事業が停滞しているわけではなくコストダウンのためだろう。自動車業界への納入が多い企業の場合、祝日を出勤にする変わりに長期休暇を長く取る慣例に倣うというのを聞いたことがある。
 自宅周りも工場と同じように高い塀に囲まれており、あまり開放的な空間とも思えなかったが、敷地は社屋棟並みの広さだった。
 無機質なコンクリートの切れ間にいかにも堅牢そうな面格子の門扉があり、そこが表玄関への入り口らしい。その右隣にはテレビドアホンが埋め込まれている。
 継人は、その威容に思わず気後れしそうになったが、意を決してチャイムを押した。
 2回目のコールで年齢不詳の女性の声がした。
「はい、田野倉です」
「お休みのところ失礼します。栗村と申します」
「どんなご用件でしょうか?」
「直井高校に寄贈された絵のことでお話したいのですが、田野倉社長はご在宅でしょうか?」継人はストレートに用件を伝えた。相手は地元の名士だ。ヘタな小細工はすぐに見透かされる。
「少々、お待ちください」
 妙な間があった。継人はTシャツにジャケットを羽織っただけのラフな恰好に、ショルダーバックを斜め掛けしている、いかにも怪しげな風体だ。テレビカメラの映像を通して、どんな相手なのかを値踏みしているのだろう。
「あいにく田野倉は海外に視察に出掛けているようです」
 案の定だった。出張の真偽はともかく、予想していた通りの反応だ。そこで、継人はもう一言付け加えた。
「それは残念です。では社長に『髪を噛む少女』の作者が伺ったとお伝えください」そう言って、カメラのフレームから一歩下がった。
 その時だった。
「ちょっと待ってください!」
 若々しくてハリのある男性の声が呼び止めようとすると、それに呼応するかのようにカチャという音をたてて、門扉の電子ロックが解除された。
「すぐに伺いますので、車のまま玄関前の駐車場にお進みください」そう言うと、続いて左右の門扉が自動で内側に開いていった。
 継人はさすがに緊張した。昔観た外国映画で、たしか南米の麻薬王の自宅に入るまでのやり取りがこんな様子だったのを思い出す。
しかし、敷地の中に入ると印象は大きく変わった。コンクリート造のモダンな外観の邸宅の周りには派手な装飾は一切無く、8台分の駐車場と6台分のガレージがあるだけだった。空いている駐車場にSUVを駐めると、玄関から、メンズ雑誌のモデルのような40歳前後の紳士が出てきた。
「田野倉克登と申します」そう名乗って、継人に握手を求めた。「居留守を使ったことをお許しください。実は現在、特許問題で係争中でしてね。いろんな手管を使って足元をすくおうとする輩が後を絶たないものですから」
「お気になさらないでください」継人は恐縮そうに応えた。
「ありがとうございます。ところで、こちらには帰省で戻られたのですか?」
「そうです」
 継人が意外な表情をすると、田野倉は和やかに微笑んだ。
「外に出られた人は分かります。私もそうでした」そして、家屋の後ろ側を指差した。「裏庭で、社員寮の連中とバーベキューをやっています。帰省しないで此処に留まっている若い社員たちですが。よかったら、ご一緒にいかがですか?」
「ありがとうございます。折角ですが、お昼は先ほど済ませましたので」
「では、拙宅の奥でお話しましょう」そう言ってスリッパを勧めると、田野倉は家の中を先導した。
 継人は歩を進めるたびに、その威容に圧倒された。家全体がゲストルームの機能を兼ねているのだろう。シンプルななかにも空間の使い方や採光の取り入れ方にセンスを感じる。総ガラス張りの廊下を進むと、庭先で野外バーベキューに興じる8人の男女の姿が見えた。植栽の向こう側にある、母屋とほぼ同じ外観の建物が社員寮ということなのだろう。同一敷地内に貸家を建てることで固定資産税を軽減する、合理的なやり方だ。
 継人は海外の要人を呼べそうなくらいの広い客間を見渡すと、中央のソファーに掛けるように勧められた。
「私の他には母が住んでおりますが、介護状態なので、ほとんど独り暮らしのようなものです」田野倉は、マホガニーに彫刻をあしらった年代もののバーカウンターでコーヒーの豆を挽いている。「コーヒーはブラックですか?」
「はい。いえ、お構いなく」継人は田野倉の手つきに思わず見入った。まるでずっと独身を貫いてきたように、全く生活感が感じられない。
 どうやら先ほどのインターホンの女性は後妻ではなく、中庭にいる女性社員のひとりということなのだろう。
 田野倉は、グラスポットに抽出されたコーヒーをカップに注ぐと、顔を上げた。
「あの作品の作者は、てっきりエキセントリックな方なのかと思っていました」
「至って普通のサラリーマンです」継人は自嘲気味に答えた。
「ハッハッハッ。冗談です。気を悪くしないでください。私は芸術のことは全く分かりません。父はすごく熱心でしたが」
田野倉は笑いながらテーブルの上にコーヒーを2つ置くと、アームチェアにゆっくりと腰掛けた。「父は世界各地を20年間駆け回って、絵画や骨董品を集めたようです。ところが亡くなってから鑑定士の方に遺品の鑑定をお願いしたところ、なんと9割以上がニセモノだったのです。お恥ずかしい話ですが」
「これだけのお屋敷なのに1枚の絵画も置物も飾っておられないのは、そういう意味だったのですね」
「よくお気付きになりましたね」田野倉は微笑んだ。「とはいえ、この私も全く収集に興味が無いわけではありません。道具として造られたものの機能美に強く惹かれます。性能はウソを付きませんからね。例えば、腕時計や自動車、そして調理器具」そう言って、コーヒーを一口啜った。「いかがです?」
「美味しいです」継人は思わず目を剥いた。お世辞ではなかった。田野倉の淹れたコーヒーは専門店並みだった。
「話が逸れましたが、ウチの会社は父の趣味の延長で、20年近く県の美術展に協賛しています。そこである年、父は高校生の部に出展された1枚の絵に魅入られました」
「それが私の絵だった訳ですね」
「そうです。ところが、どうしても腑に落ちないことがあるんです。父が今までに購入してきたニセモノは、すべて有名な芸術家の贋作でした。そのほとんどは、作品そのものに惹かれたのではなく、作者の名前だけに惹かれたのだろうと鑑定士の方は仰っていました。例えば、父にとっては『ひまわり』という名画がどんな作品かは大して重要ではなく“ゴッホが描いた”ことだけが重要だということです」
 ここで、田野倉は姿勢を正した。
「ひとつお伺いしたい事があります。鑑定が終わったすべての作品のなかで、元の作者の名前が分からなかったのは、あなたが描いたあの1枚だけでした。しかも父はあなたの絵をとりわけ大事にしていた。これはどういう意味だと思われますか?」
 いきなり核心か・・・。継人は頭の中で順番を組み替えた。物怖じする理由はない。準備は出来ていた。
「お父様は、あの絵に“ある記憶”を呼び起こされたからだと思います」
 継人が淡々と答えると、田野倉は目を輝かせた。
「それはどんな?」
 継人はその表情を読もうとしたが、少なくとも“はったり”では無さそうだった。田野倉は、この息子は、父親から何も聞かされていないのだ。
 継人はもう一歩踏み込むことにした。
「お父様と私の父とは、同じ学年の幼馴染みでした。ただの幼馴染みではありません。2人とも重大な秘密を共有していたのです」
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