蓬莱皇国物語Ⅵ~浮舟

翡翠

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対峙

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 密の事件への関与が明らかになっても、幣原家からは武たちにも御園生家にも何の挨拶もなかった。苛立った雅久が紫霞宮家の大夫として幣原家に足を運んだ。だが散々待たされた挙句に、派手派手しい装いの密の異母姉が帰宅した。

「密も生子も当家とは既に関わりがない」

 それが彼女の答えだった。雅久は彼女の言葉と幣原邸の様子をその日の夜に全員に報告した。

「つまり密君と生子夫人をどう扱おうと、私たちの勝手だという事ですね?」

 葵が半ば呆れながら呟いた。

「そういう事になるな」

 武もうんざりしたように言う。

「ですが…彼らは同時に今までの贅沢が出来なくなるという事ですよね?」

 早朝に作品の製作を終えたばかりの敦紀は、自分がアトリエに篭っていた間の展開を貴之に聞いていた。

「それにしても…小等部からいたがいろんな家があるものだ。俺なんか幸せな方だったんだな」

 両親の離婚で紫霄へ捨てられたも同然だった義勝が、様々な家庭の事情を見るに付けて一人ぼやいた。

 生涯を紫霄の都市の中で生きていくと覚悟していた義勝は、御園生で雅久と穏やかに暮らしている。精神科医としてのスタートも順調で、治療を受けている患者や入院中の患者のカウンセリングを中心に受け持っていた。

「武兄さま、幣原先輩はどうなるの?」

「そうだな…貴之先輩、どう思います?」

 武には法律まではわからない。

「そうですね、下河辺君に怪我をさせた事実は消す事は出来ません。傷害罪で起訴される事になるでしょう。しかし、18歳未満ですので成人よりは刑は軽いと思います」

 問題は密自身の気持ちであった。深く反省しているという心証がなければ、少年法ではなく通常の刑法での裁きになる。密は武の生命を奪うつもりで、ボウガンの引き金を引いたのだから。本来は殺人未遂なのだ。それを傷害扱いにしたのは雫の配慮だった。出来ればその配慮を無駄にして欲しくはなかった。

「武」

「ん?」

「幣原 生子の処遇はどうしますか?」

 彼女の優柔不断さを夕麿は気にしていた。どこかに身の置き場所を与えるにしても、その性格が後々に問題を起す可能性があったからだ。

「うん…それは俺も思案に困っている」

「それなりの住居を与えても、そこからの生活の手段をどうするかですね」

 朔耶の出生の事を口外しない。たとえ息子にでも話さない。暗黙の約束事を彼女は破っている。それでは誰も彼女に信ををおかない。貴族の家屋敷に働きに出るにしても、そこが雇用のネックになってしまう。屋敷の中の内情の一部は確かに使用人の口から外に漏れる。だが漏らして良い事といけない事の分別をきちんと行えない者は、どんな家でも敬遠されるのが常である。特に武の周辺には秘事が多い。

「武、そこまでの世話は必要ないのではなくて?」

 いつも黙って傍観している小夜子が口を挟んだ。

「自分の無分別の責任は自分で取らなければならないものよ?」

「だけど…朔耶の母親と異父弟だよ?」

「それですが武さま、朔耶は単なる遺伝子上の繋がりでしかないと言っております」

 周には朔耶の気持ちがわかる。

「むしろ皆さま方のお手を煩わせる事を、大層気にいたしております」

「わかった。では俺は何もしない。夕麿もそれで了承してくれ」

「わかりました」

「薫と葵もだ」

「承知いたしました」

 葵がそう答えた横で薫も頷いた。けれど本当に了承したわけではない。それでも自分に出来る事はないとわかっていた。

「幣原家はどうなされますか?」

 雅久にはそれも気になった。彼に取った態度はそのまま、武に対する意志を示した事になる。気に染まなくてもそれなりの対応は礼儀として行うものなのだ。

「密の収入がなくなれば生活が苦しくなる。手を打つのはそれからでも良いだろう」

「何を言ってんの、義勝。ねえ、影暁」

「そうだな。武さまへの非礼だけではない。この場合、御園生家にも礼を欠いた事になる」

「貴之、幣原家の生計は密君の収入以外はどうなっているのですか?」

 影暁は御園生家の長子として、有人が不在の時に取りまとめをするようになっていた。

 武と夕麿は御園生であって御園生ではない。紫霞宮家としてのあり方をまず考える。だから影暁が御園生としての立場を押さえる。義勝は企業経営には参加していない。雅久には紫霞宮家大夫としての立場がある。そうなると影暁にしか出来ない立場だった。

 武と夕麿にすれば御園生の事まで配慮しなくてよくなった。二つの家の立場に立つのは良い事ではないし、紫霞家として貫かなければならない事も存在する。学生時代のような曖昧さは、企業人としても成人した皇家の一員としても許されはしない。以前は結局、夕麿一人の肩にかかってしまっていたのだ。精神的負担はかなりのものと言えた。武にしても辛い事であった。

 こうして影暁がいてくれるお蔭で、武も夕麿も自分たちの対場を貫ける。麗にロサンゼルスの店を捨てさせる事になってしまったが、それでも影暁を帰国させる為に奔走して良かったと思っていた。

 麗は現在、御園生ホールディングスビルの近くでスイーツの店を営んでいる。一からのやり直しにも関わらず、彼は元気に店と御園生邸を行き来している。

「幣原家は当主有格氏が上場企業の重役である以外は普通の勤め人ですね。贅沢をしなければ、貴族の末席としての体面は十分です」

「贅沢に慣れた状態ではどうか…という事ですね」

「質素堅実を常とする、皇家のあり方の逆ですね」

 敦紀の言葉に葵が繋げた。武や夕麿とて決して贅沢をしているわけではない。高級品と呼ばれている物のほとんどが、故障や破損などの修理が可能なのだ。その立場にいる者としての体面がある。

 身なりを整えるのはどのような立場にあっても基本中の基本であろう。華美ではない上質のものを。経済が落ち込んでもなお、庶民の生活から使い捨ては消えない。リサイクルの前にとことん物を使い切るシステムが軽んじられている。修理をするよりも新しいものを購入した方が安い実情。それが本物のブランド品にはあり得ないと庶民は認識してはいない。時を経ても使い続けられるものこそ、本物であると言えるのである。

「それはまあ、自業自得でしょ?」

 麗が肩を竦めた。

 それ以上は誰も言葉を紡がなかった。



 武はここの所、完全に社と家の往復だけを繰り返していた。狙われているのは武。それでも仕事全部を放棄する事は出来ない。今は猫の手を借りたくなる程忙しい。発作もここのところは兆しもない。

 それが逆に薫には心配でならない。

 極力、外に出ないよう心掛けていたが、どうしても武自身が動かなくてはならない日が来た。御厨 敦紀の作品を展示して保存する為の美術館のオープンの日が来たのだ。武が敦紀の絵を最も多く所蔵している。敦紀の絵を欲しがる者ならば、その事実を知らないものはいない程だ。

 武が建設した美術館のオープニング・セレモニーに顔を出さないわけにはいかない。各界の名士が未公開の敦紀の絵を観に来る。幾つかの新作も発表になる大切な日だ。

 雫は良岑 芳之刑事局長と相談の上、必要な人員を出してもらった。それでも人数が足らず、御園生系列の警備会社から人員を派遣して貰い、雫の指揮下に入ってもらった。薫と葵も御園生の一員としてセレモニーに出席する。

「今年は行事が多いなあ」

 麗が思わず呟いてしまう程、ここ数ヶ月は特に慌しい日々が続いた。それでなくても今月は結婚式とそのお披露目が二件あった。一つはもちろん、薫と葵の結婚だった。今一つは天羽 榊と相良 通宗のもの。通宗は目出度く無事に天羽家の養子となった。

「まあ、お目出度い事ばかりだから良いけどね」

 ラスベガスの小さな教会で、二人だけでささやかな式を挙げたのを思い出していた。

 見回した会場は既に溢れんばかりになっていた。今は美術館内の一室をパーティ会場にしている。恐らく室内にいる内は危険ではない。招待客のチェックの行われているし、柏木 克己の顔もわかっている。問題はセレモニーの最終段階、正面玄関でのテープカットだった。これは武本人が行う予定になっている。既に来客に伝えられており、今更変更は不可能だった。

 雫は手元に届いた米国製のボディアーマーを、武に頼み込んで着用させた。夕麿にも薫にも葵にも、二名ずつの警護を配置してある。武には雫と貴之が付いた。

 それでも森の中に建設された美術館の玄関は、警備には不向きな状態だった。世界的な建築家の手になる建物をより美しく見せる為に、美術館の駐車場は森の外に設置されていた。拝観客は森の中の曲がりくねった道を抜けて玄関前の庭園に出る。その中を通って玄関エントランスに到るのだ。美術館に足を運ぶ人を楽しませる演出が、警備の大きな妨げになっていた。もちろん中の美術品を警備する為の配慮は、到る所に気を配ってある。だがあくまでも動く事のない、数多くの絵画を守る為のものだ。鳥や小動物が行き交う森の中に、侵入者監視のシステムは配置は出来ない。元々の自然の森に手を入れて整備した為、死角は数限りなく存在する。

 雫は定時連絡を受けながら神経を尖らせていた。

 柏木 克己は必ず来る。プロファイルはそう告げていた。

 だが雫たちの警戒を余所にセレモニーは順調に進み、テープカットも無事に終了した。来客たちも次々と引き上げて、館内には武たちだけが残った。

 夕闇が迫る中庭に武は一人で立った。12月半ばの冷たい空気に、人々の熱気で高まった熱を冷ます。背後に人の気配がした。

 茜色に染まる空を見上げて武は静かに口を開いた。

「待ってたよ」

 ゆっくりと武は振り返った。

「ずっと森の中から殺気がしてた。だから俺一人にしてもらった」

 そう言った武の横に物影から出て来た清方が立った。

「清方……」

「武さま、ありがとうございました」

「いや、俺のわがままを通しただけだから」

 薫はこの光景を安全な場所から見ていた。

 柏木 克己と話したい……清方の望みを武が叶える形になったのだ。

 柏木教授は手にしていた日本刀に手をかけた。

「止めた方が良い」

 武を庇うように雫が姿を現した。

「それを抜けば銃弾が瞬時にあなたを貫く。

 射殺も止むを得なし。上からそういう指示が出ています、柏木教授」

「紫霞宮の警護官か」

「ええ。でもそれだけでここにいるわけではありません」

 雫は柏木に答えながら武に中へ戻るように促した。武は頷いて中へと入ってきた。後姿を清方の視線が追っていく。柏木はつられるように目で追っていく。薫も自然と視線を移動させていく。

 戻って来た武を安心したように、夕麿がしっかりと抱き締めた。

「武さまはあなたに会ってみたいと申されたのです」

 誰かが誰かを想う気持ちを誰も止める事は出来ない。相手が振り向く事がなくても、止める事が出来る者はいない。武はそう呟いた。

「私もあなたと話をしたいと思ったのです」

 説得出来るとは思ってはいない。だがそれでも話をしたい。

「清方さん…」

 強張った顔で周が出て来た。

「周!」

 柏木が武の次に生命を狙うとしたら周の筈である。彼は未だに清方が想う相手が周だと思っている筈だった。

「久我 周か」

「久し振りです、柏木教授」

 伏目がちに周は挨拶を口にした。

「周、何故出て来たのです」

「今回の件は僕にも責任がある」

 中等部の時の嘘は成長した今から考えれば、愚かな事だったと思う。嘘などで清方に迫る柏木をどうにか出来る筈はなかったのだ。けれどもあの時の周にはそれしか思い付かなかった。

「周、あなたには何の罪もありません。当時の私は迷っていました。その迷いが柏木さんを苦しめ、あなたにあんな嘘を吐かせる原因を作ってしまいました。罪があるとしたら……私にあるのです」

 雫との辛い別れからずっと清方には、自分の心をどこに向かわせれば良いのか。どうしてもわからなかった。気が付けば雫の事ばかりを考え続けている自分が、悲しくて辛くて…いたたまれなかった。

「一番の罪は……お前にあるんじゃない」

 搾り出すように雫が言った。

 薫はすぐ横にいる葵の手を握り締めた。彼らの事情は聞かされていた。思わず声を上げて泣いてしまった程、哀しくて辛い話だった。同時に16年もの間、互いに想い会う事が出来る。いや二度と逢えなくても人間は、誰かを想い続ける事が出来る。それでも薫は葵と離れ離れになりたくはないと思った。

 清方の同級生の自殺の原因が雫に振られた事に、されてしまった為に幾つもの悲劇が起こってしまった。武は本当の原因は紫霄学院のあり方そのものにあると言う。

 薫は今まで学院の事をそんな風に見た事がなかった。薫には当たり前の場所だった。だが自分が何も理解していなかっただけだと今回の事件で思い知った。世の中には辛く哀しい事が数多存在し、自分を取り巻く皆がそれを懸命に乗り越えて来たのだと。

「柏木さん、あの時に私はあなたにもっとはっきりとお断りを告げるべきでした。でも…心が揺れ動いたのも確かです。あなたを逃げ道に出来ればと思った事もあります。自暴自棄になりかける私を支えてくれたのが、周だったのです」

 互いの逃げ場になる。

 それが清方と周の関係だった。だからこそ当時の周は清方の為に、自分の何もかもを犠牲をするつもりでいたのだ。

「僕の浅知恵でもっと拗れさせてしまったのは事実だ」

「良いのです、周。さあ、朔耶の処へ戻りなさい」

 そう告げる清方の横で、雫もしっかりと頷いていた。

「…ありがとう…そして…ごめんなさい…」

 消え入りそうな声で告げると、周は中へ駆け込んで行き、朔耶がしっかりと抱き締めた。

「久我 周は君の本気の相手ではなかったのか…?」

「ええ。彼は私の為に全てを投げ出そうとしただけです。周は私の乳兄弟ですから」

 乳母の息子を乳兄弟と呼ぶ。その関係は実の兄弟と主従関係を併せたよりもよりも深い。乳兄弟は時には主たる者の身代わりに、己の生命を投げ出す事もある。

 周の両親が彼をそのように育てたわけではない。恐らくは夕麿の乳母絹子とその母親の影響であると思われた。彼女たちは清方が誰の息子であるのかを、十分過ぎるくらいに知っていた。まだ健在であった絹子の母は夕麿の母翠子の乳母。密かに周に乳兄弟の在り方を教えていたかもしれない。たとえその事実を周自身が記憶してはいなくても、幼少時に行われたすり込みはその心に強く影響を及ぼしていたのだろう。清方はそれを哀れだとも思ってしまう。いろんなものに雁字搦がんじがらめにされて、周はずっと生きてきたのであるから。

「では誰が君の想い人だったと言うのだ?」

 彼は紫霄に在学していた頃の雫を、間接的には知っていたかもしれない。だが清方と結び付けて考えた事はなかったであろう。清方は傍らの雫を振り返った。それに応えるように雫は無言で清方を抱き寄せた。

「俺は昔、子供の短慮さで清方と別れた。だから本当に罪があるとしたら、それは俺に有る。武さまはただ、清方の精神科医としての腕を望まれた。

 それだけだ」

 雫は当時の経緯を口にする。彼にとっても後悔だけの辛い日々だった。哀しい哀しい事実だった。

 清方と周。

 二人と柏木教授との間にあった事。

 それを聞いた時、武は叫んだ。

「誰も悪くない!」

 罪科を本当に問わなければならない相手がいるとしたら、それは昔々に子供たちの人権も人格も無視して、閉じ込めるだけの出口のない学校を創った者たち。そして時代が変わってもなお、存続させている事実だ。学院に子供たちを閉じ込めて得をする人間がいる。それが許せない…と。自分の運命だと諦めさせて、抗う事すら出来ないように教育してしまう理不尽さに罪を問うべきだと。

 この言葉に葵すら驚愕した。自分もまたその教育の中に、生きている事に気付かされたからだ。

 武だけが持っている感覚。庶民育ちでありながら、紫霞宮として行き続ける理由。

 閉じ込められる悲しみの中で、誰かに執着しなければ生きられない者がいる。誰が責められると言うのだろうか?物事が荒立てられなければ良い。事態の根本にはそんな考えがある。蓬莱皇国の上流はそんな考え方の下で歴史を重ねて来た。影で数多くの犠牲が捧げられて、数多くの涙が流された事すら厭わずに。

 学院都市に閉じ込められるというのは、まるで昼も夜もない闇の底に堕とされるのと同じだ。凍えていくだけの心が誰かの温もりを求めたとして、罪を問う事など出来ないではないか。そう思い至ってやっと葵は武の真意を悟った。学院の闇をいつか終わらせたい。象徴として紫霞宮という存在は必要不可欠なのだと。

 学院に夜明けを。

 学院の現状を必要とする存在がいる限り、安易な事で実現する事ではない。武の生涯をかけても難しいかもしれない。だから彼と周囲の人間は繰り返し学院に足を運ぶ。下河辺 行長のように自ら望んで学院に残る者もいるのだ。武も周囲の人間も意志を継いでくれとは言わない。

 薫と葵に自分たちの望む道を歩けと言う。武の笑顔の向こうにある悲願を葵は薫に懸命に話した。彼が全てを理解したとは思ってはいない。だが確実に学院で過ごす生活への視点が変わっていくと信じたい。薫が武を助けたいと望んでいるならばなお更だ。

「君は今……幸せなのか?」

 哀しげに伏せた睫毛が揺れる。

「雫と再会し両親にも再会出来ました。私は大切なものを取り戻させていただきました。

 だから…とても幸せです」

 学院の闇から逃れる事が出来た、清方。愛する人と立つ彼は穏やかな顔をしていた。

「そうか…」

 柏木 克己は雫に向かって手にしている日本刀を差し出した。

「投降する」

 静かなで穏やかな口調だった。

 清方は思った。柏木 克己は誰かに止めて欲しかったのかもしれないと。

「柏木さん…ありがとうございます」

「ずっと君に逢いたかった。学院を出て行った君が、悲しい想いや辛い想いをしていないか心配だった。幣原 密から久我 周が御影 朔耶と暮らしている話を聞いて、君は辛い想いをしているのではないかと思ったんだ」

 今回の事件は誤解の上に重ねられた誤解だったのだと、清方は悲しい事実に胸が痛かった。

「確か…成瀬警視正だったな?」

「ええ」

「紫霞宮殿下の存在を快く思わない者はまだ存在する。私は錦小路親子とは別のルートで、10年前と9年前の事件に協力させられた」

「やっぱり…誰に依頼されたのです?」

 目的が同じであった為に、佐久間 章雄と柏木 克己は協力関係にあった。

「それは…」

 その時、辺りを切り裂くようにライフルの銃声が鳴り響いて、柏木 克己の胸を銃弾が貫いた。噴出す血がスローモーションの映像を見ているように現実感がなかった。駆け寄って抱き上げた清方が、首筋に手で触れて首を振った。

 即死状態だった。

「柏木さん…」

 清方は自分を愛してくれた為に、進むべき道を間違った彼の身体を抱き締めて号泣した。

 薫は恐怖に震えながら葵に縋り付いた。葵は薫を抱き締めながら、防弾硝子越しに中庭を見詰めている武を見た。拳を握り締め唇を噛み締めて、つき付けられた現実から決して目を逸らさない。そんな決意のようなものが彼の姿から感じられた。

「薫、武さまを見て」

「え?」

 薫は震えながらも言われた通りに武を振り返った。食い入るように庭を見詰め続ける武には、鬼気迫る雰囲気があった。

 悲しみを怒りに変える様が見えた。彼をいたわる様に夕麿が背後から抱き締めた。武は無言で夕麿の胸に顔をうずめた。

 武の気持ちが伝わって来るようだった。学院の闇というものを薫は見たような気がした。武がいなければ自分もまた閉じ込められる筈だった。そして……葵も閉じ込められていた人間だった事に改めて愕然とする。

 武の悲願と皆の願い。それがこんな悲しみの上にあったのだと、薫は本当に理解したのだ。

「私も…学院を変える為に頑張る」

 言葉が自然に口を吐いて出た。

 こんな事が許されてはいけない。

 純粋にそう感じていた。

 夜、薫も葵なかなか眠れなかった。

 人が死ぬ……しかも誰かに生命を奪われるのを目撃してしまった事は、余りにも衝撃が大き過ぎた。気を利かせた義勝が精神安定剤を処方してくれたので、二人とも兎にも角にも夢も見ないで眠る事が出来た。

 翌朝、多少目覚めの悪い頭を無理に働かせながら起きて行くと、武が高熱を出して臥せっていると知らされた。

「影暁さん、今日は俺が社に出るから夕麿を武から離さないで欲しい」

 スーツを着た義勝が懇願していた。

「周先生、武さまのご不快は如何な状態ですか?」

 不安にオロオロしている薫を見て見兼ねて葵が尋ねた。

「40度近くお熱があられます。恐らくは昨日のショックが原因であると思われますが…投与した解熱剤が効かない状態なのです。夕方まで変化があられない場合は、入院いただく事になるかと思います」

「周先生…武兄さまは発作じゃないの?」

 薫はそれが心配だった。

「現在のご様子には常の発作の兆候は現れてはおられません。ただ、夕麿がご自分から離れるのを嫌がっていらっしゃいます」

「それは…如何なる事でありましょう?」

 葵は周の様子から彼が理由をわかっているのではないかと感じていた。

「武さまは…夕麿が狙われ続けた時の事を、思い出されてしまわれたのでしょう…夕麿を側から離すのを恐れていらっしゃるのです」

 周の言葉に全員が沈黙した。

「今回は…まだ柏木教授個人の意志で、犯行は行われたと考えられています」

 貴之がプロファイルの結果を口にした。

「9年前に二人を狙ったもう一方は、今はどう考えているかはわからないと?」

「今日、紫霄の彼の部屋を家宅捜査する予定です。9年前の一連の事件は用意周到でした。比べて今回は微妙に辻褄が合わない、行き当たりばったり的な部分があります」

 柏木 克己が誰かの命令で動いていたならば、もっと計算された行動をとったのではないか。幣原 密の利用の仕方はもっとあった筈である。ましてやあのような場所で口封じだとしても、彼を射る必要はあったのか。あの時、雫たちはそこまで警戒を強くしてはいなかった。武をあの状態で狙われれば、防ぎようがなかったとも言えるのだ。

「結局…教授は、何がやりたかったんだ?}

 義勝がやるせない面持ちで言った。

「私には清方先生の今を確かめたかっただけに見えました」

 雅久が貴之を見て言った。

「あの人も結局はご都合主義のエゴイストたちの被害者なんだよ」

 そう呟いた義勝に誰も反論出来なかった。

「多分、武さまは夕麿が狙われないかを恐れていらっしゃるのだと思います」

 自分たちの部屋へ周を呼んで、薫と葵は問い掛けるとそんな返事が返って来た。

「夕麿は繰り返し狙われた過去があります。ほとんどが武さまを、紫霄の特別室に幽閉する目的でした…」

「どうして!?どうしてそんな理由で、夕麿兄さまの方が狙われるの!?」

 薫にはその理由がわからなかった。

「それは…」

 周が唇を噛んで目を伏せた。葵を伴侶に得た薫は、武と同じ恐怖を味わう可能性があった。

「伴侶がいなくなれば、外へ出る条件が満たされなくなるのですね?」

 葵は冷静だった。

「そうです…武さまはもう紫霄に幽閉される事はおありにはなりません」

 そう、紫霄に幽閉されはしない。だが自由は保証されていない。実際に夕麿の治療の為に引き離した時に、期限が区切られて何処かへ幽閉される予定が組まれていたのだという。

「今、夕麿兄さまがいなくなったら、武兄さまはどうなるの?」

 薫の問いに周は首を振った。

「わかりません。誰にもわからないのです」

 わからないからこそ不安と恐怖は募る。

「葵は…大丈夫なの?」

 それに気付いた薫の声は震えていた。周は言葉を発しない。

「私も夕麿さまと同じ可能性があるのですね」

 そう告げた葵は穏やかな笑みを浮かべていた。

「葵?」

「よろしいですか、薫。あなたはご自分の身を一番に考えてください。大丈夫です。私は負けません。ですから、二人で乗り越えましょう。私たちが失敗したら、武さまの祈りだけではなく…未来の特別室の方も悲しみに包まれます」

 螢の妃、長尾 光俊の願いを知ったからかもしれない。乗り越えて来た武と夕麿の姿があるからかもしれない。葵は負けたくなかった。

 制約を受けようとも、生きる。その強い想いを抱いていた。

「わかった。私も負けない!」

 答えた薫はまだまだ本当の大変さを理解してはいない。けれどもそれでも構わない。葵はそう思っていた。

 笑顔で薫を抱き寄せてから、ソファから立ち上がった。すぐに戻って来て、周の前にそれを置いた。

「香炉?」

「武さまに」

 周は息を呑んだ。香道には秘香と呼ばれるものが存在する。周は一度、朔耶が武にもらったイランイランの催淫の香に、見事な程我を忘れさせられた。

「これは気を鎮めます。武さまのお気持ちが少しでも、お楽になればと想い調合いたしました」

「ありがとうございます」

 これが効果を示せば、今後の武の治療に有効かもしれない。

 周は葵に深々と頭を下げた。

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