7 / 19
Another Of The Candidates
しおりを挟む2ヶ月ぶりに寮の部屋へ入って一応の緊迫感は薄れた。 唯一の出入口さえきちんと警備されていれば、ここには外部から侵入する方法はない。
まだ午前7時。 5時前に御園生邸を出発したが、昨夜は二人ともほとんど眠ってはいない。 ここのところ様々な事に過敏に反応する武は、かなり精神的に疲労しているように見えた。
「武、目の下に隈が出来ています。 昼食まで横になりなさい。 ほとんど眠っていないのですから」
少しでも休ませたい。 そう思って言うと振り返った武は不満げに答えた。
「夕麿だって眠ってないだろ」
「わかりました。 私も休みますから」
一緒に…と言うと武は渋々納得した。 だがこのままでは眠らないだろう。 夕麿は警護官たちに飲み物の場所を教え、武を半ば強制的に寝室へ連れて行った。
「ねぇ、夕麿。 何で俺の服、脱がせるわけ?」
武をベッドに座らせて、着ている服を手早く脱がしてしまう。
「服のままだと寝苦しいでしょう?」
「いや、だからって全部脱ぐ必要はないんじゃ…」
手っ取り早く眠らせるには一番な方法を、少し卑怯ではあるが使う事にした。
「煩い口は塞いでしまいますよ?」
人差し指で唇を撫でると感じたのか、潤んだ瞳で見上げて来た。 安心させるように微笑んで、自らも衣類を脱ぎ捨てて、武をベッドに押し倒した。
「あのさ…休む…とか、言ってなかったっけ?」
「何か不満でもあるのですか?」
「いや…ないけど…ン…」
戸惑って問い掛けるのを、口付けで塞さいで黙らせた。
「ン…ンふ…あン…」
口腔内を舐めまわし舌を吸って感じさせ、武から抵抗する力を奪った。
「眠れるようにシてあげますからね」
耳元に熱く囁く。
「それ本当に俺の為? 単に夕麿がシたいだけなんじゃないの?」
クスクス笑う顔がもう既に欲情に染まっていた。 夕麿も破顔する。
「ひょっとして、このベッド見てその気になったわけ?」
「いけませんか?」
「悪くはないけど…あッ…ヤ…夕麿…」
耳朶を甘噛みして舌先を入れると、小さく仰け反って声をあげる。 恐怖も不安も忘れて今は快楽に溺れさせたい。 いつものように焦らせるのはやめて、ストレートに武が感じる場所だけに触れる。 耐え切れなくなった身体を一気に貫いて、最も感じる部分を突いてイかせると案の定、武は余韻の中で微睡み始めた。
「夕麿ァ…好き…」
「ふふ、武、可愛い」
髪を撫でると気持ちが良いのか、武は微睡みながら舌足らずな返事をした。
「夕麿…眠い…」
「眠りなさい、武…」
「ん…おやすみ…」
抱き寄せて髪を撫でると、すぐに穏やかな寝息で眠ってしまった。 そのまま武が熟睡仕切るまで待って身を起こした。 後始末をして武にシーツを掛けて、先程脱ぎ捨てた衣類を身に着けた。熟睡した武は滅多な事では目を醒まさないが注意してそっと寝室から出た。
階下のリビングへ降りて行く。 すると既に都市警察の警官と、仕立ての良い高級スーツに身を包んだ、30代半ばと思われる男が立ち上がった。
「初めて御目もじ致します、夕麿さま。 皇宮警察所属の成瀬 雫と申します」
「成瀬…? ああ、あなたは切れ者だったと名高い、66代目の高等部生徒会長」
「さすがは在校中から伝説になると言われた、81代目生徒会長。 もしかして歴代の会長を記憶されています?」
「もちろん。 在校中の写真と名前と出自、功績は全部記憶しています」
「さすがですね?」
「いえ、たまたま昨年度、資料や記録のデータベース化を行いましたので、その時がきっかけになっただけです」
二人の応酬に居合わせた警護官も警官たちも唖然としていた。
「どうぞお座りになってください。 今、お茶を淹れます」
成瀬 雫は元生徒会長でも、出自は夕麿よりやや低い。 しかも夕麿は武の伴侶という事で身分は上がっている。 それを理解した上で、成瀬 雫は夕麿に正面からぶつかって来た。 彼も夕麿や武のデータは与えられている筈。 これは夕麿がデータ通りかどうかを、確認したと考えられた。
夕麿はキッチンに立ち、湯を沸かし始めた。 我に返った警護官たちが慌てる。 遥かに上の身分である夕麿が、彼らにお茶を淹れようとしているのだ。 それを夕麿は笑いながら制した。
全員に配ると自分も座った。
「あなたは休まれなくてもよろしいのですか?」
「一晩くらいの徹夜でどうにかなる程、柔な身体はしておりません。 ただ武さまはあまりお丈夫ではあらせられませんので、少々策を弄して御眠りいただいただけです」
そう言って夕麿は寝室を見上げた。
「それで、どちらが狙われた可能性が高いのかわかったのですか?」
「確率と可能性ですが…矢の刺さった場所、お二人の立ち位置、身長…そういったものから計算いたしますと…致命傷を与えるのが目的だと判断した場合、狙われたのは夕麿さまだと思われます。
武さまがお気付きにならなければ、矢は恐らくあなたの心臓を貫いていたと判断いたしました」
「そうでしょうね。どんな理由があっても、皇家の男系血統の血を流させるのは、通常は厭い忌避する筈でしょうから」
武の感覚を信用していたが、こうして言われると動揺してしまう。自分の生命を脅かされて、恐怖を感じない人間などいない。夕麿は大人びて落ち着いた立ち振る舞いをしていても、未だ18歳になったばかりなのだ。ましてや武の身すら危険にさらした。
「学院内は安全…と考えたいのですが、保証はどこにもありません。そこでお願いがあります」
「何でしょう?」
「学院内でも再び襲撃があり、それがあなたを狙ったと判断されましたならば、申し訳ございませんが…武さまと夕麿さまを別々にさせていただきます」
切れ者と呼ばれただけの男だと夕麿は思った。お願い…と言いながら有無を言わせぬ物言いだった。
「それは私も考えていました。武さまを危険にさらす気は毛頭ありません」
自分が生命を失うよりも、武に危害が及ぶ方が恐ろしかった。
「ありがとうございます。警護の計画がたてやすくなりました」
「私の方からもお願いがあります」
「何でしょう?」
「今の話は実際にその状態になるまで、武さまにはお話しにならないでください」
「何故でしょうか?」
「武さまが反対されるからです」
武は間違いなく猛反対するだろう。
「わかりました」
冷ややかな眼差しを見据えながら夕麿は頷いた。
武の誕生日まで2週間余り。
高等部々長はこれ幸いとばかりに、夕麿に特待生クラスの特別講義を依頼して来た。引き受ける代わりに音楽室のピアノを自由に使わせてもらう事になった。
講義は日に1~3時限程。武や生徒会執行部メンバーと食事する以外の授業時間はずっと、音楽室でピアノに向かい続けていた。そうでもしなければ、恐怖と焦りとぶつける場所のない怒りに、押し潰されてしまいそうだった。音楽室のピアノ楽譜を片っ端に弾いてみたり同じ曲を弾き続けたり。 ただ時間を忘れて鍵盤を叩き続けた。
「今日は何を弾いたの?」
生徒会室へ向かう前に、武が夕麿を音楽室に迎えに来た。
「ベートーベンの『月光』を」
「あれ、ショパンじゃないんだ?」
「そういう気分だったので」
「ふうん」
警護官たちに囲まれた武と夕麿の後を、下河辺たち執行部メンバーが続く。 物々しい光景だが武は、普通に学院での生活を続ける事を望んだ。
夕麿は彼を出来れば寮の特別室に閉じ込めて起きたかった。 それが一番安全だったからだ。 しかし、学祭の企画が始まるこの時期から、生徒会は多忙になって行く。 生徒会長としての仕事を投げ出せないと言う、武の気持ちは他ならぬ夕麿には理解出来る事であった。
だがこの日、空は夕方から曇り始め、余り歓迎出来ない状態になりつつあった。夕麿は今年の梅雨を投薬された薬の力を借りて乗り切った。 確かに以前よりは降雨時のパニック発作は、緩和されているように思える。 だが発作が起こらない…という保証はどこにもない。 こんな精神状態では、不安の方が多かった。
武も窓越しに仕切りに空模様を気にしている。
薬は所持している。 だがその時に襲撃を受けたら…不安は大きい。 もし襲撃者が夕麿の病を知っていたら、間違いなく利用するだろう。 パニック発作中の自分がどうなってしまうのか…過呼吸の時以外の記憶がいつも朧気でわからない。
「…ッ!?」
不意に武が立ち止まった次の瞬間、夕麿は突き飛ばされていた。 武が覆い被さって来た途端、窓硝子が大音響と共に飛散した。
警護官たちは一瞬間に合わなかった。
セキュリティーが反応、校舎に警報が鳴り響く中で、夕麿は足元に転がる鉄球と思しき物を発見して言葉を無くした。 窓の硝子を割って飛び込んで来たのは恐らくこれだろう。 頭部に直撃していたら生命が危険にさらされていたのは確かだ。
「お怪我は…武さま!?」
安全を確認しようと警護官の一人にかけられた声に夕麿は我に返った。
「痛ッ…」
「武!?」
夕麿の身体の上で武が苦痛に呻いた。 見ると武の左上腕に硝子の大きな破片が複数突き刺さり、一つが腕を突き抜けていた。 白い制服の袖がみるみるうちに鮮血に紅に染まっていく。
武を抱きかかえるようにして身を起こすと、彼はふらふらと立ち上がった。 後方にいた生徒会執行部のメンバーが、硝子の破片を落としながら身を起こすのを見て武は声をかけた。
「みんな…大丈夫?」
彼らは声をかけられて振り返り蒼白になった。 武は立ち上がって自分を抱き締めている夕麿に言った。
「夕麿…怪我は…?」
「ありません、どうしてあなたは…」
その傷を置いて夕麿を気遣うのか。
「当たり前だろ?お前だって、よく俺を庇うじゃないか」
痛みに歪んだ笑顔で言う。左腕を押さえた血塗れの右手で、夕麿の頬の傷から流れる血を拭った。
「また、顔に傷付けて…母さんが泣くぞ、夕麿の顔、好きなんだから」
夕麿は涙が溢れそうになった。そこへ成瀬 雫が駆け付けて来た。彼は武の怪我を見て蒼白になった。
「一体、何をしていた!?」
雫が叫ぶ中、行長が冷静に校医に電話をかけていた。
「成瀬さん、今のはこの人たちは悪くないよ!」
「武さま、お庇いくださりますのは、この者たちの為にはなりません」
雫の言う事はもっともではある。だがこの場合、武がいなければ大理石の床に転がっている鉄球は、間違いなく夕麿を直撃していた筈だ。
「そうじゃない」
武が叫ぶ。夕麿は武の言葉を補う為に口を開いた。
「成瀬さん、今のは武だけが気付けたのです。
また感じたのでしょう、武?」
「うん…今のは痛いくらい感じた」
相手の殺意のようなものを、武はその持てる能力で感じ取ったのだろう。 それは合気道の訓練を積んで、より一層強化されつつあった。
そこへ知らせを受けた、校医が駆け付けて来た。 武の腕を診て蒼白になる。
「これは…病院の方へ、破片は切開しなければ抜けません」
止血もままならぬ状態だった。
「車、来ました!」
都市警察の警官が階下から叫んだ。
「武さま、病院へお連れいたします」
雫の言葉に武は眉を吊り上げて答えた。
「夕麿も一緒だ。 じゃないと俺は行かない!」
「武、行ってください!」
早く治療しなければ……夕麿は焦った。
「ダメだ、夕麿。 俺から離れるな」
だが武は怪我など気にしてはいなかった。 夕麿は武が自分を気にするのに耐えられなかった。
「行けません!」
もう武の側にはいられない、いてはならない。
「これ以上…あなたの傍に私はいるわけには…」
もうこの身はどうなっても良い。武にこれ以上危害が及ぶならば生命などいらない。
「じゃ、俺も行かない。 こんな破片、引っこ抜けばいいんだ!」
本当に引き抜いてしまいそうな勢いに、慌てて制止したのは校医だった。
「いけません! 無闇にそんな事を為されば神経を傷付けたり、不要に血管を傷付けて出血が止まらなくなる可能性があります!」
そうでなくても出血は酷く、制服が吸収仕切れなくなった鮮血が、指先や袖口から滴り落ちて床を染め始めていた。
「武、早く車へ!」
夕麿の心を恐怖が満たす。
「俺から離れないって約束して、夕麿が一緒に来るなら。 それとも命令して欲しいわけ?」
自らが傷付きながらも愛する人を狙う存在に対して、武の全身からは怒りの炎が立ち昇っているように夕麿には見えた。どうすれば何を言えば行ってくれるのか。武から離れなければならない。夕麿はその想いで一杯になっていた。
「夕麿さま、ご一緒に行ってください!」
行長が叫んだ。 夕麿はその声に我に返った。 そうだ、言い争っている場合じゃない。 第一こういう事を言う時は武は頑固で絶対に引き下がらない。それは誰よりも知っている筈だった。 どうするかは後でも話し合える。 夕麿はどれほど自分が冷静さを失っていたのかを自覚した。
「わかりました。 行きましょう」
ここはもう折れるしかなかった。 武を抱き上げて、警護官たちに囲まれるように階段を降り始めた。 エレベーターは危険で使えない。 襲撃者がどこに潜んでいるのかわからない為、密室であるエレベーターは危険なのだ。
到着した大学病院では連絡を受けて既に準備を整えて待ち構えていた。
周も待機している。
武は手術室へと運び込まれた。 だがすぐに看護師が血相を変えて手術室から飛び出して来た。
「どなたか血液型が同じ方はいらっしゃいませんか!?」
皇家の人間の血液型は安易に口に出せない為、看護師も困りながら叫んだ。
「私が同じ血液型です。 私の血を使ってください」
「あなたお一人では足らない可能性があります。 午後の手術でストックを使ってしまったのです」
聞けば都市部で階段から落ちた人間がおり、折れた大腿骨の手術に大量に血液を使ったという。その言葉を聞いて夕麿は周に耳打ちした。
「それが武さまの血液型です、周さん」
「わかった、心当たりに連絡してすぐに呼び集める」
「お願いします」
夕麿は看護師に付いて、手術室の控え室へと入って行った。 硝子越しに武の手術が窺えた。
「今、人を集めてもらっていますが、間に合うかどうかわかりません。 私の血を全部使ってくれてもかまいません。武さまを助けてください」
「わかりました。 ギリギリまで採血させていただきます。 酷い出血をされています。 破片が太い動脈を傷付けているのです。
現在、止血に全力を注いでいます」
本来は輸血用採血は、点滴の逆のような形でゆっくり行う。 だがそれでは間に合わなかった。 医師は大型の注射器を用いて、危険ギリギリまで夕麿の身体から血液を抜いた。 それを輸血パックに注入して手術室へと飛び込む。 通常行われる血液の適合を調べるのも、手術室内で慌ただしく行われた。
武の手術の様子を見ようとして身を起こそうとうするが、うまく身体に力が入らない。
「動かれてはいけません」
看護師が慌てて制止する。 そこへ周が戻って来て看護師から、話を聞いて驚きの表情を浮かべた。
「無茶な事を…」
「周さん、手術の状態は?」
患部から吸い出された血液が、容器の中に大量に溜まっている。 それでも止血には成功したようだ。
「安心しろ、出血は止まった。 大量失血によるショックも起きていない。
武さまは頑張られたぞ?」
「…良かった…」
安堵感に包まれた途端、眠気が襲って来た。
「心配するな…ゆっくり…」
周の声を聞きながら、夕麿は深い眠りに包まれた。
目覚めたのは武の病室の付き添い用ベッドの上だった。
「気が付いたか?」
周が覗き込んで来た。
「周さん…武は…?」
問い掛けると周は移動して、彼の背後のベッドを見せてくれた。 武はベッドの上で鼻から酸素吸入を受けながら静かに眠っていた。 右腕から未だ輸血が続いている。
「輸血もお前が提供した分で何とかなりそうだ。 もっとも病院側はこれ幸いと、僕が呼んだ学生たちからたっぷり採血してたけどな。
破片は極微小なものも全て除去された。 神経の損傷も見られなかった」
「良かった…」
ホッと胸を撫でおろすと、周が紙パックの牛乳を差し出した。
「取り敢えず飲め。 朝食までまだ時間がある。 夕食も摂ってないだろう?」
「今…何時ですか?」
「午前5時を少し過ぎた。 お前の時計ならそこの台の上だ。 見た事のないデザインだが、オーダーメイドか?」
「武さまのバレンタインのプレゼントです」
夕麿は手を伸ばして時計を手に取り、その裏面を周に見せた。
「へえ…良い趣味だな。 お前に相応しい」
「そう言っていただけると、嬉しいですね。武さまも喜ばれますよ?」
腕時計を愛しげに見つめて左手首に着ける。
「本当にお前は変わったな」
柔らかで穏やかな笑顔をする夕麿を、周は幾分、羨ましいと思った。 そこへ看護師が入って来た。
「ああ、僕がする」
全身麻酔の場合、昏睡を防ぎ覚醒を促す為に、一定の時間経過後に声掛けをして反応を見る。
「武さま…武さま…聞こえますか…?」
周の呼ひ掛けに武は、うっすらと目を開けた。
「ん…周…さん…?」
夕麿も起き上がって武を覗き込んだ。 武は無意識に起き上がろうとする。 それを周が右肩を押さえ阻んだ。
「武、動いてはダメです」
夕麿が声を掛けると安心したように武が微笑んだ。
「夕麿…俺から離れるな…」
半分寝言のように呟くと武はまた瞼を閉じた。
「周さん…」
「大丈夫だ、これが正常な反応だ。
体力がある場合、既に覚醒する場合もあるが武さまは無理だ」
夕麿は周の言葉に安堵の溜息を吐いた。
「お前…心配性だと言われないか?」
苦笑混じりに周が言う。
「…義勝に言われます…」
気に入らない…と言いたげな顔と口調で夕麿が答えた。
二人が会話を交わしている間に、看護師が武の脈拍と体温をチェックした。
次いで夕麿を診ようとする彼を止めて脈拍と体温は周が診た。 看護師よりはまだ夕麿の嫌悪感が少ないと判断しての行動だった。 看護師からカルテを受け取って書き込み、周は彼に下がるように告げた。
看護師が退出した後、夕麿に言った。
「大丈夫か? 彼よりは僕が触れる方が良いと思ったんだけど?」
「ええ、ありがとうございます。 自分でも面倒だとは思うのですが…」
害意のない相手まで拒否してしまう。 今のところ触れられて、どのような精神状態の時にも大丈夫なのは、武だけしかいない。
「慌てなくて良い。 清方さんの話だと、少しずつ良くなってるそうじゃないか? そのうち何ともなくなるさ」
夕麿は周の言葉に小さく頷いた。
朝食の時間になり周はもう一度武に声を掛けた。 今度は武ははっきりと目を覚ました。 夕麿はベッドから起きて武のベッドに座りまだ白い頬を撫でた。
「気分はどうですか、武?」
「お腹空いた」
「朝食が来てはいますが、余りあなたの希望に添えるとは言えないかもしれません」
麻酔の後…という事で、栄養価の高い飲み物の紙パックが、二種類用意されているだけだった。 片方は武の好物のオレンジ・ジュースだったがもう一方は豆乳だった。 武は散々迷った挙げ句に、先に豆乳を選んだ。
「うぇ~不味い…俺、この味ダメだ…」
「そうですか? 私はこれはこれで美味しいと思いますが…」
一口飲んで手に紙パックを返されたのを試しに飲んで答えた。
「はあ? 夕麿、絶対、味覚がおかしい!」
抗議する武に笑いながら、もう一度差し出した。
「薬だと思ってちゃんと飲んでください」
「ヤダ」
「ほら、わがまま言わないで飲みなさい、武」
「いらない」
この甘々なやり取りに耐えかねた周が部屋から逃げ出した。
「絶対に飲まないからな!」
「わかりました、飲ませてあげます」
夕麿は豆乳を口に含んで武の顎を捉え、無理やりに口移しで飲ませた。
「ん…んぐ…何すんだよ!」
口を拭いながら睨み付ける武に夕麿は嫣然と笑った。
「これなら美味しくなったでしょう?」
「なるわけないだろ!」
「それは…おかしいですね。 もう一度試してみますか?」
「な、バカ言うな! 飲めば良いんだろ! 貸せよ!」
真っ赤になって手を差し出す姿が可愛い。 怪我と大量失血のダメージは少ないようだった。
武は一気に豆乳を飲み干して、口直しとばかりにオレンジ・ジュースを飲んだ。
「どっちも飲んだぞ!」
「良く出来ました」
笑顔で頭を撫でると、武は嬉しそうに微笑んだ。
「さあ、また眠ってください」
「うん。 夕麿、どこかに行くなよ?」
「ええ、ちゃんといますよ」
「うん」
右手首にはズレたりしないように、太い点滴針が刺さっていて、未だに薬剤が投与されている。 動かせるようになってはいるが、細い手首には痛々しい。
夕麿は武が眠るまで、頭を撫で続けた。
だが午後、武と口論になってしまった。 夕麿が病室を移る話をしたからだ。
「ダメだ、俺から離れるな」
反対する武の言葉は鋭かった。
「狙われているのは私です。 私が離れればあなたにまで、害が及ぶ事はなくなります」
「怪我くらいどうって事ない。 夕麿が一人になったら、今度こそ危ない。 こんな中途半端な攻撃を仕掛けて来るのは、俺から夕麿を離して一人にさせる為の筈だ。
向こうの思う壷にはまってどうするんだ!」
ベッドの上で拳を握り締めて武は叫ぶ。 傷に障らないかと、半ばオロオロしながら夕麿は反論する。
「それでも私はあなたにこれ以上、傷付いて欲しくないのです!」
「じゃあ聞く、逆の立場なら夕麿はどうする? 自分が一番早く危険を察知出来るんだぞ? それでも俺が離れるのをお前は、許す事が出来るか!?」
「それは…」
武の言葉に一度返事に詰まるが、すぐに武を睨み返して言った。
「ではあなたはどうなのです、武? あなたが私の立場ならば、やはり側にいる事の危険性がわかる筈です!」
「わかるから言ってるんだ! こんな…こんな理不尽な理由で、大事な夕麿を奪われてたまるか! 俺は死ぬつもりなんかない! 俺の知らない所で決められる事も知らない! 夕麿は俺のものだ! 俺の夕麿を勝手にどうこうしようなんてのを、黙って許しておけるか!」
「武…」
常にない激しさだった。同時に紡がれた言葉に込められた愛情を感じて、夕麿の心はこの様な場合であるにもかかわらず歓喜に震えた。
「絶対に俺の側にいろ、夕麿。お前が俺から離れるという事は、相手に負けるのと同じだ。屈してたまるか…俺は決めたんだ。自分の背負わなきゃならないものは拒否しないって」
ベッドは昼食の為に上半身側を上げてあり、武は半ば座った状態だった。一度目を伏せて顔を上げた時、武の顔は躊躇いのない真っ直ぐな眼差しをしていた。そんな眼差しで付き添い用ベッドに座る夕麿を真っ直ぐに見据えて言った。
「夕麿は俺が守る」
「あなたという方は…」
胸がいっぱいで夕麿は立ち上がって武の手を握り締める事しか出来なかった。
「わかりました、我が君。あなたの仰せのままに従います」
「うん。泣くなよ…あ、夕麿、いつ退院出来る?帰らなきゃ…」
何でもないように武が言った言葉に、夕麿は驚いて声を上げた。
「手術したのです、武。大量の輸血もしました。それなのに退院するなんてとんでもない!」
そんな事をしたら大変な事になると夕麿は蒼褪めた。
「帰らなきゃ…みんな心配してる。夕麿だって帰ったじゃないか。 すぐに手続きして、夕麿」
確かに高等部がパニックになっている可能性は高い。 行長たちが頑張っているだろうが、二人で帰る事が一番効果があるのは、他ならぬ夕麿が一番知っている。
「武、私の時とは傷の状態が違います。 思いとどまってください」
あの時の自分の行動が、こんな形で跳ね返って来るとは思わなかった。
戸惑っていると病室のドアがノックされた。
「はい」
返事をして開けると周と雫が入って来た。
「周さん、ちょうどお願いしようと思ってたんだ」
武の言葉に夕麿は慌てて制止しようと叫んだ。
「武、ダメです!」
「退院したいんだけど?」
だが武はそれに構わずに言う。
「武!」
身を翻して駆け寄ろとした瞬間、激しい眩暈に身体のバランスが保てなくてよろめいた。 側にいた周が慌てて受け止めてくれた。
「急に動くな、夕麿!寝ていろと言った筈だ!」
叱り付けられベッドに座らされた。 呼吸が乱れて視界が霞んだ。 血液が不足気味な故の貧血だった。
「周さん…夕麿、やっぱりどこか、怪我してるの?」
武の表情が強張った。
「怪我は頬の切り傷だけです、武さま。 夕麿はあなたを助ける為に、限界ギリギリまで輸血用に採血したのです。 今は極度の貧血状態で、動き回るのは無理です」
黙っていて欲しいのに周が話してしまう。 口止めをして置けば良かったと後悔した。
「そんな…」
「皇家の方の血液型は極力、外部に漏らす事を防がなくてはなりません。 しかし、昨日の午後に行われた手術で、同型のストックを使い果たしていました。
夕麿は自ら申し出たのです」
「周さん、やめてください。 私は当然の事をしたまで。 同じ立場ならば誰もが皆、同じ事をするでしょう? たまたま、私が武と同じ型だっただけです」
夕麿は周に促されてベッドに横になりながら静かにそう答えた。
「ごめん…夕麿」
武の顔が翳る。 そんな顔を見たくなかったから黙っていたのに。
「謝らないでください。 周さん、武が先程から退院すると言っています。 無理だと言っているのに…説得してくださいませんか?」
「説得も何も…武さま、夕麿をお側から離れさせたくないとお想いならば、おとなしく入院なさっていてください。 今は夕麿を動かせません。 あなただけの問題ではございません」
周は当然のように答えた。
「その事ですが…」
雫が武に向いて、険しい顔で口を開いた。 何故か反発する気持ちを持ってしまうが、彼なら武を納得させてくれるかもしれない。
「今後、武さまと夕麿さまには別々に行動をしていただきます」
既に決定事項として武に報告するような口調だった。
「断る!」
武の声が鋭く響き夕麿は息を呑んだ。
「たった今、夕麿にも言ったばかりだ。 相手の今の目的が、夕麿を俺から離す事だというのが明白なのに、それに乗ってどうするんだ、あなたは?」
武は雫を睨むように見上げた。
「それでもあなたがこれ以上のお怪我をなさるのは、防がなくてはなりません。 私はその為にこちらに派遣されております」
雫は譲らない。 それは当然の事だろう。 自分が彼の立場でも、同じ判断をするしそのように答える。 武の気持ちは嬉しい。 他の事ならば喜んで従う。だが今、狙われているのは夕麿なのだ。
「だったら帰ってください。 俺と夕麿、一緒に守れない人は必要ありません」
きっぱりと言い切った武は強い光が放たれていて、思わず3人は怯んで後ずさった。いつの間にこんな事が出来るようになったのだろう? 夕麿は自分が知らない武の顔に目を見張った。
「俺を守りたいなら、一緒に夕麿も守ってください。 夕麿に何かあった場合、俺はそのまま生き続けるつもりはありません。彼を守る事は俺を守る事です」
夕麿はあげそうになった悲鳴を、慌てて呑み込んで狼狽えた。 カッターナイフの刃を首に押し当てて、切り裂こうとした武の姿が浮かぶ。 恐怖に脈拍が上がり、心臓が身体から飛び出しそうだ。 激しい眩暈に襲われて、夕麿はシーツに頬を押し付けた。 何か言わなければならない。 だが言葉が出て来ない。
「成瀬さん、僕の言った通りでしょう? 武さまは絶対にお許しにはならないと」
周が肩をすくめた。 どうやらこの件に関して、先に周との間で遣り取りがあったらしい。
「夕麿の事は俺が決める。 あなただろうと誰だろうと、勝手な事は許さない」
雫を睨み付ける武の姿を夕麿は、頭も上げる事が出来ない状態でぼんやり見つめた。 叱らなければならない。 一年前の自分ならば、折檻に近い事をしても納得させた。 守られる事、自分の安全を何よりも一番にする事。 それを繰り返して武に教えようと試みた。
彼が受け入れた部分もある。 だが断固として頑なに、今のように拒否するものがあった。 武らしさだと言えばそうではある。 そういうところが生徒たちに好感を持たれ、信頼され慕われる部分だとも思う。
けれど今は武の生命に関わる事なのだ。 現に夕麿を庇って、大変な怪我を負ったではないか。
「疲れました、寝ます。 周さん、成瀬さんをお見送りしてください」
武は雫をはっきり拒否した。 するとどうだろう。 一瞬、彼は酷く傷付いたような顔をした。 だがすぐにそれが目の錯覚だったかのように、警護官の表情に戻った。
彼は夕麿とは別の意味で、誇り高い性格のように思える。 多分、自らが選択した職業と、今回の役目に誇りを持って心血を注いでいるのだろう。 彼からすれば武の激しい拒絶は、理不尽で無茶苦茶に思える筈だ。
「わかりました。 お言い付けに従います」
雫が武に屈したのを見て夕麿は少し驚いた。 先程の自分たちのように、言い争いになると思ったからだ。 どうやら武は彼の性格を計算していた様子だが、さすがにこんなに早く彼が折れるとは思ってはいなかったのではないだろうか。
「成瀬さん、俺は学院の中なら夕麿を守れると言われて、彼をロサンゼルスに帰らせませんでした。 こんな事態が長引けば夕麿の留学がダメになります。 だからお願いします。 俺と夕麿は二人揃って、守ってもらわなければ意味がないんです。 俺たちはどちらか一方が欠けては…生きて行けません。
子供の感傷だと笑われても良い。 俺は夕麿を犠牲にまでして、長らえようなんて思えない」
武のまがう事なき本心だと思った。 夕麿は全身が歓喜で震え出すのを止められなかった。 武の愛情に胸が詰まり今にも溢れ出しそうな涙を懸命に堪えた。
「お気持ちをお察し出来ず、申し訳ございません。 武さまを守る意味を履き違えていたようです」
如何に相手が皇家の貴種であっても、16歳も年下の少年に屈するのは屈辱的な事だろうと夕麿は思う。 だが深々と頭を垂れた彼の顔は見えない。
「わがまま言ってごめんなさい。 でも譲れないものは譲れないんだ。 成瀬さんだって、立場があるのはわかってる。 だからありがとうございます」
武の笑顔に雫は、酷く戸惑ったような表情をした。 自分の主張は譲らないが、無理を言った非はきちんと理解する。 そして素直に謝罪する。 武の真っ直ぐさが、彼の一番の魅力なのだ。
雫と周は二人を休ませる為に、その後すぐに部屋を辞した。 興奮して疲れたのか、武はベッドに身を預けてぐったりとしていた。
「夕麿、怒ってるだろ? 去年、似たような事で怒ったもんな…」
「叱って欲しいのですか? そうですね…去年なら、お仕置きものでしたね」
「何だよ、それ…」
「去年のあなたのは単なるわがままでした。 誰かを犠牲にしたくないと言いながら、本心は自分だけ別に扱われるのが嫌だったのでしょう?」
「…うん、多分」
自覚まではしてなかったのかもしれない。
「けれど今のあなたは少なくとも、守られる意味と行う者の立場を理解しています。 その上で自分の意見を口にしましたね?」
「わがままを言うなら言うで、責任をとるくらいの覚悟はしないとダメだと思ったんだ。 俺は俺の責任で、夕麿を側から離したくなかったから」
真っ直ぐ見てくる瞳に愛を感じられた。
「成長されましたね…私は教育係としてはもう用済みですね」
少し寂しい心地がした。
「何言ってんだよ。 俺、まだわからない事だらけだよ? 不出来でわがままな生徒なのは自覚してるけど、途中で投げ出すつもり?」
「武…」
目が熱くなる。
「えっと…泣くとこ?」
「嬉しかったのです…あなたが私をどれだけ愛してくださっているのか…今日ほど身に沁みた事はありません」
ずっと誰かに愛して欲しかった。 愛されて必要とされたかった。 辛くて悲しい事から守って欲しかった。 武の愛情を感じていたけれと、ずっと欲しかった事を満たしてもらえた。
「うん。 俺だって感じたよ? 夕麿が俺をどんなに大事に思ってくれているか。 ありがとう。 俺も嬉しい。
夕麿、動ける?」
「ゆっくり動けば大丈夫です」
ベッドから身を起こし立ち上がって、武のベッドまで行く。
「夕麿、キスして」
切なげな眼差しが揺れる。そう武が今の今まで必死で、虚勢を張っていたのだとわかった。平気である筈がないのだ。それでも彼は自分の意志を夕麿の為に貫こうとしてくれたのだ。
夕麿はベッドに腰を降ろして、ゆっくりと唇を重ねた。 点滴針の刺さった武の右腕が夕麿の背中を抱く。 愛しくて、愛しくて、啄むような口付けを繰り返して、それが次第に深くなって行く。 髪を撫でながら貪る。
「愛してます、武」
「俺も…愛してる」
言葉を交わしてまた唇を重ね合う。
「夕麿、退院したらいっぱいシて」
「そんな事を言うと、泣くまでシますよ?」
「それでもいい…」
「わかりました。 覚悟していてくださいね?」
「うん」
「もう眠ってください。 私も眠ります」
「わがまま、言って良い?」
「何ですか?」
「眠るまで手…握っていて」
差し出された手を夕麿は握り締めた。その指は不安に震えていた。
「ありがとう。 ごめんね、夕麿だって具合良くないのに」
「大丈夫ですよ、私は。 心配しないで、武」
「うん」
笑顔を浮かべて安心したように、武は目を閉じて…投与された薬の所為もあったのだろう、程なく眠りに就いた。
夕麿はそれを見届けて、頬にそっと口付けてベッドに戻り、横になって静かに目を閉じた。 満ち足りた気持ちで、心地良い眠りにゆっくりと堕ちて行った。
武の伴侶としてもう一人候補がいた。あり得た事ではあったが 夕麿にとっては力いっぱい殴られたような衝撃だった。 しかもその本人が自分と武の警護の指揮をとっているのだ。 最初から妙に突っかかって来られて、理由がわからずにいたが納得した。
部屋に戻って詳しい経緯を知らされて、夕麿は申し訳ないような気分になってしまった。 雫ならばもっと武の良い伴侶になったのではないか。こんな不安を打ち消したのは武の一言だった。
「あなたと夕麿が同時に俺の前に来ても、俺は夕麿を選んだと思うよ? 何しろ一目惚れだったからさ」
迷いなど微塵もない言葉だった。 夕麿だって一目惚れしたのだ。 なかなかそれを認められなかったけれど。 喜びと同時にやはり、多々良 正恒の事が問題として上がっていたのを知って、そんな身で武の側にいる事に胸が痛んだ。
そして自分を選んでくれた小夜子に心から感謝した。 きっと実母である翠子が守ってくれたのだとも思った。
迷い…悲しみ…けれども深い喜び。 複雑な感情が夕麿の胸を駆け巡った。
それに…周が雫を疑って、貴之に調査を依頼していたのにも驚かされた。 この事実は義勝たちにも伝えられたに違いない。
あれやこれやと考え込んでいると、武に手を握り締められた。 発熱しているのがはっきりとわかるくらいその手は熱かった。
「夕麿、汗かいたから身体、拭いてくれる?」
「はい、すぐに…」
武はまだ入浴の許可が出ていない。 毎日、朝夕に夕麿が身体を丁寧に拭っている。 これだけ手が熱ければ、身体が辛いのではないかと思う。
もう休ませなければ…… そう思った夕麿に次の言葉が聞こえた。
「あ、その前に先にゆっくり風呂、入って来いよ?」
「え…? あの…武?」
確かに夕麿もやっと貧血から来る眩暈や吐き気が治まったばかりだが、ここで何故入浴しろと言われるのかわからなかった。 武を見返すとそこにあったのは奥に欲望の焔を揺らめかす、愛情に満ちた優しさと激しさを持った瞳だった。
それが何を意味しているのか瞬時に悟った夕麿は、頬が熱くなるのがわかって俯いた。 武は夕麿に入浴して抱かれる準備をして来いと言っているのだ。もう一人候補がいた現実に、動揺した夕麿を心配してくれているのだ。
バスルームの中はバスバブルの放つ香りで満ちていた。 天然オイルを使用したバスバブル。 今のバスルームには武が使っているものしかない。ラベンダー、菩提樹、オレンジ、レモンライム、檜…… 武らしい香ばかりに、笑みが零れてしまう。 試しにオレンジを入れてみたのだが、ジュースだけでなく入浴剤まで柑橘系というのには噴き出してしまった。
今度、ルームフレグランスでもプレゼントしよう……と思って、自分がすっかりリラックスしている事に気付き、これも武の思いやりなのだと感じてまた笑みが溢れた。
あらためて室内を見回す。
ここのところこんなにゆったりとした気持ちで入浴した事がなかった。 ここのバスルームは変わっていなかった。 小さなアイテムまで、夕麿がいた時のままだった。 武が極力、変えないようにしているのが窺える。彼の愛情にまた笑みが浮かび、全身からようやく無駄な力が抜けた。
ここまで緊張していたのか…と、自分で驚く程、湯の中にいると落ち着いていく。 焦ろうが恐怖にかられようが、襲われる時は襲われる。 警護が何人も付いているし、武の皇家の霊感もある。 夕麿は海綿で身体を洗いながら、覚悟を決める事がようやく出来た。
バスタブから出て、少し高めに温度を設定してシャワーを浴びた。
身支度を済ませて出てリビングを横切ると今度は、周だけではなく雫の視線まで感じて全身が羞恥に熱くなる。 夕麿は顔が上げられなくなって俯いたまま、螺旋階段をいたたまれない想いで逃げるように駆け上がって寝室に入った。
武はベッドに座って、明日の予定を確かめていた。 夕麿が入って来たのを見て、システム手帳を閉じた。 武はPCと手帳の両方でスケジュールを管理している。 PCだけだった夕麿も、試しに手帳を使ってみた所、意外な便利さに驚かされた。 お陰で今はシステム手帳を中心に、スケジュール管理をしているし、ちょっとした覚え書きにも使用している。
「ふふ、オレンジの香がする。 夕麿、お茶目な事するね?」
「え?」
小さく笑う武の言葉の意味を計りかねて首を傾げた。
「あれ、わざとじゃないの? 無意識なわけ?」
「何が…です?」
やっぱりわからない。
「あのね…俺の好物の香をさせて、煽ってるんじゃないの?」
「は?……………あっ?!」
武の言葉の意味をようやく理解して、夕麿はこれ以上ないという程真っ赤になった。 そう、武の好物のオレンジの香をさせて…これでは食べてくれと強請っているのも同じだ。
「本当に無意識? もう…どこまで天然だよ…」
武の笑い声がやまない。
「わかった、たっぷりいただくから…脱いで、夕麿。 片手だと脱がせるの難しいから」
「あの…少し向こうを向いていてください…」
今更なのに恥ずかしい。
「いいよ」
武が笑いながら答えた。 自分でも何をしているのだろう…とは思う。
全てを脱いでベッドに入ると、武はリモコンを操作して室内の灯りを落とし枕灯だけにした。
武は右腕で身体を支えて、夕麿に唇を重ねた。 だがすぐに自分の体重を支え切れなくなってしまう。
「ごめん、夕麿。 夕麿が動いてくれる?」
「はい…」
返事はしたものの、羞恥に身体が震えた。 俯せにならされ腰を上げさせられた。 ベッドに座った武の手が、身体を撫で回し唇が触れる。
「ぁあッ…あン…武…」
片手だけの愛撫はどこか物足りなくて、もどかしく感じてしまう。
「夕麿、身体起こして」
言われてる通りに起こすと、唇を重ねられて口腔内を舐めまわされる。 右手が乳首を摘み、押し潰すように刺激する。
「ン…ンン…はぁン…」
唇は首を移動し胸元に次々と口付けて、触れた場所に所有の印を付けていく。 指先は腰を撫で回してから、欲望に震える夕麿のモノに絡み付く。
「あッ!ああッ!」
左の乳首を含まれて舌先で転がすように舐められ、甘噛みされると余りの快感に悲鳴をあげてしまう。
「夕麿、俺も脱がせて」
武の愛撫に身を震わせながら武を脱がせていく。 白い肌には昨夜夕麿が付けた口付けの跡が、点々と赤く鬱血している。 下を脱がせると、武のモノは既に蜜液を溢れさせていた。
「ああ…もうこんなに…」
欲情に突き動かされて、夕麿は武を横にならせた。 喉を鳴らして口淫をする。
「ンフぅ…ン…」
常になく自分が興奮しているのを感じる。 口淫をしながら身体が熱くなり腰が揺れる。
「夕麿、俺もシてあげるから腰をこっちに…」
武の言葉に戸惑ってしまう。 そういうやり方があるのは、知識として知ってはいる。 だが余りにも恥ずかしい行為に思ってしまう。
「ほら、はやく」
急かされて躊躇いながら腰を向けると、優しく腰を撫でながら武が言った。
「これじゃ出来ないよ、夕麿? 俺を跨いで?」
「そんな…」
口を放して戸惑う。
「あなたの顔を…出来ません」
「何言ってるのさ。 じゃないと出来ないだろう? ほら早く」
「ああ…許して…」
震えながら言われた通りにする。恥ずかしくて恥ずかしくて、それを少しでも紛らわせようと口淫を再開する。いつも武を抱く時にもシているにもかかわらず、抱かれる側の立場での行為は熱を帯びる場所が違う。
「ン!ンンッ!」
突然武の舌先が夕麿のモノを、ねっとりと舐めあげてくぐもった悲鳴を漏らす。
「こんなに濡らして俺の舐めて興奮した、夕麿?」
口調も愛撫もいつもよりいやらしい。武はどうやら夕麿がまとって来た、オレンジの香に煽られて常になく興奮しているようだった。本来、オレンジの香にそのような効果は存在しない。
「夕麿、こんな時に考え事?余裕だね?」
その言葉に我に返った瞬間、武が夕麿のモノを口に含んだ。同時に潤滑用のジェルが付いた指先が蕾を撫でる。
「んあッ!あンッああッン!」
思わず口淫を止めて、嬌声をあげ仰け反ってしまう。快楽に身体が震えた。
指はジェルを塗りながら、体内へと入って来る。恥ずかしい格好で、前と後ろを同時に攻められる。口淫で濡れた唇から、唾液が滴り落ちて銀の糸を引く。快感にガクガクと震える身体を、両腕は最早支える事が出来ない。 かと言って口淫を続けられない状態になってしまうのは悔しい。 愛する人のモノに頬を寄せるようにして突っ伏してしまう。 それでも武を感じさせたくて、舌先でそれを舐める。
もし誰かがこの光景を目撃したら、夕麿のそんな淫らな妖艶さに、それだけでイってしまったかもしれない。 両手の震える指を絡め、舌先で溢れ出してくる蜜液を舐め啜りながら、口を開いて含もうとする。 だが中の指を増やされ、蕾を広げるように動かされて、見も世もなく嬌声をあげて溺れてしまう。 快感と物足りなさに、肉壁が中の指を物欲しげに締め付ける。
濡れた音が響き、指が蕾をいっぱいに開いて抽挿される。 指が何本挿れられているのか、もうそれすらもわからない。
ただ悦楽に腰を振り、唾液を滴らせながら嬌声を上げ続ける。
と、指が中からズルリと抜かれた。
「ヤあッ!」
喪失感に悲鳴をあげて身悶える。 すると武は小さく笑いながら、夕麿の尻を軽く叩いた。
「ごめん、もう限界…夕麿、自分で挿れれる?」
武の左腕では夕麿を組み敷くのは確かに無理だ。躊躇して腰を揺らした夕麿に、少し申し訳なさそうな声で武は言った。
「ごめん。嫌だよね?えっと…後ろからなら出来るかな…」
何の話だろうと疑問に感じた次の瞬間、彼の言葉が何を指しているのかに思い至った。
多々良 正恒に撮られた映像。 武はあれを覚えていて気にしてくれているのだ。 そう言えば一度も、武はそれを要求した事がない。 確かに後ろからなら片手でも負担はない。
でも…武にこんな気遣いをして欲しくない。 夕麿は今更ながら、あれを観せてしまったのを後悔した。 あの時は半ば自暴自棄になっていた。 武に捨てられる覚悟であれを観せたのだから。 愚かで浅ましい過去の自分の姿。 本当は武の側にいられないいる資格などない自分。
けれどもう離れる事は出来ない。 失えば今度こそこの心は死んでしまう。
夕麿は羞恥に染まりながらも、ゆっくりと身体を移動させた。 恥ずかしさに視線が合わせられないまま、向きを変えて武の腰を跨ぐ。
「夕麿…無理しなくて良いから」
「恥ずかしいけれど…嫌ではありません。 それに…今夜はあなたの顔を見て抱かれたい…」
恥ずかしい。 でもこの気持ちを武にわかってもらいたい。 自分の何もかもはもう全て、愛する人に捧げたのだから。
「…あなたに溺れて…淫らになる私を…見て…ください…私の…全ては…あなたのものですから…武…ン…あッ…ンくッ…」
蕾に愛する人のものを当てて腰を落としていく。 ゆっくりと蕾を押し開いて灼熱の塊が入って来る。 せり上がって自分の中をいっぱいに満たしていく、熱と圧迫感に胸が高鳴る。
もう誰にも譲れない。 この熱は自分のものだと…根元まで受け入れた情熱に息を乱す。
「ああ…嬉しい…」
快感と幸福に身体が震える。
「夕麿…凄く…締まる…そんなに欲しかった…?」
武の息も乱れて、胸が大きく上下していた。
「あなただから…私は何をしても…欲しい…」
「いいよ、夕麿。 俺は全部、お前のものだから。 幾らでも欲しがって!」
言葉と共に下から突き上げられた。
「あッ!ああッン!」
もっととばかりに貪欲に腰が揺れる。 自ら淫らに腰を振ってしまう。 もう止められない。
「ひァ…イイ…武…武…あッン…ヤ…ひィッ…奥が…あン…奥に…来る…あッ…」
もう何を口走っているのか、自覚がなくなってしまった。 浅ましく腰を振って快楽を貪る、淫らな姿を愛する人に見つめられている。
「夕麿…夕麿…俺も…イイ…もっと乱れて…もっと欲しがって!」
武は右手で起き上がって、夕麿の背を抱き締めた。
「武…武…」
左腕を気遣いながら、愛しい人の首を抱く。 武は音を立てて、左の乳首を口に含んだ。
「ヤあッ!ダメッ…噛まないで…」
突然の刺激に肉壁が収縮し、夕麿は武の頭を抱いたまま仰け反って激しく首を振った。
「ああッ…あッ…武…もう…許して…」
「夕麿、イきたい?」
「イかせて…もう…ああッ…」
「イっていいよ」
「ひァ…ヤあ…武…一緒に…一緒にイって…」
「夕麿…一緒に…」
「ああッあンあッあッあああッあ!!」
「夕麿…!!」
仰け反って振った髪から、汗が雫となって空を舞う。
「ああ…武…愛しています」
武の頬を両手で包み、溢れる想いを込めて唇を重ねて貪る。
足らない…… まだ満ち足りない 。もっと欲しい ……もっと愛されたい 。自分の欲深さに胸がキリキリと痛む 。
と、腰に回された武の腕に力が入った。
「夕麿…もっと欲しい。 俺、まだ足りない」
欲情の焔が消えない瞳が見つめる。 愛する人も同じだと知らされて、さらに身体の奥底が熱く煮え滾《たぎ》る。
「私もです…武。 もっと、もっと、欲しい…!!」
言葉は熱い吐息に変わる。 武の許しを受けて、更なる快楽を求めて 腰が動き出す。
「あッ…ああッ…武…武…熱い…ああ…溶けてしまいます…はァン…ひィ…あッああ…イイ…」
「夕麿…凄い…俺も…イイ…」
溶けてひとつになれれば良いのに…… そう思う一方で、そうなれば抱き締める身体を求めてきっと寂しがる。 自分のわがままが刹那い。
だから今はだだこの悦びが欲しい… …
朝目覚めると武が満ち足りた顔で眠っている。 卒業して学院から離れて2ヶ月。 その間に武の面差しは変化していた。痩せた所為もあるだろうが、以前よりあどけなさがなくなった気がする。 可愛いのは変わらないが、少し大人びた顔になった。 一年前はただ腕の中で、可愛いと想い愛しさに貪るように抱いた。 今は自分を抱き締め深く強く愛してくれる。
守りたい気持ちと守られたい気持ちが交差し不思議な螺旋を描く。 これが愛するという気持ちなのだと、心の奥深くで納得する自分がいた。
やっと巡り会えた、本当に求めていたもの。
夕麿はそっと武の頬に口付けた。
0
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない
すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。
実の親子による禁断の関係です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる