蓬莱皇国物語SS集

翡翠

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土筆

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 自治会長が御園生邸に持って来た土筆つくし

 夕麿の幼き思い出を呼び覚ます。

 夕麿と乳母絹子の話。


 夕麿と武はその日、珍しく夕方に帰宅の途についた。

 車から降りると玄関先に訪問者がいた。

「只今帰りました」

 貴之が訪問者を誰何すいかする意味を含めて、応対に出ている文月に声をかけた。

「自治会長さん、こんにちは」

 訪問者はこの辺りの自治会の今年の会長で、宮前の商店街でスーパーを経営している人物だった。

「こんにちは」

「ごきげんよう」

 武と夕麿がそれぞれ挨拶をする。

「おかえりなさいませ、若さま方」

 自治会長も武たちに挨拶を返す。御園生家は近くの神社の氏子として、祭りなどの資金援助をしている。それ故に町内の人々はこの邸に住む若者たちを、良く見知っている程見知っていた。

「武さま、夕麿さま。自治会長さんから珍しいものをいただきました」

 そう言って文月が見せたのは、大きめの籠いっぱいの土筆だった。

「土筆!」

「懐かしいですね」

 目を見開いて驚いた武とは対称的に、夕麿は目を細めて微笑んだ。

「懐かしい?」

「ええ。昔、絹が煮て食べさせてくれた事があります。とても美味しかったのを記憶しています」 

「美味しいの?」 

「とても。 

 自治会長さん、ありがとうございます」 

「昔は川の堤防などでたくさん採れたものですが、今ではなかなお目にかかれなくなりました。これは先日、古里の母が送って来てくれたものでごさいます」 

「へえ…これがいっぱい並んでるのかな?ちょっと見てみたいなあ」 

「わずかばかりでしたら、この辺りの堤防でもたまに見受けますよ?」 

「本当?夕麿、今度行ってみよう? 

 ………夕麿? どうかしたのか?」 

 黙り込んでしまった彼が心配で、武は腕を掴んで声をかけた。 

「あの…つくつく…いえ、土筆は店では売っていないのですか?」 

「昨今は少量ならば並ぶ事もありますが、信じられない程高価です。昔は堤防や空き地の隅に普通に自生しておりましたから、店で売られているような事はなかったかと記憶しております」 

「そう…ですか。 

 あ、すみません、御引き留めして。良いものをありがとうございます」 

「いえいえ、いつもお世話になっておりますので」 

 自治会長はそう答えて帰った。 

 武と夕麿は居間に入ると、早々に絹子を探した。 

「絹、どこにいますか?」 

 夕麿の声を聞いて絹子が駆け付けて来た。 

「お呼びであらしゃりますか?」 

「これを…見てください」 

 夕麿はテーブルに置いていた籠を直接絹子に手渡した。 

「まあ、土筆つくつく! こんなにたくさん!」 

「今自治会長さんが持って来られました。これで昔つくってくれたあれを、またつくってください」

「まあ…覚えていらっしゃいますのですか、あれを?」

「もちろんです。絹がつくったあれが食べたい」

 夕麿の言葉に絹子は、泣きそうな顔を懸命に笑顔にする。

「承知いたしました。夕餉ゆうげ(夕食)にはお出しいたしましょう」

「頼みます」

 夕麿の言葉に絹子は、宝物でも抱くように籠を持って行ってしまった。

「夕麿、俺少し部屋で休むから」

「私も行きます」

 微笑んだ夕麿の顔はいつもとは違っていた。

 武は夕麿の手を引いて部屋へと足を運んだ。現在二人が住んでいるのは、以前に雫と清方が住んでいた離れを改築したものだった。武が料理をしたり、夕麿が好きな紅茶を淹れる事が自由に出来るように、一階にはLDKとバスルームが造られた。

 二階はそれぞれの自室とウォークインクローゼットとゆったりとくつろげる寝室が設けられていた。

 公務後、寝込む事が多い武が静かに休めるように、離れに居室を移したのだ。以前、武と夕麿の部屋だった場所は周が使っている。

 リビングのソファに座った武の為に、夕麿がオレンジジンガーというハーブティを淹れた。

「で?どうしたんだ、夕麿?」

「………今更ですが、あなたは何でもお見通しなのですね?」

「何でもわかるわけじゃないから、どうしたのか訊いてるんだけど?」

 ネクタイを引き抜き、上着を脱いでカップに手を伸ばした。夕麿が口を開くのを待つ。

「私は…つくつくは、売っているものだとばかり思っていました」



 それは透麿が生まれて半年程が過ぎた頃だった。詠美の虐待は既に日常になりつつあった。身体に傷を付けるような暴力は振るわない。

 部屋へ閉じ込める。

 食事を与えない。

 気に入らない事があると、庭に立たせる、正座させる。

 そして何時間でも放置する。

 口汚く罵る。

 逆にまるで夕麿が存在していないかのように無視する。

 まだ5歳の子供には、何故そんな目に合わされるのかわからなかった。ましてや夕麿は室町時代から続く六条家の嫡男。生母翠子は摂関貴族近衛家の末娘であり、その母は男系が絶えて廃絶した宮家の直系。六条に仕える者は皆、夕麿を貴き者として大切に慈しんで来た。周囲に愛される事しか知らなかった。だから夕麿は義理の母の仕打ちがどうしてもわからなかった。わからないから耐えた。何故なら自分を庇った使用人が、次々と六条家からいなくなったからだ。

 絹子は炊飯器やカセットコンロを買い求め、米や食材を自費で買って来た。それで調理したものを夕麿に内緒で出した。だが詠美が嗅ぎ付けると、絹子の買い物を逐一確認するようになった。当然、食材の類は全部取り上げられた。 

 それでも執事の唐橋や使用人たちが、自分たち用の米を回してくれたり、時には食材も何とか回してくれた。残り物を調理して夕麿に食べさせる。忠義一心の絹子には辛かった。時には米しかなくて、炊いたご飯を握って漬け物を付ける。 

 だが夕麿は笑顔でそれを美味しいと食べた。絹子は泣いて、死んだ母親と翠子に謝罪するしかなかった。 

 ある日、残り物も漬け物も手に入らなかった。河辺で途方に暮れていると足元に土筆が伸びていた。見回すと季節がらあちこちに土筆が見える。絹子は夢中でそれを採った。生まれてからずっと主の側近くに仕える者として、土に直接触れた事などない絹子だった。川の堤防で枯れ草にまみれながら、たくさんの土筆を採って持ち帰った。幸いにもそれは詠美には見つからなかった。 

 絹子は幼い頃、台所番の娘と仲良しだった事もあって、料理はある程度出来る方であった。それでも土筆の料理法をこっそりと、厨房のコックに聞いて来た。土筆を料理するにはまず、『はかま』と呼ばれる茎にある節を取り除き、水さらしして胞子を洗い流す。それを水、みりん、砂糖、醤油で煮詰める。 

 そうやって作った土筆の甘辛煮を、夕麿は喜んで食べたのだ。もっとと思って再び河辺に行ってはみたが、誰かが採ったのか…その春、土筆を手に入れる事は二度となかった。 

 だが変わりに隣家の久我家に嫁いだ浅子が、絹子に様々な物を持って来てくれるようになった。さすがに詠美はこれを止められなかった。浅子はどうやら河原で、一心に土筆を採っていた彼女を目撃して事情を察したらしい。 

 あれから20数年。 

 絹子は土筆がこんな形で自分の手元に来るとは思わなかった。六条家の嫡男に粗末なものしか食べさせられなかった、悔恨の想いに胸が詰まる。幼い夕麿の笑顔を今でも思い出す。土筆の袴を取りながら、絹子は幾度も溢れて来る涙を拭った。 

「私はつい今し方まで、つくつくは売っているものだと思っていました」

「料理として出て来ない事を疑問に思った事、一度もなかったわけ?」 

「………あれを見るまで、忘れていました」 

 幼い頃の様々な思い出を夕麿は、忘れようとするように自らの中に封印して来た。武と穏やかで満ち足りた日々を過ごす中で、何かのきっかけがあれば浮かび上がって来る。辛かった事も嬉しかった事も、今はありのままに受け止め、受け入れる事が出来るようになった。 

「絹は私に食べさせてくれる為に、自分の手で採って来て料理してくれたのですね」 

 幼い頃に見えなかったものが、成長した今の夕麿には見えた。 

「絹が六条を追い出されたきっかけは、私が肺炎で入院したのを看病してくれたから…だと思います」 

 あの時、絹子はずっと病院で付き添ってくれた。高熱と呼吸困難、胸部痛に苦しむ夕麿を寝ずの看病をしていた。だから夕麿は回復したとも言える。 

 詠美にはそれは腹立たしい事だっただろう。自分が何をしても夕麿を絹子が全身全霊で庇う。肺炎で死ねば、彼女の思う壺だった筈。だから詠美は絹子を六条から追い出したのだ。 

「私は何も知らなかった。六条から出て行った絹に捨てられたのだと、恨んでいた部分があります」 

「案外、そう思わせたんじゃないの?あの女ならそれくらいするだろう」 

「そうかもしれません。でも……………」 

「絹子さんもわかってるさ、きっと。ま、後でその気持ちを言えば良いんじゃないの?土筆を食べながらさ」 

 立ち上がって座る夕麿の頭を抱き締めた。 

「武……」 

 夕麿の腕が武を抱き返す。武は少し身を屈めて夕麿に口付けた。 

「ン…ぁン…」 

 口付けに夕麿の目許がほんのりと朱に染まった。 

「ああ…武、抱いてください」 

「ここで?それとも上に行く?」 

 真っ直ぐに顔を覗き込んで訊く。 

「上まで…我慢できません。ここでシてください」 

「了解」 

 今でも、武が抱かれる方が多い。でも時折、無性に抱いて欲しくなる。身の内に愛しい人の熱を受け入れて、何もかもを忘れて縋りたいのだ。武はいつもありのままの夕麿を、受け入れて抱き締めてくれるから。上着を脱がされ、ネクタイを引き抜かれる。 

 ソファに押し倒され、シルクのシャツのボタンが外されて行く。 

「ああ…」

 武は手慣れた手付きでトラウザーズのホックを外し、下着ごと脱がせてしまう。靴下も投げ出すように取り除かれた。

 ソファに横たわる夕麿を見つめる。冬用のやや厚目のシルクシャツ。 開いた胸元で乳首が紅く誘っている。前をはだけたシャツ一枚。そんな姿にされた上に、武の視線が見つめている。

 夕麿の頬に羞恥の朱が差した。それが何とも色っぽく艶めかしい。武の喉が鳴る。

 あと数ヶ月で10回目の結婚記念日を迎える。だが、夕麿の色香は褪せるどころか、歳月を重ねて更に強く美しく妖しく武を酔わせる。

「はは、やらしい格好…」

 欲望に上擦った声で揶揄すると、夕麿の顔が一気に真っ赤になった。

「こんな格好にしたのは、あなたでしょう…」

 少し拗ねた口調で言って、潤んだ瞳で睨み付けた。

「うん、俺。俺だけが見れる夕麿のやらしい格好…」

 武が床に跪いてそっと唇を重ねて来た。唇を自ら開いて受け止める。武が明日を信じると告げてから、二人は穏やかに満ち足りた人生を歩み続けていた。妬きもちや喧嘩はするが、それも日々の幸せなスパイスだった。

「ひょっとしてずっと、抱いて欲しかった?」

 唇を話して囁く。

「…」

「返事がないってのはYESか? 何で言わないんだよ?」

「あなたに…」

「ん?」

「あなたに欲しがってもらいたくて…」

「俺に抱きたいって言って欲しかったんだ?」

 少し含羞むように頷くと、武が満面の笑みを浮かべた。

「ごめんな、気付かなくて」

 武を抱く。愛しくて愛しくて、今でも次の日の予定を忘れてしまう事がある。仕事場でも同じ部屋で机を並べている。互いに別々に動く時はあるが、それでも二人は一緒にいる事が多い。

 一日中一緒で飽きないのか。

 もしそう思うならばその幸せを知らないからだ。特に武と夕麿は馴れ合いはしない。相手の間違いはきちんと指摘するし、された方も改善に努力をする。互いに不足を補い合って社員や取引先、関連企業の経営者からも信用を得て来た。互いに成長の刺激にはなっても、決して飽きたりはしない。

 胸を武の手が撫でまわす。

「夕麿の肌、気持ちイイ…」

「ン…武…ああ…焦らさないで…」

 覆い被さる武の腰に片足を絡め、強請るように腰を揺らす。強請り方で夕麿のストレスが、ピークに達していた事がわかる。

 人付き合いが苦手な武に代わって、どうしても夕麿が人と会う事が多い。武も出来る限り、同行するようにはしている。

 それでも相手が女性だったり、女性を同伴して来ると夕麿は神経質になる。以前ほど過敏ではないが、どんなに治療を重ねていても夕麿のそれは、完全に性癖として確立してしまっているようだった。他者に触れられる嫌悪感も軽減されたが、親しい人間相手には身構えているのがわかる。

 だからこそストレスになる。

 今日、早く帰宅したのはそんな相手との接待の席を、途中で蹴って帰って来たからだ。相手は妻だと言う女性を同伴して来ていた。どこかの余りよろしくない店のホステスだったらしい。前以まえもて知らせてあるにも関わらず、彼女は厚化粧で香水の匂いをプンプンさせて来た。夕麿がそういうのを嫌う事がなかったとしても、食事の席に強い香水の匂いをさせて来るのはマナー違反である。

 これが高級店のホステス上がりならば、礼儀をきちんと弁えていたであろう。一流のホステスは英語くらいは話せるし、礼儀作法や知識も優れている。だが、彼女は自分の美貌が今の立場を呼んだと思っているらしかった。

 経済界では武と夕麿が、同性婚の夫婦である事は既に暗黙了解だった。経済界でも蓬莱皇国有数の巨大企業のトップは武の本当の身分を知っている。夕麿との結婚の経緯も知っているのだ。

 個人的な事情とビジネスは別であり、人間として信用が出来る事が重大とする。だが事情を知る者ばかりではない。同性婚を知って差別的な態度をする相手もいる。小柄な武を軽視する相手ならば、夕麿が席を立って引き上げる。

 夕麿は武を侮辱する相手とは取引をしない。また露骨に夕麿に色仕掛けをして来る者がいる。

 それが今日の夫人は酷かった。夫の前で堂々と夕麿を口説いて来た。武と夕麿の事を夫は知っている筈だった。露骨に差別視はしないが、こちらを軽視している事は感じていた。

 武は最初は無言で牽制していたのだ。すると彼女はそれを鼻で嘲笑うようにあしらった。同性に興味がなくても、男ならば自分の魅力に落ちる筈。その慢心が不快だった。

 彼女は知らなかった。武を怒らせれば絶対に御園生は取引を引き上げる……と夕麿は御園生関連の会社の取引先を、出来るだけ国内の企業を優先するように通達していた。

 皇国は中小企業の地道な努力で、大企業が成り立っている。小さな部品一つでも、世界に負けない技術力は中小企業が有しているのだ。コスト削減は企業内の努力から。そうする事で国内の活性化を考えているのだ。

 だからこそ御園生の次期リーダーとして、武と夕麿は自らが動く。接待や会食もその一環なのだ。

 今日の接待は向こう側が持ったもの。わざわざ足を運んだ結果が不愉快な事態になったのだ。

「夕麿、帰るぞ」

 口を開いて命令したのが、武の方であった事に相手は驚きを浮かべた。

「承知いたしました」

 夕麿がそれに従って席を立った。彼らは武を怒らせる意味がわかっていない。武を怒らせて取引が打ち切られた話は、経済界を電撃の如くにあっという間に伝わり広がる。それは企業の印象を格段に悪くしてしまう。彼らの行いは国際化の進む現代では、非常識この上ない事だからだ。

 一見、夕麿の方が武よりも上位に見られる。武は敢えてそれを利用して、相手の言動を観察する。二人のお眼鏡に叶えば、その企業は様々な優遇を与えられる。企業トップの性格はそのまま工業製品に反映される。少ない人数で作業する中小企業ならば、尚更んい克明になる。表だけを取り繕っても、必ずどこかで明らかになるのだ。

「あなたの所とは取引はしない。夕麿、総帥にそう連絡をしてくれ」

「はい」

 それで席を立って帰って来たのだ。だから玄関先での土筆の登場は武には有り難かった。あの下品で節操のない女の行為に、夕麿が顔から血の気を引かせる程嫌悪していたからだ。



 夕麿の指が焦れったいのか、武のシャツのボタンを外し出した。武はニヤリとするといきなり、紅く熟れた乳首に同時に爪を立てた。

「ひッ!」

 突然の刺激に小さく悲鳴が上がる。その仰け反った喉に口付けながら、左側の乳首をなおも摘みあげる。

「あッ…ああ…」

 武の腰に絡めた脚が、官能を示して締め付ける。

 唇を移動して乳首を口に含んだ。唇で挟み、舌先で絡めるように舐める。 合間に歯を立て吸い上げる。

「ンぁ…ああ…ヤ…」

 ガクガクと戦慄わななく身体が悦楽に染まる。手を伸ばして欲望のカタチを示しているモノに指を絡めた。

「凄いな、ヌルヌルだぞ?」

 少し意地悪に言うと、夕麿が首を振って頬を染める。

 常になく意地悪な武。独占欲と所有欲がむき出しになる。

 夕麿は目を閉じて、唇を噛み締めた。下品な女の行為がどれだけ武を傷付けたのか。互いに異性に決して、心うごかされないのをわかってはいても、今でもそのような態度を異性が向けて来るのを見るのは辛い。

 そしてそれは夕麿より、武の方がより傷付く。武は今でも行動に制限がある。つまり夕麿をはじめとした周囲を巻き込んでしまう。

 特に伴侶である夕麿も制限を受けているのと同じなのだ。夕麿がどんなに言葉を尽くしても、武はそれを哀しんでしまう。

 夕麿の自由を奪うと。

 自分が原因であるとわかっているから、異性に熱い眼差しや態度を向けられる夕麿を見ると傷付くのだ。

 夕麿には別の生き方があったのではないかと。それだけは武の心からは、消えてなくならない。夕麿の女嫌いを承知していても、武はその度に傷付いて苦しむ。紫霄に入るまでは外で育った武には、夕麿たちのような諦めから変化した、自分たちだけの生き方への納得が存在していない。

 小柄な武をマスコミに顔を出す、ニューハーフたちのように思っている者もいる。まして薬の後遺症で未だに、幼い立ち振る舞いが完全には消えていない。だから余計に差別的な扱いをされてしまう。

 今日の女はその辺りが露骨だった。自分に色目を使い、武を馬鹿にしたような眼差しを送っていた。武を傷付けているのをわかっているからこそ、夕麿はいたたまれなかった。取引の交渉に来た夫である社長は妻の行動を見て見ぬ振り。

 信用に値しないと夕麿が声を上げる前に武が席を立った。武の決定に夕麿はわざと、一歩引いて従う姿勢で同意して見せた。二人の間に於いて上位に立つのは武なのだと示して見せた。

 経営者としての感は武の方が優秀だ。人の心も自然に動かしてしまう。御曹司という飾りではない。それが腹立たしい。

 武は男としての誇りも矜持も持っている。

「あッ…武…もっと…」

 荒々しく腰を使う武を抱き締めて更に強請る。

 どうしても誤解されてしまう悲しさを、少しでも癒したくて。



 夕食の席に着くと絹子が器を夕麿の横に置いた。

「つくつくの甘辛煮でございます」

「ありがとう、絹」

 夕麿は笑顔で箸を手に取った。横で武が興味津々に覗き込んでいる。

「ああ…この味です…」

 白飯に土筆をのせて食べた夕麿はそう呟いた。涙が溢れ出る。

「絹…ありがとう。あの時、あなたはつくつくを採って来て、私に食べさせてくれたのでしょう?」

「夕麿さま…」

「それなのに私は…六条からあなたがいなくなったのを…ずっと…捨てられたのだと思っていました。ごめんなさい、絹…」

「夕麿さまはまだお小さくてあらしゃりました。ですからそのように思われても、仕方が御座いません」

 絹子も涙を拭っていた。

「絹…私の側に帰って来てくれてありがとう」

「夕麿さま…私こそ、再びお側に上がらせていただけた事を、お礼申し上げなければなりません」

「絹…」

「絹子さん、俺からもお礼を言うよ。ありがとう、あなたがいたから俺は夕麿と出会えた。あなたは夕麿の大切な人だ。どうかいつまでもここにいて欲しい」

 絹子は再びロサンゼルスに戻った後、武と夕麿の為に献身的に尽くした。特に後遺症に苦しむ武に懸命に尽くす夕麿を陰で支えたのが絹子だった。

 後遺症がもたらす不安定な幼さではない、武本来の幼さを成長させる努力をしたのも絹子だった。彼女にすれば武を暗殺しようとする者に、安易に利用されてしまった事が辛かった。 ましてや武を殺しかけたのだ。それでも彼女を受け入れた武に、夕麿に対するように忠義の心を抱いたのだ。

 武たちが帰国する時に彼女はアメリカに残ろうとした。そうするのが償いだと考えたのだ。だが武が許さなかった。彼女はこれからの自分たちには必要な存在だと、武は頑固なくらいに反対したのだ。絹子も武の強い言葉に励まされるようにして皆と一緒に帰国した。今は紫霞宮家にはなくてはならない人になっている。

「武さま…夕麿さま…」

「絹子さんは既に家族だからね」

 武が彼女の手を握って笑顔で言った。

「ありがとうございます」

「さて俺も食べてみよう……………何か苦い部分があるけど?」

「ええ、胞子を作る部分ですね。私も昔は食べられませんでした」

「はあ?じゃ、どうしたわけ?」

「茎だけ食べました」

「絹子さんに押し付けたな?ねぇ、絹子さん。夕麿の人参嫌いって、小さい時から?」

「左様でございます。離乳食の時からお嫌がりになられて…すぐに出してしまわれました」

「あはは」

 夕麿が赤くなって武を軽く睨んだ。

「嫌な人ですね。どうしてそう、私の苦手で遊ぶのですか、あなたは?」

「嫌いな食べ物ででも突かないと、俺に勝ち目がないからだよ」

 拗ねたように言って夕麿を睨み返す。

「何を仰います、武さま。あなたさまは素晴らしい御心をお持ちであらしゃります。夕麿さまには夕麿さまの、あなたさまにはあなたさまの良いところがおありになります。 勝ち負けなどございませんでしょう?」

 絹子にこう言われてしまうと、武は何も言えなくなってしまう。けれど武には夕麿が羨ましかった。仕事をしていると夕麿の有能さがよくわかる。

 時折、武は会社には必要がないのではないかと感じてしまう。自分はただ身分や立場でのみそこにいるのではないかと。

 違う生き方を選んだ方が良いのではないか。最近ではそんな迷いが生まれつつあった。周囲に言えばきっと猛反対される。しかし後遺症の事もあって、武は企業人としての自分を不安に感じていた。

 武は土筆を嬉しそうに食べる夕麿を見て、ぼんやりとそのような事を考えていた。

 絹子は武の様子からその気持ちを何となく感じていた。彼を自分の側にいさせたがる夕麿の気持ちもわかる。だが公務から帰って来た武がその都度寝込んでしまうのを見て、最近は彼は企業人ではない生き方をするべきではないか…と思っていた。その証のように武が一人で休暇を過ごす事がかなりある。

 身体が弱い分、無理は出来ないのだ。だから他者よりも休みを多く入れて身体への負担を軽減する。それがまた、武を悩ませていた。悩みから逃れるかのように武は組み紐を制作する。小夜子が御園生系のデパートに自分の作品を置いているが、最近は武の作品も密かに並べられている。 それの評判が良いのだ。

 絹子は武と夕麿のこれからの在り方に、一つの転機が来ていると考えていた。双方が互いの生き方を受け入れて大切に出来るように。どうすれば良いのかを絹子は今、思案中であった。武と夕麿の幸せは、絹子にとっても幸せだった。

 夕麿美しい花嫁を迎えて、二人の間に生まれる子供を抱きたいと思った事もある。それこそが相応しい生き方だと本当に思っていた。けれど夕麿の一途な想いを知り、懸命にそれに応える武を見ていて思ったのだ。

 こんな形の愛情もありなのだと。

 夕麿が女性の香水や化粧品の匂いに、過敏に反応してしまうのを何度も見た事もあった。

 辛い事、哀しい事、様々な危機を乗り越えて、武が夕麿と一緒に生きると心底望んだ時、夕麿は今までのどの時よりも喜びに輝いていた。それを見て安心したのだ。そんな自分の気持ちに絹子は驚きながらも、ゆっくりと全てを受け入れて行った。

 自分に出来る事は些細な事だ。結局は、武と夕麿が自ら決めて行く事だから。もしも二人の意見が衝突するような時は、間に入って少しは和らげたいと思う。

 二人を大切に大切に思うから。

 幸せでいて欲しいから。

 絹子はそう願わずにはいられなかった。

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