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A Person Of Noble
しおりを挟む翌朝、朝の光の中で目覚めた。
「ああ……」
傍らにある温もりに湧き上がる強い歓喜に、夕麿は思わず声をあげてから慌てた。けれどいつも眠りの深い武はあどけない顔でまだぐっすりと眠っていた。愛らしい寝顔を見つめていると、つい触れてしまいたくなる。艶やかな頬にそっと指で触れるが、武は身じろぎひとつしない。しばらく頬を撫で回して満足すると唇に触れてみる。
昨夜繰り返した口付けを思い出しながら、柔らかな感触を愛しげに目を細めて味わう。すると微かに唇が開いた。夕麿は唇を重ねて舌先を差し込んだ。眠っている武の口腔内をたっぷりと蹂躙すると、武の唇から熱い吐息が漏れた。唇を離すと銀色の糸が2人の間を橋渡しする。
「武……」
愛しくて愛しくて苦しい程に胸がいっぱいになる。学院の寮にいた頃も今も、目覚めた傍らに武の姿があるのが幸せに感じる。その幸せが夢や幻でない事を、こうやって触れて確認してしまう。ロサンゼルスでの夜は武と出会う前の夜を思い起こしてしまい、時として寂しさと一人寝の朝の辛さに身動きできない事がある。
あの頃は孤独に辛さや悲しささえ心が凍り付かせてしまって、あらゆる感情が麻痺してしまっていた。冷え切ったベッドの中が自分の体温で温まっても、夕麿の心は冷たく凍えて決して温かさを感じはしなかった。
もちろん今も独り寝は寂しい。けれとも心が凍て付いて震える事はない。奥深くに確かな温もりが存在していると感じられる。武を愛し愛されている確かな温もりが。それでも朝は目覚める前の微睡みの中で、無意識に傍らの温もりを手を伸ばして探してしまう。そして今自分が愛しい人から遠く離れた場所で、独りで眠っているのだと思い知る。傍らに今はない温もりが恋しい。それを紛らわす為に、持って来たぬいぐるみを置いて眠るようになっていた。
だから今朝のように本物の温もりが嬉しい。
抱き寄せると武は腕を伸ばして抱き付いて来た。
「…ん…夕麿…好き…」
寝言だとわかっていても、愛らしい唇から紡がれる言葉が嬉しかった。組み敷くようにして耳朶を甘噛みすると、腕の中のほっそりとした身体が戦慄く。僅かな刺激で目覚めてしまう夕麿には、武のこんな反応が楽しくて羨ましく感じる。
唇を首筋に移して強く、跡が残るほど吸うと甘い声が漏れた。
「ぁ…ン…」
その様が可愛くて仕方がない。
「武…もっと触れても良いですか…?」
「ん…? ん……夕麿…ン…もっと…シて…」
夢現の中で恐らくは、昨夜の行為の中にいるのだろう。 滑らかな肌を撫で回すと、唇から官能に満ちた声が溢れた。
「ン…ぁあン…」
まだ半覚醒の身体を快楽だけが、動かしている様子で、切なげな声を上げて身悶える。
「や…あッ…!」
強く乳首を捻ると悲鳴のような嬌声を上げて開かれた瞳に、確かな光が宿って見返された。
「ちょ…夕麿!朝から何してんだよ!」
「あ…残念…起きてしまったのですね…寝ぼけて感じているあなたは可愛かったのに…」
半分本気、半分冗談で言う。
「もう少しそのまま眠っていてくだされば良いのに…」
「もう…また、人の寝込みを…」
潤んだ瞳で睨んで来るのが可愛くて、思わず声を立てて笑ってしまった。
「ちゃんと許可は得ていますよ、あなたに?」
「そんなもの出した記憶はない」
それはそうだろうと思う。情欲に染まった頬で拗ねる姿が、余りにも愛らしくてクセになっていた。そうしている間も武の腰が、微かに揺らめく。既に無防備な間の刺激に、武の身体は欲情の熱を帯びていた。
「武、続きをシても良いですか?」
「………ッ…」
「何です?聞こえません。」
「…バカ…」
「ん?」
「もう…ッ…早く!」
「良くできました」
「何だよ、それ。 オヤジくさい」
「そんな不愉快な事を言う口は、塞いでしまいましょう」
喰い付くように唇を重ね、絡めた舌を強く吸う。 既に十分に熱を持った身体が、腕の中で快感に痙攣する。
「あぅン…ヤぁ…」
「もう、欲しい?」
「…欲しい…」
昨夜の熱の残り火がまだ奥底を灼いているのか、気を失うまで抱いたのに抱き締める身体は熱い。
「ひァ…ヤ…」
まだ柔らかい蕾にジェルを塗ったら、夕麿が耐えきれずに一気に突き挿れた。 武はそれだけで達してしまい、腕の中の身体が快感に全身が戦慄く。
「武、何度でもイってください。 欲しいだけシてあげます」
耳許で囁くとそれが刺激になるのか、肉壁が収縮して中のモノを締め付ける。 イきそうになって動きを止めて、呼吸を整えてやり過ごす。
「ヤ…止めちゃ…ヤダ…動い…て…」
切なくて腰を揺らして強請って来る身体を、抱き起こして武を上にする。 そうして刺激を減らして、猶予をもらわないと先に達してしまう。 もっと武を感じさせたい。
「自分で動いて、武。 あなたの好きなように」
「あ…あ…」
自らの体重で常よりも深く受け入れて、武が陶酔したような声を発した。 言葉と一緒に軽く突き上げると、中を収縮させて仰け反る。
「ンあ…!」
武はそれに応えるようにおずおずと不器用に動き始めた。 しかしそもどかしさに突き動かされるように、次第に激しく大きくなっていく。
「あぅン…ヤ…夕麿ァ…夕麿ァ…イイ…イイ…あン…あッ…あッ…」
腰を落とすのに合わせて突き上げると、髪を振り乱すように快感に溺れる顔になる。 一度そらせたうねりに夕麿も耐え切れなくなり、腰を掴んで更に突き上げると武の身体が快楽に震え、中が一層収縮し始めて更なる快感が夕麿を襲った。。
「ああッ…あッ…イイ…ヤ…夕麿ァ…も…イく…イくゥ…ああッ…!!」
半ば悲鳴を上げて達した武の収縮に引き摺られるように、限界に来ていた夕麿も突き上げるようにして達した。 触れ合い求め合う熱に、麿は言い知れぬ幸せを感じていた。
夕麿は組み紐がどのように創られるのかを初めて理解した。 本来は帯締めなどのある程度の太さにするが、クリスマスの贈り物のような細いものも、創る事が出来るのも魅力だと感じた。
それぞれが染めた糸を細紐へと組んでいく。 ふと見ると武が不思議な事をしていた。 自分の髪を抜いて入れて組み込んでいる。
「武? それは何をしているのです?」
「これ? えっと、髪の毛には呪力があるって…言うだろう? それに、髪の毛も俺の一部だし…夕麿の側にね…」
武は真っ赤になってしどろもどろに答えた。
古来より髪の毛は人の身体の一部として祈りや願いを込めて来た。 『呪』とは本来、強い願いを込める事をいう。 『呪詛』も『祈願』も根源は同じく人の想いなのだ。
よく聴くと武は夕麿を守りたいからと…そう答えた。
「俺の中の血に他の人より、そういう力があるっていうなら…少しは効果があるんじゃないのかな…なんて思ってさ」
少し照れたように言って俯く。
武は危険などの常とは違う異変を他の誰よりも敏感に察知する。 特に夕麿の危機にはかなり鋭いのではないかと思う。彼が自らの血を知り受け入れるのが深まるのと連動している気がするのだ。 だから本気で望み願うのならば髪の毛も力を持つのではないだろうか。
夕麿は武の深い愛を感じて、胸が熱いものでいっぱいになり言葉が出て来ない。 俯いて噛み締めていると武が苦笑混じりに言った。
「これくらいで泣くなよ…もう…」
首まで真っ赤になった武が照れて横を向く。言われて自分の頬が濡れている事に気付いた。
「すみません…最近、前にも増して涙腺が弱くなってしまったみたいです…」
自分でも戸惑ってしまう。
「まあ…俺としては…嬉しくて泣くんなら…構わないけど…」
照れながらも懸命に言葉を紡いでくれる。これも彼の精一杯の愛情だとわかるから嬉しい。
「武、私もしても良いですか…? あなたのような力はありませんが、それでも私の一部があなたの側にいられるなら…」
「夕麿がそうしたいなら…俺は嬉しいよ? それに夕麿にだって同じ血が流れてるじゃないか」
「でも、私の血はもうかなり薄まっています」
「関係ないだろう? 夕麿が俺の事を思ってくれるなら」
武の言葉はいつも乾いた大地を恵みの雨が潤す時のように、自分心の中へと染み入って来る。この歓びを噛み締めて、自分の髪の毛を抜いて組み込んでいく。 少しでも良いから武を守ってくれたらと、八百万の神々にも願い祈る。
いつの間にか、二人とも無言で夢中になって紐を組み続けた。 ただ音だけが響いていた。
そして……
細紐で編み上げたのはミサンガだった。 互いに染め組み、編み上げたものを互いに交換して、相手の左手首に結び付けた。
夕麿は武の手首に結ぶの、飾り結びを使った。 飾り結びとは花結びとも呼ばれ、複雑な結び方を組み合わせて、花や家紋などの形を造るものである。 かつてはそれぞれの家に秘伝の結びが存在し、文箱などの封印の役目などを果たした。夕麿の結びは今は亡き母方の宮家に伝わるもので、夕麿以外の血を受け継ぐ者がない今はもう他に結べる人間は存在していない。無病息災の意味を持つ梅花を形造るものだった。
「梅! じゃ、俺も」
武も結べるのだと言う。 それは小夜子から武へと伝えられた飾り結びで、蓮の花を形造ったものであった。蓮は蓬莱皇国の皇家の紋章でもある。恐らくは武が先東宮の実子である証としてこれを教えたのであろう。
「ありがとうございます、武」
お互いに痩せてしまったので、元の体重に戻った時を考えてやや緩めに結び付けた。 互いの想いを込めた願いと祈り…深い愛情。決して形としては見えないからこそ、こうして形あるものに託す。
夕麿は美しい杜若色のミサンガを、うっとりと見つめ続けた。
「申し訳ない、武君! 午前中だけ、夕麿君を貸してくれ!」
朝食で顔を合わせた途端に有人は夕麿を、今日の午前中だけ出社させてくれと頼み込んだ。
「えっと…あの…」
いきなりの事に武は困って周囲を見回す。 夕麿もつられて見ると、小夜子が腰に手を当てて有人を睨み付け溜息を吐いた。 彼女は何かに怒っているようだった。
夕麿はこれは武に委ねるしかないと、武に視線を移すと武もこちらを見た。
「何で…みんなして俺を見るわけ? 仕事の事を俺に決めさせてどうすんのさ。 夕麿が決めろよ? お前まで俺に決めさせるな」
少し怒ったような、拗ねたような口調で武が言った。
「わかりました。 午前中だけなのですね?」
武の夏休みは後4日。 その後は長い別れが待っている。 出来うる限り側にいたかった。
だが…仕事をする限り、これはやむを得ない事でもあった。
「約束する。 午前中だけお願いする」
「武、買い物は午後からにしましょう」
「うん。 終わったら電話して、夕麿」
「ええ」
自分の選択に武は頷いた。 だが小夜子はまだ眉間にシワを寄せて、明らかに不快感を示していた。 有人はその様子に決まりが悪そうな顔で目を伏せた。
彼と一緒に出社してその理由が判明し、思わず夕麿は非難の眼差しを向けた。
昨日、取引先のアメリカ企業の重役父娘を水族館に連れて行ったらしい。 ちょうど夕麿のピアノが流れている日で、有人が自慢話として演奏者を息子だと話したところ、是非とも生演奏をと請われて断り切れなかったと言うのだ。
水族館の背景音楽として採用する時、夕麿が演奏者であるのを公表しない、 顔出しは絶対にしない。武が許可を出した条件だった。 これはそれを破る行為だ。 小夜子が怒っていた筈である。 武が知ればただでは済ますまい。
有人はその人物に何だかの恩があり断れない状況だったと言う。 今回だけは…と無理を聞き入れたが夕麿自身、武に知れた場合に何と言えば良いのかと思案にくれた。
「武君には内緒に」
と言う有人に夕麿はきっぱりと答えた。
「隠し切るのは無理だと思ってください。 武さまは特別なお力をお持ちです。 特に私に関わる事は常に敏感に察知されます。それなりのお覚悟をなさっていらした方が、よろしいかと思われます」
御園生家は戦前に経済で国に恵みを与えたとして、大財閥から叙位を受けて貴族になった、所謂勲功貴族である。本来ならば彼は皇家の貴種から直接に、声を掛けられる事すら許されず、現在も紫宸殿や清涼殿のある建物へ殿上を許されない下級の貴族だった。皇帝の側近くに殿上して仕える資格を持つ、『堂上』と呼ばれる公卿貴族とは違う。 貴族の最も高い位置である摂関貴族の家に生まれた夕麿からすれば、有人は本来は成り上がりの只人に過ぎないのだ。 それでも愛する人の生母の現在の夫として、世間的な意味合いでの『義父』として、夕麿なりに敬意を示して彼の立場を鑑みて来た。夕麿は湧き上がる怒りを懸命に押さえ込んだ。ここで感情を爆発させるわけにはいかないのだ。
有人は夕麿の言葉に顔色を変えた。隠し切るのは無理だという言葉もだったが、夕麿は武を呼び捨てにしなかったからだ。夕麿自身が有人の武に対する裏切りを怒っている事を示していた。武も夕麿もこの一年余り、有人を義父として尊敬し大切にして来た。父を知らない武にとっては、生まれて初めて『お父さん』だった。夕麿は武が『父親』という存在そのものに、憧れを抱いているのを知っている。だからこそ武に真実を話さないこのような行為は、主君に対する裏切り以外のなにものでもないのだ。
有人が武の父親としてあるのは、あくまでも表向きのもの。武が身を寄せる『乳部』として、真実は仕える身であるという意味を有人は理解していないらしい。財閥の総帥としては優秀ではあるが…このままではいずれ軋轢を生み武に対してよろしくない影響が出てしまう可能性がある。武の立場を考えると頭が痛い実態だった。
今後の憂いをどうしたものかと考えながら、夕麿は用意されたピアノの前に立った。
「ノルディスカ…何処でこんな珍しいピアノを…」
ノルディスカはスウェーデンのピアノメーカーで、ドイツの名門ピアノメーカー「イバッハ」と技術協力契約を結んで、高品質で芸術的なピアノを造り出していた。芸術品としてのピアノを厳選された素材のみで、全てハンドメイドで製造している。実際に実物を目にするのは初めてで、蓋を開けてカバーを取り去り鍵盤に指を走らせた。ベヒシュタインはクセのある繊細な造りのピアノで演奏には注意がいる。気持ちをぶつけるように演奏して、音ズレをおこしてしまったり何度か修理もしている。このノルディスカは現在、アメリカのギブソンが買収し後に中国系企業が製造を引き継いだ。見た感じから行くとまだスウェーデンで製造されていた時のもののようだった。
ピアノにはメーカーによって、音の響きに差がある。ベヒシュタインは繊細な音を出すが、あくまでも室内用グランドピアノであり、逆に一般のコンサートホールで見るスタンウェイは音の響きが大きく、余り規模の小さい場所には向かない。
ノルディスカは透明感のある美しい音色を奏でた。
「この音色は嫌いではありませんね」
雅久ならばこの音にどんな色を視るのだろうか。気になって携帯の録音機能をONにした。
指を温め、試しに『幻想即興曲』を弾いてみる。 ショパンの曲ならばわざわざ楽譜を見なくても全部記憶している。次に夕麿が試したのは『紫雲英』だった。 ベヒシュタインとは違う音色が面白い。 これを録音してSDカードに移動させ、携帯を上着のポケットに戻した。
指を冷やさない為に適当な曲を弾き続けていると、ドアが開いて有人が取引先の父娘を連れて入って来た。それだけではない。 社内の人間が噂を聞いて集まっている。 撮影などを一切しないように通達はされているようだが、元々人混みの苦手な夕麿には苦痛以外のなにものでもない。 彼らが硝子張りの向こう側にいるのがせめてもの救いではあった。 それにしても義勝の言い種ではないがこの状態は、珍獣になった気がして余り気分の良いものではない。
「夕麿君、こちらがアメリカのポーツマス証券のジェイソン・ウィルマン氏とお嬢さんのメアリーさんだ」
「初めまして、御園生 夕麿です」
夕麿は礼をしただけで握手はしない。 それは有人が説明してもらっていた。 蓬莱皇国の高き身分の者は、安易に他者に触れないし触れさせないと。
夕麿は早々にピアノの前に座った。
「何かリクエストはありますか?」
訪ねると娘のメアリーが言った。
「大きな水槽の部屋で聴いた曲が聴きたいの」 と。
もちろんそれがどの曲か知っている。 プロデュースしたのは義勝と雅久なのだ。使われているのはショパンの『練習曲 ハ短調 大洋』。 夕麿はすぐさまにそれを奏で始めた。 指が鍵盤を叩き始めれば、もうそれに没頭してしまう。 見つめる視線すら気にならない。
ピアノのクセもある程度把握した。 最後の音を叩くと静かに息を吐いた。
一斉に拍手が湧き起こる。
メアリーは年齢で言うと中学生か高校生くらいだろうか。 大人びて見えるが立ち振る舞いに幼さが見え隠れする。 彼女は目の前の美しい貴公子にすっかり参っていた。 頬は薔薇色に染まり瞳は潤んで輝いている。
だが夕麿にはまだ年端もいかない彼女がつけている、強い香水の匂いで頭が痛かった。 まだ子供…自らにそう言い聞かせて、嫌悪感からくる吐き気を抑え込んだ。
曲名がわからないと言う彼女の為に、夕麿は水族館で現在使用されているのを全て弾いてみせた。全部終わって室内の時計を見ると、既に正午を差していた。
「すみません、お義父さん。 もう約束の時間を過ぎていますので」
夕麿には何よりも武との約束が優先である。
「ああ、すまなかったね」
「いえ、それでは」
ウィルマン父娘にも会釈してピアノのある部屋から出た。
夕麿は携帯を取り出し武をコールする。
「すみません…遅くなって。 今から帰ります」
〔それじゃあ時間の無駄だから、冬休みに休んだレストラン、覚えてるよね? 昼食まだだろう? 母さんが予約を入れてくれてるから、あそこで待ち合わせしよう?〕
「しかし、武…あなたをひとりで待たせるのは、気が進みません」
武の身分では一人での行動は余り好ましくはない。
〔何を言ってるんだか。 たまには良いじゃないか、デートっぽくてさ〕
武は夕麿の杞憂をあっさりと否定してしまう。
「寄り道しないで真っ直ぐに向かうと、約束してくださいますか?」
〔もちろん〕
「わかりました。 うちの車でレストランの入口に直接着けて、中へ入ってくださいね?」
〔心配性だな、夕麿は。約束する。ちゃんと言われた通りにするから、心配するな〕
電話の向こうで武が微かに笑う。
「では私も急ぎますから」
そう答えて電話を切った。 一階に降りようとエレベーターホールで待っていると、ウィルマン父娘が追い掛けて来た。くどくどと演奏の礼を並べたてる。
「これからランチを一緒にどうかな?」
「申し訳ございません。 既に先約がございます」
「それは大事な相手なのかね?」
執拗に食い下がるところが如何にもアメリカ人らしい。
「私が主と仰ぐ方とのお約束ですので、無碍に致す事は出来ません」
娘が父の袖を引っ張っている。 どうやら彼女の希望らしい。 それこそ御免被ると心で呟く。
「本当は今朝からお会いする予定でした。 そこをお願いして昼食からに変更していただいております」
「変更してもらえたなら、明日でも構わないのではないのかね?」
この非礼さに夕麿は心底怒りを覚えた。 何故、武が軽んじられなければならない? 彼がこういった態度を取るという事は、有人がそれを許したという事である。
「ちょっと失礼します」
夕麿は二人にそう言って有人の部屋へ足を向けた。 ドアをノックもそこそこに中へ入る。 入って来た夕麿の剣幕に有人はたじろいた。
「説明していただけますか? 何故彼らが私に武さまとのお約束を断るように言うのを、あなたは許しておかれるのです?あなたは武さまを何だとお思いか!? まさかあの方のご身分を無視なさるおつもりではないでしょうね?」
しどろもどろに言い訳する有人に、戻って来たウィルマン父娘が加わる。 夕麿は本気で頭が痛くなった。散々非難しても埒があかず、強引に会社を飛び出してタクシーに乗り込んだ時には、武に電話をしてから30分以上の時間が経過していた。もしこんな事が続くようならば、今後の武の身の振り方を考えなければならない。 とにかく残った武の夏休み中の様子を見て、義勝たちと相談する事を決めた。夕麿がレストランに着いたのは、電話から1時間近く経過していた。
「すみません、武。 すっかり遅くなってしまって…」
「大丈夫だから、気にしないで。 余り顔色が良くないよ?」
「大丈夫です…食事を運ばせましょう」
今日の出来事をちゃんと話すつもりにはなっていたがせっかくの食事を楽しみたい。 そう思ってナイフとフォークを取ったが、食欲がどうしてもおこらない。 無理に料理を口に入れて咀嚼して嚥下する。時折武がもの問いたげに視線を送っては来るが、敢えて聞こうとはしない。 それは武の配慮だとわかっていた。
「それで、今日は何を買いに行くのです?」
必要なものは学院で大抵が手に入れる事が出来る筈。 ましてや武の持ち物は全て御印が付けられる。 だから安易に物を購入出来ない。
「注文していた物を取りに行くのと、希の玩具を買いに。 産まれる時には学院の中だからさ…先に買っておきたいんだ」
「そうですね。 では二人で選びましょう。 候補はあるのですか?」
「う~ん…一応、母さんには聞いたんだけどね」
「では店で相談してみましょう」
「あ、そうだね」
デザートを食べ終わって席を立つと支配人がまだ、女の子たちが入口付近で武を待っていると告げて来た。武は武で女の子たちに絡まれていたらしい。先程のメアリー・ウィルマンといい、頭が痛い事だらけだ。 彼女たちはどうしてそっとしておいてくれないのか。
「困りましたね…車を裏へ着けさせましょう」
だが夕麿の言葉に武は首を振った。
「表に着けさせて。 逃げてばかりじゃ切りがないから。 ちゃんとけじめをつける」
二人が外へ出て行くと案の定、彼女たちが駆け寄って来た。
「えっと…俺に何の用?」
問い掛けた武は無表情だった。 それに怯んだのか、彼女たちは互いに顔を見合わせた。
「ちゃんとした用がないなら、こういうのやめてくれない? レストランにも迷惑だし、俺たちも困るんだ」
「え~何で?」
「中学一緒だったじゃん」
「友だちでしょう?」
呆れた事に自分勝手な不平不満を言う。学院に編入する前の事は聞いている。 彼女たちの主張が本当でない事は夕麿にもわかる。
「中学が同じだったからが何? いつ友だちになったっけ?何が目的なの、君たちは? 俺が金持ちになったから?」
武の口調に苛立ちがはっきり現れていた。見ていられなくて夕麿に声を掛けた。
「武、埒があきません。 もう行きましょう」
「そうだね。 でももうちょっと待って」
そう言った武の顔は眩しかった。
「本当に迷惑だからやめてくれないかな?」
「何で?」
「男二人だけって、寂しくない?」
「だからさ…あたしたちと一緒に遊ぼうよ、ね、葛岡君?」
「俺はもう葛岡じゃない。 それに俺たちは女はいらない。 せっかくこれからデートなのに邪魔しないでくれ。
夕麿、行こう」
武の言葉に彼女たちは唖然とする。 武はそんな彼女たちにもう興味はないとばかりに、夕麿を促して車に乗り込んだ。
「良かったのですか…彼女たちにあのような事を言っても」
「はっきりさせておいた方が良いから。 休みの度にどこかで待ち伏せされて、つきまとわれるより良い」
深々と溜息吐く姿に夕麿は内心で同意した。 それでもあのようにきっぱりと言い切る姿を誇らしくも思う。 ふと見ると武はまだ不機嫌な顔をしていた。
「武、眉間にシワが寄ってますよ? そんな顔をしないでください」
愛らしい顔が台無しで、それが哀しいと思ってしまう。 彼はそんな夕麿の気持ちに気付いたのだろう。 笑顔を夕麿に向けてくれた。
「ごめん、デートなのにな」
「そうですよ」
愚かな者たちの事は忘れてしまおう、今この時は。 家電店で武が受け取ったのは、デジタルプレイヤーだった。 淡い青のボディの角にちゃんと御印が入れられていた。武は頬を染めながら、独り言のように呟いた。
「携帯だとバッテリーの問題があるから…これ完全なオーダーで、極端に雑音が少ないんだって」
何を聴く為なのかは聞くまでもない。 夕麿は武をその場で抱き締めたくなった。 だがこんな目立つ場所ではさすがに無理だった。夜までとっておこうと考えて 次の目的地に歩いて移動する。デパートの乳幼児の用品を販売している所で、二人はイギリス製のハンドメイドの木馬を見付けた。
「これ…良いよね、夕麿?」
「そうですね、造りも丁寧ですし…メンテナンスもしてくれるならば、お義母さんも喜ばれるでしょう」
「じゃあ、この一番小さいのと、こっちの大きめのと両方を」
「ありがとうございます。 こちらに配達先の御記入をお願い致します」
夕麿がペンを取り、御園生邸の住所と小夜子の名前を書いた。
「明日の午後の配達になります」
「よろしくお願いします」
カードで支払いをして、デパートを出て車に乗り込んだ。武が夕麿を気遣ってくれて、早々に帰宅する事にしたのである。
先程、レストランから車に乗った時に、抱き付いて来た武が一瞬、身体を強張らせた。ひょっとしたらあの強烈な香水の匂いを、スーツの布地が吸収していたかもしれない。隠すのは無理だろう。第一夕麿自身が隠したくはないと思う。武に対して不実はしたくない。それに今後の事も含めて、検討しなければならない。
安全に思えた場所も武の立場を考えれば、そうではないのだとわかってしまった以上、他を探さなくてはならない。最悪の場合…全てを捨てて、共に学院の特別室の住人になるしか道はない。そんな事にならないように、あらゆる努力を惜しまぬつもりではあるが…前途多難としか言いようがなかった。
夜、帰宅した有人は再び明日の午後からの出社を要請して来た。 今日の事でまだわからない彼に、夕麿は正直、戸惑いを覚えた。 それを見た小夜子は完全に怒っていた。
「それって、夕麿がいなきゃダメな訳?」
何かおかしいと思ったらしい武が問い質す。 するとやましいのか、有人は視線を逸らして答えた。
「夕麿君に取引先と今から顔を合わせてもらった方が、今後の為にもなる…それにアメリカの企業だから、向こうでどのように顔を合わせるかわからないし…」
やはり言い訳めいて歯切れが悪い。
「それだけですか、本当に? 夕麿を取引をする為の道具やおかしな事に引っ張り出しているなら、俺は本気で怒りますよ、あなたが相手でも?」
武が訝ってなおも言葉を重ねた。
「いや…そんなんじゃない…」
「その言葉、もし違えるような事があれば、代償を払っていただきます。
夕麿、お前が自分で決めろ。 俺には仕事はまだわからないから」
武はそう言って先に部屋へと戻った。 リビングには重い沈黙が流れた。 このままではいけない。
「申し訳ありませんが、明日はお断りいたします。 それから今日の事は、武さまに全てお話いたしますので」
「それは…」
「先程のお言葉を聴かれたでしょう? 既に気が付いていらっしゃいます。 私はこれ以上、武さまのご意向に背く事は出来ません。それでもと言われるならば、今後の武さまの事について私は、上にご相談をいたさなければならなくなります」
夕麿はそう言うと立ち上がり、小夜子にもしもの時のお詫びを込めて、深々と礼してリビングを後にした。
「話、終わったの?」
思っていたよりも早く部屋に戻ったのだろう。 武は目を見開いて驚いた顔をした。
「お断りしました。 その事についてあなたにお話しなければなりません。 ですがその前に、幾つか電話をする必要があるのです、お許しいただけるでしょうか、わが君?」
「構わないよ。 お風呂のお湯もまだ入れ始めたばかりだし…話は入って聞くよ」
「ありがとうございます」
携帯を手にテラスへ出るとまず周にかけた。
〔珍しい事があるね、これだから人生は退屈しない。
それで武さまに何があった?〕
「実は…」
夕麿は有人が武を軽んじて、仕事を優先させようとした事を偽りなく説明した。
「企業経営者、財閥の総帥としての手段として、理解しないわけではありません。 私が潔癖過ぎるのかもしれません。しかし武さまのご身分や今後を考えると…今日のような事を甘く考えてはならない気がするのです。 周さん、あなたが武さまに関わるのは、あなたの意志だけではないでしょう?」
電話の向こうで周が息を呑む。
「だからあなたの見解が欲しいのです。 私の潔癖さから出たわがままなのか。 それとも私の感じた通りなのかを」
〔武さまは如何と…?〕
「まだ全容はお話してません。 しかし何かを感じられて御不快に思われていらっしゃいます」
〔もしもの時の覚悟を決めての上で、僕に尋ねているのか、夕麿?〕
「私は武さまの背負われるものを、共に背負う覚悟は出来ています」
〔わかった。 明日まで待って欲しい。 僕なりに手を打とう〕
「お願いします」
携帯を切って空を見上げた。 数日前に見上げた満月は少し欠けていた。
「望月はやはり欠けて行くのでしょうか…」
武と生きる幸せは、満月のように儚く欠けて行くのかと…思ってしまう。 ただ幸せに静かに寄り添って生きて行く。 自分たちの願いすら、叶えられないのだろうか…
哀しい想いで今度は、ロサンゼルスの義勝に電話をかけた。
〔はい…何かあったか…、夕麿?〕
向こうは夜中だ。 眠そうな声で義勝が出た。
「こんな時間にすみません…義勝、私はしばらくそちらには戻れません」
切羽詰まったような夕麿の声に何かを感じたのか、義勝が身を起こしたような気配がした。
〔何があった〕
「今はまだ話せません。 ただ幾つか、実行していただきたい事があります」
〔話してくれ〕
「出社は当分控えてください。仕事は一切停止してもらってかまいません。……それからそこを出て、ホテルに宿泊していただけませんか」
〔夜が明けたら移る。貴之や先生にも移ってもらった方が良いんだな?〕
「はい…御園生の庇護はなくなる可能性を考えてください」
〔そうか…夕麿、もし武さまが学院の住人になられるなら、俺と雅久も戻るからな〕
「義勝、それはダメです。あなた方はもう自由なのです」
〔お前たちがいる場所が俺たちのいる場所だ。また4人で楽しく過ごせば良いさ〕
「義勝……わかりました。でも最悪の事にならないように、出来るだけの努力はします。だから、待っていてください」
〔わかった〕
携帯を切って、また月を見上げた。彼らまで巻き込んでしまうのを、武は望まないだろう。夕麿は祈るような気持ちで部屋へと戻った。
その夜、夕麿は抑えきれぬ不安に怯え、武に抱かれる事を望んだ。
「夕麿…夕麿…」
肩を揺らされて目が覚めた。
「ごめん、まだ早いんだけど…お客さんが来てるっていうから」
「わかりました……痛ッ!」
身を起こそうとして、腰と太腿に引きツレたような痛みが走った。昨夜の記憶が途中からない。
「あ…ごめん、ちょっと過ぎたかも…辛い?」
武が苦笑しながら言って助け起こしてくれた。見ると腕にも脚にも、無数に鬱血が出来ていた。
「武…眠っていないのではありませんか?」
記憶の片隅に外が明るくなる頃まで、抱かれていた感覚が残っていた。
「少し寝たよ、夕麿の横で」
笑顔が返されて安堵の笑みを返した。武の手を借りて起きて着替える。
客というのは多分、周だろうと夕麿は判断した。
武の肩を借りてリビングに行くとやはり周が来ていた。同時にウィルマン父娘が来ているのを見て、自分の判断が正しかったと思った。
「周さん、おはようございます。旅行は如何でした?」
手を借りて座る間、武はにこやかに周に話しかけた。
「おはようございます、武さま。 当て所なく彷徨いて来ましたが、良い景色に癒されました。
本日は朝早くから申し訳ございません」
「ううん、わざわざありがとう」
「とんでもございません」
にこやかに笑みを浮かべて対応する周が、夕麿に視線を移して言葉を失い明らかな狼狽を見せた。
「どうかしたのですか…周さん?」
夕麿の問い掛けに彼は答えなかった。 だが周がこんなに朝早くにやって来た理由は一つしかない。
「周さん…あなたが来られたという事は…」
「慌てるな、夕麿。 僕が受けた指示は取り敢えずお前と武さまに、別な場所へお移りいただくという事だ」
重いものを胸に詰め込まれたような気分になった。 昨日の出来事しか聞いていない武は、不思議そうに問い掛けて来た。
「別な場所?」
首を傾げて夕麿を見つめるが、彼が口を開く前に周が言葉を続けた。
「それから夕麿、お前は然るべき裁断が下りるまで、出国は出来ないから」
「もとより承知しています」
「夕麿、何の話?」
武の顔から血の気がひいていく。
「わが君、あなたをお守りする為です。 ここには…御園生家にはいられません。 周さんを通じて判断を委ねました。 ただ…最悪の場合は…」
「学院から出られなくなる? そうか…その時はその時だね…」
やはりそうなるしかないのか…と、武が諦めを込めて呟くのを耳にした。 学院と御園生邸の間くらいしか移動出来ない彼をもっと不自由にしてしまう。
特別室の住人は夭逝する…そのような伝説が学院には存在していた。真偽の程を確かめた事はない。夕麿が目を通した限りは特別室の尊き人物は、武の前に3人在校していたという記録だけだった。
武の身体の弱さから考えると、間違いなく伝説を真実にしてしまうだろう。 今でもひとり残してしまった事が、悔やまれて仕方がないのだ。彼を守る為の行動は間違っていたのではないか。御園生家以外に今のところは武の後ろ楯となる、乳部を引き受けてくれる家に心辺りはなかった。亡き母 翠子の実家である近衛家とは既に縁が切れて久しい。摂関貴族としては上位に位置する近衛家が、後ろ楯になってくれればこれ程心強い事はないのだが。今は敵か味方かすらわからない。
自分の実家が何の頼りにもならないという事実が、歯痒くて腹立たしかった。六条家も皇国の摂関貴族の一つ。位置的には低くはあっても本来ならば、皇家の貴種の立場を支えるくらいの力はある筈だった。だが日和見で無気力な父 陽麿にはそんな気概すらないという事はわかっている。
「大丈夫です。その時は私も共に……」
「それはダメだ!」
夕麿の言葉を遮って叫んだ武の勢いに息を呑んだ。
「お前は来るな。 もう卒業して出られたんだから、戻るのはダメだ、絶対に!」
「お約束した筈です、わが君。 あなたと共にいると」
武は真っ青になって立ち上がった。
「武さま、まだ何も決まったわけではございません。 どうかお静まりくだりませ」
周が慌てて武を宥めようとする。 だが武には通じない。
「俺は…俺は…もう、誰も巻き込まない…巻き込みたくない…そんな事になるなら…俺は…」
リビングを飛び出してしまう。
「わが君!」
「武さま、お待ちを!」
夕麿は慌てて後を追った。 武の様子は尋常ではない。 部屋に飛び込んだ夕麿の目に映ったのは、カッターナイフの刃を頸動脈に当てて、今にも引き裂こうとしている武の姿だった。
「わが君!?」
「来るな!」
「おやめください…お願いです」
「こうするのが一番良いんだ! 俺がいなくなれば、全てが解決する。
俺は…やっぱり、いない方がいい…」
「そんな事はありません! 私は…私はあなたを必要としています。 あなたを失って、どのように生きろと仰るのですか」
「お前には兄さんたちがいるだろう? 大丈夫だ、心配はしていない。 俺はお前の人生まで奪いたくない…だから…止めるな!」
「わが君!」
夕麿の口から悲鳴が漏れた。 目の前で武の皮膚に切っ先が刺さり白い肌に血が浮き上がる。一度では切り裂けなかった皮膚に刃を当てたままの武の手に、力が加えられるのを全員が目撃した。 誰もがカッターの刃が武の首を切り裂くのを想像した。
と、いつの間にか背後に回り込んでいた周が、手にしていた注射器の針を武の肩に突き刺して中の薬液を注入した。普段は気配に敏感である武も、完全に気配を消して近付いた周はわからなかったらしい。もとより注意はカッターの刃と懸命に止めようとする夕麿に向いていたのであるから。
武が小さく呻いて崩れるように倒れた。 夕麿は悲鳴をあげて半狂乱で武を抱き起こした。
「武……武……」
名前を呼ぶのが精一杯で後は言葉にならなかった。 込み上げて来る嗚咽を抑えられず、細い武の身体を抱き締めて泣きじゃくった。 守りたいと思うのに自分は何も出来ないのだという現実が辛かった。
「夕麿、武さまをベッドへ」
見兼ねた周に肩を叩かれて言われて、泣きながら頷いて抱き上げ、壊れものようにそっとベッドに横たえた。 首の傷から流れ出た鮮血が赤く武のシャツを染めていた。文月が救急箱を周に手渡し、すぐさま手当てするのを夕麿は茫然と見つめていた。
「しっかりするんだ、夕麿。それともお前も眠るか?注射はもう一本用意してある」
周の言葉に夕麿は激しく首を振った。
「武さまをお守りしろ、夕麿」
そう言い残して周は皆を部屋から追い出した。小夜子は別にして他の者たちは信用できはしないし、物見遊山顔の異国人など以ての他だ。小夜子はそんな周の想いを理解して、そっと目線で合図して出ていった。全員が部屋を出たのを確認して、周もそっと出ていった。
眠る武と二人、残された夕麿はベッドに入って、そっと彼の身体を抱き締めた。自分がどれほど愛されているのかが骨身に沁みてわかる。閉じ込められるならば、夕麿を自分から遠ざけようとする武の愛もわかる。逆の立場ならば自分も同じように望むだろう。それでも夕麿は武の傍にいたいと願っていた。自由を奪われた武を置いて、成す事など存在しない。武がいるからこそ、共に歩く未来があるからこそ、そこに夢があり希望が存在するのだ。武無くしては何にも意味を見出す事など出来ない。
けれども同時にこんなに苦しみ嘆く武を見るのは辛い。
もしもの場合、自分はどちらを選べば良いのだろうか?
どちらが正しいのだろうか? そもそも答えなどないのかもしれない。 だが今は答えが欲しい。 どちらを選ぶべきなのか。 それともまだ見付けていない、別の道が存在するのかを。
武を想い、武を愛する。 武に想われ、武に愛される。 故に互いに相手を気遣い、傷を付け合ってしまう。 まるで出口のない迷宮だった。 やっと見付けた筈の光は、次の迷宮の入口に繋がっているだけだった。
武を愛しているという自分の想いを受け入れた時、互いの身分や出自など本当はどうでもよかった。考える事も当時はなかった。 けれどもそれが自分たちを出会わせたのだとも思っている。 なかったならばきっとすれ違ってもわからなかった。 趣味も生活スタイルも、物事に対する考え方自体が違い過ぎるから。
不思議なものだ。 その違いが魅力として互いを惹き付け愛を育む力になった。 そして武と出逢えたから自分を支えていてくれた友の姿を見る事が出来た。 彼らの友情を感謝出来るようになった。
今回の出来事は…自分が我慢すればそれで終わった事だったのかもしれない。 だが武と交わされた約束が次々と反故にされてしまうのを見て、彼が蔑ろにされているようで我慢がならなかった。
約束は武が夕麿を守る為に出してくれたもの。 それなのに……
有人の裏切りは武の自分への愛情を否定されたように夕麿には感じられたのだ。 まして…自分を見つめるメアリー・ウィルマンの熱を帯びた目を思い出して夕麿は身震いした。 あのような女性を近付けるなどと… …重大な皇家への背徳行為である。 ましてや…夕麿が女性が嫌いなのを知っている筈なのに。
ビジネスを行うとは大人になるとは、そこまで個人の想いや立場を蔑ろにして、耐えて形振り構わず生きる事なのだろうか? 大切なものを大切にして、生きて行こうとするのは、青臭い甘えなのだろうか? 真っ直ぐに一点の曇りもなく、誰かを愛する事はそんなにみっともないのだろうか?
武の規則正しい呼吸に耳を傾けながら、どうしても納得のいかない事実を拒否してしまう。
この理解不能な現実から逃げ出したくなる。 腕の中の温もりこそ、自分にとっての真実で全てである筈だった。 けれども現実と真実が相反して衝突してしまった。 広い世界の中から自分たちだけが、弾き飛ばされた気持ちがした。
「武、私はあなたの為だけに生きたい」
夕麿は眠り続ける愛しい人の柔らかくて滑らかな頬を撫でて願いを囁いた。
どこまでも気高く純粋で誇り高く真っ直ぐで美しい心。 その姿と寸分違わぬ、夕麿の潔さ故の哀しいまでの輝き。
高貴なる人。 生まれながらにして、気高く生きる事を運命付けられた者。 それらが否定され踏みにじられつつあるこの時代で、揺らめきながらも灯り続ける誇り。 夕麿のそれは武という最愛のもっと高貴な存在を、抱き締めて更に孤高の眩い光を放っていた。
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