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邂逅
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清方と雫が取った部屋は、武たちの部屋の下の階のスイートだ。リビングを中央に二つの寝室がある。片側を清方と雫、もう片側を敦紀と貴之が宿泊する。敦紀は本庄兄弟の事には関与しないという事で、到着早々に寝室へ入ってしまった。
やがて真也が訪れ、あとは貴之と成美に警護された武たちが来るのを待つだけだった。
雫のスマホが鳴り二人がホテルに到着したと連絡が入った。程なくドアの呼び鈴が鳴らされ、武と貴之が立っていた。夕麿の姿はない。どうやら武は本庄兄弟と夕麿を二度と会わせるつもりはないらしい。先に成美に警護を頼んで、最上階へ行かせたと貴之が報告した。
武の入室に雫と清方が立ち上がった。真也は訝しく思いながらも、二人に従って立ち上がった。
「わざわざのお出ましに感謝いたします」
清方が頭を下げて言うと武は小さく答えて着席した。続いて雫と清方が座り、真也も座るように促された。貴之は座らずに武の背後に立つ。どうやら彼は真也を信用していないらしい。
「ご紹介申し上げます。こちらが本庄 真也さんです」
武が頷いた。真也はその態度に少し苛立ちを感じた。
「真也さん、御園生財閥の次期総帥、御園生 武さまです」
「はじめまして」
苛立ちを抑えて挨拶を口にした。しかし武はニコリともしない。
それにしても蓬莱皇国屈指の資産家の子息で、次期総帥だというだけで何故、こんなに丁重に扱われるのだろうと真也は思った。これではまるで身分や地位が高い人物扱いじゃないか。金持ち嫌いの真也の心に反発と不満が細波を起こす。本庄家だって本来はそれなりの身分がある。室町から続く貴族の末裔だ。
一方、御園生家は経済で国に尽くしたとして、身分を叙爵された勲功華族だ。言わば成り上がり者に過ぎない。しかも武は小夜子夫人の連れ子で、父親のわからない私生児だった筈だ。調査結果の内容を思い出して真也は屈辱に震えた。伝統と歴史を持つ本庄家の出身の自分が、如何に貧しく庶民の生活をしているからと言って、私生児如きの下に置かれなければならないのか。長い間、忘れていた貴族の矜持が、真也の心の中で頭をもたげ始めた。
「話を聞こう」
武は夕麿を傷付けられた事に心底腹を立てている。それだけではない。多忙さで心理的な余裕も余りない状態だった。本来ならば雑談を少し行い、場を和ませてから本題に入るのにいきなり本題に入った。
文月の身内で最上階を担当している押田 光高が、それぞれにお茶とお茶菓子を配る、順番も当然ながら武が最初だった。
「結城菓子司のか?」
「敦紀が夕方に購入して来ました」
貴之が少し身を屈めて武に告げた。
「押田、夕麿と久留島にも持って行ってやってくれ」
「承知いたしました」
誰よりも小柄で華奢な武が、ここにいる誰よりも尊大な態度でいるのが真也には腹立たしい。
お茶を淹れ終えた押田が、頭を下げて退出した。
武は嬉しそうに出された和菓子を食べ、お茶を飲んでポツリと言った。
「ダメだな。余裕が無さ過ぎる」
「本日くらいはお仕事をお忘れになられては如何です、武さま」
「そうしたいんだけど、外務省からも宮内省からもまた山ほど資料が来た。一日中、文字ばかり追ってるから目も首も肩も痛いのなんの。夢に見そうだよ」
自嘲気味に笑う武に雫が進み出た。
「初めてであらしゃいますから、幾分かは仕方ない事に思います。どのような方も最初から、全てがお出来になられる訳ではございません」
「慣れるのかな……俺が行って本当に意味があるのかと疑いたいよ」
武の正体を知らない真也の前で、スレスレのレベルの会話を交わすのは、少しでも気持ちを解す為だった。敦紀が用意した和菓子も武の気分を和らげる為の配慮。彼を武の秘書に出来ないのを夕麿が惜しむ理由だった。
「私でよろしければ、後ほどお部屋でマッサージさせていただきます」
「本当?お願いするよ」
貴之の言葉に笑顔になった。全員が武の気分を解そうとする。真也にはそれすら金持ちにゴマをすっているようにしか見えない。彼らの会話に秘められた意味を感じ取れないでいた。
「では、余り夕麿さまをお待たせしてはいけませんから、本題に」
清方が笑顔で告げ武が頷いた。笑顔は消えたが先ほどよりは眼差しが優しい。
「一つ、伺っても良いですか?」
「何?」
真也の刺々しい口調に貴之がわずかに身構えた。
「あなたが一番お若いですよね?それなのに何故、皆さまに斯様な態度をするんです? 資産家の子息になった事に慢心しているならば、あなたはとんでもない愚か者です」
「は?」
武は言われた事が一瞬、理解出来なかった。皇家の男系の血を引く者として、紫霞宮として、周囲にかしずかれるのが既に当たり前になっていたのだ。
「御園生家よりも護院家や成瀬家の方が家格が上です。しかも皆さまはあなたより年長者だ。もう少し敬う事は出来ないのですか」
武は真也の言葉に絶句した。年長者を敬う気持ちなら、常日頃からきちんと示している。一番口煩い夕麿が何も言わないのだから間違ってはいない筈だ。どう答えて良いのかわからなくて武は戸惑って しまった。
深々と溜息吐いたのは雫だった。
「君は武さまを私生児だと侮っているのだろう。父親がわからないと?民間の調査ではそうだろうな」
雫は席に戻ってそう言った。
「武さまの父君はちゃんとわかっている。俺はその父君とは従兄弟同士だ。その方は俺が紫霄の中等部の頃に急な病で崩去された。小夜子さまが御懐妊に気付かれたのは、そのずっとあとだった。しかし小夜子さまはご懐妊に気付かれたばかりで、ご実家に帰られてご両親の元でひっそりと武さまをご出産されたのだ」
直也の治療に関わる人々の経歴は貴族総覧で確認していた。雫の母 史子は今上皇帝の末の妹だ。その雫が敬語を使う。つまり武が皇家の直系である事を語っていた。雫は公には認められていない武の立場をはっきりと口にする事はできない。ゆえに遠回りであやふやな事しか言わなかった。
「DNA鑑定を済んでいる。ただ今更、武さまに宮家へお入りいただくのが無理なだけだ」
御園生家の子息として次期総帥になるという事の説明にもなっていた。雫は自らの警察手帳を開き、普段は見せないもう一つの身分証を見せた。
「皇宮警護官!?」
「武さまは何度となくお生命を狙われていらっしゃる。それで我々がご伴侶の夕麿さまと共に警護に就いている」
武は手を叩きたくなった。紫霞宮という本当の身分は言わないで武の立場を説明したのだ。嘘偽りはない。
「宮家の直系……」
それだけで真也の反発心は削ぐ事が出来る。
「納得したのなら話を始めて欲しい。俺が部屋に入るまで夕麿は起きて待っている。今、海外プロジェクトが進行中で忙しいんだ。早く休ませてやりたい」
夕麿を思いやる言葉に真也は目を見開いた。
真也はまず弟をアメリカから連れ帰り、入院治療の便宜をはかってもらっている事に感謝を述べた。その上で弟を何とかしてやりたいと思い詰めた結果、夕麿の気持ちも考えずに一方的な暴走を謝罪した。
武はしばらくは無言だった。何かに耐えるよう肘掛けを固く握り唇を噛み締めていた。誰もが無言で武の言葉を待った。
「夕麿は十分過ぎる程、辛く悲しい想いをして来た。俺はこれ以上、あれにそんな想いをさせたくない。そう思うのに…守ってやれないままだ」
夕麿が傷付く度に守れないと自分を責め、武はその何倍も傷付いて来た。その痛みすら彼は愛する人を守れない咎のように思っているのかもしれない。清方はそう感じながら口を挟まなかった。
「本来ならば…お前たち兄弟をどこかへ追放する…あれが現状のままを望んでいる。その友情に報いて今回だけは不問に付す。
だが、忘れるな?俺はお前たち兄弟を許したわけじゃない。許せるわけがない」
腑が煮え繰り返るような想いを、噛み締めて夕麿の気持ちを汲んだ返事。全てを話した次の日、夕麿が起き上がれない状態にまでなったのは、怒り狂う武を必死で説得した為だったのではないか。こんな事を願えば火に油を注ぐようなものだ。わかっていて夕麿は武に嘆願したのだろう。一番の理由は真也に武を憎ませない為だと感じる。夕麿の為ならば自分にどのような感情を、向けられようと一切気にしたりはしない。自分一人が悪者になれば良い、武はそう考える。
だが夕麿はそれでは辛いのだ。だから必死になって説得したのだろう。
「二度とお前たち兄弟には会わせない。良いな?」
「はい…承知いたしました」
やむを得ない。真也にすればそんな気持ちだろう。既に夕麿には直也にも、真也にも面会不許可の判断が下りている。武が今一度口にする事で決定的な意味を持った。
「話は終わったな?雫さん、部屋まで送ってくれ」
「はい」
雫を従えて武が出て行くのを見送り、清方は真也と向き合った。
「武さまの印象は如何ですか?」
清方の真っ直ぐな問い掛けに、真也は顔を上げて答えた。
「よく…わかりません。ただ、夕麿さまを大変想っていらっしゃるのはわかりました」
「そうですね」
清方は自分の感情を制御する為に少し俯いて黙った。個人の感情と医師としての使命感と相反するものが心の中でせめぎ合う。真也にとっての自分は、弟の主治医なのだと自らに言い聞かせた。
武と夕麿の苦悩をずっと見詰めて来た。武は忠義を誓った主であり最愛の人の身内だ。そして夕麿は…長い間、身内から切り離されて生きなければならなかった時、それを口に出来なくても…側にいた唯一の身内だった。家族から引き離されていた為、清方には乳兄弟である周と同じか…それ以上に大切な身内だった。
二人が雫との再会に助力してくれたのも、清方には特別な感情を抱かせた原因だった。だが今必要なのは精神科医としての自分なのだ。
「今回の件に対して夕麿さまは、ご自分の身を挺して武さまを説得されたようです。あの方の直也君へのご友情にどうか感謝なさってください」
わかって欲しいと思う。夕麿の思い遣りを無碍にしないでと真也に詰め寄りたかった。だが医師としてそれは許されない。内面の葛藤を隠して清方は静かに微笑んだ。
「はい…夕麿さまにどうか、お詫びをお伝えください」
真也はそう言って帰って行った。
清方はソファに身を投げ出すと、ネクタイを緩めながら溜息吐いた。
本心を言えば余り本庄兄弟を好きになれない。病とはいえ直也の夕麿に対する異常な執着。全てがかつての同級生と武の誠意で成り立っているにも拘らず、本心から感謝しているとは言い難い真也の姿勢を憂う。今以上の治療が不可能と診断されたのだ。御園生の病院で加療を続ける意味があるのだろうか…と思ってしまう。
夕麿を始めとした第81代生徒会執行部の友情は理解する。多々良 正恒の事件の被害者で生きて行方がわかっているのが、夕麿以外は直也ただ一人である事に、彼ら全員が何某かの罪の意識のようなものを持っているのも理解は出来る。
しかし…もう十分ではないのか。これ以上は無意味だとさえ清方には感じられるのだ。夕麿の優しさを真也は理解してはいない。その裏で武がいろんな事を我慢しているのも、知らないであろうし知ろうとはしないだろう。
真也は自分の両親を憎み、資産家に対する偏見を持っている。武が何処かの宮家の直系だと知っても在り難がるとは思えない やはり…転院を考えた方が良いのではないのか。同じ御園生系列の病院には、山間部の自然の中にある施設もある。今の病院に居続けるよりも良いのではないのだろうか。
本庄 直也の主治医は確かに自分だ。同時に武と夕麿…紫霞宮夫妻の主治医も自分なのだ。生命に身分の上下の差はない 一般にはそれが建前だ。けれどもそれが必ずしも適応される訳ではない事を、清方は知っている人間の一人だった。侍医として一番に選択するのは武と夕麿だ。それ以外に選択は存在しない。
実際に本庄 直也は夕麿に危害を加える事がわかっている人間だ。真也も夕麿に危害を加えようとした。
ぐるぐると考えあぐねているのが嫌になって、ネクタイを引き抜きながら立ち上がった。バスタブに湯を入れながら先程、フロントに言って持って来させた物を取り出した。 最高級のオリーヴ・ヴァージンオイルと蜂蜜。卵の白身のみを何個分か。
まず入れ物に蜂蜜を入れ、オリーヴオイルを注ぎ込み、かき混ぜてオイルに蜂蜜が溶けたら、少しずつ卵の白身を入れながらかき混ぜる。
衣類を脱ぎ去りバスルームへ入った。
雫はそのまま明日の警備の打ち合わせに行っている。当分は戻って来ない。髪を洗い全身を洗った後、タオルドライを軽くしてから、先程作った物を手にした。中身を手に取りまず顔に塗る。髪に塗り全身へと塗っていく。背中は長い刷毛を使うが、きちんとは塗れていないのがたまに傷だ。全身に塗り終わるとそのまま立っていなければならないが仕方がない事だ。
清方が行ったのは西洋で古来より、王侯貴族が肌や髪の手入れとして行って来たパックだ。完全に乾くまで待って洗い流す。いつまでも雫に愛されたいと願う、清方の精一杯の想いの表れだった。エステにも行くが、別に時々幾つかのアンチエイジングを実行している。
バスタブに半分ほど湯が溜まったのを見て、やや大きめの袋を投げ込んだ。中身は乾燥させたカミツレだ。カミツレは髪を豊かに艶やかにし肌には美白の効果がある。また古来よりアンチエイジングの効果があると言われている。薬効を否定する者もあるが、保温効果が喘息の薬や風邪薬に用いられて来た。
武がよくオレンジのスライスを入浴剤代わりに入れているがこれも美白や保湿効果がある。またハーブ全般に殺菌効果があり、湯気を吸い込むだけで予防効果になる。
次第にパックが乾燥して来た。皮膚が張り詰めた感覚になる。いつまでも若く美しくありたい。そう望む事に性別は関係ない。誰かを愛して失いたくないと願う人間ならば、それはごく当たり前の想いである。十分に乾燥したのを確認して、温度を高めに設定したシャワーで洗い流した。完全に流せたのを確認して、今度はシャワーを水に切り替えて全身に浴びる。心臓病や高血圧の患者には危険な行為だが、これも肌を刺激して代謝を活性化させる方法だ。
身体が完全に冷えたのを確認して、バスタブにゆっくりと爪先から順番に入っていく。広いバスタブに滑るようにして温めの湯に潜る。水面に灯がキラキラと揺れるのを見詰めた。バスタブの湯に潜るのは子供の頃からの癖だった。特に雫に背を向けられた頃は水面の煌きを見ながら、このまま湯を吸い込んで死んでしまいたいと何度も思った。
紫霄に閉じ込められる運命のどこにも光は見付からなかったからだ。不意に水面に影が差し次いで腕が差し出された。たった今考えていた事に応えてもらったみたいで、清方は喜んでその腕を掴むと一気に水面に向かって引き上げられた。
「溺れたらどうする……」
呆れ顔の雫が言った。嬉しかった。やはり自分を本当の意味で、光の降り注ぐ場所へ引っ張ってくれるのは雫しかいない。清方は両腕で力一杯、雫に抱き付いた。
「雫…愛してます」
濡れた身体でシャツの上から抱き付かれたのも気にせずに、雫はしっかりと抱き返して訊いた。
「惚れ直したか?」
噴出した清方の頬に手を添えて唇を重ねた。彼が医師としての立場と自分の感情の板ばさみになっているのには気付いていた。雫にも良くわかっている気持ちだった。通常の企業人よりも公私を混同出来ない職業を互いに選んでしまったのだから。
「ちょっと待て脱ぐから」
清方を放してパウダールームに取って返した。手早く脱ぎ捨ててバスルームに戻る。煌々と点る光の中で、バスタブに腰掛けている清方の白い肌は輝いて見えた。
真也は深い迷宮の底で袋小路に踏み込んでしまった気持ちだった。
御園生 小夜子が貴族出身でも、息子の武は父親のわからぬ私生児。それがどこかの宮家直系だとわかって愕然としていた。同時に何故夕麿が彼の伴侶に選ばれたのか。 何故、同性での結び付きなのかもわかってしまった。宮家直系が私生児として誕生し、15年以上も隠されていた。宮家は皇家の血筋が危機に瀕している今、高御座に昇る立場になる可能性があるのだ。そうなった場合に武のような存在がいては皇家の体面に関わる。皇家は国民の模範でなければいけないという暗黙の了解があるのだ。
皮肉な事だった。
皇家が最も必要とする、30歳未満の男系の血を引く者。それが表向きに出来ない存在だったとは。武は子孫の残す事を許されなかったのだ。身体にメスを入れて、女性を妊娠させられなくするか、同性と結び付くか。二者択一の結果が同性との結婚だったのだろう事は、真也にも安易に想像が出来た。夕麿ならば血筋としてもひととなりも申し分ない。
───やはり夕麿は生贄のようなものだと思う。それでも与えられた条件の中で、夕麿は武によく仕え尽くしているのだろう。夕麿の気持ちがどのようなものであったとしても、今の立場から逃れる事は不可能だ。
数日後の夜に真也は久し振りに弟の見舞いに精神科病棟に向かっていた。見舞い客用の唯一の出入口を通ると貴之が立っているのが見えた。声を掛けようと踏み出すと今度は義勝が姿を現した。夕麿は直也との面会は禁止されている。だが他の人間はそうではない。いるのは二人だけ?そう思った次の瞬間、義勝の隣に誰かがいるのに気付いた。武だった。
直也の治療費をだしている同級生たちの話では、武は直也の事にはノータッチだった筈だ。それが今更に見舞いに来た?武の身分や立場は理解するが本人を認めたわけではない。ここに弟を入院させ続けるには、彼の機嫌を損ねない方が良い。そう思ったから謝罪をしたのだ。
腹立たしく思いながらも挨拶に歩み寄った。
人の気配にまず貴之が反応した。次いで義勝が武を庇う。長身の義勝に抱き絞められるようにして武が振り返った。先日、ホテルで会った時よりも顔色が悪く、目の下に隈が出来ている。
「真也さん、本日はご遠慮願えませんか」
ナースステーションから清方が出て来て告げた。
「すみません…当分、来れなくなりそうなんです。人事異動で忙しい部署に移動になったので」
彼の言葉に清方は貴之を見た。今日は雫は来ていない。
貴之が口を開きかけた時だった。突然、叫び声が響いた。ギョッとして振り返った彼らは、叫びながら突進して来る直也を見た。隔離の為のドアが開いていたのだ。そこへ面会に使用する部屋へ移動する直也が通りかかったのである。彼は武にどのように反応するかわからなかった為、先に部屋へ入れて椅子に拘束する筈だった。
直也は武に向かって真っ直ぐに走って来る。やはり何某かの形で危害を加えるように暗示がされているらしい。スタッフが数人がかりで直也を押さえようとするが、小柄な身体からは想像も付かない強い力で暴れ武に近付こうとする。貴之は彼が武に近接した時に備えて立っていた。
「六条さまを返せ~!」
武に手を差し伸べてそう叫んだ。義勝の腕の中で武が唇を噛み締めたのが見えた。
「お前なんか死ね!死んでしまえ!」
なおも掴みかかろうと手を伸ばして叫ぶ。
「六条さまは僕のだ!」
真也は蒼褪めた。そんな事を言ったら間違いなく武の怒りを買ってしまう。取り成そうと武を見て息を呑んだ。
武は義勝に縋って泣いていた。泣きながら呟く言葉が聞こえた。
「ごめん…ごめんなさい…」
武にすれば直也は自分を殺す為に利用された被害者だ。その前から今のような状態になっていたとしても、武のは夕麿を求めて自分死を望む彼を見るのは辛かった。生きている事自体が罪のように感じてしまう。
双方の様子を見ていた真也は、武に罵声を浴びさせ続ける弟の姿に耐え切れなくなった。もうこんな姿は見たくはなかった。弟に駆け寄って抱き締めた。
「もう良い…やめてくれ、直也」
だが直也の目には武の姿しかなく、心には彼を排除する事しかなかった。愛しい夕麿を取り返す為には武は邪魔者でしかなかった。兄を突き飛ばしスタッフたちを振り払い、絶叫して武に飛び掛ろうとする。貴之が割って入った刹那、真也が弟の背中に持っていたナイフを突き立てた。
凄まじい悲鳴が響き渡った。鮮血を撒き散らして転げ回る直也の傍らで、真也がナイフを握り締めたまま茫然自失で立っていた。
清方と義勝が急いで止血をする。看護師が保を緊急に呼び出した。
貴之は武を背後に庇いながら、雫に指示を仰ぐ為の電話を掛けた。武は先程とは打って変わって、冷静に事態を見詰めている。その様子に一瞬、義勝はギョッとして手を止めた。だが武が冷静な理由を理解して言った。
「初めてじゃなかったな」
その言葉に真也が我に返った。
「まあな。ロスで一度経験してるから」
ロサンゼルスで夕麿と共に、朽木たちに拉致された時に、板倉 正巳が貴之をいきなり刺したのだ。
「貴之先輩、雫さんは何て?」
「すぐに駆け付けてくれるそうです」
「了解。
で、真也さん。今、俺を守ろうとしてくれたんだよね?」
全員が驚いた顔をする中で、貴之だけが武の意図を理解した。
「過剰防衛…ですね」
罪は罪。
犯罪そのものをなかった事するのは絶対にしてはならない。そんな事をすれば法秩序が崩壊する。如何なる理由があろうとも、罪を犯した者は逮捕され、法の判断に委ねられねばならない。だが関係者の証言や嘆願書によって、被告人の罪の軽減を訴えかける事は可能だ。
真也は弟が錯乱して武を襲うのを止めようとして、たまたま所持していたナイフで刺してしまった。何とかしなければならないと思う余りに過剰な行動をしてしまった。ナイフのサイズや所持理由は問われるが、傷害行為自体は過剰防衛と判断されれば刑の軽減がある。
武はとっさにそう判断したのだ。
真也は弟の血にまみれた両手を見てそれから武を見た。武が何を言っているのか、やっと理解したらしい。
「病院側の過失もある」
直也から兄まで奪ってしまってはならない。それが武の気持ちだった。直也がこうまでして求める夕麿を与える事は出来ない。夕麿の気持ちを無視して生命を捨てさせる行為だ。
「えっと…雫さんの知り合いに、弁護士がいましたよね?」
「ええ」
「あとで連絡して、弁護を依頼してください。費用は俺が払います」
先程まで義勝に縋って泣いていた姿と、今の武は正反対の顔をしていた。
「わかりました」
武が場を取り仕切っている最中に保が駆け付けた。床に落ちているナイフを見て、傷口の状態や場所を確認した。
「内臓までは届いていないと思われます」
その言葉に全員が安堵の息を吐いた。
緊急手術が始まった。
真也は逃亡の可能性が低い為、直也と武の対面の為に準備されていた部屋に入った。ドアの外では武が院長に指示して配置させた警備員が念の為に立っている。
武は雫の到着を待ちながら、ナースステーションの一角に出された椅子に座っていた。
清方はそんな彼をジッと観察する。危機的状況に出会うと武は豹変する。冷静に状況を判断し、適切な指示や行動をする。唯一の欠点は、自分を守る事を最後に考えてしまう事だ。この冷静さは恐らく幾度も危機に、実際に出会ってしまったからだと判断出来る。
PTSDがない訳ではない。故にストレスとして蓄積されはする。それでも武が動けるのは誰かを守りたいと強く願う気持ちが勝つからだ。
「遅くなりました」
雫が成美と所轄の刑事を連れて駆け付けて来た。貴之が敬礼で応えた。
「本庄 真也は隔離病棟の一室に閉じ込めてあります。直也は現在、保さまの執刀で手術中ですが、生命に危険のない軽傷だとの事です」
加害者・被害者の現在の状況を簡単に説明する。
「現状は警備員を配置して保全してあります。目撃者もそのまま留め置きました」
所轄の刑事と鑑識官を貴之が案内する。それを見届けてから雫は武に歩み寄った。
「武さま、お怪我は?」
「ない。真也さんは俺を助ける為に直也さんを刺した。俺は義勝兄さんと貴之先輩に守られていたけれど、錯乱して暴れるのが凄まじい状態だったんだ。そこをあの刑事たちに説明してくれ」
「承知いたしました」
雫に説明する姿は不安そうに見えた。彼が来た事でこの場の指揮は武にはなくなる。刑事事件は警察の管轄で、武は目撃者に過ぎない。所轄の刑事たちが武たちの言い分を信じなければ、真也は傷害か殺人未遂になってしまうだろう。
そこへ警備主任が何かを手にやって来た。精神科病棟は一部を覗いて、完全に録画されている。彼は院長の指示に従って証拠として持って来たのだ。
雫が所轄の刑事を呼んだ。清方のPCを借りて映像を再生する。真也が病棟に来る少し前、武が貴之とやって来た所から始まった。義勝と清方がナースステーションから出て来る。清方が看護師に何かを言って、彼は隔離病棟へ向かう。
そこへ真也が来た。清方が話し掛け真也が答える。つい先程の光景が映し出された。突然、隔離病棟のドアから直也が飛び込んで来る。看護師たちが懸命に止める。真也が加わって止めようとする。それを強い力で振り払い、義勝に抱き締められている武に襲いかかる。
映像で客観的に見ると直也と武の距離はかなり短い。貴之が割って入ったのとほぼ同時に、真也がナイフを突き立てるのがはっきりと映っていた。映像には音声は入ってはいない。従って解釈はどうとでも出来た。
「雫、本庄 直也はやはり、武さまを攻撃するように暗示をかけられていました。6年前のロサンゼルスの事件が…まだ尾を引いていたようです」
「ロサンゼルスの事件?」
訝しげに問い返した刑事に、雫はあとで説明すると答えた。
「久留島、武さまをご自宅へお送りしてくれ」
「はっ」
「ちょっと待ってください、成瀬警視正。この方の事情聴取を済ませてからにしてくれませんか」
清方が武を庇うようにして進み出て立ち塞がった。
「この方は未だ治療中の患者さまでもあられます。主治医として申し上げます。既にかなりのストレスを受けられていらっしゃいます。ここに居続けるのは多大な精神的負担になります」
凛とした態度の清方に怯まないのは、数々の事件を経験して来た刑事だと言える。
「あと少しくらい構わんでしょうが」
「この方が今倒れたなら蓬莱皇国はの国益を失う事になり、政府や外務省から警察に苦情が行くでしょうね」
「はあ?」
「この方の調書は主治医立ち会いの上で、ご自宅に伺って取るように」
雫の言葉に刑事は目を剥いた。
「私も同席する。疑問があるならば、良岑刑事局長に問い合わせたまえ」
その名前を出されては最早黙るしかない。
「室長」
「どうした、良岑警部補」
雫はわざと貴之の姓を呼んだ。刑事たちの顔色が変わった。良岑と言う姓は早々いるものではない。しかも刑事局長の一人息子が、キャリア見習いとして警察省にいるのは、口さがない刑事たちの間では有名な事だ。
「隔離病棟との仕切りですが、病院側のミスではないようです」
「と言うと?」
「本庄 直也が体当たりして破壊したようです」
「武さまを見て暴走したか……」
単純に壊せるような物ではない筈だが、そこに直也の錯乱による暴走の凄まじさがあった。通常では止められなかった。
真也には有利になる事実だった。
彼らが話している間に成美は武を連れ去った。これ以上は本当に無理だと判断したのだ。
どんなに願い祈って全力で努力しても、ただ自分の未熟さと不条理を感じる事がある。
本庄 真也は武が望んだ通り、過剰防衛及びナイフを所持していた軽犯罪法違反で送検される事になった。
一つだけ希望があるとしたら、刺されたショックからだろうか。直也の意識がかなり鮮明になりつつあるという事だ。自分が実の兄に刺された事実は受け入れていた。何故かは理解している。しかし武を襲った事が何故いけないのかは理解していない。夕麿への極端な思い込みもそのままだ。
彼が暴走して隔離の為のドアを破壊した事実は重い。今の病院の施設や体制では、直也を完全に閉じ込めるのは不可能だと判断された。その上で夕麿たちへ直也の転院をすすめた。
もし夕麿たちが転院を拒否した場合、武が施設の改築を指示するだろう事も。真也が刑期を終えて戻って来た時、転院先を受け皿として雇用するようにすれば、彼は働きながら弟の側にいられる。そう説得した結果、直也は山間部にある病院へ転院する事になった。そこは以前は結核患者のサナトリウムだったが、今は御園生が買取、精神科の解放治療を中心とする病院になっている。数年前、清方の発案で創立された病院だ。
閉じ込めて投薬するだけの治療から、解放治療へと欧米の精神科医療は既に変化している。皇国でもそれをもっと実現するべきだと、有人に助言した結果だった。規模はさほど大きくはないが、重症患者を受け入れる為の隔離施設も徹底してある。スタッフも揃っている。同じ御園生系列だから、治療の状態や発作の状態もデータとして入手出来る。
何よりも美しい自然に包まれた場所だ。ここで直也の症状が少しでも改善し、真也も穏やかに生きて欲しいと願う。
清方は本庄 直也のカルテに転院の判を押し、電子カルテもデータベースへ移行した。
ゆっくりと立ち上がり帰り支度をする。今夜は母 高子の手料理を雫と味わう予定になっている。
スタッフに挨拶をして院外に出ると、雫が夕暮れの駐車場に立っていた。
清方は少し足早に歩き出した。
やがて真也が訪れ、あとは貴之と成美に警護された武たちが来るのを待つだけだった。
雫のスマホが鳴り二人がホテルに到着したと連絡が入った。程なくドアの呼び鈴が鳴らされ、武と貴之が立っていた。夕麿の姿はない。どうやら武は本庄兄弟と夕麿を二度と会わせるつもりはないらしい。先に成美に警護を頼んで、最上階へ行かせたと貴之が報告した。
武の入室に雫と清方が立ち上がった。真也は訝しく思いながらも、二人に従って立ち上がった。
「わざわざのお出ましに感謝いたします」
清方が頭を下げて言うと武は小さく答えて着席した。続いて雫と清方が座り、真也も座るように促された。貴之は座らずに武の背後に立つ。どうやら彼は真也を信用していないらしい。
「ご紹介申し上げます。こちらが本庄 真也さんです」
武が頷いた。真也はその態度に少し苛立ちを感じた。
「真也さん、御園生財閥の次期総帥、御園生 武さまです」
「はじめまして」
苛立ちを抑えて挨拶を口にした。しかし武はニコリともしない。
それにしても蓬莱皇国屈指の資産家の子息で、次期総帥だというだけで何故、こんなに丁重に扱われるのだろうと真也は思った。これではまるで身分や地位が高い人物扱いじゃないか。金持ち嫌いの真也の心に反発と不満が細波を起こす。本庄家だって本来はそれなりの身分がある。室町から続く貴族の末裔だ。
一方、御園生家は経済で国に尽くしたとして、身分を叙爵された勲功華族だ。言わば成り上がり者に過ぎない。しかも武は小夜子夫人の連れ子で、父親のわからない私生児だった筈だ。調査結果の内容を思い出して真也は屈辱に震えた。伝統と歴史を持つ本庄家の出身の自分が、如何に貧しく庶民の生活をしているからと言って、私生児如きの下に置かれなければならないのか。長い間、忘れていた貴族の矜持が、真也の心の中で頭をもたげ始めた。
「話を聞こう」
武は夕麿を傷付けられた事に心底腹を立てている。それだけではない。多忙さで心理的な余裕も余りない状態だった。本来ならば雑談を少し行い、場を和ませてから本題に入るのにいきなり本題に入った。
文月の身内で最上階を担当している押田 光高が、それぞれにお茶とお茶菓子を配る、順番も当然ながら武が最初だった。
「結城菓子司のか?」
「敦紀が夕方に購入して来ました」
貴之が少し身を屈めて武に告げた。
「押田、夕麿と久留島にも持って行ってやってくれ」
「承知いたしました」
誰よりも小柄で華奢な武が、ここにいる誰よりも尊大な態度でいるのが真也には腹立たしい。
お茶を淹れ終えた押田が、頭を下げて退出した。
武は嬉しそうに出された和菓子を食べ、お茶を飲んでポツリと言った。
「ダメだな。余裕が無さ過ぎる」
「本日くらいはお仕事をお忘れになられては如何です、武さま」
「そうしたいんだけど、外務省からも宮内省からもまた山ほど資料が来た。一日中、文字ばかり追ってるから目も首も肩も痛いのなんの。夢に見そうだよ」
自嘲気味に笑う武に雫が進み出た。
「初めてであらしゃいますから、幾分かは仕方ない事に思います。どのような方も最初から、全てがお出来になられる訳ではございません」
「慣れるのかな……俺が行って本当に意味があるのかと疑いたいよ」
武の正体を知らない真也の前で、スレスレのレベルの会話を交わすのは、少しでも気持ちを解す為だった。敦紀が用意した和菓子も武の気分を和らげる為の配慮。彼を武の秘書に出来ないのを夕麿が惜しむ理由だった。
「私でよろしければ、後ほどお部屋でマッサージさせていただきます」
「本当?お願いするよ」
貴之の言葉に笑顔になった。全員が武の気分を解そうとする。真也にはそれすら金持ちにゴマをすっているようにしか見えない。彼らの会話に秘められた意味を感じ取れないでいた。
「では、余り夕麿さまをお待たせしてはいけませんから、本題に」
清方が笑顔で告げ武が頷いた。笑顔は消えたが先ほどよりは眼差しが優しい。
「一つ、伺っても良いですか?」
「何?」
真也の刺々しい口調に貴之がわずかに身構えた。
「あなたが一番お若いですよね?それなのに何故、皆さまに斯様な態度をするんです? 資産家の子息になった事に慢心しているならば、あなたはとんでもない愚か者です」
「は?」
武は言われた事が一瞬、理解出来なかった。皇家の男系の血を引く者として、紫霞宮として、周囲にかしずかれるのが既に当たり前になっていたのだ。
「御園生家よりも護院家や成瀬家の方が家格が上です。しかも皆さまはあなたより年長者だ。もう少し敬う事は出来ないのですか」
武は真也の言葉に絶句した。年長者を敬う気持ちなら、常日頃からきちんと示している。一番口煩い夕麿が何も言わないのだから間違ってはいない筈だ。どう答えて良いのかわからなくて武は戸惑って しまった。
深々と溜息吐いたのは雫だった。
「君は武さまを私生児だと侮っているのだろう。父親がわからないと?民間の調査ではそうだろうな」
雫は席に戻ってそう言った。
「武さまの父君はちゃんとわかっている。俺はその父君とは従兄弟同士だ。その方は俺が紫霄の中等部の頃に急な病で崩去された。小夜子さまが御懐妊に気付かれたのは、そのずっとあとだった。しかし小夜子さまはご懐妊に気付かれたばかりで、ご実家に帰られてご両親の元でひっそりと武さまをご出産されたのだ」
直也の治療に関わる人々の経歴は貴族総覧で確認していた。雫の母 史子は今上皇帝の末の妹だ。その雫が敬語を使う。つまり武が皇家の直系である事を語っていた。雫は公には認められていない武の立場をはっきりと口にする事はできない。ゆえに遠回りであやふやな事しか言わなかった。
「DNA鑑定を済んでいる。ただ今更、武さまに宮家へお入りいただくのが無理なだけだ」
御園生家の子息として次期総帥になるという事の説明にもなっていた。雫は自らの警察手帳を開き、普段は見せないもう一つの身分証を見せた。
「皇宮警護官!?」
「武さまは何度となくお生命を狙われていらっしゃる。それで我々がご伴侶の夕麿さまと共に警護に就いている」
武は手を叩きたくなった。紫霞宮という本当の身分は言わないで武の立場を説明したのだ。嘘偽りはない。
「宮家の直系……」
それだけで真也の反発心は削ぐ事が出来る。
「納得したのなら話を始めて欲しい。俺が部屋に入るまで夕麿は起きて待っている。今、海外プロジェクトが進行中で忙しいんだ。早く休ませてやりたい」
夕麿を思いやる言葉に真也は目を見開いた。
真也はまず弟をアメリカから連れ帰り、入院治療の便宜をはかってもらっている事に感謝を述べた。その上で弟を何とかしてやりたいと思い詰めた結果、夕麿の気持ちも考えずに一方的な暴走を謝罪した。
武はしばらくは無言だった。何かに耐えるよう肘掛けを固く握り唇を噛み締めていた。誰もが無言で武の言葉を待った。
「夕麿は十分過ぎる程、辛く悲しい想いをして来た。俺はこれ以上、あれにそんな想いをさせたくない。そう思うのに…守ってやれないままだ」
夕麿が傷付く度に守れないと自分を責め、武はその何倍も傷付いて来た。その痛みすら彼は愛する人を守れない咎のように思っているのかもしれない。清方はそう感じながら口を挟まなかった。
「本来ならば…お前たち兄弟をどこかへ追放する…あれが現状のままを望んでいる。その友情に報いて今回だけは不問に付す。
だが、忘れるな?俺はお前たち兄弟を許したわけじゃない。許せるわけがない」
腑が煮え繰り返るような想いを、噛み締めて夕麿の気持ちを汲んだ返事。全てを話した次の日、夕麿が起き上がれない状態にまでなったのは、怒り狂う武を必死で説得した為だったのではないか。こんな事を願えば火に油を注ぐようなものだ。わかっていて夕麿は武に嘆願したのだろう。一番の理由は真也に武を憎ませない為だと感じる。夕麿の為ならば自分にどのような感情を、向けられようと一切気にしたりはしない。自分一人が悪者になれば良い、武はそう考える。
だが夕麿はそれでは辛いのだ。だから必死になって説得したのだろう。
「二度とお前たち兄弟には会わせない。良いな?」
「はい…承知いたしました」
やむを得ない。真也にすればそんな気持ちだろう。既に夕麿には直也にも、真也にも面会不許可の判断が下りている。武が今一度口にする事で決定的な意味を持った。
「話は終わったな?雫さん、部屋まで送ってくれ」
「はい」
雫を従えて武が出て行くのを見送り、清方は真也と向き合った。
「武さまの印象は如何ですか?」
清方の真っ直ぐな問い掛けに、真也は顔を上げて答えた。
「よく…わかりません。ただ、夕麿さまを大変想っていらっしゃるのはわかりました」
「そうですね」
清方は自分の感情を制御する為に少し俯いて黙った。個人の感情と医師としての使命感と相反するものが心の中でせめぎ合う。真也にとっての自分は、弟の主治医なのだと自らに言い聞かせた。
武と夕麿の苦悩をずっと見詰めて来た。武は忠義を誓った主であり最愛の人の身内だ。そして夕麿は…長い間、身内から切り離されて生きなければならなかった時、それを口に出来なくても…側にいた唯一の身内だった。家族から引き離されていた為、清方には乳兄弟である周と同じか…それ以上に大切な身内だった。
二人が雫との再会に助力してくれたのも、清方には特別な感情を抱かせた原因だった。だが今必要なのは精神科医としての自分なのだ。
「今回の件に対して夕麿さまは、ご自分の身を挺して武さまを説得されたようです。あの方の直也君へのご友情にどうか感謝なさってください」
わかって欲しいと思う。夕麿の思い遣りを無碍にしないでと真也に詰め寄りたかった。だが医師としてそれは許されない。内面の葛藤を隠して清方は静かに微笑んだ。
「はい…夕麿さまにどうか、お詫びをお伝えください」
真也はそう言って帰って行った。
清方はソファに身を投げ出すと、ネクタイを緩めながら溜息吐いた。
本心を言えば余り本庄兄弟を好きになれない。病とはいえ直也の夕麿に対する異常な執着。全てがかつての同級生と武の誠意で成り立っているにも拘らず、本心から感謝しているとは言い難い真也の姿勢を憂う。今以上の治療が不可能と診断されたのだ。御園生の病院で加療を続ける意味があるのだろうか…と思ってしまう。
夕麿を始めとした第81代生徒会執行部の友情は理解する。多々良 正恒の事件の被害者で生きて行方がわかっているのが、夕麿以外は直也ただ一人である事に、彼ら全員が何某かの罪の意識のようなものを持っているのも理解は出来る。
しかし…もう十分ではないのか。これ以上は無意味だとさえ清方には感じられるのだ。夕麿の優しさを真也は理解してはいない。その裏で武がいろんな事を我慢しているのも、知らないであろうし知ろうとはしないだろう。
真也は自分の両親を憎み、資産家に対する偏見を持っている。武が何処かの宮家の直系だと知っても在り難がるとは思えない やはり…転院を考えた方が良いのではないのか。同じ御園生系列の病院には、山間部の自然の中にある施設もある。今の病院に居続けるよりも良いのではないのだろうか。
本庄 直也の主治医は確かに自分だ。同時に武と夕麿…紫霞宮夫妻の主治医も自分なのだ。生命に身分の上下の差はない 一般にはそれが建前だ。けれどもそれが必ずしも適応される訳ではない事を、清方は知っている人間の一人だった。侍医として一番に選択するのは武と夕麿だ。それ以外に選択は存在しない。
実際に本庄 直也は夕麿に危害を加える事がわかっている人間だ。真也も夕麿に危害を加えようとした。
ぐるぐると考えあぐねているのが嫌になって、ネクタイを引き抜きながら立ち上がった。バスタブに湯を入れながら先程、フロントに言って持って来させた物を取り出した。 最高級のオリーヴ・ヴァージンオイルと蜂蜜。卵の白身のみを何個分か。
まず入れ物に蜂蜜を入れ、オリーヴオイルを注ぎ込み、かき混ぜてオイルに蜂蜜が溶けたら、少しずつ卵の白身を入れながらかき混ぜる。
衣類を脱ぎ去りバスルームへ入った。
雫はそのまま明日の警備の打ち合わせに行っている。当分は戻って来ない。髪を洗い全身を洗った後、タオルドライを軽くしてから、先程作った物を手にした。中身を手に取りまず顔に塗る。髪に塗り全身へと塗っていく。背中は長い刷毛を使うが、きちんとは塗れていないのがたまに傷だ。全身に塗り終わるとそのまま立っていなければならないが仕方がない事だ。
清方が行ったのは西洋で古来より、王侯貴族が肌や髪の手入れとして行って来たパックだ。完全に乾くまで待って洗い流す。いつまでも雫に愛されたいと願う、清方の精一杯の想いの表れだった。エステにも行くが、別に時々幾つかのアンチエイジングを実行している。
バスタブに半分ほど湯が溜まったのを見て、やや大きめの袋を投げ込んだ。中身は乾燥させたカミツレだ。カミツレは髪を豊かに艶やかにし肌には美白の効果がある。また古来よりアンチエイジングの効果があると言われている。薬効を否定する者もあるが、保温効果が喘息の薬や風邪薬に用いられて来た。
武がよくオレンジのスライスを入浴剤代わりに入れているがこれも美白や保湿効果がある。またハーブ全般に殺菌効果があり、湯気を吸い込むだけで予防効果になる。
次第にパックが乾燥して来た。皮膚が張り詰めた感覚になる。いつまでも若く美しくありたい。そう望む事に性別は関係ない。誰かを愛して失いたくないと願う人間ならば、それはごく当たり前の想いである。十分に乾燥したのを確認して、温度を高めに設定したシャワーで洗い流した。完全に流せたのを確認して、今度はシャワーを水に切り替えて全身に浴びる。心臓病や高血圧の患者には危険な行為だが、これも肌を刺激して代謝を活性化させる方法だ。
身体が完全に冷えたのを確認して、バスタブにゆっくりと爪先から順番に入っていく。広いバスタブに滑るようにして温めの湯に潜る。水面に灯がキラキラと揺れるのを見詰めた。バスタブの湯に潜るのは子供の頃からの癖だった。特に雫に背を向けられた頃は水面の煌きを見ながら、このまま湯を吸い込んで死んでしまいたいと何度も思った。
紫霄に閉じ込められる運命のどこにも光は見付からなかったからだ。不意に水面に影が差し次いで腕が差し出された。たった今考えていた事に応えてもらったみたいで、清方は喜んでその腕を掴むと一気に水面に向かって引き上げられた。
「溺れたらどうする……」
呆れ顔の雫が言った。嬉しかった。やはり自分を本当の意味で、光の降り注ぐ場所へ引っ張ってくれるのは雫しかいない。清方は両腕で力一杯、雫に抱き付いた。
「雫…愛してます」
濡れた身体でシャツの上から抱き付かれたのも気にせずに、雫はしっかりと抱き返して訊いた。
「惚れ直したか?」
噴出した清方の頬に手を添えて唇を重ねた。彼が医師としての立場と自分の感情の板ばさみになっているのには気付いていた。雫にも良くわかっている気持ちだった。通常の企業人よりも公私を混同出来ない職業を互いに選んでしまったのだから。
「ちょっと待て脱ぐから」
清方を放してパウダールームに取って返した。手早く脱ぎ捨ててバスルームに戻る。煌々と点る光の中で、バスタブに腰掛けている清方の白い肌は輝いて見えた。
真也は深い迷宮の底で袋小路に踏み込んでしまった気持ちだった。
御園生 小夜子が貴族出身でも、息子の武は父親のわからぬ私生児。それがどこかの宮家直系だとわかって愕然としていた。同時に何故夕麿が彼の伴侶に選ばれたのか。 何故、同性での結び付きなのかもわかってしまった。宮家直系が私生児として誕生し、15年以上も隠されていた。宮家は皇家の血筋が危機に瀕している今、高御座に昇る立場になる可能性があるのだ。そうなった場合に武のような存在がいては皇家の体面に関わる。皇家は国民の模範でなければいけないという暗黙の了解があるのだ。
皮肉な事だった。
皇家が最も必要とする、30歳未満の男系の血を引く者。それが表向きに出来ない存在だったとは。武は子孫の残す事を許されなかったのだ。身体にメスを入れて、女性を妊娠させられなくするか、同性と結び付くか。二者択一の結果が同性との結婚だったのだろう事は、真也にも安易に想像が出来た。夕麿ならば血筋としてもひととなりも申し分ない。
───やはり夕麿は生贄のようなものだと思う。それでも与えられた条件の中で、夕麿は武によく仕え尽くしているのだろう。夕麿の気持ちがどのようなものであったとしても、今の立場から逃れる事は不可能だ。
数日後の夜に真也は久し振りに弟の見舞いに精神科病棟に向かっていた。見舞い客用の唯一の出入口を通ると貴之が立っているのが見えた。声を掛けようと踏み出すと今度は義勝が姿を現した。夕麿は直也との面会は禁止されている。だが他の人間はそうではない。いるのは二人だけ?そう思った次の瞬間、義勝の隣に誰かがいるのに気付いた。武だった。
直也の治療費をだしている同級生たちの話では、武は直也の事にはノータッチだった筈だ。それが今更に見舞いに来た?武の身分や立場は理解するが本人を認めたわけではない。ここに弟を入院させ続けるには、彼の機嫌を損ねない方が良い。そう思ったから謝罪をしたのだ。
腹立たしく思いながらも挨拶に歩み寄った。
人の気配にまず貴之が反応した。次いで義勝が武を庇う。長身の義勝に抱き絞められるようにして武が振り返った。先日、ホテルで会った時よりも顔色が悪く、目の下に隈が出来ている。
「真也さん、本日はご遠慮願えませんか」
ナースステーションから清方が出て来て告げた。
「すみません…当分、来れなくなりそうなんです。人事異動で忙しい部署に移動になったので」
彼の言葉に清方は貴之を見た。今日は雫は来ていない。
貴之が口を開きかけた時だった。突然、叫び声が響いた。ギョッとして振り返った彼らは、叫びながら突進して来る直也を見た。隔離の為のドアが開いていたのだ。そこへ面会に使用する部屋へ移動する直也が通りかかったのである。彼は武にどのように反応するかわからなかった為、先に部屋へ入れて椅子に拘束する筈だった。
直也は武に向かって真っ直ぐに走って来る。やはり何某かの形で危害を加えるように暗示がされているらしい。スタッフが数人がかりで直也を押さえようとするが、小柄な身体からは想像も付かない強い力で暴れ武に近付こうとする。貴之は彼が武に近接した時に備えて立っていた。
「六条さまを返せ~!」
武に手を差し伸べてそう叫んだ。義勝の腕の中で武が唇を噛み締めたのが見えた。
「お前なんか死ね!死んでしまえ!」
なおも掴みかかろうと手を伸ばして叫ぶ。
「六条さまは僕のだ!」
真也は蒼褪めた。そんな事を言ったら間違いなく武の怒りを買ってしまう。取り成そうと武を見て息を呑んだ。
武は義勝に縋って泣いていた。泣きながら呟く言葉が聞こえた。
「ごめん…ごめんなさい…」
武にすれば直也は自分を殺す為に利用された被害者だ。その前から今のような状態になっていたとしても、武のは夕麿を求めて自分死を望む彼を見るのは辛かった。生きている事自体が罪のように感じてしまう。
双方の様子を見ていた真也は、武に罵声を浴びさせ続ける弟の姿に耐え切れなくなった。もうこんな姿は見たくはなかった。弟に駆け寄って抱き締めた。
「もう良い…やめてくれ、直也」
だが直也の目には武の姿しかなく、心には彼を排除する事しかなかった。愛しい夕麿を取り返す為には武は邪魔者でしかなかった。兄を突き飛ばしスタッフたちを振り払い、絶叫して武に飛び掛ろうとする。貴之が割って入った刹那、真也が弟の背中に持っていたナイフを突き立てた。
凄まじい悲鳴が響き渡った。鮮血を撒き散らして転げ回る直也の傍らで、真也がナイフを握り締めたまま茫然自失で立っていた。
清方と義勝が急いで止血をする。看護師が保を緊急に呼び出した。
貴之は武を背後に庇いながら、雫に指示を仰ぐ為の電話を掛けた。武は先程とは打って変わって、冷静に事態を見詰めている。その様子に一瞬、義勝はギョッとして手を止めた。だが武が冷静な理由を理解して言った。
「初めてじゃなかったな」
その言葉に真也が我に返った。
「まあな。ロスで一度経験してるから」
ロサンゼルスで夕麿と共に、朽木たちに拉致された時に、板倉 正巳が貴之をいきなり刺したのだ。
「貴之先輩、雫さんは何て?」
「すぐに駆け付けてくれるそうです」
「了解。
で、真也さん。今、俺を守ろうとしてくれたんだよね?」
全員が驚いた顔をする中で、貴之だけが武の意図を理解した。
「過剰防衛…ですね」
罪は罪。
犯罪そのものをなかった事するのは絶対にしてはならない。そんな事をすれば法秩序が崩壊する。如何なる理由があろうとも、罪を犯した者は逮捕され、法の判断に委ねられねばならない。だが関係者の証言や嘆願書によって、被告人の罪の軽減を訴えかける事は可能だ。
真也は弟が錯乱して武を襲うのを止めようとして、たまたま所持していたナイフで刺してしまった。何とかしなければならないと思う余りに過剰な行動をしてしまった。ナイフのサイズや所持理由は問われるが、傷害行為自体は過剰防衛と判断されれば刑の軽減がある。
武はとっさにそう判断したのだ。
真也は弟の血にまみれた両手を見てそれから武を見た。武が何を言っているのか、やっと理解したらしい。
「病院側の過失もある」
直也から兄まで奪ってしまってはならない。それが武の気持ちだった。直也がこうまでして求める夕麿を与える事は出来ない。夕麿の気持ちを無視して生命を捨てさせる行為だ。
「えっと…雫さんの知り合いに、弁護士がいましたよね?」
「ええ」
「あとで連絡して、弁護を依頼してください。費用は俺が払います」
先程まで義勝に縋って泣いていた姿と、今の武は正反対の顔をしていた。
「わかりました」
武が場を取り仕切っている最中に保が駆け付けた。床に落ちているナイフを見て、傷口の状態や場所を確認した。
「内臓までは届いていないと思われます」
その言葉に全員が安堵の息を吐いた。
緊急手術が始まった。
真也は逃亡の可能性が低い為、直也と武の対面の為に準備されていた部屋に入った。ドアの外では武が院長に指示して配置させた警備員が念の為に立っている。
武は雫の到着を待ちながら、ナースステーションの一角に出された椅子に座っていた。
清方はそんな彼をジッと観察する。危機的状況に出会うと武は豹変する。冷静に状況を判断し、適切な指示や行動をする。唯一の欠点は、自分を守る事を最後に考えてしまう事だ。この冷静さは恐らく幾度も危機に、実際に出会ってしまったからだと判断出来る。
PTSDがない訳ではない。故にストレスとして蓄積されはする。それでも武が動けるのは誰かを守りたいと強く願う気持ちが勝つからだ。
「遅くなりました」
雫が成美と所轄の刑事を連れて駆け付けて来た。貴之が敬礼で応えた。
「本庄 真也は隔離病棟の一室に閉じ込めてあります。直也は現在、保さまの執刀で手術中ですが、生命に危険のない軽傷だとの事です」
加害者・被害者の現在の状況を簡単に説明する。
「現状は警備員を配置して保全してあります。目撃者もそのまま留め置きました」
所轄の刑事と鑑識官を貴之が案内する。それを見届けてから雫は武に歩み寄った。
「武さま、お怪我は?」
「ない。真也さんは俺を助ける為に直也さんを刺した。俺は義勝兄さんと貴之先輩に守られていたけれど、錯乱して暴れるのが凄まじい状態だったんだ。そこをあの刑事たちに説明してくれ」
「承知いたしました」
雫に説明する姿は不安そうに見えた。彼が来た事でこの場の指揮は武にはなくなる。刑事事件は警察の管轄で、武は目撃者に過ぎない。所轄の刑事たちが武たちの言い分を信じなければ、真也は傷害か殺人未遂になってしまうだろう。
そこへ警備主任が何かを手にやって来た。精神科病棟は一部を覗いて、完全に録画されている。彼は院長の指示に従って証拠として持って来たのだ。
雫が所轄の刑事を呼んだ。清方のPCを借りて映像を再生する。真也が病棟に来る少し前、武が貴之とやって来た所から始まった。義勝と清方がナースステーションから出て来る。清方が看護師に何かを言って、彼は隔離病棟へ向かう。
そこへ真也が来た。清方が話し掛け真也が答える。つい先程の光景が映し出された。突然、隔離病棟のドアから直也が飛び込んで来る。看護師たちが懸命に止める。真也が加わって止めようとする。それを強い力で振り払い、義勝に抱き締められている武に襲いかかる。
映像で客観的に見ると直也と武の距離はかなり短い。貴之が割って入ったのとほぼ同時に、真也がナイフを突き立てるのがはっきりと映っていた。映像には音声は入ってはいない。従って解釈はどうとでも出来た。
「雫、本庄 直也はやはり、武さまを攻撃するように暗示をかけられていました。6年前のロサンゼルスの事件が…まだ尾を引いていたようです」
「ロサンゼルスの事件?」
訝しげに問い返した刑事に、雫はあとで説明すると答えた。
「久留島、武さまをご自宅へお送りしてくれ」
「はっ」
「ちょっと待ってください、成瀬警視正。この方の事情聴取を済ませてからにしてくれませんか」
清方が武を庇うようにして進み出て立ち塞がった。
「この方は未だ治療中の患者さまでもあられます。主治医として申し上げます。既にかなりのストレスを受けられていらっしゃいます。ここに居続けるのは多大な精神的負担になります」
凛とした態度の清方に怯まないのは、数々の事件を経験して来た刑事だと言える。
「あと少しくらい構わんでしょうが」
「この方が今倒れたなら蓬莱皇国はの国益を失う事になり、政府や外務省から警察に苦情が行くでしょうね」
「はあ?」
「この方の調書は主治医立ち会いの上で、ご自宅に伺って取るように」
雫の言葉に刑事は目を剥いた。
「私も同席する。疑問があるならば、良岑刑事局長に問い合わせたまえ」
その名前を出されては最早黙るしかない。
「室長」
「どうした、良岑警部補」
雫はわざと貴之の姓を呼んだ。刑事たちの顔色が変わった。良岑と言う姓は早々いるものではない。しかも刑事局長の一人息子が、キャリア見習いとして警察省にいるのは、口さがない刑事たちの間では有名な事だ。
「隔離病棟との仕切りですが、病院側のミスではないようです」
「と言うと?」
「本庄 直也が体当たりして破壊したようです」
「武さまを見て暴走したか……」
単純に壊せるような物ではない筈だが、そこに直也の錯乱による暴走の凄まじさがあった。通常では止められなかった。
真也には有利になる事実だった。
彼らが話している間に成美は武を連れ去った。これ以上は本当に無理だと判断したのだ。
どんなに願い祈って全力で努力しても、ただ自分の未熟さと不条理を感じる事がある。
本庄 真也は武が望んだ通り、過剰防衛及びナイフを所持していた軽犯罪法違反で送検される事になった。
一つだけ希望があるとしたら、刺されたショックからだろうか。直也の意識がかなり鮮明になりつつあるという事だ。自分が実の兄に刺された事実は受け入れていた。何故かは理解している。しかし武を襲った事が何故いけないのかは理解していない。夕麿への極端な思い込みもそのままだ。
彼が暴走して隔離の為のドアを破壊した事実は重い。今の病院の施設や体制では、直也を完全に閉じ込めるのは不可能だと判断された。その上で夕麿たちへ直也の転院をすすめた。
もし夕麿たちが転院を拒否した場合、武が施設の改築を指示するだろう事も。真也が刑期を終えて戻って来た時、転院先を受け皿として雇用するようにすれば、彼は働きながら弟の側にいられる。そう説得した結果、直也は山間部にある病院へ転院する事になった。そこは以前は結核患者のサナトリウムだったが、今は御園生が買取、精神科の解放治療を中心とする病院になっている。数年前、清方の発案で創立された病院だ。
閉じ込めて投薬するだけの治療から、解放治療へと欧米の精神科医療は既に変化している。皇国でもそれをもっと実現するべきだと、有人に助言した結果だった。規模はさほど大きくはないが、重症患者を受け入れる為の隔離施設も徹底してある。スタッフも揃っている。同じ御園生系列だから、治療の状態や発作の状態もデータとして入手出来る。
何よりも美しい自然に包まれた場所だ。ここで直也の症状が少しでも改善し、真也も穏やかに生きて欲しいと願う。
清方は本庄 直也のカルテに転院の判を押し、電子カルテもデータベースへ移行した。
ゆっくりと立ち上がり帰り支度をする。今夜は母 高子の手料理を雫と味わう予定になっている。
スタッフに挨拶をして院外に出ると、雫が夕暮れの駐車場に立っていた。
清方は少し足早に歩き出した。
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