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 家に戻ってしばらくして、親子水入らずの夕食となった。
 母はあらかじめ千賀子の家族4人の分まで作っていたので、テーブルの料理は3分の1も無くならない。大食漢の千賀子の夫がいないのは大きかった。
 それでも継人は、ふたりとお互いの近況を語り合い、時折りテレビのバラエティーに目を遣りながら、千賀子の買ってきた500MLのビールを4缶空けた。
 もっとアルコールが欲しい。とにかく正体が無くなるまで飲んで、いま頭の中にあるものをすべて洗い流してしまいたい、と思った。
 藤森先生の狼狽ぶりに、自分の絵を所有していた会社社長の不可解な死。芳田の突然の変節。そして高原夏美と『髪を噛む少女』を結ぶ線上に浮かんできた自分と芳田の父親の存在。
「あんた、今日ちょっとおかしいで」千賀子は、座ったままウトウトと寝入っている母を横目で見ながら言った。「芙美さんとうまくいってないの?」
「そんなことない。ただもう10年も長野におるやろ。なんかこのままズルズル行くんかなと思うと、ちょっとな」
「そんなん、会社の人に、こっちに近い支店に移動させて貰えるように言えばええやないの」
「それじゃ、この町を出た意味ないやろ。それに芙美も1人っ子や。絶対一緒に付いて来んと思うわ」
「大体、そういうことは結婚するまえにちゃんと話しとくもんやないの?」千賀子はそこまで言ったが、今さらと思ったのか、首を振った。「でも、そういうご縁だったってことなんやね」
「姉貴はよく馴染んでるみたいやないか。言葉もあっちの方言になっとるし」
「わたしだって最初はイヤやったんやで。岐阜の中心部より名古屋のほうがずっと近いもんで、みんな見栄張って名古屋市民みたいなつもりでおるようなとこやし。山に囲まれてイノシシがしょっちゅう出るっていうのに」
「それもご縁ってことか」
「そういうことやな」
 継人は今日はじめて笑った。アルコールの手助けもあったのかもしれないが、ほんの少し気分が楽になった。こういう時間も悪くない。2日間のモヤモヤもしばし小休止だ。
 でも、相変わらずすっきりしないのは父のことだ。大学に入ってからずっと家を離れていたせいで、盆暮れ以外は顔を合わせることさえなかった。そもそも今までの生涯を通じて、ちゃんと話した記憶さえない。
「親父の子供の頃ってどんな感じやったんかな?」
「それや」千賀子が身を乗り出した。「さっきから不思議に思っとったんやけど、お父さんって昔から無口な人やったやろ。けど、お母さんには子供の頃のことまで話しとったんやな、と思って」
「誰にも言うたらあかんで」母が突然、話に割って入った。
「なんや、起きとったの?」
 千賀子も継人もビックリして母を見やった。母は座りなおして、ゆっくりと話し始めた。
「お父さんが生きとるうちは絶対言わんとこと思っとったんやけど、そろそろええやろ。じつは、あの人とお見合いして結婚することに決まったとき、あの人“ぼくは人を殺したことがあります。それでも結婚しますか?”って言うたんや。わたしはてっきり都合のいい断り文句やと思って、“ぜんぜん、関係ないです”って笑い飛ばしたった」
「本当なん?それ」千賀子が信じかねて訊いた。
「よくよく聞いたら、小学校の頃の話やて。近くで恐れられとった大きな野良犬を3人で退治しよういう話になって、落とし穴を掘って待ち構えとったら、その野良犬と一緒に担任の先生まで落っこちたらしいわ」
「それで先生も亡くなったん?」千賀子は思わず顔を歪めた。
「竹槍を何十本も敷き詰めとったっていう話やから、一溜まりもなかったんちゃうか。もともと先生を巻き込もうと思うとったわけやないし、3人ともまだ小学生やったから、お咎めはなしっていうことになったらしいけど。でも、あの人は“人を殺したっていう罪は一生背負っていかなあかん”って言うとった」
 継人は5缶目のビールには手を付けずに腕を組んだ。千賀子は手で涙を拭っている。
 寡黙で真面目だった父がどんな思いで生きてきたのか、そう考えると胸が詰まりそうになった。誰にも愚痴を言わず、その代わり、時折り浴びるように酒を飲んで死期を縮めた裏にはいつも贖罪の気持ちとの葛藤があったのかもしれない。
それを受け止めて支えてきた母もまた、誰にも打ち明けることなく“その後”の人生を生きてきたのだ。きっと、どんなに誘っても母は父の元を離れることはないだろう、継人はそう思った。
「じゃあ、わたしは寝るで」母がテーブルを片付け始めると、千賀子が「わたしがやるから、ええわ」と言って、束の間の団欒はお開きになった。
 2人に「おやすみ」と言ったあと、継人は客間に敷かれた布団の中に入ったが、すぐに寝付けなかった。
 小さい頃、仰向けに寝たまま天井を見ると、板張りの木目模様が魔物や亡霊の姿に変わっていくように見えて、恐怖のあまり眠れないことがよくあった。なにやら今夜はそれに近いものを感じる。
 それも、よく考えれば簡単な理屈だ。脳は目で見たものを画像処理するだけのものではない。目に映ったものに解釈を与えるものだ。だから、恐怖や不安の感情が像を歪めることがある。もちろん、子供の頃はそんなことは知りもしなかった。
 では、今の感情は何なのだろう。白い無地の壁紙に覆われた新築の天井には、今まさに1つのチャートが浮かんでいる。
 いままで何の関係もなかった高原夏美と継人の父とのあいだに『髪を噛む少女』の絵が横たわっている図だ。
 しばらく見つめていると、やがて真ん中の絵が自分自身の姿に変わっていく。
 継人は、その光景を夢の中で描いたのかどうかも分からないまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
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