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   記憶

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貴之がハンドルを握り、高速道路を御園生邸に向かって走っていた。数日前、とある貴族から武に家宝の阮咸げんかん(琵琶の一種)を買ってもらえないか、とという申し出があった。跡取りもない老婦人が施設に入る為のお金が欲しいと言うのだ。ただ阮咸は現代では珍しい楽器なので、ちゃんと扱える人間に大切にして欲しいと。紫霞宮家の大夫である雅久が舞楽師であるのと同時に、竜笛の名手であり和楽器全般に通じているのは貴族の間では有名だった。

 武は阮咸の品定めと交渉を雅久と義勝に一任した。ちょうど非番だった貴之が運転を買って出たのである。

 無事に取引が終了して、多少の手入れが必要な為、旧都のメーカーに連絡を入れて発送した。その後、3人で軽く食事をして、皆に土産物を買って帰路についた。

 次の出口で高速を降りるという場所に差し掛かった時だった。前方から横倒しになった車が路上を滑るように迫って来た。貴之は慌ててハンドルを切った。ブレーキをコントロールするが、車がスピンするのを止められない。それでも貴之の優秀な反射神経は、何とか車を制御して制止した。 

 ホッとしたのも束の間、別の車が突っ込んで来た。とっさに動いたが横腹にぶつかった。強い衝撃に一瞬頭が真っ白になる。ハッと我に返って貴之は慌てて後ろの二人を振り返って叫んだ。 

「義勝!雅久!」 

 シートベルトを外しながら声をかける貴之は、割れたフロントガラスであちこちに傷を負っていた。 

 義勝は雅久を庇うようにして抱き締めていた。 

「大丈夫か?」 

「俺は…大丈夫だ…」 

 うめくように呟いて義勝が身を起こした。 

「雅久…?」 

 だが呼び掛けても彼はぐったりとして動かない。義勝はとっさに脈をとった。脈拍はしっかりとしている。 

 車外に出た貴之は周囲を見回した。車が数台停車しており、玉突き衝突に巻き込まれた形だった。 

「貴之!雅久の意識が戻らない!」 

 義勝の悲痛な声に貴之は後部座席のドアを開けた。雅久は車が突っ込んだ側に座っていたのだ。義勝が抱き寄せたが、衝撃で傷を負ったのかもしれない。貴之は急いで雫に電話を掛けた。 

 その時、ツンとガソリン臭が鼻を突いた。どうやらぶつかって来た車から、ガソリンが漏れているらしい。 

「義勝、そっちの車が爆発する!雅久を連れて降りて離れろ!」 

 貴之の言葉を受けて義勝は慌てて雅久を抱いて車外に飛び出した。貴之は車を回って、ぶつかった車の運転席から、意識のない運転手を引きずり出した。そのまま担いで車から離れ、周囲にいる人々にも叫んだ。 

「下がれ!爆発するぞ!」 

 衝撃で発火した炎を消す暇は多分ない。 

「伏せろ!」 

 貴之が叫んだのとほぼ同時に、ぶつかった車が爆発した。続いて貴之の車も爆発する。凄まじい炎が黒煙をあげて空を焼いた。 

 雅久は直ちに御園生の病院へ救急搬送された。急いで全身のCTスキャンなどが行われるが、どこにも傷一つ負ってはいなかった。 

 義勝がぶつかって来る車を見て、彼のシートベルトを外して抱き寄せた。しかも貴之が車を動かして避けようとした為、実際にぶつかったのは助手席辺りだった。硝子は前方で割れ、貴之がかなりの切り傷を負っていた。 

 武の代理。本来ならば紫霞宮家の御用車を使用するが、老婦人の住居が複雑で細い道を通過しなければならない為、小回りが利く貴之の車を使ったのが仇となったとも言えた。 

 何をしても一向に雅久の意識は回復しない。医師たちが懸命になった結果は、何故意識が回復しないのかわからないという事だった。 運転していた貴之も庇った義勝も、雅久が頭部に衝撃を受けたとは思えないと答えた。万が一を考えて、様々な計器を取り付けて様子を見ているが、若干、血圧が低めな事を覗いては正常値を示していた。 

 この状態を見て清方が考え込んだ。それから貴之と義勝に、事故を含めた今日の出来事を詳細に思い出すように言った。身体的に異常がないのであれば何かが彼の精神に、影響を与えたとしか考えられないと言うのだ。 

 雅久は精神疾患の治療を受け続けている。心に深い傷を負った為に、記憶を失ってしまった患者なのだ。今のところは普段、生活に何の支障も出てはいない。既に彼を傷付けた環境からは離れ、最愛の人と家族に包まれて幸せに生活している。雅久の心の傷に触れるような事態は、現在の環境には存在しない。もしあったとしても義勝が先に排除する。 

 だが義勝とて全てを知っているわけではない。様々な情報網を駆使して情報を得る貴之も全てを得られるわけではない。ましてや一人の人間の記憶や深層意識を全て、掌握する事は精神科医にも不可能だ。 義勝と貴之、双方が記憶している事には、そのような片鱗は見当たらない。事故自体の何か…例えば恐怖が、記憶を失う過程の恐怖や絶望と結び付いたのか。ある意味、これは覚悟が必要な事態かもしれなかった。 

 清方は全員が揃うのを待って、雅久がおかれている状態を説明した。事故がもたらした恐怖が、恐らくは9年前の恐怖を蘇らせた可能性がある事。あの時も雅久はしばらく意識が回復しなかった。今回も似たような状態だと考えられる事。その場合、幾つかの可能性が考えられた。彼らは清方が告げた内容に言葉を失った。 

「前回はそれまでの記憶を彼は、全て失ってしまいました。今回、それが戻って来る可能性があります。その場合、二つのパターンがあると考えてください。

 一つは失った記憶が戻りこの9年間の記憶と合わさる。

 今一つは…失った記憶が戻るのと引き換えに、9年間の記憶を失ってしまう可能性です」

 清方は全員が蒼褪めるのを目撃した。彼らにとっても雅久にとっても、9年間の記憶はなくてはならないものだからだ。

「もっと最悪のケースも覚悟してください」

「最悪のケース…?」

 武が清方を真っ直ぐに見上げて言った。

「また、全ての記憶を失う可能性がある」

 清方よりも先にそう告げたのは義勝だった。そう…未だ研修の身とはいえ、義勝も精神科医なのだ。彼は清方の説明の途中で誰よりも早く、雅久の状態が何を意味するかに気付いていたのだ。

 彼らはあの時の雅久の状態しか見てはいない。実際に異母兄二人が、雅久にどのような事を行ったのかまでは知らない。

 戸次家が彼を誰かに売ろうとしていた。誰かの男妾として。

 それは愛する人にも、大切な友人たちにも二度と会えなく事を意味していた。だから彼は必死に抵抗した。腕にも脚にも縛られた跡があった。恐らくは夏休みに入り、無理やり連れ戻されてからずっと抵抗をしていたのであろう。雅久の身体の傷は義勝が記憶している、どの時よりも凄まじい状態だった。

「何で今頃になって…何でだよ…」

 武が悲痛な声を上げた。武にとっても雅久は時には兄のように、時には姉のような存在だった。悲しい時や辛い時、特に夕麿との関係が揺らいだ時には、どれだけ彼の優しさが救いになっただろう。まして今の彼は紫霞宮家大夫であり、自分と夕麿のスケジュールを調節する統括秘書。なくてはならない存在なのだ。

 彼が失った記憶を取り戻して欲しいとは思う。しかし引き換えに9年間の記憶が消えてしまったとしたら…紫霄での1学期の短い付き合いしかない彼との関係は…どうなるのだ?夕麿たちはまだ良い。中等部からの友人だ。もし9年間の記憶を失った雅久が、武をただの後輩としか見なかったら。9年間に培った関係が消えてしまうのだ。 

 だが9年間が失われてしまう事に恐怖したのは義勝も同じだった。互いが御園生へ養子に入る事で結婚した事実も、9年間に育んだものも雅久からは消えてしまうのだ。これほどの恐怖があるだろうか。 

 雅久が目を覚ましたのは二日後だった。昼は義勝の勤務がある為、武と夕麿に請われて絹子が世話をして、夜間は義勝が泊まり込んだ。目を覚ましたのは義勝が勤務を終えて、絹子と交代したばかりだった。 

 白衣のままで病室で来て眠り続けている、雅久の玲瓏れいろうな顔を覗いた時だった。まるで何事もなかったかのように、雅久は突然に目を開けたのだ。 

「義勝…?」 

 どう声を掛けてよいか躊躇っていると雅久が呟いた。 

「何時ですか、義勝?少し寝過ぎた感じがします。私はひょっとして今日の授業をサボってしまいましたか?」 

 義勝は息を呑んだ。言った内容もだがその話し方は間違いなく、記憶を失う前の雅久だった。 記憶を失った後の雅久は、その不安からだろうか。前よりも柔らかい口調に変化したのだ。 

 自分の心身を脅かす者もいなくなり、その恐怖も忘れた事。彼を兄と慕う武の思い遣りなどもあって、張り詰めたような心の現れであるキツい性格が消えてしまったのだ。ここという時に譲らない強さは残ったが、全体的に穏やかで優しい気性になった。 

 義勝はそれが雅久の本来の性格なのだろうと思っていた。 

「そんな顔をしなくても、明日はちゃんと起きて行きます。 

 義勝…?何故、白衣なんか…」 

 いや…9年前に失われた記憶が戻ったにしては奇妙だ。自分がどういう状況だったかを記憶している様子がない。 第一、あれは夏休み中の出来事だった。 

「ああ…これは、気にするな」 

 慌てて白衣を脱いだ。 

「どこか痛みを感じるような場所は?」 

「何故そのような事を?眠っていただけです。そんな事がある筈はないでしょう?」 

 間違いなくこれは消えてしまった方の雅久だ。恐らくは全ての記憶は蘇らずにいるだけだ。 

「腹は空いてないか?」 

「そう言えば…」 

「何か運ばせよう。ちょっと待っていてくれ」 

 義勝は病室から逃げ出した。今の状態の雅久にどう向き合っていれば良いのか、当時は取り戻したいと願った筈の姿に戸惑う。 

 義勝は取り敢えず清方に連絡を入れた。その後、御園生邸に電話を入れて、文月に消化に良い食べ物を運んで欲しいと依頼した。病室に戻ると雅久はようやく、周囲を見る余裕が出来たのか戸惑っていた。 

「ここは…どこですか?」 

「病院だ」 

「病院?」 

「お前が何をしても目を覚まさないから、入院させたんだ」 

「ではここは附属病院の中ですか?」 

「いや…御園生 武を覚えているか?」

「え…?ええ、当たり前でしょう。今年の新入生で外部編入生。そして唯一の特待生をどうして忘れるのでしょう?」

 ああ、そのレベルでの記憶かと義勝は武が可哀想になった。

 しばらくしてインターホンが鳴った。清方が来たのかと開けると、雫や清方と一緒に武が立っていた。入口で一緒になったのだと言う。

 貴之は硝子の細かい破片が傷口に刺さっていた事もあって、雫の命令で自宅療養中だ。

「食事、ここの電化キッチンで仕上げようと思って」

 雅久が目覚めて食事をと聞いて、それが武に伝わってしまったらしい。今日が水曜日である事を義勝は忘れていたのだ。

 武は雫が持っていた荷物を受け取って、室内に設置してあるシンクへ向かった。雫は義勝に対して決まりが悪そうな顔をした。武を止められなかったらしい。

「義勝、この方々は?」

 その言葉に武が振り向いた。雅久を見詰める眼差しが悲しい色を帯びて、伏せられると同時に武は背を向けた。

「こちらは護院 清方先生。精神科のDr.で夕麿の母方の従兄だ。こっちの方は成瀬 雫警視正…武の父方の身内になられる」

 間違ってはいないが、苦しい説明の仕方だった。特に雫の役目を説明するには、まず武の立場を話さなくてはならない。今の段階で9年もの時間が経過している事や自分たちが、御園生家の養子である事などを話して良いものであるのか。経験の浅い義勝には判断出来なかったのである。

「はい、お待ち遠さま」

 武がつくったのは雅久の大好物、鴨南蕎麦だった。ちゃんと九条葱を斜めに薄く切って入れてある。粉山椒と一緒に柚七味が添えられている。鴨南には普通は粉山椒をかける。だが雅久は柚七味が好きで、わざわざ柚が多く入れられている旧都のものを取り寄せているのだ。

「鴨南…武君、ありがとう」

 雅久の笑顔に武は、少しホッとした顔になった。

「お気がお済みになられましたか、武さま?昨日から熱がおありになられるのですから、お戻りになってください」

 雫はそう言って武を連れて帰った。武が昨日から熱を出している話は聞いていなかったから、義勝はますます夕麿に叱責されるなと思う。それでも雫が早々に連れ出したのは、ショックを和らげる為と思えた。

 雅久は喜んで蕎麦を食べている。清方はその様子をじっと観察して雅久が蕎麦を食べ終えるのを待って声をかけた。

「状況の説明をさせていただいてもよろしいですか?」

「はい」

 義勝がトレイを下げるのを横目で見ながら、雅久はベッドの上にきちんと座った。だが顔をしかめて指でこめかみを押さえた。

「頭が痛いのか?」

 義勝が心配そうに覗き込んだ。

「少し…でも大丈夫です。続けてくださいませ」

「わかりました。あなたは高速道路で起こった、玉突き衝突に巻き込まれたのです。意識が戻らず、二日間眠っていました。

 ここまではわかりますね?」

「事故…どうして私はそのような場所にいたのでしょうか?」

「それなのですが…雅久君、今日は何年の何月何日かわかりますか」

「え…?」

 何故そんな事を問われるのか?雅久は訝りながら答えた。それは9年前の6月の始めの日付だった。

 義勝は頭を抱えたくなってしまった。それだと武と夕麿の結び付きすら知らない状態だ。自分はまだ愛情が埋めてくれるが、これでは武が可哀想だ。

「よく聞いてください、雅久君」

 清方はそう言って今日の本当の日付を告げた。

「そんな…有り得ません!」

 納得が出来ない。雅久がそう言っても仕方がない。

「事実なんだ、雅久」

「義勝…では、私はその間は何をしていたのでしょうか?眠っていたのですか?」

 9年もの空白。それは本人には恐怖に感じられたかもしれない。

「あなたは全ての記憶を失った状態で、新たな生活をしていました」

「新たな生活?」

 記憶の回復が6月で止まっているのならば、全てを説明しなければならない。

「義勝君、この先はあなたの役目です」

「はい」

「私は待機していますから、何かあったら知らせてください」

「わかりました」

 清方を見送って義勝はベッドの横の椅子に座った。

「何をおいてもまずはこれだな。雅久、俺たちは今、御園生家の養子になっている。そうなる事で俺とお前は結婚したんだ」

「結婚…?私は何故……」

 その問い掛けを義勝は手で遮った。

「それは今は知らない方が良い。ゆっくりと時間をかけて話してやる。今は基本的に知っておいて欲しい事だけを教えるから」

 夏休み中の事を思い出さない。それはまだ雅久の心があれを受け入れられない程、傷付いたままである事を示していた。

「では私たちは今は…」

「御園生邸で一緒に暮らしている。俺はこの病院で精神科の研修医をしていて、お前は御園生ホールディングスで経営スタッフルームの統括秘書をしている。

 それとは別に週2で舞楽を教える教室を持っている」

「私が秘書…?」

「そうだ。でこれからの話が最も大事だから、よく聞いてくれ」

 こう告げて義勝は、武の本当の身分や夕麿との婚姻。雅久が周の後任の大夫である事。二人の御園生としての顔。武が自分や雅久を普段は、兄と呼んでいる事などを話した。

「では私は…宮さまお手ずからからの蕎麦をいただいたのですね…何と申し訳なくもかたじけなく有り難き事」

 シンクに置かれた器を見て、雅久はそう呟いた。

「武を宮さまと呼ぶな」

 今の雅久の言葉を聞いたら、武はどんなに傷付くだろう。不安定でいつ発作を起こすかわからない彼を義勝は心配した。

「武は表向きは弟だ。彼もそれを喜んでいるんだ。宮として扱わないで、弟として普段は接してやって欲しい。この9年間、お前たちは良き兄弟だった。宮と呼ぶのはその必要がある時だけで良い」

「わかりました」

 納得はしていない様子だった。無理もない。9年間の記憶では順番にそれらの事実を受け入れて行ったのだから。一度に要求されれば、紫霄での尊皇教育の方が先に立つ。ゆっくりと追々、理解してくれれば良い。そう思った。

 だが武との関係は今まで通りにはならないだろう。自分との関係もどこまで埋めていけるのだろう。9年は長い。それが全て失われたのだ。共に一から紫霄での生活をやり直し、共に渡米して武と夕麿を巡る様々な事を乗り越えて、彼らの運命に寄り添う自分たちの生き方も、全う出来なくなるかもしれない。

 義勝はもう一度、結婚生活をやり直せるかどうか不安だった。今の雅久は多分、自分との関係は記憶している筈だ。それでも義勝は二度も彼に忘れられたという事実を、どうやって呑み込んで生きれば良いのかわからない。

 ここにいない雅久を求めて、互いに苦しんだ日々をもう一度、乗り越えられる自信がなかった。



 目覚めてから二日後、身体的には異常がなかった為、雅久は退院した。今の雅久には御園生邸は、初めて訪れる場所だった。皮肉な事に武が織り上げた布の仕立てが終わり、新しい着物として届いたばかりだった。武はそれを絹子に運ばせ、雅久は何も知らずにそれを着て帰宅した。

「お帰りなさいませ」

 文月に玄関で迎えられて戸惑う。雅久にとって家とは出迎えられる場所ではなかったのだ。

「ただいま戻りました」

 義勝に説明されていても、雅久にはここが家だという認識はない。 言葉こそは紡ぎ出したが違和感は拭えない。 それでも義勝が当たり前のように入って行くので黙ってそれに従った。

「お帰りなさい」

 居間で待っていたのは小夜子だった。

「ただいま、お義母さん」

 満面の笑みで応えた義勝を雅久は驚いた顔で見上げた。雅久が知る昔の彼は、親とか家族という存在を信じてはいなかったからだ。

 小夜子は武の実母で、現在は御園生の総帥である有人の妻である。そして養子になった彼ら全ての母なのだと。血の繋がりのない義理の母。雅久にとっては不信と嫌悪と恐怖の対象だった。だから義勝の後ろに半ば隠れるように退いた。

「そろそろお昼ね…二人ともまだよね?」

「はい」

「それは良かったわ。

 文月、貴之さんと敦紀君を。絹子さん、夕麿さんと武を呼んで来て」

「承知致しました」

「すぐに」

 テキパキと指示を出して、小夜子は二人をダイニングに誘った。彼女は9年間の記憶が消えてしまった雅久の感覚も、複雑な気持ちでいる義勝の想いも理解しているように見えた。

 程なく貴之と敦紀がダイニングに来た。 貴之は未だあちこちにガーゼや包帯を付けたままの姿だった。彼が必死で対処をしてくれたお陰で、義勝は軽い打ち身、雅久は記憶の事以外は無傷で済んだ。貴之自身の怪我はさほど酷くはない。身体に刺さった硝子の破片を、抜いた部分が数ヶ所あり、そこが幾分深いだけなのだ。

 義勝と雅久を見て敦紀は微かに不機嫌そうに目許を細めた。 事故を上手く避け切れなかった。 貴之がそう想いあぐねているのが敦紀には不満だった。何かが引き金になったのかもしれないが、少なくとも貴之には雅久の記憶の件は関係はないはずである。むしろ大事故に巻き込まれ車を失ったにもかかわらず、軽症で済んだのは貴之の並外れた運動能力や動体視力の高さ、運転技術の高さや緊急時の判断力があっての事だ。礼を言われても非難される覚えはない。

 愛する人を守る為ならば、一歩も引き下がらない。それはどこか武の夕麿を守る姿に似通っていた。彼が武と近い血縁関係にあるのを納得してしまう。

「みんな、揃ったわね」 

 小夜子の穏やかで優しい声が響いた。 

「武、熱は下がったのか?」 

「多分…今は平熱」 

 義勝の問い掛けに武は少し伏し目がちに答えた。 

「義勝、あなたからも言ってくれませんか。熱が下がったからと、早々に工房に籠ってしまうのですから…」 

 雅久の事で複雑な気持ちでいるのは夕麿にもわかっていた。それでも身体を気にするのは、夢中になるとなかなか止められないからだ。 

「今度はどっちを創ってるんだ?」 

「ん…組紐の方。待ってる人が多いらしいから」 

 小夜子手作りの雑炊を食べながらいつもより言葉少なく答えた。 

「それに機織りの方が体力を使うから…」 

「なるほど…夕麿、武は武なりにちゃんと考えてるぞ?過保護はやめておけ」 

「義勝、あなたまで…」 

「お前は人の事言えない筈だが?武がいなかったら一晩中でもピアノ弾くくせに」 

「そ、それはもう昔の事でしょう!? 最近はそのようなことは…」 

「武がいるからな」 

「なっ…」 

 図星をさされて夕麿が絶句する。黙ってやり取りを見ていた貴之と敦紀が噴き出した。武もスプーンを握り締めたまま笑っていた。 

 雅久ひとりだけがこの様子についていけない。彼の記憶にある夕麿は未だ心を心を凍り付かせた状態で、武にそれを揺り動かされている状態だった。 

 こんな夕麿は見た事がない。義勝のからかいに耳まで真っ赤にしている夕麿なんて。自分だけが異世界に紛れ込んだ心地がした。 

 ズキンと頭のどこかで何かが脈打った感覚がして、雅久は思わず頭を押さえた。 

「雅久?頭痛がするのか?」 

 今の状態は中途半端で不安定。いずれまた変化する可能性がある。それが清方の診断だった。 

「いえ…大丈夫です」 

 少し睨むような眼差しで答える。事故の前の雅久ならば、周囲に心配させないように微笑んだ。昔の…どこか警戒心が強かった彼の姿だ。 

 雅久は優しい。けれど異母兄たちの仕打ちが、彼の心を蝕んでいたのは事実だった。当時の義勝にはそれがわからなかった。精神科医としての学びが、目の前の雅久の状態と自分の記憶の中の姿でわかってしまう。記憶を失って新たな人生を生きて来たこの9年間の姿は、普通に家族の愛情に包まれて成長していたら…というあるべきものではなかったのか。それは雅久の幸せだったのでは。 

 精神科医としては考えてはならない事。 

『何が患者の幸せか』  

 それを求めるならば時には治療しない方が幸せなのではと思う時に必ずぶつかる。真実を受け入れられないから、心はそれを歪めたり隠したりする。 

 雅久の場合も何処かへ売られてしまう恐怖と繰り返され続けた折檻の苦痛。すがるように大切にしていた義勝との愛情、友との別れ…絶望、深い悲しみ……それらを受け入れて諦めて堕ちていく余裕が、あの時の雅久には残されてはいなかったのだろう。何もかもを奪われ失うならば、記憶そのものをいらないと心の奥深くで望んだのだ。 

 誰も雅久を責める事は出来ない。雅久はあくまでも被害者なのだから。それでもこのまま記憶が中途半端な状態で安定するならば、また過去とのせめぎ合いに互いに苦悩する。 

 自分は…耐えられるのだろうか。消えてしまった9年間の幸せを心の何処かにしまって、封印した記憶を呼び起こして愛せるのだろうか。 

 義勝にはもうそんな自信はなかった。それを申し訳なく思う。自分の弱さが辛かった。 

「えっと…雅久兄さん、俺の事はどういう状態で覚えているの?」 

 武の言葉に全員がハッと息を呑んだ。 

「申し訳ございません。 私は宮さまに『兄』と呼ばれる由縁ございません」 

「雅久!」 

 夕麿の鋭い声が響いた。雅久の答え方は最も武が傷付くものであったからだ。 昔よりも警戒心が剥き出しであるのは、やはり9年間もの空白の存在への恐怖だと感じられた。 

「良いんだ、夕麿」 

「ですが武…」 

 夕麿が過敏に反応したのはロサンゼルスで自分が、武の事を忘れさせられた事がどれ程に武を深く傷付けたかをわかっているからだ。責めて事態が変わるわけではないと武にはわかっていたのだ。 

「ごちそうさま…」 

 半分も減っていない雑炊をテーブルに残して、武はダイニングを出て行った。 

「武!」 

 夕麿が慌てて後を追った。 

 誰も誰かを責めれない。重い沈黙だけがこの場を満たしていた。 

 義勝は雅久の手を取って、奥の自分たちの部屋へと向かった。今は余り武と顔を合わさない方が良いのかもしれない。そんな事を考えていた。 

「義勝、私は此処での生活では、舞いの稽古はどうしていたのでしょうか?」 

 二人の部屋が決して狭いわけではない。ただ、舞うにはそれなりに何もない空間が必要だ。 

「稽古するのか?」 

「身体が動かなくなってしまいますから」 

 平行世界にでも投げ込まれたような、恐怖と不安が自分を包み込んでいる感覚だった。無心になりたい。ただ楽の音だけを聴いて、溢れる色彩の中に逃げ込みたかった。 

「まずは着替えろ。その着物をダメにしたくはないだろう?」 

 義勝はそう言うといつもの通りに稽古に使う浴衣を取り出した。帯も足袋も出してから、背中を向けたまま問い掛けた。 

「袴は要るか?」 

 日舞の稽古ならば袴はいらない。だが舞楽ならば袴が必要だ。 

「浴衣と舞扇を」 

「わかった。着替え終わったら、稽古場に案内する」 

「敷地内に稽古場があるのですか?」 

「ああ、最近改修が終わったばかりだ。普段はお前が使っているが、たまに貴之が武と希の合気道の練習に使っているがな。だから畳敷きも出来るようになってる」 

 雅久の為に改築されたそこは元は宴会や冠婚葬祭の場所で 、現在は母屋にその場所が移った所為で使用されていなかったのだ。 

 着替えた雅久を連れて渡り廊下を過ぎ、床を強化して防音を整えた稽古場に連れて来た。舞楽で跳んだりしても困らない天井の高さで音響は極力、ホールなどの生演奏に近い響きを再現出来るように調節されていた。 

 義勝は壁の引戸を開けて、そこに隠されているオーディオを見せた。 

「音源のCDは下に全部はいっている」 

 ここの全てが雅久の舞いの為に設えられたもの。 の事実に目眩すら感じた。 

「何故…ここまで?」 

 唸るように呟いた彼に、義勝は当然と言うような顔で答えた。 

「現在のお前は紫霞宮家お抱えの舞楽師で今上陛下のお気に入りだ。勅をいただいて後進の育成の為の教室も持っている。御園生はお前の実家として、ベストを尽くさせる為の準備くらいは当たり前だろう?」 

 家族を知らなかった彼が、その愛情と気配りを何でもない当たり前な事だと言う。雅久には理解出来ない事ばかりが増える。 

「兎に角、気が済むまで踊れば良い。誰も邪魔はしない」 

 そう言い残して義勝は踵を返して行ってしまった。 



 雅久の側から逃げ出した。 

 わかってはいる。今の雅久には義勝以外に、信を置いて縋る者がいないという事実を。一番に不安を抱いて困っているのを。 

「くそっ!」 

 精神科医失格だと思ってしまう。不安定な状態の雅久は今後どのような症状に見舞われるか…今はまだ不明なのだ。治療や対処を判断する為にも雅久の側にいなければならない。ましてや自分は彼と生涯を共に歩んで行くと誓った夫婦なのだ。今、いてやらなくてどうするのだ。 

 過去の彼と数日前までの彼が余りにも違い過ぎる。理由がわかっているのに心が拒絶する。 

 何が出来る…… 

 何をしてやれる…… 

 必死に考え込む義勝には、今は真っ暗闇しか見えなかった。 



 数日後、病院の勤務から戻って来た義勝は、部屋で一人、憂い顔で座っている雅久を発見した。 

「義勝…私はここにいなくてはならないのですか?」 

 無理もない。同級生たちだけならばまだしも、ここにはそれ以外の人間がたくさんいる。雅久の記憶から消えてしまった彼を、その彼しか知らない者がいる。今の雅久の心には重い負担になる。 

「頭痛があったり、目眩や吐き気はないな?」 

「頭痛…と言うか、頭に違和感があります」 

 今の義勝は医師。消毒液の匂いをまとわせて帰宅する。そんな現実にこの事は納得するしかなかったらしい。だから彼の医師として雅久を気遣う問い掛けにはきちんと答えていた。 

「それが悪化しては困るな。わかった。 夕麿に相談してくる」 

 義勝が部屋を出て行くのを見送って、雅久は小さく溜息を吐いた。 

 義勝と二人きりになりたい。今の雅久は記憶のままに高校生の心だった。義勝が不在の時は置き去りにされたようで心許ない。 

 それに…義勝は抱き締めたり、手を握ったりはしくれるが、それ以上は触れようとしない。雅久の記憶にある彼はいつも気を失うまで抱いてくれて、不安や恐怖を忘れさせてくれた。それなのに…… 彼の愛が見えない。彼が今、愛しているのは、消えてしまった9年間の自分ではないのか。いや、彼だけではない。ここにいる皆がそうではないのか。 

 怖かった。独りぼっちだと感じて悲しくて、苦しくて…でもその想いを誰にも話せない。眠りは浅く食欲もない。食事に呼ばれるから、行って食べているだけだ。 

「待たせたな。すぐに必要なものをまとめろ」 

「え? 何処かへ行くのですか?」 

「教室があるマンションの空いている部屋に今から移る。家具は揃っているから当面の着替えと、稽古に必要なもの…それと竜笛か」 

 そう言うと義勝は壁の棚の戸を開けた。そこは小さいながらも金庫になっていた。 

忍冬すいかずら』と『雲居くもい』、二つの国宝級の竜笛が保管されていた。雅久に使用が許されてはいても、あくまでもこれらは紫霞宮家の家宝なのだ。無論、持ち出しの許可は得た。紫霞宮家の紋が染められている紫色の風呂敷に丁寧に木箱のまま包んだ。 

「これはお前の手で」 

 雅久は無言で頷いて受け取り壊れ物を扱うように抱いた。着物が出されるがどれも記憶にないものばかりだ。 

 ドアが叩かれて貴之と文月が入って来た。 

「車を渡り廊下に横付けた」 

「すまない」 

「気にするな」 

 二人が手伝ってあっという間に荷造りが終わり、直ちに車に運び込まれた。雅久はそのまま押し込まれるように車に乗り、御園生邸を二人で離れた。 
 
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