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孤独
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大学が始まった。 車椅子生活のままで武はUCLAの学生となった。 雫が同じように入学したが、やはり一度、大学を卒業している武とは立場が違う。
武は広いキャンパスで独りきりになる事が多かった。 それでも夕麿たち御園生兄弟の弟だと知られ始めると、2年生以上には親切にしてもらえた。
……だが武は独りきりだった。声も出せず、自分では動く事もままならないのだ。一体何が出来るというのであろうか。 誰にどの様に気を遣われ優しくされても、心の中に空いてしまった虚しさの穴は埋めようがなかった。
ましてや抱き締めたのは気の迷いだった。 そんな意味の歌を受け取ってから、夕麿とは視線すら交わす事はない。 虚しくて悲しい時間が、既に武の日常となってしまっていた。
ある日、昼前にいた教室はカフェテラスまでかなり距離があった。 それでなくてもいつも行くのに苦労する。 車椅子での移動は未だに武の体力では厳しいのだ。 誰かが押してくれる時もあるが、その日はひとりだった。
懸命に前に進んでいる内に周囲には誰もいなくなった。 少し疲れて止まっていると学生らしき男が近付いて来た。
「お前、|Highness《ハイネス』の弟か?」
唐突に言われた。 それがここでの夕麿のニックネームだとは聞いている。
武が頷く、彼はジロジロと武を見た。 何となく悪意を感じて移動しようとした。 すると男は突然、車椅子を蹴飛ばした。 衝撃に耐えられず車椅子が倒れ、武は地面に叩き付けるように投げ出された。 次いで男は車椅子を掴んで離れた場所へ投げてしまう。金属が地面に当たる音が響いた。 そして男は戸惑っている武に鼻を鳴らして、立ち去ってしまった。
教科書や筆記具。 携帯までが辺りに散乱してしまっていた。 それを這って集め、すっかり途方に暮れてしまった。 車椅子は余りに遠くへとやられてしまって、流石に這って行くのは難しく思えた。 周りを見回してもやはり誰かが通りかかる様子はない。
もたれかかる場所や物もなくきちんと座れない武は、地面からわずかに身を起こしただけの姿で、雫にメールを打った。 ただ『転んだ』と。
彼はしばらくして駆け付けて来てその場の状態を見て絶句した。 明らかに転んだのではないのは、見てわかった筈だった。
「武さま、お怪我は?」
蒼褪ている雫に笑いかけながら、擦り剥いた左手の甲を見せた。
「これだけですか? 他に痛い場所は?」
武を車椅子に座らせて服の埃を払いながら訊く。 武が首を振ると雫は安堵の表情を浮かべた。
「一体、誰がこのような真似を…」
その言葉に首を振って答えた。
「知らない学生…だったのですか?」
頷く。 本当に初めて見た顔だった。 武は携帯に言葉を連ねた。 『みんなには転んだ事にしておいて』 と。 心配は掛けたくない。 しかもどうやら夕麿絡みで、嫌がらせをされたと考えられた。 ここまでするような敵をつくるのは珍しいとも言える。
もっとも未だに人種差別が残る国だ。東洋人の身分ある人物というだけで反感を持っているのかもしれない。
人気のない場所で不自由な状態の武に嫌がらせをする。つまり夕麿本人には出来ないからだと武は判断した。彼に害が及ばないなら騒ぐ必要はない。夕麿の生命を脅かす者たちとは別物だとも思えた。
カフェテラスに着いた武を見て義勝たちが顔色を変えた。無理もない。 土で顔や両手、服が汚れていたからだ。 しかも左手には擦り傷まである。
ひとりで移動中に転んで雫が駆け付けた。そう説明されて雅久が顔や手を拭いたり洗ったりしてくれた。周が持ち歩いている救急キットを出して傷の手当てをする。
その間も夕麿は冷ややかに状況をみつめているだけだった。
食事の間、皆が相談を始めた。一番近い位置にいる者、手の空いている者が武を迎えに行く。そんな話になっていた。これを武が拒否した。極力、自分の事は自分でしたかった。もしも一番近くにいるのが夕麿だった場合、その手を煩わずらわせたくはない。もう気の迷いだと言われるのは辛い。それ以上に夕麿に近寄られるのが怖かった。決して自分には向けられる事がなくなった優しさを期待してしまいそうで。
縋り付いて温もりを求めてしまう。失望して絶望しても、やっぱり夕麿を求める自分がいる。その弱さが憎らしかった。どうにも出来ない自分の心が哀しい。だから側に来て欲しくない。しかも武の気持ちを知っているかのように彼は一定の距離を保ち続けていた。
どんなに周囲が気を使ってくれても寂寥感は拭えない。離れ離れでいた時よりももっと今の武は孤独の中にいた。
日々、連ね続けている日記だけが武の心を癒すものだった。それは既に消えてしまった夕麿への恋文と化していた。自分を愛してくれていた夕麿。 もうここにはいない彼への届ける事が出来ない恋文だった。
その夜、高辻と雫の部屋に周が来ていた。
「それで武さまはご自分でお転びになったと?」
「そういう事にして欲しいと」
「それは夕麿絡みの嫌がらせだったという事だろうな……ったく、僕たちが来るまでの間、何をしていたんだ、夕麿は?武さまに害を及ぼすような反感を、どこで買ったのやら…」
周の言葉に高辻が少し考え込んだ。
「ん…思い当たるのは一つしかなないですね。昨年の秋に夕麿さまのピアノ演奏の事を聞き付けたピアノ科の学生がいまして」
「ピアノ科なんてあったか?」
「一応。東海岸の大学程レベルは高くはありません」
高辻が雫に苦笑した。
「そこのトップの学生が、夕麿さまに勝負を挑んだのです」
「夕麿が乗ったのか?」
「ええ」
「夕麿さまがピアノ科のトップに勝たれた?」
「ドイツ人講師が興奮して、母国語でまくし立てるくらいの差で」
「それはまた…紫霄の生徒は、対外試合やコンテストは出場許可が出ないから、夕麿さまは無名のままの天才だとわからなかったわけか。
そりゃ、侮った方がバカだな」
「そのドイツ人講師がしばらく、ピアノ科に進むように夕麿さまについて回った程です」
一年前の騒動を思い出して高辻はちょっとげっそりした。
「完全な逆恨みだろが、それ。何で武さまが被害に合われなきゃならない?だいたいあのバカが…余計な失敗をするからこっちが面倒になる」
「あれは不可抗力でしょう、周」
「不可抗力?だったらあの歌はなんです?お陰で武さまはまた僕たちに心を閉ざされてしまわれた」
「そうでもありませんよ?涙をお流しになられるようになりました。心配すべきは…眠剤を服用されて、眠られる事が増えたという事実です。 時期を見て偽薬を混ぜるつもりですが…」
「武さまにフラシーボ効果は望めるのか、清方?」
「五分五分ですね」
「乳母どのが薬の出所を吐かない以上、手の打ちようがないのも事実だ」
「慈園院 保が直接は有り得ないですよね……」
「朽木はワシントンにいる筈だ」
正体のわからない協力者がどこにどれだけ存在するのか。まるで把握出来ていない。だが武の身分をおおっぴらに出来ない以上、警護にも限界が存在する。 キャンパスではどうやっても、武がひとりになる時間をなくせないのが心配なのである。
結局、どこへ行っても自分は独りぼっちなのだと武は思う。広いキャンパスにいると余計にそう思ってしまう。声が出ない武の筆談に付き合おうなんて学生も今のところは存在しない。夕麿に無視され続けている為、カフェテラスでもギクシャクした食事になる。自分さえいなくればきっと会話は弾む筈。
武は今日、こっそりと自分の弁当を別に持って来ていた。カフェテラスには向かわず公園のようなキャンパスの一角で一人でいた。事前にカフェテラスには行かないと周にメールをした。
おむすびが一つ。
だし巻きが一切れ。
それだけの弁当はすぐに食べ終えて武は空を見上げた。カリフォルニアの空は蓬莱皇国よりも雲が少なくて青色が深い。美しい空だと思う。だが皇国の空の色の方が優しく思えてしまう。乾燥しているので暑くても苦にはならないが武にはやはり堪える。木陰で時間を潰して午後の講義へと移動する。距離も短くてこの方が楽だった。
ふと思い出した。紫霄でもこうやって昼休みに隠れて昼食を摂った記憶がある。あれは唐橘の中だった。あの時も夕麿から逃げていた。結局、自分たちは同じ道を辿ってしまうのかもしれない。
帰りたいと言い出せないままこうして大学に通っている。1度死んで生き返った。螢との約束さえ果たせずに、まだ生き続けている。生きているのが無意味にしか思えないのに。ずっと堂々巡りの思考の中にいた。振り払っても振り払ってもここへまた辿り着く。出口のない迷宮に自分がいるのがわかった。
教室の片隅で授業を受けノートを取る。教授や講師との対話形式の授業は武には不利だった。雫と一緒ならばまだ、素早く書いたものを読み上げてもらえる。だが一人なら…誰かに頼む気にならない。一度、メモを横取りされて発表されたのだ。その時は講師が目撃していた。だがいつも幸運が転がってはいない。
メモ程度では発表の内容は知れているし、返って来た質問に答える手間もある。如何に障害者に優しいアメリカでも、授業のリズムが乱れるのは余り歓迎されない。宿題のレポートはきっちりと提出しているが、それだけで評価をもらえる程、アメリカの大学は甘くはないのだ。ハンディキャップを考慮されてもなお厳しい。
雫や周が武を探すようになったので、彼は毎日別の場所で弁当を開いた。それを観察していた目があった。あの男である。彼は武が完全に人気のない場所にいるのを確認してから、いきなり抱え上げて、現在ほとんど使われていない古い建物へ運び込んだ。
武から携帯を取り上げアドレス帳を開く。夕麿にかけろと言われて首を振ると頬を殴られた。
「もう一人連れて来ても良いんだぜ?そうだな、あの雅久とかいう美形。彼が良いな。あの綺麗な顔に傷を付けたら、どんな声を上げるだろうな?」
雅久には義勝が付いている。だがもし……そう思うと身の毛もよだつ。夕麿を巻き込みたくはないが、かと言って雅久を傷付けさせるわけにはいかない。
武は仕方なく夕麿のNO.を示した。
武がカフェテラスに現れなくなってから数日が経つ。誰も会話を交わさなくなってしまった。心を閉ざしただけでなく、皆から距離を取るようになった武。誰もが自分の無力さに項垂れていた。
不意に夕麿の携帯がなった。全員が顔を強張らせた。流れて来たメロディーは『紫雲英』。今の武は夕麿に直接電話はできない。声が出せないのであるから必ず誰かを間に挟む。
雫が夕麿に頷いた。夕麿は携帯を開いて電話に出る。
「はい」
〔よお、Highness !お前の可愛い人を預かってる。弟じゃなくパートナーだったとはな、驚いたぜ?
良いか、1人で来い。早く来ないとこのガキに、痛い目に合ってもらうぞ?〕
「良いでしょう。その方は私の主。傷を付けてもらっては困ります」
冷たく突き放したような口調で夕麿は男に答えた。次いで場所を聞き出す。
どこに監視の目があるかわからない。夕麿は通話を切ると、貴之と雫に目配せをしてまずひとりで指定された場所へ向かう。
少し時間を置いて雫と貴之がさりげなく立ち上げって追う。その二人に雅久と義勝が夕麿の行方を、GPSでトレースして場所を完全に把握する。周が雫と貴之にメールで知らせる。
男が武が夕麿の伴侶だと知っていた。キャンパスでこの事を知っているのは一部の人間に過ぎない。二人は今、互いに結婚指輪をしていない。知っている筈がないのだ。それを教え唆そそのかした者がいる筈だ。やはり敵は身近で彼らを見張っていると判断した方が良いようだった。
夕麿は走った。相手は傲慢不遜で気の短い男だ。武にどんな危害を与えるかわからない。夕麿との関係を教えた者は彼の身分までは教えていない筈だ。知っていたならばこの様な暴挙には走らないだろう。彼は上院議員の末の息子だと後日調査した貴之が話していた。東海岸側の大学のピアノ科で落ち零れ、母親の実家に引っ越してUCLAに転校したらしい。実力は十分にあるとは思う。彼の演奏を台無しにしているのはピアノに向かう姿勢だ。他者より抜きん出る欲は確かに必要だ。負けず嫌いの夕麿には、その想いは痛い程理解出来た。だがそれに呑まれてしまったら本物の音は出せない。
夕麿には雅久という音に対して特別な視覚を持つ友がいた。彼の色聴感覚は全てを見抜いてしまう。そして、武の感覚も相手の心情を、奏でる音や舞などから読み取ってしまう。演奏する側にとってこの二人程恐ろしい観客はいない。それでなくても芸術というものは、担い手の心をさらけ出すものなのだ。時には傲慢さが功を奏する時もある。 だが楽器は傲慢さを最も嫌うのではないかと感じる程、全てを音色として剥き出する。雅久に言わせると舞も同じなのだと言う。
美しく降り注ぐ月の光に傲慢な感情はいらない。どのような時にも月光は同じに降り注ぐ。それを夕麿に悟らせてくれたのが武だった。月の題名の曲を集め始めたのは、確かに武が喜ぶ事もあった。だが同時に夕麿自身の戒めでもあったのだ。自らの技術や才能に溺れる事なく、純粋で無心であれという。
あの男にはそれが演奏者として、どれ程重要で基本であるのかがわからない。だから技術も心情も行き詰まってしまったのだ。
夕麿はピアノよりも愛する人と歩く未来を、選んだ事に対して微塵も後悔はしていない。ピアノを続けているのは、愛する人が喜んでくれるからだ。勝手に逆恨みされても与り知らぬ事であり、迷惑としか言いようがない。愛する人と穏やかに過ごす幸せこそ至上の歓喜。ピアノを奏でる喜びはそれに勝てなかった。夕麿にとってはそれが真実だった。ピアノは身の内に喜びを与えてくれたが安らぎはくれなかった。寂しさを紛らわしてくれはしたが孤独から解放はしてくれなかった。
武こそ夕麿が本当に欲しかったものを、全て余すところなく与えてくれたのだ。
男が夕麿と通話している内容を聞いて武は泣きたくなった。夕麿を害する為の囮に自分がされる。しかも伴侶だと言って。既に形しかないものを引き合いに出されて危険にさらしてしまう。来たくなくても武を捨てる事は許されない立場にいる。武を忘れても未だに彼は解放されない。武の立場ゆえに縛られ続けている。申し訳ないと思う。
男はほとんど身動き出来ない武をジロジロと見詰めた。
「お前は確かに綺麗だな。蓬莱皇国とやらの男はその辺の女より肌が綺麗で、抱き心地が良いとバイセクシャルの奴に聞いたことがある。
雅久って奴にしても、Highnessにしても…確かに美人だな」
武の顎を乱暴に掴んで、もう一方の手で頬を撫で回す。嫌悪感に気分が悪くなる。
「俺にそっちの気はないが…」
そう言いながら持っていたナイフで武のシャツを切り裂いた。白い胸が剥き出しになる。左胸にはまだ、AEDを使用した際の電撃による火傷の痕が、痛みこそなくなったがはっきりと残っていた。
「これは…AEDの痕か?」
驚きの声を上げながら指先でその痕をなぞる。その不快さに武は唇を噛み締めた。今、そういう意味で襲われたら武には為す術もない。悲鳴も上げられず逃げるどころか、抵抗すらまともに出来はしない。しかもそんな不様な状態を、仕方なく駆け付けて来る夕麿にさらしてしまう。それは絶対に嫌だった。
「確かにきめ細やかで良い手触りの肌だ。お前の国の人間はは皆、こんな肌をしているのか?」
武が返事が出来ないのを知っていて男は舌舐めずりをする。
「お前とHighness、どっちが綺麗な肌をしている?自分の目の前でパートナーがヤられるのと、パートナーの前で自分がヤられるのは、どっちが辛いんだろうな?」
吐き出された言葉に武の顔から血が引く。夕麿に再び同じ痛みと屈辱を味合わせてはならない。
あんな…あんな目に合わせてなるものか。武器はないのか。今の自分でも使えるような、そんなものはないのか。武は懸命に室内を見渡した。早く何か探さないと夕麿が来てしまう。こんな身勝手な男に夕麿を傷付けさせたりしない!
武は身体を撫で回す手を力一杯払った。次の瞬間、衝撃と共に高い音がした。男が武の頬を殴ったのだ。
そこへ足音が聞こえて来た。確かにこちらに近付いて来る……と、ドアが勢いよく開けられた。汗を流し息を切らした夕麿が険しい顔で立っていた。
「以外と早かったな、Highness」
武にナイフを突き付けながら男が言った。
殴られて頬を腫らせ鼻からも口からも血を流し、シャツは引き裂かれて白い胸が剥き出しになっている。武の状態を見て夕麿は、はっきりと怒りの表情を浮かべた。
「その方は私の主。危害を加えないようにとお願いした筈ですが?」
夕麿が怒った時特有の低い声が響いた。武は夕麿の言葉に笑みを浮かべた。
主…… 最早、夕麿にとっては武の価値はそれしかない。わかってはいたが実際に言われると痛い。武が一番嫌いなものがこうやって夕麿を縛り続けている。
「主だと?どういう意味だ?」
「His Imperial Highness ,Prince Sika.(紫霞宮殿下)」
夕麿は敢えて男に答える事無く武に向かって、頭を垂れてわざと正式な呼び方をして見せた。
「遅参いたし申し訳ございません」
夕麿の言葉に武が首を横に振った。
「この方には複雑なご事情がおありになります。ですがアメリカ人のあなたには関わりがない事です。それでもこれは 十分に外交問題だと理解しているのでしょうね?」
夕麿は言葉を紡ぎながらゆっくりと歩いて来る。
「彼を返していただけますか?」
威厳を持った姿。武はそれが嬉しかった。この姿こそ夕麿が、最も夕麿らしい。男が気圧されて怯んだその隙に、ナイフを握っている手に武が力一杯噛み付いた。
「Ouch!痛い」
男がナイフを落とした。それを見て武が叫んだ。
「夕麿、逃げろ!」
声が出ないのなど完全に忘れていた。それが功を奏したのか、掠れながらも声になる。武は男の脚に必死で縋り付いた。夕麿をここから逃がす事しか頭になかった。驚き慌てた男が引き摺っても蹴っても、武は怯む事はなかく手を緩める事もしない。
そこへ貴之と雫が飛び込んで来た。雫が手にしている銃が男に向けられる。
「俺が誰だかわかってて、銃を向けるのか!? 第一、異国人のお前に何の権限がある!」
急に彼は元気を取り戻した。
「私は蓬莱皇国のの皇宮警察所属、そして、FBIに特別資格を与えられている。権限はあるんだ」
雫が嘲笑うように答えた。
「夕麿さま、武さまを」
その言葉に夕麿が倒れている武に駆け寄った。
「武、大丈夫ですか!?」
しっかりと抱き締められ、そう問い掛けられて武は耳を疑った。
今、夕麿は何と言った?武を呼び捨てにした?
「武さま、お怪我は?」
周たちが遅れて駆け込んで来た。夕麿の腕の中にいる武を見た周が軽く夕麿を睨んだ。
「周さん、私はもう偽りは止めます」
夕麿が周を睨み返して言った。
「あなたに出来ますか、周さん?こんな状態でもまだ私を守ろうと必死になってくださったのです。まだ偽りの姿で裏切れと言えますか?」
「夕麿…」
周は絶句し雫は高辻に肩を竦めて見せた。他の者はわけがわからずに目を丸くしている。
「武…許してください。あなたを騙していました。私の記憶はもう戻っています」
夕麿の告白に武は息を呑んだ。震える指で夕麿の頬に触れ掠れた声で言った。
「…夕…麿…」
涙で視界が歪む。
「許してください…武」
なおも謝罪する夕麿の肩に義勝が優しく手を置いた。
「今日は武を連れて帰れ。迎えの車を呼んだ。
周さん、武の手当てを。
武や俺たちを騙した理由は、帰ったら説明してくれるんですよね、首謀者の成瀬さん?」
「私が首謀者?」
「あなた以外の誰がこんな事を企むんですか?」
「雫だけが考えたわけではありませんよ?」
高辻が苦笑混じりに言った。
「そんな事、後でも良いではありませんか?早く武君をここから外へ出してあげけてください」
雅久が目を吊り上げて言った。多分、一番、この事態に怒っているのは彼だろう。彼は誰よりも身内として武を慈しんでいるのだから。ずっと胸を痛めて武の苦しみを見ていた。記憶を失う。それがどんなものかを知っているからこそ、雅久は夕麿の記憶の欠落に胸を痛めた。やっと武が来たのに重苦しい空気でしか出迎えられなかったのを、雅久はどんなに悔やんでいた事か。
そしてあの日。 武を絹子と二人っきりにしてしまった。 何故自分だけでも残らなかったのか。 後の祭りだとはわかっていても雅久には辛かった。 武は本当の弟同然だったから。 貴い皇家の貴種として主として仰ぐ気持ちと、大切な弟として慈しみ愛でる気持ち。 双方を抱いて愛していた。 だからこそ武が苦しみ続けるとわかっていて、この仕打ちは許し難く感じていた。
夕方、全員が居間に集まっていた。夕麿は武を抱き抱えて、今から語られる内容に怯えていた。
「話は私から致します。ですがその前にお願い申し上げます。今回の事で夕麿さまをお責めなさいませんように。記憶が戻られているのを、隠す理由が幾つかございました」
高辻が全員を見回して言った。義勝たちは頷き武は夕麿の手を握り締めた。周は少し不安げに雫を見た。
「大丈夫だ。屋敷内に盗聴器の類は一切ない。ここの防音は確かめた。出入り口には執事を立たせて、誰も近付かないようにしてある」
雫の言葉に周は安堵の表情を浮かべた。1日おきに雫と貴之は手分けして屋敷内を機械で、盗聴器などが仕掛けられていないかを調べていた。一昨年末の紫霄の特別室での事件に、盗聴器が仕掛けられていた事が気になったからである。誰かがこの屋敷内の様子を知りたいならそれが一番だからだ。
ただアメリカでは盗聴器の販売を野放しにはしてはいない。従ってそれなりに手が回せないと入手は難しい。しかしあちらには朽木 網宏がいる。彼の手段を選ばない遣り方を、雫は警戒し過ぎる程に警戒していた。
「まず夕麿さまの記憶の欠落は病によって、引き起こされたものではありません。薬物投与で脳の機能を一時的に低下させて、強い暗示を繰り返し行った結果です。 春頃から悪化していた頭痛や前日の記憶が曖昧になってしまう。これらの症状もこれによるものですが、私にその判断を躊躇させたのは…別の記憶が誘発されて、夕麿さまを苦しめていた事が重なった所為です。
それで判断が出来難くなった上に、介入に失敗すると取り返しがつかない事態になる可能性が強かったのです。
皆さま、思い出してください。如何に武さまが夕麿さまの御心の支えだからといって、その記憶を失っただけでご性格があそこまで一変されたのは、不可解だと思われませんでしたか?」
武の記憶を欠落させた夕麿は『氷壁』と呼ばれた時以上に冷酷で周囲に無関心だった。特に武に対する拒否反応は、本人が目の前にいなくても激しかったと、義勝たちは記憶していた。
「ただ暗示を掛けた側の誤算は、武さまのご気性を見誤っていた事です。見た目通りの可愛いだけの方だと思っていた様子です」
振り返った武に彼は悪戯っぽい眼差しで応えた。
「武さまが夕麿さまに、無償の愛情を貫こうとされるとは、思ってはいなかったのでしょう。哀れですね。世の中を歪んだ醜いものでしか判断出来ない人々は」
武が夕麿の裏切りだと騒ぐなどの激しい騒動を引き起こすと考えていたのだろう。だが武は夕麿の状態に苦しみはしたが一言も非難しなかった。高辻たちが不安にかられる程、武は全てを呑み込んでしまった。それが夕麿の暗示を不安定にさせた。暗示と絹子の双方を使って吹き込んだ、武の事柄が余りにも現実の彼と差があったのだ。武自身の内側での葛藤はあるにしても、彼は夕麿が一番幸せになる道を望んだ。そこに自分がいなくてもと。その上で夕麿の主であり庇護者として、彼の周囲から危険や障害と判断出来るものを排除しようとした。更なる嫌悪を夕麿に持たせたとしても。
食欲が低下している夕麿の為に、懸命に手料理をつくった。自己主張を一切せずに、夕麿の身を案じた。そういった事を彼らは予測出来なかったのである。
「武、記憶が戻る前の私は…あのような状態でありましたが…あなたの愛を、あなたに愛されていると感じ始めていました」
武はその言葉に穏やかに微笑んだ。
「人間の脳から記憶を完成に消去する事は出来ません。武さまの愛情はゆっくり、夕麿さまの御心の奥へと響いていたのです。
愛、それも見返りを求めない無償の愛が存在する事を知らなかったのです」
高辻の言葉に考え込んでいた雫が口を開いた。
「武さま、夕麿さま…彼らがこんな方法を選んだのは私が原因かもしれません」
「雫さん、それはどういう事です?」
「日本を出発する時、わざわざ朽木が俺に声を掛けて来た意味を考えてた。実は、ロサンゼルスに来る為に最初は休職願いを出しました」
「雫…あなた…」
「名目は犯罪心理学を勉強する為。もちろん本気で勉強したかったのも事実です。だが一番の理由は、清方の側にいたかった。急にそんな希望を出した私を訝って、朽木が理由を訊きに来ました。私は答えました。13年ぶりに再会した恋人と失った時間を取り戻す為だと。
鼻で笑われましたよ。愛情なんて綺麗事だ、人間の欲望と欺瞞の履き違えだと。私は本当に愛する意味を知らないだけだと彼に言ってやりました。
恐らくはこの遣り取りを利用して、企てた事だと思います……申し訳ありません」
自分の言葉が夕麿と武を苦しめ、危険にさらしたのだと思うと雫はたまらなかった。
「それは…成瀬さんの…責任じゃない…」
武が未だ十分に発声が出来ない喉で言う。
「私もそう思います。私と武の間にも付け入られる隙がありました」
言葉を尽くしてもすれ違っていた気持ち。互いを愛するからこそ、想い過ぎるからこそ生じてしまった隙間。それを突かれただけ。
「恐らくは双方だろうな」
「私もそう思います」
義勝と雅久が言う。
「それで夕麿さまの暗示はいつ、どのように解けたのですか?」
それこそが一番知りたい事だと貴之が言った。
「完全に解けたのは入院治療の結果です」
高辻の言葉に武が目を見開いた。武だけが夕麿の入院を知らなかった。
「武さま、夕麿は8月の末頃まで入院していたのです」
周の言葉に夕麿は頷いた。
「きっかけは武さまの心肺停止でした。あれは夕麿さまをも危険な状態に陥らせてしまいました。あの頃は、崩れ始めた暗示で二種類の記憶が戻り始められていました。
それが一気にまるでひっくり返したような状態で溢れ出したのです。片方は無理やり封じられた記憶。片方は……夕麿さまご自身が精神のバランスをとる為に、封じてしまわれ偽りの記憶と入れ替わっていたもの。
メディカルセンターで意識が回復された時には、酷い錯乱状態でいらっしゃいました」
武を抱き締めたまま夕麿は震えていた。自ら封じていた記憶はこんなにも夕麿を、苦しめるものだったのだと武は自分の事のように胸が痛んだ。
「鎮静剤なしに落ち着かれたのは、小夜子さまが来られてからでした」
「母さん…?」
「お義母さんは私を何時間も、落ち着くまで抱き締めてくださいました。私は封じていた記憶に対する罪の意識で、自分がコントロール出来なかったのです。
でもお義母さんは私の話を聞いてくださり、私には罪はないのだと何度も繰り返し、言ってくださいました」
夕麿が封じていた記憶には慈園院 司が関わっていた。 多々良 正恒の意趣だったのか、それとも六条家との確執が面白くて詠美が企てたのか。 今となっては確かめても仕方がない事実だった。 多々良は夕麿と司を途中から一緒に呼び寄せ、片方の目前での陵辱を繰り返していた。 双方に呼び出しに応じなければ、もう片方を酷い目に合わせると脅迫していた。
どのような目に合わせるのかは、前以って双方に経験させていた。その残酷さは今でも夕麿が全てを口に出来ない程だった。
夕麿と司。一歳違いだがそれぞれの家の確執が嫌いで、小等部の頃から親しくしていたのだ。だから余計に揃っては辛かった。二人は互いに庇い合った。庇えば庇う程、多々良は残酷になった。
そして…司一人が学院から連れ出され、佐田川が集めた者たちに輪姦された。夕麿はその時、司が自分を庇ってそのような目にあったのではないかと思った。
優しくて誠実な司の性格が一変した。淫蕩で刹那的で皮肉屋になった。
そして……夕麿と共に多々良に呼ばれる事はなくなった。多々良の事が発覚した時、夕麿はどれだけの生徒が被害者であったのかを知った。その中には身近で親しい友人もいた。しかもこの時点で夕麿は、多々良の後ろに佐田川がいるのを知ってしまったのだ。真っ直ぐで優しい夕麿は、この事件自体が自分が原因だと思い込んだ。
最初の自殺未遂の理由はここにあった。事件以後処方されていた睡眠薬を全部ためて、それを使って自殺しようとした。だがそんな事で人間は死なない。睡眠薬にもよるが通常の致死量はかなり大量で、必要分を摂取する前に胃袋が一杯になってしまう。薬で眠り目が覚めた時には、夕麿は多々良との事を恋愛と思っていたのに、騙されたという記憶にすり替えてしまっていたのだ。
当然、辻褄が合わない。それを無理に合わせる為に、夕麿の心は他者に対して閉じるしかなかったのだ。極度の接触嫌悪も、本当の記憶から派生していた。根本が表面の記憶に存在しないが故に悪化してしまったのだ。
それが何故、武にだけは反応しなかったのか。高辻にも完全な説明は不可能だった。
夕麿の強い罪の意識。
これが彼の症状の根元だった。 ゆえに苦しみ、錯乱を続けたのだ。
小夜子の愛情で落ち着いた夕麿は、武に逢いに行く事を望んだ。メディカルセンターの担当医は強く反対した。だが小夜子と高辻で説得した。もしこのまま武が死ねば、夕麿も生きる気力を失う。武に生きようとする気持ちを起こさせる為にも、夕麿が病と向き合う為にも今、二人を逢わせる必要があるのだと。
その結果、武は意識を取り戻し、夕麿も懸命に治療を受けた。それでも夕麿の心を蝕む薬を体内から完全に排出させ、精神を安定させるのに1ヶ月もの時間が必要だったのだ。
「高辻先生……夕麿はもう…大丈夫なの?」
「心の病は一朝一夕では完治は致しません。しかし夕麿さまは最大の峠は越えられました。後は回復に向かわれるだけです」
「あなたとお義母さんのお蔭です」
「俺は…何もしてない」
「いいえ、あなたの愛情を信じられたから、私はここへ、あなたの元へ戻りたいと願いました。だから治療に耐えられたのです」
「武さま、夕麿さまは向精神薬の依存症に陥っておられました。半年以上も強制的に服用されておられたのですから。そこから脱却するには、幾つかの禁断症状に耐えられなければなりませんでした」
「禁断症状!?」
「強い頭痛や吐き気、幻覚といったものです」
高辻の言葉を聞いて義勝と貴之が顔を見合わせた。武との何かが引き金になったかもしれないが、いつかの夜の夕麿の錯乱は禁断症状だったのではないかと。
「あなたがいたから、私は耐えられたのです、武」
「どちらにしても夕麿さまに、紫霞宮妃格としていられないようにするのが、目的だったと考えられます。
それでここで一つの問題が見つかりました。一昨年の秋の学院での事件です。
向精神薬と暗示。
標的は夕麿さま。
似ていませんか?」
「確かに…けれどあれは板倉 正己が、逮捕された事で終わった筈だが?」
「いや、義勝。実際には終わってはいない。 板倉 正己に催眠術を教え、向精神薬を渡した人間が特定出来ずにいる」
「貴之君の言う通りです。 多々良 正恒にはそんな技術も、向精神薬を手に入れる手段もなかったと言えます。恐らくは板倉 正己と多々良 を結び付けて、夕麿さまと武さまに危害を加えようとした人間が、当時の学院内にいた筈です」
「学部長は?彼はどうなのです?彼は直接に夕麿さまのお生命を狙ったではありませんか?」
「彼も利用された一人に過ぎません。武さまを亡き者にしたがっているかの人物と、もっと近い人物がいると考えた方が良いでしょう。 慈園院 遥・保兄弟と、朽木 網宏がその人物と協力しているとお考えください。
こうなったらどちらがではありません。お二方共に狙われていると、ご判断くださいますようお願い申し上げます」
雫の言葉に武と夕麿は同時に頷いた。
「それと…多治見 絹子さんですが、彼女も強い暗示下にありました。夕麿さまへの愛情を利用されたと考えられます」
全員が絶句する。
「ただこれだけは言えます。私たちは信頼関係で結ばれています、武さまと夕麿さまを中心にして。孤独ではないのです。その点は私たちの強味だと言えます」
雫の力強い言葉に全員が頷いた。
「良いでしょう。私たちもこのままおとなしくしているつもりはありません。
武、私たちなりの反撃にでましょう?」
「うん。やられっぱなしは…俺も嫌だ」
再び全員がしっかりと頷いた。ただ受け身でいては被害を受けるばかりだ。もちろん決して彼らのような卑怯で残酷な手には出ない。 行うのは正攻法で確実な反撃。
それを求めて彼らは夜更けまで話し合った。
武は広いキャンパスで独りきりになる事が多かった。 それでも夕麿たち御園生兄弟の弟だと知られ始めると、2年生以上には親切にしてもらえた。
……だが武は独りきりだった。声も出せず、自分では動く事もままならないのだ。一体何が出来るというのであろうか。 誰にどの様に気を遣われ優しくされても、心の中に空いてしまった虚しさの穴は埋めようがなかった。
ましてや抱き締めたのは気の迷いだった。 そんな意味の歌を受け取ってから、夕麿とは視線すら交わす事はない。 虚しくて悲しい時間が、既に武の日常となってしまっていた。
ある日、昼前にいた教室はカフェテラスまでかなり距離があった。 それでなくてもいつも行くのに苦労する。 車椅子での移動は未だに武の体力では厳しいのだ。 誰かが押してくれる時もあるが、その日はひとりだった。
懸命に前に進んでいる内に周囲には誰もいなくなった。 少し疲れて止まっていると学生らしき男が近付いて来た。
「お前、|Highness《ハイネス』の弟か?」
唐突に言われた。 それがここでの夕麿のニックネームだとは聞いている。
武が頷く、彼はジロジロと武を見た。 何となく悪意を感じて移動しようとした。 すると男は突然、車椅子を蹴飛ばした。 衝撃に耐えられず車椅子が倒れ、武は地面に叩き付けるように投げ出された。 次いで男は車椅子を掴んで離れた場所へ投げてしまう。金属が地面に当たる音が響いた。 そして男は戸惑っている武に鼻を鳴らして、立ち去ってしまった。
教科書や筆記具。 携帯までが辺りに散乱してしまっていた。 それを這って集め、すっかり途方に暮れてしまった。 車椅子は余りに遠くへとやられてしまって、流石に這って行くのは難しく思えた。 周りを見回してもやはり誰かが通りかかる様子はない。
もたれかかる場所や物もなくきちんと座れない武は、地面からわずかに身を起こしただけの姿で、雫にメールを打った。 ただ『転んだ』と。
彼はしばらくして駆け付けて来てその場の状態を見て絶句した。 明らかに転んだのではないのは、見てわかった筈だった。
「武さま、お怪我は?」
蒼褪ている雫に笑いかけながら、擦り剥いた左手の甲を見せた。
「これだけですか? 他に痛い場所は?」
武を車椅子に座らせて服の埃を払いながら訊く。 武が首を振ると雫は安堵の表情を浮かべた。
「一体、誰がこのような真似を…」
その言葉に首を振って答えた。
「知らない学生…だったのですか?」
頷く。 本当に初めて見た顔だった。 武は携帯に言葉を連ねた。 『みんなには転んだ事にしておいて』 と。 心配は掛けたくない。 しかもどうやら夕麿絡みで、嫌がらせをされたと考えられた。 ここまでするような敵をつくるのは珍しいとも言える。
もっとも未だに人種差別が残る国だ。東洋人の身分ある人物というだけで反感を持っているのかもしれない。
人気のない場所で不自由な状態の武に嫌がらせをする。つまり夕麿本人には出来ないからだと武は判断した。彼に害が及ばないなら騒ぐ必要はない。夕麿の生命を脅かす者たちとは別物だとも思えた。
カフェテラスに着いた武を見て義勝たちが顔色を変えた。無理もない。 土で顔や両手、服が汚れていたからだ。 しかも左手には擦り傷まである。
ひとりで移動中に転んで雫が駆け付けた。そう説明されて雅久が顔や手を拭いたり洗ったりしてくれた。周が持ち歩いている救急キットを出して傷の手当てをする。
その間も夕麿は冷ややかに状況をみつめているだけだった。
食事の間、皆が相談を始めた。一番近い位置にいる者、手の空いている者が武を迎えに行く。そんな話になっていた。これを武が拒否した。極力、自分の事は自分でしたかった。もしも一番近くにいるのが夕麿だった場合、その手を煩わずらわせたくはない。もう気の迷いだと言われるのは辛い。それ以上に夕麿に近寄られるのが怖かった。決して自分には向けられる事がなくなった優しさを期待してしまいそうで。
縋り付いて温もりを求めてしまう。失望して絶望しても、やっぱり夕麿を求める自分がいる。その弱さが憎らしかった。どうにも出来ない自分の心が哀しい。だから側に来て欲しくない。しかも武の気持ちを知っているかのように彼は一定の距離を保ち続けていた。
どんなに周囲が気を使ってくれても寂寥感は拭えない。離れ離れでいた時よりももっと今の武は孤独の中にいた。
日々、連ね続けている日記だけが武の心を癒すものだった。それは既に消えてしまった夕麿への恋文と化していた。自分を愛してくれていた夕麿。 もうここにはいない彼への届ける事が出来ない恋文だった。
その夜、高辻と雫の部屋に周が来ていた。
「それで武さまはご自分でお転びになったと?」
「そういう事にして欲しいと」
「それは夕麿絡みの嫌がらせだったという事だろうな……ったく、僕たちが来るまでの間、何をしていたんだ、夕麿は?武さまに害を及ぼすような反感を、どこで買ったのやら…」
周の言葉に高辻が少し考え込んだ。
「ん…思い当たるのは一つしかなないですね。昨年の秋に夕麿さまのピアノ演奏の事を聞き付けたピアノ科の学生がいまして」
「ピアノ科なんてあったか?」
「一応。東海岸の大学程レベルは高くはありません」
高辻が雫に苦笑した。
「そこのトップの学生が、夕麿さまに勝負を挑んだのです」
「夕麿が乗ったのか?」
「ええ」
「夕麿さまがピアノ科のトップに勝たれた?」
「ドイツ人講師が興奮して、母国語でまくし立てるくらいの差で」
「それはまた…紫霄の生徒は、対外試合やコンテストは出場許可が出ないから、夕麿さまは無名のままの天才だとわからなかったわけか。
そりゃ、侮った方がバカだな」
「そのドイツ人講師がしばらく、ピアノ科に進むように夕麿さまについて回った程です」
一年前の騒動を思い出して高辻はちょっとげっそりした。
「完全な逆恨みだろが、それ。何で武さまが被害に合われなきゃならない?だいたいあのバカが…余計な失敗をするからこっちが面倒になる」
「あれは不可抗力でしょう、周」
「不可抗力?だったらあの歌はなんです?お陰で武さまはまた僕たちに心を閉ざされてしまわれた」
「そうでもありませんよ?涙をお流しになられるようになりました。心配すべきは…眠剤を服用されて、眠られる事が増えたという事実です。 時期を見て偽薬を混ぜるつもりですが…」
「武さまにフラシーボ効果は望めるのか、清方?」
「五分五分ですね」
「乳母どのが薬の出所を吐かない以上、手の打ちようがないのも事実だ」
「慈園院 保が直接は有り得ないですよね……」
「朽木はワシントンにいる筈だ」
正体のわからない協力者がどこにどれだけ存在するのか。まるで把握出来ていない。だが武の身分をおおっぴらに出来ない以上、警護にも限界が存在する。 キャンパスではどうやっても、武がひとりになる時間をなくせないのが心配なのである。
結局、どこへ行っても自分は独りぼっちなのだと武は思う。広いキャンパスにいると余計にそう思ってしまう。声が出ない武の筆談に付き合おうなんて学生も今のところは存在しない。夕麿に無視され続けている為、カフェテラスでもギクシャクした食事になる。自分さえいなくればきっと会話は弾む筈。
武は今日、こっそりと自分の弁当を別に持って来ていた。カフェテラスには向かわず公園のようなキャンパスの一角で一人でいた。事前にカフェテラスには行かないと周にメールをした。
おむすびが一つ。
だし巻きが一切れ。
それだけの弁当はすぐに食べ終えて武は空を見上げた。カリフォルニアの空は蓬莱皇国よりも雲が少なくて青色が深い。美しい空だと思う。だが皇国の空の色の方が優しく思えてしまう。乾燥しているので暑くても苦にはならないが武にはやはり堪える。木陰で時間を潰して午後の講義へと移動する。距離も短くてこの方が楽だった。
ふと思い出した。紫霄でもこうやって昼休みに隠れて昼食を摂った記憶がある。あれは唐橘の中だった。あの時も夕麿から逃げていた。結局、自分たちは同じ道を辿ってしまうのかもしれない。
帰りたいと言い出せないままこうして大学に通っている。1度死んで生き返った。螢との約束さえ果たせずに、まだ生き続けている。生きているのが無意味にしか思えないのに。ずっと堂々巡りの思考の中にいた。振り払っても振り払ってもここへまた辿り着く。出口のない迷宮に自分がいるのがわかった。
教室の片隅で授業を受けノートを取る。教授や講師との対話形式の授業は武には不利だった。雫と一緒ならばまだ、素早く書いたものを読み上げてもらえる。だが一人なら…誰かに頼む気にならない。一度、メモを横取りされて発表されたのだ。その時は講師が目撃していた。だがいつも幸運が転がってはいない。
メモ程度では発表の内容は知れているし、返って来た質問に答える手間もある。如何に障害者に優しいアメリカでも、授業のリズムが乱れるのは余り歓迎されない。宿題のレポートはきっちりと提出しているが、それだけで評価をもらえる程、アメリカの大学は甘くはないのだ。ハンディキャップを考慮されてもなお厳しい。
雫や周が武を探すようになったので、彼は毎日別の場所で弁当を開いた。それを観察していた目があった。あの男である。彼は武が完全に人気のない場所にいるのを確認してから、いきなり抱え上げて、現在ほとんど使われていない古い建物へ運び込んだ。
武から携帯を取り上げアドレス帳を開く。夕麿にかけろと言われて首を振ると頬を殴られた。
「もう一人連れて来ても良いんだぜ?そうだな、あの雅久とかいう美形。彼が良いな。あの綺麗な顔に傷を付けたら、どんな声を上げるだろうな?」
雅久には義勝が付いている。だがもし……そう思うと身の毛もよだつ。夕麿を巻き込みたくはないが、かと言って雅久を傷付けさせるわけにはいかない。
武は仕方なく夕麿のNO.を示した。
武がカフェテラスに現れなくなってから数日が経つ。誰も会話を交わさなくなってしまった。心を閉ざしただけでなく、皆から距離を取るようになった武。誰もが自分の無力さに項垂れていた。
不意に夕麿の携帯がなった。全員が顔を強張らせた。流れて来たメロディーは『紫雲英』。今の武は夕麿に直接電話はできない。声が出せないのであるから必ず誰かを間に挟む。
雫が夕麿に頷いた。夕麿は携帯を開いて電話に出る。
「はい」
〔よお、Highness !お前の可愛い人を預かってる。弟じゃなくパートナーだったとはな、驚いたぜ?
良いか、1人で来い。早く来ないとこのガキに、痛い目に合ってもらうぞ?〕
「良いでしょう。その方は私の主。傷を付けてもらっては困ります」
冷たく突き放したような口調で夕麿は男に答えた。次いで場所を聞き出す。
どこに監視の目があるかわからない。夕麿は通話を切ると、貴之と雫に目配せをしてまずひとりで指定された場所へ向かう。
少し時間を置いて雫と貴之がさりげなく立ち上げって追う。その二人に雅久と義勝が夕麿の行方を、GPSでトレースして場所を完全に把握する。周が雫と貴之にメールで知らせる。
男が武が夕麿の伴侶だと知っていた。キャンパスでこの事を知っているのは一部の人間に過ぎない。二人は今、互いに結婚指輪をしていない。知っている筈がないのだ。それを教え唆そそのかした者がいる筈だ。やはり敵は身近で彼らを見張っていると判断した方が良いようだった。
夕麿は走った。相手は傲慢不遜で気の短い男だ。武にどんな危害を与えるかわからない。夕麿との関係を教えた者は彼の身分までは教えていない筈だ。知っていたならばこの様な暴挙には走らないだろう。彼は上院議員の末の息子だと後日調査した貴之が話していた。東海岸側の大学のピアノ科で落ち零れ、母親の実家に引っ越してUCLAに転校したらしい。実力は十分にあるとは思う。彼の演奏を台無しにしているのはピアノに向かう姿勢だ。他者より抜きん出る欲は確かに必要だ。負けず嫌いの夕麿には、その想いは痛い程理解出来た。だがそれに呑まれてしまったら本物の音は出せない。
夕麿には雅久という音に対して特別な視覚を持つ友がいた。彼の色聴感覚は全てを見抜いてしまう。そして、武の感覚も相手の心情を、奏でる音や舞などから読み取ってしまう。演奏する側にとってこの二人程恐ろしい観客はいない。それでなくても芸術というものは、担い手の心をさらけ出すものなのだ。時には傲慢さが功を奏する時もある。 だが楽器は傲慢さを最も嫌うのではないかと感じる程、全てを音色として剥き出する。雅久に言わせると舞も同じなのだと言う。
美しく降り注ぐ月の光に傲慢な感情はいらない。どのような時にも月光は同じに降り注ぐ。それを夕麿に悟らせてくれたのが武だった。月の題名の曲を集め始めたのは、確かに武が喜ぶ事もあった。だが同時に夕麿自身の戒めでもあったのだ。自らの技術や才能に溺れる事なく、純粋で無心であれという。
あの男にはそれが演奏者として、どれ程重要で基本であるのかがわからない。だから技術も心情も行き詰まってしまったのだ。
夕麿はピアノよりも愛する人と歩く未来を、選んだ事に対して微塵も後悔はしていない。ピアノを続けているのは、愛する人が喜んでくれるからだ。勝手に逆恨みされても与り知らぬ事であり、迷惑としか言いようがない。愛する人と穏やかに過ごす幸せこそ至上の歓喜。ピアノを奏でる喜びはそれに勝てなかった。夕麿にとってはそれが真実だった。ピアノは身の内に喜びを与えてくれたが安らぎはくれなかった。寂しさを紛らわしてくれはしたが孤独から解放はしてくれなかった。
武こそ夕麿が本当に欲しかったものを、全て余すところなく与えてくれたのだ。
男が夕麿と通話している内容を聞いて武は泣きたくなった。夕麿を害する為の囮に自分がされる。しかも伴侶だと言って。既に形しかないものを引き合いに出されて危険にさらしてしまう。来たくなくても武を捨てる事は許されない立場にいる。武を忘れても未だに彼は解放されない。武の立場ゆえに縛られ続けている。申し訳ないと思う。
男はほとんど身動き出来ない武をジロジロと見詰めた。
「お前は確かに綺麗だな。蓬莱皇国とやらの男はその辺の女より肌が綺麗で、抱き心地が良いとバイセクシャルの奴に聞いたことがある。
雅久って奴にしても、Highnessにしても…確かに美人だな」
武の顎を乱暴に掴んで、もう一方の手で頬を撫で回す。嫌悪感に気分が悪くなる。
「俺にそっちの気はないが…」
そう言いながら持っていたナイフで武のシャツを切り裂いた。白い胸が剥き出しになる。左胸にはまだ、AEDを使用した際の電撃による火傷の痕が、痛みこそなくなったがはっきりと残っていた。
「これは…AEDの痕か?」
驚きの声を上げながら指先でその痕をなぞる。その不快さに武は唇を噛み締めた。今、そういう意味で襲われたら武には為す術もない。悲鳴も上げられず逃げるどころか、抵抗すらまともに出来はしない。しかもそんな不様な状態を、仕方なく駆け付けて来る夕麿にさらしてしまう。それは絶対に嫌だった。
「確かにきめ細やかで良い手触りの肌だ。お前の国の人間はは皆、こんな肌をしているのか?」
武が返事が出来ないのを知っていて男は舌舐めずりをする。
「お前とHighness、どっちが綺麗な肌をしている?自分の目の前でパートナーがヤられるのと、パートナーの前で自分がヤられるのは、どっちが辛いんだろうな?」
吐き出された言葉に武の顔から血が引く。夕麿に再び同じ痛みと屈辱を味合わせてはならない。
あんな…あんな目に合わせてなるものか。武器はないのか。今の自分でも使えるような、そんなものはないのか。武は懸命に室内を見渡した。早く何か探さないと夕麿が来てしまう。こんな身勝手な男に夕麿を傷付けさせたりしない!
武は身体を撫で回す手を力一杯払った。次の瞬間、衝撃と共に高い音がした。男が武の頬を殴ったのだ。
そこへ足音が聞こえて来た。確かにこちらに近付いて来る……と、ドアが勢いよく開けられた。汗を流し息を切らした夕麿が険しい顔で立っていた。
「以外と早かったな、Highness」
武にナイフを突き付けながら男が言った。
殴られて頬を腫らせ鼻からも口からも血を流し、シャツは引き裂かれて白い胸が剥き出しになっている。武の状態を見て夕麿は、はっきりと怒りの表情を浮かべた。
「その方は私の主。危害を加えないようにとお願いした筈ですが?」
夕麿が怒った時特有の低い声が響いた。武は夕麿の言葉に笑みを浮かべた。
主…… 最早、夕麿にとっては武の価値はそれしかない。わかってはいたが実際に言われると痛い。武が一番嫌いなものがこうやって夕麿を縛り続けている。
「主だと?どういう意味だ?」
「His Imperial Highness ,Prince Sika.(紫霞宮殿下)」
夕麿は敢えて男に答える事無く武に向かって、頭を垂れてわざと正式な呼び方をして見せた。
「遅参いたし申し訳ございません」
夕麿の言葉に武が首を横に振った。
「この方には複雑なご事情がおありになります。ですがアメリカ人のあなたには関わりがない事です。それでもこれは 十分に外交問題だと理解しているのでしょうね?」
夕麿は言葉を紡ぎながらゆっくりと歩いて来る。
「彼を返していただけますか?」
威厳を持った姿。武はそれが嬉しかった。この姿こそ夕麿が、最も夕麿らしい。男が気圧されて怯んだその隙に、ナイフを握っている手に武が力一杯噛み付いた。
「Ouch!痛い」
男がナイフを落とした。それを見て武が叫んだ。
「夕麿、逃げろ!」
声が出ないのなど完全に忘れていた。それが功を奏したのか、掠れながらも声になる。武は男の脚に必死で縋り付いた。夕麿をここから逃がす事しか頭になかった。驚き慌てた男が引き摺っても蹴っても、武は怯む事はなかく手を緩める事もしない。
そこへ貴之と雫が飛び込んで来た。雫が手にしている銃が男に向けられる。
「俺が誰だかわかってて、銃を向けるのか!? 第一、異国人のお前に何の権限がある!」
急に彼は元気を取り戻した。
「私は蓬莱皇国のの皇宮警察所属、そして、FBIに特別資格を与えられている。権限はあるんだ」
雫が嘲笑うように答えた。
「夕麿さま、武さまを」
その言葉に夕麿が倒れている武に駆け寄った。
「武、大丈夫ですか!?」
しっかりと抱き締められ、そう問い掛けられて武は耳を疑った。
今、夕麿は何と言った?武を呼び捨てにした?
「武さま、お怪我は?」
周たちが遅れて駆け込んで来た。夕麿の腕の中にいる武を見た周が軽く夕麿を睨んだ。
「周さん、私はもう偽りは止めます」
夕麿が周を睨み返して言った。
「あなたに出来ますか、周さん?こんな状態でもまだ私を守ろうと必死になってくださったのです。まだ偽りの姿で裏切れと言えますか?」
「夕麿…」
周は絶句し雫は高辻に肩を竦めて見せた。他の者はわけがわからずに目を丸くしている。
「武…許してください。あなたを騙していました。私の記憶はもう戻っています」
夕麿の告白に武は息を呑んだ。震える指で夕麿の頬に触れ掠れた声で言った。
「…夕…麿…」
涙で視界が歪む。
「許してください…武」
なおも謝罪する夕麿の肩に義勝が優しく手を置いた。
「今日は武を連れて帰れ。迎えの車を呼んだ。
周さん、武の手当てを。
武や俺たちを騙した理由は、帰ったら説明してくれるんですよね、首謀者の成瀬さん?」
「私が首謀者?」
「あなた以外の誰がこんな事を企むんですか?」
「雫だけが考えたわけではありませんよ?」
高辻が苦笑混じりに言った。
「そんな事、後でも良いではありませんか?早く武君をここから外へ出してあげけてください」
雅久が目を吊り上げて言った。多分、一番、この事態に怒っているのは彼だろう。彼は誰よりも身内として武を慈しんでいるのだから。ずっと胸を痛めて武の苦しみを見ていた。記憶を失う。それがどんなものかを知っているからこそ、雅久は夕麿の記憶の欠落に胸を痛めた。やっと武が来たのに重苦しい空気でしか出迎えられなかったのを、雅久はどんなに悔やんでいた事か。
そしてあの日。 武を絹子と二人っきりにしてしまった。 何故自分だけでも残らなかったのか。 後の祭りだとはわかっていても雅久には辛かった。 武は本当の弟同然だったから。 貴い皇家の貴種として主として仰ぐ気持ちと、大切な弟として慈しみ愛でる気持ち。 双方を抱いて愛していた。 だからこそ武が苦しみ続けるとわかっていて、この仕打ちは許し難く感じていた。
夕方、全員が居間に集まっていた。夕麿は武を抱き抱えて、今から語られる内容に怯えていた。
「話は私から致します。ですがその前にお願い申し上げます。今回の事で夕麿さまをお責めなさいませんように。記憶が戻られているのを、隠す理由が幾つかございました」
高辻が全員を見回して言った。義勝たちは頷き武は夕麿の手を握り締めた。周は少し不安げに雫を見た。
「大丈夫だ。屋敷内に盗聴器の類は一切ない。ここの防音は確かめた。出入り口には執事を立たせて、誰も近付かないようにしてある」
雫の言葉に周は安堵の表情を浮かべた。1日おきに雫と貴之は手分けして屋敷内を機械で、盗聴器などが仕掛けられていないかを調べていた。一昨年末の紫霄の特別室での事件に、盗聴器が仕掛けられていた事が気になったからである。誰かがこの屋敷内の様子を知りたいならそれが一番だからだ。
ただアメリカでは盗聴器の販売を野放しにはしてはいない。従ってそれなりに手が回せないと入手は難しい。しかしあちらには朽木 網宏がいる。彼の手段を選ばない遣り方を、雫は警戒し過ぎる程に警戒していた。
「まず夕麿さまの記憶の欠落は病によって、引き起こされたものではありません。薬物投与で脳の機能を一時的に低下させて、強い暗示を繰り返し行った結果です。 春頃から悪化していた頭痛や前日の記憶が曖昧になってしまう。これらの症状もこれによるものですが、私にその判断を躊躇させたのは…別の記憶が誘発されて、夕麿さまを苦しめていた事が重なった所為です。
それで判断が出来難くなった上に、介入に失敗すると取り返しがつかない事態になる可能性が強かったのです。
皆さま、思い出してください。如何に武さまが夕麿さまの御心の支えだからといって、その記憶を失っただけでご性格があそこまで一変されたのは、不可解だと思われませんでしたか?」
武の記憶を欠落させた夕麿は『氷壁』と呼ばれた時以上に冷酷で周囲に無関心だった。特に武に対する拒否反応は、本人が目の前にいなくても激しかったと、義勝たちは記憶していた。
「ただ暗示を掛けた側の誤算は、武さまのご気性を見誤っていた事です。見た目通りの可愛いだけの方だと思っていた様子です」
振り返った武に彼は悪戯っぽい眼差しで応えた。
「武さまが夕麿さまに、無償の愛情を貫こうとされるとは、思ってはいなかったのでしょう。哀れですね。世の中を歪んだ醜いものでしか判断出来ない人々は」
武が夕麿の裏切りだと騒ぐなどの激しい騒動を引き起こすと考えていたのだろう。だが武は夕麿の状態に苦しみはしたが一言も非難しなかった。高辻たちが不安にかられる程、武は全てを呑み込んでしまった。それが夕麿の暗示を不安定にさせた。暗示と絹子の双方を使って吹き込んだ、武の事柄が余りにも現実の彼と差があったのだ。武自身の内側での葛藤はあるにしても、彼は夕麿が一番幸せになる道を望んだ。そこに自分がいなくてもと。その上で夕麿の主であり庇護者として、彼の周囲から危険や障害と判断出来るものを排除しようとした。更なる嫌悪を夕麿に持たせたとしても。
食欲が低下している夕麿の為に、懸命に手料理をつくった。自己主張を一切せずに、夕麿の身を案じた。そういった事を彼らは予測出来なかったのである。
「武、記憶が戻る前の私は…あのような状態でありましたが…あなたの愛を、あなたに愛されていると感じ始めていました」
武はその言葉に穏やかに微笑んだ。
「人間の脳から記憶を完成に消去する事は出来ません。武さまの愛情はゆっくり、夕麿さまの御心の奥へと響いていたのです。
愛、それも見返りを求めない無償の愛が存在する事を知らなかったのです」
高辻の言葉に考え込んでいた雫が口を開いた。
「武さま、夕麿さま…彼らがこんな方法を選んだのは私が原因かもしれません」
「雫さん、それはどういう事です?」
「日本を出発する時、わざわざ朽木が俺に声を掛けて来た意味を考えてた。実は、ロサンゼルスに来る為に最初は休職願いを出しました」
「雫…あなた…」
「名目は犯罪心理学を勉強する為。もちろん本気で勉強したかったのも事実です。だが一番の理由は、清方の側にいたかった。急にそんな希望を出した私を訝って、朽木が理由を訊きに来ました。私は答えました。13年ぶりに再会した恋人と失った時間を取り戻す為だと。
鼻で笑われましたよ。愛情なんて綺麗事だ、人間の欲望と欺瞞の履き違えだと。私は本当に愛する意味を知らないだけだと彼に言ってやりました。
恐らくはこの遣り取りを利用して、企てた事だと思います……申し訳ありません」
自分の言葉が夕麿と武を苦しめ、危険にさらしたのだと思うと雫はたまらなかった。
「それは…成瀬さんの…責任じゃない…」
武が未だ十分に発声が出来ない喉で言う。
「私もそう思います。私と武の間にも付け入られる隙がありました」
言葉を尽くしてもすれ違っていた気持ち。互いを愛するからこそ、想い過ぎるからこそ生じてしまった隙間。それを突かれただけ。
「恐らくは双方だろうな」
「私もそう思います」
義勝と雅久が言う。
「それで夕麿さまの暗示はいつ、どのように解けたのですか?」
それこそが一番知りたい事だと貴之が言った。
「完全に解けたのは入院治療の結果です」
高辻の言葉に武が目を見開いた。武だけが夕麿の入院を知らなかった。
「武さま、夕麿は8月の末頃まで入院していたのです」
周の言葉に夕麿は頷いた。
「きっかけは武さまの心肺停止でした。あれは夕麿さまをも危険な状態に陥らせてしまいました。あの頃は、崩れ始めた暗示で二種類の記憶が戻り始められていました。
それが一気にまるでひっくり返したような状態で溢れ出したのです。片方は無理やり封じられた記憶。片方は……夕麿さまご自身が精神のバランスをとる為に、封じてしまわれ偽りの記憶と入れ替わっていたもの。
メディカルセンターで意識が回復された時には、酷い錯乱状態でいらっしゃいました」
武を抱き締めたまま夕麿は震えていた。自ら封じていた記憶はこんなにも夕麿を、苦しめるものだったのだと武は自分の事のように胸が痛んだ。
「鎮静剤なしに落ち着かれたのは、小夜子さまが来られてからでした」
「母さん…?」
「お義母さんは私を何時間も、落ち着くまで抱き締めてくださいました。私は封じていた記憶に対する罪の意識で、自分がコントロール出来なかったのです。
でもお義母さんは私の話を聞いてくださり、私には罪はないのだと何度も繰り返し、言ってくださいました」
夕麿が封じていた記憶には慈園院 司が関わっていた。 多々良 正恒の意趣だったのか、それとも六条家との確執が面白くて詠美が企てたのか。 今となっては確かめても仕方がない事実だった。 多々良は夕麿と司を途中から一緒に呼び寄せ、片方の目前での陵辱を繰り返していた。 双方に呼び出しに応じなければ、もう片方を酷い目に合わせると脅迫していた。
どのような目に合わせるのかは、前以って双方に経験させていた。その残酷さは今でも夕麿が全てを口に出来ない程だった。
夕麿と司。一歳違いだがそれぞれの家の確執が嫌いで、小等部の頃から親しくしていたのだ。だから余計に揃っては辛かった。二人は互いに庇い合った。庇えば庇う程、多々良は残酷になった。
そして…司一人が学院から連れ出され、佐田川が集めた者たちに輪姦された。夕麿はその時、司が自分を庇ってそのような目にあったのではないかと思った。
優しくて誠実な司の性格が一変した。淫蕩で刹那的で皮肉屋になった。
そして……夕麿と共に多々良に呼ばれる事はなくなった。多々良の事が発覚した時、夕麿はどれだけの生徒が被害者であったのかを知った。その中には身近で親しい友人もいた。しかもこの時点で夕麿は、多々良の後ろに佐田川がいるのを知ってしまったのだ。真っ直ぐで優しい夕麿は、この事件自体が自分が原因だと思い込んだ。
最初の自殺未遂の理由はここにあった。事件以後処方されていた睡眠薬を全部ためて、それを使って自殺しようとした。だがそんな事で人間は死なない。睡眠薬にもよるが通常の致死量はかなり大量で、必要分を摂取する前に胃袋が一杯になってしまう。薬で眠り目が覚めた時には、夕麿は多々良との事を恋愛と思っていたのに、騙されたという記憶にすり替えてしまっていたのだ。
当然、辻褄が合わない。それを無理に合わせる為に、夕麿の心は他者に対して閉じるしかなかったのだ。極度の接触嫌悪も、本当の記憶から派生していた。根本が表面の記憶に存在しないが故に悪化してしまったのだ。
それが何故、武にだけは反応しなかったのか。高辻にも完全な説明は不可能だった。
夕麿の強い罪の意識。
これが彼の症状の根元だった。 ゆえに苦しみ、錯乱を続けたのだ。
小夜子の愛情で落ち着いた夕麿は、武に逢いに行く事を望んだ。メディカルセンターの担当医は強く反対した。だが小夜子と高辻で説得した。もしこのまま武が死ねば、夕麿も生きる気力を失う。武に生きようとする気持ちを起こさせる為にも、夕麿が病と向き合う為にも今、二人を逢わせる必要があるのだと。
その結果、武は意識を取り戻し、夕麿も懸命に治療を受けた。それでも夕麿の心を蝕む薬を体内から完全に排出させ、精神を安定させるのに1ヶ月もの時間が必要だったのだ。
「高辻先生……夕麿はもう…大丈夫なの?」
「心の病は一朝一夕では完治は致しません。しかし夕麿さまは最大の峠は越えられました。後は回復に向かわれるだけです」
「あなたとお義母さんのお蔭です」
「俺は…何もしてない」
「いいえ、あなたの愛情を信じられたから、私はここへ、あなたの元へ戻りたいと願いました。だから治療に耐えられたのです」
「武さま、夕麿さまは向精神薬の依存症に陥っておられました。半年以上も強制的に服用されておられたのですから。そこから脱却するには、幾つかの禁断症状に耐えられなければなりませんでした」
「禁断症状!?」
「強い頭痛や吐き気、幻覚といったものです」
高辻の言葉を聞いて義勝と貴之が顔を見合わせた。武との何かが引き金になったかもしれないが、いつかの夜の夕麿の錯乱は禁断症状だったのではないかと。
「あなたがいたから、私は耐えられたのです、武」
「どちらにしても夕麿さまに、紫霞宮妃格としていられないようにするのが、目的だったと考えられます。
それでここで一つの問題が見つかりました。一昨年の秋の学院での事件です。
向精神薬と暗示。
標的は夕麿さま。
似ていませんか?」
「確かに…けれどあれは板倉 正己が、逮捕された事で終わった筈だが?」
「いや、義勝。実際には終わってはいない。 板倉 正己に催眠術を教え、向精神薬を渡した人間が特定出来ずにいる」
「貴之君の言う通りです。 多々良 正恒にはそんな技術も、向精神薬を手に入れる手段もなかったと言えます。恐らくは板倉 正己と多々良 を結び付けて、夕麿さまと武さまに危害を加えようとした人間が、当時の学院内にいた筈です」
「学部長は?彼はどうなのです?彼は直接に夕麿さまのお生命を狙ったではありませんか?」
「彼も利用された一人に過ぎません。武さまを亡き者にしたがっているかの人物と、もっと近い人物がいると考えた方が良いでしょう。 慈園院 遥・保兄弟と、朽木 網宏がその人物と協力しているとお考えください。
こうなったらどちらがではありません。お二方共に狙われていると、ご判断くださいますようお願い申し上げます」
雫の言葉に武と夕麿は同時に頷いた。
「それと…多治見 絹子さんですが、彼女も強い暗示下にありました。夕麿さまへの愛情を利用されたと考えられます」
全員が絶句する。
「ただこれだけは言えます。私たちは信頼関係で結ばれています、武さまと夕麿さまを中心にして。孤独ではないのです。その点は私たちの強味だと言えます」
雫の力強い言葉に全員が頷いた。
「良いでしょう。私たちもこのままおとなしくしているつもりはありません。
武、私たちなりの反撃にでましょう?」
「うん。やられっぱなしは…俺も嫌だ」
再び全員がしっかりと頷いた。ただ受け身でいては被害を受けるばかりだ。もちろん決して彼らのような卑怯で残酷な手には出ない。 行うのは正攻法で確実な反撃。
それを求めて彼らは夜更けまで話し合った。
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